月夜の城
一
昨日銀行に差し押さえられたばかりの山﨑機織の前に、千鶴と井上教諭は立っていた。千鶴は胸に小さな風呂敷包みを抱いている。
店の入り口には差し押さえの紙が貼られている。その紙の上に、教諭はもう一枚の紙を貼りつけた。
誘われ 白鶴来る 月の城
貼られた紙には、この俳句が書かれてあった。月明かりでは見えにくいが、夜目が利く鬼であれば読めるだろうという想定だ。
「まだ俳句はうまくできないけど、これで君がどこにいるのか、彼だったらわかるだろう。夜のお城は人目につかないからね」
井上教諭は空を見上げた。東にきれいな満月が浮かんでいる。
しばらく月を眺めていた教諭は、名残惜しそうに千鶴に顔を戻すと、じゃあ、行こうか――と言った。
通りを歩く者は、ほとんどいない。それでも少しでも人影を見つけると、教諭は千鶴と物陰に隠れた。
札ノ辻へ出ると、教諭は千鶴の手を引きながら師範学校の前へと急いだ。すると師範学校の脇から電車が現れたので、驚いた教諭は千鶴を抱きかかえながら走った。
札ノ辻停車場で止まった電車から降りて来る者はいなかった。電車には乗客が数名いたが、誰も千鶴たちの方は見ていない。
「見られなかったみたいだな。よかった」
井上教諭は額を手でこすると、音を立てないようにしながら歩き始めた。
ここは城山の西で三ノ丸を囲んだお堀の北側になる。三ノ丸の中は松山歩兵第二十二連隊の駐屯地で、ここには北門がある。閉められた門の向こうには衛兵がいると思われた。
教諭は千鶴に声を出さないよう注意してから、足早に北門の前を通り過ぎて師範学校の東側へ廻った。
この道は今治街道で、師範学校と道を挟んだ城山の西の麓には、南北に二つの小学校が並んでいる。北側にあるのが第二尋常小学校で、南側にあるのが師範学校の附属小学校だ。
この二つの小学校の間を入ると、ここにも登城道がある。井上教諭は千鶴をその道へ誘った。
月明かりはあっても、登城道は山の西側にある上、木々が鬱蒼と茂っていて真っ暗だった。
井上教諭は真っ暗な登城道を見上げながら、独り言のようにつぶやいた。
「あの人の言うとおりだったな。提灯を持って来てよかったよ」
家を出る時、満月で明るかったので、井上教諭は提灯を持たずに出ようとした。それを女に注意されたのである。
登城道の入り口で、井上教諭は手に提げて来た提灯を千鶴に持たせると、中のろうそくにマッチで火を灯した。だが、手が震えてなかなか灯せない。何度も失敗して、教諭はようやく提灯に火を灯すことができた。
提灯は一つしかないので、教諭は千鶴と肩を寄せ合うようにしながら登城道を登った。
提灯の明かりは足下近くを照らすだけなので、道の先の方は見えないし、周囲の様子もよくわからない。山道なので歩きにくい上に二人で一緒に歩くので、一歩一歩確かめながら進むような歩き方になる。
時折、風が木々の枝をざわめかせると、井上教諭は竦んだように立ち止まり、何かが潜んでいるのではないかと辺りを見回した。
だが千鶴は平気で立っていた。頭にあるのは鬼を殺すことだけだった。
二
長く暗い道を登りきると、ぬっと怪物のような櫓が現れた。高い石垣の上にある乾櫓だ。
井上教諭は鬼が現れたと思って叫び声を上げたが、すぐに櫓だと気がつき、恥じ入ったように千鶴を見た。しかし千鶴は櫓にも動じないし、教諭の驚きにも反応を示さない。
井上教諭は安堵した様子で、改めて櫓を見上げた。道はその櫓の手前で左右に分かれている。
「えっと、どっちへ行くんだっけかな?」
城の道を知らない井上教諭は、左右の道を見比べた。
右手の道は月明かりに照らされているが、左手の道は月明かりが届かず真っ暗だ。それで教諭は右手の道を選んだ。
乾櫓の石垣を右へ回り込むと、道は上り坂になっていて、前方に月明かりに照らされた乾門が見えた。教諭はほっとしたように千鶴を見た。だが千鶴は門を目にしても、何とも感じなかった。
紙屋町を出た時には東の空に見えていた月が、かなり上の方にまで昇っている。月を見上げた教諭は、急がないと――と言いながら乾門へ向かった。
乾門は閉まっていたが、教諭が両手で押すと、門は音を軋ませながら開いた。閂がされていなかったようだ。
乾門をくぐると、右手の坂を登るようになっている。その坂の上が本丸だ。坂道を登って本丸へ足を踏み入れると、来る者を阻むような本壇が、月の光を浴びながら目の前にそびえていた。
本丸は天守閣が置かれた城の中枢だが、本壇は天守閣を護るために、本丸の中にさらに築かれた砦である。高い石垣の上に天守閣を防御する櫓が並び、近づく者をにらんでいるようだ。
