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月夜の城


      一

 昨日銀行に差し押さえられたばかりの山﨑機織やまさききしょくの前に、千鶴ちづ井上いのうえ教諭は立っていた。千鶴は胸に小さな風呂敷包みを抱いている。
 店の入り口には差し押さえの紙が貼られている。その紙の上に、教諭はもう一枚の紙を貼りつけた。

 いざなわれ 白鶴きたる 月の城

 貼られた紙には、この俳句が書かれてあった。月明かりでは見えにくいが、夜目よめが利く鬼であれば読めるだろうという想定だ。
「まだ俳句はうまくできないけど、これで君がどこにいるのか、彼ならわかるはずだ。夜のお城は人目につかないしね」
 井上教諭は空を見上げた。東にきれいな満月が浮かんでいる。
 しばらく月を眺めていた教諭は、ごり惜しそうに千鶴に顔を戻すと、じゃあ、行くとしようか――と言った。
 通りを歩く者はほとんどいないが、まったくいないわけではない。教諭は少しでも人影を見つけると、慌てて千鶴と物陰に隠れた。どうで問題を起こした教諭が、こんな時刻に若い娘と歩いているのを誰かに見られたら、きっととがめられるに違いない。しかし、教諭の頭にあるのは、これから行おうとしていることへの後ろめたさだろう。
 ふだつじへ出ると、教諭は千鶴の手を引きながらすぐ先に見える城山へと急いだ。するとはん学校の脇に電車が現れたので、教諭は千鶴を抱きかかえながら線路の上を走り抜けた。
 教諭が後ろを振り返ると、電車は札ノ辻停車場で止まった。降りて来る者はおらず、中にいる数名の乗客は誰も千鶴たちの方を見ていない。
「見られなかったみたいだな。よかった」
 井上教諭はひたいを手でこすり、右に顔を向けた。そこには月明かりに浮かぶ伊予いよぼうきゅうが静かにたたずんでいる。
 しばしの間、教諭はその美しい建物をじっと眺めていた。じょ師範学校を辞めさせられた自分を受け入れてくれた、新たな職場への想いが込み上げているのだろう。やがてあきらめたように前を向いた教諭は、千鶴に声をかけてとぼとぼと歩き始めた。
 ここは城山の西でさんまるを囲んだお堀の北側になる。三ノ丸の中はまつやまへい第二十二連隊の駐屯地ちゅうとんちで、ここには北門がある。閉められた門の向こうには衛兵えいへいがいると思われた。
 教諭は千鶴に声を出さないよう注意してから、足早に北門の前を通り過ぎて師範学校の東側へまわった。
 この道は今治街道いまばりかいどうで、師範学校と道を挟んだ城山の西のふもとには、南北に二つの小学校が並んでいる。北側にあるのが第二尋常じんじょう小学校で、千鶴が子供の頃に通った小学校だ。そして南側にあるのが師範学校の附属小学校だ。
 この二つの小学校の間を入ると、ここにも登城道とじょうどうがある。教諭は千鶴をその道へいざなった。

「あの人の言うとおりだったな。提灯ちょうちんを持って来てよかったよ」
 井上教諭は登城道を見上げながら、独り言のようにつぶやいた。家を出る時、満月で明るかったので、教諭は提灯を持たずに行こうとした。それを女に注意されたのだ。
 月明かりはあっても、登城道は山の西側にある上、木々が鬱蒼うっそうと茂っていて真っ暗だ。提灯がなければ、この道を歩くのは無理である。
 登城道の入り口で、井上教諭は手にげて来た提灯を千鶴に持たせると、中のろうそくにマッチで火を灯した。しかし、手が震えてなかなか灯せない。何度も失敗して、教諭はようやく提灯に火を灯せた。
 一つしかない提灯を手に持ち、教諭は千鶴と肩を寄せ合って登城道を登った。
 提灯の明かりが照らすのは足下近くだけだ。道の先の方は見えないし、周囲の様子もよくわからない。山道なので歩きにくい上に二人で一緒に歩くので、一歩一歩確かめながら進む歩き方になる。
 時折、風が木々の枝をざわめかせると、井上教諭はすくんだように立ち止まり、何かが潜んでいるのではないかと辺りを見まわした。
 だが千鶴は平気で立っていた。頭にあるのは鬼を殺すことだけだ。

      二

 長く暗い道を登りきると、ぬっと怪物みたいなやぐらが現れた。高い石垣の上にある乾櫓いぬいやぐらだ。
 月の光を背景に黒々とそびえ立つ乾櫓を見た井上教諭は、鬼が現れたと思って叫び声を上げた。しかしすぐに櫓だと気がつき、恥じ入ったように千鶴を見た。だが目的以外には関心がない千鶴は、櫓を見ても動じないし、教諭の驚きにも表情を変えなかった。
 井上教諭はあんの笑みを浮かべ、改めて櫓を見上げた。櫓があるのは本丸ほんまるが近いということだ。道はその櫓の手前で左右に分かれている。
「えっと、どっちへ行くんだっけかな?」
 城の道を知らない井上教諭は、左右の道を見比べた。右手の道は月明かりに照らされているが、左手の道は月の光が届かない暗闇だ。
