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暴かれた真実


      一

 千鶴ちづの目の前は、白いもやで覆われて何も見えない。
 どこからか井上いのうえ教諭の声が聞こえてくる。
 ――いいかい、僕が三つ手をたたくと、僕は進之丞しんのじょうくんになる。今から僕が言うことは進之丞くんの言葉になるんだ。いいね?
 靄を見ながら千鶴はうなずいた。ゆっくり音が三回鳴った。
 ――千鶴、あしがおまいにかけた暗示はすべて解けた。その白い靄は晴れよう。
 進之丞の声が聞こえたと思うと、すっと靄が晴れた。
 千鶴は尼僧と一緒に浜辺の古い漁師小屋の前に立っていた。戸もない小屋は無人で朽ち果てている。
 尼僧は千鶴を小屋の中へいざなうと、千鶴に向き直って言った。
「ほんまじゃったら、おまいに和尚の肉をわせてやれたんやが、邪魔が入ってしもたけん、代わりにわたしの肉を喰わせてやろわいねぇ。ほれでお前がけがれたら、今度はわたしがお前を喰らうんよ。ええな?」
「おらは尼さまの肉を喰らう。ほれで、おらが穢れたら、今度は尼さまがおらを喰らう」
「ほうよほうよ。ほれでええ。そがぁしたら、わたしとおまいは一つになれるんよ。どがいじゃ、うれしかろ?」
 千鶴は黙ってこくりとうなずいた。
 現世の千鶴は尼僧が鬼だとわかっているが、前世の千鶴はこの尼僧だけが味方だと信じている。だまされていると千鶴が前世の自分に伝えたくても、それはできない。これは過去の記憶を再現しているに過ぎず、すべてはすでに起こってしまったことなのだ。千鶴にできるのは、それを前世の自分と一緒に再体験することだけだ。
「ほれじゃあ、ええな。まずは、おまいがわたしを喰らうんぞ」
 懐の ふところ 包丁をもう一度取り出した尼僧は、布をほどいて土間にしゃがんだ。それから左手を板の間の上に乗せると、その左手首に包丁を当てた。
 尼僧は右手を包丁の柄から刃の背の部分に移すと、えぃと気合いを込めて包丁を左手に力いっぱい押しつけた。嫌な音が聞こえて、尼僧の左手が切り離された。噴き出した血で辺りは血まみれだ。
 顔をゆがめた尼僧は、包丁を捨てて左手を拾い上げ、これを喰え――と千鶴に差し出した。
「この肉を喰えば、おまいは人ではのうなる。そがぁなって初めて、お前はわたしと一つになれよう」
 前世の千鶴の意識は尼僧の支配下にあるので、尼僧の言動に少しも動じない。尼僧の左手首からどくどく噴き出る血を見ても、血だらけの尼僧の左手を突きつけられても平然としている。
 一方で、現世の千鶴の意識はぎょっとなった。しかし頭がぼんやりしているので、進之丞から元に戻った井上教諭に、何が起こっているのかを比較的淡々と報告した。
 それでも前世の意識と融合しそうになると、教諭への報告が滞っ とどこお てしまう。井上教諭はしきりに千鶴に声をかけながら、千鶴の現世の意識を保とうとしていた。
「さぁ、喰え。おまいはわしと一つになりたいんじゃろ?」
 尼僧の声が男のような低い声になった。
 尼僧の顔を見ると、ひたいに二本の角がえていた。にんまり笑った口元からは二本の牙がのぞいている。それはまさに母を殺したあの鬼だ。
 現世の千鶴は息苦しさを覚えたが、前世の千鶴は何とも感じていない。鬼の尼僧は満足げに話をした。
「わかるか? わしはおまいが幼子じゃった頃、お前に優しゅうしてもろたがんごぞな。優しいお前を喰ろうてお前と一つになるんが、わしの長年の夢じゃった。この身が朽ちる前にお前と出えるとは、これほど喜ばしいことはない。どがいぞな、お前も嬉しかろ?」
 千鶴がこくりとうなずくと、鬼は牙だらけの大きな口を横に広げて、満面の笑みを浮かべた。
「さぁ、喰うがええ。これを喰えば、おまいはわしと一つになってがんごになれる」
「これを喰えば、おらは尼さまと一つになってがんごになれる」
 尼僧の言葉を繰り返しながら、千鶴は尼僧の左手を受け取った。その手にはまだ温もりがあり、血がしたたり落ちている。その血だらけの切り口に、千鶴はかぶりつこうとした。
 だが、まさにその時、進之丞が小屋の中に飛び込んで来た。

「千鶴! 無事か?」
 驚いたわけではないが、突然の出来事に千鶴は動きを止めて、進之丞の方を向いた。
 現世の千鶴は進之丞の登場に胸が弾んだが、前世の千鶴は何とも感じていない。進之丞への想いは鬼によって消されている。
 鬼の尼僧は苦々しげに牙をいた。だが、進之丞が刀に手をかけて進んで来ると、後ろに飛びのいて間合いを取った。
 千鶴は進之丞に構わず、もう一度尼僧の手にかぶりつこうと口を開けた。進之丞は千鶴から尼僧の手を奪い取り、尼僧に向けて放り投げた。
 尼僧は右手を伸ばして、己の左手を受け止めた。そこを進之丞は素早く前に踏み込みながら刀を抜きざまに斬りつけた。
 尼僧の右腕の肘から先がぼとりと落ち、その切り口からも血が噴き出した。
「おのれ……。今一歩で千鶴を穢せたものを……」
 両手を失った尼僧は怒りを剥き出し、巨大な鬼にへんした。小屋は崩れ、進之丞は千鶴をかばって覆いかぶさった。
