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戻って来た男


      一

 九月の末頃、組合長が様子を見にやって来た。
 甚右衛門じんえもんたちもいつまでも寺の世話になるわけにはいかず、そろそろ今後のことを決めなければならないようだった。
 鬼のことを知る組合長に、甚右衛門はこれまでのことをすべて話した。
 組合長は何度もうなずきながら涙ぐんだ。そして黙って千鶴ちづの肩をたたいて慰めてくれた。また忠之ただゆきに対しても気の毒がり、これからどうするのかと、組合長は他の者と同じ質問を千鶴に投げかけた。
 何度も同じことをかれると、千鶴には早く白黒つけるようにとみんなから催促されているみたいに聞こえてしまう。
 千鶴が返事に困っていると、ほうよほうよと組合長は思い出したように、ふところから一通の手紙を取り出した。それは千鶴に宛てられたスタニスラフからの手紙だった。やまさき機織きしょく宛に郵便屋が届けに来た手紙を、組合長が預かっていたそうだ。
 手紙が届いたのは十日ほど前で、すぐに持って来られなかったことを組合長はびた。
 いいえと言って受け取った手紙を、千鶴は思わず胸に抱いた。
 スタニスラフにはずっと返事を出さなかったので、いつの間にか手紙は来なくなっていた。もうスタニスラフとは縁が切れたと思っていたし、千鶴の心には進之丞しんのじょうしかいなかった。組合長から手紙を渡されるまで、スタニスラフのことなど思い出しもしなかった。
 だが、手紙が新たに送られて来たことで、まだスタニスラフが自分のことを忘れていなかったのだと、千鶴は有り難い気持ちにさせられた。
 忠之の世話で苦しんでいなければ、そんな気持ちにはならなかっただろう。しかし、暗闇の中で途方に暮れている千鶴には、この手紙は思いがけず差し伸べられた手のようだった。
 手紙を胸に抱く千鶴の心に、スタニスラフと過ごした時が懐かしく蘇る よみがえ 。すべては遠い昔のようだし、ばんすいそうに招かれたなんて夢だったみたいだ。
 千鶴に手紙を渡した組合長は、しち孝平こうへいの裁判が終わったと、甚右衛門たちに報告を始めた。二人とも素直に罪を認めているために早く結審したようだ。
 弥七は反省しているところが考慮されて執行猶予がついたが、孝平の方は実刑判決が出たらしい。孝平はしばらくの間、外には出られないみたいだが、弥七は解放されたあと、どこかへ行ってしまったようだと組合長は言った。
 甚右衛門は一応話は聞いているが、弥七や孝平のことなどどうでもいいようだった。
 トミも孝平が刑務所入りになったと聞いても、少しも涙を流さなかった。代わりに離れた所にいる忠之を悲しげに見つめていた。幸子も同様で、まるで他人事の話を聞いているようだ。
 千鶴も弥七や孝平の名前など聞きたくなかった。あの事件がなければ、山﨑機織は潰れなかったはずであり、鬼と進之丞が死ぬこともなかったのである。
 千鶴はみんなから離れて他の部屋へ行った。そこで眺めた封筒には、久しぶりに見たスタニスラフの辿々たどたどしいひらがな文字が書かれてあった。それは本来であれば見ることのない手紙であり、見る気も起こらない手紙だった。
 進之丞は死んでしまったが、自分の心は今でも進之丞のものだと千鶴は思っていた。だからスタニスラフは自分には関係ないし、この手紙は見るべきではないという気持ちがあった。だが一方で、手紙を開けてみたいという衝動にも駆られていた。
 希望もなく、どうすればいいのかわからない千鶴は、この手紙が自分に元気をくれるような気がしていた。スタニスラフの気持ちに応えることはできないが、この手紙に詰まっているであろうスタニスラフの想いが励ましのように思えたのだ。
 しばらく悩んだのち、千鶴は手紙の封を切った。
 ただ目を通してみるだけだと自分に言い聞かせたが、胸はどきどきして、取り出した手紙を広げるのがもどかしい。そうして読んだ手紙に書かれていたのは、スタニスラフたちがいよいよこうを出て、アメリカへ向かうことになったというものだった。
 何度手紙を出しても返事が来ないので、やはり自分は千鶴に迷惑をかけていたのかもしれないと、スタニスラフは思い直したそうだ。
 それで千鶴のことはあきらめてアメリカへ行くことを決めたところに、松山まつやまの城山に再び魔物が出たという記事が、神戸の新聞でも紹介されたらしい。
 心配になったスタニスラフはアメリカへ行く前に、もう一度だけ千鶴に会いたいと書いていた。
 スタニスラフは自分が会いに行くことを許して下さいと千鶴に訴え、この手紙を受け取ったらすぐに返事が欲しいと伝えていた。
 自分を心配してくれるスタニスラフの気持ちが、千鶴はうれしかった。また、予想したとおりではあったが、未だに自分を望んでくれていることに少なからぬ感動を覚えていた。
 高浜港たかはまこうで父とスタニスラフを見送った時、今世で進之丞と出会っていなければ、スタニスラフと一緒になるのが自分の定めだったのかと、ふと考えたことを千鶴は思い出した。
 あの時はすぐにその考えを否定したが、あとで進之丞も同じようなことを言っていた。そんなことを考えると、やっぱりスタニスラフは特別な存在なのだろうかという気持ちになる。
 しかし、即座に千鶴はそんな自分を情けないとののしった。進之丞がいなくなった寂しさを、他の男で埋めようとした自分が恥ずかしくて腹立たしかった。
 千鶴は手紙を自分の荷物の中に突っ込むと、もう忘れることにした。返事なんか出さないし、スタニスラフがアメリカへ行くのはいいことだと考えた。
 それでも一度思い出してしまうと、スタニスラフは事あるごとに千鶴の心に顔をのぞかせた。その都度、千鶴は自分に腹を立てて自分を戒めるのだが、その効果は長くは続かなかった。
 忠之のそばにいて進之丞のことを思い出すと、泣き崩れそうになるほど落ち込むことがある。そんな誰にもすがれず助けてもらえない時に、スタニスラフは千鶴に微笑みかけて来る。それを避けようとすればするほど、スタニスラフは千鶴の心に忍び込もうとするのだ。
 一方で、声も姿も進之丞そのものである忠之は、仕草も千鶴に見せるづかいも、ますます進之丞に似て来た。
 進之丞とまったくの別人らしく、性格もしゃべり方も考え方も違っていれば、千鶴もこんなにつらく感じなかったかもしれない。ところが忠之を見ていると、本当に進之丞が今も生きてそこにいるようだった。もはや千鶴にとって忠之は慰めではなく、苦しみだけの存在になっていた。
 忠之の前にいる時、千鶴は精いっぱいの笑顔を繕っていた。しかし、本当は泣き叫びたかった。この顔、この声、この体は、本当は進さんのものだったのにという誤った想いが浮かぶこともあり、千鶴は自分で自分が嫌になっていた。
 千鶴の心はぼろぼろだった。千鶴は癒やしを求めていた。慰めが欲しかった。