千鶴たちが見上げているのは本壇の西側で、左の角に北隅櫓、右の角に南隅櫓、両者の間に通路を兼ねた、十間廊下と呼ばれる長い多聞櫓が連なっている。
井上教諭は南隅櫓の石垣を廻り込んだ。本壇の入り口がどこにあるかは、女から聞かされている。すると、別の多聞櫓に連なった小天守が現れた。小天守も櫓の一種だが、本壇入り口を護るために他の櫓よりも一段高く造られている。
小天守の脇には、本壇正面に出る紫竹門がある。だが何故かこの門も開けられていた。閂がされていないどころか、閉め忘れたかのように大きく開いている。
紫竹門をくぐって小天守右脇の本壇入り口へ向かうと、目の前に見上げるような大天守がそびえていた。迫力のある光景に、教諭はしばしの間立ち止まって、月明かりに照らされた大天守を眺めていた。その横で、千鶴は黙ったまま立っている。
自分がやるべきことを思い出したのか、教諭はあきらめたように大天守から右手に顔を向けた。そこには本壇の入り口である一ノ門が、大きな口を開けている。まるで千鶴たちを中へ招き入れようとしているようだ。
普段の城の門の状態を知らない教諭は、特にそのことを妙だとは思っていないらしい。乾門が閉まっていたので、他の門は開けたままなのかと、受け止めているのかもしれなかった。教諭は別に気に留める様子もなく、千鶴を誘いながら一ノ門をくぐった。
門の向こうはすぐに階段になっている。周囲は櫓で固められており、本壇に侵入しようとする者には、四方から容赦のない攻撃が加えられるのだろう。
階段を突き当たると、さらに左手に急な階段があり、その先にまた門がある。二ノ門だ。やはり二ノ門も開かれている。
この階段は急なので、教諭は千鶴の手を取って階段を登るのを助けた。そうして二ノ門をくぐると、二人は広い庭に出た。
そこは外曲輪と呼ばれる所で、三層に造られた大天守が、左手の高い石垣の上にずっしりと腰を据えている。
右手から正面にかけては、小窓がいくつも並んだ土塀が、外曲輪を囲んでいる。その小窓から銃で下にいる敵を狙うのだろう。
その土塀に沿って何本かの樹木が植えられているが、その奥の端に櫓が一つ見える。
千鶴たちは大天守を回り込むようにしながら外曲輪を歩いた。
井上教諭は松山城をよく知らないようで、大天守の入り口を探していたが、外曲輪に面した部分には入り口はなかった。
外曲輪の奥にある櫓は天神櫓と呼ばれている。ここは本壇の鬼門になるので、城を治めていた久松松平家の祖先である菅原道真が祀られているが、それが櫓の名前の由来だ。
井上教諭は天神櫓の前から振り返って外曲輪全体を眺めた。教諭が立っているのは、ちょうど大天守の石垣の角の辺りだ。
今入って来た二ノ門を見ると、その右隣に並ぶように、大天守の石垣脇にもう一つの門が見える。三ノ門だ。
開かれた三ノ門の向こうには石垣が見える。そこは大天守の石垣のもう一方の角の部分で、石垣の角を廻って大天守の向こう側へ向かう通路があるらしい。
右に目を遣ると、こちらの大天守の石垣脇にも開かれた門があった。仕切門と呼ばれている門だ。
教諭は千鶴を誘いながら仕切門をくぐった。そこは、やはり小窓が並ぶ土塀に囲まれた狭い空間で、大天守の石垣の角を囲むように造られている。
この石垣の角を曲がろうとすると、そこにも門があった。この門は内門と呼ばれ、上には通路を兼ねた櫓がある。仕切門をくぐって来た者は、ここで狙い撃ちにされるのだ。
開かれた内門の向こうには、四角い内庭があった。仕切門の向こうが外曲輪と呼ばれるのに対し、こちらは内曲輪と呼ばれている。
中に入って周囲をぐるりと見渡すと、内曲輪の四つの角を、北隅櫓と南隅櫓、それに小天守と大天守が占めているのがわかる。
大天守の左側に内門があるが、右側にも門がある。それは筋鉄門と呼ばれる門で、外曲輪から三ノ門をくぐって入って来ると、この門の下を通ることになるようだ。
内門同様に、筋鉄門の上にも櫓がある。三ノ門からの侵入を防ぐと同時に、小天守と大天守を連絡する役割があるようだ。
四隅の建造物は、いずれも通路を兼ねた多聞櫓で結ばれている。千鶴たちがくぐって来た内門の上にある櫓は、北隅櫓と大天守をつなぐ通路の一部になっている。
これらの櫓は外の敵を攻撃するだけでなく、内曲輪へ侵入した者を四方八方から攻撃するのだろう。
今の千鶴たちは、まさに侵入者である。井上教諭は自分が狙われているような気分でいるのか、両腕で自らの体を抱くようにしながら、周囲の櫓を不安げに見回している。
