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戻って来た男

      一

 九月の末頃、組合長が様子を見にやって来た。
 甚右衛門じんえもんたちもいつまでも寺の世話になるわけにはいかず、そろそろ今後のことを決めなければならないようだった。
 鬼のことを知る組合長に、甚右衛門はこれまでのことをすべて話した。
 組合長は何度もうなずきながら涙ぐんだ。そして黙って千鶴ちづの肩をたたいて慰めてくれた。また忠之ただゆきに対しても気の毒がり、これからどうするのかと、組合長は他の者と同じ質問を千鶴に投げかけた。
 何度も同じことをかれると、千鶴には早く白黒つけるようにとみんなから催促されているみたいに思えた。
 千鶴が返事に困っていると、ほうよほうよと組合長は思い出したように、懐か ふところ ら一通の手紙を取り出した。それは千鶴に宛てられたスタニスラフからの手紙だった。山﨑機織宛やまさききしょく に郵便屋が届けに来た手紙を、組合長が預かっていたそうだ。
 手紙が届いたのは十日ほど前で、すぐに持って来られなかったことを組合長はびた。
 いいえと言って受け取った手紙を、千鶴は思わず胸に抱いた。
 スタニスラフにはずっと返事を出さなかったので、いつの間にか手紙は来なくなっていた。もうスタニスラフとはえんが切れたと思っていたし、千鶴の心には進之丞し しんのじょう かいなかった。組合長から手紙を渡されるまで、スタニスラフのことなど思い出しもしなかった。
 だが、手紙が新たに送られて来たことで、まだスタニスラフが自分のことを忘れていなかったのだと、千鶴は有り難い気持ちにさせられた。
 忠之の世話で苦しんでいなければ、そんな気持ちにはならなかっただろう。しかし、暗闇の中で途方に暮れている千鶴には、この手紙は思いがけず差し伸べられた手のようだった。
 手紙を胸に抱く千鶴の心に、スタニスラフと過ごした時が懐かしく蘇る よみがえ 。すべては遠い昔のようだし、萬翠荘にばんすいそう 招かれたなんて夢だったみたいに思えてしまう。
 千鶴に手紙を渡した組合長は、弥七やしち孝平こうへいの裁判が終わったと、甚右衛門たちに報告を始めた。二人とも素直に罪を認めているために早く結審したようだ。
 弥七は反省しているところが考慮されて執行猶予がついたが、孝平の方は実刑判決が出たらしい。
 孝平はしばらくの間、外には出られないみたいだが、弥七は解放されたあと、どこかへ行ってしまったようだと組合長は言った。
 甚右衛門は一応話は聞いているが、弥七や孝平のことなどどうでもいいようだった。
 トミも孝平が刑務所入りになったと聞いても、少しも涙を流さなかった。代わりに離れた所にいる忠之を悲しげに見つめていた。
 千鶴も弥七や孝平の名前など聞きたくなかった。あの事件がなければ、山﨑機織は潰れなかったはずであり、鬼と進之丞が死ぬこともなかったのである。
 千鶴はみんなから離れて他の部屋へ行った。そこで眺めた封筒には、久しぶりに見たスタニスラフの辿々たどたどしいひらがな文字が書かれてあった。
 何だか胸が熱くなった千鶴は急いで封を切った。
 手紙はスタニスラフたちがいよいよ神戸こうべを出て、ヨーロッパへ向かうことになったというものだった。
 何度手紙を出しても返事が来ないので、やはり自分は千鶴に迷惑をかけていたのかもしれないと、スタニスラフは思ったそうだ。
 それで千鶴のことはあきらめてヨーロッパへ行くことを決めたところに、松山まつやまの城山に再び魔物が出たという記事が、神戸こうべの新聞でも紹介されたらしい。
 心配になったスタニスラフはヨーロッパへ行く前に、もう一度だけ千鶴に会いたいと書いていた。
 スタニスラフは自分が会いに行くことを認めるよう千鶴に訴え、この手紙を受け取ったらすぐに返事が欲しいと伝えていた。
 自分を心配してくれるスタニスラフの気持ちが、千鶴はうれしかった。また、未だにスタニスラフが自分を望んでくれていることに、少なからぬ感動を覚えていた。
 高浜港で たかはまこう 父とスタニスラフを見送った時、今世で進之丞と出会っていなければ、スタニスラフと一緒になるのが自分の定めだったのかと、ふと考えたことを千鶴は思い出した。
 あの時はすぐにその考えを否定したが、あとで進之丞も同じようなことを言っていた。そんなことを考えると、自分にとってスタニスラフが特別な存在に思えて来る。
 しかし、即座に千鶴はそんな自分を情けないとののしった。進之丞がいなくなった寂しさを、他の男で埋めようと考えた自分が恥ずかしくて腹立たしかった。
 千鶴は手紙を自分の荷物の中に突っ込むと、もう忘れることにした。返事なんか出さないし、スタニスラフがヨーロッパへ行くのはいいことだと考えた。
 それでも一度思い出してしまうと、スタニスラフは事あるごとに千鶴の心に顔をのぞかせた。その都度、千鶴は自分に腹を立てて自分を戒めるのだが、その効果は長くは続かなかった。
 忠之のそばにいて進之丞のことを思い出すと、泣き崩れそうになるほど落ち込むことがある。そんな誰にもすがれず助けてもらえない時に、スタニスラフは千鶴に微笑みかけて来る。それを避けようとすればするほど、スタニスラフは千鶴の心に忍び込もうとするのだ。
 一方で、声も姿も進之丞そのものである忠之は、仕草も千鶴に見せる気遣きづかいも、進之丞にますます似て来た。
 進之丞とまったくの別人らしく、性格もしゃべり方も考え方も違っていれば、千鶴もこんなにつらく感じなかったかもしれない。ところが忠之を見ていると、本当に進之丞が今も生きてそこにいるようだった。もはや千鶴にとって忠之は慰めではなく、苦しみだけの存在になっていた。
 忠之の前にいる時、千鶴は精いっぱいの笑顔を繕っていた。しかし、本当は泣き叫びたかった。
 この顔、この声、この体は、本当は進さんのものだったのにという誤った想いが浮かぶこともあり、千鶴は自分で自分が嫌になっていた。
 千鶴の心はぼろぼろだった。千鶴は癒やしを求めていた。慰めが欲しかった。