 鬼は進之丞を踏み潰そうとした。だが、千鶴に気づいて一度は上げた右足を下へ降ろした。その隙を逃さず、進之丞は転がりながら鬼の左足首の腱を斬った。
 鬼が崩れ落ちるがごとく倒れると、進之丞はとどめを刺すために近づいた。しかし、鬼は手のない腕を振りまわし、大きな口で進之丞をみ裂こうと抵抗した。そうしながら右足だけで立とうとするが、進之丞が攻めると鬼は再び均衡を失って倒れた。
 鬼が暴れ続けるので、進之丞もかつには近づけない。だが、勝負は明らかに鬼に不利だった。
 左手に見える西日が、鬼のあせった顔を赤く染めている。千鶴はぼんやりした頭で、鬼を助けねばならないと思った。
 現世の千鶴は前世の千鶴の思考にまどったが、どうすることもできない。ただ、前世の千鶴に重なって行動を共にするだけだ。
 近くに包丁が落ちているのに気づいた千鶴は、それを拾い上げると、そっと進之丞の後ろに忍び寄った。いけん!――現世の千鶴は叫んだが、その声は前世の千鶴には届かない。
 鬼は明らかに疲れており、出血もひどかった。動きは次第に鈍くなり、やがて動きを止めると、荒々しい息をするばかりになった。進之丞は勝機と見たようだ。
 進之丞は刀を構え直すと、鬼に向かって踏み込もうとした。その時、千鶴は両手で包丁を構えたまま、進之丞目がけて体ごとぶつかった。
 ずぶりという感触が千鶴の手に伝わって来る。驚いて後ろを振り向く進之丞。見開かれた目は、何が起こったのか理解できない様子だ。
 ――進さん! 進さん!
 現世の千鶴は泣きながら必死に叫んだが、その声は進之丞には届かない。前世の千鶴は動揺する進之丞をにらんで毒を吐いた。
「死ね! おまいに邪魔なんぞさせてたまるか。おらはがんごになるんぞ。尼さまと一つになって、鬼になるんぞ!」
 進之丞の向こうで、高笑いのように鬼がえた。
 進之丞は刀を落とすと、千鶴の方に向きを変えた。包丁から手が離れた千鶴を、進之丞はぎゅっと抱きしめた。
「千鶴……、あしが悪かった……。おまいに寂しい想いをさせたばっかしに……、お前をこがぁな目にわせてしもた……。どうか……、あしを許してくれ……」
「えぇい、やかましい! おら、おまいのことなんぞ、何とも思とらんわ。おらはがんごになるんぞ。邪魔くれすんな!」
 千鶴は進之丞から離れようと暴れた。だが、進之丞は千鶴を離さず、千鶴の耳元でささやくように言った。
「千鶴……、おまいがんごやない……。お前は誰より優しい……女子おなごぞな……。誰よりきれいで……、あしが誰より……嫁にしたいと思た……娘ぞな……」
 ――この言葉……。あぁ、進さん、進さん!
 現世の千鶴は泣くしかできない。一方、前世の千鶴は進之丞に声を荒らげてあらがった。
「うるさい! よもだ言うな!」
 抱きつく進之丞を押しのけようと千鶴は藻掻もがいた。その時、進之丞の右の腰に刺さったままの包丁に、千鶴の手が触れた。
 千鶴は進之丞を抱くようにして、包丁の柄を両手で握った。そして、思いきり手前へ引きつけた。包丁の残っていた刃の部分は、進之丞の体に深くめり込んだ。
 現世の千鶴は絶叫した。
 進之丞は顔をゆがませ、あえぐように口を動かした。それでも進之丞は千鶴を離さず、途切れ途切れに同じ言葉を繰り返した。
「おまいがんごやない……。誰より……誰より優しい娘ぞな……。お前はあしが……誰より嫁に……したいと思た……娘……ぞな」
 空虚だった千鶴の胸の中に懐かしいぬくもりが広がった。ふと千鶴は目の前にいるのが、進之丞だと気がついた。
「……しんさん?」
「千鶴……ぃついたか……。よかった……」
 進之丞は微笑んだ。だが鬼が吠えると、千鶴は再びうつろな心に戻りそうになった。そのせつ、進之丞は千鶴の鳩尾みぞおちこぶしを当てた。千鶴は息が詰まって、その場に倒れた。
 すまぬ――千鶴にびた進之丞は小刀を抜くと、鬼に目がけて投げつけた。小刀は鬼のけんを貫き、鬼は仰向けに倒れた。
 進之丞は腰の包丁を気合いと共に引き抜くと、千鶴から離れた所へ投げ捨てた。それから刀を拾うとよろめきながら鬼のそばへ行き、渾身こんしんの力で鬼の体にい上った。
 鬼は力が尽きたのか、荒い息をするばかりで動かない。進之丞も傷からあふれ出た血が腰を赤くらしていく。
 ふらつきながら鬼の胸の上に立った進之丞は、刀を深々と鬼の胸に突き刺した。鬼はびくんと体を震わせ、そのまま静かになった。
「父のかたき……、めい和尚の仇……、そして……我が千鶴の仇……、たった今、討ち取ったり!」
 進之丞は叫び終わると、鬼の上から転げ落ちた。すると、鬼の体から赤い霧が立ちのぼった。
 赤い霧は倒れている千鶴の所へ移動し、千鶴を包み込んだ。この赤い霧こそが、鬼の本性であり魂に違いない。
 鬼は千鶴の心に無理やり入り込もうとしていた。千鶴は抵抗できなかったが、鬼の方も千鶴の心にうまく入り込めないようだ。千鶴が尼僧の肉を口にしなかったからだろうが、千鶴は進之丞をあやめようとして心が穢れてしまった。その穢れから鬼が千鶴の心に入り込むのは、時間の問題と思われた。
 その時、落ちていた尼僧の右腕を拾い上げた進之丞が、よろよろと立ち上がって叫んだ。
