終わりのない悲しみ
一
法生寺に運ばれた忠之は奇跡的に息を吹き返した。だが、ほとんど仮死状態で呼吸も脈も著しく遅かった。
まだ外は暗かったが、知念和尚は寺男の伝蔵を北城町まで医者を呼びに走らせ、安子に清潔な木綿布を用意させた。安子が木綿布を持って来ると、和尚はその布を忠之の傷に当てて、上からしっかりと押さえ込んだ。これ以上の出血を防ぐためだ。
千鶴は医者が来るまでの間、忠之が実は前世で夫婦約束をした進之丞であり、進之丞が鬼になってしまったことや、今まで自分たちを助けてくれたことを和尚夫婦に話した。またすべての事件の犯人は天邪鬼で、天邪鬼を成敗した進之丞が甚右衛門に猟銃で撃たれたことを、泣きながら説明した。
殺人犯として追われていた忠之が、こんな形で見つかったことに和尚夫婦は驚いたが、千鶴の話はさらに二人を驚かせた。けれど二人は千鶴の話を疑わなかった。現に瀕死状態の忠之が、松山にいたはずの千鶴と一緒にここにいるからだ。
和尚と安子は動揺して泣き続ける千鶴を慰め、忠之はきっと大丈夫だからと言った。
間もなくして到着した医者は、眠たげな顔で忠之の状態を確かめながら、どうしてこの男はこんな怪我をしたのかと訊ねた。
千鶴が説明できずにいると、山でイノシシに襲われたらしいと知念和尚が言った。医者は何でまたこんな時刻に山にいるのかと訝しみながら、忠之の腰の傷を丹念に調べた。
知念和尚が傷を押さえてくれていたからか、出血はほとんど止まっていた。だが、電灯の下で見る忠之の顔も体も血の気が失せて白っぽく、出る血がなくなったので血が止まったようにも思われた。
「ちょうど赤痣の所を傷つけてしもたけん、血ぃがようけ出たんじゃろ。ほれはともかくやな、この傷はイノシシの傷とは思えんが、はて?」
首を傾げながら忠之の傷を消毒した医者は、自身の指も消毒して傷口の中へ差し込んだ。千鶴も和尚たちも思わず顔をしかめたが、医者は涼しい顔で傷の深さを確かめた。
「鉄砲で撃たれたんかと思たが、弾はないようやな。ほれと傷は深いけんど内臓までは届いとらんな」
「イノシシの長い牙でやられたろうか?」
知念和尚が惚けて喋ると、違うなと医者は言った。
「イノシシの牙でやられたんなら引き裂かれとろ。ほれにイノシシは噛むけん、他の傷もあるはずぞな」
「じゃったら何じゃと思いんさる?」
「ほうじゃな……。何ぞ長い物を突き刺したんかもしれまい。転んだ拍子に枯れ枝が刺さったとか」
「なるほど。ほうかもしれん」
医者は顔を上げると、和尚に訊ねた。
「ほれにしても、なしてこの男はこげな時刻に山で怪我をするんぞな?」
「ほれは……」
和尚が口を濁すと、医者は三人の顔を見まわし、もう一度忠之を見た。
「ひょっとして、この男……」
医者が眉間に皺を寄せると、和尚も安子も即座に忠之は無実だと訴えた。
「この子は何もしとらんけん。みんなが疑うけん、この子は山に隠れよったんぞな」
「この子が山陰の者やなかったら、逃げたりしませんでした」
必死に喋る和尚たちを制して、医者は言った。
「心配せいでも誰にも言わんけん。この男が何者であれ、わしにとっちゃあ一人の患者に過ぎん」
医者の言葉に和尚たちが安堵しかけると、ただな――と医者は言った。
「恐らくこの男は助かるまい。あまりにも血ぃが出てしもとる。傷に指突っ込んでもちっとも痛がらんのは、死にかけとるいうことぞな」
和尚夫婦は顔を強張らせ、言葉を失った千鶴は顔をゆがめた。千鶴を見た和尚は、医者に懇願するように言った。
「先生、何とかならんのかなもし」
医者は手を拭きながら力なく言った。
「悪いが、わしにでけることは何もない。まことに申し訳ない」
ほんな――と千鶴は絶望に泣き崩れた。千鶴にとって忠之はまだ進之丞だった。
知念和尚と安子は改めて手を尽くすよう医者に頼んだ。しかし医者は申し訳ないと言うばかりで、診察鞄を手に持つと千鶴たちに頭を下げた。
伝蔵に提灯持ちを頼み、医者を送り出した知念和尚と安子は、できるだけのことをしてみようと嗚咽する千鶴を励ました。
和尚たちの言葉にうなずくと、千鶴は口移しで忠之に水を飲ませてやった。すると、忠之はごくりと飲み込んだ。忠之はまだ生きようとしていた。和尚と安子は興奮した顔を見交わした。
忠之の体は死人みたいに冷たかった。知念和尚は忠之を温めるため布団を重ねた。それから千鶴に忠之の傍にいてやるよう頼むと、湯たんぽを用意しに行った。
安子は千鶴の濡れた着物を着替えさせると、忠之に食べさせるお粥を作りに台所へ向かった。
二人がいなくなると、千鶴は着替えたばかりの着物を脱いで布団に入り、忠之を抱いて自らの肌で温めた。千鶴も雨で冷えてはいたが、忠之の体はひんやり冷たかった。
忠之を抱きしめても、いつもであれば感じられるあの温もりが感じられない。忠之が死にかけているからかもしれないが、忠之が進之丞ではない証にも思える。
姿形は進之丞と同じでも、もはやこの人は別人なのだと思うと、千鶴は悲しくなった。
それでも一縷の望みとして、忠之が無事に生き延びて目を覚ました時に、そこに進之丞がいることを千鶴は期待していた。そのわずかな期待が今の千鶴を何とか支えてくれていた。そのためにも忠之を死なせるわけにはいかなかった。
知念和尚が湯たんぽを持って来ると、千鶴は忠之から離れた。布団に千鶴の温もりは残ったが、忠之の体は冷たいままだ。
布団から出た千鶴が裸だったので、和尚は慌てて湯たんぽを落としそうになった。
和尚は顔を横に背けたまま千鶴が着物を着るのを待ち、湯たんぽを二つ千鶴に渡した。
「千鶴ちゃんも体が冷えとるけん、これを抱いとりんさいや」
布でくるんだ湯たんぽを千鶴に渡すと、和尚はお茶を淹れに再びいなくなった。
湯たんぽから伝わる温もりは、和尚夫妻の温もりのようだ。今の千鶴にはこの温もりは何物にも代えがたかった。
忠之の布団に一つを入れたあと、千鶴はしばらく湯たんぽを抱いていた。でもすぐにそれも忠之の布団に入れてやり、もう一度忠之に口移しで水を飲ませた。気持ちは進之丞を介抱しているつもりだった。
しばらくしたら、知念和尚が急須と湯飲みを載せたお盆を持って戻って来た。
忠之の枕元に座る千鶴の傍らで、和尚は急須のお茶を湯飲みに注いだ。それを千鶴に手渡すと、残りを自分の湯飲みに注いだ。
振り返れば、畑山の死を確かめるために病院を出て以来、千鶴は何も口にしていなかった。一口飲んだ熱いお茶は、千鶴に日常の香りを思い出させてくれた。それは懐かしく悲しい香りだった。
前世で死に別れた二人が今世で再会し、困難を乗り越えながらここまで来た。そしてつい四日前、進之丞は祖父たちに頭を下げ、千鶴をもらいたいと言ってくれた。なのに今はもういない。本当なら今頃は、千鶴は進之丞の嫁として風寄を訪れていたのだ。