 教諭は右手の道を選んで、乾櫓の石垣を右へ回り込んだ。道は上り坂になっていて、前方の左手に門が見える。乾門いぬいもんだ。教諭はほっとした顔で千鶴を見たが、千鶴は門を目にしても何とも感じなかった。
 紙屋町かみやちょうを出た時には東の空に見えていた月が、かなり上の方にまで昇っている。月を見上げた教諭は、急がないと――と言いながら乾門へ向かった。
 乾門は閉まっていたが、教諭が両手で押すと音をきしませながら開いた。かんぬきがされていなかったらしい。
 乾門をくぐると、右手の坂を登るようになっている。その坂の上が本丸だ。坂道を登って本丸へ足を踏み入れると、来る者をはばむような本壇ほんだんが、月の光を浴びながら目の前にそびえていた。
 本丸は天守閣てんしゅかくが置かれた城の中枢ちゅうすうだが、本壇は天守閣を護るために、本丸の中にさらに築かれたとりでだ。高い石垣の上に天守閣を防御する櫓が並び、近づく者をにらんでいる。
 千鶴たちが見上げているのは本壇の西側で、左の角に北隅櫓きたすみやぐら、右の角に南隅櫓みなみすみやぐら、両者の間に通路を兼ねた、十間じっけんろうと呼ばれる長いもんやぐらが連なっている。
 井上教諭は南隅櫓の石垣をまわり込んだ。本壇の入り口がどこにあるかは、女から聞かされている。すると、南隅櫓と別の多聞櫓で連なった天守てんしゅが現れた。小天守も櫓の一種だが、本壇入り口を護るために他の櫓よりも一段高く造られていて重厚感がある。
 小天守の前には、本壇正面に出るちくもんがある。何故かこの門も開けられているが、閂がされていないどころか、閉め忘れたみたいに大きく開いている。
 紫竹門をくぐって小天守右脇にある本壇入り口へ向かうと、目の前に見上げるような大天守だいてんしゅがそびえていた。迫力のある光景に教諭はしばしの間立ち止まったまま、月明かりに照らされた大天守を眺めていた。その横で、千鶴は黙って立っている。
 自分がやるべきことを思い出したのか、教諭はあきらめたように大天守から顔を背けて右方を見た。そこには本壇の入り口であるいちもんが大きな口を開けて、千鶴たちを中へ招き入れようと待ち構えている。
 普段の城の門の状態を知らない教諭は、この時刻に門が開かれたままなのを妙だとは思っていないらしい。別に気に留める様子もなく、千鶴をいざないながら一ノ門をくぐった。
 門の向こうはすぐに階段になっている。周囲は櫓で固められており、本壇に侵入しようとする者には、四方から容赦のない攻撃が加えられるのだろう。
 階段を突き当たると、さらに左手に階段があり、その先にまた門がある。もんだ。やはり二ノ門も開かれている。
 この階段は急なので、教諭は千鶴の手を取って階段を登るのを助けた。そうして二ノ門をくぐると、二人は広い庭に出た。そこは外曲そとぐると呼ばれる所で、三層に造られた大天守が、左手の高い石垣の上にずっしりと腰をえている。
 右手から正面にかけては、小窓がいくつも並んだべいが外曲輪を囲んでいる。その小窓から銃で下にいる敵を狙うのだ。
 土塀に沿って何本かの樹木が植えられているが、その奥の端に櫓が一つ見える。千鶴たちは大天守を回り込みながら、その櫓に向かって外曲輪を歩いた。
 外曲輪の奥にある櫓は天神櫓てんじんやぐらと呼ばれている。ここは本壇の鬼門になるので、城を治めていたひさまつ松平家まつだいらけの祖先である菅原道真すがわらのみちざねまつられているが、それが櫓の名前の由来だ。
 井上教諭は松山まつやまじょうをよく知らないらしく、大天守の入り口を探していたが、外曲輪に面した部分にはそれらしき所はないようだ。

 天神櫓の前まで来た井上教諭は、後ろを振り返って外曲輪全体を眺めた。教諭が立っているのは、ちょうど大天守の北東の角辺りだ。そこから今入って来た二ノ門を見ると、その右隣に並んで大天守の石垣脇にもう一つの開かれた門が見える。さんもんだ。
 三ノ門の向こうには石垣が見える。そこは大天守の南東の角で、その角を廻って大天守の向こう側へ向かう通路があるようだ。
 右に目をると、こちらの大天守の石垣脇にも開かれた門があった。きりもんと呼ばれている門だ。
 教諭は千鶴をいざないながら仕切門をくぐった。そこは大天守の北西の角を囲むように造られた狭い空間で、やはり小窓が並ぶ土塀に囲まれている。
 この石垣の角を曲がろうとすると、そこにも門があった。この門はうちもんと呼ばれ、上には通路を兼ねた櫓がある。仕切門をくぐって来た者は、ここで狙い撃ちにされるのだ。
 内門も開かれており、その向こうには四角い内庭があった。仕切門の向こうが外曲輪と呼ばれるのに対し、こちらはうちぐると呼ばれている。
 中に入って周囲をぐるりと見渡すと、内曲輪の四つの角を、北隅櫓と南隅櫓、それに小天守と大天守が占めているのがわかる。