 野菊の群生の前に行くと、自分も死にたいと千鶴は進之丞に訴えた。しかし、死んだところで自分にはえないと、進之丞にくぎを刺されている。それがどういうことかはわからないが、逢えないのであれば死んでも仕方がない。
 それに進之丞は今を生きよと言った。だから生きているのだが、千鶴には自分の将来が見えなかった。
 祖父母と母は間もなく土佐とさへ行ってしまう。自分も一緒に行ければいいのだが、忠之を放って行くことはできない。それはこの苦しみから逃れることはできないということだ。
 祖父母や母がいなくなったあと、異人の娘である自分にどんな道が残されているのか。それを考えると千鶴は暗い気持ちになった。
 進之丞と夫婦めおとになれたのならば、何も心配はなかった。だが今は進之丞はいないし、為蔵ためぞうとタネもいない。
 前世のように法生寺の ほうしょうじ 世話になったなら、忠之の世話を終えたあとも、忠之の傍で暮らすことになる。それは死ぬまで苦しみ続けろと言われているようなものだ。それが忠之の人生を奪った罰だと言われれば、そうなのかもしれないが、やはり考えるとつらかった。
 しかし、ここを出ても行く当てがない。祖父母を追って土佐へ行ったところで、自分なんかが快く受け入れてもらえるとは思えなかった。見知らぬ者たちの好気の目にさらされ、差別を受けながら生きることを思うと、とても心細くなってしまう。
 そんな千鶴にスタニスラフが微笑みかける。スタニスラフだけは自分を求めて受け入れてくれる。
 千鶴は無性にスタニスラフに会いたくなった。だが、手紙を受け取ってから何日にもなる。受け取る前にも十日ほどがぎていたらしいから、もうスタニスラフはあきらめてヨーロッパへったに違いなかった。
 千鶴は残念に思ったが、これでいいのだと思い直した。
 結局はスタニスラフとは縁がなかったわけであり、進之丞がいなくなった今も、自分の心には進之丞しかいないのだと、千鶴は改めて自分を鼓舞した。

      二

 十月に入ると、ふもとの村は祭りの準備でせわしくなった。
 二年前、千鶴はこの祭りで進之丞と出会った。だが、今はもう進之丞はいない。祭りの気配は千鶴を切なくさせた。
 山陰やまかげものである忠之は、村の祭りは関心がないみたいだった。それでも未だに家族に会えないことには、さすがに不審を抱いているようだ。
 それでもまだまだ支えがなければ、歩くこともおぼつかない体では、家に様子を見に戻るということはできそうにない。いらだちを見せるわけではないが、忠之はいつも気分が沈みがちだった。

「じいさまとばあさまは、なして会いに来てくれんのじゃろか」
 千鶴と一緒に庫裏くり縁側えんがわに座った忠之は、外の景色を眺めながら千鶴に話しかけた。それは千鶴が理由を知っていると思っているからだろうが、千鶴はまだ真実を話す覚悟ができていなかった。
 為蔵たちが姿を見せない取りえずの理由を、千鶴は知念和尚や ちねんおしょう 安子やすこと相談して、二人が遍路旅へんろたびに出かけて帰っていないということにした。それで、そのとおりの説明を忠之にした。
 しかし、どうしてあの歳になってから遍路旅に出るのかと聞かれると、千鶴は答えることができなかった。あとで和尚さんに聞いてみてと言うのが精いっぱいだった。
 為蔵たちの話をやめると、忠之は元気になったら世話になったお礼に、千鶴にきりの下駄を作ると言った。そんなことはしなくていいと言いながら、千鶴は泣きそうになるのを必死にこらえた。
 母が来たので、千鶴は忠之の相手を頼み、その場を離れて境内けいだいへ出た。気持ちを落ち着ける必要があった。
 山門さんもんまで行った千鶴は、そこから村の様子をぼんやりと眺めていた。すると男が一人、北城町のきたしろまち 方から歩いて来るのが見えた。その背格好や服装で、そ人物が村の者でないことは一目でわかった。
 その男がだんだん近づいて来るのを見ているうちに、千鶴の心の中に驚きと喜びが湧き上がって来た。
 男は法生寺へ ほうしょうじ 登る石段の下へ来ると、上を見上げた。
 千鶴と目が合ったその男は、まさしくスタニスラフだった。