 野菊の群生の前に行くと、自分も死にたいと千鶴は進之丞に訴えた。しかし、死んだところで自分にはえないと、進之丞にくぎを刺されている。それがどういうことかはわからないが、逢えないのであれば死んでも仕方がない。
 それに進之丞は今を生きよと言った。だから生きているのだが、千鶴には自分の将来が見えなかった。
 祖父母と母は間もなく土佐とさへ行ってしまうが、自分は一人残って忠之の世話をしなければならない。それはこの苦しみから逃れることはできないということだ。
 いつかは忠之の世話を終える時は来るだろうが、異人の娘である自分は、そのあとどうやって生きて行けばいいのかと考えると、千鶴は暗い気持ちになる。
 前世のように法生寺ほうしょうじの世話になったなら、ずっと忠之の傍で暮らすことになるわけで、それは死ぬまで苦しみ続けろと言われているようなものだ。それが忠之の人生を奪った罰だと言われれば、そうなのかもしれないが、やはり考えるとつらかった。
 しかし、ここを出ても行く当てがない。祖父母を追って土佐へ行ったところで、自分なんかが快く受け入れてもらえるとは思えなかった。見知らぬ者たちの好気の目にさらされ、差別を受けながら生きることを思うと、とても心細くなってしまう。
 そんな千鶴にスタニスラフが微笑みかける。スタニスラフだけは自分を求めて受け入れてくれる。
 千鶴は無性にスタニスラフに会いたくなった。だが、手紙を受け取ってから何日にもなる。受け取る前にも十日ほどがぎていたらしいから、もうスタニスラフはあきらめてアメリカへったに違いなかった。
 千鶴は残念に思ったが、これでいいのだと思い直した。
 結局はスタニスラフとは縁がなかったわけであり、進之丞がいなくなった今も、自分の心には進之丞しかいないのだと、千鶴は改めて自分を鼓舞した。

      二

 十月に入ると、ふもとの村は祭りの準備でせわしくなった。
 二年前、千鶴はこの祭りで進之丞と出会った。だが、今はもう進之丞はいない。祭りの気配は千鶴を切なくさせた。
 山陰やまかげものである忠之は、村の祭りは関心がないみたいだった。それより未だに家族に会えないことが寂しいようだし、それについての千鶴たちの説明も信じてはいないようだ。
「おとっつぁんとおっかさんは、ほんまにおへんしよんじゃろか」
 千鶴と一緒に庫裏くり縁側えんがわに座った忠之は、外の景色を眺めながら千鶴に話しかけた。しかし、千鶴はわからないと答えるしかできなかった。
 忠之は一度家に様子を見に戻りたいと言ったが、まだまだ支えがなければ歩くこともおぼつかない。為蔵たちの話を別にしても、今すぐは無理な話だった。
「おらが松山まつやまへ出てしもたけん、寂しなったんじゃろか」
「ほうかもしれんね。えきさんはがいに家族想いのお人じゃけん」
 千鶴に言われると、忠之ははにかんだように微笑んだ。そのあと少し黙って外を眺めた忠之は、ぽつりと言った。
「おらな、捨て子やったんよ」
 千鶴はどきりとした。忠之が赤ん坊の頃に法正寺ほうしょうじ本堂ほんどうに捨てられていたという話は、ねん和尚から聞かされている。しかし、進之丞から聞いたことはなかったし、千鶴の方からくことはできなかった。それを今、忠之は自分で話したのだ。
 どう応じればいいのか迷いながら、ほうなんですかと千鶴は遠慮がちに言った。
 忠之はうなずくと、自分はこの寺に捨てられていたらしいと少し寂しげな顔を見せた。その話を誰から聞いたのかとたずねると、同じ集落に住む者に聞かされたと忠之は言った。
 忠之はすぐに明るい顔に戻ると、ほんでもなと話を続けた。
「今のおとっつぁんとおっかさんは、こがぁなおらを育ててくれたし、大事にしてくれとる。ほじゃけん、おらには大切な家族なんよ。あ、この話はおとっつぁんらには内緒やけんな。おらが知っとるてわかったら、二人ともつこてしまうけん」
 忠之は本当に為蔵とタネのことを大事に思っているようだ。しかし、その二人はもういない。そうなったのは自分たちのせいだと、千鶴は目を伏せて涙ぐんだ。
「おら、余計なこと言うてしもたかな。おら、別に千鶴さん泣かそ思てしゃべったんやないんよ。ほじゃけん、どうか泣かんでおくんなもし」
 慌てた忠之の様子は、千鶴が今世で初めて進之丞に会った時に、千鶴の涙にうろたえた進之丞と同じだった。それがまた千鶴の涙を誘った。
 何も知らない忠之は困惑するばかりで、涙を拭いた千鶴は、ごめんなさいと言って笑顔を見せた。
 それであんしたのか、忠之はほっとした様子で言った。
「おらんとこは履物こさえる仕事しよるんよ。ほじゃけん、おら、元気になったら世話になったお礼に、千鶴さんにきりの下駄をこさえるけん」
 忠之は千鶴を元気づけようとしたのだろうが、千鶴の目には懐か ふところ ら桐の下駄を取り出した笑顔の進之丞の姿が浮かんでいる。
 涙がこぼれてえつを漏らしそうになった千鶴は、手で口を押さえながら立ち上がり、何も言わずにその場を離れた。忠之には失礼だっただろうが、そこまで考える余裕がない。
 境内けいだいへ出て山門さんもんまで行った千鶴は、そこから村の様子をぼんやりと眺めた。しかし、それで悲しみが抑えられるわけではなかった。
 村の様子は前世にここから見たものとほとんど変わらない。今世にこの村で進之丞と出逢ったという想いに加え、前世での進之丞との思い出も蘇り よみがえ 、悲しみは増す一方だった。
 今にも進之丞あるいは柊吉とうきちが石段を登って来そうな気がして、千鶴は泣きそうな目を海の方へ移した。そこは進之丞がいた代官屋敷があった所だ。そのすぐ近くに、ひんの鬼が千鶴を抱えて走って来た道が見える。
 すると男が一人、その道を北城町きたしろまちの方から歩いて来るのが千鶴の目に留まった。その背格好や服装で、その人物が村の者でないことは一目でわかった。
 その男がだんだん近づいて来るのを見ているうちに、千鶴の心の中に驚きと喜びが湧き上がって来た。
 男は法生寺ほうしょうじへ登る石段の下へ来ると、上を見上げた。
 千鶴と目が合ったその男は、まさしくスタニスラフだった。