湯飲みを持ったまますすり泣く千鶴を、知念和尚は黙ったまま見守っていた。初めの千鶴の説明では、本当のところは状況がよくわからなかったと思われるが、和尚は何も訊かずに千鶴が泣くに任せていた。
やがて安子がお粥を運んで来ると、千鶴は口移しで忠之に食べさせてみた。すると、忠之はそれも飲み込んだ。
千鶴は泣くのを忘れ、夢中になって忠之にお粥を食べさせた。ただ、意識がない者に大量には食べさせられない。間違って喉を詰めたり、胸に入ってしまうと大事になる。
時折忠之がむせると、千鶴は慌てて背中をさすってやり、ごめんなさいと詫びた。
和尚夫婦が千鶴にもお粥を食べるよう促、千鶴は根気よく忠之にお粥を与えながら、自分も同じお粥を口にした。
「今はこれぐらいにしとこうわいね」
しばらく忠之にお粥を食べさせたあと、安子が言った。千鶴はお椀を置いた。
食べさせられたのは、わずかのお粥だ。だけど、忠之は食べてくれた。それは千鶴にとって、かすかな希望の光となった。
千鶴は知念和尚と安子に向き直ると、これまでのことを改めて洗いざらい語った。和尚たちには信じられない話だったろうが、二人は千鶴の話に素直に耳を傾けてくれた。
知念和尚と安子が知る忠之は二年の間、進之丞に心身ともに乗っ取られた状態にあった。なのに二人とも進之丞を不憫に思い、知念和尚は進之丞のためにお経を上げてくれた。
お経を終えた和尚は、昨日為蔵とタネの葬儀が執り行われ、二人が山陰の者たちの墓地に埋葬されたことを話した。その同じ日に進之丞が天邪鬼を倒して二人の仇を取ってくれたのだなと、和尚は着物の袖で目頭を押さえ、安子も黙ったまま涙ぐんだ。
為蔵とタネの死は悲しいものだが、忠之にとっても重大な出来事だ。忠之が運よく生き延びられたとしても、そこに待っているのは最悪の悲劇なのだ。
けれど、千鶴はまだ忠之を思いやる気持ちが持てなかった。頭の中は進之丞のことばかりで、進之丞が心と体を奪っていた忠之には、申し訳なかったという気持ちすら湧いてこなかった。
少し寝なさいと言われ、千鶴は忠之の隣に敷いてもらった布団に入った。しかし眠る気分ではないし、寝ている間に忠之が死んだらどうしようと思うと、不安で眠れない。
千鶴は自分の布団を抜け出すと、忠之の布団に入って添い寝をした。でも、やはり進之丞の温もりは感じられないし、忠之の体は冷たいままだ。
忠之が生き延びるよう不動明王にお願いしたが、それ以外はこれまでのことが頭の中に繰り返し浮かんでくる。それは畑山や井上教諭の死などつらいことばかりだ。中でも一番つらいのは、前世で進之丞の命を奪ってしまったことだった。進之丞を包丁で刺した感触が蘇ると、千鶴は体は震えて涙が止まらなかった。
忠之の右腰にある赤痣は、千鶴が刺した傷と同じ場所にある。痣の形も刺された傷のように見える。きっとあの痣は進之丞の無念が形になったものに違いない。そこを祖父に猟銃で撃たれて進之丞と鬼は死んだ。撃たれたのが痣でなければ助かったかもしれず、今度のことも自分のせいだと千鶴は泣きながら自分を責めた。
二
松山では、千鶴が鬼に攫われたと甚右衛門たちが打ちひしがれているに違いなかった。そのため千鶴が無事で法生寺にいると、急いで伝えてやる必要があった。
夜が明けると、知念和尚は春子の実家へ電話を借りに行ってくれた。春子の実家は寺からさほど遠くはない。しかし、和尚が戻って来たのは思ったよりも遅かった。和尚は疲れた顔で、村長たちからいろいろ訊かれて往生したと言った。
電話の先は伊予絣の同業組合事務所だ。甚右衛門たちは組合長の世話になるという話だったので、組合長に言えば甚右衛門たちに話が伝わると知念和尚は考えていた。
ところが事務所に組合長は出て来ておらず、和尚は代わりに出た者に言伝を頼んだ。千鶴が忠之に会うために、夜の間に雨の中を一人で風寄まで歩いて来たというものだ。甚右衛門が聞けば嘘だとわかる話なので、とにかく千鶴ちゃんは寺におると伝えてほしいと強調して和尚は電話を切った。
その話を和尚の横で修造たちがずっと聞いていたらしく、みんなで千鶴を慰めに来ると言うのをなだめるのに時間がかかったそうだ。
そうして知念和尚が伝えた話が、果たして甚右衛門に伝わったかどうかは定かではなかった。伝わったところで、本気にしてもらえるかもわからなかった。
だがこの日の昼前に、甚右衛門はトミと幸子を連れて三人で乗合自動車で風寄へやって来た。
法生寺を訪れた甚右衛門たちは、何が起こったのかをまったく知らなかった。唯一わかっていたのは、千鶴が鬼に連れ去られたということだけだ。三人は法生寺には来たものの、千鶴がここにいるという話には半信半疑に見えた。
甚右衛門たちは不安げな顔のまま、安子に案内されて部屋に入って来た。そこで千鶴を見つけると驚きを隠さずに駆け寄って、本物の千鶴なのかと確かめた。
そのあと、近くの布団で寝ているのが忠七だとわかると、これはどういうことかと、三人とも戸惑いと不審のいろを浮かべた。
何故忠七がここにいるのかと訊ねられても、千鶴は涙が出て返事ができなかった。知念和尚は千鶴に代わって、実はな――と鬼の正体は忠七だったと三人に話した。
とはいえ、いきなりそんな話を聞かされても信じられるわけがない。鬼は千鶴を攫った魔物であり、忠七は千鶴や山﨑機織を護り続けた千鶴の夫となる男なのだ。
「これは、あなたが猟銃で撃ちんさった傷ぞな」
知念和尚は忠之の右腰の傷を甚右衛門に示し、忠之の体から出て来た銃弾も見せた。甚右衛門は和尚から手渡された銃弾を確かめ、もう一度忠之の傷を見た。
城山での出来事を、甚右衛門はまだ知念和尚たちには話していなかった。なのに和尚から猟銃の話をされて愕然としていた。
甚右衛門は千鶴を見ると、ほうなんかと言った。千鶴が涙ぐんで黙ってうなずくと、甚右衛門はうろたえてトミや幸子と戸惑う顔を見交わした。
話せば長くなるがと前置きをした知念和尚は、千鶴が前世で鬼に狙われていた話や、進之丞が千鶴を救おうとして鬼になった話をした。また前世で鬼として死んだ進之丞が今世で忠之の体に乗り移り、これまで佐伯忠之として生きていたと説明した。
黙って聞いてはいるものの、甚右衛門たちの顔にはまだ疑いのいろが浮かんでいる。
続けて和尚は、前世で千鶴が鬼に襲われて進之丞が鬼になった背景には、天邪鬼の存在があったと告げた。けれど、甚右衛門たちには天邪鬼がよくわからない。
「天邪鬼いうんは素直やないぎりやのうて、人の幸せを妬むらしいんぞなもし」
安子の説明に和尚はうなずき、山﨑機織を襲った数々の出来事は、すべて天邪鬼が仕組んだことだ話した。
「天邪鬼は男にも女にもなれるが、今は女に化けとるそうな。東京では横嶋つや子と名乗っとったらしいぞな」
つや子の名前に甚右衛門たちは顔をゆがめた。つや子が魔物だったと説明されたことで、三人はつや子の異常性に納得して天邪鬼の存在を受け入れた。しかし、天邪鬼が松山では坂本三津子という名前も使っていたと聞かされると、みんなが目を見開いた。