 千鶴は急いで石段を下りた。足が勝手に動いていた。
 石段を降りきってスタニスラフと向き合った千鶴は、息を弾ませるばかりで言葉が出ない。しかし、会いたかったという想いは目に出ていただろう。
 スタニスラフはうれしそうな笑みを浮かべると、黙って千鶴を抱きしめた。千鶴はそれにあらがわず、スタニスラフの腕に身を任せた。
ボクゥヴァ、千鶴チヅゥヴァスゥレェナァイ。アキラァメナァイ。ダカァラ、会イニ、来マァシタ」
 千鶴を抱きながらスタニスラフは言った。千鶴は何も言わずうなずくと、スタニスラフの胸で泣いた。忠之の前ではずっと押し殺していた悲しみが、せきを切ったようにあふれ出た。
 スタニスラフは千鶴を慰めていたが、千鶴が少し落ち着くと千鶴の唇を求めようとした。千鶴は慌ててスタニスラフから離れると、泣いたことをびた。
 スタニスラフは少し罰が悪そうな顔をしたが、それ以上は千鶴を求めようとはしなかった。
 同じく罰が悪い千鶴は、どうしてここへ来たのかと、はぐらかすようにたずねた。
 スタニスラフは千鶴からの手紙の返事を待ちきれず、直接返事をもらいに来たと言った。
 わざわざ来たのは、千鶴がいい返事をしてくれると信じていたからに違いない。千鶴がスタニスラフに抱かれて泣いたこともあってだろうが、スタニスラフの顔は自信に満ちているようだった。
 だが、千鶴は一緒には行けないと言った。その理由を訊かれて説明できずにいると、スタニスラフは店のことを聞いたと言った。
 スタニスラフは紙屋町を かみやちょう 訪ねた時に、山﨑機織がやまさききしょく 潰れたと知って驚いたと話した。
 千鶴が心配だったが居場所がわからず、スタニスラフがどうしようと落ち込んでいると、組合事務所にいた組合長が気づいてくれたそうだ。
 組合長はスタニスラフに千鶴たちが法生寺にいることを教え、ここまでの道程みちのりを紙に書いてくれたらしい。
 それでここまで来られたと、スタニスラフは得意げに話した。そして、店がなくなったのであれば、千鶴は店を継がなくてもいいのではないかと、スタニスラフは言った。
 千鶴がそれにうなずくと、結婚の話はどうなったのかとスタニスラフは訊ねた。
 やはり答えることができずに千鶴が目を伏せると、スタニスラフは結婚の話もだめになったと受け止めたようだった。
 店が潰れ、結婚もなくなったのであれば、千鶴は自由なはずである。それなのに、どうして自分と一緒に行けないのかと、スタニスラフはただした。
 それにも千鶴が答えないでいると、スタニスラフは質問を変え、どうしてここにいるのかと言った。
 それに対して千鶴は、店で働いていた忠七ただしちさんがここで大怪我をしたので、みんなでお世話をしていると説明した。
 忠七が誰かがわからないスタニスラフは、忠七が風寄かぜよせであることは理解した。しかし、その忠七の世話のために千鶴たちがここにいる理由は、理解ができないようだった。
 その忠七が千鶴が結婚するはずだった男なのかと、スタニスラフは言った。
 忠之が進之丞であるのなら、千鶴は迷わずにうなずいていた。しかし、忠之は進之丞ではない。千鶴の結婚相手は忠之ではなく進之丞だった。
 千鶴は質問に直接答える代わりに、忠七さんは家族みたいなものだからと言った。
 それでスタニスラフは、忠七は千鶴の結婚相手だったかもしれないが、千鶴が好きな相手ではないと見たらしい。にっこり笑うと、千鶴チヅゥヴァ優シィデズゥネ――と言った。
 スタニスラフは話題を変えて、城山の魔物の話を持ち出した。
 新聞に載っていたあの魔物は、あの時の鬼なのかとスタニスラフに訊かれると、千鶴は一気に気持ちが沈んだ。
 千鶴が黙ったまま涙ぐんだ。しかし、スタニスラフには涙の本当の理由はわからない。千鶴が鬼に苦しんでいると勝手に思い込み、やはりそうなのかと顔をしかめた。
 スタニスラフは千鶴の両肩をつかむと、一緒にヨーロッパへ行こうと言った。そうすれば鬼から逃げられると、スタニスラフは強く主張した。
 鬼から逃げるということには同意しないが、ここから逃れるという意味では、スタニスラフの言葉は千鶴の胸に響いた。しかし、千鶴はスタニスラフから離れると、それはできないと言った。
 忠之のそばにいるのはつらいけれど、だからと言って逃げるわけにはいかなかった。つらいのはばちが当たったからだし、忠之への罪滅ぼしだから仕方がないことなのだ。
 それにここは進之丞や鬼と死に別れた場所である。忠之のことがなければ、ここから離れたいとは思わない。
 スタニスラフの誘いに心かれながらも、鬼から自分を引き離そうとするスタニスラフに、千鶴は反発も覚えた。
 しかし、スタニスラフは何もわかっていないのだし、千鶴のことを想って言ってくれていることは、千鶴も理解していた。それに今の自分にスタニスラフが救いの手を差し伸べてくれていることは、やはり嬉しかった。
 千鶴は笑顔を作ってスタニスラフを振り返ると、まずはみんなに会って欲しいと言った。

