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月夜の城

      一

 ぼんやりした千鶴の目の前は、白いもやで覆われている。どこからか井上教諭の声が聞こえて来る。
 ――いいかい、僕が三つ手を叩くと、僕は進之丞くんになる。だから、僕の言うことは全て進之丞くんの言葉になるんだ。いいね?
 靄を見ながら千鶴はうなずいた。ゆっくり音が三回鳴った。
 ――千鶴、あしがお前にかけた暗示は全て解けた。その白い靄は晴れよう。
 進之丞の声が聞こえたと思うと、すっと靄が晴れた。
 目をぎらぎらさせた尼僧が、自分の左手首に包丁を当てている。
 尼僧は包丁の柄をつかんでいた右手を刃の背の部分に移すと、えぃと気合いを込めて力一杯押しつけた。
 嫌な音が聞こえて、尼僧の左手が切り離された。噴き出した血で辺りは血まみれだ。
 包丁を捨てた尼僧は、顔をゆがめながら左手を拾い上げ、これを喰え――と千鶴に言った。
「この肉を喰えば、お前は人ではのうなる。そがぁなって初めて、お前はわたしと一つになれよう」
 前世の千鶴の意識は尼僧の支配下にあるので、尼僧の言動に少しも動じる様子がない。尼僧の左手首からどくどく噴き出る血を見ても、血だらけの尼僧の左手を突きつけられても、平然としている。
 一方で、現世の千鶴の意識は多少ぎょっとなったものの、ぼんやりしているので、何が起こっているのかを淡々と井上教諭に報告していた。
 それでも前世の意識と融合しそうになると、教諭への報告が止まってしまう。
 井上教諭はしきりに千鶴に声をかけながら、千鶴が現世の意識を保てるようにしていた。
「さぁ、喰え。お前はわしと一つになりたいんじゃろ?」
 尼僧の声が男のような低い声になった。
 千鶴が尼僧の顔を見ると、尼僧の額に二本の角が生えていた。嬉しげな口元からは二本の牙がのぞいている。
 それはまさに母を殺したあの鬼だった。
 現世の千鶴は息苦しさを覚えたが、前世の千鶴は何とも感じていない。そのことに鬼の尼僧は満足している様子だ。
「わかるか? わしはがんごぞな。お前が幼子じゃった頃から、お前を捜し求めよった鬼ぞな。お前を喰ろうてお前と一つになるんが、わしの長年の夢じゃった。この体が朽ちる前にお前と出会えるとは、これほど嬉しいことはない。どがいぞな、お前も嬉しかろ?」
 千鶴がこくりとうなずくと、鬼は満面の笑みを浮かべた。
「さぁ、喰え。これを喰ってお前はわしと一つになり、がんごとなるんぞな」
「おら、これを喰って尼さまと一つになり、がんごになるんぞな」
 尼僧の言葉を繰り返しながら、千鶴は尼僧の左手を受け取った。その手にはまだ温かみがあり、血が滴り落ちている。その血だらけの切り口に、千鶴はかぶりつこうとした。
 だが、まさにその時、進之丞が小屋の中に飛び込んで来た。
「千鶴! 無事か?」
 驚いたわけではないが、突然の出来事に千鶴は動きを止めて、進之丞の方を向いた。
 鬼の顔の尼僧は苦々しげに牙をいた。だが、進之丞が刀に手をかけて進んで来ると、後ろに飛び退いて間合いを取った。
 千鶴は進之丞に構わず、もう一度尼僧の手にかぶりつこうと口を開けた。それを見た進之丞は、千鶴の手から尼僧の手を奪い取り、尼僧に向けて投げつけた。
 尼僧は右手を伸ばして、己の左手を受け止めた。そこを進之丞は前に踏み込みながら刀を抜きざまに斬りつけた。
 尼僧の右腕の肘から先がぼとりと落ち、その切り口からも血が噴き出した。
「おのれ……。今一歩で千鶴をけがせたものを……」
 両手を失った尼僧は怒りを剥き出しに、巨大な鬼に変化へんげした。小屋は崩れ、進之丞は千鶴をかばっておおかぶさった。
 鬼は進之丞を踏み潰そうとした。だが、千鶴に気づいて一度は上げた足を下へ降ろした。その隙を逃さず、進之丞は転がりながら鬼の左足首の腱を斬った。
 鬼は崩れ落ちるように倒れ、進之丞は鬼にとどめを刺そうした。しかし、鬼は手のない腕を振り回し、大きな口で進之丞を噛み砕こうと抵抗した。そうしながら右足だけで立とうとするが、進之丞が攻めると鬼は均衡を失って倒れた。
 鬼が暴れ続けるので、進之丞も迂闊うかつには近づけない。だが、勝負は明らかに鬼に不利だった。
 左手に見える西日が、鬼の焦った顔を赤く染めている。千鶴は鬼を助けねばならないと思った。
 近くに包丁が落ちているのに気づいた千鶴は、それを拾い上げると、そっと進之丞の後ろに近寄った。
 鬼は明らかに疲れており、出血もひどかった。動きは次第に鈍くなり、やがて動きを止めると、荒々しい息をするばかりになった。それを進之丞は勝機と見たようだった。
 進之丞は刀を構え直すと、鬼に向かって踏み込もうとした。その時、千鶴は両手で包丁を構えたまま、進之丞目がけて体ごとぶつかった。
 ずぶりという感触が千鶴の手に伝わって来る。驚いて後ろを振り向く進之丞。見開かれた目は、何が起こったのか理解できない様子だ。
「死ね! お前に邪魔なんぞさせん。おらはがんごになるんじゃ。尼さまと一つになって、鬼になるんじゃ!」
 進之丞の向こうで、高笑いをするように鬼が吠えた。
 進之丞は刀を落とすと、千鶴の方に向きを変えた。包丁から手が離れた千鶴を、進之丞はぎゅっと抱きしめた。
「千鶴……、あしが悪かった……。お前に寂しい思いをさせたばっかしに……、お前をこがぁに苦しませてしもた……」
「えぇい、やかましい! おら、お前のことなんぞ、何とも思とらんわ。おらはがんごになるんじゃ。邪魔くれすんな!」
 千鶴は進之丞から離れようと藻掻もがいた。だが、進之丞は千鶴を離さず、千鶴の耳元で囁くように言った。
「千鶴……、お前はがんごやない……。お前は誰より優しい……女子おなごぞな……。誰よりきれいで……、あしが誰より……嫁にしたいと思た……娘ぞな」
「うるさい! よもだ言うな!」
 進之丞の右の腰に刺さったままの包丁に、千鶴の手が触れた。千鶴は進之丞を抱くようにして、包丁の柄を両手で握った。そして、思いきり手前へ引きつけた。包丁の残っていた刃の部分は、進之丞の体に深くめり込んだ。
 進之丞は顔をゆがませ、喘ぐように口を動かした。それでも進之丞は千鶴を離さず、途切れ途切れに同じ言葉を繰り返した。