「何じゃと? あの女がつや子で天邪鬼じゃったと?」
思わず甚右衛門は叫んだ。トミと幸子は声も出ないほど驚愕している。
天邪鬼が三津子となって山﨑機織に入り込み、千鶴たちの動きを見ていたことに、甚右衛門もトミも怒りに体を震わせた。一方、幸子は大いにうろたえた。
三津子は幸子の親友ということで、山﨑機織に近づいたのだ。幸子は責任を感じながらも、三津子が天邪鬼だという事実を受け入れられないようだ。けれども三津子が天邪鬼になった経緯や、幸子がロシア兵の子供を身籠もったと、病院の院長に三津子が出任せを言った話を千鶴から聞かされると、幸子は呆然となった。
「ほれにしても、その天邪鬼いうんは、なしてそこまで千鶴にこだわるんぞな?」
トミが訝しむと安子が話を引き取り、ただでも人の幸せに腹を立てる天邪鬼には、異国の血を引く千鶴や鬼となった進之丞が、幸せになるのが許せなかったらしいと話した。
あまりの理不尽に顔をゆがませる甚右衛門たちに、知念和尚は言った。
「千鶴ちゃんは鬼になって苦しむ進之丞を、何とか人間に戻そと思てな。学校でお世話になった井上いう先生に催眠術をかけてもろて、前世で進之丞が鬼になった状況を調べてもろとったそうな」
「催眠術? そげなもんで前世でわかるんかな」
千鶴がうなずくと、いつそんなことをしていたのかとトミが驚いた顔で訊ねた。千鶴は目を伏せ、先生にご挨拶に行った時ぞなもしと言った。
「挨拶に行った時? 確か、あん時は幸子も一緒やったろがね?」
トミは幸子を見た。甚右衛門も幸子を振り返った。
幸子はうろたえた。あの時、幸子は三津子つまり天邪鬼と出かけたのだ。ごめんなさいと言って幸子が涙ぐむと、千鶴は母をかばった。
「お母さんが悪いんやないんよ。あん時、たまたま三津子さんに会うたけん、三津子さんと出かけたらて、うちがお母さんに言うたんよ」
甚右衛門はため息を一つつくと、まぁええと言った。
「ほれで、昨夜はなして城山におったんぞ? 警察出たあと、何があったんや?」
千鶴は畑山がお祓いの婆に告げられたことを話し、鬼になった進之丞を救うべく、井上教諭に催眠術をかけてもらいに行ったと説明した。だが、そのあと城山へ登ることになった理由は言えなかった。
甚右衛門は繰り返し城山に何故登ったのかと訊ねた。しかし千鶴が答えることができずに下を向くと、見かねた知念和尚が代わりに話した。
「千鶴ちゃんが催眠術を受けた時、どうやらその先生の傍に天邪鬼がおったみたいでな。先生は天邪鬼に言いくるめられて、千鶴ちゃんに鬼を殺すよう暗示をかけたらしいんよ」
驚いた甚右衛門たちは、そうなのかと千鶴を質した。
千鶴はうなずけなかった。そもそもは自分が井上教諭に催眠術を無理に頼んだのが悪いのだ。けれど否定はしなかったので、甚右衛門たちは和尚の話を信じたようだ。
「先生が教え子に、そがぁなことをさせるやなんて……」
「いくら天邪鬼がおったいうても、どがぁしたらそげなとっぽを思いつくんね」
甚右衛門とトミは憤りを隠さなかった。幸子は困惑顔で絶句している。
「先生は進さんが悪い鬼やて、天邪鬼に信じ込まされたんよ。先生はうちを鬼から護ろうとしんさったぎりなんよ」
千鶴は必死に井上教諭をかばったが、甚右衛門たちの怒りは鎮まらない。しかし、天邪鬼が東京で教諭にしたことや、天邪鬼がそれを城山で教諭に教えて嘲笑ったことを聞かされると、次第に静かになった。そして教諭が身を挺して天邪鬼から千鶴を護り、千鶴の身代わりに命を落とした話には、三人とも言葉を失って涙を流した。
「天邪鬼は進さんが退治したけんど、天邪鬼は敏捷うてな。進さんもなかなか捕まえれんかった。ほんでも、先生がご自分を犠牲にしんさって天邪鬼を押さえてくんさったけん、進さんは天邪鬼を捕まえることがでけたんよ。進さんが天邪鬼を退治でけたんは、先生のお陰なんよ」
千鶴は喋りながら城山のことを思い出して泣いた。甚右衛門たちも涙を流しながら、死んだ井上教諭に手を合わせた。
鼻をすすり上げた甚右衛門は悲しげに言った。
「結局、天邪鬼はお前らに殺し合いをさすために、城山へ登らせたんか」
「ほれぎりやなかったんよ。天邪鬼はね、井上先生をうちの誘拐犯に仕立てて、お城に警察が来るよう企てとったんよ。お巡りさんが来たら、そこには鬼になったままの進さんもおったけん、大事になるとこやったんよ」
「天邪鬼はそがぁなことまで考えよったんか……」
天邪鬼の執念に顔を強張らせる甚右衛門たちに、千鶴はためらいがちに話を続けた。
「進さんが天邪鬼を捕まえたすぐあとにね、ほんまにお巡りさんらが来たんよ。ほれで、もう逃げられんて思いよったら、進さんがうちを抱いてお城の北側に飛び降りたんよ。ほしたらね、ほしたらそこに……、そこにおじいちゃんがおったんよ」
最後の声を絞るように出した千鶴の頬を、涙がこぼれ落ちた。
ここで猟銃の話に戻ったと、甚右衛門は悟ったようだ。驚いて開けた口は何かを言おうとするが言葉は出ない。恐らく頭の中にはあの時の光景が浮かんでいるに違いない。辛うじて出て来た言葉は、ほんな――というつぶやきだった。
知念和尚は甚右衛門に向かって言った。
「鬼はな、あなたが誰なんかがわかっておってな。あなたに千鶴ちゃんを託そうとしたんじゃと。ほれで千鶴ちゃんを差し出そうとしたんやが、悲しいかな、鬼は人の言葉が話せなんだ。ほやけん、鬼の声はあなたには届かなんだんよ」
ここまで聞いて、甚右衛門は己が犯してしまった罪の重さを知ったようだ。みるみる涙ぐんだ甚右衛門は、ほうなんかと千鶴を振り返った。
千鶴が黙って小さくうなずくと、甚右衛門は忠之の手を握り、すまなんだ、勘弁してくれ――と言って泣き崩れた。
特高警察が現れた時、鬼が自分たちには手を出さずに男たちだけを連れ去った理由が、幸子ははっきりわかったらしい。トミと一緒に忠之の傍へ座り、忠之の手を握ったり体をさすったりしながら泣いた。
「最後にこの子が千鶴ちゃんをここへ連れて来たんは、鬼になってしもた自分が頼れるんは、ここぎりじゃて思たんじゃろね」
安子が着物の裾で目を押さえて言った。
「和尚、忠七を……、何とか忠七を助けてやってつかぁさい」
甚右衛門は泣きながら知念和尚に頼んだ。和尚は悲しげに首を振り、ほれは無理ぞなと言った。
どうして無理なのかと甚右衛門が食い下がると、和尚は困った顔を千鶴に向けた。
「おじいちゃん……」
千鶴が声をかけると、甚右衛門は千鶴に顔を向けた。
「忠七さんはな、もう戻らんのよ」
「戻らん? 忠七はまだ生きとるやないか」
当惑する甚右衛門に安子が言った。
「この子がこのまま助かるかどうかは、まだわからんのです。この子を診んさったお医者さまのお見立てでは、血ぃがあまりにも出過ぎてしもとるけん、恐らく助からんじゃろいう話でした」