がんごよ……、千鶴から離れてよっく聞け……! 貴様が人の心に入り込まねば……この世にとどまれぬことは……、慈命和尚から聞いて知っておるぞ……! 千鶴に己の肉を喰わせようとしたのは……、貴様には千鶴の心がまぶし過ぎたのであろう……。それゆえ、千鶴の心を穢そうとしたのであろうが……、もうあきらめよ……。貴様が千鶴の心を喰らうことはできぬ……!」
 しかし、赤い霧は千鶴から離れようとしない。進之丞はよろけそうになるのをこらえながら、さらに叫んだ。
「聞け、がんごよ……! あしは貴様とついぞ……! あしは多くの村人を……無残に斬り殺した……。あしは人の心を捨て、鬼になったんぞ……。この怒り、この憎しみを……貴様ならわかろう……。己をも憎み許せぬあしは……貴様と同類ぞ……。やが今一度……、貴様の肉を喰ろうて……、あしが人ではないあかしを……貴様に見せてやろわい……!」
 進之丞は尼僧の腕に食らいつき、肉をみちぎって飲み込んだ。血に染まった口を手の甲でぬぐった進之丞は、鬼に向かって言った。
「見たであろう……。あしはもはや人にあらず……。貴様とおんなし心の穢れたがんごぞ……。さぁ、最後の勝負ぞ……。あしを喰らえるもんなら喰ろうてみよ……。貴様に千鶴は喰えぬ……。急がねば、貴様は間もなく……この世から離れることになろう……」
 千鶴の心に入り込もうとしていた鬼は、潮が引くように千鶴の心から離れた。
 それでも千鶴への未練だろう。赤い霧はすぐには千鶴から離れずにまとわりついていた。だが徐々に千鶴から離れると、やがて引き寄せられるがごとく進之丞の方へ移動して行った。
 千鶴に代わって進之丞を包み込んだ赤い霧は、そのまま進之丞の体の中に吸い込まれた。
 鬼の死骸はいつしか消え、代わりに裸の尼僧の死骸が転がっていた。死骸が小さくなったからか、刺さっていた二本の刀は抜け落ちていた。
 その死骸の横で、進之丞は胸をきむしって苦しみ、地面の上をのたうちまわっていた。
 進さん!――今世の千鶴は叫んだが、前世の千鶴は倒れたまま、進之丞の様子をぼんやり眺めている。
 しばらくして体を起こした進之丞は下品に笑った。
「愚かな奴よ……。己を犠牲にして千鶴を救うたつもりじゃろが……、貴様のこの体を使つこうて……、今度こそ千鶴を喰ろうてやろわい……」
 続いて進之丞は顔をしかめると、そがぁなことはさせん!――と叫んだ。
がんごよ……、おまいが千鶴の優しさを……求めておるのはわかっておる……。やが、千鶴を喰ろうたとこで……、千鶴の優しさは手に入らぬ……。優しさとは……そがぁなもんではない……!」
「何をわかった風なことを……。千鶴の優しさは……、千鶴の中にこそあろう……。されば、その千鶴を喰ろうてこそ……、その優しさが我が物になるというものぞ……」
「違う違う……! ほうではない……! 優しさとは……相手をいたわる心ぞ……。千鶴の優しさは……、おまいの中にもついの優しさが……あると教えてくれとるぎりぞ……」
がんごであるわしに……優しさがあるとな……?」
 進之丞はあざけり笑った。
「どっからそがぁな言葉が出るんぞ……? 今のおまいなら……、わしの中にそがぁなもんがないのは……わかろがな……」
「いや……、おまいの中にも優しさはある……。お前が千鶴の優しさに憧れるんが……、そのあかしぞな……。お前が己の優しさを忘れ……、気づいておらんぎりぞ」
「やかましい……! そろそろよもだはやめて……、ぇ加減にわしに喰らわれよ……」
 進之丞はいらだって歯を剥いたが、すぐに穏やかな顔になった。
「わかった……、喰らわれてやろわい……。あしを喰ろうて……、優しさがどがぁなもんかを……知るがええ……。我が心をおまいにやる代わりに……、優しさとは奪うもんやのうて……、与えるもんと知れ……!」
 一人芝居のようなやり取りが続いたあと、進之丞は倒れて動かなくなった。
 ついに死んだのかと思われたが、やがて進之丞はゆっくりと起き上がると、落ちていた刀を拾ってさやに収めた。それから、ふらつきながら千鶴の傍へ来ると、血で汚れた己の手を着物で拭き、千鶴を抱き起こしてひたいに指を当てた。
「千鶴……、おまいがんごではない……。鬼になることもない……。お前は人の娘ぞな……。誰より優しく……美しい娘ぞな……。わかったな……?」
 千鶴はぼんやりしたままうなずき、進之丞の言葉を繰り返した。
 進之丞は千鶴の額に指を当てたまま、さらに言った。
たびまいに起きた……禍々まがまがしきことは……すべて忘れよ……。特にここで起こったことは……、何があっても……思い出してはならぬ……。来世に生まれ変わろうと……、決して思い出すまいぞ……」
 千鶴がうなずくと、進之丞は千鶴を正気に戻した。
 心の靄が晴れた千鶴の前に、進之丞の優しい笑顔があった。

      二

 現世に戻った千鶴は号泣していた。
 催眠が解けたわけではない。まだ目は閉じられ、頭はぼんやりしたままだ。だけど己の罪と進之丞の優しさを知った今、千鶴は涙を止めることができなかった。
 鬼の術中にはまったとはいえ、己の手で進之丞の命を奪ったのである。その進之丞は千鶴を救うため、命が燃え尽きる前に千鶴の身代わりに鬼になった。