 大天守の左側に内門があるが、右側にも門がある。それはすじがねもんと呼ばれる門で、外曲輪から三ノ門をくぐって入って来ると、この門の下を通ることになるようだ。
 内門同様に、筋鉄門の上にも櫓がある。三ノ門からの侵入を防ぐと同時に、小天守と大天守を連絡する役割があるらしい。
 四隅の建造物は、いずれも通路を兼ねた多聞櫓で結ばれている。千鶴たちがくぐって来た内門の上にある櫓は、北隅櫓と大天守をつなぐ通路の一部だ。これらの櫓は外の敵を攻撃するだけでなく、内曲輪へ侵入した者を四方八方から攻撃するのだろう。
 今の千鶴たちは、まさに侵入者である。井上教諭は自分が狙われている気分でいるのか、両腕で自らの体を抱くようにしながら、周囲の櫓を不安げに見まわしている。そうするうちに教諭は、長い多聞櫓でつながった二つの櫓の正体に気がついた。
 今いる所は外の門をくぐって本丸に入った時に、最初に見えた高い石垣の上にあった櫓の裏側だと、教諭は高揚した声で千鶴に説明した。その興奮の裏には不安が隠れているように見えたが、教諭の話は千鶴の頭に残らなかった。千鶴が考えているのは、もう間もなく始まる鬼との対決のことだ。
 内門のすぐ脇にある大天守の石垣には、真四角に切り取られたくぼみがあり、鉄の扉でふさがれている。
 井上教諭はそこが大天守への入り口だと思ったようだ。しかし、その鉄の扉は押せども引けども動かない。大天守の入り口に隠れるつもりだった教諭は、あきらめて後ろを振り返った。
 内門の左手にはから破風はふの屋根がある構造物がある。北隅櫓のすぐ手前だ。そこは北隅櫓から大天守へつながる通路の入り口のようで、その立派な造りから見ると、ここが大天守への入り口かなと井上教諭は言った。
 事実、そこは天守玄関てんしゅげんかんと呼ばれる大天守への入り口であり、高い位置にある廊下へ上がるための階段がついている。
 この廊下への入り口は扉が閉められていて、これは押しても開かなかった。けれど天守玄関の屋根が前に突き出ているので、暗い階段の上まで登れば内曲輪からは見えにくい。教諭はここへ隠れることにした。
 天守玄関から出て来た井上教諭は、改めて内曲輪の構造を見まわしながら、面白い構造だと感心した。
 教諭はここへ来た目的を忘れたかのように、千鶴を内曲輪で待たせると、筋鉄門から外曲輪へ出て行った。それから少しして内門から戻って来ると、教諭は少年みたいに興奮しながら、何度もなるほどとうなずいていた。しかし、千鶴の前まで来ると現実に引き戻されたらしい。悲しそうな顔で大天守を見上げながら、独り言のようにつぶやいた。
「ここにはもっと早く来るべきだったな。せっかく興味深いものに出会えたのに、もう見られないかもしれないなんて」
 後悔しているのか、教諭は内曲輪の中を行ったり来たりした。そんな教諭の気持ちを思いやりもせず、千鶴は憎い鬼のことばかり考えていた。
 だが、千鶴の想いは本当は憎しみだけではない。憎しみの下に隠れて、進之丞しんのじょうを救うという気持ちがあり、そのさらに下には、進之丞を殺して鬼にしてしまった悲しみと悔恨、そして進之丞へびる想いがあった。

 とうとう井上教諭は迷いを吐露とろするように千鶴に話しかけた。
「山﨑さん、僕が君の力になりたいというのは本当の気持ちだよ。だけど君にがんごを殺させるなんて、やっぱりできないよ」
「おら、がんごを殺して進さんを救うぞな」
 千鶴はぼんやりした頭で、教諭の顔も見ずに言った。それは教諭が暗示をかけて千鶴に思い込ませた言葉だ。
 教諭は悔やんだように唇をみ、人形みたいな千鶴に自分の気持ちを訴えた。
「いくら君が鬼だって言ったって、僕が知っている進之丞くんは人間なんだ。前にも言ったけど、そこら辺にいる連中より、彼の方が余程よっぽど人間らしいよ。その彼が鬼になって僕を殺すだなんて、やっぱり僕には信じられない。その上、彼を君に殺させるだなんて……」
 千鶴は黙っている。いらだったように辺りを歩きまわったあと、井上教諭は千鶴の催眠を解こうとした。しかし千鶴に声をかけたところで、教諭はうなれて下を向いた。
「僕は弱虫なんだ。君のためって言いながら、本当は死ぬのが怖いんだよ。だけど、今からすることも怖いし、鬼になるなんてとんでもないって感じさ。と言ったところで、今の君には何もわからないか」
 教諭は無反応の千鶴を見てため息をついた。
「僕を頼ってくれた君をこんな風にしてしまうだなんて……。いったい僕は何をやってるんだろう。何でこんなことになってしまったんだ」
 井上教諭は両手で頭を抱えて悔やんだ。千鶴はぼーっと教諭を見つめるばかりだ。そんな千鶴を見ながら苦笑した教諭は、悲しげにつぶやいた。