「そがぁな藪医者、当てになるかい。もっとええ医者呼んだらええんよ。この辺りに、もっと上等の医者はおらんのかな?」
和尚と安子の顔を代わる代わる見ながら、甚右衛門は必死に訴えた。しかし和尚たちは返事ができない。千鶴は困惑する祖父に言った。
「おじいちゃん……、たとえこのお人が助かってもな、忠七さんは戻らんのよ」
意味がわからない甚右衛門に、千鶴は続けて言った。
「このお人はな、まだこがぁして息があるけんど、鬼はな……、鬼は死んだんよ」
「何? 鬼が死んだ? ほれはどがぁな――」
「鬼は死んだんよ。ほじゃけん進さんじゃった忠七さんも一緒に死んでしもた……。このお人はな、鬼が死んで離れたあとに息を吹き返しんさったぎりなんよ。顔も体も忠七さんのままなけんど、このお人は忠七さんやないんよ。おじいちゃん……、忠七さんはな、もうこの世にはおらんのよ」
「もう、この世におらん? ほんな……」
甚右衛門はひどく狼狽した。千鶴は涙を堪えながら、鬼が死んだ時の様子を甚右衛門たちに語った。
甚右衛門は両手で顔を覆うと、泣き叫びながら頭を何度も畳に打ちつけた。トミと幸子は甚右衛門を押さえたが、一緒に声を上げて泣いた。
額を赤くした甚右衛門は千鶴に体を向けて土下座をし、己がしてしまったことを詫びた。
千鶴は首を横に振ると、ええんよと言った。
「おじいちゃんは、うちを助けよとしんさったぎりやけん……。悪いんは天邪鬼で、おじいちゃんは何も悪ないんよ……。ほれにな、進さんも鬼さんも人間に戻ることができたんよ……。もう人間には戻れんて思いよったのに、ようやっと人間に戻れたんよ……。ほやけんな、もうご自分を責めるんはやめておくんなもし……。おじいちゃんがそがぁに泣きよったら、きっと忠七さんも困るぞなもし……」
甚右衛門は畳に伏せたまま泣き続けた。千鶴も泣いた。
千鶴は祖父に喋りながら、そうなのだと思っていた。進之丞は確かに死んで成仏したのである。たとえ忠之が助かったとしても、忠之は進之丞のはずがないのだ。
三
千鶴が予想したとおり、昨日、甚右衛門は警察へ行ったあと、雲祥寺へ正清の墓参りに行き、組合長の所を訪ねていた。
一方で畑山とお祓いの婆の検死に引っ張り出された院長は、病院へ戻ってもすぐには千鶴のことをトミや幸子に知らせていなかった。待合所にあふれかえった患者を診るのが優先されたし、すでに妻が幸子たちに伝えていると思い込んでいたようだ。
ところが院長の妻は警察への連絡でばたばたしていたため、夫が千鶴を連れ出したことに気づいていなかった。あとで病室へ来た時に、院長は幸子たちに話が伝わっていないことを知り、事件と千鶴のことを二人に伝えたそうだ。
話を聞いた幸子たちは当然ながら驚いた。千鶴が警察へ連れて行かれた話はもちろんだが、畑山が殺されたことには大きな衝撃を受けたという。
幸子はすぐに警察へ千鶴を迎えに行こうとした。ところが、よくなっていたはずのトミが再び具合が悪くなり、幸子はトミの傍を離れられなくなった。仕方なく甚右衛門が戻るのを待ったが、ようやく甚右衛門が戻ったのは日が沈みかけた頃だった。
事情を知った甚右衛門は大急ぎで警察へ向かった。しかし千鶴はすでに警察を出たあとで、警察でも千鶴の行方はわからなかった。甚右衛門は千鶴に危険が迫っていると訴えたが、事件性がはっきりしないという理由で警察は取り合ってくれなかったそうだ。
甚右衛門は千鶴はつや子の手に落ちたと疑わなかった。動揺しながら外に出ると、東の空に満月が見えた。それでトミが見た正清の夢を思い出した甚右衛門は、千鶴が月夜の城に現れると考えて城へ登ることにしたという。
甚右衛門はつや子の背後に鬼がいると信じていたため、再び組合長を訪ねて猟銃を戻してほしいと頼んだ。だが、いきなりそんな話をされても組合長が了承するわけがない。どういうことかと問われた甚右衛門は、千鶴が鬼に連れて行かれると説明したが、組合長は甚右衛門が狂ったと思ったようで、のらりくらりと話をはぐらかそうとしたそうだ。
仕方なく甚右衛門は千鶴と鬼との関係や、鬼が特高警察の男たちの命を奪った話を組合長に聞かせ、つや子を動かしていたのは鬼だと訴えた。だが、それでも組合長は渋り続けた。
すると、どこからか恐ろしげな咆哮が聞こえた。それは天邪鬼と対決する鬼の咆哮だったのだが、顔色が変わった組合長は甚右衛門の話を信じる気になり、自分が一緒に行くのを条件に猟銃を持たせてくれた。
甚右衛門はすぐに組合長同伴で、千鶴たちが通ったのと同じ登城道で城へ向かった。しかし夜分で足下が悪かったため、組合長が乾櫓の手前で足をくじいてしまった。その時、すぐ近くから再び恐ろしい咆哮が聞こえたので二人は竦み上がった。しかし甚右衛門は千鶴を救うため気を取り直し、組合長をそこに残して一人で本丸へ入ったという。
雨が降り出し、月が雲に隠れようとしていた。本壇へ急いだ甚右衛門が紫竹門まで行くと、南から登って来た三名の巡査らしき者たちが本壇へ向かうのが見えた。咆哮が聞こえたからだろうが、みんなサーベルを抜いて警戒していたそうだ。
巡査を避けるために甚右衛門は乾門の方へ戻り、本壇の北側に回って様子を窺った。すると、強まった雨と一緒にいきなり上から鬼が落ちて来たと甚右衛門は言った。
あまりのことに腰を抜かしたが、鬼の腕に抱かれた千鶴を見た甚右衛門は、急いで猟銃を構えた。だが月が隠れて辺りは闇だった。そのままでは千鶴に弾が当たる恐れがあるので、引き金を引く心構えはできていなかった。ところが稲光が光った時、すぐ目の前に鬼がいたので、驚いて引き金を引いてしまったと甚右衛門は項垂れて涙をこぼした。
千鶴も泣き、みんなが泣いた。甚右衛門は何度も涙を拭いながら、あの時、確かに鬼は千鶴を差し出そうとしていたと、声を絞り出して深く悔やんだ。
しばらく嗚咽した甚右衛門は、また話を続けた。
猟銃を撃ったあとで再び稲光が光った時、そこにはもう鬼の姿はなく、千鶴の行方もわからなくなった。甚右衛門は鬼に千鶴を連れ去られたと思い、急いであとを追おうとしたが、鬼がどこへ向かったのかがわからない。それに乾櫓のすぐ下で動けなくなっている組合長を、放っておくわけにもいかなかった。
組合長の所へ戻った甚右衛門は、今の話を伝えたあと、組合長に肩を貸しながら城山を下りた。そのあと一人で城山の北へ回ったが、土砂降りの真っ暗闇の中なので、鬼が逃げた痕跡は見つけられなかった。落胆した甚右衛門は、ずぶ濡れの組合長と一緒に組合長の家に戻った。
甚右衛門は病院で待つトミと幸子に、鬼に千鶴を連れ去られた事実を告げられなかった。告げれば二人は泣き崩れるに違いなく、トミがどうにかなりそうで怖かった。
夜が明けても、甚右衛門は病院へは行かずに組合長の家にいた。すると、組合事務所の事務員が法生寺からの言伝を伝えに来た。それは千鶴が法生寺にいるというものだった。雨の中を千鶴が一人で歩いて来たという話は疑ったが、知念和尚が悪ふざけをする理由がない。とにかく藁にも縋りたい気持ちで、甚右衛門は法生寺を訪ねることにした。