そうするうちに教諭は、長い多聞櫓でつながった二つの櫓の正体に気がついたようだ。今いる所は外の門をくぐって本丸に入った時に、最初に見えた高い石垣の上にあった櫓の裏側だと、教諭は興奮気味に千鶴に説明した
それは自分の不安を隠すためのようでもあったが、教諭の話は千鶴の頭に残らなかった。千鶴が考えているのは、もう間もなく始まる鬼との対決のことだけだった。
内門のすぐ脇にある大天守の石垣には、真四角に切り取られたような窪みがあり、鉄の扉でふさがれている。
井上教諭はそこが大天守への入り口だと思ったようだ。しかし、その鉄の扉は押せども引けども動かない。大天守の入り口に隠れようと思っていた教諭は、あきらめて後ろを振り返った。
内門の左手には唐破風の屋根がある構造物がある。北隅櫓のすぐ手前だ。
それは北隅櫓から大天守へつながる通路の入り口のようで、その立派な造りから見ると、ここが大天守への入り口かなと井上教諭は言った。
事実、そこは天守玄関と呼ばれる大天守への入り口であり、高い位置にある廊下へ上がるための階段がついている。
この廊下への入り口は扉が閉められていて、これは押しても開かなかった。だが、天守玄関の屋根が前に突き出ているので、暗い階段の上まで登れば内曲輪からは見えにくい。教諭はここへ隠れることにした。
天守玄関から出て来た井上教諭は、改めて内曲輪の構造を見回しながら、面白い構造だと感心した。
井上教諭はここへ来た目的を忘れたかのように、千鶴を内曲輪で待たせると、筋鉄門から外曲輪へ出て行った。
外曲輪をぐるっと廻った教諭は、少ししてから内門から戻って来た。井上教諭は少年のように興奮した様子で、何度もなるほどとうなずいていたが、千鶴の前に戻ると現実に引き戻されたらしい。
教諭は悲しそうな顔で、大天守を見上げながら言った。
「こうして自分の興味に惹かれていると、他のことなんかどうでもいいような気になってしまうよ」
後悔しているかのように、教諭は内曲輪の中を行ったり来たりした。そんな教諭の気持ちを思いやることもなく、千鶴は憎い鬼を殺すことだけを考えていた。
だが、千鶴の想いは本当は憎しみだけではない。憎しみの下に隠れて、進之丞を救うという気持ちがあり、そのさらに下には、進之丞を殺して鬼にしてしまった悲しみと悔恨、そして進之丞へ詫びる想いがあった。
とうとう教諭は迷いを吐露するように千鶴に話しかけた。
「山﨑さん、僕が君の力になりたいというのは本当の気持ちだよ。だけど君に鬼を殺させるなんて、やっぱりできないよ」
「おら、鬼を殺して進さんを救うぞな」
千鶴はぼんやりした頭で、教諭の顔も見ずに言った。それは教諭が暗示をかけて千鶴に思い込ませた言葉だ。
教諭は悔やんだように唇を噛み、人形みたいな千鶴に自分の気持ちを訴えた。
「いくら君が鬼だって言ったって、僕が知っている進之丞くんは人間なんだ。そこら辺にいる連中より、彼の方が余程人間らしいよ。その彼が鬼になって僕を殺すだなんて、やっぱり僕には信じられない。その上、彼を君に殺させるだなんて……」
千鶴は黙っている。いらだったように辺りを歩き回ったあと、井上教諭は千鶴の催眠を解こうとした。しかし千鶴に声をかけたところで、教諭は項垂れて下を向いた。
「僕は弱虫なんだ。君のためって言いながら、本当は死ぬのが怖いんだよ。だけど、今からすることも怖いし、鬼になるなんてとんでもないって感じさ。と言ったところで、今の君には何もわからないか」
教諭は無反応の千鶴を見てため息をついた。
「僕を頼ってくれた君をこんな風にしてしまうだなんて……。いったい僕は何をやってるんだろう。何でこんなことになってしまったんだ」
井上教諭は両手で頭を抱え、今の自分を悔やんでいる。それでも千鶴はぼーっと教諭を見つめるばかりだった。そんな千鶴を見ながら苦笑した教諭は、また悲しげに項垂れて独りつぶやいた。
「今の僕に正義はあるのかな……。これが本当に君のためになるのか、僕にはわからないよ……。いや、そうじゃない。これが君のためになるはずがない。これが正義なわけがあるもんか。だって、君はあんなに彼を救おうとしてたんだ。その彼の命を君の手で奪わせるだなんて、そんなの正義なんかじゃないよ」
教諭は月明かりに照らされた大天守を見上げて言った。
「僕は君を助けたい。それが一番想ってることなんだ。僕は妹を死なせてしまった。花街の娘さんも助けてあげられなかった。だから君だけは助けたいと思ってる。でも、君は本当に鬼に誑かされているのかな? もし、そうじゃないのだとしたら……」