「お前はがんごやない……。誰より……誰より優しい娘ぞな……。お前はあしが……誰より嫁に……したいと思た……娘……ぞな」
 空虚だった千鶴の胸の中に、懐かしい温もりが広がった。ふと千鶴は目の前にいるのが、進之丞だと気がついた。
「……進さん?」
「千鶴……気ぃついたか……。よかった……」
 進之丞は微笑んだ。だが鬼が吠えると、千鶴は再び虚ろな心に戻りそうになった。その刹那せつな、進之丞は千鶴の鳩尾みぞおちに拳を当てた。千鶴は息が詰まって、その場に倒れた。
 すまん――千鶴に詫びた進之丞は、腰の包丁を気合いと共に引き抜くと、それを鬼に目がけて投げつけた。
 包丁は鬼の眉間を貫き、鬼は仰向けに倒れた。
 刀を拾った進之丞はよろよろと鬼のそばへ行くと、渾身の力で鬼の体に這い上った。鬼は力が尽きたのか、荒い息をするばかりで動かない。
 鬼の胸の上に立った進之丞は、刀を深々と鬼の胸に突き刺した。
 鬼はびくんと体を震わせ、そのまま静かになった。
「父の仇、慈命和尚の仇、村人たちの仇、そして、我が千鶴の仇、たった今、討ち取ったり!」
 進之丞が叫ぶと、鬼の体から赤い霧が立ちのぼった。赤い霧は倒れている千鶴の所へ移動し、千鶴を包み込んだ。
 この赤い霧こそが鬼の本性であり魂だった。
 鬼は千鶴の心に無理やり入り込もうとしていた。千鶴は抵抗できなかったが、鬼の方も千鶴の心にはうまく入り込めない様子だ。
 尼僧の肉こそ口にしなかったが、進之丞を殺そうとしたことで、千鶴の心は穢されていた。それ故、鬼が千鶴の心に入り込むのは時間の問題かもしれなかった。
 その時、鬼の体から転げ降りた進之丞が、落ちていた尼僧の右腕を拾い上げて叫んだ。
がんごよ、千鶴から離れてよっく聞け! 貴様が人の心に入り込まねばこの世に留まれぬことは、慈命和尚から聞いて知っておるぞ。千鶴に己の肉を喰わせようとしたのは、貴様には千鶴の心がまぶし過ぎたのであろう。それ故、千鶴の心を穢そうとしたのであろうが、もうあきらめよ。貴様が千鶴の心を喰らうことはできん」
 それでも赤い霧は千鶴から離れようとしない。進之丞はよろけそうになるのをこらえながら、さらに叫んだ。
がんごよ、聞け! あしは貴様とついぞ! 多くの村人を斬り殺したあしは、貴様同様、人ではない。やが今一度、貴様の肉を喰ろうて、あしがもはや人ではない証を見せてやろわい!」
 進之丞は尼僧の腕に食らいつき、肉を噛みちぎって飲み込んだ。
 血に染まった口を進之丞が手の甲で拭くと、千鶴の心に入り込む寸前だった鬼は、潮が引くように千鶴の心から離れた。
 それでも千鶴への未練だろう。赤い霧はすぐには千鶴から離れようとしなかった。だが徐々に千鶴から離れると、やがて引き寄せられるように進之丞の方へ移動して行った。
 千鶴に代わって進之丞を包み込んだ赤い霧は、そのまま進之丞の体の中に吸い込まれた。
 鬼の死骸はいつしか消え、代わりに裸の尼僧の死骸が転がっていた。その横で進之丞は胸を掻きむしって苦しみ、地面の上をのたうち回っていた。千鶴は倒れたままその様子をぼんやり眺めている。
 しばらくして体を起こした進之丞は下品に笑った。
「愚かな奴よ。己を犠牲にして千鶴を救うたつもりじゃろが、貴様のこの体を使つこうて、今度こそ千鶴を喰ろうてやろわい」
 続いて進之丞は顔をしかめると、そげなことはさせん!――と叫んだ。
がんごよ、お前が千鶴の優しさを求めておるのはわかっとる。やが、千鶴を喰ろうたとこで、千鶴の優しさは手に入らん。優しさとはそがぁなものではない!」
「何をわかった風なことを。千鶴の優しさは、千鶴の中にこそあろう。されば、その千鶴を喰ろうてこそ、その優しさが我が物になるというものぞ」
「違う違う! ほうではない! 優しさとは相手をいたわる心ぞ。千鶴が見せる優しさは、お前の中にもついの優しさがあると、教えてくれておるぎりぞ」
がんごであるわしに優しさがあるとな?」
 進之丞は嘲るように笑った。
「どっからそがぁな言葉が出るんぞ? 今のお前なら、わしの中にそがぁなものがないのはわかろがな」
「いや、お前の中にも優しさはある。お前がほれを忘れ、気づいておらんぎりぞな」
「やかましい! よもだはやめてぇ加減にわしに喰らわれよ」
「よし、喰らわれてやろわい。あしを喰ろうて、優しさがどがぁなもんかを知るがええ。我が心をお前にやる代わりに、優しさとは奪うもんやのうて、相手に与えるもんと知れ」
 一人芝居のようなやり取りが続いたあと、進之丞は倒れて動かなくなった。
 ついに死んだのかと思われたが、やがて進之丞はゆっくりと起き上がると、ふらつきながら千鶴のそば来た。そして、千鶴を抱き起こすと額に指を当てた。
「千鶴、お前はがんごではない。鬼になることもない。お前は人の娘ぞな。誰より優しく美しい娘ぞな。わかったな?」
 千鶴はぼんやりしたままうなずき、進之丞の言葉を繰り返した。
 進之丞は千鶴の額に指を当てたまま、さらに言った。
此度こたびお前に起きた禍々まがまがしきことは全て忘れよ。特にここで起こったことは、何があっても思い出してはならん。来世に生まれ変わろうとも、決して思い出すでないぞ」
 千鶴がうなずくと、進之丞は千鶴を正気に戻した。
 心の靄が晴れた千鶴の前に、進之丞の優しい笑顔があった。

      二

 現世に戻った千鶴は号泣していた。
 催眠が解けたわけではない。まだ、頭はぼんやりしたままだ。それでも己の罪と進之丞の優しさを知った今、千鶴は涙を止めることができなかった。
 鬼の術中にはまったとは言え、己の手で進之丞の命を奪ったのである。その進之丞は千鶴を救うため、命が燃え尽きる前に千鶴の身代わりに鬼になった。
 悔やんでも悔やみきれない、詫びても詫びきれない過ちを自分は犯してしまったと、千鶴は己を責めて泣き叫んだ。井上教諭が暗示をかけてなだめなければ、千鶴は気が狂っていたか、あるいは自害したかも知れなかった。

 隣の三畳間から誰かが出て来て、井上教諭の近くに座った。恐らく、先ほどの女だろう。お香の匂いが強くなった。
 だが催眠が解けていない千鶴は、女に構わず泣き続けた。同じ部屋に座っていても、千鶴がいるのは悲しみと悔恨の世界だった。