      三

 千鶴は急いで石段を下りた。足が勝手に動いていた。
 石段を降りきってスタニスラフと向き合った千鶴は、息を弾ませるばかりで言葉が出ない。しかし、会いたかったという想いは目に出ていただろう。
 スタニスラフはうれしそうな笑みを浮かべると、黙って千鶴を抱きしめた。千鶴はそれにあらがわず、スタニスラフの腕に身を任せた。
ボクゥヴァ、ヅゥヴァスゥレェナァイ。アキラァメナァイ。ダカァラ、会イニ、来マァシタ」
 千鶴を抱きながらスタニスラフは言った。千鶴は何も言わずうなずくと、スタニスラフの胸で泣いた。忠之の前ではずっと押し殺していた悲しみが、せきを切ったようにあふれ出た。
 スタニスラフは千鶴を慰めていたが、千鶴が少し落ち着くと千鶴の唇を求めようとした。千鶴は慌ててスタニスラフから離れると、泣いたことをびた。
 スタニスラフは少し罰が悪そうな顔をしたが、それ以上は千鶴を求めようとはしなかった。
 同じく罰が悪い千鶴は、どうしてここへ来たのかと、はぐらかすようにたずねた。
 スタニスラフは千鶴からの手紙の返事を待ちきれなかったと言った。
ボクゥヴァ、ヅゥ、迎エニ、来マァシタ。僕ト、シヨニ、行キマショウ」
 城山の魔物から千鶴を救いに来たつもりなのだろう。千鶴がスタニスラフの腕で泣いたこともあってか、スタニスラフの真剣な眼差しは千鶴がうなずくと確信しているようだ。
 だが、千鶴は一緒には行けないと言った。その理由をかれて説明できずにいると、スタニスラフはかみ町でちょう 店のことを聞いて驚いたと話を変えた。
 再び紙屋町を訪れたスタニスラフは、やまさき機織きしょくが潰れていたのでとても困ったようだ。近所の店に千鶴たちの行方を訊ねてもわからないと言われるばかりで、それで途方に暮れていたところを、運よく組合事務所にいた組合長が気づいてくれたと言う。
 組合長はスタニスラフに千鶴たちが法生寺ほうしょうじにいることを教え、ここまでの道程みちのりを紙に書いてくれたらしい。それでここまで来られたと、スタニスラフは得意げに話した。
 どうして山﨑機織が潰れたのか、その理由をスタニスラフは千鶴に訊ねなかった。組合長から説明されたのかもしれないが、そのことで千鶴や家族をねぎらう言葉は、スタニスラフの口からは出てこなかった。そもそも店のことには関心がなかったに違いない。
 代わりに出て来た言葉は、店がなくなったのであれば、千鶴は店を継がなくてもいいというものだった。そのことをしゃべるスタニスラフの目は期待のいろに満ちていた。
 それは事実なので千鶴がうなずくと、ならば結婚の話はどうなったのかと、スタニスラフは畳みかけるように訊ねた。
 やはり答えることができずに千鶴が目を伏せると、スタニスラフは結婚の話もだめになったと受け止めたようだった。
 店が潰れ、結婚もなくなったのであれば、千鶴は自由なはずである。それなのに、どうして自分と一緒に行けないのかと、スタニスラフは千鶴をただした。
 それにも千鶴が答えないでいると、スタニスラフは質問を変え、どうしてここにいるのかと言った。
 それについては、店で働いていた忠七ただしちさんがここで大怪我をしたので、みんなでお世話をしていると千鶴は説明した。
 忠七が誰かがわからないスタニスラフは、忠七が風寄かぜよせであることは理解した。しかし、その忠七の世話のために千鶴たちがここにいることについては、理解ができないようだった。
 その忠七が千鶴が結婚するはずだった男なのかと、スタニスラフは眉間みけんしわを寄せた。その男が千鶴を束縛していると見ているのだろう。
 スタニスラフのこのような態度は、千鶴をいらだたせた。せっかく久しぶりの再会を喜んでいたのに、そこへ水を差すような言動は千鶴の気持ちをえさせた。
 忠之が進之丞であるのなら、千鶴は迷わずにうなずいていた。もちろん結婚話がだめになったなんて言わない。予定どおりに結婚すると胸を張って告げただろう。
 しかし忠之は進之丞ではない。それにスタニスラフに忠之への敵対心を抱いて欲しくなかった。それで千鶴は質問に直接答えずに、忠七さんは家族みたいなものだからと言った。
 はっきりしない千鶴の返事に、忠七は千鶴の結婚相手だったかもしれないが、千鶴が好きな相手ではないとスタニスラフは思ったようだ。にっこり笑うと、ヅゥヴァ、優シィデズゥネ――と言った。
 スタニスラフは話題を変えて、城山の魔物の話を持ち出した。
 新聞に載っていたあの魔物は、あの時の悪魔なのかとスタニスラフは言った。それで千鶴は一気に気持ちが沈んだ。
 鬼を悪魔だと信じるスタニスラフには、何を言っても通じない。それに進之丞や鬼のことは、家族や和尚夫婦以外には話したくなかった。
 無思慮に悪魔と言い続けるスタニスラフに腹立たしさを覚えながら、あの時の悲しみが膨らんだ千鶴は、黙ったまま涙をこぼした。
 その涙の理由はスタニスラフにはわからない。それでもスタニスラフは千鶴が悪魔に苦しんでいると勝手に思い込み、やはりそうなのかと顔をしかめた。また、千鶴はまだ魔女にはなっていないと確信したようだ。
 スタニスラフは千鶴の両肩をつかむと、強い口調で言った。
ヅゥボクゥト、シヨニ、アメリカへ、行キマショウ。ソウズゥレェバァ、悪魔アクゥマカラァ、逃ゲラレェマズゥ」
 千鶴はスタニスラフの言い草に辟易へきえきした。しかしスタニスラフの言い分を訂正する気力もないし、スタニスラフにわからせたいとも思わなかった。ただ、もうい加減にして欲しいという気持ちでいっぱいだった。
 それでもここから逃れるという意味では、スタニスラフの言葉は千鶴の胸に響いた。
 忠之に対する責任は感じているし、罪を償わねばという想いもある。その一方で、忠之と一緒にいるつらさから逃げ出したい気持ちがあるのは事実だった。
 しかし千鶴はスタニスラフから離れると、それはできないと言った。どんなにつらくても逃げるわけにはいかないのである。つらいのはばちが当たったからだし、罪滅ぼしがつらいのは当たり前なのだ。
 それにここは進之丞や鬼と死に別れた場所だ。忠之のことがなければ、ここから離れたいとは思わない。
ボクゥヴァ、ヅゥ、助ケニ、来マァシタ。僕ト、シヨニ、逃ゲマショウ」
 スタニスラフが繰り返すので、千鶴は少しおきゅうえてやりたくなった。
「スタニスラフさんは、がんごと戦うつもりはないんですか?」
 千鶴が真顔でからかうと、スタニスラフはぎくりとしたように顔をこわらせた。
悪魔アクゥマト、戦ウ、神ダケデズゥ。ダカァラ、教会デ、洗礼シテ、神ニ、護テモラァイマショウ」
「そがぁなことする前に、がんごに殺されるかもしれんぞなもし」
「ソレヴァ……」
 スタニスラフは返事ができなかった。その顔は相当あせっているようだ。千鶴は笑うと、別にええんぞなもし――と言った。
 自分のことばかり言うスタニスラフには疲れるが、それでもこうからわざわざ会いに来てくれたことが、千鶴は素直に嬉しかった。またずっと暗い気持ちでいた心に、ささやかな明かりを灯してくれたことが有り難かった。
 やはり鬼が怖い様子のスタニスラフに、鬼の話はもうやめましょうと千鶴は言った。
「そがぁなことより、まずはみんなに顔を見せてあげておくんなもし。きっと、みんな、喜んでくれるぞなもし」
 千鶴の言葉に救われたスタニスラフはたんに元気を取り戻し、笑顔で大きくうなずいた。