      三

 みんなに挨拶をしたスタニスラフは、新聞の記事を知って千鶴が心配になったので、ヨーロッパへ行く前に会いに来たと話した。
 知念和尚と安子は、遙々はるばる神戸こうべから千鶴を訪ねて来たスタニスラフをねぎらった。近頃の千鶴の様子に気づいていたのだろう。二人はスタニスラフが来てくれたことを喜んでくれた。
 甚右衛門たちもスタニスラフの気持ちが有り難いようで、三人とも深々とスタニスラフに頭を下げた。
 幸子さちこにミハイルの様子を訊かれると、スタニスラフはエレーナに頭が上がらないミハイルの話をした。みんなはミハイルに同情しながら笑い、明るい雰囲気が広がった。
 いろいろ談笑しているところへ、ふらつきながら忠之が顔を見せた。本当はまだ誰かの支えが必要なのだが、珍しい来客に興味をかれたのか、柱につかまったりしながら来たようだ。
 千鶴は急いで立ち上がると、忠之に肩を貸して知念和尚の近くに座らせた。それからスタニスラフの隣に座り直したが、忠之にじっと見つめられると、進之丞に見られているようでうろたえた。
 知念和尚がスタニスラフに忠之を紹介すると、スタニスラフは知っていると答えた。忠七の名前は覚えていなくても、忠之の顔は覚えていたらしい。
 スタニスラフは忠之に挨拶をしないで、にらむような目を向けている。この男が千鶴を縛りつけていたのかと考えているのだろう。
 忠之の方はスタニスラフが誰だかわからない。それでも自分のことを知っているようだし、何だか怒っているように見えたに違いない。困惑の様子でぺこりと頭を下げた。
 スタニスラフの表情に気づいた千鶴は、忠七さんは怪我のせいで昔のことを思い出せないと、慌ててスタニスラフに言った。
 どういうことかと訊ねるスタニスラフに、千鶴は忠七さんはイノシシに襲われて死にかけ、ずっと意識がなかったと説明した。そのせいで記憶を失ってしまったので、スタニスラフが誰なのかはわからないと話すと、スタニスラフは納得したようにうなずいた。
 スタニスラフは自分を指差して、自分のことを覚えているかと忠之に訊ねた。いいえと忠之が首を横に振ると、スタニスラフはようやく嬉しそうな笑顔になった。
 それから笑みを消して、可哀想カヴァイソウデズゥネ――と一応は忠之への同情を見せた。だが、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
 スタニスラフの様子はみんなが見ている。初めは歓迎していたはずだったが、何だか空気がおかしくなり出していた。
 甚右衛門はスタニスラフと千鶴の関係や、スタニスラフがヨーロッパへ行く前に神戸から千鶴に会いに来たことを、忠之に説明してやった。だが、二人が萬翠荘に ばんすいそう 招かれたことや、スタニスラフが千鶴と結婚したがっていたことなどは話さなかった。
 忠之はヨーロッパはもちろん、神戸がどこなのかもわからなかった。それで幸子が、神戸は瀬戸内海せとないかいの向こうで、ヨーロッパはもっと遠くの海のずっと向こうにある外国だと教えてやった。忠之はどちらもここから遠いということは理解したようだった。
「そがぁなとわとこからわざにおいでて、もっと遠い所へお行きんさるんかな。ほれは大儀たいぎぃなことぞなもし」
千鶴チヅゥモ、一緒イシヨデズゥ」
 相手をねぎらう忠之に、スタニスラフは間髪かんはつ入れずにこやかに言った。それは千鶴は自分の物だという宣言に違いなく、千鶴を困惑させた。
 和尚夫婦や甚右衛門たちは、スタニスラフが口にしたことに言葉を失ったようだ。千鶴とスタニスラフがすでにそのようなことを決めていたのかと、驚きを隠せない様子である。
「あんた、そがぁなこといつ決めたんね?」
 幸子がきびしい口調で千鶴に訊ねた。
「うち、そがぁなこと決めとらん」
 千鶴はうろたえながら答えた。しかしスタニスラフは自分は千鶴を迎えに来たと言い、千鶴もそのことはわかっていると主張した。
「スタニスラフ、あんたはちぃと誤解しよるぞな。千鶴はな――」
 スタニスラフに注意しようとする母を、千鶴は制して言った。
「ええんよ、おかあさん。スタニスラフさんには、あとでうちから話しとくけん」
 幸子は不満げに千鶴を見た。甚右衛門やトミ、それに和尚夫婦も当惑しているようだ。何故みんなの前ではっきりと、一緒に行くつもりはないと言って断らないのかと、誰もが思っているようだ。
 進之丞がこの世を去ってから、まだ一月ひとつきである。忠之は生き返ったが、進之丞は死んだのだ。
 甚右衛門たちは自分たちが知る忠七が、進之丞だったことは理解している。進之丞はただの使用人ではなく、千鶴の許婚で いいなずけ あり家族だった。その進之丞が千鶴を護って死んだのである。
 その進之丞のために、知念和尚は毎日お経を上げてくれている。和尚がお経を上げている間、千鶴のそばには安子が座り、その後ろで甚右衛門たちも一緒に手を合わせている。
 特に甚右衛門は進之丞を死なせてしまった責任を深く感じているようで、一月ひとつき経った今でもまだ落ち込み続けている。
 それでも甚右衛門からすれば、千鶴こそが誰より一番進之丞の死を悲しみ、深く傷ついているはずだった。
 それなのに、さっき来たばかりのスタニスラフと一緒になるような話が出て、千鶴がそれを明確に否定しないのは納得できるものではない。また、それはトミや幸子、和尚夫婦にしても同じだろう。
 千鶴が進之丞を失って嘆き苦しんでいることは、みんなが理解している。だからと言って、この時期に他の男に心を移すなど、誰もが断じて受け入れられないだろう。ましてや、その男と一緒に異国へ行くなど言語道断の話である。
 だが、今の千鶴の態度を見た甚右衛門たちには、スタニスラフの手紙を受け取った時から、千鶴が心変わりをしたように思えたに違いない。
 進之丞をとむらうために千鶴が手を合わせていたのは、すべて偽りだったのかという疑いがみんなの目に見てとれる。
 知念和尚と安子は忠之を我が子のように思っている。その忠之と進之丞が別人だとは理解しているが、忠之の記憶を持ち、忠之と同じく優しく賢い進之丞を、忠之と区別することは二人にはむずかしいようだった。
 進之丞のことも我が子のように感じている和尚夫婦は、やはり千鶴の態度に心を痛めているように見える。また、忠之が進之丞でないとはわかってはいても、すべてを失った忠之が千鶴からも見捨てられるのかと思ったに違いない。
 何だか険悪な空気が漂い始めたからか、忠之はみんなに頭を下げると、その場を離れようとした。雰囲気が悪くなったことに責任を感じたのかもしれなかった。しかし、足下がふらついて転びそうになり、危うく知念和尚に支えてもらった。
 千鶴は立ち上がって忠之を向こうの部屋へ連れて行こうとした。しかし、それより先に幸子が忠之の所へ行き、忠之を気遣きづかいながら連れて行った。それはまるで千鶴には世話をさせないと言っているようだった。
 千鶴は居たたまれない気持ちになったが、みんながスタニスラフや自分の態度で動揺していることは理解していた。