「すごいじゃないの。鬼が本当にいるなんて驚きね。しかも、その鬼が今もここにいるなんてさ」
 楽しげな女の声に、井上教諭の疲れた声が応じた。
「他人事みたいに言わないで下さい。あなたはこの子の気持ちがわからないのですか? 喋っている間、この子はずっと泣いてたじゃないですか。この子がどんな気持ちで前世を再体験していたのかを考えたら、そんなことは言えないはずですよ」
「わかってるわよ。だけど、それにしたってすごいことでしょ? あなただって本当は興奮してるくせに」
「何を馬鹿なこと言ってるんですか。この子は許嫁を人間に戻そうと、必死の想いで僕に催眠術をかけてもらいに来たんですよ?」
「その結果がこれだなんて、洒落しゃれにもなりゃしないじゃないの」
「それはそうなんですけど……」
 教諭は残念そうに言ったあと黙っていた。部屋の中に聞こえるのは千鶴がすすり泣く声だけだ。
 少しして女が言った。
「それで、このあとどうすんの?」
「どうするって?」
「この子は許嫁を人間に戻したいんでしょ? 戻せるの?」
「それは……」
「戻せないの?」
 畳みかけるような女の言葉に、井上教諭は閉口したのだろう。少し間を置いてから言い訳をした。
「今回わかったのは鬼の本性と言うか、魂みたいなものが人間に取り憑いて、そうやって鬼は生き延びるってことです。前世でこの子の許嫁は鬼に取り憑かれて、それで鬼になってしまったわけですけど、それがわかったところで彼を人間に戻すことはできません。この子にも彼にも、どうしてあげることもできないんです」
 教諭が喋っている間、マッチをる音が聞こえ、ふぅと煙を吐き出すような音がした。女が煙草に火をつけて吸ったのだろう。辺りに煙草の臭いが広がった。
 コトンと小机に何かを置いた音が聞こえた。教諭が灰皿を置いたようだ。
「許嫁を人間に戻せなくてもさ、この子を救うことはできるんじゃないのかしら?」
「この子を救う? どういう意味ですか?」
「鬼と夫婦になるなんて尋常なことじゃないでしょ? ある意味、この子は狂ってるのよ。だけど鬼に魅入られてるから、この子はこんな風に考えるの。そうは思わない?」
「それは……、そうかもしれませんけど。だけど、進之丞くんは元は人間だったんですよ?」
「だけど、今は鬼なんでしょ? つまりは化け物じゃないのよ」
「しかし……」
 また、ふぅと煙を吐く音がして、煙草の臭いが強くなった。
「どんなに見た目が人間でもね、鬼は鬼。化け物は化け物なのよ」
 教諭が黙っていると、女は話を続けた。
「今年の春頃だったかしらねぇ。あなたをあの花街の娘に会わせてあげたでしょ?」
「それは今は関係ないでしょ?」
 教諭の声はうろたえている。女は構わず喋った。
「確か、あの頃にこの子は萬翠荘に招かれて、晩餐会やら舞踏会やらを開いてもらったのよ。あなた、覚えてるかしら?」
 教諭は少し落ち着きを取り戻した声で言った。
「ええ、それは覚えてますよ。新聞に載ってました」
「その新聞に、この子とロシアの男の子が伯爵夫妻の前で、結婚を宣言したってあったでしょ?」
「そう言えば、そうだったかな」
「この子はね、本当はあのロシアの子と一緒になるつもりだったのよ。だけど、鬼がこの子の心を操って、自分の方を向くように仕向けたのよ」
「そんなこと……」
 賛同する様子のない教諭に、女は声を強めた。
「だって、そうでしょ? そうじゃなかったら伯爵夫妻の前で、結婚しますだなんて言う? 言わないでしょ?」
「それは……」
「この子はあのロシアの子と一緒になるつもりだった。それがこの子の本当の気持ちだったのよ。だけど鬼からすれば、この子は自分の物のはずでしょ? だから、この子の心を操って、自分と夫婦になるように仕向けたのよ」
「だけど、僕が知っている進之丞くんは、そんな風には見えませんでしたよ」
 少し沈黙が続いた。恐らく女が呆れたように教諭を見ているのだろう。
「あなたって馬鹿ねぇ。鬼がね、自分は鬼ですって見せたりするわけないでしょ? 普段はおとなしくて善良に見える人ほど、怪しいものなのよ」
「そんなものなんですかねぇ」
 煙を吐き出す音に続いて、女が喋った。
「この子が萬翠荘に呼ばれたあの晩に、城山で四人の男が魔物に襲われたって事件があったでしょ?」
「え? あぁ、ありましたね、そんな事件が」
「あれはね、この子に憑いてる鬼の仕業よ」
「え? そうなんですか?」
「あの四人は特高警察だったのよ。あの晩、この子は家に戻る途中に、あの四人に捕まったの。ソ連のスパイと疑われてね。それでその男たちがこの子に乱暴したから、怒った鬼に殺されたのよ」
「どうして、そんなことがわかるんですか?」
「こう見えても、いろいろ人のつながりがあるのよ。だから、あなたが知らないこともいっぱい知ってるわけ」
 女は少し笑ったあと、真面目な声に戻って言った。
「まぁ元はと言えば、悪いのは特高警察の方なんだけどさ。鬼が本性を現したら、あんなことになるってわけよ。この子をそんな鬼のいいようにさせるって、あなた、この子の先生として、それでもいいの?」
「それは……」
「でしょ? だったらこの子を鬼から解放して、正気に戻してあげないとね。そうじゃないと、この子、鬼に連れてかれちゃうわよ。もうすぐこっちに鬼が来るって、この子、言ってたでしょ?」
「それは鬼がお別れをしに来るって……」
「あなたね、い加減になさいよ。それはこの子が勝手にそう言ってるだけでしょ? 鬼が自分でそう言ったわけ?」
「それは……違いますけど」
 女はすぐに喋らず、代わりにゆっくり煙を吐く音が聞こえた。
「鬼はこの子を連れに来るのよ。その時に、今のこの子の様子を知ったら、鬼はどうすると思う?」
「え? どうするって?」
「もう、本当にれったい男ねぇ。あなた、鬼が封印してたこの子の記憶を暴いたんでしょ?」
「え? だって、それはこの子がそう言ったから……」
「鬼が来たら、そう言えばいいわ。鬼が何て思うかしんないけど」
 ふぅっと大きく息を吐く音が聞こえたあと、小机の灰皿が動く音がした。女が煙草の火を消したのだろう。
「ちょっと待って下さい。僕は本当にこの子に頼まれてやっただけであって、別に鬼の邪魔をしたわけじゃないんですよ」