組合長はすぐに三人が乗合自動車に乗るお金と、自動車乗り場までの人力車のお金を用意してくれた。その金を持って、甚右衛門は急いで病院へ向かった。
その頃にはトミの容態は落ち着いていたものの、千鶴が心配でいつまた具合が悪くなるかわからなかった。病院からは、少なくとももう二日は入院していた方がいいと言われていが、鬼に連れ去られた千鶴が法生寺にいると聞いては、トミがじっとしていられるはずがない。すぐに退院させてもらい、三人で急いで風寄へ来た。
これが千鶴がいなくなったあとの、甚右衛門たちの動きだった。
四
甚右衛門は法生寺に千鶴がいると確認できたら、組合長に連絡する約束をしていた。それで知念和尚が甚右衛門を連れて再び春子の家を訪ね、電話を貸してもらった。
甚右衛門が現れたので、村長の修造はいよいよ大事になったと思ったようだ。イネやマツと一緒に千鶴を見舞うと騒ぎだし、知念和尚は修造たちを再びなだめねばならなかった。だが結局は、翌日に修造とイネとマツが三人で寺を訪ねて来た。
応対に出た知念和尚と安子は、修造たちを玄関近くの部屋へ招き入れると、そこで千鶴と引き合わせた。
修造たちは本当に千鶴がいたことに驚きながら、口々に千鶴をねぎらった。千鶴は三人に頭を下げて座り、その隣に知念和尚が腰を下ろした。
安子がお茶の用意をしに行くと、知念和尚は困った笑みを見せて、さてと――と言った。何をどう話せばいいかわからないのだろう。千鶴も黙ったまま下を向いていたので、重い沈黙が部屋に広がった。
修造たちも何を言えばいいのか困惑していたが、まずは山﨑機織の倒産について気の毒がった。倒産の話は為蔵とタネが殺された事件の記事でちらりと触れられていたみたいだが、甚右衛門が電話を借りに行った時に、本人からも直接確かめたようだ。
三人は仰々しいほど残念がりながら千鶴を慰め、忠之の悪口を言い始めた。
実情を知らない修造たちは、これまで新聞に書かれた記事を鵜呑みにし、忠之がすべての禍の元と見ていた。やはり山陰の者には気をつけねばと言い、実は二年前の祭りの時にも、源次とその仲間が忠之に大怪我をさせられたとうなずき合った。
「源次が放っとけ言うけんそのままにしよったが、ほんまならただでは済まさんとこよ」
大袈裟に憤る修造の言い草に千鶴は愕然とした。また修造ばかりかイネとマツまで山陰の者を差別するので、千鶴は深い悲しみを覚えた。修造たちにすれば千鶴たちに同情しているつもりだろうが、千鶴にはとんでもないことだった。
黙っていられなくなった千鶴は、あの祭りの日に源次たちに手籠めにされそうになったところを、忠之に助けてもらったと説明し、悪いのは源次たちだと訴えた。
知念和尚は初耳の話に驚いたが、修造たちも当惑を隠せずに、それは知らなかったと源次たちの不始末を千鶴に詫びた。けれど、忠之は乱暴者だという認識は崩そうとせず、その話はともかく山﨑機織を倒産させるほどの大乱闘はやり過ぎだと言った。
そもそも親を殺して逃げる凶暴な男など、山﨑機織で雇うべきではなかったとも言われ、千鶴は言い返す気力すら失った。
千鶴が何も言わずに涙をこぼすと、ほれは違わいと知念和尚が言った。
知念和尚は忠之が山﨑機織のために懸命に働き、みんなに認められていたと話した。大林寺の騒動についても、忠之が男たち全員を倒していなければ、どうなっていたかを考えなさいと修造たちを諭した。
イネとマツは口籠もったが、修造は今回の殺人事件についてはどう説明するのかと食い下がった。
知念和尚は忠之は被害者であって加害者ではないと主張した。しかし修造は忠之が逃げるところを見た目撃者がいると言った。忠之が無実であるなら何故姿を見せないのかと、修造が巡査と同じ指摘をするとイネとマツもうなずいた。
和尚は反論したくてもできなかった。今は忠之の話は出せない。千鶴も唇を噛んで耐えるしかなかった。
玄関で安子を呼ぶ伝蔵の大きな声が聞こえた。すぐに安子が出て来ると伝蔵は言った。
「下の知り合いに言うて、今朝獲れたウナギをな、分けてもろたんですわい。これを忠之に食わせてやったら、元気になるんやなかろか思うんやけんど」
伝蔵が忠之の名前を口にしたからだろう。安子はうろたえた。それに気づかない伝蔵は続けて言った。
「やっぱしお寺で生臭物はいけんかなもし。うなぎは精がつくけん、忠之に食わせてやったらええと思うんやが。何じゃったらわしが外で焼いて来うわい。ほれじゃったら構んかろ? ほれとも、ほれもいくまいか?」
安子は小声で伝蔵に礼を述べ、外で焼いて来るよう頼んだ。伝蔵は嬉しそうに返事をして表へ出て行った。
修造たちは訝しげに和尚を見ると、忠之とは誰のことかと訊ねた。
和尚はもう隠しきれないと思ったようだ。ちらりと千鶴を見ると、ここぎりの話にしてつかぁさいやと言った。
「忠之はな、そっちの部屋におるんよ」
和尚の言葉に修造たちはとても驚いた。殺人犯とされている忠之を、和尚が匿っていたのだ。動揺する三人に、とにかく忠之の顔を見てやってはもらえまいかと知念和尚は言った。
千鶴たちが部屋を出ると、ちょうど安子がお茶を運んで来た。和尚が耳打ちをすると、安子はお盆を持ったまま和尚に従った。
修造たちが案内された部屋には布団が敷かれ、甚右衛門たちに見守られながら忠之が寝かされていた。その姿は誰が見ても死にかけているみたいだ。
「和尚、これはどがぁな?」
修造が振り返って訊ねると、知念和尚は悲しげな顔で言った。
「いっつもかっつも悪ぅ見られとるけん、お前が殺したんじゃろがと言われるんが怖かったんじゃろな……。ほれで警察も行けんで一人で山に籠もって大怪我したんじゃろ。血だらけなって何とかここまで来たんやが力尽きてな、この下で倒れとったんよ。ほれを千鶴ちゃんが見つけてくれたんやが、この子が助かるかどうかはわからんのよ」
「やけんいうて、この男が犯人やないとは言えまいに」
戸惑いながらもまだ忠之を殺人犯と疑う修造に、安子が言った。
「ほんまやったらな、千鶴ちゃんは今頃この子の嫁になって、為蔵さんらと一緒に暮らしよったはずなんよ。この子が風寄に戻んたんはな、千鶴ちゃんをお嫁にすることになったて、為蔵さんとおタネさんに報告するためやったんよ」
驚く修造たちに、知念和尚も言った。
「為蔵さんもおタネさんも、千鶴ちゃんを嫁にもろて来るようにと、この子に命じとったそうな。ほれぐらい、あの二人は千鶴ちゃんが嫁に来るんを楽しみにしよったんよ。そがぁな二人をこの子が殺すわけなかろ?」
ほうなんかと修造たちは千鶴を見た。
千鶴がうなずいて涙をこぼすと、修造たちは自分たちの態度が、どれほど千鶴を傷つけていたのかを悟ったらしい。イネとマツは涙をぼろぼろこぼして、自分たちが口にしたことを謝りながら千鶴を慰めた。修造も深く頭を下げて自分の非礼を千鶴に詫び、これからはできる限り忠之の力になると約束してくれた。