千鶴は何も応えない。教諭はあきらめたように言った。
「今更だな。あの人が言ったように、君の本当の結婚相手はあのロシア人の青年なんだ。進之丞くんの事情はわかるけど、君の本来の道を取り戻すんだ。それに、もうやるしかない。やらなければ君には絶望しかないし、僕は死ぬだけだ。だって、僕は君にかけられた封印を解いて、絶対君に見せてはならないものを見せてしまったからね」
井上教諭はいらだったようにそわそわし始めた。やはり恐ろしいのだろう。煙草を探して懐に手をやったが、煙草は持って来なかったらしい。
あきらめたように手を下ろした教諭は、怯えた様子で辺りを見回すと、そろそろ始めようか――と言って提灯の火を消した。
三
千鶴は南隅櫓のすぐ傍に立った。そこであれば天守玄関に隠れている教諭から見えやすい。それに外曲輪とつながる内門と筋鉄門の双方を同時に見ることができるので、鬼がどちらから現れてもすぐにわかる。
内曲輪は満月の光に照らされて、提灯がなくともよく見える。しかし千鶴がいる櫓の脇は影になっているので、外曲輪から中をのぞいても、千鶴の居場所はよくわからないはずだった。
千鶴は二つの門を見比べながら待った。だが、鬼はなかなか現れない。
しばらく待っていると、不意に頭の上から千鶴を呼ぶ声がした。後ろを振り向いて見上げると、十間廊下の屋根の上に進之丞が立っていた。
進之丞は千鶴の傍へ飛び降りると、辺りを警戒しながら、一人だけかと千鶴に問うた。しかし千鶴は返事をしなかった。
進之丞は黙ったままの千鶴に紙を見せた。
「これを書いた奴はおらんのか?」
月明かりに照らされた紙には、何か文字が書かれている。よく見えないが、それは井上教諭が山﨑機織の入り口に貼りつけた紙に違いなかった。だが、そんなことは千鶴にはどうでもよかった。
千鶴は抱いていた風呂敷から包丁を取り出すと、いきなり進之丞の首を切りつけた。驚いた進之丞は反射的に後ろへ飛びのいた。
「何をするんぞ?」
進之丞の顔が険しくなった。
鬼め!――千鶴は包丁を構えながら進之丞をにらみつけた。
「よくもおらのかっかを殺し、進さんのおとっつぁんと和尚さまを殺し、おらに……、おらに進さんを殺めさせたな!」
「何? 千鶴、お前、ほれをどこで?」
驚きうろたえる進之丞に、千鶴は再び切りつけた。しかし進之丞がぎりぎりで躱すので、刃は進之丞に届かない。
「何が千鶴じゃ! おらと進さんの夢を台無しにした上に、進さんを喰らいよって! 進さんを返せ! おらの進さんを返せ!」
「此奴か! これを書いた奴がお前の記憶の封印を解いたんじゃな!」
井上教諭が書いた俳句の紙を進之丞は握り潰した。怒りに顔をゆがませた進之丞の額に角が生え、口からは牙が顔をのぞかせた。その姿を見て、千鶴はさらに興奮した。
「本性を現しおったな、この鬼め。さぁ、進さんを返せ! おらに進さんを返せ!」
怒りを露わにした進之丞だったが、喚く千鶴を見るうちに、その恐ろしげな鬼の顔が泣きそうになった。
進之丞は鬼の声で悲しげに言った。
「千鶴、今のお前に何を言うても、言い訳にしか聞こえまい。されど、あしは鬼であると同時に、進之丞でもあるんぞな。もはや二つが袂を分かつなんぞできんのよ」
「嘘じゃ! 先生はおらに言いんさった。お前を殺せば進さんを取り戻せると、先生はそがぁ言いんさったぞな!」
先生?――進之丞は目を見開いた。
「先生いうんは、あの庚申庵に移っておいでたという、あの先生か?」
「ほうじゃ! 先生は何でも知っておいでる偉いお人じゃ。おらのために力を貸してくんさった偉いお人ぞな!」
「その先生がお前に、鬼を殺したら進之丞が戻ると、こがぁ言うたんか?」
「ほうじゃ!」
進之丞は一瞬怒ったように牙を剥いた。だが、すぐに悲しげな顔になって千鶴を見つめた。
「千鶴、お前の先生は間違とらい。鬼を殺したら進之丞も死ぬるぞな」
「そげな嘘言うても、おら、騙されんぞ!」
千鶴に進之丞の言葉は届かない。千鶴が振り回す包丁を避けながら、因果応報とはこのことか――と進之丞は肩を落とした。だがすぐに顔を上げると、千鶴に話しかけた。
「千鶴、お前の言うとおり、あしは鬼ぞな。進之丞の心を持つ鬼ぞな。前世でお前に如何にひどいことをしたんか、あしは今でも覚えとる。お前の母上をこの手にかけたのも、我が父を八つ裂きにしたのも、慈命和尚を絶望に追いやって殺したのも、すべて鬼であるこのあしがしたことぞな」
「やっと、己がしたことを認めたか!」
にらみつける千鶴に、進之丞は懺悔を続けた。
