対決
一
貴様は誰ぞ!――と進之丞は叫んだ。
「さぁ、誰かしらね」
振り返った女には角が生えていた。千鶴はぎょっとしたが、それは般若の面だった。
進之丞は女をじっとにらみながら言った。
「貴様、人ではないな」
女はほほほと笑い、そのとおりだよと言った。
「見てのとおり、あたしゃ本物の人でなしだよ。ろくでなしとも言うかしらね」
「千鶴、気ぃつけぇよ。こやつは人やない。あしと対の魔物ぞ」
千鶴は驚きながらも、やっぱりと思った。一方、女は進之丞の言葉が気に障ったらしい。
「失礼なことを言うんだね。あたしがお前と同じ化け物だって? あたしゃ人でなしだけど、お前みたいな木偶の坊とは違うんだよ。惚れた娘の家が潰れても何にもできず、身内が殺されても何にもできないお前なんか、ただの木偶の坊じゃないか!」
「すべては貴様の仕業か!」
怒りを見せた進之丞を千鶴は必死になだめた。その様子を見ながら、女は馬鹿にしたように笑った。
「やっぱり木偶の坊だねぇ。そんな小娘になだめられてるなんて」
千鶴は、きっと女をにらみつけた。
「あんた! あんたが――」
つや子なのかと千鶴が言おうとした時、よろめきながら姿を見せた井上教諭が、女に小刀を差し出しながら言った。
「もう、こんなことは……よしましょう……。所詮、僕なんか……鬼にはなれないし……、きっと、妹も……こんなことは……望んでませんから……」
女は高笑いすると、どこまで馬鹿な男なんだろう――と言った。
「あんたが鬼になれないことぐらい、端からわかってるよ。あんたは一度絶望したはずなのに、こっちへ来て元気になったみたいだからさ。もういっぺん絶望させてやりたかっただけなんだよ」
「な、何を――」
「まだ、わかんないのかい? ごろつきどもにあんたの妹を襲わせたのはね、このあたしなんだよ!」
そんな――井上教諭の顔がゆがんだ。
「花街の娘が殺されたっていう話も嘘。だいたいさ、あんたみたいな野暮ったい男に、あの娘が惚れるわけがないだろ? それなのに自分を知らないって言うか、図々しいって言うか、まったく自惚れが強い男さね。鬼になって気の毒な娘たちを助けるんだって? ほんと笑わせてくれるよ」
あははと笑う女の前で、井上教諭は項垂れて悔しそうに涙をこぼした。
「その顔、いいじゃないか。あたしゃ、その顔が見たくってね。それであんたを励ましてやったんだよ!」
自分と花江が襲われた時と同じだと千鶴は思った。
あの時、孝平と弥七は花江と千鶴を自分の物にできると期待していた。だが、実際は千鶴も花江も二人の前で、男たちに手籠めにされるところだったのだ。この女は千鶴たちだけでなく、孝平たちの絶望した顔も見たかったに違いない。
「あんたが横嶋つや子なんじゃね!」
千鶴が叫ぶと女は千鶴の方を向いて、大当たり!――と言った。
「横嶋つや子……?」
井上教諭は涙だらけの顔を上げて女を見た。
「あなたは本当は誰なんだ?」
「お黙り! 負け犬は黙ってな」
つや子は教諭を黙らせたが、千鶴は黙っていなかった。
「あんた、なして進さんの家族を殺したんね?」
「別に、どうだっていいじゃないか、あんな年寄りたちがいなくなったって、世の中何も変わりゃしないよ」
貴様!――と進之丞が巨大化しそうになると、千鶴はまた急いでなだめた。進之丞の着物は前が大きくはだけ、帯は今にも千切れそうなほど体に食い込んでいる。
体をわなわなと震わせている進之丞を見て、女は嘲笑った。
「そんな格好で怒ったってさ、おかしいばかりでちっとも怖くないよ。だいたい、あんた、鬼のくせに何怒ってるんだい? 自分だってこれまで何人も殺して来たくせにさ。ちょっと自分の身内が殺されたからって、文句を言える筋合いじゃないだろ?」
進之丞が唸り声を出した。千鶴は進之丞を制すると女に言った。
「あんたが進さんの家族殺したんは、進さんを怒らせて鬼に変化させよて思たんじゃろ!」
さぁねぇと惚けるつや子に、千鶴は唇を震わせた。
「あんた、畑山さんも殺したじゃろ!」
つや子はきょとんとしたように、はて、畑山?――と顎に手を当てて首を傾げた。
「あんたが、お祓いのおばあさんと一緒に殺した人ぞな!」
お祓いの婆のことを言われて、ようやく理解ができたらしい。あの男ね――とつや子は大きくうなずいた。
「あの馬鹿のことなら覚えてるよ。さっさと大阪で死んでりゃいいのにさ。こんな所へのこのこ出て来て、つまんないことに首を突っ込むんだもの」
「畑山というのは、大阪の錦絵新聞の男か?」
話に交ざった進之丞に千鶴はうなずいた。
「畑山さんは、おらたちのことを耳にして、わざわざ大阪から励ましにおいでてくんさったんよ。ほれで進さんのことを探してくれようとして、進さんも知っておいでる、あのお祓いのおばあさんを訪ねてくんさったんよ。その畑山さんとおばあさんを、この女が殺したんよ」
ほうじゃったかと進之丞が気の毒そうに言うと、つや子は腹立たしげにふんと言った。