      四

 みんなに挨拶をしたスタニスラフは、新聞の記事を知って千鶴が心配になったので、アメリカへ行く前に会いに来たと話した。
 知念和尚とやすは、遙々はるばるこうから千鶴を訪ねて来たスタニスラフをねぎらった。二人は近頃の千鶴の様子に気づいていたのだろう。スタニスラフが来てくれたことを喜んでくれた。
 スタニスラフの目的を知らない甚右衛門たちも、感謝の気持ちで深々とスタニスラフに頭を下げた。
 さちにミハイルの様子をかれると、スタニスラフはエレーナに頭が上がらないミハイルの話をした。みんなはミハイルに同情しながら笑い、明るい雰囲気が広がった。
 いろいろ談笑しているところへ、ふらつきながら忠之が顔を見せた。本当はまだ誰かの支えが必要なのだが、珍しい来客に興味をかれたのか、柱につかまったりしながら来たようだ。
 千鶴は急いで立ち上がると、忠之に肩を貸して知念和尚の近くに座らせた。それからスタニスラフの隣に座り直したが、忠之にじっと見つめられると、進之丞に見られているようでうろたえた。
 知念和尚がスタニスラフに忠之を紹介すると、スタニスラフは知っていると答えた。忠七の名前は覚えていなくても、忠之の顔は覚えていたらしい。
 スタニスラフは忠之に挨拶をしないで、にらむような目を向けている。この男が千鶴を縛りつけていたのかと考えているのだろう。
 忠之の方はスタニスラフが誰だかわからない。それでも自分のことを知っているようだし、何だか怒っているように見えたに違いない。困惑の様子でぺこりと頭を下げた。
 スタニスラフの表情に気づいた千鶴は、忠七さんは怪我のせいで昔のことを思い出せないと、慌ててスタニスラフに話した。
 どういうことかとたずねるスタニスラフに、忠七さんはイノシシに襲われて死にかけ、ずっと意識がなかったと千鶴は説明した。そのせいで記憶を失ったので、スタニスラフが誰なのかはわからないと聞かされると、スタニスラフは納得したようにうなずいた。その口元には笑みが見える。
 スタニスラフは自分を指差して、自分のことを覚えているかと忠之に訊ねた。いいえと忠之が首を横に振ると、スタニスラフの小さな笑みは満面の笑顔になった。こんな男は自分の敵ではないと思ったのに違いない。
 そのあとスタニスラフは笑みを消して、可哀想カヴァイソウデズゥネ――と一応は忠之への同情を見せた。だが、すぐに勝ち誇ったような笑みを再び浮かべた。
 スタニスラフの様子はみんなが見ている。初めは歓迎していたはずだったが、何だか空気がおかしくなり出していた。
 甚右衛門はスタニスラフと千鶴の関係や、スタニスラフがアメリカへ行く前に神戸から千鶴に会いに来たことを、忠之に説明してやった。だが、二人がばんすいそうに招かれたことや、スタニスラフが千鶴と結婚したがっていたことなどは話さなかった。
 忠之はアメリカはもちろん、神戸がどこなのかもわからなかった。それで幸子が、神戸はないかいの向こうで、アメリカはもっと遠くの海のずっと向こうにある外国だと教えてやった。忠之はどちらもここから遠いということは理解したようだった。
「そがぁなとわとこからわざにおいでて、もっと遠い所へお行きんさるんかな。ほれは大儀たいぎぃなことぞなもし」
ヅゥモ、シヨデズゥ」
 相手をねぎらう忠之に、スタニスラフは間髪かんはつ入れずにこやかに言った。それは千鶴は自分の物だという宣言に違いなく、千鶴をあせらせた。
 和尚夫婦や甚右衛門たちは、スタニスラフが口にしたことに言葉を失ったようだ。千鶴とスタニスラフがすでにそのようなことを決めていたのかと、驚きを隠せない様子である。
「あんた、そがぁなこといつ決めたんね?」
 幸子がきびしい口調で千鶴をただした。
「うち、そがぁなこと決めとらん」
 千鶴はうろたえながら答えた。しかしスタニスラフは自分は千鶴を迎えに来たと言い、千鶴もそのことはわかっていると主張した。
「スタニスラフ、あんたはちぃと誤解しよるぞな。千鶴はな――」
 スタニスラフに注意しようとする母を、千鶴は制して言った。
「ええんよ、お母さん。スタニスラフさんには、あとでうちから話しとくけん」
 幸子は不満げに千鶴を見た。甚右衛門やトミ、それに和尚夫婦も当惑しているようだ。何故みんなの前ではっきりと、一緒に行くつもりはないと言って断らないのかと、誰もが思っているようだ。
 進之丞がこの世を去ってから、まだ一月ひとつきである。忠之は生き返ったが、進之丞は死んだのだ。
 甚右衛門たちは自分たちが知る忠七が、進之丞だったことは理解している。進之丞はただの使用人ではなく、千鶴の許婚いいなずけであり家族だった。その進之丞が千鶴を護って死んだのである。
 その進之丞のために、知念和尚は毎日お経を上げてくれている。和尚がお経を上げている間、千鶴のそばには安子が座り、その後ろで甚右衛門たちも一緒に手を合わせている。
 特に甚右衛門は進之丞を死なせてしまった責任を深く感じているようで、一月ひとつき経った今でもまだ落ち込み続けている。
 それでも甚右衛門からすれば、千鶴こそが誰より一番進之丞の死を悲しみ、深く傷ついているはずだった。
 それなのに、さっき来たばかりのスタニスラフと一緒になるような話が出て、千鶴がそれを明確に否定しないのは納得できるものではない。また、それはトミや幸子、和尚夫婦にしても同じだろう。
 千鶴が進之丞を失って嘆き苦しんでいることは、みんなが理解している。だからと言って、この時期に他の男に心を移すなど、誰もが断じて受け入れられないことだ。ましてや、その男と一緒に異国へ行くなど言語道断の話である。
 だが、今の千鶴の態度を見た甚右衛門たちには、スタニスラフの手紙を受け取った時から、千鶴が心変わりをしたように思えたに違いない。進之丞をとむらうために千鶴が手を合わせていたのは、すべて偽りだったのかという疑いがみんなの目に見てとれる。
 知念和尚と安子は忠之を我が子のように思っている。その忠之と進之丞が別人だとは理解しているが、忠之の記憶を持ち、忠之と同じく優しく賢い進之丞を、忠之と区別することは二人にはむずかしいようだった。
 進之丞のことも我が子のように感じている和尚夫婦は、やはり千鶴の態度に心を痛めているように見える。また、忠之が進之丞でないとはわかってはいても、すべてを失った忠之が千鶴からも見捨てられるのかと思ったに違いない。
 何だか険悪な空気が漂い始めたからか、忠之はみんなに頭を下げると、その場を離れようとした。雰囲気が悪くなったことに責任を感じたのかもしれなかった。しかし、足下がふらついて転びそうになり、危うく知念和尚に支えてもらった。
 千鶴は立ち上がって忠之を向こうの部屋へ連れて行こうとした。しかし、それより先に幸子が忠之の所へ行き、忠之をづかいながら連れて行った。それはまるで千鶴には世話をさせないと言っているようだった。
 千鶴は居たたまれない気持ちになったが、みんながスタニスラフや自分の態度で動揺していることは理解していた。
 スタニスラフは一度思い込んだら周りが見えなくなる性格だ。それはこれまでのスタニスラフの言動や、手紙から見てもわかることだった。だが、まさかこんな状況でいきなり自分の言いたいことを言うとは、千鶴も予想していなかった。
 一緒には行けないと伝えたはずなのに、こんなことになってしまい、千鶴自身大いに困惑を覚えていた。
 それでも、わざわざ神戸から会いに来てくれたスタニスラフに、恥をかかせるようなことはしたくなかった。それで曖昧あいまいな態度を見せたのだが、そのことでいっぺんに歓迎の雰囲気が失われたことには、千鶴もまどいを隠せない。
 何の弁解もできずに千鶴が小さくなっていると、忠之を連れ出した幸子が戻って来た。それを待っていたかのように、知念和尚はスタニスラフに訊ねた。
「スタニスラフさんと言うたかな。あなたのご家族は、いつアメリカへちんさるおつもりかな?」
 発つという言葉が、よくわからなかった様子のスタニスラフに、アメリカへはいつ行くのかと千鶴が訊き直してやった。
 スタニスラフはうなずくと、自分が神戸に戻った時だと言った。すると今度は安子が、いつ神戸に戻るつもりなのかと訊ねた。
 場の空気が読めないのか、わかった上でなのか、スタニスラフは胸を張ると、千鶴が一緒に行く時だと答えた。
 またもや一方的なことを言うので、みんなはさらに不愉快になったようだ。今にも怒鳴り出しそうな家族の顔を見て、さすがの千鶴も黙っていられなくなった。
「うちはあなたと一緒に行かれんて言うたのに、なしてそがぁな勝手なことぎり言いんさるん? うちはあなたとは行かんけん」
「サレェヴァ、ヅゥナ、本当ナ、気持チジャナァイ」
 何を言おうと、スタニスラフは自分が正しいと信じている。その姿勢は千鶴を少なからずいらだたせた。
「あのな、これ以上おんなしこと言い続けるんなら、せっかく神戸からおいでてもろたけんど、このまま神戸にんでもらうぞなもし」
 どこまで千鶴の言葉が理解できたかわからないが、千鶴のきびしい顔を見たからか、スタニスラフは勢いを失った。そうなると、自分をにらむみんなの顔が気になり出したようで、一転態度を改めた。
 スタニスラフは自分が悪かったと認め、みんなに頭を下げてびた。しかし、どこまで本気で悪いと思っているのかはわからない。
 それでも一応はスタニスラフが詫びたことを、和尚夫婦は認めたようだ。異国人だから日本人のことがわからなくても仕方がないと、二人は表情を緩めた。千鶴の顔を立ててくれたのだろう。
 一方、甚右衛門とトミは不機嫌そうな顔のままである。
 幸子はミハイルの息子が和尚夫婦に不快な思いをさせていることに、深く恐縮しているようだ。
「ところで、千鶴ちゃんはいつまで今のままでおるつもりかな?」
 知念和尚が千鶴に訊ねた。千鶴のはっきりした気持ちを知りたいのだろう。千鶴はきっぱりと答えた。
「うちはえきさんが一人でおっても大丈夫なんがわかるまでは、ここを離れるつもりはありません」
「ほれじゃったら、千鶴ちゃんがいつここを離れられるんかはわからんじゃろに」
 和尚は横目でスタニスラフを見ながら言った。
 スタニスラフは千鶴に佐伯とは誰のことかと訊いた。
 忠七さんのことだと千鶴が答えると、忠七と千鶴はどういう関係なのかとスタニスラフは問うた。それは石段の下で千鶴がはっきり答えなかった質問だ。
 さっきは家族のようなものだと言ったが、それではスタニスラフには通じない。それで今度は、忠七さんは自分たちにとって大切な人だと、千鶴は言った。
 するとスタニスラフは、何故使用人がそこまで大切なのかと疑問を投げかけた。
 自分と一緒に行くと千鶴に言わせられないので、別な形で千鶴の本音を引き出そうとしているのだろう。千鶴が義務的に忠之の世話をしているようなことを口にすれば、そこから千鶴を解放すべしという意見を述べるつもりに違いない。
 しかし、何も事情を知らずに勝手なことを言うスタニスラフの態度は、当然みんなを怒らせた。
 甚右衛門とトミがついに怒りを爆発させて怒鳴ろうとした。だが先に口火を切ったのは幸子だった。
「あんたな、ぇ加減にしぃや! あの人と千鶴がどがぁな関係かなんて、なして一々あんたに説明せんといけんのよ? 千鶴はあんたと一緒には行かんて言うとるんじゃけん、男じゃったらごちゃごちゃ言わんで、いさぎようにあきらめんかね!」
 以前に松山まつやまを訪れた時とはまったく違う幸子の様子に、スタニスラフは仰天したようだった。
 今度は興奮した甚右衛門が待ちかねた様子で言った。
「おまいを見よったら、正清まさきよがロシアに殺されたいう気持ちが蘇っ よみがえ てしまわい。相手のこと考えんで言いたい放題言いよったら、また戦争になってしまおが!」
 トミも続いて言った。
「前にあんたを見た時はええ子やと思いよったけんど、今のあんた見よったら、ほれは間違いじゃったておもわい。やっぱしロシア人いうんは、人の気持ちがわからんのかいねぇ」
 トミの言葉に少しうろたえた様子の幸子は、もう一度スタニスラフに言った。
「あんたが自分勝手なことしよったらな、他のロシアの人も、みんながあんたとついじゃて思われてしまんよ。あんたのお父さんやお母さんまでが、ロシア人いうぎりでわるう見られてしまうんで」
 どこまでみんなの言葉が理解できたのかはわからないが、思った以上の怒りをぶつけられたことが衝撃だったのだろう。スタニスラフがしゅんとなると、その辺にしたってやと千鶴が言った。それから千鶴はスタニスラフに諭すように言った。
「あなたにはわからんじゃろけんど、忠七さんはうちらには大切な人なんよ。やけん、うちはあなたとは一緒には行かれんのよ」
 このままではまずいと思ったのだろう。スタニスラフは再び自分の態度をみんなに詫びた。それから知念和尚に自分もここに置いて欲しいと頼んだ。
 ぎょっとする和尚たちに、スタニスラフは自分も千鶴を手伝いたいと言った。和尚と安子が困惑を見せるのも構わず、お寺の仕事も手伝うし、何でもしますとスタニスラフは必死に訴えた。
 和尚たちは千鶴に気持ちを訊ねるような目を向けた。
 千鶴はスタニスラフにいて欲しい気持ちがあった。だが、そんなことを言えるわけがない。千鶴が黙って下を向くと、わかったと和尚は言った。
「あなたのご家族が、いつまであなたを待てるかわからんけんど、好きなだけここにおりんさいや」
「やけん言うて、千鶴ちゃんが一緒に行くとは思わんでね」
 安子がくぎを刺すように言ったが、スタニスラフは大喜びで千鶴を抱きしめた。千鶴が一緒に喜んでくれると思ったらしい。
 千鶴は逃げるようにスタニスラフから離れると、和尚夫婦に黙って頭を下げた。
 和尚夫婦がスタニスラフを受け入れたので、甚右衛門たちもそれ以上はスタニスラフを責めるようなことは言わなかった。しかし、たび重なるスタニスラフの身勝手な態度に不愉快なのは隠せない。
 またスタニスラフを受け入れた千鶴も同罪なのだろう。自分は一緒に行けないと、みんなの前でスタニスラフに告げたにもかかわらず、じろりと千鶴を見た家族の目は不審のいろに満ちていた。