自分たちが誤解させられた怒りもあるのだろう。三人は本当の人殺しは誰なのかと憤り、このまま犯人を放置しておくのは村の恥だと言った。
そこへ北城町から今朝の朝刊が届いた。もう昼は過ぎていたが、風寄は松山から遠いので、朝刊が届くのはこれぐらいの時間になるようだ。
新聞を受け取った安子は大きく書かれた一面の記事を見て、急いで知念和尚の所へ戻って来た。和尚は渡された新聞を広げると、険しい顔になった。そこには「ついに城山に鬼現る!」という見出しがあり、一昨日の晩の城山の話が大きく取り上げられていた。
修造の家でも新聞を取っているが、配達される時間は法生寺よりも遅いのだろう。和尚が広げた新聞に、三人は頭を寄せ合って集まった。
記事には、城での犯罪の知らせを受けた巡査三人が、夜中の城山を捜索したところ、恐ろしい咆哮を耳にし、本壇入口において鬼を発見したと書かれていた。
鬼は何故か女物の着物姿をしており瀕死状態だった。そこで巡査の一人がサーベルでとどめを刺したところ、突然雷鳴が轟いて豪雨になったという。
そのあと巡査たちが本壇の中へ突入すると、外曲輪にある天神櫓の近くで若い男が死んでいたとあった。その男は井上教諭なのだが、記事が書かれた時点では、まだ身元は判明していなかった。
若い男の近くには小刀が落ちており、男はその小刀で胸を刺されて死んだと思われるという説明のあと、奇妙なことにその男の遺骸は体が真っ直ぐにされた上、両手を腹の上で組まされていたと書いてあった。その状況から、これはただの殺人ではなく、何かの儀式の生贄なのかもしれないと、警察では考えているらしい。
外曲輪には二ノ門と三ノ門の間の板塀の損傷や、何本も枝を折られたり、根こそぎ引き抜かれた樹木、地面が大きく抉られた無数の大きな窪みなど、魔物が暴れたみたいな跡が見つかったとあった。
城山の北側の森にも一部崩れた場所があり、事件と関係するものか、大雨によるものなのかはこれから調べられるそうだ。
さらに驚いたことには、巡査たちが本壇から出る時に鬼の死骸を確かめると、いつの間にか女の死骸に変わっていたという。女には巡査が刺したサーベルの跡が残っており、巡査が鬼だと誤認して女を刺し殺した可能性があると、記事は指摘していた。
一方で記事は、この女は全身の骨が折れ、顔が半分潰れていたとも伝えていた。その様子は以前に城山で瀕死の男たちが見つかった事件を彷彿させるが、巡査たちが聞いた大きな獣らしき咆哮も、前の事件と共通している。このことから、前回も城で何らかの怪しい儀式が執り行われていた可能性があるとして、記事は締めくくっていた。
これは大事になったと修造たちは慌てふためき、やはり鬼よけの祠を燃やしたのは、封じられるのを嫌った鬼の仕業だと言いだした。このままでは何があるかわからないし、今度は誰かが死ぬるかもしれないと血相を変えている。
どうすればいいかと相談された知念和尚は、ちらりと千鶴たちに目を遣ったあと、今しばらく様子を見ればどうかと言った。だが三人にそんな余裕はないようだ。やはり急いで祠を再建せねばと修造が言うと、イネもマツも怯えた顔でうなずいた。
五
この日の夕方、今度は巡査が二人訪ねて来た。若い方の巡査は何故か風呂敷包みを三つ抱えている。年配の巡査は、村長から忠之の話を聞いたので確かめに来たと言った。そう言われては、どうにもごまかせない。
忠之の話はしばらく伏せておいてほしいと、知念和尚は修造たちに口止めをしておいた。けれど、村長としては警察が捜している人物の行方を知っているのに、黙ったままというわけにはいかなかったようだ。とはいえ、忠之の無実を信じてのことだろう。
知念和尚は仕方なく二人を中へ入れた。
部屋へ巡査たちが通されると、千鶴は忠之の上に覆いかぶさって忠之をかばった。甚右衛門たちも忠之は殺人犯ではないと訴え、忠之が連行されるのを阻止しようとした。
年配の巡査は両手を上げて、大きな声で言った。
「みなさん、落ち着いてつかぁさい。我々は佐伯を捕まえに来たんやありませんけん」
巡査は警察が忠之を無実と認めたということを、やはり大きな声で伝えた。
新聞記事には書かれていないが、巡査の説明によれば、警察ではすでに本壇で見つけた小刀の指紋鑑定を行っており、本壇入口で死んだ女の指紋との一致を確認したという。
一方、千鶴から畑山の無実を訴えられた警察は、すぐにお祓いの婆の殺害に使われた包丁と、為蔵夫婦を殺した凶器の包丁の指紋を照合し、両者が同一であると確認していた。そして、その指紋が今回の小刀から見つかったものとも同じだとわかったので、すべての殺人事件の犯人は死んだあの女だと断定したという。
つまり忠之の家族殺しの疑いは冤罪であり、忠之は無実だと警察が認めたのだ。
その忠之が山に隠れて瀕死の重傷を負い、法生寺で手当を受けていると聞いたので、その確認とお詫びで訪れたと巡査は説明した。
その言葉は千鶴を安堵させたが、同時に悔しさが込み上げて来て、涙が目からあふれ出た。甚右衛門は男泣きし、トミと幸子も抱き合って泣いた。知念和尚と安子もほっとした顔で涙ぐんでいる。
巡査の話では、忠之の手荷物と判断された三つの風呂敷包みが、証拠品として事件現場である忠之の家から押収されていたらしい。忠之の無実がわかったので、その品を本人に戻しに来たのだそうだ。
若い巡査は持っていた風呂敷包みを知念和尚に預けた。和尚が包みを千鶴たちに手渡すと、四人はすぐに開いて中身を確かめた。中には甚右衛門が持たせた上等の絣の反物と、進之丞が着ていた半纏とあの継ぎはぎだらけの着物が入っていた。
千鶴は継ぎはぎの着物を手に取ると、抱きしめて泣いた。その着物は進之丞そのものだった。
巡査たちはみんなに敬礼をして引き揚げて行ったが、果たして女は鬼だったのかということには何も触れなかった。恐らく警察では今も女の死骸を調べているのだろうが、余計なことは一切喋るなという指示が出ていたと思われた。
忠之の無実が知れると、多くの村人たちが忠之の見舞いに訪れた。山陰の者もそうでない者も、みんなが入り交じって忠之を哀れみ気の毒がった。
山﨑機織が契約していた織元の織子である女たちや仲買人の兵頭は、山﨑機織がつや子に潰されたことも残念がった。
兵頭は自分が山﨑機織を見捨てたのをごまかしたいのか、城山の魔物は自分の家を壊した化け物に違いないと鼻息荒く言った。しかし家が壊れたのは突風だと言い逃れをしていたのを思い出し、急いで鬼よけの祠をもう一度こさえてもらわねばと話を変えた。
一緒にいた他の村人たちは兵頭の提案に賛同し、できるだけ早く祠を造り直そうとうなずき合った。兵頭はほっとした顔をしていたが、千鶴は悲しかった。甚右衛門たちも同じ気持ちらしく、鬼よけの祠の話など聞きたくないみたいだった。
