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対決


      一

 貴様は誰ぞ!――と進之丞しんのじょうは叫んだ。
「さぁ、誰かしらね」
 振り返った女には角がえていた。千鶴ちづはぎょっとしたが、それは般若はんにゃの面だった。
 進之丞は女をじっとにらみながら言った。
「貴様、人ではないな」
 女はほほほと笑い、そのとおりだよと言った。
「見てのとおり、あたしゃ本物の人でなしだよ。ろくでなしとも言うかしらね」
「千鶴、ぃつけぇよ。やつは人やない。あしとついの魔物ぞ」
 千鶴は驚きながらも、やっぱりと思った。一方、女は進之丞の言葉が気にさわったらしい。
「失礼なことを言うんだね。あたしがお前とおんなじ化け物だって? あたしゃ人でなしだけど、お前みたいな木偶でくぼうとは違うんだよ。れた娘の家が潰れても何にもできず、身内が殺されても隠れることしかできないお前なんか、ただの木偶の坊じゃないか!」
「すべては貴様のわざか!」
 怒りを見せた進之丞を千鶴は必死になだめた。その様子を見ながら、女は馬鹿にして笑った。
「やっぱり木偶の坊だねぇ。そんな小娘になだめられてるなんて」
 千鶴は、きっと女をにらみつけた。
「あんた! あんたが――」
 つや子なのかと千鶴が言おうとした時、よろめきながら姿を見せた井上いのうえ教諭が、女に小刀を差し出して言った。
「もう、よしましょう……。これはお返しします……。所詮しょせん、僕なんか……鬼にはなれないし……、きっと妹も……こんなことは……望んでませんから……」
 女は高笑いすると、どこまで馬鹿な男なんだろう――と言った。
「あんたが鬼になれないことぐらい、はなからわかってるさね。あんたは一度絶望したはずなのに、こっちへ来て元気になったからさ。もういっぺん絶望させてやりたかっただけなんだよ」
「な、何を――」
「まだ、わかんないのかい? ごろつきどもにあんたの妹を襲わせたのはね、このあたしなんだよ!」
 そんな――井上教諭の顔がゆがんだ。
「花街の娘が殺されたっていう話もうそ。だいたいさ、あんたみたいな野暮やぼったい男に、あの娘がれるわけがないだろ? そんなの、ちょっと考えればわかることじゃないか」
 こんな屈辱があるだろうか。うろたえた教諭の目に涙があふれたが、女は楽しそうにしゃべり続けた。
「自分を知らないっていうか、図々ずうずうしいっていうか、まったくうぬれが強い男さね。鬼になって気の毒な娘たちを助けるんだって? ほんと笑わせてくれるよ」
 あははと笑う女の前で、井上教諭はうなれて悔しそうに泣いた。
「その顔、いいじゃないか。あたしゃ、その顔が見たくってね。それであんたを励ましてやったんだよ!」
 激し怒りを覚えながら、千鶴は自分とはなが襲われた時と同じだと思った。
 あの時、孝平こうへいしちは花江と千鶴を自分の物にできると期待していた。だが実際は千鶴も花江も二人の前で男たちに手籠めにされるところだったのだ。この女は千鶴たちだけでなく、孝平たちの絶望した顔も見たかったに違いない。
「あんたが横嶋よこしまつや子なんじゃね!」
 千鶴が叫ぶと女は千鶴の方を向いて、大当たり!――と言った。
「横嶋つや子……?」
 井上教諭は涙だらけの顔を上げて女を見た。
「あなたは本当は誰なんだ?」
「お黙り! 負け犬は黙ってな」
 つや子は教諭に口をつぐませたが、千鶴は黙っていなかった。
「あんた、なしてしんさんの家族を殺したんね?」
「別にどうだっていいじゃないか、あんな年寄りたちがいなくなったって、世の中何も変わりゃしないよ」
 貴様!――怒った進之丞は巨大化しそうになった。進之丞の着物は前が大きくはだけ、背中は今にも破れようとしている。体に食い込んだ帯も千切ちぎれそうだ。
 千鶴が急いでなだめたので、進之丞は何とか怒りを抑えたが、その体はわなわなと震えている。そんな進之丞を女は嘲笑あざわらった。
「そんな格好で怒ったってさ、おかしいばかりでちっとも怖くないよ。だいたい、あんた、鬼のくせに何怒ってるんだい? 自分だってこれまで何人も殺して来たくせにさ。ちょっと自分の身内が殺されたからって、文句を言える筋合いじゃないだろ?」
 進之丞がうなり声を出した。千鶴は進之丞を制して女に言った。
「あんたが進さんの家族殺したんは、進さんを怒らせて鬼にへんさせよて思たんじゃろ!」
 さぁねぇととぼけるつや子に、千鶴は唇を震わせた。
「あんた、畑山はたやまさんも殺したじゃろ!」
「畑山? はて、畑山ねぇ? 誰のことかしら?」
 つや子はあごに手を当てて首をかしげた。
「あんたが、おはらいのお婆さんと一緒に殺した人ぞな!」
 お祓いのばばのことを言われて、やっと理解ができたらしい。あの男ね――とつや子は大きくうなずいた。
「あの馬鹿のことなら覚えてるよ。さっさと大阪おおさかで死んでりゃいいのにさ。こんな所へのこのこ出て来て、つまんないことに首を突っ込むんだもの」
「畑山というのは、大阪の錦絵にしきえ新聞の男か?」
 話に交ざった進之丞に千鶴はうなずいた。
「畑山さんはおらたちのことを耳にして、わざに大阪から励ましにおいでてくんさったんよ。ほれで進さんを探してくれようとして、進さんも知っておいでる、あのお祓いのお婆さんを訪ねてくんさったんよ。その畑山さんとお婆さんを、この女が殺したんよ」