      五

 スタニスラフが仕事に加わったと言っても、忠之に関することは千鶴が一人で続けた。忠之に悪意を抱くスタニスラフに、忠之の世話を手伝わせるわけにはいかなかった。
 それに、自分もい加減な気持ちで世話をしているのではないというところを、千鶴はみんなに示さなければならなかった。
 それでも忠之は初めの頃とは違って、今では自分で食事もできるし、かわやで用を足すこともできる。
 千鶴がしているのは、移動の時に支えてやること、れた手拭てぬぐいで体を拭いてやること、着替えを用意して手伝ってやることぐらいである。右腰の傷も一応はふさがって消毒をする必要もない。
 あとは世話というのではないが、食事の時はもちろん、そうでない時にもできるだけ忠之のそばにいてやり、話し相手になってやることが千鶴の日課となっていた。
 千鶴がすることには寺の仕事もある。食事の準備や部屋の掃除、洗濯、がんなどの行事の手伝いなど、寺の仕事だけでも忙しい。
 時々は村の者が手伝いに来てくれるが、千鶴と幸子は毎日動き続けていた。スタニスラフはそこに加わることになった。
 スタニスラフが法生寺ほうしょうじに住み込みで働き出したことは、すぐに村の者たちの知るところとなった。
 千鶴とスタニスラフが久松ひさまつ伯爵はくしゃく夫妻の前で、結婚を誓い合ったという新聞記事を思い出した修造しゅうぞうは、そういうことかと今の状況を勝手に解釈したようだ。
 それは千鶴が忠之に見切りをつけて、スタニスラフと結婚するというもので、村長の見解はあっと言う間に村中に広がった。
 寺を訪れる村人たちの中には、千鶴の心変わりを理解しようとする者もいたが、忠之を気の毒がる者もいた。
 村人たちからいろいろ言われ、千鶴は大いに困惑した。そんな話にはなっていないと懸命に否定するのだが、スタニスラフは上機嫌で肯定するので、いつまで経ってもうわさはなくならなかった。
 噂に当惑していた甚右衛門は、修造が見舞いに来た時に、千鶴をスタニスラフと結婚させるつもりは毛頭ないと言った。しかし、それでは千鶴をこのまま忠之と一緒にさせるのかと問われると、甚右衛門は返事に困窮した。
 もし千鶴を忠之と夫婦めおとにするというのであれば、甚右衛門たちが風寄かぜよせで暮らせるように手配をすると、修造は申し出た。
 土佐とさへ行くことにしているとは言え、甚右衛門たちはそこの土地のことは知らないし、迎え入れてくれる親戚とも面識がない。甚右衛門たちにとって、修造の申し出はとても有り難いものだった。
 それでも、千鶴が忠之と一緒にいることを苦痛に感じているのは、甚右衛門もトミもわかっていた。それを無理に一緒にさせることはできないので、甚右衛門は修造からの申し出を丁重に断った。
 では千鶴はどうするのかと改めてかれると、今はわからないと甚右衛門は言った。
 前世でも今世でも進之丞との別れの地となったここを立ち去るか否かは、千鶴が決めることだと甚右衛門は考えているようだった。