「何を偉そうに。お前だって人殺しのくせに」
「進さんをあんたと一緒にせんで! 畑山さんにはね、これからお嫁入りする娘さんがおいでたんよ!」
「おや、そうだったのかい? それはおめでたいねぇ。そんな娘がいるのに死んじまうだなんて、ほんとにおめでたい男だよ」
楽しげに笑うつや子に、千鶴は怒りを露わにして言った。
「なして、あの人らを殺したんよ!」
「あたしの正体を知ったからさ」
進之丞の正体にも気づいた老婆である。畑山から相談を持ちかけられた時、老婆はつや子が魔物であると悟ったに違いない。
「あの婆はね、身の程知らずにも、あたしを封じようだなんて思い上がったことをしたのさ。婆が飛ばした言霊が鎖になって、あたしを縛り上げようとしてね。いきなり動けなくなったから、あん時はさすがのあたしも結構焦っちまった。だけど、あたしも必死に抵抗したからね。何とか動くことができたんだ」
「どがぁしておばあさんの家を見つけたん?」
「言霊ってぇのはね、諸刃の剣なんだよ。言霊を辿れば、それを飛ばしたやつの所へ行けるのさ。だけど、そこまで行くのは大変だったよ。婆の家がもう少し遠ければね、あたしも危ないところだったんだ。それで婆の家へ行ったら、あの男もそこにいたってわけさ」
ずっとつや子の声を聞いているうちに、千鶴はこの声には聞き覚えがあると思った。喋り方は違うが、思いつく人物はただ一人だ。
「あんた、もしかして三津子さんやないん?」
つや子はびくりとしたように動きを止めると、じっと千鶴を見据えた。それから、あの癇に障るような喋り方で楽しげに言った。
「ようやっと、わかってくれたん? うち、千鶴ちゃんがいつ気ぃついてくれるんじゃろか思て、はらはらしながら待ちよったんよ」
つや子は般若の面を取り、庇髪のかつらを脱ぎ捨てた。現れたのは髪の短い坂本三津子だった。
二
「道理で前々から怪しいと思いよった」
進之丞が憎々しげに言うと、三津子はころころ笑って、お互いさまぞな――と言った。
「じゃあ、まずは千鶴ちゃんとの約束を果たそうわいね」
三津子はえへんえへんと咳払いをすると、つや子の声で喋り出した。
「えー、あたくし横嶋つや子は、そっちの鬼の兄やん……じゃなかった、そちらの鬼のお兄さんに無実の罪をなすりつけ、千鶴ちゃんに多大なるご迷惑をおかけしましたことを、このとおりお詫びします」
三津子はぺこりと頭を下げ、再び頭を上げるとケタケタ笑った。
「その姿で、まんまとおらたちから話を聞き出しよったんじゃね」
千鶴が悔しげに言うと、三津子は楽しそうに言った。
「千鶴ちゃんはなかなか喋ってくれんけんね、幸ちゃんからいろいろ聞かせてもろたぞな」
「何も知らんお母さんを騙くらかして!」
「別に騙しちゃあおらんぞな。うちは坂本三津子として、幸ちゃんと会いよったんじゃけんね。ほんでも、幸ちゃんも全部は言うてくれんけん。あとはもう一人の抜け作の手代さんから、ちょくちょく話を聞かせてもろたんよ」
「弥七さんのこと言いよん?」
「そがぁな名前じゃったかいねぇ。ちぃとお茶をご馳走してやったらね。鬼の兄やんに千鶴ちゃん取られたこととか、千鶴ちゃんがロシアの貴公子と、お手紙のやり取りしよる話を教えてくれたんよ」
「じゃあ、ひょっとして……」
「いつやったかいねぇ。今日も千鶴ちゃんが夕方手紙出しに行くそうなて愚痴こぼすけんね。千鶴ちゃんはまだ自分の相手を決めたわけやないじゃろけん、あきらめたらいけんよて言うてあげたんよ」
それは鬼山喜兵衛と特高警察に襲われた、あの日のことに違いない。
「なして弥七さんが、おらが手紙出すこと知っとるんね?」
「そがぁなことは本人に訊いてちょうだいや。そげなことまでは聞いとらんけん」
あの日、千鶴が祖父と手紙についてのやり取りをしているのを、蔵から品出しをしていた亀吉たちは聞いていた。
恐らく弥七は午前に太物屋へ注文の品を届ける際に、その話を耳にしたのだろう。そして午後に一人で注文取りに出た時に、三津子と出会って喋ったのに違いない。
三津子と千鶴たちが言い合っているうちに、井上教諭はそろりそろりと三津子の後ろへ回り込もうとしていた。
三津子の背後まで回ると、井上教諭は小刀を振りかざして三津子に斬りかかった。だが三津子は気づいていたようで、教諭は三津子に足を払われて無様に倒れ込んだ。倒れた時に、折れた肋を打ちつけたらしく、ぐぅと呻いたきり動かなくなった。
「嫌やわぁ、この人。こがぁなか弱い女子に後ろから斬りかかるやなんて信じられん。ほんなん、男がすることやないで。ほんでも刃物を持ったとこで、やっぱし腰抜けは腰抜けじゃわいねぇ。まっこと情けない男ぞな」
三津子は井上教諭に近づき、この役立たず!――と言って、教諭の傷めた肋を容赦なく蹴飛ばした。
教諭は苦悶の声を上げると、天を仰いで、畜生!――と叫んだ。
「やめて! 傷ついとる人をさらに傷つけて何が面白いん?」