「今の僕に正義はあるのかな……。これが本当に君のためになるのか、僕にはわからないよ……。いや、そうじゃない。これが君のためになるはずがない。これが正義なわけがあるもんか。だって、君はあんなに彼を救おうとしてたんだ。その彼の命を君の手で奪わせるだなんて、そんなの正義なんかじゃないよ」
 井上教諭は月明かりに照らされた大天守を見上げて言った。
「僕は君を助けたい。それが一番想ってることなんだ。僕は妹を死なせてしまった。花街の娘さんも助けてあげられなかった。だから君だけは助けたいと思ってる。でも、君は本当に鬼にたぶらかされているのかな? もし、そうじゃないのだとしたら……」
 教諭は千鶴に声をかけた。けれど千鶴は何もこたえない。教諭は迷いながら何かを言おうとした。もう一度千鶴の催眠を解こうと思ったのだろう。だが結局はあきらめて横を向いた。
今更いまさらだな。あの人が言ったように、君の本当の結婚相手はあのロシア人の青年なんだ。進之丞くんの事情はわかるけど、君の本来の道を取り戻すんだ。それに、もうやるしかない。やらなければ君には絶望しかないし、僕は死ぬだけだ。だって……、僕は君にかけられた封印を解いて、絶対君に見せてはならないものを見せてしまったからね」
 井上教諭は落ち着きなくそわそわし始めた。やはり恐ろしいようだ。煙草たばこを探してふところに手をやったが、煙草を持って来るのを忘れたらしい。
 あきらめた教諭はおびえた様子で辺りを見まわすと、そろそろ始めようか――と言って提灯ちょうちんの火を消した。

      三

 千鶴は南隅櫓みなみすみやぐらのすぐそばに立った。そこであれば天守玄関てんしゅげんかんに隠れている教諭から見えやすい。それにそとぐるとつながる内門うちもん筋鉄門すじがねもんの双方を同時に見ることができるので、鬼がどちらから現れてもすぐにわかる。
 またうちぐるは満月の光に照らされて、提灯ちょうちんがなくともよく見える。しかし千鶴がいる櫓の脇は影になっているので、外曲輪から中をのぞいても、千鶴の居場所はよくわからない。ここは鬼を迎え撃つには好都合の場所だ。
 千鶴は二つの門を見比べながら待った。だが鬼はなかなか現れない。
 しばらく待っていると、不意に頭の上から千鶴を呼ぶ声がした。後ろを振り向いて見上げると、じっけんろうの屋根の上に進之丞が立っていた。
 進之丞は千鶴のそばへ飛び降りると、辺りを警戒しながら、一人だけかと千鶴に問うた。けれど千鶴は返事をしなかった。
 進之丞は黙ったままの千鶴に紙を見せた。
「これを書いた奴はおらんのか?」
 月明かりに照らされた紙には、何か文字が書かれている。よく見えないが、それは井上教諭がやまさき機織きしょくの入り口に貼りつけた紙に違いなかった。だが、そんなことは千鶴にはどうでもよかった。
 千鶴は抱いていた風呂敷から包丁を取り出すと、いきなり進之丞の首を切りつけた。驚いた進之丞は反射的に後ろへ飛びのいた。
「何をするんぞ?」
 進之丞の顔が険しくなった。
 がんごめ!――千鶴は包丁を構えながら進之丞をにらみつけた。
「よくもおらのかっかを殺し、しんさんのおとっつぁんと和尚さまを殺し、おらに……、おらに進さんをあやめさせたな!」
「何? 千鶴、おまい、ほれをどこで?」
 驚きうろたえる進之丞に、千鶴は再び切りつけた。しかし進之丞がぎりぎりでかわすので、刃は進之丞に届かない。
「何が千鶴じゃ! おらと進さんの夢を台無しにした上に、進さんをらいよって! 進さんを返せ! おらの進さんを返せ!」
やつか! これを書いた奴がおまいの記憶の封印を解いたんじゃな!」
 井上教諭が書いた俳句の紙を進之丞は握り潰した。怒りに顔をゆがませた進之丞のひたいに角が生え、口からは牙が顔をのぞかせた。その姿を見て、千鶴はさらに興奮した。
「本性を現しおったな、このがんごめ。さぁ、進さんを返せ! おらに進さんを返せ!」
 怒りをあらわにした進之丞だったが、わめく千鶴を見るうちに、その恐ろしげな鬼の顔が泣きそうになった。
 進之丞は鬼の声で悲しげに言った。
「千鶴、今のおまいに何を申しても、言い訳にしか聞こえまい。されど、あしはがんごであると同時に、進之丞でもあるんぞな。もはや二つがたもとを分かつなんぞできんのよ」
うそじゃ! 先生はおらに言いんさった。おまいを殺せば進さんを取り戻せると、先生はそがぁ言いんさったぞな!」
 先生?――進之丞は目を見開いた。
「先生いうんは、あの庚申庵こうしんあんに移っておいでたという、あの先生か?」
「ほうじゃ! 先生は何でも知っておいでる偉いお人じゃ。おらのために力を貸してくんさった偉いお人ぞな!」
「その先生がおまいに、がんごを殺したら進之丞が戻ると、こがぁ申したんか?」
「ほうじゃ!」
 進之丞は一瞬怒りを見せて牙をいたが、すぐに悲しげな顔になって千鶴を見つめた。