 スタニスラフが寺の仕事を手伝うようになると、千鶴は自分の仕事の手を休めて、スタニスラフと一緒にいることが多くなった。
 初めのうちはスタニスラフをづかって、少ししゃべる程度のことだった。だが次第にその時間が長くなり、ついには幸子にしかられるほどになっていた。
 また理由をつけては忠之の傍から離れ、スタニスラフの所へ行くこともあった。
 忠之と一緒にいると、千鶴は進之丞を思い出す。それで忠之と喋っていても、うわそらになったり泣きそうになることが多かった。
 しかしスタニスラフと喋る時は、進之丞のことを考えずにいることができた。またスタニスラフが話すロシアの話は面白かった。
 必要な世話はきちんとやっているので、スタニスラフの所へ行くのは息抜きのつもりだった。それでも他の者の目には、やはりスタニスラフに心移りしたのだと映ったようだ。
 甚右衛門たちは千鶴の態度に苦い想いをしていたに違いない。それでもあきらめているのか、千鶴に小言を言う者はいなかった。
 その代わり、甚右衛門とトミが忠之の話し相手になることが多くなった。千鶴が忠之の傍を離れて戻って来ると、もう二人が忠之の両脇を占めており、千鶴の居場所はなくなっていた。
 また、甚右衛門は進之丞が持って来ていた反物を使って、忠之に着物を作ってやってはどうかとトミに提案した。
 ほれはええねと、トミはすぐに忠之の体の採寸をした。
 トミが忠之の着物を作り始めると、幸子も自分もやりたいと言って、暇を見つけては違う絵柄の着物を作り出した。
 祖母と母が忠之の着物を作るのを見ると、千鶴は後ろめたい気持ちになった。本当であれば自分がしてやればいいことなのに、それをやらないから二人が代わりにしていると思っていた。
 忠之が着物を作ってもらうのを見て、スタニスラフは自分にも作って欲しいと千鶴にせがんだ。前に作ったはずなのだが、あれはこうにあるので、ここでの着物が欲しいとスタニスラフは言った。
 その話を千鶴が祖父母にすると、ならんと甚右衛門は素っ気なく言った。この反物は忠七にやった物であり、スタニスラフには使わせないと言うのだ。千鶴はあきらめるしかなかった。
 祖母も母も同意見で、忠之には作ってやらない着物をスタニスラフには作ってやるのかと、千鶴に白い目を向けた。我が身を犠牲にしてでも自分を護ってくれた母までもが、冷たい態度を見せることは千鶴にはつらかった。
 それでも自分に非があることは、千鶴もわかっていた。
 もちろん千鶴ばかりが、一方的にスタニスラフの所へ行くわけではない。スタニスラフの方から千鶴を呼ぶこともしばしばだった。だが、別に用事がないのはわかっている。それを拒まないのは千鶴が悪いという話である。
 
 スタニスラフが来てから、千鶴は野菊の群生地にも行かなくなった。行こうとするとスタニスラフがついて来るので、進之丞や鬼に祈りをささげることができなかった。
 ついて来ないで欲しいと言っても、スタニスラフはついて来る。それで進之丞や鬼と死に別れた場所から足が遠のいてしまった。
 それを進之丞や鬼に申し訳ないと思いながら、千鶴はスタニスラフを拒むことができなかった。スタニスラフがいなければ、忠之と一緒にいるつらさに潰れてしまいそうな気がしていた。
 それでもある時、さすがに千鶴も我慢ならないことがあった。

 スタニスラフは何かと悪魔の話を繰り返し、教会で洗礼を受けろとうるさかった。千鶴を神戸に連れて帰りたいが、悪魔がいたままでは困るのだろう。
 墓地の掃除をしていた時、スタニスラフがやって来て同じことを言うので、うんざりした千鶴は、鬼は死んだとスタニスラフに告げた。
 いきなりそんなことを言われても、スタニスラフが信じるわけがない。それでも千鶴は、鬼は死んだからその話はするなと強い口調で言った。
 悪魔はいつどうやって死んだのかと、スタニスラフは問うた。しかし、そんなことを千鶴は言いたくない。そんな話をする必要はないし、信じるかどうかはスタニスラフの勝手だけれど、とにかく鬼は死んだと、千鶴は不機嫌を隠さず喋った。
 どうして今まで黙っていたのかとスタニスラフが訊くと、言いたくなかったからとだけ千鶴は答えた。
 初めスタニスラフは千鶴が適当なことを言っていると思っていたようだ。だが、真顔の千鶴が涙ぐむのを見ると、ようやく信じたらしい。
 みるみる顔に笑みが広がったスタニスラフは、千鶴の涙など気にする様子もなく、手を叩いたり声を出したりして喜んだ。千鶴の話が本当ならば、悪魔を恐れる必要がなくなったということだろう。
 怒りをこらえた千鶴はスタニスラフに背を向けた。しかし、スタニスラフは千鶴を自分の方に向き直させると、オイヴァイシマショウと言って抱きしめようとした。
 こらえきれなくなった千鶴は、スタニスラフを力任せに突き飛ばした。
 尻餅をついたスタニスラフは、驚いた顔で千鶴を見た。千鶴は肩をいからせてスタニスラフをにらんだが、その様子は千鶴が魔女になったように見えたに違いない。
 スタニスラフは困惑と恐れが混ざったような目をしていたが、千鶴は構わず再び背を向けて仕事に戻った。スタニスラフを有り難く想う気持ちは一瞬にして冷めてしまった。
 鬼の死を、進之丞の死を喜ぶ者など誰であれ許せない。しかもその鬼はスタニスラフをも特高とっこうけいさつから救ってくれたのである。その鬼の死を喜ぶスタニスラフは最低の男だった。
 スタニスラフに怒りを覚えたことで、千鶴は目が覚めたような気がした。進之丞や鬼を大切に想っていたはずが、こんな男へのづかいの方を重んじてしまったと、込み上げる後悔の念でうなれた。