千鶴は教諭の傍へ駆け寄ろうとした。だが進之丞に引き留められて、にやにやする三津子をにらんだ。
「なして、そがぁにみんなを苦しめるん? しかも偽名まで使うやなんて、なしてそこまでするんね!」
「偽名? 千鶴ちゃん、何言うとるん? 横嶋つや子はうちの本名ぞな」
「え? じゃあ、坂本三津子の方が――」
「ほれも本名。うちはね、他にもいっぱい本名を持っとるんよ」
当惑する千鶴に代わって進之丞が言った。
「貴様、その女を喰ろうたな?」
三津子はむっとした顔になると腰に手を当て、もう!――と言った。だが、声はつや子の声だ。
「そういう下品な言い方やめてくんない? 東京であたしが財布抱えて死にそうなふりしてたらね。この女はあたしを介抱する真似して、あたしの財布を奪おうとしたんだよ。それじゃあ、あたしだって困るからさ。一応は抵抗をしたんだ。そしたらさ、この女、あたしの頭を石でがつんってね。それであたしは代わりにこの体をいただいたってわけさ。喰ったんじゃないよ。 いただいたの。前の体の代わりにね」
千鶴がぞっとすると、つや子は片眉を吊り上げて言った。
「何さ、そんな顔して。あんたは知らないだろうけど、この三津子っていう女はね、結構な性悪女だったのさ。あんたの母親を病院から追い出したのは、この女が仕組んだことなんだからね」
母が病院で聞かされた話と同じだと千鶴が思った時、つや子は三津子になった。
「千鶴ちゃん、ごめんね。うち、奥手じゃけん、なかなかほんまのことが言えん質なんよ。ほじゃけん、自分が惚れたロシアの兵隊さんにも、自分の気持ちをよう伝えんかったんよ。ほしたらね、あなたのお母さんが、その兵隊さんを横取りしてね」
子供までこさえよったんじゃい!――と三津子は男のような声で怒鳴った。
「あら、ごめんなさい。うちとしたことが、つい興奮してしもた。そがぁなわけでね、あなたのお母さんにちぃと仕返ししとなったわけなんよ。ほれで、院長先生に嘘の告げ口してしもたんやけんど、まさかほんまに子供こさえとったとはねぇ。あん時はまっことびっくりじゃったし、幸子さんて手が早い言うか――」
ほんまにあつかましい意地腐れ女ぞな!――とまた男のような声で三津子は喚いた。
「もう、またはしたない声出してしもた。恥ずかしいわぁ。とにかくね、うちはあなたのお母さんにひどい目に遭わされたわけ。うちがどがぁな気持ちじゃったか、千鶴ちゃん、わかってくれた?」
「そげなもん、わかるはずなかろ!」
千鶴が言い返すと、そうなのかいと三津子はつや子に戻ってにやにやした。
「千鶴ちゃんだったら、わかってくれるって思ったんだけどねぇ。千鶴ちゃんだってさ、自分が惚れた男を他の女に奪われそうになった時に、相手を恨んだんじゃないのかい?」
千鶴はぎくりとした。花江のことを言われているのかと思っていたが、つや子が話しているのは前世のことだった。
「あんたの場合、相手が近くにいなかったから、仕返しができなかっただけじゃないか。その分、あんたを裏切った男の方に、ひどいことをしたんじゃなかったかしらねぇ?」
進之丞が牙を剥いた。
「そこまでにしとけよ。ほやないと――」
「どうすんだい? あたしと勝負するつもりかい、この唐変木」
千鶴は進之丞をなだめると、つや子に言った。
「なして、あんたはおらたちを苦しめるん? おらも進さんもあんたに何もしとらんじゃろがね!」
「そんなのはそこの腰抜けも同じさ。あたしはね、むかつくのさ」
「むかつく?」
「異人の小娘のくせに日本人面するやつとか、鬼のくせに人並みの幸せを欲しがるようなやつにね、無性にむかつくんだよ!」
「ほれは貴様も対じゃろが!」
言うなり進之丞が飛びかかると、つや子は素早く大天守の石垣に飛び移った。石垣に張りつくつや子は、まるでヤモリのようだ。わずかな石の隙間に引っかけた手の指には鋭い爪が伸びている。足袋の先も鋭い爪が突き破り、その爪で石をしっかりつかんでいた。
つや子は石垣からさらに大天守の壁までさっとよじ登ると、そこから千鶴たちに毒気を吐いた。
「せっかく二人して死なせてやったのにさ、一緒に蘇って来るなんて、腹が立とうってもんだろ? だいたい、あんたね、鬼のくせに何だって地獄から戻って来るのさ。死んだんなら、ちゃんと死んでりゃいいんだよ!」
進之丞が近づくと、つや子はこそこそと違う場所に移動した。
「あたしを捕まえようったって無駄さ。それに、もうすぐ警察が来るよ」
「何?」
「あたしが呼んだのさ」
三
「あんたたちは、もう逃げられないよ。人攫いと殺人鬼、それに鬼に取り憑かれて狂った異人の小娘。それぞれ警察と病院の牢屋に入れられて、めでたしめでたしってわけさ。それとも鬼の姿のまま小娘を連れて逃げ回るかい?」
けらけら笑うつや子に、ほういうことか――と進之丞は言った。
「要するに、貴様は誰ぞに構てもらいたいんじゃな?」
つや子は笑いを引っ込めると、進之丞をにらんだ。