 ほうじゃったかと進之丞が気の毒そうに言うと、つや子は腹立たしげにふんと言った。
「何を偉そうに。お前だって人殺しのくせに」
「進さんをあんたと一緒にせんで! 畑山さんにはね、これからお嫁入りする娘さんがおいでたんよ!」
「おや、そうだったのかい? それはおめでたいねぇ。そんな娘がいるのに死んじまうだなんて、ほんとにおめでたい男だよ」
 つや子が楽しげに笑うと、千鶴は怒りをあらわにした。
「なして、あの人らを殺したんよ!」
「あたしの正体を知ったからさ」
 つや子は冷たい声で言った。
 お祓いの婆は進之丞の正体にも気づいたほどだ。畑山から相談を持ちかけられた時、婆はつや子が魔物だと悟ったに違いない。だが、それが命取りになってしまったのか。
「あのばばあはね、身の程知らずにも、あたしを封じようだなんて思い上がった真似をしたのさ。婆が飛ばした言霊ことだまが鎖になって、あたしを縛り上げてね。いきなり動けなくなったから、あん時はさすがのあたしも結構あせっちまった。だけど、あたしも必死に抵抗したからね。何とか動くことができたんだ」
「どがぁしておばあさんの家を見つけたん?」
「言霊ってぇのはね、もろつるぎなんだよ。言霊を辿たどれば、それを飛ばした奴の所へ行けるのさ。でも、そこまで行くのは大変だったよ。婆の家がもう少し遠ければね、あたしも危うかったんだ。それで婆の家へ行ったら、あの男もそこにいたってわけさ」
 ずっとつや子の声を聞いているうちに、千鶴はこの声には何だか聞き覚えがあると思った。まさかと思ったものの、所々で声の質がある女に似ているようだ。喋り方は全然違うが、思いつく人物はただ一人だ。
「あんた、もしかして三津子みつこさんやないん?」
 つや子はびくりと動きを止めると、じっと千鶴を見えた。それから、あのかんさわる喋り方で楽しげに言った。
「ようやっと、わかってくれたん? うち、千鶴ちゃんがいつぃついてくれるんじゃろか思て、はらはらしながら待ちよったんよ」
 つや子は般若の面を取り、庇髪ひさしがみのかつらを脱ぎ捨てた。現れたのは髪の短い坂本さかもと三津子だった。

      二

「道理で前々から怪しいと思いよった」
 進之丞が憎々しげに言うと、三津子はころころ笑って、お互いさまぞな――と言った。
「じゃあ、まずは千鶴ちゃんとの約束を果たそうわいね」
 三津子はえへんえへんとせき払いをすると、つや子の声でしゃべり出した。
「えー、あたくし横嶋よこしまつや子は、そっちのがんごにいやん……じゃなかった、そちらのおにのお兄さんに無実の罪をなすりつけ、千鶴ちゃんに多大なるご迷惑をおかけしましたことを、このとおりおびしまぁす」
 三津子はぺこりと頭を下げ、再び頭を上げるとケタケタ笑った。
「その姿で、まんまとおらたちから話を聞き出しよったんじゃね」
 悔しげな千鶴に、三津子は楽しそうに言った。
「千鶴ちゃんはなかなか喋ってくれんけん、さっちゃんからいろいろ聞かせてもろたぞな」
「何も知らんお母さんをだまくらかして!」
「別に騙しちゃあおらんわね。うちは坂本三津子として、幸ちゃんと会いよったんじゃけんね。ほんでも、幸ちゃんも全部は言うてくれんけん。あとはもう一人のさくだいさんから、ちょくちょく話を聞かせてもろたんよ」
しちさんのこと言いよん?」
「そがぁな名前じゃったかいねぇ。ちぃとお茶をごそうしてやったらね。がんごにいやんに千鶴ちゃん取られたこととか、千鶴ちゃんがロシアのこうと、お手紙のやり取りしよる話を教えてくれたんよ」
 そんなことを弥七がぺらぺら喋っていたことに千鶴は驚いた。三津子はにやにやしながら話を続けた。
「いつやったかいねぇ。今日も千鶴ちゃんが夕方手紙出しに行くそうなて愚痴こぼすけんね。千鶴ちゃんはまだ自分の相手を決めたわけやないじゃろけん、あきらめたらいけんよて言うてあげたんよ」
 それはきっと鬼山おにやま喜兵衛きへえ特高警察とっこうけいさつに襲われた、あの日のことだ。つや子に千鶴たちの動きを教えていたのは弥七だったのだ。
「なして弥七さんが、おらが手紙出すこと知っとるんね?」
「そがぁなことは本人にいてちょうだいや。そげなことまでは聞いとらんけん」
 あの日、千鶴が祖父と手紙についてのやり取りをしているのを、蔵から品出しをしていた亀吉かめきちたちは聞いていた。
 恐らく弥七は午前に太物ふともの屋へ注文の品を届ける際に、その話を耳にしたのだろう。そして午後に一人で注文取りに出た時に、三津子と出会って喋ったのだ。

 三津子と千鶴たちが言い合っているうちに、井上教諭はそろりそろりと三津子の後ろへ回り込もうとしていた。
 三津子の背後まで回ると、井上教諭は小刀を振りかざして三津子に斬りかかった。三津子は教諭の動きに気づいていたようで、教諭は三津子に足を払われてざまに倒れ込んだ。倒れた時に折れたあばらを打ちつけたらしく、教諭はぐぅとうめいたきり動かなくなった。
「嫌やわぁ、この人。こがぁなか弱いおなに後ろから斬りかかるやなんて信じられん。ほんなん、男がすることやないで。ほんでも刃物を持ったとこで、やっぱし腰抜けは腰抜けじゃわいねぇ。まっこと情けない男ぞな」