 悔やんでも悔やみきれない、びても詫びきれないあやまちを犯してしまったと、千鶴は己を責めて泣き叫び続けた。井上教諭が必死になだめなければ、千鶴は気が狂っていたか、あるいは自害したかもしれなかった。
 あせった井上教諭が千鶴の催眠を解こうとした時、隣の三畳間から誰かが出て来て教諭の近くに座った。恐らく先ほどの女だろう。おこうの匂いが強くなった。
 催眠が解けていない千鶴は、女に構わず泣き続けた。同じ部屋に座っていても、千鶴がいるのは悲しみと悔恨の世界だった。そこで一人つらい記憶を思い返しては、罪の意識に押し潰されそうになっていた。
すごいじゃないのさ。前世がわかるだけでも凄いのに、鬼がほんとにいるなんて驚きだわ。しかも、その鬼が今もいるなんてさ」
 楽しげな女の声に、井上教諭の疲れた声が応じた。
「他人事みたいに言わないでください。あなたはこの子の気持ちがわからないのですか? この子はしゃべりながら泣いてたじゃないですか。この子がどんな気持ちで前世を再体験していたのかを考えたら、そんなことは言えないはずですよ」
「わかってるわよ。だけど、それにしたって凄いことでしょ? あなただって本当は興奮してるくせに」
「何を馬鹿なこと言ってるんですか。この子は鬼になった許婚を人間に戻したくて、必死の想いで僕に催眠術をかけてもらいに来たんですよ?」
「その結果がこれだなんて、しゃにもなりゃしないじゃないの」
「それはそうなんですけど……」
 教諭は力なく言うと黙り込んだ。部屋の中に聞こえるのは千鶴がすすり泣く声だけだ。
 少しして女が言った。
「で、このあとどうすんの?」
「どうするって?」
「この子は許婚を人間に戻したいんでしょ? 戻せるの?」
「それは……」
「戻せないの?」
 畳みかかける女の言葉に、井上教諭は少し間を置いてから言い訳をした。
「今回わかったのは鬼の本性というか、魂みたいなものが人間に取りいて鬼は生き延びるってことです。前世でこの子の許婚は鬼に取り憑かれて、鬼になってしまったわけですけど、それがわかったところで彼を人間に戻すことはできません。この子にも彼にも、どうしてあげることもできないんです」
 教諭が喋っている間、マッチをする音が聞こえ、ふぅと息を吐き出す音がした。女が煙草たばこに火をつけて吸ったのだろう。辺りに煙草の臭いが広がった。
 コトンと小机に何かが当たる音がした。教諭が灰皿を置いたようだ。
「許婚を人間に戻せなくても、この子を救うことはできるんじゃないのかしら?」
「この子を救う? どういう意味ですか?」
「そもそも鬼と夫婦めおとになるなんて尋常じんじょうなことじゃないでしょ? この子は鬼に魅入られてるから、こんな風に考えるのよ」
「でも進之丞くんは元は人間で、この子と夫婦約束をしていたんです。僕が知ってる進之丞くんだって、とっても感じがよくて、全然鬼になんか見えません」
「あなた、馬鹿ね。その男は鬼なんだって、この子が自分で言ってたでしょ? 鬼が自分は鬼でございますって姿でいるわけないじゃないのよ」
 ふぅと煙を吐く音がして、煙草の臭いが強くなった。
「今年の春頃だったかしらねぇ。あなたをあの花街の娘さんに会わせてあげたのは」
「今、その話は関係ないでしょ?」
 教諭の声はうろたえている。女は構わず喋った。
「確か、あの頃にこの子は萬翠荘ばんすいそうに招かれて、ばんさんかいやらとうかいやらを開いてもらったのよ。あなた、覚えてるかしら?」
 教諭は少し落ち着きを取り戻した声で言った。
「えぇ、覚えてますよ。新聞に載ってました」
「その新聞に、この子とロシアの男の子が伯爵はくしゃく夫妻の前で、結婚を誓い合ったってあったでしょ?」
「そういえば、そうだったかな」
「この子はね、本当はあのロシアの子と一緒になるつもりだったのよ。でも、今は鬼が許婚だって言ってるわよね。これは、どういうことだと思う?」
「どういうことって……。ロシアの相手とは別れたってことじゃないんですか?」
「ほんとにそう思うの?」
「違うんですか?」
 少し沈黙が続いたあと、煙を吐き出す音がした。
「どうして学者ってこうなのかしら。頭がいいんだか悪いんだかわかんなくなっちゃうわ」
 教諭はうろたえ気味に、どういうことかとたずねた。
 いいこと?――と女は少し威張いばった感じで言った。
「この子とロシアの子は伯爵夫妻の前で結婚を誓い合ったの。伯爵夫妻よ? それが突然相手をくらえって不自然じゃない? しかもその相手は鬼なのよ?」
「言われてみれば、確かにそうかもしれませんね」
「そうかもしれないじゃなくて、そうなの!」
 井上教諭は反論ができず、完全に女に言い込められている。
「じゃあ、どうしてこの子が鬼に心変わりしたと思う?」
「鬼に魅入られた……てことですか?」
「そうよ。この子が言ってたでしょ? 鬼は人間の記憶を変えられるのよ。この子は記憶を塗り替えられて心を操られているの。鬼にすれば、この子は自分の物なんだもの。何も悪いとは思ってないわ」
 教諭は黙っている。女の話について考えているのだろう。