「あしは他にも多くの人を殺め、数多の罪を犯して来た。それらの一つ一つを思い出すたびに、あしは胸が張り裂けそうになる。お前を想えば想うほどに、かつては平気であったことが耐えられんようになってしもた」
「進さんでもないくせに、ようもぬけぬけとそがぁなことが言えるもんじゃな」
「ほうよ。あしはお前が知る進之丞やない。やが、お前が知る鬼でもない。己が進之丞なんか鬼なんか、ほれはあしにもわからん。あしに言えるんは、あしは進之丞でもあり鬼でもあるいうことぞな。進之丞の想いは鬼のものとなり、鬼の想いは進之丞のものとなった。やけん、あしは進之丞であって進之丞でなく、お前が知る鬼であって鬼でないんよ」
「何、わけのわからんこと言うとるんね。そがぁな言葉でおらを騙くらかそ思ても無駄やけんな」
千鶴は次の攻撃のために包丁を身構えた。
お不動さま――目を閉じた進之丞はつぶやきながら涙を流した。すると、鬼の姿をしていた進之丞が元の人間の姿に戻った。
千鶴は一瞬うろたえたが、すぐに進之丞をにらみつけた。
「そがぁな姿に戻ったとこで、もう騙されんけん」
進之丞は目を開けると、千鶴を見つめながら言った。
「お前に許してもらえたと勝手に思いよった、あしが愚かじゃった。真を知った今のお前の想いこそ、お前の本音であろう。やが、お前が怒るのは当然。すべては己がしたことへの報いぞな」
進之丞は地面に両膝を突くと、千鶴に向かって土下座をした。
「千鶴、これまでのこと、まことにすまなんだ。詫びて許されるもんでもないが、今のあしには詫びることしかできん」
思いがけない進之丞の行動に、千鶴は深く動揺した。
「やめろ! そがぁなことはやめて、おらと戦え!」
「ほんなことはできん。あしがここにおるんは、こがぁしてお前に詫びるためぞな」
「おらに詫びるため?」
「なしてお不動さまがあしとお前を引き合わせんさったんか、あしはわかった。全ては因果応報。己がしたことが己に戻んて来るいうことを、お不動さまはあしに示しんさったんじゃ。お前に憎まれようと殺されようと、ほれは己がしたことの報いぞな。やけん、お前の好きなようにしてくれ。あしはお前の望むとおりになろわい」
「ごちゃごちゃ言わんで、立っておらに向かって来んね!」
鬼を殺すつもりだったのに、相手は進之丞の姿のまま地面にひれ伏して動かない。それは千鶴にとって鬼ではなかった。それでも進之丞を救うためには、鬼を殺さねばならない。
どうしていいかわからなくなった千鶴は、進之丞を蹴飛ばし拳で叩いた。それでも進之丞が動かないので、千鶴は進之丞の髪をつかんで、頭を引っ張り上げた。
進之丞は泣いていた。声を出さずに、涙をぼろぼろこぼして泣いていた。
千鶴がうろたえて髪をつかんだ手を離すと、進之丞は立ち上がって千鶴を強く抱きしめた。
「千鶴……、あしが悪かった……。前世ばかりか今世でも、お前をこがぁな目に遭わせてしもた……。鬼の分際で余計なことを願た、あしが悪かった……」
「やめろ! 離せ、離せ!」
千鶴は包丁を持ったまま藻掻いたが、進之丞に抱かれているので身動きができない。
「鬼のくせに己の分をわきまえず、お前の前に姿を見せたあしが愚かじゃった……。いずれお前を苦しめるのはわかっておったはずじゃったのに……。お前の傍におりたいという想いを、あしは抑えることができなんだ……」
「何を言うとるんね。おらから離れろ!」
「ほれでもこの二年、お前と一緒におることができて、あしはまっこと幸せじゃった……。千鶴、今までありがとう……」
進之丞の涙が千鶴の頬を濡らした。
千鶴は忘れていた温もりに包まれていた。遙か昔から慣れ親しんだ温もりが、千鶴の心に染み渡って行く。
進之丞は千鶴から離れると、胸を開き両手を広げた。
「千鶴、お別れぞな。ここをように狙て刺すがええ。心の臓はここにある」
進之丞は右手を自分の胸に当てた。千鶴の頭に自ら心臓をつかみ出した鬼の姿が浮かんだ。千鶴は頭を押さえ困惑に呻いた。
「これまでの禍は、すべてこのあしが引き寄せたのであろうな。さればあしが消えれば、お前から禍はなくなろう。さすれば、あとはお不動さまがお前をお導きくんさろう。やが、消えさる前に今一度お前の記憶を封印し、お前を旦那さんの元へ届けてやろわいな。ほれが、最後にあしがお前にしてやれることぞな」
海の中に立ち、じっと千鶴を見つめながら遠ざかる鬼の姿が見える。
「進さん……、進さん……」
涙ぐんでつぶやく千鶴を、さぁ、やれ!――と進之丞が促した。顔を上げた千鶴の前に進之丞がいる。しかし、それは進之丞を喰らい、進之丞の姿を借りた鬼なのだ。