「馬鹿を言わないでおくれ。あたしがどうして人に構ってもらわないといけないのさ? あたしが構ってやってるんであって、あたしが構ってもらうことなんかないわさ」
「じゃったら、なして姿を見せた? あしらを貶めるぎりなら、何も姿を見せいでも、隠れて警察が来るんを眺めておればよかろ?」
「本当のことを教えてやることで、お前たちが苦しむ姿が見たいのさ」
「見たいんやのうて、見てもらいたいんじゃろ?」
進之丞が笑うと、つや子は顔をゆがめた。
「何を抜かすか、この鬼の風上にも置けない腐れ鬼めが! お前よりあたしの方が上だってことが、まだわからないようだね」
「あしより上? そこでヤモリみたいに張りついとることを言いよるんか? こそこそ逃げ回る以外、己じゃ何もできんくせに」
つや子はきぃっと牙を剥き、頭からにょきりと角が生えた。
「やっぱし鬼か。ほれも口先ぎりのひねくれ者。貴様、天邪鬼じゃな」
「あたしは、そんな名前じゃない!」
「思い出したぞ。あしに千鶴を喰らうよう唆したんは貴様じゃったな。あん時と姿は違ても、発せられとる気ぃが対ぞ」
え?――と千鶴は進之丞と天邪鬼の顔を見比べた。
進之丞は天邪鬼に顔を向けたまま、ちらりと千鶴を見て言った。
「寺でお前に饅頭をもろたあと、あしはお前の優しさにしばらく呆けたままじゃった。ほん時に此奴が現れて、そんなに優しさがいいのなら、その娘を喰ってしまえば、娘の優しさはお前ぎりのものと言いおった。愚かなあしは、ほれを名案じゃと思てしもたんよ。今思えば、己が情けのうて恥じ入るばかりぞな」
やはり天邪鬼が裏で糸を引いていたのかと、千鶴は天邪鬼に怒りの眼差しを向けた。
「進さん所のお女中のふりして、おらに進さんを疑うよう唆したんもあんたじゃ。みんな、あんたに騙されたんじゃ!」
「やれやれ。何、言いがかりつけてんだい。元々お前に進之丞を疑う気持ちがあったんじゃないか。あたしはその気持ちを膨らませてやっただけさ。そっちの馬鹿鬼にしたって同じだよ。あの娘が欲しいって思ってたから、じゃあ喰っちまったらどうだいと、背中を押してあげただけだろ? それを何だい、全部こっちのせいにして」
腹立たしさが募っているのだろう。進之丞は天邪鬼に牙を剥いて言った。
「千鶴を失うたと思いよったあしに、千鶴が風寄で生きておると、わざに教えに来たんは貴様じゃろが」
「落ち込んでるお前に、朗報を伝えてやっただけじゃないか。あの時、大喜びしたのを忘れたのかい?」
「貴様は千鶴を喰ろうたとこで、千鶴の優しさが手に入らぬことはわかっておったろ? わかった上であしを唆し、あしらが共倒れになるんを眺めよったんじゃろが」
「何とでも言うがいいさ。どっちみち、お前たちはおしまいだよ。前と同じように、みんなまとめて奈落の底へ落ちるがいい」
天邪鬼が言ったとおり、ここへ巡査が向かっているのであれば、急いでここを離れねばならない。だが、天邪鬼は簡単に逃がしてくれそうにはなかった。
千鶴は焦ったが、進之丞は平然として言った。
「愚かなやつめ。あしも愚かじゃったが、貴様はほれ以上の愚か者よ。貴様のようなやつには、お不動さまも手を焼いておいでよう」
「お不動さま? 鬼のくせに何がお不動さまだ! ふざけんじゃないよ」
「あしはもう、かつての荒くれた鬼やない。あしの中にはお不動さまがおいでるんぞ。そのことに、あしは気ぃがついたんじゃ」
天邪鬼は下品な声を出して笑った。
「鬼の中にお不動さまだって? 笑わせないでおくれ。お前はそこの娘にのぼせ上がって、狂っちまった哀れな鬼なのさ!」
天邪鬼の挑発には乗らず、進之丞は穏やかに言った。
「聞け、天邪鬼よ。お不動さまはな、誰の中にもおいでるんぞな。そがぁして、その者を正しき道へ導こうとしんさるんじゃ。貴様の中にもお不動さまはおいでるぞ。ただ、ほれに貴様が気ぃつかんぎりぞな」
「ふざけたことをお言いでないよ! あたしのどこにお不動さまがいるって言うんだい!」
興奮する天邪鬼を、進之丞は哀れむような目で見つめた。
「貴様、これまでちぃとでも胸が痛なったことはないんか? 貴様が喰ろうた者たちも、胸が痛なったことがあろうが」
「あたしが胸を痛めるなんてことは、これまで一度もないねぇ。お前とは鬼の出来が違うのさ」
聞く耳を持たない天邪鬼に、進之丞は尚も言った。
「胸の痛みいうんはの、お不動さまの痛みぞ。お不動さまは御自身の胸の痛みを通して、その者を導こうとしておいでるんぞな。あしは千鶴を想ううちに、そのことに気ぃついたんじゃ」
「戯けたことを! 鬼のくせに坊主にでもなったつもりかい?」
「貴様はほんまは寂しいんじゃろ? 独りぼっちなんがつらいんじゃろが。やが、ほれを認めるのが怖いんじゃろな。認めてしもたら己が惨めになると恐れとろ?」
天邪鬼は牙を剥き出して言い返した。