「本当はロシアの子と結婚したかったのに、無理やり鬼と結婚させられるなんて、あなた、この子を気の毒だと思わない? この子、あなたの教え子でしょ?」
「だけど、進之丞くんは元々この子と夫婦になるはずだったんですよ。だから、今世で夫婦になろうとしてるんじゃないんですか?」
 あなたね!――と女が怒った声で言った。女の剣幕に井上教諭は小さくなったに違いない。
「前世のことなんか誰も覚えてなんかいやしないわよ。あなた、自分の前世覚えてるの?」
 いいえと教諭が小さな声で答えると、それ見てみなさいと女は鼻息を荒く吐き出した。
「みんな前世なんか関係なく、今世を一生懸命に生きてるのよ。なのに、お前は前世で俺と夫婦約束をしたんだから、今世でも夫婦になるんだ――て言われたって困るでしょ? ましてや、この子にはれ合った結婚相手がいたのよ?」
 教諭は黙っている。まだ女の話に納得していないらしい。
 煙を吐き出す音のあと、女は教諭に諭すように言った。
「この子は鬼を人間に戻したいって思ってた。それはいいの。この子はそれだけ優しい子なのよ。だけどね、問題はそこじゃないのよ。本当の問題は、この子が鬼に操られてるってことなの」
 女に言われっ放しの井上教諭は、いらだった声で言った。
「それで、僕にどうしろって言うんですか?」
「あら? 何だか反抗的ね。あたしはあなたやこの子のことを想って喋ってるのに、そんなふて腐れた態度を取るんなら、いいわ。勝手になさいな。あたしはもう帰ります」
 ふぅっと大きく息を吐く音が聞こえたあと、小机の灰皿が動く音がした。女が煙草の火を消したのだろう。
「もうすぐ鬼がここへ来るってこと、忘れないでね」
「え? ここへ?」
「だって、その子が言ってたでしょ? 鬼はその子にいに来るのよ。でも鬼が今のその子を見たら、どう思うでしょうね?」
「どう思うって?」
「あなた、鬼が封印してたこの子の記憶をあばいたんでしょ?」
 教諭の声が聞こえない。言葉を失ったようだ。目を見開き、口を開いたまま固まっていると思われる。
「じゃあ、あたしはおいとましますね」
 女が立ち上がる気配がした。教諭は慌てて女を引き留めた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「何? ここで見聞きしたことは、誰にも喋ったりしないから心配しないでちょうだい。あたし、そんな野暮やぼな女じゃないわよ」
「そんなことじゃなくて、僕はどうなるんですか?」
「知りたいの?」
 はいと教諭が言うと、女は得意げに話を続けた。
「鬼がこの子の心を操るのは、この子に惚れてるからよ。だから鬼は鬼なりにこの子をづかって、この子が傷つかないようにしてたの。それがあの記憶の封印よ。それをあなたが無作法に暴いたってわけ。これがどういうことかわかるでしょ?」
「鬼が怒るって言うんですか? 僕はわざとやったんじゃありませんよ。この子に頼まれて仕方なく――」
「あたしに言い訳したってしょうがないわ。言い訳するんなら、鬼になさい」
 じゃあね――と女は三畳間の方へ行こうとした。教諭は女を必死に呼び止めた。
「待ってください。逃げないで」
「あなたと一緒に八つ裂きにされろって言うの?」
「八つ裂き?」
「鬼はあなたの体をつかんでね、まず腕と脚を引っこ抜くのよ。それから胴体を二つにちぎって、最後に首を引きちぎるの。これで八つ裂きになるでしょ? あれ? 今のだったら……あら嫌だ。七つだわ。これじゃあ、七つ裂きになっちゃう」
「七つでも八つでも同じことです。僕は八つ裂きにされてしまうんですか?」
 井上教諭は相当あせっているようだ。早口に喋る声が震えている。
「だって、あなた、鬼の大切なその子を狂わせてしまったじゃないの。他にどうやってこの始末をつけるつもりなの?」
「だ、だって、僕はよかれと思って――」
「だから、言い訳は鬼が来たら言いなさいな。どうせ、あたしは関係ないんですから」
「そんなこと言わないで助けてください。僕はどうすればいいんですか?」
「知りたい?」
 教諭がうなずいたのだろう。女は少し間を置いてから言った。
られる前に、殺ればいいのよ」

      三

「ぼ、僕が鬼を殺すんですか?」
 井上教諭の声はうろたえている。女はほほほと笑うと、頭を使いなさいと言った。
「あなたが殺すと言ったって、そのやわな体で鬼と戦う必要はないわよ。わなを仕掛ければいいの」
「罠?」
「その子に殺させればいいのよ。その子なら鬼の方も油断するだろうから、簡単に殺せるわよ」
 女は千鶴の方を向いて言った。しかし、千鶴には女の言葉はわからない。
「そんなこと……」
「ちょうど今、この子はあなたの催眠術にかかってるんでしょ? 今なら、何だってあなたの言いなりになるわよ」
「何言ってるんですか。この子はその鬼を救いたくて、ここへ来たんですよ? その鬼をこの子に殺させるだなんてちゃちゃです」
 井上教諭は憤っ いきどお たが、女が気にする様子はない。
「この子を助けようとしたあなたを、鬼が八つ裂きにするのだって無茶苦茶でしょ? 同じじゃないの」