「千鶴、おまいの先生はちごとらい。がんごを殺したら進之丞も死ぬるぞな」
「そげな嘘言うても、おら、だまされんぞ!」
 千鶴に進之丞の言葉は届かない。千鶴が振りまわす包丁を避けながら、因果応報とはこのことか――と進之丞は肩を落とした。だがすぐに顔を上げると、千鶴に話しかけた。
「千鶴、おまいの申すとおり、あしはがんごぞな。進之丞の心を持つ鬼ぞな。前世でお前にいかにひどいことをしたんか、あしは今でも覚えとる。お前の母上をこの手にかけたのも、我が父を八つ裂きにしたのも、めい和尚を絶望に追いやり殺したのも、すべて鬼であるこのあしがやったことぞな」
「やっと、己の罪を認めたか!」
 にらみつける千鶴に、進之丞はざんを続けた。
「あしは他にも多くの人を殺め、あまの罪を犯してきた。それらの一つ一つを思い出すたびに、あしは胸が張り裂けそうになる。おまいを想えば想うほどに、かつては平気であったことが耐えられんようになってしもた」
「進さんでもないくせに、ようもぬけぬけとそがぁなことが言えらい」
「ほうよ。あしはおまいが知る進之丞やない。やが、お前が知るがんごでもない。己が進之丞なんか鬼なんか、ほれはあしにもわからん。あしに言えるんは、あしは進之丞でもあり鬼でもあるいうことぞな。進之丞の想いは鬼のものとなり、鬼の想いは進之丞のものとなった。やけん、あしは進之丞であって進之丞でなく、鬼であって鬼でないんよ」
「何、わけのわからんこと言うとるんね。そがぁな言葉でおらを騙くらかそ思ても無駄やけんな」
 千鶴は次の攻撃のために包丁を身構えた。
 お不動さま――目を閉じた進之丞はつぶやきながら涙を流した。すると、進之丞は鬼から元の人間の姿に戻った。
 千鶴は一瞬うろたえたが、すぐに進之丞をにらみつけた。
「そがぁな姿に戻ったとこで、もう騙されんけん」
 進之丞は目を開けると、千鶴を見つめながら言った。
「おまいに許してもらえたと勝手に思いよった、あしが愚かじゃった。まことを知った今のお前の想いこそ、お前の本音であろう。やが、お前が怒るのは当然。すべては己が犯した罪への報いぞな」
 進之丞は地面に両膝を突くと、千鶴に向かって土下座をした。
びて許されるもんでもないが、今のあしには詫びるしかできん……。千鶴、これまでのこと、まことにすまなんだ……。まことに……まことに申し訳ない」
 思いがけない進之丞の行動に、千鶴は深く動揺した。
「やめろ! 立って、おらと戦え!」
「ほんなことはできん。あしがここにおるんは、こがぁしておまいに詫びるためぞな」
「おらに詫びるため?」
「なしてお不動さまがあしとおまいを引き合わせんさったんか、あしはわかった。全ては因果応報。己がやったことが己にんて来るいうことを、お不動さまはあしに示しんさったんじゃ。お前に憎まれようが殺されようが、ほれは己の罪への報いぞな。やけん、お前の好きにするがええ。あしはお前の望むとおりになろわい」
「ごちゃごちゃ言わんで、立っておらに向かってんね!」
 鬼を殺すつもりだったのに、相手は進之丞の姿のまま地面にひれ伏して動かない。それは千鶴にとって鬼ではなかった。しかし進之丞を救うためには、鬼を殺さねばならない。
 どうしていいかわからなくなった千鶴は、進之丞を蹴飛ばしこぶしたたいた。それでも進之丞が動かないので、千鶴は進之丞の髪をつかんで頭を引っ張り上げた。
 進之丞は泣いていた。声を出さずに涙をぼろぼろこぼして泣いていた。
 千鶴は驚きうろたえ、髪をつかんだ手を離した。すると、進之丞は立ち上がって千鶴を強く抱きしめた。
「千鶴……、あしが悪かった……。前世ばかりか今世でも、おまいをこがぁな目にわせてしもた……。がんごの分際で余計なことをねごた、あしが悪かった……」
「やめろ! 離せ、離せ!」
 千鶴は包丁を持ったまま藻掻もがいたが、進之丞に抱かれているので身動きができない。
がんごのくせに己のをわきまえず、おまいの前に姿を見せたあしが愚かじゃった……。いずれお前を苦しめるのはわかっておったのに……。お前のねきにおりたいという想いを、あしは抑えられなんだ……」
「何を言うとるんね。おらから離れろ!」
 進之丞は千鶴を抱いたまま絞るような声で言った。
「ほれでもこの二年、おまいと一緒におることができて、あしはまっこと幸せじゃった……。千鶴、今までありがとう……」
 千鶴は藻掻きながら進之丞の腰に包丁を突き立てようとした。その時、千鶴のほおを進之丞の涙がらした。
 千鶴は忘れていたぬくもりに包まれていた。はるか昔から慣れ親しんだ温もりが、千鶴の心に染み渡っていく。
 進之丞は千鶴から離れると、胸を開き両手を広げた。
「千鶴、お別れぞな。ここをようにねろて刺すがええ。しんぞうはここにある」