「そんなこと、あたしに言い訳したってしょうがないじゃないの。言い訳するんだったら鬼にしなさい」
「そんな……」
「鬼は鬼なりにこの子を気遣ってたのよ。だから、この子が傷つかないようにしてたわけ。それをあなたが無作法にも封印を解いて、この子が狂うようなことをしちゃったんだもん。あたしが鬼だったら、絶対にあなたを許さないでしょうね」
「ゆ、許さないって?」
「あなたを八つ裂きにするってことよ」
 えぇ?――と井上教諭は悲鳴のような声を出した。
「そんなのひどいですよ。僕はこの子のためにしただけなのに、それで八つ裂きにされるだなんて、そんなの無茶苦茶だ」
「人間にとっては無茶苦茶でも、鬼にとっては当たり前のことよ」
 それじゃあ、あたしはこの辺で――と言って女は立ち上がった。
「ちょっと待って下さい」
「何? あたし、ここで見聞きしたことは誰にも言ったりしやしないから、心配なんかしなくていいわよ」
「そうじゃありません。そんなことじゃなくて、僕はどうすればいいんですか?」
「知りたいの?」
 教諭がうなずいたのだろう。女は少し間を置いてから言った。
「あなたが鬼を殺せばいいのよ」

      三

「そんな……。鬼が僕を八つ裂きにするって言ってるのに、僕の方が鬼を殺すなんて、できるわけないじゃないですか」
 女はほほほと笑うと、頭を使いなさいと言った。
「あなたが殺すと言ったって、そのやわな体で鬼と戦う必要はないでしょ? 罠を仕掛ければいいのよ」
「罠?」
「その子に殺させればいいのよ。その子だったら、鬼の方も油断するだろうから、簡単に殺せるわよ」
「何言ってるんですか。この子はその鬼を救いたくて、ここへ来たんですよ? その鬼をこの子に殺させるだなんて、それこそ無茶苦茶じゃないですか」
 井上教諭は憤ったが、女にそれを気にする様子はない。
「この子を助けようとしたあなたを、鬼が八つ裂きにするのだって無茶苦茶なんだからさ。別に気にしなくたっていいんじゃない? 何せ相手は鬼なんだからね」
「そんなこと言ったって、そんなの無理です。僕にはできません」
 弱音を吐く教諭に、女はふんと言った。
「あなたがどうすればいいのかって訊くから、答えてあげただけでしょ? あたしは別に無理いしようってんじゃないんですからね。決めるのはあなた。あたしには関係ないことよ。だけどね、八つ裂きって相当痛いだろうし、苦しいと思うわよ。もう想像しただけで発狂しそうになっちゃうわ」
「やめて下さいよ。あぁ、僕はどうすれば……」
 頭を抱えたと思われる教諭に、女は説教をした。
「あなたね、妙な正義感を持ってるから、そんな風に悩むのよ。そもそもこの子はあのロシアの子に惚れてたのよ。それを鬼が横取りしようとしてるわけ」
「それは……、わかってます」
 教諭の声は項垂れたように弱々しい。それに対して、女の声は力強かった。
「いくら前世で夫婦約束してたって、そんなの昔の話じゃないの。今世では今世の暮らしってもんがあるはずでしょ? それなのに昔のことを持ち出して来て、お前は俺の物なんだからなって言われたって困るじゃないの。しかも心まで操られてさ。あなたにはこの子が哀れに思えないの?」
「それは……、哀れだと思います」
「でしょ? それにね、この子に鬼を殺させるっていうのは、別にずるいことじゃないのよ。そこにはね、この子が自分で鬼の呪いを断ち切るっていう意味があるの。自分で自分を救うことになるわけよ。わかるかしら?」
「わかるような気はしますけど……」
「鬼に魅入られてるってことは、心の問題なのよ。それは他人がどうこうできることじゃないの。本人が自分で解決しないといけないのよ。だからこそ、この子が自分で鬼に引導を渡して、この問題にけりをつけるってことが大事なの」
「なるほど……」
 教諭は女の話に傾いたようだ。女はとどめを刺すように言った。
「それにね、あなた、さっき言ってたじゃないの。鬼みたいな力が自分にもあれば、妹さんとかあの娘さんみたいな、気の毒な女の子たちを助けてあげられるのにって」
「それは言いましたけど、これとは関係――」
「あるわよ。この子が鬼を殺すところに、あなたが立ち会ってね、鬼を自分に取り憑かせたら、あなた、鬼の力が手に入るじゃない」
「え?」
 教諭は目をみはっているに違いない。女は勝ち誇ったように話を続けた。
「この子の許嫁は鬼に取り憑かれても、ちゃんと自分を保ってるじゃないの。時々鬼になっちゃうけどね。だけど、あなただったら、もっとしっかりして、不必要に鬼に変化へんげしたりはしないと思うわ。鬼の力を使いながらも、あなたは人間のままでいられるのよ」
「そんなこと、考えもしませんでした」
「まぁ、これは本筋じゃなくておまけみたいなものだけどね。本筋はこの子に鬼を殺させることで、この子とあなたの両方が救われるってことよ。あなたが鬼になるのは、あわよくばぐらいなものかしらね」
「あわよくばですか」
「だって、鬼は心がきれいな者には取り憑けないんでしょ? 取り憑いてもらうためには、あなたは自分を穢さないといけないわよ」
 教諭はぎょっとしたように言った。
「進之丞くんみたいに人の肉を食べるんですか?」
「さぁね。それは自分で考えたらいいわ。とにかく、もうすぐ鬼が来るわよ。時間がないけど、どうすんの?」
「だけど、この子に鬼を殺させるなんて、どうすれば?」
 焦る教諭に女は言った。
「ちょうど今、この子はあなたの催眠術にかかってるんでしょ? 今だったら、何だってあなたの言いなりになるわよ」
「そうか。だけど、あとでこの子が自分が鬼を殺したってわかったら、またおかしくなってしまうんじゃないでしょうか?」
 井上教諭こそが女の言いなりになっているのだが、教諭はそのことに気づいていない。女は教諭に言い聞かせるように話を続けた。
「鬼に取り憑かれてるから、前世で鬼を殺したことに罪悪感を感じてるのよ。鬼を殺して正気に戻ったら、罪悪感を感じるどころか、正気に戻してくれたことをあなたに感謝するでしょうよ」
「それにしても、この子にどうやって鬼を殺させるんですか?」
 少し安心したのか、教諭の声には張りが出て来たようだ。
「あたしが思うに、多分その鬼は人間の姿に戻ってるわね」
「どうしてそう思うんですか?」