忠之の世話をする合間に、千鶴は丘の麓にある野菊の群生地を毎日訪れていた。そこは進之丞や鬼と最後の別れをした所だ。
眠ったままの忠之を見ていると、進之丞がいなくなったことが嘘のように思えるが、ここへ来ると進之丞は鬼とともに確かに成仏したのだと思い出す。
この場所へ来るたび、千鶴は鬼が倒れていた所に向かって手を合わせ、進之丞を想いながら、もう一度進さんに会いたいと訴えた。また忠之の世話をしていることも報告し、進之丞を安心させようとした。生前、進之丞は忠之を喰らったことで心を痛めていた。だから千鶴が忠之の世話をするのは、進之丞に代わっての罪滅ぼしでもあった。
それでも進之丞と同じ姿の忠之を見て、この人は進さんではないと思うと胸が苦しくなった。そんな苦しみも千鶴はここで進之丞に聞いてもらっていた。
進之丞は消え去る前に、今にこそ本当の幸せがあると千鶴に言った。だけど、千鶴にとっては進之丞こそが幸せだった。なのに、その進之丞はもういない。
ここへ来ることで、千鶴は今でも進之丞と心がつながっているような気になれた。けれど、生きた進之丞に逢うことは敵わない。結局は寂しさをまぎらわせるだけで、千鶴の悲しみが終わることはなかった。
千鶴は悲しみに耐えて忠之の世話を続けた。トミや幸子が代わろうと言ってくれても、それを断って一人でやった。
一時、忠之はかなりの高熱を出し、このまま死んでしまうのではないかと思われた。だがやがて熱は下がり、息を吹き返した七日後には意識が戻った。目を覚ました忠之に一番初めに気がついたのは千鶴だった。
千鶴は忠之に声をかけ、自分が誰かわかるかと訊ねた。忠之はぼんやり千鶴を見つめるばかりで返事ができなかった。
和尚夫婦が呼びかけると、忠之は小さくうなずいた。千鶴がもう一度声をかけると、しばらく千鶴を見つめ、小さく首を振った。甚右衛門たちも声をかけたが、忠之は首を横に振るばかりだった。
予想はしていたが、千鶴は深く傷つき動揺した。忠之は進之丞ではない。わかっていたはずのその事実が、どうしても受け入れられなかった。
忠之はまだかなり朦朧としているので、千鶴たちのことがわからなくても仕方がないと和尚たちは千鶴を慰めた。しかし、それは大した慰めにはならなかった。
さらに七日が過ぎると、忠之も意識がかなりはっきりして来て、支えられながらであれば体を起こせるようになった。けれどもその体はげっそり痩せ細って青白く、以前の力自慢だった頃の面影はなかった。甚右衛門に撃たれた傷も、なかなか肉が盛り上がって来ず、右の腰にある赤痣の真ん中には醜い窪みが残っていた。
それでも結構受け答えはできるようになったので、千鶴は改めて自分がわかるか訊ねてみた。だがやはり答えは同じで、忠之は自分に何があったのか一つもわからなかった。
どこまでなら覚えているかと知念和尚に訊かれると、忠之はしばらく考え込み、台風の風が吹き荒れる中で、鬼よけの祠の前に立っていたことを思い出した。それは忠之が村人たちに激しい怒りを覚えて鬼に変化した時だろう。進之丞が話したように、その時に忠之は進之丞に取り憑かれ、鬼に心を喰われたのだ。
忠之が進之丞ではないと明らかになり、千鶴はひどく落ち込んだ。
進之丞はもういないのだと思いながらも、ほんのわずかな期待を千鶴は抱いていた。その儚い期待さえもが無残に打ち砕かれて、生きる望みを完全に失ってしまった。
甚右衛門たちも落胆した。三人とも忠之が自分たちをわかってくれるのではという想いがあったようだ。
甚右衛門は千鶴にこれからどうするつもりなのかと訊ねた。進之丞とは別人である忠之の嫁になるつもりなのかという意味だ。トミも幸子も心配している。
いつまでもこのままではいられないことは千鶴も承知している。けれど、忠之は二年間のすべてを進之丞に奪われたのだ。しかも知らない間に家族が殺されて、天涯孤独の身になったのである。忠之が進之丞ではないとわかった今、忠之への罪悪感が千鶴にずっしりとのしかかっていた。その責任を考えれば、忠之から離れるとは言えなかった。
しかし、千鶴は忠之から離れたくない気持ちもあった。
忠之の傍にいると進之丞を思い出す。それは千鶴にとってつらいことではあった。それでも忠之の微笑みは、進之丞の微笑みだった。忠之を支えると、進之丞を支えている気になれた。もちろん偽りの慰めであることはわかっている。だけど、今も進之丞が生きているかのように思えることは、悲しいけれど捨てがたいものでもあった。
六
二年の記憶がない忠之は、自分が山で怪我をしたと聞かされても、当然ながらぴんとこないようだ。
何故千鶴が看病をしてくれるのかと不思議がるので、千鶴はこの二年ほどの間、忠之が山﨑機織で手代として働いていたと説明した。甚右衛門たちも自分が誰であるかを説明し、千鶴が話したとおりだと言ってくれた。
また甚右衛門は忠之が山で大怪我をしたのは、自分の代理として忠之が風寄の仲買人に会いに来た時だとうまく話してくれた。それで忠之は自分の状況を一応は受け入れた。
とはいえ、忠之はまさか自分が松山で働くとは思いもしていなかった。それで千鶴たちの話も今ひとつ信じられないようで、甚右衛門やトミのことは山﨑さんと呼び、幸子のことは千鶴さんのおっかさんと他人行儀な呼び方をした。甚右衛門たちは寂しげだったが、忠之には記憶がないので仕方がないことだった。
千鶴は根気よく二年前の自分たちの出会いを話し、それが縁で佐伯さんは山﨑機織で働くことになったと言った。ただ、それは忠之ではなく進之丞との出会いだったわけで、千鶴は複雑な気持ちだった。
忠之は感心しきりで話を聞いていたが、自分には全然記憶がないので、狸に化かされた気分だと笑った。一方で、忠之は為蔵とタネが一度も顔を見せに来ないのを訝しんだ。息子が死ぬ目に遭ったというのに会いに来ないなど不自然であり、二人はどうしているのかと忠之は気にしていた。
知念和尚はまだ忠之に二人の死を告げられないと考えていた。千鶴も同じ気持ちで、どうしようかと悩んでいると、為蔵さんたちは遍路旅に出ているというのはどうかと安子が提案した。知念和尚は名案だと言い、その説明でいこうと三人で決めた。
ところが、その話に忠之は納得しなかった。何故今頃になって年寄り二人が四国遍路の旅に出るのかと言うのだ。
その辺の事情まではわからないと言って千鶴は話を終わらせたが、いつまでもは隠せない。説明を先延ばしにしたところで、死んだ為蔵とタネは生き返らないのだ。だけど忠之に事実を告げるのは、千鶴にも忠之にもつらいことだ。いずれは話さないといけない時が訪れるが、やはり今は話せない。
それはともかく、忠之が話ができるほど回復してきたことには、千鶴も安堵の気持ちを抱いていた。迷惑をかけてしまった忠之が元気になるのはいいことだし、それで少しでも進之丞の罪が許されるならという想いがあった。