 三津子は井上教諭に近づき、この役立たず!――と言って、教諭の傷めた肋を容赦なく蹴飛ばした。苦悶の声を上げた教諭は天を仰いで、畜生ちくしょう!――と叫んだ。
「やめて! 傷ついとる人をさらに傷つけて何がおもいん?」
 千鶴は教諭のそばへ駆け寄ろうとした。だが進之丞に引き留められて、にやにやする三津子をにらんだ。
「なして、そがぁにみんなを苦しめるん? しかも偽名まで使うやなんて、なしてそこまでするんね!」
「偽名? 千鶴ちゃん、何言うとるん? 横嶋つや子はうちの本名ぞな」
「え? じゃあ、坂本三津子の方が――」
「ほれも本名。うちはね、他にもいっぱい本名を持っとるんよ」
 当惑する千鶴に代わって進之丞が言った。
「貴様、その女をろうたな?」
 三津子はむっとした顔になると腰に手を当て、もう!――と言った。声はつや子の声だ。
「そういう下品な言い方やめてくんない? 東京とうきょうであたしが財布抱えて死にそうなふりしてたらね。この女はあたしを介抱する真似して、あたしの財布を奪おうとしたんだよ。それじゃあ、あたしだって困るからさ。一応は抵抗をしたんだ。そしたらさ、この女、あたしの頭を石でがつんってね。それであたしは代わりにこの体をいただいたってわけ。喰ったんじゃないよ。 いただいたの。前の体の代わりにね」
 千鶴がぞっとすると、つや子は片眉をり上げて言った。
「何さ、そんな顔して。あんたは知らないだろうけど、この三津子っていう女はね、結構なしょうわるおんなだったのさ。あんたの母親を病院から追い出したのは、この女が仕組んだことなんだからね」
 母が病院で聞かされた話と同じだと千鶴が思った時、つや子は三津子になった。
「千鶴ちゃん、ごめんね。うち、奥手じゃけん、なかなかほんまのことが言えんたちなんよ。ほじゃけん、自分がれたロシアの兵隊さんにも、自分の気持ちをよう伝えんかったんよ。ほしたらね、あなたのお母さんがね」
 横取りしよったんじゃい!――と三津子は男のような声で怒鳴った。しかし、すぐに恥じ入りながら話を続けた。
「もう、ごめんなさいね。うちとしたことが、つい興奮してしもた。まぁ、そがぁなわけでね、うちはあなたのお母さんにちぃと仕返ししとなったんよ。ほれで、院長先生に出任せ言うたんやけんど、まさかほんまに子供こさえとったとはねぇ。あん時はまっことびっくりじゃったし、さちさんて手が早いいうか――」
 ほんまにあつかましい意地腐れ女ぞな!――とまた男みたいな声で三津子はわめいた。
「もう、またはしたない声出してしもた。恥ずかしいわぁ。とにかくね、うちはあなたのお母さんにひどい目にわされたわけ。うちがどがぁな気持ちじゃったか、千鶴ちゃん、わかってくれた?」
「そげなもん、わかるはずなかろ!」
 千鶴が言い返すと、そうなのかいと三津子はつや子に戻ってにやにやした。
「千鶴ちゃんなら、わかってくれるって思ったんだけどねぇ。千鶴ちゃんだってさ、自分が惚れた男を他の女に奪われそうになった時に、相手を恨んだんじゃないのかい?」
 千鶴はぎくりとした。花江のことを言われているのかと思ったが、つや子が話しているのは前世のことらしい。
「あんたの場合、相手が近くにいなかったから、仕返しができなかっただけじゃないか。その分、あんたを裏切った男の方に、ひどいことをしたんじゃなかったかしらねぇ?」
 進之丞が牙をいた。
「そこまでにしとけよ。ほやないと――」
「どうすんだい? あたしと勝負するつもりかい、このとうへんぼく
 千鶴は進之丞をなだめると、つや子に言った。
「なして、あんたはおらたちを苦しめるん? おらも進さんもあんたに何もしとらんじゃろがね!」
「そんなのはそこの腰抜けも同じさ。あたしはね、むかつくのさ」
「むかつく?」
「異人の小娘のくせに日本人づらする奴とか、鬼のくせに人並みの幸せを欲しがる奴にね、無性にむかつくんだよ!」
「ほれは貴様もついじゃろが!」
 言うなり進之丞が飛びかかると、つや子は素早くだいてんしゅの石垣に飛び移った。月の光が届かない石垣に張りつくつや子は、まるで闇に隠れるヤモリだ。わずかな石の隙間に引っかけた手の指には鋭い爪が伸びている。足袋たびの先も鋭い爪が突き破り、その爪で石をしっかりつかんでいた。
 つや子は石垣からさらに大天守の壁までさっとよじ登ると、そこから千鶴たちに毒気を吐いた。
「せっかく二人して死なせてやったのにさ、一緒によみがえって来るなんて、腹が立とうってもんだろ? だいたい、あんたね、鬼のくせに何だって地獄から戻って来るのさ。死んだんなら、ちゃんと死んでりゃいいんだよ!」
 進之丞が近づくと、つや子はささっと別の場所に移動した。
「あたしを捕まえようったって無駄さ。それに、もうすぐ警察が来るよ」
「何?」
「あたしが呼んだのさ」

      三

「あんたたちは、もう逃げられないよ。人さらいと殺人鬼、鬼に取りかれて狂った異人の小娘。それぞれ警察と病院のろうに入れられて、めでたしめでたしってわけさ。それとも鬼の姿のまま小娘を連れて逃げまわるかい?」
 けらけら笑うつや子に、ほういうことか――と進之丞は言った。
「要するに、貴様は誰ぞにかもてもらいたいんじゃな?」
 つや子は笑いを引っ込めると、進之丞をにらんだ。
「馬鹿を言わないでおくれ。あたしがどうして人に構ってもらわないといけないのさ? あたしが構ってやってるんであって、あたしが構ってもらうことなんかないわさ」