 しばらくすると、スタニスラフが謝りに来た。やはり千鶴は魔女になったのかと不安になりながらも、千鶴をあきらめきれないのだろう。少しおどおどしながら、教会へ行って洗礼を受けようと話しかけた。だが、それが余計に千鶴を怒らせた。
 松山で特高警察に捕まりそうになった時、誰が助けてくれたのかと千鶴は問うた。返事に困ったスタニスラフは、神が助けてくれたと言った。千鶴のことも忘れて祈り続けたお陰で助かったということだろう。千鶴はあきれて次の言葉が見つからなかった。
 ため息しか出ない千鶴は、自分は魔女だからあきらめて神戸に帰るようにと言った。
 だがスタニスラフは、神戸には帰らないと言い張り、自分が千鶴を救うと宣言した。それは魔女になった千鶴を、自分が人間に戻してみせるという意味なのだろう。
 勝手にしんさい――と言って、千鶴はスタニスラフを無視した。だが、スタニスラフは千鶴から離れようとしなかった。千鶴が行く所には、どこにでもついて行こうとした。
 千鶴が進之丞や鬼と死に別れた場所へ向かおうとしても、スタニスラフはあとをついて来た。ついて来ないようにと強い口調で言っても、スタニスラフは聞かなかった。
 スタニスラフは千鶴が悪魔を復活させる儀式をすると思い込んでいるようで、何を言われても、そんなことはさせないと譲らなかった。
 結局、千鶴が野菊の群生地で進之丞や鬼をしのべないという状況は変わらず、千鶴は肩を落とすしかなかった。

      六

 千鶴は忠之に着物を作った。忠之にびる気持ちがあるなら作るべきだと思い、祖母と母に頭を下げて作らせてもらったのである。
 祖母や母が作った着物にそでを通した時、忠之はうれしそうに喜んだ。しかし、千鶴が作った着物を着た時には、感極まったように涙ぐんだ。その姿は進之丞そのもので、千鶴も思わず泣いた。だが、それが今まで見ようとして来なかった、進之丞ではない忠之自身の姿であると気づくと、千鶴は胸が熱くなった。
 忠之は何もしていないのに二年の記憶を失い、大切な家族をも失った。この二年を振り返ると、千鶴は悲しみでいっぱいになるが、忠之にはそのような泣ける想い出すらなかった。
 また進之丞として一度は死んだ身なので、体は惨めなくらい痩せ細ってしまい、元のような体力を取り戻せるかもわからない。
 そんな忠之が自分の着物をそこまで喜んでくれたことは、千鶴の胸を打った。少しでも罪滅ぼしができたという嬉しさもあったが、忠之の人柄が千鶴の心に温かいものを運んでくれた。
 進之丞が言ったように、忠之の心は進之丞とついだった。似ているというより同じなのだ。忠之の優しさは進之丞の優しさであり、忠之の憂いは進之丞の憂いだった。だがどんなに似ていたとしても、忠之は忠之なのである。
 忠之が進之丞とそっくりであることは、千鶴にとって苦痛ではあったが慰めでもあった。それがやがて苦痛ばかりになり、そこから逃げ出したくなりもした。それが気がつけば、今は逆に忠之自身にかれるようになっていた。
 しかし、それは問題だった。千鶴の心は進之丞のものであり、千鶴が慕うのは進之丞ただ一人のはずなのだ。それなのに、千鶴の中では忠之の存在がどんどん膨らみ出し、ついにはみ込まれてしまいそうになっていた。
 だからと言って、忠之から逃げることはできない。千鶴には忠之の世話をする義務がある。それにお世話をしたいという気持ちもつのる一方で、千鶴は自分の気持ちに困惑していた。
 千鶴は自分を戒めながら忠之に接するようにした。できるだけ自分の想いを押し殺し、それが表に出て来ないようにした。
 ところが、そうするとどうしても笑顔を見せることができなくなる。また態度がぎこちなくなって、忠之を拒んでいるように見えてしまう。そのせいで忠之が顔を曇らせると、千鶴は胸が苦しくなった。これは忠之といるのが苦痛だったのとは真逆のつらさだった。

 この日、千鶴は玄関脇の部屋で忠之としゃべっていた。忠之が千鶴の両親のめについて訊くので、母や祖父母から離れたこの部屋で話すことになった。
 スタニスラフが千鶴たちを気にしていたが、スタニスラフには掃除の仕事がある。他のことなら千鶴のそばへ来るのだが、千鶴が忠之の世話をしている時には近づけない。
 それに例の一件以来、千鶴がスタニスラフと距離を置くようになったので、スタニスラフは苦々しげにしながら己の仕事をするしかなかった。
 忠之を座らせた千鶴は、自分もその横に腰を下ろした。冷静さを保とうとはしても、忠之の隣にいると、胸がどきどきしてしまう。そんな自分を情けなく思いながら、千鶴は母から聞いていたことを忠之に話してやった。
 忠之は興味深く話を聞いた。そして、戦争をしている国の者同士が戦時中に恋に落ち、その想いをを貫いたことを、驚きを持って賞賛した。
 それでも幸子が結ばれたのは敵国の兵士である。幸子がどのような境遇に置かれたのかは想像がつく。それは二人の子供として生まれた千鶴も同様だ。
 忠之は幸子や千鶴の苦労を思いやり、二人の強さを褒め称えた。また、イワノフが千鶴たちに会いに来てくれたことは、我が事のように喜んだ。
 忠之自身には親はいない。育ての親はいても、実の親は忠之を捨てたのだ。そのことを知らされた忠之が、つらい気持ちにならなかったはずがない。それでも忠之はそんなことはおくびにも見せず、千鶴さんはまっこと大事にされとらい――と千鶴を励ました。それは甚右衛門やトミも含めてのことで、千鶴が温かい人々に囲まれているという意味だ。
 また忠之は、自分自身もみんなから家族みたいに面倒を見てもらえるのが、不思議だし幸せなことだと感慨深く言った。
「おとっつぁんとおっかさんがおへんからんたら、おら、みなさんを二人に会わせたいて思いよるんよ。おらが世話になっとったんは、こがぁなええ人らじゃて、おら、おとっつぁんらに見せてやりたいんよ」
 忠之が言ういい人たちの中には千鶴も入っている。しかし、千鶴は罪悪感でいっぱいだった。
 何も知らない忠之は、自分の親に会うのを楽しみにしている。だが為蔵もタネも、もうこの世にはいない。いずれそのことを忠之は知ることになるが、その時に忠之を襲う絶望を思うと、千鶴は居たたまれなかった。
 優しい笑顔を向ける忠之が、千鶴には哀れであり愛おしかった。忠之に詫びる想いはもちろんあるが、それとは別の想いだ。
 千鶴は黙って忠之を抱きしめてやりたかった。そして一生忠之のそばに居てやりたいと思った。
 しかし、それは忠之に心を奪われたということである。それを千鶴は認めるわけにはいかなかった。進之丞が死んだとは言え、千鶴の心は進之丞だけのものだからだ。死んでもつながっているはずの自分の心を、進之丞とは別の男に捧げることなど許されない。しかも進之丞が死んだのは、ついこないだのことなのだ。