「そんなこと言ったって、そんなの無理です。僕にはできません」
 弱音を吐く教諭に、女はふんと言った。
「あなたがどうすればいいのかってくから、答えてあげただけでしょ? あたしは別に無理いしようってんじゃないんですからね。だけどね、八つ裂きって相当痛いだろうし苦しいわよ。もう想像しただけで気が狂っちゃいそう」
「やめてください。あぁ、僕はどうすれば……」
 頭を抱えたと思われる教諭に、女は説教をした。
「あなたね、妙な正義感を持ってるから、そんな風に悩むのよ。相手は鬼なのよ? あなたの正義感なんか通じないわ」
 教諭は泣きそうな声で言った。
「この子に鬼を殺させるだなんて、僕にはできません」
「じゃあ、どうすんの? ここから逃げる? 逃げたって鬼は絶対にあなたを許さないわよ。この世の果てまで追いかけて、あなたをばらばらに引き裂くわ」
 ついに教諭は泣きだした。すすり泣く教諭に、女は容赦なく言った。
「城山で四人の男が魔物に襲われたって事件があったでしょ? あれはこの鬼のわざなのよ。あの四人は特高とっこうけいさつでね。この子をソ連のスパイと疑って逮捕しようとして、鬼の怒りを買ったのよ。この子を傷つけた者の末路ね」
 教諭のすすり泣く声が止まった。顔を上げて女の話を聞いているのだろう。
「あの男たちね、みんな体中の骨をへし折られて、ぐにゃぐにゃだったんだって」
「ぐにゃぐにゃ……」
「八つ裂きも痛いでしょうけど、握り潰されるってのも痛いでしょうねぇ」
 また教諭は泣きだした。女は構わず話を続けた。
「この子、鬼が家族を化け物に殺されたって言ってたけど、あれだって怪しいもんよ。本当は家族に正体を見られちゃって殺したんじゃないの? どんなに人がいいように見せたって、鬼は鬼なんだもの。気に入らない者を殺すのなんて平気のへいよ」
 女はようやく優しく教諭を慰め、死にたくなければ戦うしかないのよと言った。
「それにね、この子に鬼を殺させるっていうのは、この子のためでもあるのよ」
「この子のため……?」
 鼻をすすり上げる教諭に女は言った。
「鬼に魅入られてるっていうのは、この子の心の問題でもあるの。他人がどうこうできる話じゃないの。本人が自分で解決しないといけないのよ。あなただって、そうだったでしょ? あなた自身、自分の苦しみを自分で乗り越えて来たんじゃない。それと同じよ」
「僕と同じ……」
「そうよ。この子もね、自分の手で鬼の呪いを断ち切る必要があるのよ」
「それが……鬼を殺すってことなんですか……」
「そういうこと。一見ひどいことをさせるように見えてもね、この子に自分で自分を救う機会を与えてあげるのよ」
 女の話に引き込まれたのか、教諭は泣き止んでいた。女は得意げに話を続けた。
「もういっぺん言うわよ。この子はね、互いに惚れ合ったロシアの男の子と結婚するはずだったの。それを進之丞っていう男が鬼になってもこの子をあきらめきれず、横から出て来てこの子を奪い取ったのよ。この子が自分と夫婦になりたいって思うように、この子の心を操ってね。これだけ言えば、何が本当の問題かわかるでしょ?」
 女に主導権を握られた井上教諭は、はいと小さな声で答えたあと遠慮がちに言った。
「だけど、この子に鬼を殺させるだなんて危険じゃないんですか? もしこの子に危害が及ぶようなことがあったら……」
「大丈夫よ。鬼はこの子にれてるの。この子に危害を加えるなんてできやしないわよ」
「だって、鬼はこの子に殺されるんですよ?」
「鬼は死んでもこの子には手を出さないわ。考えてごらんなさい。進之丞って男は前世でこの子に殺されたじゃない。なのに恨みもしないで、この子の代わりに鬼になったのよ。いくら殺されそうになったって、鬼がこの子を傷つけるなんて有り得ないわ」
 なるほどと井上教諭は言った。だが納得したというより、自分を納得させようとしている声だ。
「だったらいいんですけど、本当にうまくいくんでしょうか」
「必ずしも鬼を殺せるとは限らないないけど、そこまで自分が拒絶されてるってわかったら、鬼はこの子から離れてどこかへ行ってしまうでしょ。どっちにしても、この子は鬼から解放されるのよ」
「僕はその方がいいな。いくら鬼とはいえ、この子に他の命を奪うような真似はさせたくありません」
 少しあんした様子の教諭に、でもねと女は言った。
「もし鬼が死んだらいいことがあるわよ?」
「いいこと?」
「あなた、さっき言ってたわよね? 鬼みたいな力があったら、妹さんとかあの娘さんのような気の毒な女の子たちを助けてあげられるのにって」
「言いましたけど、これとは関係――」
「あるわよ。大ありよ。だって、あなたの望みがかなうんだもの」
「それはどういう……」
「あなたに鬼の力が手に入るってことよ」
 わずかな沈黙のあと、教諭は驚いた声で言った。
「僕に鬼の力が?」
「そうよ。この子が鬼を殺すところに立ち会ってね、鬼を自分に取りかせるの」
「え?」
 教諭は目をみはったと思われた。恐らく、女はにんまり笑みを浮かべているはずだ。女の勝ち誇ったような声が話を続けた。