「じゃったら、なして姿を見せた? あしらをおとしめるぎりなら、何も姿を見せいでも、隠れて警察が来るんを眺めておればよかろ?」
「本当のことを教えてやって、お前たちが苦しむ姿が見たいのさ」
「見たいんやのうて、見てもらいたいんじゃろ?」
 進之丞が笑うと、つや子は顔をゆがめた。
「何を抜かすか、この鬼の風上にも置けないくされ鬼めが! お前よりあたしの方が上だって、まだわからないんだね」
「あしより上? そこでヤモリみたいに張りつきよることを言いよるんか? こそこそ逃げまわる以外、己じゃ何もできんくせに」
 つや子がきぃっと牙をくと、その頭からにょきりと角が生えた。
「やっぱしがんごか。ほれも口先ぎりのひねくれもん。貴様、天邪鬼あまのじゃくじゃな」
「あたしは、そんな名前じゃない!」
「思い出したぞ。あしに千鶴をらうようそそのかしたんは貴様じゃったな。あん時と姿はちごても、発せられとるぃがついぞ」
 え?――と千鶴は進之丞と天邪鬼の顔を見比べた。進之丞は天邪鬼に顔を向けたまま、横目で千鶴を見て言った。
「寺でおまい饅頭まんじゅうをもろたあと、あしはお前の優しさにしばらくほうけたままじゃった。ほん時にやつが現れて、そんなに優しさがいいのなら、その娘を喰ってしまえば、娘の優しさはお前ぎりのものと言いおった。愚かなあしは、ほれを名案じゃと思てしもたんよ。今思えば、己が情けのうて恥じ入るばかりぞな」
 やはりこの女が裏で糸を引いていたのかと、千鶴は天邪鬼に怒りの眼差しを向けた。
しんさんとこのお女中のふりして、おらに進さんを疑うよう唆したんもあんたじゃ。みんな、あんたにだまされたんじゃ!」
 二人になじられた天邪鬼は、やれやれとため息をついた。
「どいつもこいつも、何、言いがかりつけてんだい。元々あんたに進之丞を疑う気持ちがあったんだろ? あたしはその気持ちを膨らませてやっただけじゃないか。そっちの馬鹿鬼にしたってそうさ。あの娘が欲しいって言うから、じゃあ喰っちまったらどうだいと、背中を押してやっただけなのに、それを何だい、全部こっちのせいにして」
 腹立たしさがつのっているのだろう。進之丞は天邪鬼に牙を剥いて言った。
「千鶴をうしのうたと思いよったあしに、千鶴が風寄かぜよせで生きておると、わざに教えに来たんは貴様じゃろが」
「落ち込んでるお前に朗報を伝えてやっただけじゃないか。あの時、大喜びしたのを忘れたのかい?」
「千鶴を喰ろうたとこで、千鶴の優しさが手に入らぬのを貴様はわかっとったろが? わかった上であしを唆し、あしらが共倒れになるんを眺めよったんじゃろが」
「何とでも言うがいいさ。どっちみち、お前たちはおしまいだよ。前みたいに、みんなまとめてらくの底へ落ちるがいい」
 天邪鬼が言ったとおり、ここへ巡査じゅんさが向かっているのであれば、急いでここを離れねばならない。だが、天邪鬼は簡単に逃がしてくれそうにはなかった。
 千鶴はあせったが、進之丞は平然として言った。
「愚かな奴め。あしも愚かじゃったが、貴様はほれ以上の愚か者よ。貴様にはお不動さまも手を焼いておいでよう」
「お不動さま? 鬼のくせに何がお不動さまだ! ふざけんじゃないよ」
「あしはもう、かつての荒くれたがんごやない。あしの中にはお不動さまがおいでるんぞ。そのことに、あしはぃがついたんじゃ」
 天邪鬼は下品な声を出して笑った。
「鬼の中にお不動さまだって? 笑わせないでおくれ。お前はそこの娘にのぼせ上がって、狂っちまった哀れな鬼なのさ!」
 天邪鬼の挑発には乗らず、進之丞は穏やかに言った。
「聞け、天邪鬼よ。お不動さまはな、誰の中にもおいでるんぞな。そがぁして、その者を正しき道へ導こうとしんさるんじゃ。貴様の中にもお不動さまはおいでるぞ。ただ、ほれに貴様がぃつかんぎりぞな」
「ふざけたことをお言いでないよ! あたしのどこにお不動さまがいるって言うんだい!」
 興奮する天邪鬼を、進之丞は哀れみの目で見つめた。
「貴様、これまでちぃとでも胸がいとなったことはないんか? 貴様が喰ろうたもんらも、胸がいとなったことがあろうが」
「あたしが胸を痛めるなんてことは、これまで一度もないねぇ。お前とは鬼の出来できが違うのさ」
 聞く耳を持たない天邪鬼に、進之丞はなおも言った。
「胸の痛みいうんはの、お不動さまの痛みぞ。お不動さまは御自身の胸の痛みを通して、その者を導こうとしておいでるんぞな。あしは千鶴を想ううちに、ほれがわかったんぞ」
たわけたことを! 鬼のくせに坊主にでもなったつもりかい?」
「貴様はほんまは寂しいんじゃろ? 独りぼっちなんがつらいんじゃろが。やが、ほれを認めるのが怖いんじゃろな。認めてしもたら己がみじめになると恐れとろ?」
 天邪鬼は牙を剥き出して言い返した。
「誰が寂しいんだって? 独りぼっちの何が悪いんだい! あたしゃ一人でいるのが好きなのさ。だいたいね、誰かを信じるなんて馬鹿げたことさね。みんな、自分ばかりが大事なんだ。それが人間ってもんなのさ。口でどんなにきれい事を言ったって、そんなの全部うそっぱちなんだよ!」
「人は過ちを犯して人を苦しめ、己自身をも苦しめる。やがの、過ちを許し許されることで、人は苦しみから解き放たれるんぞ」