「誰が寂しいんだって? 独りぼっちの何が悪いんだい! あたしゃ一人でいるのが好きなのさ。だいたいね、誰かを信じるなんて馬鹿げたことさね。みんな、自分ばかりが大事なんだ。それが人間ってもんなのさ。口でどんなにきれい事を言ったって、そんなの全部嘘っぱちなんだよ!」
「人は過ちを犯して人を苦しめ、己自身をも苦しめる。やがの、過ちを許し許されることで、人は苦しみから解き放たれるんぞ」
「偉そうなことを! 許し許されたら苦しみから解き放たれる? だったら、お前はどうだい? まだ鬼のままじゃないか! そういうのをきれい事って言うのさ。わかった風なことを抜かすんじゃないよ!」
進之丞が口籠もると、今度は千鶴が代わって言った。
「人間に戻りたいけん許すとか許されるとか、この人はそげな下心があって言うとるんやないぞな。勘違いせんといて!」
「何がこの人だい。こいつは人じゃなくて鬼じゃないか!」
「あんたはほんまに可哀想な鬼やな。この人は優しさが欲しかったんじゃて、ちゃんと認めとるんよ。やのに、あんたはそげなこともでけんで、人の幸せ妬んでばっかしじゃ! 幸せが欲しいんなら、人の幸せ壊すんやのうて、幸せになりたいんじゃて素直に認めたらどがぁね」
「うるさい、うるさい! あたしゃ幸せなんか信じないよ! 幸せなんて全部偽物さ! そんなもの存在するもんか!」
天邪鬼はがさがさと大天守から這い降りると、千鶴たちを威嚇した。進之丞は千鶴を護るように前に出た。
「存在するなら、幸せを手に入れたいと申すのか?」
「違う違う! 幸せなんか全部紛い物だって言ってるんだよ!」
千鶴は進之丞の横に並んで言った。
「おらはこの人と一緒におれて幸せぞな。この人が鬼であろとなかろと、そげなことは関係ない。たとえ死んでも、この人とのつながりはずっと残るんよ。ほじゃけん何があっても、おら安心しよるぞな」
進之丞は千鶴の肩を抱いて言った。
「こげなことを言うてくれる千鶴と縁があったことを、あしは心の底から幸せに思とる。この命が奪われようと、この幸せはめげたりせんぞな」
嘘だ!――天邪鬼は完全に鬼の姿になると千鶴を罵った。
「お前なんか人殺しのくせに! お前がこいつを殺して鬼にしたんじゃないか。お前のせいで、こいつは鬼になったんだよ!」
やめて!――千鶴は耳をふさいでうずくまった。だが天邪鬼は尚も千鶴を責め続けた。進之丞が千鶴を抱きながら、やめろと言っても天邪鬼は聞こうとしない。千鶴は己の罪に押し潰されそうになり、その場に泣き崩れた。
「貴様、許さぬ!」
進之丞は天邪鬼を凄い形相でにらみつけた。その体はみるみる膨れ上がって行く。
怒りの咆哮が城を震わせた。千鶴が顔を上げた時には手遅れだった。そこには猛り狂った巨大な鬼が、今にも襲いかからんと天邪鬼に牙を剥いていた。
千鶴は鬼をなだめようと必死で叫んだ。しかし、もはや鬼の耳に千鶴の声は届かなかった。
四
風は強まり、近くに迫った黒雲が月を呑み込もうとしている。
月が隠れて辺りが闇に包まれれば、状況は天邪鬼に有利だと思われた。月の光があるうちに、天邪鬼を何とかしなければならない。
鬼は天邪鬼を捕まえようとした。だが天邪鬼の動きは素早くてなかなか捕まえられない。ひらりと大天守に張りついたかと思えば、ぴょんと飛び降りて鬼の脇を走り抜ける。まるで牛若丸と弁慶のようだ。
鬼が振り回した腕で外曲輪の樹木は無残に折れ、動き回った鬼の足で地面は大きくえぐれた。
鬼と天邪鬼が争っている間、千鶴は倒れていた井上教諭を助け起こして、安全な場所へ移動させようとした。
ところが、教諭は息をするのもつらいようだった。進之丞に折られた肋を、天邪鬼にも蹴りつけられて傷がさらに悪化したらしい。下手に動かすと激しく痛がるので、千鶴はなかなか教諭を動かせなかった。
それでも今がどんな状況なのかは、井上教諭もわかっていた。千鶴に申し訳ないと言いながら痛みをこらえ、何とか千鶴の肩を借りて立ち上がった。
しかし、やはり男一人の体は重い。千鶴は天神櫓の陰へ隠れようとしたが、思ったように速くは動けない。
その間、天邪鬼は鬼をからかいながら、あちらこちらへと走り回っていたが、落ちていた小刀を拾うと鬼に言った。
「お前たちは死んだって平気なんだろ? ほんとにそうなのか試してあげようね」
天邪鬼は千鶴と教諭の前に来ると、にたりと笑った。あっと思う間もなく、天邪鬼は小刀を千鶴の胸に向けて飛びかかって来た。
教諭に肩を貸しているので、千鶴は動けない。千鶴を護ろうと鬼が手を伸ばしたが、天邪鬼の方が速かった。
その刹那、井上教諭が千鶴を突き飛ばした。天邪鬼の小刀は教諭の胸を貫いた。
一瞬驚いた様子の天邪鬼の腕を、教諭は両手でしっかりとつかんで言った。
「これ以上……、お前の好きに……させる……もの……か」
天邪鬼はきぃっと教諭をにらんで蹴り倒した。その隙を逃さず、鬼は天邪鬼を捕らえてつかみ上げた。
「先生!」
千鶴は井上教諭に駆け寄ったが、教諭はにらんだ顔のまま動かない。教諭の胸はどんどん黒く染まって行く。