 進之丞は右手を自分の胸に当てた。千鶴の頭に自ら心臓をつかみ出した鬼の姿が浮かんだ。千鶴は頭を押さえ困惑にうめいた。
「これまでのわざわいは、すべてこのあしが引き寄せたのであろうな。さればあしが消えれば、おまいから禍はなくなろう。さすれば、あとはお不動さまがお前をお導きくんさるぞな。やが、消えさる前に今一度お前の記憶を封じて、お前をだんさんの元へ届けてやろわいな。ほれが、最後にあしがお前にしてやれることぞな」
 海の中に立ち、じっと千鶴を見つめながら遠ざかる鬼の姿が見える。
「進さん……、進さん……」
 涙ぐんでつぶやく千鶴を、さぁ、やれ!――と進之丞がうながした。
 顔を上げた千鶴の前に進之丞がいる。だけど、それは進之丞を喰らい、進之丞の姿を借りた鬼なのだ。
 千鶴は包丁を両手に持ち直すと、大声で叫びながら進之丞に突進した。
 千鶴の体が進之丞の胸にぶつかり、進之丞はよろめいた。だが倒れずに踏みとどまり、そっと千鶴を抱いた。進之丞の腕の下で、千鶴は下を向いたまま体を震わせている。
 静寂に包まれた内曲輪の中で、月の光に照らされた二人の姿は動かない。
 やがて進之丞が静かに千鶴に声をかけた。
「なして刺さん? あしが憎いんやないんか?」
 ぽとりと包丁が千鶴の足下に落ちた。
「でけん……、おらには、でけん……」
 千鶴は進之丞の胸に顔をうずめたまま泣いていた。
「おら、おまいが憎い……。おらから何もかも奪った、お前が憎い……。けんど……、けんど、おら……、おら……、お前が好きじゃ」
 千鶴?――まどう進之丞に、千鶴は涙にれた顔を上げた。
「この二年、おらも幸せじゃった……。おまいは進さんとして、おらのねきにおってくれたし、みんなの力にもなってくれた……。がんごとしてもいろんなとこでおらを助けてくれた……。いっつもかっつも、お前はおらの幸せぎり考えてくれよった……。おら、お前が憎いけんど……、お前が好きじゃ……」
「千鶴……」
 千鶴は進之丞から離れると、泣きながらつぶやいた。
「そもそも悪いんはおらなんじゃ。おらさえおらんかったら、がんごも悪さなんぞせんで済んだんじゃ。おらさえおらんかったら……、おらさえおらんかったら進さんかて……」
 自分の両手を見つめた千鶴は、頭を抱えてしゃがみ込み、大声でわめきながら己をののしった。
「おらが進さんを殺めたんじゃ! おらが進さんを殺めた! ほれやのに、今もまた進さんのこと殺めよとしてしもた! 死んだらええんは、おらなんじゃ! おらが死んだらよかったんじゃ!」
 千鶴は包丁を拾うと、自分の喉を突こうとした。
 すんでの所で千鶴の腕を押さえた進之丞は、包丁を取り上げて本壇ほんだんの外へ投げ捨てた。
 千鶴を強く抱きしめた進之丞は叫ぶように言った。
「おまいわるない! 悪いんはこのあしぞ! あしが現れたばっかしに、こがぁにお前を苦しめてしもた。何もかも、お前に未練を持ったあしが悪かった!」
 千鶴と抱き合いながら泣いていた進之丞は、やがて千鶴に顔を上げさせて言った。
「千鶴……。もう、おしまいにしよわい……。全部忘れるんぞな……。前世のことも、今世であしと出たことも……」
「嫌じゃ……、ほんなん嫌じゃ……」
 進之丞は首を振る千鶴の頭を押さえると、額に指を当てた。
「千鶴、幸せになるんぞ」
 千鶴の目から涙があふれ、進之丞のほおを涙が伝い落ちた。
 月が雲に隠れた。すべてが闇にみ込まれ、進之丞と千鶴の姿も闇に消えた。

      四

 闇の中を誰かが走って来る音が聞こえた。千鶴は進之丞に抱き上げられ、どさりと何かが落ちる音がした。
 雲に隠れていた月が再び顔を出し、辺りに光が差し込んだ。見ると、てんしゅげんかんの前に井上教諭が倒れていた。教諭の脇には小刀が落ちている。
「貴様か! 貴様が千鶴の封印を解いたんか!」
 怒鳴る進之丞の顔は、再び鬼の顔になっていく。
「千鶴を傷つけまいと封印したのに、ほれを貴様があばいたんか!」
 進之丞は体がみるみる膨れ上がり、着ていた着物が破れ落ちそうになった。
「いけん!」
 進之丞に抱かれながら千鶴が叫んだ。
「いけん、しんさん。いけんよ! もうがんごの姿にはならんて約束したやんか! おらなら大丈夫じゃけん、怒らんで!」
 千鶴になだめられ、進之丞の体は膨らみが止まった。
 下へ降ろしてもらった千鶴は、倒れている教諭のそばへ行って声をかけた。
「先生、大丈夫ぞな?」
 井上教諭は進之丞の蹴りで、左のあばらを折られたらしい。そこに手を当てながら、目を閉じてうめいている。
 骨が折れていると思われる場所に、千鶴が手を触れると教諭は声を上げて痛がった。千鶴は慌てて手を引っ込めて謝った。
「先生、こがぁな格好でしゃべるんも何じゃけんど、がんごを殺したとこで進さんはんてんぞなもし。ほんでも、おら、わかったんぞな。おらな、進さんも進さんと一緒になった鬼も、どっちも大切やし、どっちもいとしいんぞなもし」