「偉そうなことを! 許し許されたら苦しみから解き放たれる? だったら、お前はどうなんだい? まだ鬼のままじゃないか! そういうのをきれい事っていうのさ。わかった風なことを抜かすんじゃないよ!」
 進之丞が口籠もると、今度は千鶴が代わって言った。
「人間に戻りたいけん許すとか許されるとか、この人はそげな下心があって言うとるんやないんよ。勘違いせんといて!」
「何がこの人だい。こいつは人じゃなくて鬼じゃないか!」
「あんたはほんまに可哀想ながんごやな。この人は優しさが欲しかったんじゃて、ちゃんと認めとるんよ。やのに、あんたはそげなこともでけんで、人の幸せねたんでばっかしじゃ! 幸せが欲しいんなら、人の幸せめがすんやのうて、幸せになりたいんじゃて素直に認めたらどがぁね」
「うるさい、うるさい! あたしゃ幸せなんか信じないよ! 幸せなんて全部偽物さ! そんなもの存在するもんか!」
 天邪鬼はがさがさと大天守からい降りると、千鶴たちをかくした。進之丞は千鶴を護るように前に出た。
「存在するなら、幸せを手に入れたいと申すのか?」
「違う違う! 幸せなんか全部まがい物だって言ってるんだよ!」
 千鶴は進之丞の横に並んで言った。
「おらはこの人と一緒におれて幸せぞな。この人ががんごであろとなかろと、そげなことは関係ない。たとえ死んでも、この人とのつながりはずっと残るんよ。ほじゃけん何があっても、おら安心しよるぞな」
 進之丞は千鶴の肩を抱いて言った。
「こげなことを言うてくれる千鶴と縁があったんを、あしは心の底から幸せに思とる。この命が奪われようと、決してこの幸せはめげたりはせぬ」
 嘘だ!――天邪鬼は完全に鬼の姿になると千鶴をののしった。
「お前なんか人殺しのくせに! お前がこいつを殺して鬼にしたんじゃないか。お前のせいで、こいつは鬼になったんだよ!」
 やめて!――千鶴は耳をふさいでうずくまった。だが天邪鬼はなおも千鶴を責め続けた。進之丞が千鶴を抱きながら、やめろと言っても天邪鬼は聞こうとしない。千鶴は己の罪に押し潰されそうになり、その場に泣き崩れた。
「貴様、許さぬ!」
 進之丞は天邪鬼をすご形相ぎょうそうでにらみつけた。その体はみるみる膨れ上がり、帯は千切ちぎれて着物は破れ落ちた。
 怒りの咆哮ほうこうが城を震わせた。千鶴が顔を上げた時には手遅れだった。そこにはたけり狂った巨大な鬼が、今にも襲いかからんと天邪鬼に牙を剥いていた。
 千鶴は鬼をなだめようと必死で叫んだ。けれど、もはや鬼の耳に千鶴の声は届かなかった。

      四

 風は強まり、近くに迫った黒雲が月をみ込もうとしている。
 月が隠れて辺りが闇に包まれれば、状況は天邪鬼に有利だと思われた。月の光があるうちに、天邪鬼を何とかしなければならない。
 鬼は天邪鬼を追い詰めながら捕まえようとするが、天邪鬼の動きは鬼よりも素早かった。あと少しというところで、さっと鬼の手から逃れてしまう。後ろへ回ったかと思えば、ひらりと大天守に張りつき、次の瞬間にはぴょんと飛び降りて鬼の脇を走り抜ける。まるで牛若丸うしわかまる弁慶べんけいだ。
 鬼の脇を抜ける際に、天邪鬼は鬼の足を爪で引っいたり、みついたりして傷つけた。だが、その程度で鬼は倒せない。力の差は歴然としているので、まともに戦えば天邪鬼に勝機はない。それでも天邪鬼が姿をくらまさずに逃げまわっているのは、警察が来るまでの時間稼ぎをしているのだろう。
 少しあせりが見える鬼はいらだったように腕を振りまわし、そとぐるの樹木は多くの枝がたたき折られた。また地面は鬼が動きまわるたびに、あちらこちらが大きくえぐれた。
 鬼と天邪鬼が争っている間、千鶴は倒れていた井上教諭を助け起こして、安全な場所へ移動させようとした。
 でも、教諭は進之丞に折られたあばらを天邪鬼にも蹴りつけられて、傷がさらに悪化したらしい。息をするのもつらそうで、下手へたに動かすと激しく痛がるので、千鶴は教諭をなかなか動かせなかった。
 けれど今がどんな状況なのかは、井上教諭もわかっていた。申し訳ないと言いながら痛みをこらえ、何とか千鶴の肩を借りて立ち上がった。
 しかし、いくら痩せているといっても、やはり男一人の体は重い。千鶴は天神櫓てんじんやぐらの陰へ隠れるつもりだったが、思ったように速くは動けなかった。
「ほらほら何やってんだい。早く捕まえないと、じきに警察が来るよ」
 鬼をからかう天邪鬼は、井上教諭と千鶴を見ると、にやりと笑った。
 鬼の攻撃をひらりとかわすと、天邪鬼は鬼に向かって言った。
「この場に巡査じゅんさが来たら面白いって思ったけど、もっと面白いことを考えたよ」
 鬼は引き抜いた樹木を天邪鬼に投げつけた。天邪鬼は素早く大天守にい上り、樹木は石垣にぶつかり落ちた。
 天邪鬼は大天守の壁に張りつきながら、鬼に言った。
「さっきお前たちは、死んだって幸せだってほざいてただろ? それが本当か、今から確かめてあげようね」
 天邪鬼は大天守から飛び降りると、落ちていた小刀を拾い上げて千鶴たちの前に来た。教諭に肩を貸しているので、千鶴は動けない。
 鬼は慌てて千鶴を護ろうとしたが、けけっと笑った天邪鬼は、小刀を千鶴の胸に向けて飛びかかった。千鶴は逃げることもできず固まった。