「鬼に取り憑かれたって、あなただったら自分を保っていられるわ。何たって学者さんだし、正義感が強いもの。弱い者の気持ちがわかるあなたにこそ、鬼の力はふさわしいわ」
 少しの間を置いて教諭は言った。
「そんなこと、考えもしませんでした」
 井上教諭の声には少し力が籠もっている。女の話を真に受けて、その気になり始めているのかもしれない。そんな教諭の気持ちをはぐらかすように女は言った。
「まぁ、これは本筋じゃなくて、おまけみたいなものだけどね。本筋はこの子に鬼を殺させて、この子とあなたの両方を救うってことよ。あなたが鬼になるのは、あわよくばぐらいなものかしらね」
「あわよくばですか」
 教諭の声には残念そうな響きがあった。女は笑いながら言った。
「だって、鬼は心がきれいな者には取り憑けないんでしょ? 取り憑いてもらうためには、あなた、自分をけがさないといけないわよ」
 教諭はぎょっとしたように言った。
「進之丞くんみたいに人の肉を食べるんですか?」
「さぁね。自分で考えなさい。それより、もうすぐ鬼が来るわよ。時間がないけど、どうすんの?」
 沈黙が少し続いてから、井上教諭の声が聞こえた。
「僕は頭が混乱しているから、少し整理させてください。えっと……、山﨑さんは鬼になった許婚を、人間に戻したくて僕の所へ来たけれど、そもそもそれは山﨑さんの本当の気持ちではない」
「そうよ。そのとおり」
 女が合いの手を入れると、教諭は言葉を続けた。
「今の山﨑さんが本当に好きなのは、伯爵夫妻の前で結婚を誓い合ったロシアの青年で、前世で夫婦約束を交わした進之丞くんではない」
「そうそう。そんなの前世なんて思い出さなきゃ関係ない話よ。この子が今世で結婚する相手は、あのロシアの子なの」
 井上教諭は黙っていたが、少ししてから再び口を開いた。
「進之丞くんには気の毒だけど、前世は前世。今世は前世とは違うから、ここは進之丞くんに山﨑さんをあきらめてもらわないといけないんですね。進之丞くんは山﨑さんを解放し、あのロシアの青年に返してやるのが一番正しいことなんだ」
「あなた、やっとわかったみたいね。さすがだわ。やっぱり学者さんは頭の回転が速いわね」
 女のお世辞には付き合わず、井上教諭は話を続けた。
「山﨑さんが進之丞くんから解放されるためには、山﨑さん自身が進之丞くんを拒絶する必要がある。そのために山﨑さんには鬼と戦う強い気持ちが求められるんですね。それが鬼を殺すという行為になるわけですが、要は相手を拒絶するという意思表示ができればいいから、必ずしも本当に殺す必要はない」
「まぁそうなんだけど、それはこの子と鬼との間の話ね」
「どういうことですか?」
「今はここにあなたも絡んでるでしょ? この子が鬼を殺せなかったら、その時は鬼はあなたを八つ裂きにするわよ」
「え?」
 顔が引きつったであろう井上教諭に、女は指導者のごとくに話しかけた。
「だって、そうでしょ? 鬼にしたらさ、この子が自分を拒絶するのは何故かって考えるじゃない。そしたら、誰かがこの子の記憶の封印を解いたからだってわかるでしょ? 鬼は拒絶されたこの子から離れるでしょうけど、黙ってそのまま立ち去ると思う?」
 井上教諭は黙っている。恐怖で声も出ないようだ。聞こえるのは女の声だけだ。
「あなた、死にたくなかったら、やっぱり鬼は殺さないとだめよ。この子には、必ず鬼を殺すように言い聞かせないとね」
「そんな……」
「死にたいの?」
 教諭は返事をしない。悩んでいるらしい。できれば千鶴に鬼を殺させたくないのだろうが、それは自分の死を意味している。
 しばらくして、教諭はあらがうように言った。
「あとでこの子が自分が鬼を殺したってわかったら、またおかしくなってしまうんじゃないでしょうか?」
「この子はあなたの催眠にかかっているのよ。鬼を殺してから催眠を解けば、何も覚えてないわよ。それに、鬼が死んだら鬼の力も消えるでしょ? あなたがこの子を正気に戻した時には、この子は鬼のことなんかすっかり忘れて、あのロシアの子のことを思い出すでしょうよ」
「なるほど……、だったら心配はいらないか」
「この子のお店、潰れちゃったから、家族が路頭に迷ってるでしょ? 今のこの子に救いの手を差し伸べられるのは、あのロシアの子だけなのよ。それを鬼が邪魔してるってわけ。わかる?」
 井上教諭はついに覚悟を決めたらしい。千鶴にどうやって鬼を殺させればいいのかと女に訊ねた。女は楽しげに答えた。
「あたしが思うに、たぶんその鬼は人間の姿に戻ってるわね」
「どうしてそう思うんですか?」
「だって鬼の姿のままじゃあ、いくら夜に動いたにしたって、誰かに見られちゃうかもしれないじゃない。だからここへ来るっていうのは、万が一誰かに見られても騒がれないのがわかってるからよ。つまり人間の姿に戻ってるのよ。それだったら、包丁で急所を一突きしたら殺せるんじゃないかしらね」
「人間に戻ってるんなら、この子にそれを教えてやれば……」
 まったく何言ってんのよ――と女があきれた声で言った。
「さっきはあなたのこと褒めたけど、あれは取り消しね。あなた、自分が置かれた状況が、まだわかってないじゃないの」
「……すみません」