「千鶴……」
 千鶴の後ろで、鬼の顔の進之丞が泣きそうになっている。
 顔をゆがめながら見上げる教諭に千鶴は言った。
「確かに、前世でがんごはひどいことをしました。今思い出しても悲しいてたまらんぐらい、鬼はひどいことをしたんです。ほんでも今は鬼は心を入れ替えとります。もうあん時の鬼とは違うんぞなもし。別の鬼になった言うた方がええかもしれんぞな」
「君は本心から……、そう……言ってるのかい?」
 井上教諭はあえぎながら言った。
「これはおらの本心ぞなもし。おら、うそなんぞついとりません。進さんと一つになってから、がんごはいっつもおらを助けてくれたし、おらのために何べんも命を投げ出してくれました。今かてほうじゃ。鬼はおらのために死のうとしてくれたんです。ほやけん、おらん中にあった鬼を憎む気持ちはのうなりました」
「そうなのか……」
「この人は進さんであり、がんごなんです。おらが進さんじゃて思たら進さんじゃし、鬼じゃて思たら鬼なんです。でも、ほれはおらの気持ちの問題で、どっちゃでもええことなんぞなもし」
 千鶴は進之丞を振り返りながら話を続けた。
「おら、これからもこの人と一緒に生きていきます。ほやけん、先生にはいろいろご迷惑かけてしもたけんど、もう、ええんです」
 千鶴の話を聞きながら、進之丞は鬼の姿のまま泣いた。
「山﨑さん……、どうやら暗示が解けたようだね……」
 井上教諭はつらそうだが、穏やかな声で言った。
「僕は……君が新聞に載っていた……ロシアの青年と……結婚するつもりだったって……思ってたんだ……。だから、鬼のことは……君の本心じゃないって……、君は鬼にたぶらかされてるんだって……思ったんだよ……」
 スタニスラフのことを言われて、千鶴は動揺した。慌てて進之丞を振り返り、あの記事は間違いだと教諭に言った。
「あん時、おら、お酒飲んで酔っ払ってしもとったけん、何もわけわからんまま喋りよったんです。おらと進さんは、あれのずっと前から好きうとったんぞなもし」
「何だ、そうなのか……。それを、もっと早くに……聞いておけばよかった……」
 井上教諭は折れた肋を押さえ、石垣で体を支えながらもんの表情で立ち上がった。
今更いまさらこんなことを……言えた義理じゃないけど……、山﨑さん、僕が悪かった……。僕は誤解してたんだ……。許してくれ……」
 教諭は鬼の姿の進之丞にも顔を向けて言った。
「進之丞くんにもおびするよ……。君の命を奪おうとした……僕が浅はかだった……」
 あれだけ鬼を怖がっていたのに、教諭の声におびえの響きはない。黙ったまま泣いている進之丞に、教諭は続けて言った。
「僕は……山﨑さんの記憶の封印を……解いてしまった……。だから君に……殺されるって思ったんだ……。山﨑さんのことも……、君に無理に言わされてるって……考えてしまってね……。君がいなくなれば……、僕も助かるし……山﨑さんも救えるって……、そう思ってしまったんだ……」
 井上教諭はうなれると、悔やんだように言った。
「だけど……、僕が間違ってた……。鬼の姿をしていても……、君は人間だ……。君を殺そうとした……僕の方こそ……人でなしの鬼だった……」
「先生……」
 千鶴は進之丞を振り返った。
「先生がおらの記憶の封印を解きんさったんは、おらがそがぁしてほしいて、無理さっちにお願いしたけんよ。悪いんは先生やのうて、おらなんよ。ほじゃけん、先生を勘弁してあげて」
 千鶴に対して返事はしないまま、進之丞は井上教諭に低い声で静かに言った。
「おぬしがあしを殺そうとした理由わけは、ほれぎりやあるまい。まだ他に狙いがあろう?」
「君は……何でもお見通し……なんだね」
 井上教諭は苦しそうに言った。
「僕は……鬼になりたかったんだ……。鬼の力が……欲しかったんだよ……。鬼になるのは……怖いけど……、君が死んだら……、鬼の魂が……僕に取りいて……鬼になれると……思ったんだ……」
 千鶴は井上教諭のそんな気持ちを知らなかった。初めて聞いた話に驚いていたが、進之丞は鬼の姿のまま淡々と話を聞いている。
「なしてがんごになりたいと思たんぞ?」
「山﨑さんには……話したけど……、僕には妹がいたんだ……。その妹は……僕の目の前で……ごろつきどもにはずかしめられて……死んでしまった……」
 教諭は自分を慕ってくれた花街の娘も、男たちに乱暴されて死んだと話し、弱い娘たちを助けるために、鬼の力が欲しかったと言った。
 喋り疲れたのか、井上教諭は話し終わると、石垣にもたれたままあえいだ。息をするたびに肋が痛むらしく、顔はずっとつらそうなままだ。
 教諭の想いに千鶴は涙をこぼしたが、進之丞は哀れむように、愚かな――と言った。