 スタニスラフは一度思い込んだら周りが見えなくなる性格のようである。それはこれまでのスタニスラフの言動や、手紙から見てもわかることだった。だが、まさかこんな状況でいきなり自分の言いたいことを言うとは、千鶴も予想していなかった。
 一緒には行けないと伝えたはずなのに、こんなことになってしまい、千鶴自身大いに困惑を覚えていた。
 それでも、わざわざ神戸から会いに来てくれたスタニスラフに、恥をかかせるようなことはしたくなかった。それで曖昧あいまいな態度を見せたのだが、そのことでいっぺんに歓迎の雰囲気が失われたことには、千鶴も戸惑いを隠せない。
 何の弁解もできずに千鶴が小さくなっていると、忠之を連れ出した幸子が戻って来た。それを待っていたかのように、知念和尚はスタニスラフに訊ねた。
「スタニスラフさんと言うたかな。あなたのご家族は、いつヨーロッパへちんさるおつもりかな?」
 発つという言葉が、よくわからなかった様子のスタニスラフに、ヨーロッパへはいつ行くのかと千鶴が訊き直してやった。
 スタニスラフはうなずくと、自分が神戸に戻った時だと言った。すると今度は安子が、いつ神戸に戻るつもりなのかと訊ねた。
 場の空気が読めないのか、わかった上でなのか、スタニスラフは胸を張ると、千鶴が一緒に行く時だと答えた。
 またもや一方的なことを言うので、みんなはさらに不愉快になったようだ。今にも怒鳴り出しそうな家族の顔を見て、さすがの千鶴も黙っていられなくなった。
「うちはあなたと一緒に行くとは、一言も言うとらんじゃろ? なしてそがぁな勝手なことぎり言いんさるん? うちはあなたとは行きません」
「サレェヴァ、千鶴チヅゥナ、本当ナ、気持チジャナァイ」
 何を言おうと、スタニスラフは自分が正しいと信じている。相変わらずのその姿勢は千鶴を少なからずいらだたせた。
「あのな、これ以上おんなしこと言い続けるんなら、せっかく神戸からおいでてもろたけんど、このまま神戸にんでもらうぞなもし」
 どこまで千鶴の言葉が理解できたかわからないが、千鶴のきびしい顔を見たからか、スタニスラフは勢いを失った。そうなると、自分をにらむみんなの顔が気になり出したようで、一転態度を改めた。
 スタニスラフは自分が悪かったと認め、みんなに頭を下げてびた。しかし、どこまでで本気で悪いと思っているのかはわからない。
 それでも一応はスタニスラフが詫びたことを、和尚夫婦は認めたようだ。異国人だから日本人のことがわからなくても仕方がないと、二人は表情を緩めた。千鶴の顔を立ててくれたのだろう。
 一方、甚右衛門とトミは不機嫌そうな顔のままである。
 幸子はミハイルの息子が和尚夫婦に不快な思いをさせていることに、深く恐縮しているようだ。
「ところで、千鶴ちゃんはいつまで今のままでおるつもりかな?」
 知念和尚が千鶴に訊ねた。千鶴のはっきりした気持ちを知りたいのだろう。千鶴はきっぱりと答えた。
「うちは佐伯さえきさんが一人でおっても大丈夫なんがわかるまでは、ここを離れるつもりはありません」
「ほれじゃったら、千鶴ちゃんがいつここを離れられるんかはわからんじゃろに」
 和尚は横目でスタニスラフを見ながら言った。
 スタニスラフは千鶴に佐伯とは誰のことかと訊いた。
 忠七さんのことだと千鶴が答えると、忠七と千鶴はどういう関係なのかとスタニスラフは問うた。それは石段の下で千鶴がはっきり答えなかった質問だ。
 忠七さんは自分たちにとって大切な人だと、千鶴は言った。
 するとスタニスラフは、何故使用人がそこまで大切なのかと疑問を投げかけた。
 自分と一緒に行くと千鶴に言わせられないので、別な形で千鶴の本音を引き出そうとしているのだろう。千鶴が義務的に忠之の世話をしているようなことを口にすれば、そこから千鶴を解放すべしという意見を述べるつもりに違いない。
 しかし、何も事情を知らずに勝手なことを言うスタニスラフの態度は、当然みんなを怒らせた。
 甚右衛門とトミがついに怒りを爆発させて怒鳴ろうとした。だが先に口火を切ったのは幸子だった。
「あんたな、ぇ加減にしぃや! あの人と千鶴がどがぁな関係かなんて、なして一々あんたに説明せんといけんのよ? 千鶴はあんたと一緒には行かんて言うとるんじゃけん、男じゃったらごちゃごちゃ言わんで、いさぎようにあきらめんかね!」
 以前に松山まつやまを訪れた時とはまったく違う幸子の様子に、スタニスラフは仰天したようだった。
 今度は興奮した甚右衛門が待ちかねた様子で言った。
「おまいを見よったら、正清まさきよがロシアに殺されたいう気持ちが蘇っ よみがえ てしまわい。相手のこと考えんで言いたい放題言いよったら、また戦争になってしまおが!」
 トミも続いて言った。
「前にあんたを見た時はええ子やと思いよったけんど、今のあんた見よったら、ほれは間違いじゃったておもわい。やっぱしロシア人いうんは、人の気持ちがわからんのかいねぇ」
 トミの言葉に少しうろたえた様子の幸子は、もう一度スタニスラフに言った。
「あんたが自分勝手なことしよったらな、他のロシアの人も、みんながあんたとついじゃて思われてしまんよ。あんたのおとうさんやお母さんまでが、ロシア人いうぎりでわるう見られてしまうんで」
 しゅんとなったスタニスラフを見て、その辺にしたってやと千鶴が言った。それから千鶴はスタニスラフに諭すように言った。
「あなたにはわからんじゃろけんど、忠七さんはうちらには大切な人なんよ。やけん、うちはあなたとは一緒には行かれんのよ」
 このままではまずいと思ったのだろう。スタニスラフは再び自分の態度をみんなに詫びた。それから知念和尚に自分もここに置いて欲しいと頼んだ。
 ぎょっとする和尚たちに、スタニスラフは自分も千鶴を手伝いたいと言った。和尚と安子が困惑を見せるのも構わず、お寺の仕事も手伝うし、何でもしますとスタニスラフは必死に訴えた。
 和尚たちは千鶴に気持ちを訊ねるような目を向けた。
 千鶴はスタニスラフにいて欲しい気持ちがあった。だが、そんなことを言えるわけがない。千鶴が黙って下を向くと、わかったと和尚は言った。
「あなたのご家族が、いつまであなたを待てるかわからんけんど、好きなだけここにおりんさいや」
「やけん言うて、千鶴ちゃんが一緒に行くとは思わんでね」
 安子がくぎを刺すように言ったが、スタニスラフは大喜びで千鶴を抱きしめた。千鶴が一緒に喜んでくれると思ったらしい。
 千鶴は逃げるようにスタニスラフから離れると、知念和尚と安子に黙って頭を下げた。
 和尚夫婦がスタニスラフを受け入れたので、甚右衛門たちもそれ以上はスタニスラフを責めるようなことは言わなかった。しかし、たび重なるスタニスラフの身勝手な態度に不愉快なのは隠せない。
 またスタニスラフを受け入れた千鶴も同罪なのだろう。自分は一緒に行けないと、みんなの前でスタニスラフに告げたにもかかわらず、じろりと千鶴を見た家族の目は不審のいろに満ちていた。