「だって鬼の姿のままだったら、いくら夜に動いたにしたって、絶対誰かに見られちゃうでしょ? そうなったら困るじゃないの。だからここへ来るっていうのは、万が一誰かに見られても騒がれないのがわかってるってことよ。つまり人間の姿に戻ってるってわけ。それだったらさ、包丁で急所を一突きしたら殺せるんじゃないかしらね」
「人間に戻ってるんだったら、この子に教えてやれば……」
「今は人間の姿でも、あなたがこの子の封印を解いたってわかったら、即座に鬼に変化へんげして、あなたは八つ裂き。鬼はもう人間には戻れないし、この子は鬼に連れて行かれるだけよ」
 井上教諭はおろおろしながら悩んでいるのだろう。黙っている教諭に女は言った。
「ごろつきに殺された花街の娘さんね。前にあなたが連れて逃げようとしてくれたことを、とても感謝してたのよ。本当はあなたと一緒に暮らしたかったって、あのあと、あたしに言ったの。だからでしょうね、あのが男たちの言いなりにならなくなって殺されちまったのは」
 教諭は顔をゆがめたに違いない。教諭のすすり泣く声が聞こえて来た。
「可哀想にね。あの、あなたに惚れてたのよ。それで、きっとまた自分のことを連れて逃げてくれるって信じてたんだわ」
 嗚咽おえつする井上教諭のそばに女は座り直したようだ。
 女は教諭に囁くように言った。
「もしあなたに鬼の力があったらね、今からでも、そのごろつきたちを懲らしめてやりたいでしょ?」
 教諭は泣きながら、はい――と言った。
「あなたに鬼の力があったなら、これから似たような娘たちを護ってあげることもできるよね?」
 教諭は再び、はい――と言った。
「もし鬼になるつもりがあるんだったらさ、鬼がこの子に殺されたら、どこでもいいからすぐに鬼の体を一口食いちぎるのよ」
 教諭は蚊が鳴くような声で、はい――と言った。

 すぐそばで恐ろしい会話が続けられていたのに、悲しみと悔恨に縛られた千鶴には、何の話をしているのか全くわからない。
 しばらくすると、井上教諭はすすり泣いている千鶴の所へ来て耳元で囁いた。
「山﨑さん、君のつらさは僕にもよくわかるよ」
「おらが進さんを殺してしもた……。おらが進さんをがんごにしてしもた……」
「君は悪くないよ。悪いのはおに、いや、がんごなんだ。その鬼をやっつけて、進之丞くんを鬼から解放してあげようよ」
「進さんを……解放?」
「そうだよ。進之丞くんをがんごから解放してあげるんだ。でも、そのためには鬼を殺して、進之丞くんから引き離さないとだめなんだ」
がんごを……進さんから……引き離す……」
「そうそう。それをね、君が自分の手でやるんだよ」
「おらが?」
がんごはとっても強いから、他の者だとすぐにやられるだろ? だけど、君だったら鬼も油断してるから、簡単にやっつけられるよ」
がんごを……やっつける?」
「そうさ。がんごを殺すんだ。君がその手で鬼の命を奪うんだよ。そうすれば、進之丞くんは鬼から解放されるからね」
「おらが……がんごを……殺す……」
「そうだよ。がんごを殺して、進之丞くんを救うんだ」
「おらが……がんごを……殺して……、進さんを……救う……」
「そのとおり。君だったらできる。それに、僕も君のそばいるから心配ないよ。君はがんごを殺して、進之丞くんを救うんだ」
「おらが……がんごを……殺して……、進さんを……救う……」
 近くでくっくっと女が笑っている。しかし、千鶴は同じ言葉を繰り返すばかりだった。
 すると、女が突然千鶴に声をかけた。
「千鶴ちゃん、あんた、がんごが憎いんだろ?」
 井上教諭は驚いて女を振り返り、やめて下さいと言った。だが、女はやめなかった。
「お世話になってた和尚さんを殺されて、大好きだった人との夢も潰され、その人が人間でいることさえも奪われたんだもの。憎くない方がおかしいよねぇ。しかも、大好きな人を千鶴ちゃんに殺させたんだもんねぇ」
 ただ耳に流れて来る声や音と違い、女の声は千鶴に向けて投げかけられたものだった。そのため、女の声はしっかりと千鶴の耳に聞こえていた。
 呆けたような千鶴の目から涙がこぼれ落ちた。それを見て女は楽しげに言った。
「そうそう、思い出したわよ。確かその鬼は大好きだった人のお父さんと、千鶴ちゃんのお母さんを八つ裂きにしたんだったよねぇ?」
「何であなたが、そんなことまで知ってるんですか?」
 教諭は不審な目を女に向けた。女はさぁねぇととぼけながら笑いをこらえている。
 再び千鶴に顔を戻した教諭は眉をひそめた。千鶴の顔は憎しみで険しくなり、目の涙は消えていた。
がんごを殺す……。おらが鬼を殺す……」
 千鶴の心の中は悲しみと悔恨がなくなり、鬼への憎しみで一杯になっていた。
 井上教諭は当惑しながら千鶴に話しかけた。
「山﨑さん、いいかい? 今から僕が言ったとおりにするんだよ。そうすれば、きっとうまく行くからね」
 千鶴はうなずきもせず、鬼を殺すという言葉を繰り返した。
 もはや鬼と進之丞が一つであるという認識は、千鶴の頭の中には浮かんで来なかった。

      四

 まだ山﨑機織の看板が残る建物の前に、千鶴と井上教諭は立っていた。千鶴は胸に小さな風呂敷包みを抱いている。
 建物の入り口には、差し押さえの紙が貼られている。その紙の上に、教諭はもう一枚の紙を貼りつけた。
 その紙には「いざなわれ白鶴きたる月の城」という俳句が書かれていた。
「まだ俳句はうまくできないけど、これで君がどこにいるのか、彼だったらわかるだろう。夜のお城は人目につかないからね」
 井上教諭は空を見上げた。東にきれいな満月が浮かんでいる。
 しばらく月を眺めていた教諭は、名残なごり惜しそうに千鶴に顔を戻すと、じゃあ、行こうか――と言った。
 通りを歩く者は、ほとんどいない。それでも少しでも人影を見つけると、教諭は千鶴と物陰に隠れた。
 札ノ辻へ出ると、教諭は千鶴の手を引きながら師範学校の前へと急いだ。すると、師範学校の脇から電車が現れたので、驚いた教諭は千鶴を抱きかかえながら走った。
 札ノ辻停車場で止まった電車からは、誰も降りて来なかった。電車には乗客が数名いたが、誰も千鶴たちの方は見ていない。
「見られなかったみたいだな。よかった」
 井上教諭は額を手でこすると、音を立てないようにしながら歩き始めた。