 ごめんなさい――うろたえた千鶴は立ち上がると、逃げるようにその場を離れた。部屋を出ると、玄関に母がいた。
 千鶴は母に忠之のことを頼むと、そのまま縁側えんがわのある座敷へ行った。外を眺められる場所で、混乱した気持ちを落ち着けたかった。
 そこには祖父母がいるはずだったが、いたのはスタニスラフだけだった。スタニスラフは掃除もせずに、ぽつんと縁側に座って庭を眺めていた。
 千鶴が来たのに気がつくと、スタニスラフは嬉しそうに振り返り、自分の隣へ来るよう千鶴をいざなった。
 千鶴はスタニスラフの横へ行きたいとは思わなかった。しかし気持ちを落ち着けるために、誰かと話がしたい気分ではあった。祖父母がいればよかったのだが、二人はいない。スタニスラフにくと、祖父母は墓地の掃除に出たと言う。
 千鶴は少し迷ったが、仕方がないのでスタニスラフの隣に座った。すると、早速スタニスラフは千鶴に体を寄せて、千鶴の肩に手を回した。
 忠之と何をしていたのかとスタニスラフがたずねると、千鶴はスタニスラフの手を外しながら、ちょっと話をしていただけと言った。スタニスラフはそれがどんな話だったかを聞きたがったが、大した話ではないと言って千鶴はごまかした。
 スタニスラフと一緒にいても、前のように喋ることがない。だるさと気まずさが沈黙となると、神戸にはいつ戻るのかと千鶴は素っ気なく訊ねた。
 神戸に戻るのは千鶴が一緒に行く時だと公言したのに、その千鶴からそんなことを訊かれては困惑しかない。顔をゆがめたスタニスラフは返事に詰まった。直接は答えずにアメリカの話をしたが、今の千鶴にはそんな話は少しも響いて来ない。
 千鶴の表情にあせったスタニスラフは、今度はばんすいそうでのばんさんかいとうかいの話を持ち出した。それであの時の千鶴の気持ちを取り戻したいと思ったのだろう。ところが千鶴には後悔の想いしかない。陰で千鶴たちの様子を見て泣く進之丞が思い浮かぶ。
 千鶴は立ち上がろうとした。いくら話し相手が欲しくても、スタニスラフと一緒にいたのは間違いだった。
 慌てたスタニスラフは千鶴の腕を引っ張ると、無理やり抱き寄せた。千鶴はあらがったが腕を押さえられて動けない。スタニスラフが千鶴に顔を近づけた時、千鶴を呼ぶ幸子の声が聞こえた。
 はっとしたスタニスラフを千鶴が押しのけると、廊下に忠之に肩を貸した幸子が現れた。
 幸子はスタニスラフと体を寄せ合って座る千鶴を見ると、けんしわを寄せた。そうなったのはスタニスラフに強引に迫られたからなのだが、そんなことは幸子にはわからない。また佐伯さんを蔑ろ ないがし にしてこんなことをしているのかと責めるような目だ。
 忠之は幸子に礼を述べると、一人で千鶴たちの所へ来ようとした。しかし、まだ足下がおぼつかないのでふらついている。すぐに幸子が支えたが、千鶴も立ち上がって忠之に駆け寄った。
「佐伯さんがな、どがぁしてもあんたに話したいことがある言うけん連れて来たのに」
 しかるような口調の幸子は、情けなさと申し訳なさの顔で忠之を見た。だが忠之は平気な様子で微笑みながら、邪魔をして申し訳ないと千鶴に頭を下げた。
 佐伯さんにこんなことを言わせるのかと言いたげに、幸子は千鶴をにらんだが、それは千鶴自身同じ気持ちだった。
 千鶴はうろたえながら、忠之から離れたことを詫び、申し訳ないのは自分の方だと言った。また、スタニスラフに会うために離れたわけではないと弁解したかったが、声がうわってしまってうまく喋れなかった。
 スタニスラフが縁側に座ったまま、千鶴たちに嫉妬の目を向けている。それを見とがめた幸子がスタニスラフを叱りつけた。
「スタニスラフ、あんた、こがぁなとこでずるけしよらんで、しゃんしゃん仕事せんかね」
 スタニスラフが渋々そうに立ち上がると、幸子は千鶴に顔を戻した。千鶴に忠之を預けて本当に大丈夫なのかと不審に思っているようだ。それでも千鶴が忠之に肩を貸すと、鼻で大きく息を吐いて心配そうに見守った。
 それから幸子はもう一度スタニスラフに目をると、スタニスラフ!――と叫んだ。
 スタニスラフは腰を上げたものの、その場に立ち続けて忠之をにらんでいた。自分と千鶴の邪魔をしたと思っているのだろう。それにスタニスラフは忠之の着物も気に入らなかった。自分には作ってもらえなかった着物を、忠之が着ているのがしゃくさわるのだ。
 幸子ににらまれながらスタニスラフが出て行くと、千鶴は忠之を縁側に座らせた。そして自分もその隣に腰を下ろしたが、胸の中で心臓が暴れ続けている。
 スタニスラフと寄り添って座っていたところを見られてしまい、恐らく誤解されているという気持ちが千鶴をあせらせていた。改めてお詫びと言い訳をしようとしたが、何と言えばいいのかわからない。
「ごめんなさい。うち……」
 言葉が続かず目を伏せる千鶴に、忠之は明るく言った。
「ええんよ。おらのことは気にせんでつかぁさい。おらの方こそ、千鶴さんの邪魔して悪かった。ほんでもな、おら、どがぁしても千鶴さんにお願いしたいことがあるんよ」
「お願い?」
 顔を上げた千鶴に、忠之はうなずいた。
「さっき言うたらよかったんやけんど、言いそびれてしもたけん」
 忠之が言いそびれたのではなく、千鶴の方が勝手に席を立ったのだ。忠之の顔を見づらい千鶴は、また目を伏せがちにしながら、頼み事の中身を訊いた。
 忠之はそろそろ家に戻りたいと訴えた。何を頼まれるのかと少し緊張したが、そのことかと千鶴は肩から力が抜けた。
 家に戻りたいとは、前にも言われたことだ。その時には、まだ早いからと説得し、忠之もそれを受け入れた。しかし、今回はあの時よりも強い気持ちのようだ。決心は変わらないと言わんばかりの目で見られると、千鶴は困惑した。
「佐伯さんのお気持ちはわかるけんど、まだいけんぞな。もうちぃと、もうちぃとぎり我慢しておくんなもし」
 今までならば、千鶴がこれだけ言えば忠之は引き下がってくれた。だが今日は珍しく忠之は首を縦に振ろうとしない。
 自分はもう一人で何でもできるから、世話はいらないし家に戻りたいと忠之は主張した。家に戻っても誰もいないと千鶴は言ったが、為蔵とタネがいつ戻ってもいいように、履物を作りながら待っていると譲らない。
 実際、為蔵たちが遍路旅に出ているという話を、忠之がどれだけ信じているかはわからない。信じていると言うより、はなから疑ってかかっているようだ。いつまで経っても会いに来ない家族が、本当のところはどうしているのかを自分の目で確かめたいのだろう。
 困った千鶴は知念和尚に相談しようと思った。しかし、もう事実を告げる時が来たのだと思い直した。
 どうせ、いつかは誰かが話さなくてはならないことだった。その誰かというのも、自分を置いてはいないのである。
 千鶴は少し悩んだあと、佐伯さん――と言った。
「実は、うち、佐伯さんにお話せんといけんことがあるんぞなもし」
「おらに話? ほれはおらの家族のことかな?」
 やはり忠之は遍路旅の話を信じていないみたいだ。それでも話を聞くのが不安らしい。少しそわそわしているようだ。その様子に、千鶴は喋ると決めたつもりなのに、話を続けるのが怖くなった。だが、もう話があると言ったのである。
「ほれもあるけんど、他にも佐伯さんにお伝えせんといけんことがあるんぞなもし」
 喋りながら千鶴は緊張したが、それは忠之も同じだった。ほうなんかと言った忠之の顔は、硬くこわっている。家族のことだけでなく、自分に何があったのかという話なのだと受け止めているのに違いない。
 千鶴が忠之に向き直ると、忠之も体の向きを変えた。向かい合って座る忠之を見ると、まだ自分の正体を明かしていなかった頃の進之丞が、目の前に座っているみたいだ。
 千鶴は一つ呼吸をしてから、今からする話を気持ちを落ち着けて聞いて欲しいと言った。声が自然に震えてしまう。
 真実を知った忠之からとうされることは覚悟していた。それはとてもつらいことだが、むしろ罵倒してもらった方が気持ちが楽になるという想いもあった。
 だが、いざ話そうと思うと、どこから話せばいいのかわからない。少し考えたあと、千鶴は前世の話をすることにした。自分と進之丞、そして鬼の物語である。