 向かって来る小刀は避けられない。死を覚悟する余裕もなく、千鶴は思考が止まったまま迫る小刀を見ていた。ところが小刀が千鶴に届くと見えたそのせつ、井上教諭が千鶴を突き飛ばした。天邪鬼の小刀は千鶴ではなく教諭の胸をつらぬいた。
 一瞬驚いた様子の天邪鬼の腕を、教諭は両手でしっかりとつかんで言った。
「これ以上……、お前の好きに……させる……もの……か」
 天邪鬼はきぃっと教諭をにらんで蹴り倒したが、上から伸びて来た鬼の手につかまった。
「先生!」
 千鶴は井上教諭に駆け寄ったが、教諭はにらんだ顔のまま動かない。教諭の胸はどんどん黒く染まっていく。
 千鶴は教諭を抱き起こして何度も声をかけた。だけど教諭は何も言ってくれなかった。
 一方、天邪鬼は小刀を振りまわし、鬼の指に咬みついた。しかし、鬼が天邪鬼をつかんだ手を握りしめると、ぎぇぇ――と絶叫した。ぼきぼきと骨が折れる音が聞こえ、天邪鬼はぐったりとなった。
 鬼は両手で天邪鬼をつかむと、そのまま引きちぎろうとした。
「やめて、殺したらいけん!」
 千鶴は教諭を抱きながら鬼に叫んだ。
 今度は千鶴の声が聞こえたようで、鬼は両手で天邪鬼をつかんだまま恨めしそうに千鶴を見た。
「そこまでにしとくんよ。殺したらいけんぞな。ほれとも、もう死んでしもたろか?」
 千鶴は教諭の体をそっと寝かせると、涙を拭いて鬼のそばへ行った。
 鬼は天邪鬼を千鶴に見せた。天邪鬼はぐったりしているが、かすかにうめき声を出している。まだ生きているらしい。
「もういけんかもしれんけんど、とにかく殺生せっしょうはいけんぞな」
 千鶴が悲しみをこらえながら言うと、鬼は天邪鬼に歯をき、再び悔しげな咆哮ほうこうを上げた。それから腹立たしげに天邪鬼を南の門の方へ投げ捨てた。
 天邪鬼は二ノにのもんさんもんの間にある壁にぶつかり地面に落ちた。死んだかに見えたが、まだわずかに動いている。
 千鶴は早く元の姿に戻るよう鬼に促す うなが と、再び井上教諭の傍へ駆け戻った。教諭はにらんだ顔のまま事切れていた。
「先生……。先生みたいなお人が、なしてこがぁなことに……」
 千鶴は泣きながら教諭の目を閉じてやり、体を真っぐにして、両手を腹の上で組ませてやった。それから井上教諭の亡骸なきがらに向かって手を合わせ、命を救ってくれたことを感謝した。また、自分が教諭を引き込んでしまったことをびた。
 すると、嫌だ、嫌だよ――と、かぼそく泣きそうな声が聞こえた。
 見ると、天邪鬼が石垣にすがりながら、必死に体を起こそうとしていた。しかし、すぐに転がるように倒れると、悲しげな声でつぶやいた。
「死にたくない……。死ぬのは嫌だ……。地獄なんか……行きたくないよ……」
 天邪鬼は二ノ門の方へずるりずるりとって行く。動ける状態ではないだろうに、死から逃れようとするすさまじい執念だ。その様子を見ながら、鬼は悔しそうにうなっていた。
しんさん、何しよんね。よ元の姿に戻らんと警察が来るで!」
 千鶴は涙を拭いて鬼に声をかけると、急いで進之丞の破れた着物や帯などを拾い集めた。
「誰か……、誰か……」
 取りく相手を求める天邪鬼の悲しげな声は、かろうじて聞き取れるほど小さく哀れだった。取り憑ける者がいなければ、天邪鬼も死んで地獄へちるのだろう。天邪鬼はそれが嫌で、これまで何人もの人間に取り憑いてきたのだ。だけど、それもこれで最後である。
 天邪鬼が向かう地獄がどんな所か知らないが、救ってくれる者が現れなければ、きっとらい永劫えいごうにその地獄にとどまることになるのだ。
 二ノ門の向こうに天邪鬼が転げ落ちると、千鶴は鬼を振り返った。鬼はまだそのままの姿だ。
「どがぁしたん? なして元の姿に戻らんの?」
 鬼は困惑のいろを浮かべながら何か言おうとした。でも、出て来たのはもう言葉にはならない唸り声だった。
「進さん、ひょっとして戻れんなってしもたん?」
 以前に進之丞は鬼になるのを繰り返していれば、人には戻れなくなると言っていた。それで為蔵ためぞう夫婦が殺された時に、鬼にへんした進之丞は人間に戻れなくなったと千鶴は考えていた。ところが、ここで再会した進之丞は人の姿だった。だから、もう一度人間に戻れると思ったのに、ついに限界が来たようだ。
「ほんな……、やっと……、やっとえたのに……」
 千鶴の目から再び涙があふれた。
 ぽつりぽつりと雨が降り始め、涙と一緒に千鶴の顔をらした。

「うわぁ、化けもんじゃ!」
 突然、男の声が聞こえた。いちもん辺りに誰かがいるらしい。外へ這って出ようとした天邪鬼を見つけたのだ。
 騒ぐ声からすると、いるのは複数のようだ。恐らく天邪鬼が呼んだ巡査たちだろう。
 本壇ほんだんから出られるのは、巡査たちがいる所だけだ。他に逃げ道はない。千鶴たちは逃げる機会を失ってしまった。
「進さん」
 千鶴はあきらめて鬼を見上げた。生きるも死ぬも一緒だと覚悟を決めていた。
 雨交じりの風が、千鶴たちの脇を吹き抜けて行った。
 鬼は千鶴を胸に抱えると、巡査たちがいるのとは反対の、北側のべいを跳び越えた。ふわりと宙に浮いた感覚のあと、ずしんと地面に落ちた振動が、鬼の体を通して千鶴にも伝わって来た。
 下はまだ本丸ほんまるだが本壇の外だ。取りえずは巡査たちから逃げることができた。ただ、井上教諭の亡骸がそのままだった。