 ここは城山の西で三ノ丸を囲んだお堀の北側になる。三ノ丸の中は松山歩兵第二十二連隊の駐屯地で、ここには北門がある。閉められた門の向こうには衛兵がいると思われた。
 教諭は千鶴に声を出さないよう注意してから、足早に師範学校の東側へ廻った。
 師範学校と道を挟んだ城山の西のふもとには、南北に二つの小学校が並んでいる。北側にあるのが第二尋常小学校で、南側にあるのが師範学校の附属小学校だ。この二つの小学校の間を入ると、城山を登る道がある。井上教諭は千鶴をその道へいざなった。

 月明かりはあっても、登山道は山の西側にある上、木々が鬱蒼うっそうと茂っていて真っ暗だった。
 井上教諭は真っ暗な登城道を見上げながら、独り言のようにつぶやいた。
「あの人の言うとおりだったな。提灯ちょうちんを持って来てよかったよ」
 家を出る時、満月で明るかったので、井上教諭は提灯を持たずに出ようとした。それを女に注意されたのである。
 登城道の入り口で、井上教諭は手にげて来た提灯を千鶴に持たせると、中のろうそくにマッチで火を灯した。
 提灯は一つしかないので、教諭は千鶴と肩を寄せ合うようにしながら登城道を進んだ。
 提灯の明かりは足下近くを照らすだけなので、道の先の方は見えないし、周囲の様子もよくわからない。山道なので歩きにくいし、二人で一緒に歩くので、一歩一歩確かめながら進むような歩き方になる。
 時折、風が木々の枝をざわめかせると、井上教諭はすくんだように立ち止まり、何かが潜んでいるのではないかと辺りを見回した。
 だが千鶴は平気だった。千鶴の頭の中は、鬼を殺して進之丞を救うことで一杯だった。

 長く暗い道を登りきると、ぬっと怪物のようなやぐらが現れた。高い石垣の上にあるいぬい櫓だ。道はその櫓の手前で左右に分かれている。
「えっと、どっちへ行くんだっけかな?」
 城の道を知らない井上教諭は、左右の道を見比べた。
 右手の道は月明かりに照らされているが、左手の道は月明かりが届かず真っ暗だ。それで教諭は右手の道を選んだ。
 乾櫓の石垣を右へ回り込むと、道は上り坂になっていて、前方に月明かりに照らされた乾門が見えた。教諭はほっとしたように千鶴を見た。だが、千鶴は門を目にしても、何とも感じなかった。
 紙屋町を出た時には東の空に見えていた月が、かなり上の方にまで昇っている。月を見上げた教諭は、急がないと――と言いながら乾門へ向かった。
 乾門は閉まっていたが、教諭が両手で押すと、門は音をきしませながら開いた。かんぬきがされていなかったようだ。
 門を潜ると、右手の坂を登るようになっている。その坂の上が本丸だ。坂道を登って本丸へ足を踏み入れると、来る者をはばむような本壇ほんだんが、月の光を浴びながら目の前にそびえていた。
 本丸は天守閣が置かれた城の中枢だが、本壇は天守閣を護るために、本丸の中にさらに築かれた砦である。高い石垣の上に天守閣を防御するやぐらが並び、近づく者をにらんでいるようだ。
 千鶴たちが見上げているのは本壇の西側で、左の角に北隅きたすみ櫓、右の角に南隅みなみすみ櫓、両者の間に通路を兼ねた、十間じっけん廊下と呼ばれる長い多聞たもん櫓が連なっている。
 本壇の構造は頭に入れていたのだろう。井上教諭は南隅櫓の石垣を廻り込んだ。すると、別の多聞櫓に連なった天守が現れた。小天守も櫓の一種だが、本壇入り口を護るために他の櫓よりも一段高くなっている。
 小天守の脇には、本壇正面に出る紫竹しちく門がある。だが何故か、この門も開けられていた。
 紫竹門を潜って小天守右脇の本壇入り口へ向かうと、目の前に見上げるような大天守がそびえていた。
 千鶴と教諭は右手にある一ノ門を潜り、中の階段を上った。周囲は櫓で固められており、本壇に侵入しようとする者には、容赦のない攻撃が加えられるのだろう。
 階段を突き当たると、さらに左手に階段があり、その先に門がある。二ノ門だ。この門を潜ると、千鶴たちは大天守の東側に出た。
 そこは外曲輪そとぐるわと呼ばれる広い庭になっていて、ずっしりした三層に造られた大天守が、左手の高い石垣の上に腰を据えている
 右手から正面にかけては、小窓がいくつも並んだ土塀が、外曲輪を囲んでいる。その小窓から銃で下にいる敵を狙うのだろう。
 右手の土塀に沿って、何本かの樹木が植えられているが、その奥の端に櫓が一つ見える。
 千鶴たちは大天守を回り込むようにしながら外曲輪を歩いた。
 井上教諭は松山城をよく知らないようで、大天守の入り口を探していたが、外曲輪に面した部分には入り口はなかった。
 外曲輪の奥にある櫓は天神てんじん櫓と呼ばれている。井上教諭は天神櫓の前から振り返って外曲輪全体を眺めた。そこはちょうど大天守の石垣の角の辺りだ。
 今入って来た二ノ門を見ると、その右隣に並ぶように、大天守の石垣脇にもう一つの門が見える。大天守の向こう側にある内曲輪うちぐるわへ入る三ノ門だ。
 右に目をると、こちらの大天守の石垣脇にも門があった。こちらも内曲輪への入り口で、仕切しきり門と呼ばれている。
 不思議なことにこれらの門も、まだ千鶴たちが通っていないのに開けられていた。ここに至るまでの門は全て開けられており、それはまるで千鶴たちが来るのを待っていたかのようだ。 
 教諭は千鶴をいざないながら仕切しきり門を潜った。すると、そのすぐ先の左手、大天守の石垣脇にもう一つの門があった。ちょうど大天守の石垣の角を曲がる形だ。
 この門は内門うちもんと呼ばれ、そこを潜ると四角い内庭に出た。ここが内曲輪だ。
 中に入って周囲をぐるりと見渡すと、内曲輪の四つの角を、北隅櫓と南隅櫓、それに小天守と大天守が占めているのがわかる。
 大天守の左側に内門があるが、右側にも門がある。それは筋鉄すじがね門と呼ばれる門で、外曲輪から三ノ門を潜って入って来ると、この門の下を通ることになるようだ。
 四隅の建造物は通路を兼ねた櫓で結ばれている。それで内門の上にも筋鉄門の上にも、渡り櫓と呼ばれる櫓が造られている。
 長い多聞櫓でつながった二つの櫓を見て、井上教諭はこれが乾門を潜って目にした時の、本壇の櫓だろうと見当がついたようだ。