千鶴は包丁を両手に持ち直すと、大声で叫びながら進之丞に突進した。
千鶴の体が進之丞の胸にぶつかり、進之丞はよろめいた。だが、倒れずに踏みとどまり、そっと千鶴の肩を抱いた。進之丞の腕の下で、千鶴は下を向いたまま体を震わせている。
静寂に包まれた内曲輪の中で、月の光に照らされた二人の姿は動かない。
やがて進之丞が静かに千鶴に声をかけた。
「なして刺さん? あしが憎いんやないんか?」
ぽとりと包丁が千鶴の足下に落ちた。
「でけん……、おらには、でけん……」
千鶴は進之丞の胸に顔を埋めたまま泣いていた。
「おら、お前が憎い……。おらから何もかも奪った、お前が憎い……。けんど……、けんど、おら……、おら……、お前が好きじゃ」
千鶴?――戸惑う進之丞に、千鶴は涙に濡れた顔を上げた。
「この二年、おらも幸せじゃった……。お前は進さんとして、おらの傍におってくれたし、みんなの力にもなってくれた……。鬼としてもいろんな所でおらを助けてくれた……。いっつもかっつも、お前はおらの幸せぎり考えてくれよった……。おら、お前が憎いけんど……、お前が好きじゃ……」
「千鶴……」
千鶴は進之丞から離れると、泣きながらつぶやいた。
「そもそも悪いんはおらなんじゃ。おらさえおらんかったら、鬼も悪さなんぞせんで済んだんじゃ。おらさえおらんかったら……、おらさえおらんかったら進さんかて……」
自分の両手を見つめた千鶴は、頭を抱えてしゃがみ込み、大声で喚きながら己を罵った。
「おらが進さんを殺めたんじゃ! おらが進さんを殺めた! ほれやのに、今もまた進さんのこと殺めよとしてしもた! 死んだらええんは、おらなんじゃ! おらが死んだらよかったんじゃ!」
千鶴は包丁を拾うと、自分の喉を突こうとした。
すんでの所で千鶴の腕を押さえた進之丞は、包丁を取り上げて本壇の外へ投げ捨てた。
千鶴を強く抱きしめた進之丞は叫ぶように言った。
「お前は悪ない! 悪いんはこのあしぞ! あしが現れたばっかしに、こがぁにお前を苦しめてしもた。何もかも、お前に未練を持ったあしが悪かったんぞな!」
千鶴と抱き合いながら泣いていた進之丞は、やがて千鶴に顔を上げさせて言った。
「千鶴……。もう、おしまいにしよわい……。全部忘れるんぞな……。前世のことも、今世であしと出逢たことも……」
「嫌じゃ……、ほんなん嫌じゃ……」
進之丞は首を振る千鶴の頭を押さえると、額に指を当てた。
「千鶴、幸せになるんぞ」
千鶴の目から涙があふれ、進之丞の頬を涙が伝い落ちた。
次の瞬間、すべてが闇に呑み込まれ、進之丞も千鶴も闇に消えた。
四
進之丞が千鶴の記憶を消そうとした刹那、闇の中を誰かが走って来る音が聞こえた。
千鶴は進之丞に抱き上げられ、どさりと何かが落ちる音がした。
雲に隠れていた月が再び顔を出し、辺りに光が差し込んだ。見ると、天守玄関の前に井上教諭が倒れていた。教諭の脇には小刀が落ちている。
「貴様か! 貴様が千鶴の封印を解いたんか!」
怒鳴る進之丞の顔は、再び鬼の顔になって行く。
「千鶴を傷つけまいと封印したのに、ほれを貴様が暴いたんか!」
進之丞は体がみるみる膨れ上がり、着ていた着物が破れ落ちそうになった。
「いけん!」
進之丞に抱かれながら千鶴が叫んだ。
「いけん、進さん。いけんよ! もう鬼の姿にはならんて約束したやんか! おらなら大丈夫じゃけん、怒らんで!」
千鶴になだめられ、進之丞の体は膨らみが止まった。
下へ降ろしてもらった千鶴は、倒れている教諭に声をかけた。
「先生、大丈夫ぞな?」
井上教諭は進之丞の蹴りで、左の肋を折られたらしい。そこに手を当てながら、目を閉じて呻いている。
骨が折れていると思われる場所に、千鶴が手を触れると教諭は声を上げて痛がった。千鶴は慌てて手を引っ込めて謝った。
「先生、こがぁな格好で喋るんも何じゃけんど、鬼を殺したとこで進さんは戻んて来んぞなもし。ほんでも、おら、わかったんぞな。おらな、進さんも進さんと一緒になった鬼も、どっちも大切やし、どっちも愛しいんぞなもし」
「千鶴……」
千鶴の後ろで、鬼の顔の進之丞が泣きそうになっている。
顔をゆがめながら見上げる教諭に千鶴は言った。
「確かに、前世で鬼はひどいことをしました。今思い出しても悲しいてたまらんぐらい、鬼はひどいことをしたんです。ほんでも今は鬼は心を入れ替えとります。もうあん時の鬼とは違うんぞなもし。別の鬼になった言うた方がええかもしれんぞな」