      四

 スタニスラフが仕事に加わったと言っても、忠之に関することは千鶴が一人で続けた。忠之に悪意を抱くスタニスラフに、忠之の世話を手伝わせるわけにはいかなかった。
 それに、自分もい加減な気持ちで世話をしているのではないというところを、千鶴はみんなに示さなければならなかった。
 それでも忠之は初めの頃とは違って、今では自分で食事もできるし、かわやで用を足すこともできる。
 千鶴がしているのは、移動の時に支えてやること、れた手拭てぬぐいで体を拭いてやること、着替えを用意して手伝ってやることぐらいである。右腰の傷も一応はふさがって消毒をする必要もない。
 あとは世話というのではないが、食事の時はもちろん、そうでない時にもできるだけ忠之のそばにいてやり、話し相手になってやることが千鶴の日課となっていた。
 千鶴がすることには寺の仕事もある。食事の準備や部屋の掃除、洗濯、彼岸ひがんなどの行事の手伝いなど、寺の仕事だけでも忙しい。
 時々は村の者が手伝いに来てくれるが、千鶴と幸子は毎日動き続けていた。スタニスラフはそこに加わることになった。
 スタニスラフが法生寺に ほうしょうじ 住み込みで働き出したことは、すぐに村の者たちの知るところとなった。
 千鶴とスタニスラフが久松伯爵夫 ひさまつはくしゃく 妻の前で、結婚を誓い合ったという新聞記事を思い出した修造は しゅうぞう 、そういうことかと今の状況を勝手に解釈したようだ。
 それは千鶴が忠之に見切りをつけて、スタニスラフと結婚するというもので、村長の見解はあっと言う間に村中に広がった。
 寺を訪れる村人たちの中には、千鶴の気持ちを理解しようとする者もいたが、忠之を気の毒がる者もいた。
 村人たちからいろいろ言われ、千鶴は大いに困惑した。そんな話にはなっていないと懸命に否定するのだが、スタニスラフは上機嫌で肯定するので、いつまで経ってもうわさはなくならなかった。
 噂に当惑していた甚右衛門は、修造が見舞いに来た時に、千鶴をスタニスラフと結婚させるつもりは毛頭ないと言った。
 それではこのまま忠之と一緒にさせるのかと、修造に問われた甚右衛門は返事に困窮した。
 もし千鶴を忠之と夫婦めおとにするというのであれば、甚右衛門たちが風寄かぜよせで暮らせるように手配をすると、修造は申し出た。
 土佐とさへ行くことにしているとは言え、甚右衛門たちはそこの土地のことは知らないし、迎え入れてくれる親戚とも面識がない。甚右衛門たちにとって、修造の申し出はとても有り難いものだった。
 しかし、千鶴が忠之と一緒にいることを苦痛に感じているのは、甚右衛門もトミもわかっていた。それを無理に一緒にさせることはできないので、甚右衛門は修造からの申し出を丁重に断った。
 では千鶴はどうするのかと訊かれると、それは千鶴が自分で決めることだと甚右衛門は言った。
 前世でも今世でも進之丞との別れの地となったここを立ち去るか否かは、千鶴が決めることだと甚右衛門は考えているようだった。

 スタニスラフが寺の仕事を手伝うようになると、千鶴は自分の仕事の手を休めて、スタニスラフと一緒にいることが多くなった。
 初めのうちはスタニスラフを気遣きづかって、少ししゃべる程度のことだった。だが次第にその時間が長くなり、ついには幸子にしかられるほどになっていた。
 また理由をつけては忠之の傍から離れ、スタニスラフの所へ行くこともあった。
 忠之と一緒にいると、千鶴は進之丞を思い出す。それで忠之と喋っていても、うわそらになったり泣きそうになることが多かった。
 しかしスタニスラフと喋る時は、進之丞のことを考えずにいることができた。またスタニスラフが話すロシアの話は面白かった。
 必要な世話はきちんとやっているので、スタニスラフの所へ行くのは息抜きのつもりだった。それでも他の者の目には、やはりスタニスラフに心移りしたのだと映ったようだ。
 甚右衛門たちは千鶴の態度に、苦い想いをしていたに違いない。それでもあきらめているのか、千鶴に小言を言う者はいなかった。
 その代わり、甚右衛門とトミが忠之の話し相手になることが多くなった。千鶴が忠之の傍を離れて戻って来ると、もう二人が忠之の両脇を占めており、千鶴の居場所はなくなっていた。
 また、甚右衛門は進之丞が持って来ていた反物を使って、忠之に着物を作ってやってはどうかとトミに提案した。
 ほれはええねと、トミはすぐに忠之の体の採寸をした。
 トミが忠之の着物を作り始めると、幸子も自分もやりたいと言って、暇を見つけては違う絵柄の着物を作り出した。
 祖母と母が忠之の着物を作るのを見ると、千鶴は後ろめたい気持ちになった。本当であれば、自分がしてやればいいことなのに、それをやらないから二人が代わりにしていると思っていた。
 忠之が着物を作ってもらうのを見て、スタニスラフは自分にも作って欲しいと千鶴にせがんだ。前に作ったはずなのだが、あれは神戸にあるので、ここでの着物が欲しいとスタニスラフは言った。
 その話を千鶴が祖父母にすると、ならんと甚右衛門は素っ気なく言った。この反物は忠七にやった物であり、スタニスラフには使わせないと言うのだ。千鶴はあきらめるしかなかった。
 祖母も母も同意見で、忠之には作ってやらない着物をスタニスラフには作ってやるのかと、千鶴に白い目を向けた。我が身を犠牲にしてでも自分を護ってくれた母までもが、冷たい態度を見せることは千鶴にはつらかった。
 それでも自分に非があることは、千鶴もわかっていた。
 もちろん千鶴ばかりが、一方的にスタニスラフの所へ行くわけではない。スタニスラフの方から千鶴を呼ぶこともしばしばだった。だが、別に用事がないのはわかっている。それを拒まないのは千鶴が悪いという話である。
 