 千鶴は鬼に抱かれたまま本壇に向かって手を合わせ、教諭を置いて行くことを心の中で詫びた。その時、うわわと言う男の声がした。
 鬼と千鶴がそちらを振り向くと、猟銃を抱えて提灯ちょうちんを手にした男が、腰を抜かしたのか地面に尻餅をついている。たんに月が黒雲に隠れて、辺りは真っ暗になった。明かりといえるのは、男が持った提灯のだけだ。
 雨は急速に強まり始め、千鶴たちの体を濡らしていく。
 鬼を見て驚いた男は、月が隠れるまでの一瞬の間に、鬼に抱かれた千鶴が見えたらしい。
「千鶴? 千鶴か?」
 男は千鶴に呼びかけた。男の顔は見えないが、震えたようなその声は甚右衛門じんえもんだ。
「おじいちゃん?」
「やっぱし千鶴か。くそっ、がんごめ。おまいなんぞに千鶴を連れて行かせるかい!」
 甚右衛門は提灯を地面に置いた。暗くてよくわからないが、猟銃を構えようとしているようだ。
「おじいちゃん、違うんよ。このがんごは悪い鬼やないんよ!」
 千鶴が必死に叫んだが、ばりばりと雷鳴がとどろいて千鶴の声はかき消された。
 ばゆ閃光せんこうが走り、一瞬辺りが明るくなったと思うと、どーんというけたたましい轟音ごうおんが、そこにあるものすべてを震わせた。
 光の中で、猟銃を持って立ち上がった甚右衛門の目と、千鶴、そして鬼の目が合った。
 改めて見上げた鬼におくれしたのか、甚右衛門は猟銃を撃つ間もなく、辺りは再び闇に呑み込まれた。
 ざーっと打ちつけるような雨が降りだした。
 千鶴は鬼のことを甚右衛門に伝えようと何度も叫んだ。だが雨音に消された千鶴の声は、ただの叫びにしか聞こえなかった。甚右衛門にはそれが救いを求める声に聞こえたのだろう。
「千鶴、待っとれよ。今助けてやるけんな!」
「やめて、おじいちゃん、やめて!」
 だんさん――鬼はそう言おうとした。千鶴にはそれがわかった。だけど、鬼の声は唸り声にしかならなかった。
 鬼が千鶴を渡そうと甚右衛門に近づいた時、すぐ近くに雷が落ちた。すさまじい轟きと目もくらむ閃光が、ほぼ同時に辺りを呑み込み、一瞬時が止まったかに思えた。
 白い光の中で、千鶴たちに銃口を向けたまま、驚いて目を見開いた甚右衛門の顔が見えた。思ったよりも鬼が近くに迫っていたため、恐怖で固まったらしい。それは甚右衛門の思考が止まっていることを意味していた。
 あっと千鶴が思ったせつ雷鳴の余韻を切り裂く猟銃の音が聞こえた。辺りは再び闇に包まれ、あとに聞こえるのは激しい雨音だけだった。

      五

 千鶴は鬼に包まれるように抱かれていた。
 鬼が跳び上がったのか、千鶴は宙を飛んでる感じがした。続けて、ずしんと鬼の足が地面についたと思われる振動が響く。
 鬼は城山の斜面を駆け下りた。何度も木の枝が折れる音が聞こえたが、鬼の腕に護られた千鶴を木の枝が傷つけることはなかった。
 相変わらず稲光が狂ったように閃光せんこうを放ち、雷鳴がとどろいている。しかし千鶴は鬼の胸に抱かれていたので、鬼の腕の隙間からわずかに光を見るばかりだ。
 鬼は城山のふもとへ下りたあとも、止まらずに走り続けた。
 雨はさらに強く打ちつけて降り、外に出ている者は誰もいない。鬼を見て驚く声はなく、激しい雨音と走る鬼の足音だけが、同じ調子で聞こえている。
 雨は冷たいが、鬼の体は温かかった。そのぬくもりは千鶴の体だけでなく、心までも温めてくれる。けれどその温もりはいつもの温もりと異なり、必死に千鶴を温めくれているようだ。
 鬼の胸に耳を当てると、中で鼓動を打つ心臓の音が聞こえる。
 地獄で鬼は千鶴への想いを断ち切ろうとして、己の心臓をつかみ出した。今聞こえているこの心臓の音は、自分を想ってくれる鬼の心なのだと千鶴は思った。千鶴は鬼の温もりを感じながら、じっと鬼の心臓の音に耳を傾け続けた。その心臓の音は、まるで泣いているみたいに聞こえた。
 どこを走っているのかはわからない。気がつけば、鬼の荒い息づかいが聞こえた。心臓の鼓動の音も初めと比べると、どんどん速まっている。不安になった千鶴の鼓動も一緒に速くなっていく。

 どれだけ走ったのだろう。長い時が過ぎていた。やがて雨音が静かになった頃、鬼の足取りは重くなっていた。
 鬼が足を止めた時、再び月が顔を出した。千鶴は鬼の指の間から辺りの様子をうかがった。
 初めはそこがどこだかわからなかった。だが、月の光に照らされた丘へ登る石段が見えると、法生寺ほうしょうじのある丘の麓だとわかった。
 鬼は石段へは行かず、松原の近くでがっくりと膝を突いた。そこで千鶴をそっと降ろしたあと、鬼は崩れるように倒れた。
 見ると、右の腰から血がどくどくと流れている。ちょうどあのあかあざの所だ。千鶴をかばったために、甚右衛門が撃った弾が当たったのだ。
しんさん、しっかりして!」
 千鶴は鬼に呼びかけた。鬼は倒れたまま微笑んだ。醜い顔が涙ぐんでいる。
「おら、和尚さん、呼んで来るけん!」
 千鶴は急いで石段へ向かおうとした。しかし鬼は小さく首を振り、千鶴の後ろへ手を伸ばした。そこには月明かりに雨のしずくを輝かせる野菊の花があった。
 鬼は花を摘もうとした。けれど、指が大き過ぎて花を潰すばかりだ。
 千鶴は代わりに花を摘んでやり、鬼に持たせてやった。すると、鬼は花を千鶴の髪に飾ろうとした。だけど、やはりうまくできないので、千鶴は鬼を手伝いながら自分で花を髪に挿した。