「君は本心から……、そう……言ってるのかい?」
井上教諭は喘ぐように言った。
「これはおらの本心ぞなもし。おら、嘘なんぞついとりません。進さんと一つになってから、鬼はいっつもおらを助けてくれたし、おらのために何べんも命を投げ出してくれました。今かてほうじゃ。鬼はおらのために死のうとしてくれたんです。ほやけん、おらん中にあった鬼を憎む気持ちはのうなりました」
「そうなのか……」
「この人は進さんであり、鬼なんです。おらが進さんじゃて思たら進さんじゃし、鬼じゃて思たら鬼なんです。でも、ほれはおらの気持ちの問題で、どっちゃでもええことなんぞなもし」
千鶴は進之丞を振り返りながら話を続けた。
「おら、これからもこの人と一緒に生きて行きます。ほやけん、先生にはいろいろご迷惑かけてしもたけんど、もう、ええんです」
千鶴の話を聞きながら、進之丞は鬼の姿のまま泣いた。
「山﨑さん……、どうやら暗示が解けたようだね……」
井上教諭はつらそうだが、穏やかな声で言った。
「僕は……君が新聞に載っていた……ロシアの人と……結婚するつもりだったって……思ってたんだ……。だから、鬼のことは……君の本心じゃないって……、君は鬼に誑かされてるんだって……思ったんだよ……」
スタニスラフのことを言われて、千鶴は動揺した。慌てて進之丞を振り返り、あの記事は間違いだと教諭に言った。
「あん時、おら、お酒飲んで酔っ払ってしもとったけん、何もわけわからんまま喋りよったんです。おらと進さんは、あれのずっと前から好き合うとったんぞなもし」
「何だ、そうだったのか……。それを、もっと早くに……聞いておくべきだったよ……」
井上教諭は折れた肋を押さえ、苦悶の表情を見せながら、石垣で体を支えるようにして、よろよろと立ち上がった。
「今更こんなことを……言えた義理じゃないけど……、山﨑さん、僕が悪かった……。僕が間違ってたよ……。許してくれ……」
教諭は鬼の姿の進之丞にも顔を向けて言った。
「進之丞くんにもお詫びするよ……。君の命を奪おうとした……僕が浅はかだった……」
あれだけ鬼を怖がっていたはずだが、教諭の声に怯えの響きはない。黙ったまま泣いている進之丞に、教諭は続けて言った。
「僕は……山﨑さんの記憶の封印を……解いてしまった……。だから君に……殺されるって思ったんだ……。山﨑さんのことも……、君に無理に言わされてるって……考えてしまってね……。君がいなくなれば……、僕も助かるし……山﨑さんも救えるって……、そう思ってしまったんだ……」
井上教諭は項垂れると、悔やんだように言った。
「だけど……、僕が間違ってた……。君は鬼の姿をしてるけど……、間違いなく人間だよ……。君を殺そうとした……僕の方こそ……人でなしの……鬼だった……」
「先生……」
千鶴は進之丞を振り返った。
「先生がおらの記憶の封印を解きんさったんは、おらがそがぁして欲しいて、無理にお願いしたけんよ。悪いんは先生やのうて、おらなんよ。ほじゃけん、先生を許してあげて」
千鶴に対して返事はしないまま、進之丞は井上教諭に低い声で静かに言った。
進之丞は低い声で静かに言った。
「お主があしを殺そうとした理由は、ほれぎりやあるまい。まだ他に狙いがあろう?」
「君は……何でもお見通し……なんだね」
井上教諭は苦しそうに言った。
「僕は……鬼になりたかったんだ……。鬼の力が……欲しかったんだよ……。鬼になるのは……怖いけど……、君が死んだら……、鬼の魂が……僕に取り憑いて……鬼になれると……思ったんだ……」
千鶴は井上教諭のそんな気持ちを知らなかった。初めて聞いた話に驚いていたが、進之丞は鬼の姿のまま淡々と話を聞いている。
「なして鬼になりたいと思たんぞ?」
「山﨑さんには……話したけど……、僕には妹がいたんだ……。その妹は……僕の目の前で……ごろつきどもに辱められて……死んでしまった……」
教諭は自分を慕ってくれた花街の娘も、男たちに乱暴されて死んだと話し、弱い娘たちを助けるために、鬼の力が欲しかったと言った。
喋り疲れたのか、井上教諭は話し終わると、石垣にもたれたまま喘ぐような呼吸を続けた。息をするたびに肋が痛むらしく、顔はずっとつらそうなままだ。
教諭の想いに千鶴は涙をこぼしたが、進之丞は教諭を哀れむように、愚かな――と言った。
「お主は進之丞の心が鬼の心をねじ伏せたと考え、己も同しようにできると思たんじゃろうが、事実はさにあらずぞな」
「違うのかい……?」
「あしが進之丞として生きておるのは、進之丞の心が鬼の心に打ち勝った故ではない。鬼の心が進之丞の心を受け入れたぎりぞな」