 スタニスラフが来てから、千鶴は野菊の群生地にも行かなくなった。行こうとするとスタニスラフがついて来るので、進之丞や鬼に祈りをささげることができなかった。
 ついて来ないで欲しいと言っても、スタニスラフはついて来る。それで野菊の群生地から足が遠のいてしまった。
 それを進之丞や鬼に申し訳ないと思いながら、千鶴はスタニスラフを拒むことができなかった。スタニスラフがいなければ、忠之と一緒にいるつらさに潰れてしまいそうな気がしていた。
 それでも一度だけ、千鶴はスタニスラフに怒りを見せた。
 それは鬼のことをスタニスラフが繰り返し言うので、うんざりした千鶴が鬼は死んだと告げた時のことだった。
 城山でのことや、鬼がどのようにして死んだのかという話は、言いたくないからと喋らなかった。とにかく鬼は死んでいなくなったとだけ言い続けた。
 初め、スタニスラフは信じようとしなかった。だが、千鶴が真顔のままでいると、ようやく信じたのだろう。スタニスラフの顔にみるみる笑みが広がった。
 スタニスラフは鬼の死を声を出して喜んだ。お祝いしようと言うと、スタニスラフは千鶴の両手を取って抱きしめようとした。そのスタニスラフを千鶴は力任せに突き飛ばした。
 鬼の死を、進之丞の死を喜ぶ者など誰であれ許せない。しかもその鬼は、スタニスラフをも特高警察か とっこうけいさつ ら救ってくれたのである。その鬼の死を喜ぶスタニスラフは最低の男だった。
 スタニスラフへの気持ちは一瞬にして冷めてしまい、千鶴は怒ったままスタニスラフから離れた。
 一人残されたスタニスラフは、途方に暮れた様子で知念和尚に事情を話し、千鶴は魔女マジヨになってしまったのかと相談した。
 すると和尚は穏やかに、鬼と言えども必死に生きていた者の死を喜ぶのは、褒められたことではないと言った。そして、日本では死んだらみんな仏になると言われているから、死んだ者を鞭打つような言葉は慎まなければならないと戒めた。
 スタニスラフには和尚の言葉が少しむずかしいと見た安子は、もう少しわかりやすく説明をしてやった。
 スタニスラフは千鶴を探すと、和尚に注意されたことを話し、鬼の死を喜んだことを千鶴に謝った。また鬼にさえも優しい千鶴は本当に素敵だと言い添えた。
 腹を立てはしたものの、素直なスタニスラフを見ていると、千鶴はスタニスラフを許す気持ちになった。
 千鶴にとってスタニスラフは癒やしであり、心のり所だった。そんなスタニスラフを怒らせたかもしれないというあせりもあったので、謝りに来てくれたことに千鶴は安堵あんどしていた。