「お主は進之丞の心ががんごの心をねじ伏せたと考え、己もおんなしにできると思たんじゃろが、事実はさにあらずぞな」
「違うのかい……?」
「あしが進之丞として生きておるのは、進之丞の心ががんごの心に打ち勝ったゆえではない。鬼の心が進之丞の心を受け入れたぎりのことよ」
「それは……どういうこと……?」
 興味が頭をもたげた様子の教諭に、進之丞は穏やかに語った。
がんごとは数え切れぬほどのもんらの未練や怒り、悲しみや苦しみが渦巻いたもんよ。進之丞一人の心がどがぁに足掻あがいたとこで、太刀打たちうちできるもんやない。進之丞の想いを鬼が無視すれば、ほれまでのこと。進之丞は鬼にらわれたぎりで、鬼は鬼のまんまよ」
「それじゃあ……、どうやって……」
がんごは千鶴の優しさに触れ、その優しさに憧れた。やが、ほれは鬼の中にも優しさが潜んでおったということよ。ほうでなければ鬼が優しさにかれたりはせぬ。鬼は喰ろうた進之丞の心を通して、己の中の優しさに気づけたんぞな。わかるか?」
「わかるような……気がするよ……」
 井上教諭はしんみりとうなずいた。
 進之丞は千鶴を振り返って言った。
「お前にも申したであろう。あるいは記憶を取り戻したんであれば、見たことを覚えておろう? 進之丞はがんごの心に語りかけ続けた。鬼に心を喰らわれたあともな。そして、ついには鬼の心が進之丞の声に耳を傾けたわけよ」
 千鶴がうなずくと、進之丞は教諭に顔を戻した。
がんごは千鶴を喰らえば、千鶴の優しさを我が物にできると思た。されど千鶴の優しさは、千鶴と一つでないからこそ得られるもんぞ。鬼はそがぁなこともわからなんだが、進之丞の心を喰ろうた時に、進之丞の千鶴への想いが、鬼の中にあったついの想いに響いたんよ。その想いこそが、鬼の心の奥底に潜んでおった優しさじゃった」
「鬼はどうして……自分の中に……優しさがあることを……忘れてたんだろう……?」
がんごはな、何もかんもすべてをあきらめておったんよ。ほれで、怒りであれ悲しみであれ、己ではどがぁもできん想いを、相手構わずぶつけよった。やが、そがぁなことで己が満たされるはずもない。人から余計に嫌われ憎まれ恐れられ、どうせ己なんぞそがぁなもんじゃと思ううち、いつしか人を思いやる気持ちが心の奥底に隠れてしもたんよ」
「それが山﨑さんの……優しさに共鳴し……、進之丞くんの……想いによって……、引き出されたって……わけなのか……」
 ほういうことよ――と鬼の進之丞はうなずいた。
「己の優しさを知ったがんごは、己が千鶴をいとおしく想いよったことにもぃがついた。じゃのに己がしてきたこというたら、千鶴を苦しめることぎりじゃった。ほれを思うと、鬼も進之丞もともに悔やみ苦しんだ」
「進さんも苦しむん?」
 千鶴が話に交ざってたずねた。
 進之丞と鬼が一つになったことを、千鶴は理解したつもりではいた。けれど、まだ今ひとつぴんとこないところがあった。
 進之丞は千鶴を見て、ほうよ――と言った。
「進之丞とがんごは一つである故、進之丞の苦しみは鬼の苦しみ、鬼の苦しみは進之丞の苦しみとなるんぞな。進之丞自身が犯した罪でのうても、進之丞はほれを己の罪と感じるんよ」
 千鶴は心の不思議を知った。また、一つになった進之丞と鬼は、もはや二つに分かつことはできないのだと悟った。
 進之丞は井上教諭に顔を戻して言った。
「この苦しみは千鶴に関することぎりやない。ほれより前に犯した罪の深さをも、がんごは知るようになった。ほれは申したように進之丞の苦しみでもある。ほれがいかにつらいものかは、お主には到底理解できまい」
「進さん……」
 千鶴はようやく進之丞の本当の苦しみを知った。己が犯した罪を悔いれば悔いるほど、その苦しみはつのるのだ。
 涙ぐんで抱きつく千鶴を抱き返しながら、進之丞は言った。
「こがぁして千鶴とともにおれることぎりが、あしにとってはせめてもの安らぎじゃった。ほれでも、ほれで己の罪が消えるわけやない。また、己の罪に千鶴を巻き込むことへのつらさも口にはできんほどよ。がんごになるとはな、そがぁなことなんぞ」
 井上教諭は肩を落とし、自分がどれだけ浅はかだったかを知ったと言った。
 進之丞は鬼のままだが穏やかで、教諭に手を出す様子はない。これで話は丸く収まったと思えたその時、どこからか女の笑い声が聞こえた。
「鬼のくせに、ずいぶんしおらしいことを言うじゃないか。あたしゃ笑い過ぎて涙が出ちまったよ」
 声は内門うちもんの方から聞こえてくる。千鶴と進之丞が近づくと、誰かがそとぐるへ逃げるのが見えた。
 追いかけてきりもんをくぐると、天神てんじんやぐらの前に花柄の着物を着た女が、背を向けて立っていた。大きく膨らんだ庇髪ひさしがみ二百にひゃくさんこうだ。
 吹き始めた風が千鶴の髪を揺らした。西から夜空をみ込もうと真っ黒い雲が近づいている。どうやら間もなく雨になるようだ。