千鶴は教諭を抱き起こすと、何度も声をかけた。だが、教諭は何も言ってくれなかった。
一方、天邪鬼は小刀を振り回し、鬼の指に噛みついた。しかし、鬼が天邪鬼をつかんだ手を握りしめると、ぎぇぇ――と絶叫した。ぼきぼきと骨が折れる音が聞こえ、天邪鬼はぐったりとなった。
鬼は両手で天邪鬼をつかむと、そのまま引きちぎろうとした。
「やめて、殺したらいけん!」
千鶴は教諭から離れると、鬼に叫んだ。
今度は千鶴の声が聞こえたようで、鬼は両手で天邪鬼をつかんだまま恨めしそうに千鶴を見た。
「そこまでにしとくんよ。殺したらいけんぞな。ほれとも、もう死んでしもたんじゃろか?」
鬼は天邪鬼を千鶴に見せた。天邪鬼はぐったりしているが、呻き声を出している。まだ生きているらしい。
「もういけんかもしれんけんど、とにかく殺生はいけんぞな」
千鶴にそう言われると、鬼は再び悔しげな咆哮を上げ、腹立たしげに天邪鬼を南の門の方へ投げ捨てた。
天邪鬼は二ノ門と三ノ門の間にある壁にぶつかり地面に落ちた。死んだかのように見えたが、まだわずかに動いている。
千鶴は早く元の姿に戻るよう鬼に促すと、再び井上教諭の傍へ駆け寄った。だが、教諭はにらんだ顔のまま事切れていた。
「先生……。先生みたいなお人が、なしてこがぁなことに……」
千鶴は泣きながら教諭の目を閉じてやり、体を真っ直ぐにして、両手を腹の上で組ませてやった。それから井上教諭の亡骸に向かって手を合わせ、命を救ってくれたことを感謝した。また、自分が教諭を引き込んでしまったことを詫びた。
すると、嫌だ、嫌だよ――と、か細く泣きそうな声が聞こえた。
見ると、天邪鬼が石垣に縋りながら、必死に体を起こそうとしていた。しかし、すぐに転がるように倒れると、また泣きそうな声でつぶやいた。
「死にたくない……。死ぬのは嫌だ……。地獄なんか……行きたくないよ……」
天邪鬼は二ノ門の方へずるりずるりと這って行く。その様子を見ながら、鬼は悔しそうに唸っていた。
「進さん、何しよんね。早よ元の姿に戻らんと警察が来るで!」
千鶴は涙を拭いて鬼に声をかけると、急いで進之丞の破れた着物や帯などを拾い集めた。
「誰か……、誰か……」
取り憑く相手を求める天邪鬼の悲しげな声は、辛うじて聞き取れるほど小さく哀れだった。
鬼になった進之丞がそうであったように、取り憑ける者がいなければ、天邪鬼も地獄へ堕ちるのに違いない。天邪鬼はそれが嫌で、これまで何人もの人間に取り憑き続けて来たのに違いない。しかし、それもこれで最後である。
天邪鬼が向かう地獄がどんな所か知らないが、救ってくれる者が現れなければ、未来永劫にその地獄に留まることになるのだろう。
二ノ門の向こうに天邪鬼が消えると、千鶴は鬼を振り返った。だが、鬼はまだそのままの姿だった。
「どがぁしたん? なして元の姿に戻らんの?」
鬼は困惑の様子で何か言おうとした。だが、それはもう言葉にはならない唸り声だった。
「進さん、ひょっとして戻れんなってしもたん?」
以前に進之丞は鬼になることを繰り返していれば、人には戻れなくなると言っていた。そのため為蔵夫婦が殺されたことで、進之丞は鬼から人に戻れなくなったと千鶴は思っていた。
しかし、ここで再会した進之丞は人の姿だった。だから、もう一度人間に戻れると思ったのだが、ついに限界が来たらしい。
「ほんな……、やっと……、やっと逢えたのに……」
千鶴の目から再び涙があふれた。
雨がぽつりぽつりと降り始め、涙と一緒に千鶴の顔を濡らした。
「うわぁ、化け物じゃ!」
突然、男の声が聞こえた。一ノ門辺りに誰かがいるらしい。外へ這って出ようとした天邪鬼を見つけたのに違いない。
騒ぐ声からすると、いるのは複数のようだ。恐らく天邪鬼が呼んだ巡査たちだろう。
本壇から出られるのは、巡査たちがいる所だけだ。それは、ここからもう逃げられないということを意味していた。
「進さん」
千鶴はあきらめて鬼を見上げた。生きるも死ぬも一緒だと、千鶴は覚悟を決めた。
雨交じりの風が、千鶴たちの脇を吹き抜けて行った。
鬼は千鶴を胸に抱えると、巡査たちがいるのとは反対の、北側の土塀を跳び越えた。ふわりと宙に浮いた感覚のあと、ずしんと地面に落ちた振動が、鬼の体を通して千鶴にも伝わって来た。
下はまだ本丸だが本壇の外だ。取り敢えずは巡査たちから逃げることができたようだ。ただ、井上教諭の亡骸がそのままだった。
千鶴は鬼に抱かれたまま本壇に向かって手を合わせ、教諭を置いて行くことを心の中で詫びた。
その時、うわわと言う男の声がした。
鬼と千鶴がそちらを振り向くと、猟銃を抱えて提灯を手にした男が、腰を抜かしたのか地面に尻餅をついている。
途端に月が黒雲に隠れて、辺りは真っ暗になった。明かりと言えるのは、男が持った提灯の灯だけだ。
雨は急速に強まり始め、千鶴たちの体を濡らして行く。
鬼を見て驚いた男は、月が隠れるまでの一瞬の間に、鬼に抱かれた千鶴を見たらしい。