 今いる所が、あの時に見た櫓のちょうど裏側だと、教諭は千鶴に説明したが、教諭の話は千鶴の頭に残らなかった。千鶴が考えているのは、もうすぐである鬼との対決のことだけだった。
 内門のすぐ脇にある大天守の石垣には、真四角に切り取られたような窪みがあり、鉄の門でふさがれている。
 井上教諭はそこが大天守への入り口だと思ったようだ。しかし、その鉄の門はびくりとも動かない。大天守の入り口に隠れようと思っていた教諭は、あきらめて左手を見た。
 内門の左手には、唐破風からはふの屋根がある構造物がある。北隅櫓のすぐ手前だ。
 それは北隅櫓から大天守へつながる通路の入り口のようで、その立派な造りから見ると、ここが大天守への入り口かなと井上教諭は言った。
 事実、そこは天守玄関と呼ばれる大天守への入り口であり、高い位置にある廊下へ上がるために階段がついている。
 この廊下への入り口は扉が閉められていて、これは押しても開かなかった。だが、天守玄関の屋根が前に突き出ているので、暗い階段の上まで上れば、内曲輪からは見えないと思われた。
 天守玄関から出て来た井上教諭は、改めて内曲輪の構造を見回しながら、面白い構造だと感心した。
 井上教諭はここへ来た目的を忘れたかのように、千鶴を内曲輪で待たせると、筋鉄門から外曲輪へ出て行った。
 外曲輪をぐるっと廻った教諭は、少ししてから内門から戻って来た。井上教諭は少年のように興奮した様子で、何度もなるほどとうなずいていたが、千鶴の前に戻ると現実に引き戻されたらしい。
 教諭は悲しそうな顔で、大天守を見上げながら言った。
「こうして自分の興味に惹かれていると、他のことなんかどうでもいいような気になってしまうな」
 後悔しているかのように、教諭は内曲輪の中を行ったり来たりした。そんな教諭の気持ちを思いやることもなく、千鶴は憎い鬼を殺すことだけを考えていた。
 だが、千鶴の想いは憎しみだけではない。その想いの下には進之丞を救うという気持ちがあり、そのさらに下には、進之丞を殺して鬼にしてしまった悲しみと悔恨、進之丞へ詫びる想いがあった。
 とうとう教諭は迷っているような声で千鶴に言った。
「山﨑さん、僕が君の力になりたいというのは本当の気持ちだよ。だけど君にがんごを殺させるなんて、やっぱりできないよ」
「おら、がんごを殺して進さんを救うぞな」
 千鶴はぼんやりした頭で井上教諭に言った。
「僕は本当は弱虫なんだ。君のためって言いながら、本当は死ぬのが怖いんだよ。だけど、今からすることも怖いし、鬼になるなんてとんでもないって感じさ。と言ったところで、今の君には何もわからないか。君をこんな風にしてしまうだなんて、僕はいったい何をやってるんだろう」
 ぼーっと教諭を見つめるだけの千鶴に、井上教諭は苦笑した。
「今の僕に正義はあるのかな。これが本当に君のためになるのか、僕にはわからないよ……。いや、そうじゃない。これが君のためになるはずがないよ。これが正義なわけがあるもんか。だけど……、今更だな。やらなければ君には絶望しかないし、僕は死ぬだけだ」
 井上教諭はいらだったように、そわそわしながら辺りを歩き回った。それから煙草を探して懐に手をやったが、煙草は持って来なかったらしい。あきらめたように手を下ろすと、そろそろ始めようか――と言って提灯の火を消した。

      五

 千鶴がいるのは南隅櫓のすぐそばだった。そこであれば天守玄関に隠れている教諭から見えやすい。それに外曲輪とつながる内門と筋鉄門の双方を同時に見ることができるので、鬼がどちらから現れてもすぐにわかる。
 内曲輪は満月の光に照らされて、提灯がなくともよく見える。しかし千鶴がいる櫓の脇は影になっているので、外曲輪から中をのぞいても、千鶴の居場所はよくわからないはずだった。
 千鶴は二つの門を見比べながら待った。だが、鬼はなかなか現れない。
 しばらく待っていると、不意に頭の上から千鶴を呼ぶ声がした。後ろを振り向いて見上げると、南隅櫓と北隅櫓を結ぶ多聞櫓の屋根の上に、進之丞が立っていた。
 進之丞は千鶴のへ飛び降りると、辺りを警戒しながら、一人だけかと千鶴に問うた。
 千鶴が一人だけだと答えると、進之丞は千鶴に紙を見せた。
「これを書いた奴はおらんのか?」
 月明かりに照らされた紙には、何か文字が書かれている。よく見えないが、それは井上教諭が山﨑機織の入り口に貼りつけた紙に違いなかった。
 だが、そんなことは千鶴にはどうでもよかった。
 千鶴は風呂敷から取り出した包丁で、いきなり進之丞の首を切りつけた。驚いた進之丞は反射的に後ろへ飛び退いた。
「何をするんぞ?」
 進之丞の顔が険しくなった。
 がんごめ!――千鶴は包丁を構えながら進之丞をにらみつけた。
「よくもおらの母ちゃんを殺し、進さんの父ちゃんと和尚さまを殺し、おらに……、おらに進さんをあやめさせたな!」
「何? 千鶴、お前、ほれをどこで?」
 驚きうろたえる進之丞に、千鶴は再び切りつけた。しかし、進之丞がぎりぎりでかわすので、刃は進之丞に届かない。
「何が千鶴じゃ! おらと進さんの夢を台無しにした上に、進さんを喰らいよって! 進さんを返せ! おらの進さんを返せ!」
「こやつか! これを書いた奴がお前の記憶の封印を解いたんじゃな!」
 井上教諭が書いた俳句の紙を進之丞は握り潰した。怒りに顔をゆがませた進之丞の額には角が生え、口からは牙が顔をのぞかせた。その姿を見て、千鶴はさらに興奮した。
「本性を現しおったな、このがんごめ。さぁ、進さんを返せ! おらに進さんを返せ!」
 鬼の顔になった進之丞は、わめく千鶴を悲しげに見つめた。
「千鶴、今のお前に何を言うても言い訳にしか聞こえんじゃろう。されど、あしはがんごであると同時に、進之丞でもあるんぞな。もはや二つがたもとを分かつなんぞできんのよ」
「嘘じゃ! 先生はおらに言いんさった。お前を殺せば進さんを取り戻せると、先生はそがぁ言いんさったぞな!」
「先生? 先生いうんは、あの庚申庵に移っておいでたという、あの先生か?」
「ほうじゃ! 先生は何でも知っておいでる偉いお人じゃ。おらのために力を貸してくんさった偉いお人ぞな!」
「その先生がお前に、がんごを殺したら進之丞が戻ると、こがぁ言うたんか?」
「ほうじゃ!」
 進之丞は千鶴を見つめながら諭すように言った。