「今は人間の姿でもね、あなたがこの子の封印を解いたってわかったら、即座に鬼にへんして、あなたは八つ裂き。鬼はもう人間には戻れないし、この子は鬼に連れて行かれてすべてはおしまいよ」
 井上教諭はおろおろしているようだ。何も言えない教諭に、女は優しげに話しかけた。
「ごろつきに殺された花街の娘さんね。前にあなたが連れて逃げようとしてくれたことを、とっても感謝してたのよ。本当はあなたみたいな人と一緒に暮らしたかったって、あのあと、あたしに言ったの。だからでしょうね、あのが男たちの言いなりにならなくなって殺されちまったのは」
 教諭は顔をゆがめたに違いない。また教諭のすすり泣く声が聞こえてきた。
「可哀想にね。あの、あなたに惚れてたのよ。だって、あなたみたいな人、どこにもいないんだもの。きっとあなたがもう一度自分のことを連れて逃げてくれるって、あの娘、信じてたんだわ。あなたのこと、待ってたのよ」
 えつする井上教諭のそばに座り直した女は、教諭にささやいた。
「もしあなたに鬼の力があったらね、今からでも、そのごろつきたちをらしめてやりたいでしょ?」
 教諭は泣きながら、はい――と言った。
「あなたに鬼の力があったなら、これから似たような気の毒なたちを護ってあげることもできるわよね?」
 教諭は再び、はい――と言った。
「もし鬼になるつもりがあるんならさ、鬼がこの子に殺されたら、どこでもいいからすぐに鬼の体を一口食いちぎるのよ」
 教諭は蚊が鳴くような声で、はい――と言った。

      四

 すぐそばで恐ろしい会話が続けられていたのに、悲しみと悔恨に縛られた千鶴には、何の話をしているのかまったくわからない。
 しばらくすると、井上教諭は自分も鼻をすすりながら、すすり泣いている千鶴の所へ来て耳元でささやいた。
「山﨑さん、君のつらさは僕にもよくわかるよ」
「おらがしんさんを殺してしもた……。おらが進さんをがんごにしてしもた……」
 泣きながらつぶやく千鶴を、教諭は優しく慰めた。
「君は悪くないよ。悪いのはおに、いや、がんごなんだ。その鬼をやっつけて、進之丞くんを鬼から解放してあげようよ」
「進さんを……解放?」
 千鶴はぼんやりした顔を上げた。教諭の声は聞こえていても、教諭の顔は見えていない。
 井上教諭は千鶴に話しかけた。もう鼻はすすっていない。
「そうだよ。進之丞くんをがんごから解放してあげるんだ。だけどそのためには鬼を殺して、進之丞くんから引き離さないとだめなんだ」
がんごを……進さんから……引き離す……」
「そう、がんごを進之丞くんから引き離すんだ。それをね、君が自分の手でやるんだよ」
「おらが?」
がんごはとっても強いから、他の者だとすぐにやられるだろ? でも君なら鬼も油断してるから、簡単にやっつけられるよ」
がんごを……やっつける?」
がんごを殺すんだ。君がその手で鬼の命を奪うんだよ。鬼を殺せば、進之丞くんは鬼から解放されるからね」
「おらが……がんごを……殺す……」
「そう、がんごを殺すんだ。大変なことだけど、進之丞くんのためならできるよね? 鬼を殺して、進之丞くんを救うんだ」
「おらが……がんごを……殺して……、進さんを……救う……」
「そのとおり。君ならできる。僕も君のそばにいるから心配ないよ。君は一人じゃない。だから君はがんごを殺して、進之丞くんを救うんだ」
「おらが……がんごを……殺して……、進さんを……救う……」
 近くでくっくっと女が笑っている。しかし、千鶴は同じ言葉を繰り返すばかりだ。
 すると、女が突然千鶴に声をかけた。
「千鶴ちゃん、あんた、がんごが憎いんだろ?」
 井上教諭は驚いて女を振り返り、やめてくださいと言った。だが、女はやめなかった。
「お世話になってた和尚さんを殺されて、大好きな人との夢も潰されて、その人が人間でいることさえも奪われたんだもの。憎くない方がおかしいよねぇ。しかも、その大好きな人を千鶴ちゃんに殺させたんだもんねぇ」
 ただ耳に流れてくる声や音と違い、女の声は千鶴に向けて投げかけられたものだった。そのため、女の声はしっかりと千鶴の耳に聞こえていた。
「ちょっとい加減にしてください!」
 井上教諭が声を荒らげても女は平気だ。ほうけたような千鶴の目から涙がこぼれ落ちるのを見て、女は楽しげに言った。
「そうそう、思い出したわよ。確かその鬼は大好きな人のおとっつぁんと、千鶴ちゃんのおっかさんを八つ裂きにしたのよねぇ?」
「何であなたが、そんなことまで知ってるんですか?」
 井上教諭は不審な目を女に向けた。さぁねぇと女はとぼけながら笑いをこらえている。
 再び千鶴に顔を戻した教諭は眉をひそめた。涙が止まった千鶴の顔は、憎しみで険しくなっていた。
がんごを殺す……。おらが鬼を殺す……」
 千鶴の心の中は鬼への憎しみでいっぱいになっていた。
 井上教諭は当惑しながら千鶴に話しかけた。
「山﨑さん、いいかい? 今から僕が言ったとおりにするんだよ。そうすれば、きっとうまくいくからね」
 千鶴はうなずきもせず、がんごを殺すという言葉を繰り返した。
 もはや鬼と進之丞が一つであるという認識は、千鶴の頭の中には浮かんでこなかった。