「それは……どういうこと……?」
興味が頭をもたげた様子の教諭に、進之丞は穏やかに語った。
「鬼とは数え切れぬほどの者らの未練や怒り、悲しみや苦しみが渦巻いたもんよ。進之丞一人の心がどがぁに足掻いたとこで、太刀打ちできるもんやない。進之丞の想いを鬼が無視すれば、ほれまでのこと。進之丞は鬼に喰らわれたぎりで、鬼は鬼のままよ」
「それじゃあ……、どうやって……」
「鬼は千鶴の優しさに触れ、その優しさに憧れた。やが、ほれは鬼の中にも優しさが潜んでおったということよ。ほうでなければ鬼が優しさに惹かれるはずもない。鬼は喰らった進之丞の心を通して、己の中の優しさに気づくことができたんぞな。わかるか?」
「わかるような……気がするよ……」
井上教諭はしんみりとうなずいた。
進之丞は千鶴を振り返って言った。
「お前にも申したであろう。あるいは記憶を取り戻したのなら、見たことを覚えておるかな。進之丞は鬼の心に語りかけ続けた。鬼に心を喰らわれたあともな。そして、ついには鬼の心が進之丞の声に耳を傾けたというわけぞな」
千鶴がうなずくと、進之丞は教諭に顔を戻した。
「鬼は千鶴を喰らえば、千鶴の優しさを我が物にできると思た。されど千鶴の優しさは、千鶴と一つでないからこそ得られるもんぞ。鬼はそがぁなこともわからなんだが、進之丞の心を喰ろうた時に、進之丞の千鶴への想いが、鬼の中にあった対の想いに響いたんよ。その想いこそが、鬼の心の奥底に潜んでおった優しさじゃった」
「鬼はどうして……自分の中に……優しさがあることを……忘れてたんだろう……?」
「鬼はな、何もかんもすべてをあきらめておったんよ。ほれで、怒りであれ悲しみであれ、己ではどがぁもできん想いを、相手構わずぶつけよった。やが、そがぁなことで己が満たされるはずもない。人から余計に嫌われ憎まれ恐れられ、どうせ己なんぞそがぁなもんじゃと思ううち、いつしか人を思いやる気持ちが心の奥底に隠れてしもたんよ」
「それが山﨑さんの……優しさに共鳴し……、進之丞くんの……想いによって……、引き出されたって……わけなのか……」
ほういうことよ――と鬼の進之丞はうなずいた。
「己の優しさを知った鬼は、己が千鶴を愛おしく想いよったことにも気ぃがついた。じゃのに己がして来たこというたら、千鶴を苦しめることぎりじゃった。ほれを思うと、鬼も進之丞もともに悔やみ苦しんだ」
「進さんも苦しむん?」
千鶴が話に交ざって訊ねた。
進之丞と鬼が一つになったことを、千鶴は理解したつもりではいた。それでも、まだ今ひとつぴんと来ないところがあった。
進之丞は千鶴を見て、ほうよ――と言った。
「進之丞と鬼は一つである故、進之丞の苦しみは鬼の苦しみ、鬼の苦しみは進之丞の苦しみとなるんぞな。進之丞自身が犯した罪でのうても、進之丞はほれを己の罪と感じるんよ」
千鶴は心の不思議を感じた。また、一つになった進之丞と鬼は、もはや二つに分かつことはできないのだと思った。
進之丞は井上教諭に顔を戻して言った。
「この苦しみは千鶴に関することぎりやない。ほれより前に犯した罪の深さをも、鬼は知るようになったんぞな。ほれは言うたように進之丞の苦しみでもあるわけよ。ほれが如何につらいことかは、お主には到底理解できまい」
「進さん……」
千鶴はようやく進之丞の本当の苦しみを知った。己が犯した罪を悔いれば悔いるほど、その苦しみは募るのだ。
涙ぐんで進之丞に抱きつく千鶴を抱き返しながら、進之丞は言った。
「こがぁして千鶴とともにおれることぎりが、あしにとってはせめてもの安らぎじゃった。ほれでも、ほれで己の罪が消えるわけやない。また、己の罪に千鶴を巻き込むことへのつらさも、口にはできんほどよ。鬼になるとはな、そがぁなことなんぞ」
井上教諭は肩を落とし、自分がどれだけ浅はかだったかを知ったと言った。
進之丞は鬼のままだが穏やかで、教諭に手を出す様子はない。これで話は丸く収まったと思えたその時、どこからか女の笑い声が聞こえた。
「鬼のくせに、ずいぶんしおらしいことを言うじゃないか。あたしゃ笑い過ぎて涙が出ちまったよ」
声は内門の方から聞こえて来る。千鶴と進之丞が近づくと、誰かが外曲輪へ逃げるのが見えた。
追いかけて仕切門をくぐると、天神櫓の前に花柄の着物を着た女が、背を向けて立っていた。大きく膨らんだ庇髪は二百三高地だ。
吹き始めた風が千鶴の髪を揺らした。西から夜空を呑み込むような真っ黒い雲が近づいている。どうやら間もなく雨になるようだ。