「千鶴、お前の先生は間違まちごとらい。がんごを殺したら進之丞も死ぬるぞな」
「そげな嘘言うても、おら、騙されんぞ!」
 千鶴に進之丞の言葉は届かない。千鶴が振り回す包丁を避けながら、因果応報とはこのことか――と進之丞は項垂うなだれた。
 だが進之丞はすぐに顔を上げて、千鶴に話しかけた。
「お前の言うとおり、あしはがんごぞな。進之丞の心を持つ鬼ぞな。前世でお前に如何いかにひどいことをしたんか、あしは今でも覚えとる。お前の母上をこの手にかけたのも、我が父を八つ裂きにしたのも、慈命和尚を絶望に追いやって殺したのも、全て鬼であるこのあしがしたことぞな」
「やっと、己がしたことを認めたか!」
「あしは他にも多くの人をあやめ、してはならんことを数え切れんほどやって来た。それらの一つ一つを思い出すたびに、あしは胸が張り裂けそうになる。お前を想えば想うほどに、かつては平気であったことが耐えられんようになるんぞな」
「進さんでもないくせに、ようもぬけぬけとそがぁなことが言えるもんじゃな」
「ほうよ。あしはお前が知る進之丞やない。やが、お前が知るがんごでもない。己が進之丞なんか鬼なんか、ほれはあしにもわからん。あしに言えるんは、あしは進之丞でもあり鬼でもあるいうことぞな。進之丞の想いは鬼のものとなり、鬼の想いは進之丞のものとなったんじゃ。やけん、あしは進之丞であって進之丞でないし、お前が知る鬼であって鬼でないんよ」
「何、わけのわからんこと言うとるんね。そがぁな言葉でおらを騙くらかそ思ても無駄やけんな」
 千鶴は次の攻撃のために包丁を身構えた。
 お不動さま――目を閉じた進之丞はつぶやきながら涙を流した。すると、鬼の姿をしていた進之丞が元の人間の姿に戻った。
 千鶴は一瞬うろたえたが、すぐに進之丞をにらみつけた。
「そがぁな姿に戻ったとこで、もう騙されんけんな」
 進之丞は目を開けると、千鶴を見つめながら言った。
「千鶴、これまでのこと、まことにすまなんだ。詫びて許されるもんでもないが、今のあしには詫びることしかできん」
 進之丞は地面に両膝を突くと、千鶴に向かって土下座をした。思いがけない進之丞の行動に、千鶴は深く動揺した。
「やめろ! そがぁなことやめて、おらと戦え!」
「そがぁなことできん。あしがここにおるんは、こがぁしてお前に詫びるためぞな」
「おらに詫びる?」
「なしてお不動さまがあしとお前を引き合わせんさったんか、あしはわかったんじゃ。全ては因果応報。己がしたことが己に戻って来るいうことを、お不動さまはあしに示しんさったんじゃ。やけん、あしがお前に憎まれようと殺されようと、ほれが己のしたことの報いであり、あしはほれを受けねばならん」
「立て! 立って、おらに向かって来んね!」
 地面にひれ伏したまま動かない進之丞を、千鶴は蹴飛ばし拳で叩いた。それでも進之丞が動かないので、千鶴は進之丞の髪をつかんで引っ張り、顔を上げさせようとした。
 すると、進之丞はがばっと立ち上がり、千鶴を強く抱きしめた。
「千鶴……、あしの千鶴……」
「やめろ! 離せ、離せ!」
「この二年、あしはまっこと幸せじゃった……。ありがとう……」
 進之丞の涙が千鶴の頬に流れ落ちた。
 千鶴は忘れていた温もりに包まれていた。遙か昔から慣れ親しんだ温もりが、千鶴の心を満たして行く。
 進之丞は千鶴から離れると、胸を開き両手を広げた。
「千鶴、お別れぞな。ここをようにねろて刺すがええ。心の臓はここにある」
 進之丞は右手を自分の胸に当てた。千鶴の頭に自ら心臓をつかみ出した鬼の姿が浮かんだ。
 千鶴は頭を押さえ困惑にうめいた。
「これまでの数々のわざわいは、全てこのあしが引き寄せたのであろう。あしが消えれば、お前から禍はなくなるはずじゃ。やが、消えさる前に再びお前の記憶を封印し、お前を旦那さんの元へ届けてやろわいな。ほれが、最後にあしがお前にしてやれることぞな」
 さぁ、やれ!――進之丞に促された千鶴は包丁を両手で持つと、叫びながら進之丞に突進した。
 千鶴の体が進之丞の胸にぶつかり、進之丞はよろめいた。だが、倒れずに踏みとどまり、優しく千鶴の肩を抱いた。進之丞の腕の下で、千鶴は下を向いたまま体を震わせている。
 静寂に包まれた内曲輪の中で、月の光に照らされた二人の姿は動かない。
 やがて進之丞が静かに千鶴に声をかけた。
「何故、刺さん? あしが憎いんやないんか?」
 ぽとりと包丁が千鶴の足下に落ちた。
「でけん……、おらには、でけん……」
 千鶴は泣きながら叫んだ。
「おら、お前が憎い……。おらから何もかも奪った、お前が憎い。けんど……、けんど、おら……、お前が好きじゃ」
 千鶴?――戸惑う進之丞に、千鶴は顔を上げて言った。
「この二年、おらも幸せじゃった……。お前は進さんとして、おらのねきにおってくれたし、みんなの力にもなってくれた……。がんごとしてもいろんなとこでおらを助けてくれた……。いっつもかっつもお前はおらの幸せぎり考えてくれよった……。おら、お前が憎いけんど……、お前が好きじゃ……」
「千鶴……」
「そもそも悪いんはおらなんじゃ。おらさえおらんかったら、がんごも悪さなんぞせんで済んだんじゃ。おらさえおらんかったら……、おらさえおらんかったら進さんかて……」
 自分の両手を見つめた千鶴は、頭を抱えてしゃがみ込み、大声で喚きながら己を罵った。
「おらが進さんを殺めたんじゃ! おらが進さんを殺めた! ほれやのに、今もまた進さんのこと、殺めよとしてしもた! 死んだらええんは、おらなんじゃ! おらが死んだらよかったんじゃ!」
 千鶴は包丁を拾うと、自分の喉を突こうとした。
 すんでの所で千鶴の腕を押さえた進之丞は、包丁を取り上げて本壇の外へ投げ捨てた。
 千鶴を強く抱きしめた進之丞は叫ぶように言った。
「お前はわるない! 悪いんはこのあしじゃ! あしが現れたばっかしに、こがぁにお前を苦しめてしもた。何もかも、あしが悪かったんじゃ!」
 千鶴と抱き合いながら泣いていた進之丞は、やがて千鶴に顔を上げさせて言った。
「千鶴。もう、おしまいにしよわい。全てを忘れるんぞな。前世のことも、今世であしと出会でおたことも」
 進之丞は千鶴の額に指を当てた。
 辺りは暗闇に包まれ、千鶴は何も見えなくなった。