「千鶴? 千鶴か?」
男の顔は見えないが、震えたようなその声は甚右衛門だった。
「おじいちゃん?」
「やっぱし千鶴か。くそっ、鬼め。お前なんぞに千鶴を連れて行かせるかい!」
甚右衛門は提灯を地面に置いた。暗くてよくわからないが、猟銃の準備をしているらしい。
「おじいちゃん、違うんよ。この鬼は悪い鬼やないんよ!」
千鶴が叫んだ時にばりばりと雷鳴が轟き、千鶴の声はかき消された。
まばゆい閃光が走り、一瞬辺りが明るくなったと思うと、どーんというけたたましい轟音が、そこにあるものすべてを震わせた。
光の中で、猟銃を持って立ち上がった甚右衛門の目と、千鶴、そして鬼の目が合った。
改めて見上げた鬼に気後れしたのか、甚右衛門は猟銃を構える間もなく、辺りは再び闇に呑み込まれた。
ざーっと打ちつけるような雨が降り出した。
千鶴は必死に鬼のことを甚右衛門に伝えようと叫んだ。だが雨音に消された千鶴の声は、ただの叫びにしか聞こえなかった。それは甚右衛門には救いを求める声に聞こえたのだろう。
「千鶴、待っとれよ。今助けてやるけんな!」
「やめて、おじいちゃん、やめて!」
旦那さん――鬼はそう言おうとしたのだろう。千鶴にはそれがわかった。しかし、その声は唸り声にしかならなかった。
鬼が千鶴を渡そうと甚右衛門に近づいた時、すぐ近くに雷が落ちた。凄まじい轟きとまばゆい閃光が、ほぼ同時に辺りを呑み込み、一瞬時が止まったかのように思えた。
白い光の中で、千鶴たちに銃口を向けたまま、驚いたように目を見開いた甚右衛門の顔が見えた。思ったよりも鬼が近くに迫っていたため、恐怖で固まったようだ。それは甚右衛門の思考が止まっていることを意味していた。
あっと千鶴が思った刹那、雷鳴の余韻を切り裂くような猟銃の音が聞こえた。辺りは再び闇に包まれ、あとに聞こえるのは激しい雨音だけだった。
五
千鶴は鬼に包まれるように抱かれていた。
鬼が跳び上がったのか、千鶴は宙を飛んでるように感じた。続けて、ずしんと鬼の足が地面につく振動が響く。
鬼は城山の斜面を駆け下りたようだ。何度も木の枝が折れる音が聞こえたが、鬼の腕に護られた千鶴を木の枝が傷つけることはなかった。
相変わらず稲光が狂ったように閃光を放ち、雷鳴が轟いている。それでも千鶴は鬼の胸に抱かれていたので、鬼の腕の隙間から、わずかに光を見るばかりだった。
鬼は山の麓へ下りたあとも、止まらずに走り続けた。
雨はさらに強く打ちつけるように降っている。外に出ている者は誰もいないようだ。鬼を見て驚く声はなく、激しい雨音と走る鬼の足音だけが、同じ調子で聞こえている。
雨は冷たいが、鬼の体は温かかった。その温もりは千鶴の体だけでなく、心までも温めてくれる。しかし、その温もりはいつもの温もりと違い、必死に千鶴を温めようとしてくれているようだった。
鬼の胸に耳を当てると、中で鼓動を打つ心臓の音が聞こえる。
地獄で鬼が己の心臓をつかみ出したのは、千鶴への想いを断ち切るためだった。
今聞こえているこの心臓の音は、自分を想ってくれる鬼の心なのだと千鶴は思った。千鶴は鬼の温もりを感じながら、じっと鬼の心臓の音に耳を傾け続けた。その心臓の音は、まるで泣いているようだった。
どこを走っているのかはわからない。気がつけば、鬼の荒い息づかいが聞こえた。心臓の鼓動の音も初めと比べると、どんどん速くなっている。不安になった千鶴の鼓動も、同じように速くなって行く。
どれだけ走ったのだろう。長い時が過ぎていた。やがて雨音が静かになった頃、鬼の足取りは重くなっていた。
鬼が足を止めた時、再び月が顔を出した。千鶴は鬼の指の隙間から辺りの様子を窺った。
初めはそこがどこだかわからなかった。しかし、月の光に照らされた丘へ登る石段が見えると、千鶴はそこが法生寺のある丘の麓だとわかった。
鬼は石段は登らず、その近くでがっくりと膝を突いた。千鶴をそっと降ろしたあと、鬼は崩れるように倒れた。
見ると、右の腰から血がどくどくと流れている。千鶴をかばったために、甚右衛門が撃った弾が当たったのだ。
「進さん、しっかりして!」
千鶴は鬼に呼びかけた。鬼は倒れたまま微笑んだが、醜い顔が涙ぐんでいる。
「おら、和尚さん、呼んで来るけん!」
千鶴は急いで石段へ向かおうとした。しかし、鬼は小さく首を振り、千鶴の後ろへ手を伸ばした。そこには月明かりに雨の滴を輝かせる野菊の花があった。
鬼は花を摘もうとした。だが、指が大き過ぎて花を潰すばかりだった。
千鶴は代わりに花を摘んでやり、鬼に持たせてやった。すると、鬼はそれを千鶴の髪に飾ろうとした。だが、それもうまくできないので、千鶴は鬼を手伝いながら自分で花を髪に挿した。
「どがぁ? おら、きれい?」
千鶴は涙ぐみながら鬼に微笑んだ。
鬼はにっこり笑うと、苦しそうに顔をゆがめた。
千鶴は鬼の体に縋ったが、どうしてやることもできない。鬼の息は次第に荒くなり、目もだんだんと虚ろになって来た。