「どがぁ? おら、きれい?」
 千鶴は涙ぐみながら鬼に微笑んだ。
 鬼はにっこり笑うと、苦しそうに顔をゆがめた。
 千鶴は鬼の体にすがったが、どうしてやることもできない。鬼の息は次第に荒くなり、目もだんだんとうつろになってきた。
 鬼は気力を振り絞ったように千鶴を見つめ、何かを言いたげに口を動かした。だが、出て来るのは人の言葉ではなく獣の声だ。それでも、その声は千鶴を想う気持ちだと、千鶴にはわかっていた。
「進さん、がんごさん、死んだら嫌じゃ……。お願いやけん、死なんといて……。おらを独りぼっちにしたら嫌じゃ……。お願いやけん、ずっとねきにおって……」
 鬼はいとおしげに千鶴を見つめながら、涙を流すばかりだ。
 千鶴は何とか鬼を死なせまいと必死に考えた。そして鬼の右腰の所へ行くと、傷に顔を押し当てて流れ出る血を飲んだ。
 血だらけになった顔で鬼の前に戻ると、千鶴は言った。
「ほら! これで、おら、人でなしぞな。進さんのぃを飲んだんじゃけん、おら、人でなしになったんよ。やけん、進さん、おらに乗り移ってつかぁさい。がんごさん、おらと一つになって一緒に生きよ。な?」
 鬼は涙をこぼしながら首を横に振った。千鶴は鬼に縋り、こぶしたたいて、自分に乗り移るよう頼んだ。
 鬼は手を伸ばして千鶴を抱くように包むと、消え入るようなうなり声を出した。
 ――ありがとう。
 鬼の唸り声が、千鶴にはそう聞こえた。千鶴は鬼の手を抱きながら怒ったように泣き叫んだ。
「なして? おらが頼んどるんよ? お願いじゃ、おらに乗り移ってや! おら、がんごになりたいんよ! おら、がんごめになりたいんよ! お願いやけん、進さん、鬼さん! なぁ、進――」
 鬼はじっと千鶴を見つめていた。しかし、その目は千鶴よりずっと遠くを見ているようだった。
 千鶴を包んでいた手が、ずしりと千鶴に乗りかかって来た。千鶴は転びそうになりながら、その手にしがみついて鬼に呼びかけた。だけど、鬼は二度と動かなかった。
 突然、鬼の体全体から赤黒い霧が湧き起こった。千鶴は鬼の手から離れると、両腕を大きく広げ、さぁ!――と言った。
「進さん、がんごさん。おらに乗り移るんよ。おらと一緒に生きよ!」
 赤黒い霧は月の光に輝くような金色こんじきへと色を変えると、いとおしげに千鶴にまとわりついた。金色の光に包まれた千鶴を抱くのは、あのいとしい温もりだ。
 千鶴はこのまま進之丞や鬼と一つになるつもりでいた。しかし、やがて金色の霧は千鶴から離れて人の形になった。姿を現したのは進之丞だ。
「進さん!」
 千鶴は進之丞に駆け寄った。進之丞の体は宙に浮かび、向こうが透けて見える。
 進之丞を見上げながら千鶴が触れあぐねていると、進之丞は千鶴に語りかけた。
「千鶴。おまいのお陰で、みんな成仏でけるようになった。感謝するぞな」
「成仏? 成仏て何の話?」
がんご所詮しょせん、鬼じゃとあしらは思いよった。どがぁに優しいにしてもろても鬼は鬼。己が犯した罪が許されるはずがない。あしらはそがぁに考えよったんじゃ」
「あしらて……」
「申したように、がんごは怒りや悲しみ、未練や憎しみを抱えたまま、罪を犯し続けたもんらの魂が集まったもんぞな。みんな己が許されるとは思とらなんだし、何より己自身が許せなんだ。己なんぞ鬼がお似合いじゃと思いよったんじゃ。されど、千鶴。おまいの優しさ、お前の心が、あしらの凝り固まった想いを溶かしてくれた」
「おらの心が?」
「ほうよ。あしらを本気で想うてくれた、お前のまことの優しさのお陰で、あしらはもう己を許してもええんじゃなと思えるようになったんよ。ほれゆえ、あしらはがんごであることから解き放たれて成仏でけるようになったんぞな」
「じゃあ、もうがんごやなくなるてこと?」
「ほうじゃ。みんな成仏して、それぞれが行くべきとこへ行けるようになった。あしも含めて、みんながおまいに感謝しとるぞな」
 そう言うと、進之丞の姿はかき消えて再び霧に戻り、霧は四方に大きく広がった。
 霧は今度は数え切れないほどの人の姿となり、みんなで千鶴に頭を下げた。その中には、男もいれば女もいた。年寄りもいれば若者もいた。尼僧に化けていたあの老婆もいた。
 現れた者たちは頭を下げたまま霧に戻り、そのまま消えてしまった。ただ一塊いっかいの霧だけが鬼の死骸のそばに残り、そこから進之丞の声が聞こえた。
「千鶴、おまいは心のおもむくままに生きよ。されば、幸せが待っていよう。申しておくが、あしを追わい求めてはならぬ。あしのあとわっても、あしにうことはかなわぬぞ」
「ほれは、どがぁなこと? なして逢えんの?」
「あしはもはや過ぎ去りし記憶、過去の幻影に過ぎぬ。千鶴、今を生きよ。今にこそ、おまいまことの幸せが隠されておる。本来、お前に用意されておった幸せがな」
「嫌じゃ! 行ったら嫌じゃ!」
 進さん!――千鶴は霧を捕まえようとした。しかし、両腕は空しく宙を抱き、霧は消えてしまった。
 千鶴は鬼のむくろに縋って号泣ごうきゅうした。すると骸がぴくりと動いた。
 見ていると骸はみるみる縮んでいき、やがて人の姿に戻ってただゆきになった。
 血だらけの腰の傷から大きな銃弾がぽろりとこぼれ落ちると、忠之は一度だけ大きく息を吸った。でも、すぐにまた動かなくなった。
 千鶴は急いで石段を駆け上り、ねん和尚を呼びに行った。