千鶴の頭には常に進之丞がいたが、畑山と井上教諭のことも頭から離れなかった。二人とも千鶴に関わったがために天邪鬼に殺されたのだ。
畑山はもうすぐ娘が嫁に行くと言っていた。その娘が突然の父親の死を知らされたら、どれだけ衝撃を受けるだろう。千鶴は畑山の家族に詫びねばならないと思った。
だけど、お詫びの手紙を書こうにも宛先がわからない。母に相談してみると、もうすでに祖父が詫び状を作五郎に送ったと聞かされた。作五郎は畑山と知り合いなので、甚右衛門は作五郎に頼んで、畑山の家族に手紙を届けてもらったということだ。
作五郎からの返事も届いており、向こうに手紙は届けたと報告してくれていた。畑山の家族は思ったとおり、みんな悲しみに暮れていたという。
ただ畑山が自分で決めて動いたことなので、家族としてはどうこう言うつもりはないらしい。また犯人が死んだのが、せめてもの救いだと話していたそうだ。同じ犯人によって店を潰され、家庭を無茶苦茶にされた千鶴たちには同情してくれており、お詫びなどいらないと言われたことを、作五郎は手紙に綴っていた。
この話は、千鶴にはとても有り難かった。詫びて済む話ではないのに、そんな風に言ってもらえるのには感謝しかなかった。
だが井上教諭については、千鶴は何もできなかった。
教諭には身寄りがないので手紙を書く相手もいないし、その後の教諭がどうなったのかもわからない。本当のことを申し出られないので、千鶴にできるのはここで教諭の成仏を祈ることだけだった。
七
忠之が千鶴に支えられながら、ゆっくりと歩き始めた頃、春子が静子と一緒に訪ねて来てくれた。二人がわざわざ駆けつけてくれたのが、千鶴は本当に嬉しかった。
春子たちは忠之を千鶴が夫婦約束をしていた忠七だと思っていて、忠七さんに会いたいと言った。千鶴は二人に、忠七さんは大怪我で死にかけたためこの二年の記憶がないと伝え、それから忠之を連れて来た。
静子は初対面であり、忠之は緊張しながら挨拶をした。だが春子のことは忠之はわかっていた。春子が自分をどんな目で見ていたかを覚えているのだろう。静子よりもさらに緊張して頭を下げたが、その春子から優しい言葉をかけられると忠之は困惑した。
風太さんと呼びかけられ、早く自分と山﨑さんを俥ぁで松山まで運んだように元気になってと言われると、何の話かと忠之は千鶴を見た。
千鶴は気にしないでとだけ言い、少しの間だけ忠之を交えて喋った。それから、まだ長くは起きていられないからと春子たちに話して、忠之を元の部屋へ連れて行った。
春子も静子も忠之を明るく見送ったが、千鶴が戻って来ると暗く押し黙っていた。二人は千鶴と忠之を想って泣いていた。
千鶴は二人に感謝して、あれでもだいぶ元気になってきたんよと笑顔を見せた。
話題は自然につや子に移り、そこから城山で死んだ井上教諭の話になった。
城で遺体で見つかった若い男は、師範学校に勤務していた井上辰眞教諭だと、すでに新聞が記事に掲載していた。その記事は春子も静子も知っていた。
記事では、井上教諭とつや子のつながりについては未だに不明とされていた。それでも春子たちは教諭とつや子の関係を疑い、井上先生にはがっかりさせられたと憤慨した。
千鶴は井上教諭がつや子に騙されたことや、命を捨てて自分を護ってくれた話をしたかった。でもそれはできないので、庚申庵へ井上先生を訪ねたことがあると言った。
その時に聞いた話として、井上教諭が目の前で男たちに暴行される妹を助けられず、その妹が自殺したために生きる道を見失っていたと説明すると、春子たちは驚いて教諭に深く同情した。つや子はそんな苦しむ人間の心の隙に付け入る魔物のような女だと千鶴が言うと、二人ともしんみりうなずいた。
実際、つや子は魔物だったのだが、新聞につや子が初めは鬼の姿で発見されたとあったので、春子も静子もあれは絶対に魔物だと断言した。
井上教諭がつや子の被害者だと認めた二人は、きっと教諭はつや子に言葉上手に騙されて、魔物を呼ぶ儀式の生贄にされたのだと言った。
進之丞を呼び出して鬼に変化させるために、天邪鬼は井上教諭を利用した。それを考えると、確かに教諭は生贄だったと言える。けれども教諭は最後に天邪鬼と対決し、自分の命と引き換えに千鶴を護ってくれた。天邪鬼の好きにされたままにはならず、本当の強さを天邪鬼に示したのだ。
「先生はちゃんと弔うてもらえたろうか?」
千鶴は涙ぐみながら訊ねたが、春子も静子もわからないと言った。
「先生、身寄りがのうて孤独なお人じゃったけん、お世話をしてくれる人がおらんのよ」
「あの山高帽の叔父さんは?」
春子の言葉に千鶴は首を振った。
「こないだ心臓で亡くなったて、先生が言うとりんさった」
山高帽の男を知らない静子が、誰のことかと訊くと、春子がいろいろと説明をした。その間、千鶴は井上教諭に命を救ってもらった時のことを思い出して、ぽろぽろ涙をこぼした。春子たちは驚き、先生は被害者なのだから師範学校が放っておかないと千鶴を慰めた。教諭の葬儀や墓についても、春子があとで確かめて教えると約束してくれた。
千鶴が落ち着きを取り戻すと、これからどうするつもりなのかと春子が訊ねた。やはり記憶を失った忠之とのことが気になるらしい。
「二人には気の毒なけんど、やっぱしむずかしいとうちは思うで」
千鶴が答える前に静子が言った。すると即座に春子が反論した。
「そげなこと言うたら、佐伯さんが可哀想じゃろ? 今は思い出せいでも、あとで思い出すかもしれんやんか」
山陰の者を嫌っていたはずなのに、春子は忠之に同情的だ。一方の静子は忠之を知らないだけに、冷静な見方をしている。
「ほら思い出せたらええけんど、思い出せるかどうかわからんのに一緒になるんはどうかと、うちは思う。ほれに今の忠七さんが山﨑さんをどがぁ思とるんかにもよるやんか」
「仮に佐伯さんが山﨑さんのことを思い出せんかったとしてもな。佐伯さん、絶対にもういっぺん山﨑さんのこと好きになると、おらは思わい」
「ほうじゃろか?」
「絶対にほうやて。さっき見よった感じも、佐伯さん、山﨑さんに好意持っとるみたいやったで」
「ほんでも、何も覚えとらんいうんはなぁ」
結局は千鶴次第なのだ。二人に顔を向けられた千鶴はうろたえた。
忠之はあからさまには気持ちを見せないが、何となく好意を抱かれているようには千鶴も感じていた。そうだとしたら、千鶴が付きっきりで世話を続けていたからだろう。
忠之が進之丞であるのなら、それは嬉しいことだ。記憶を失ってもまだ千鶴を慕ってくれるのは、二人の心がつながっている証だ。だけど、別人である忠之に好意を持たれても困ってしまう。進之丞ではない者には応えることなどできない。
「この先どがぁなるかはわからんけんど、今はとにかくできることをするぎりぞな」
千鶴は笑みを繕って言った。だけど本当はわかっている。進之丞はもういないのだ。