鬼は気力を振り絞ったように千鶴を見つめ、何かを言いたげに口を動かした。だが、出て来るのは人の言葉ではなく獣の声だった。それでも、それが千鶴を想う気持ちであることが、千鶴にはわかっていた。
「進さん、鬼さん、死んだら嫌じゃ……。お願いやけん、死なんといて……。おらを独りぼっちにしたら嫌じゃ……。お願いやけん、ずっと傍におって……」
鬼は愛おしげに千鶴を見つめながら、涙を流すばかりだった。
千鶴は何とか鬼を死なせまいと必死に考えた。そして鬼の後ろに回ると、腰の傷に顔を押し当てて流れ出る血を飲んだ。血だらけになった顔で鬼の前に戻ると、千鶴は言った。
「ほら! これで、おら、人でなしぞな。進さんの血を飲んだんじゃけん、おら、人でなしぞな。やけん、進さん、おらに乗り移ってつかぁさい。鬼さん、おらと一つになって一緒に生きよ。な?」
鬼は涙をこぼしながら首を横に振った。
千鶴は鬼に縋り、拳で叩いて、自分に乗り移るよう頼んだ。
鬼は手を伸ばして千鶴を抱くように包むと、消え入るような唸り声を出した。
――ありがとう。
鬼の唸り声が、千鶴にはそう聞こえた。千鶴は鬼の手を抱きながら怒ったように泣き叫んだ。
「なして? おらが頼んどるんよ? お願いじゃ、おらに乗り移ってや! おら、鬼になりたいんよ! おら、がんごめになりたいんよ! お願いやけん、進さん、鬼さん! なぁ、進――」
鬼はじっと千鶴を見つめていた。だが、その目は千鶴よりずっと遠くを見ているようだった。
千鶴を包んでいた手が、ずしりと千鶴に乗りかかって来た。千鶴は転びそうになりながら、その手にしがみついて鬼に呼びかけた。しかし、鬼は二度と動かなかった。
突然、鬼の体全体から赤黒い霧が湧き起こった。千鶴は鬼の手から離れると、両腕を大きく広げ、さぁ!――と言った。
「進さん、鬼さん。おらに乗り移るんよ。おらと一緒に生きよ!」
赤黒い霧は月の光に輝くような金色へと色を変えると、愛おしげに千鶴にまとわりついた。
金色の光に包まれた千鶴を抱くのは、あの愛しい温もりだった。
千鶴はこのまま進之丞や鬼と一つになるつもりでいた。しかし、やがて金色の霧は千鶴から離れて人の形になった。姿を現したのは進之丞だった。
「進さん!」
千鶴は進之丞に駆け寄った。だが、進之丞の体は宙に浮かび、向こうが透けて見える。
進之丞を見上げながら千鶴が触れあぐねていると、進之丞は千鶴に語りかけた。
「千鶴。お前のお陰で、みんな成仏でけるようになった。感謝するぞな」
「成仏? 成仏て何の話?」
「鬼は所詮、鬼じゃとあしらは思いよった。どがぁに優しいにしてもろても鬼は鬼。己が犯した罪が許されるはずがない。あしらはそがぁに考えよったんじゃ」
「あしらて……」
「言うたように、鬼は怒りや悲しみ、未練や憎しみを抱えたまま、罪を犯し続けた者らの魂が集まったもんぞな。みんな己が許されるとは思とらなんだし、何より己自身が許せなんだ。己なんぞ鬼がお似合いじゃと思いよったんじゃ。されど、千鶴。お前の優しさ、お前の心が、あしらの凝り固まった想いを溶かしてくれた」
「おらの心が?」
「ほうよ。あしらを本気で想うてくれた、お前の真の優しさのお陰で、あしらはもう己を許してもええんじゃなと思えるようになったんよ。ほれ故、あしらは鬼であることから解放されて成仏でけるようになったんぞな」
「じゃあ、もう鬼やなくなるてこと?」
「ほうじゃ。みんな成仏して、それぞれが行くべき所へ行けるようになった。あしも含めて、みんながお前に感謝しとるぞな」
そう言うと、進之丞の姿はかき消えて再び霧に戻り、霧は四方に大きく広がった。
それは今度は数え切れないほどの人の姿となり、みんなで千鶴に頭を下げた。その中には、男もいれば女もいた。年寄りもいれば若者もいた。尼僧に化けていたあの老婆もいた。
現れた者たちは頭を下げたまま霧に戻り、そのまま消えてしまった。ただ一塊の霧だけが鬼の死骸の傍に残り、そこから進之丞の声が聞こえた。
「千鶴、お前は心の赴くままに生きよ。されば、幸せが待っていよう。言うておくが、あしを追わい求めてはならぬ。あしの後を追わっても、あしに逢うことは敵わぬぞ」
「ほれは、どがぁなこと? なして逢えんの?」
「あしはもはや過ぎ去りし記憶、過去の幻影に過ぎぬ。千鶴、今を生きよ。今にこそ、お前の真の幸せが隠されておる。本来、お前に用意されておった幸せがな」
「嫌じゃ! 行ったら嫌じゃ!」
進さん!――千鶴は霧を捕まえようとした。しかし、両腕は空しく宙を抱き、霧は消えてしまった。
千鶴は鬼の骸に縋って号泣した。すると骸がぴくりと動いた。
見ていると骸はみるみる縮んで行き、腰の傷から銃弾がぽろぽろとこぼれ落ちた。やがて骸は人の姿に戻って忠之になった。
忠之は一度だけ大きく息を吸った。だが、すぐにまた動かなくなった。
千鶴は急いで石段を駆け上り、知念和尚を呼びに行った。