      五

 ある日の朝、千鶴は庫裏くり縁側えんがわ境内けいだいを眺めながら、スタニスラフに寄り添って座っていた。
 本当は忠之の話し相手になっているはずだった。しかし気持ちが激しく動揺したので、適当な理由をつけて忠之から離れていた。
 スタニスラフと一緒にいるのは、たまたまここでスタニスラフを見かけたからだ。スタニスラフに会うのが目的で忠之から離れたわけではない。
 とは言え、はたから見ればスタニスラフと一緒にいたくて、忠之から逃げて来たように映るだろう。
 今頃は忠之の横には祖父母が座り、忠之の相手をしながら自分のことを苦々しく思っているに違いないと、千鶴はため息をついた。
 それでも今はスタニスラフが必要だった。気持ちの動揺を落ち着けるためにも、スタニスラフのそばにいたかった。スタニスラフに自分の気持ちを変えて欲しかった。
 スタニスラフにすれば、千鶴が自分を求めて来たと思ったのだろう。近くに誰もいなかったので、スタニスラフは千鶴を抱きしめて唇を奪おうとした。だが、それだけは千鶴は許さなかった。それが許されるのは進之丞だけだった。
 スタニスラフは千鶴の唇はあきらめたが、千鶴を自分に抱き寄せ続けた。また千鶴もそれにはあらがわなかった。抱いてもらうことで狼狽ろうばいしている気持ちをしずめたかった。
 そこへふらりと忠之が現れた。まだ足下はおぼつかないので、柱などにつかまっての一人歩きだ。
 千鶴は跳び上がらんばかりに驚いた。どきどきしている胸の鼓動がさらに高鳴って行く。
「お、おじいちゃんらは?」
 うろたえて訊ねる千鶴に忠之は何も答えず、柱から手を離して歩こうとした。
 千鶴は慌てて立ち上がると、もう少しで転ぶところだった忠之を抱き留めて肩を貸した。
「すまんね。申し訳ない」
 千鶴に肩を借りながら、忠之は気まずそうに謝った。
 忠之と体を密着させた千鶴の胸の中で心臓が暴れている。そんな自分を落ち着けるため、この人はしんさんやない!――と千鶴は心の中で自分に叫び続けた。
 さっきまで笑顔だったスタニスラフの顔が険しくなっている。それでも仕方がないので、千鶴は忠之をスタニスラフとは少し離れた所に座らせた。
「ごめんなさい。うち……」
「いんや、おらの方こそ邪魔して悪かった。ほんでもな、おら、千鶴さんにお願いしたいことがあるんよ」
 忠之が千鶴の所へ来ても、それについてスタニスラフは文句を言える立場にない。それでもスタニスラフの目には、千鶴との邪魔をされた怒りと嫉妬の炎が燃えている。
 忠之が着ている着物は千鶴が作ってやったものだ。忠之にびる気持ちがあるなら作るべきだと思い、祖母と母に頭を下げて作らせてもらったのである。だが、それがスタニスラフの嫉妬の火に油を注いでいるようだ。
 祖母や母が作った着物にそでを通した時、忠之はうれしそうに喜んでいた。しかし、千鶴が作ったこの着物を着た時には、感極まったように涙ぐんでくれた。その姿は進之丞そのもので、千鶴も思わず泣いたのだった。
 今の忠之には何もない。何もしていないのに二年の記憶を失い、大切な家族をも失った。この二年の間、千鶴のように泣けるような想い出もなく、それ以前の想い出は天邪鬼に あまのじゃく 奪われたのだ。
 そんな忠之が自分の着物をそこまで喜んでくれたことは、千鶴の胸を打った。進之丞が蘇っ よみがえ たように思わせてくれたこととは別に、忠之その人の人柄が千鶴を感激させていた。
 忠之がどれほど恵まれず気の毒であるのかを、千鶴はスタニスラフにも話して聞かせていた。その上で忠之が着物を喜んでくれた話をしたのだが、スタニスラフは忠之に同情を寄せることもなく、自分には着物を作ってもらえないという不満を述べるばかりだった。
 また、千鶴が自分の意思で着物を作ったということも信じようとせず、親たちから無理にいられて作らされたと思っている。
 スタニスラフが自分を思い続けてくれていたことを、千鶴は有り難く思っていた。また、忠之と一緒にいることのつらさを、やわらげてくれたことにも感謝していた。
 しかし、スタニスラフと長く過ごしているうちに、以前には見えていなかった所が見えるようになった。
 確かにスタニスラフは優しい。だが、それは自分に対してだけであり、他の人間に対しては関心を示さないか、反感を覚えるかのいずれかだった。そのせいで千鶴は家族から孤立する羽目はめったのだが、スタニスラフはそれを悪いこととは思っていないようだ。
 以前にはスタニスラフは自分にとって、特別な存在なのかもしれないという想いがあった。だが、今はそんな気持ちもずいぶん薄れている。
 スタニスラフは自分を欲しがってはいるが、大切にしようとは思っていない。見た目はとても優しいのだが、その裏にある想いは進之丞とは正反対のようだ。
 スタニスラフの思い込みの激しさと嫉妬深さは、スタニスラフを好意的に見ていた千鶴を辟易へきえきさせるのに十分だった。
 だから近頃では、千鶴は自分からスタニスラフの所へ行くことはしなくなっていた。
 今は動揺している気持ちを、スタニスラフにやわらげてもらおうと思って一緒にいた。しかし、やはりやめておけばよかったと千鶴は後悔していた。自分の立場も忘れて忠之をにらみつけるスタニスラフにはうんざりだった。
 一方、忠之の方はスタニスラフに嫌な態度を見せることがない。今もにらむスタニスラフに申し訳なさそうに頭を下げている。
 忠之は千鶴のことも、いつも笑顔で迎えてくれる。千鶴が自分を避けているとわかっていても、決して不満を示したりはしない。と言うより、千鶴に対して不満を抱くことなどないように見える。
 進之丞は忠之の心を自分とついだったと言った。まさにその言葉どおり、進之丞には忠之と同じ優しさがあった。
 進之丞のことがなかったならば、きっとその優しさに心がかれてしまったに違いない。いや、すでに惹かれていると千鶴は感じていた。
 今も忠之の傍を離れたのは、忠之に心を奪われてしまいそうになったからだった。だが、自分の心は進之丞だけのものである。他の者に奪われるわけにはいかないのだ。

 忠之はそろそろ家に戻りたいと訴えた。前にもそう言ったことはあったが、今回はさらに強い気持ちのようだ。だからと言って、それを認めることはできない。
 気持ちはわかるけれど、まだだめよと千鶴は言った。すると、本人が戻りたいと言うのなら戻してやるべきだと、横からスタニスラフが口を挟んだ。忠之がいなくなれば千鶴が解放されると考えているようだ。
 千鶴はきびしい口調で、事情を知らない人は黙っていなさいと、スタニスラフに注意した。それから忠之に改めて、もう少しだけ待てないかと言った。しかし、珍しく忠之は千鶴が言うことを聞き入れようとしなかった。
 自分はもう一人で何でもできるから、世話はいらないし家に戻りたいと忠之は主張した。それに、未だに顔を見せてくれない為蔵とタネのことが気がかりな様子を見せた。二人は遍路旅へんろたびに出ていることになっているが、忠之はそれを信じていない。
 困った千鶴は知念和尚に相談しようと思った。しかし、もう本当のことを告げる時が来たのだと思い直した。
 どうせ、いつかは誰かが話さなくてはならないことだった。その誰かというのも、自分を置いてはいないのである。
 佐伯さんと二人きりにして欲しいと、千鶴はスタニスラフに頼んだ。スタニスラフはあからさまに嫌な顔をした。それでも千鶴が態度を変えないので、じろりと忠之をにらみながらいなくなった。
 千鶴は忠之に向き直ると、実は大事な話があると言った。それから縁側に忠之と向き合った。忠之は千鶴の改まった様子に少し緊張しているようだ。
 忠之を前にした千鶴も固くなっていた。まだ自分の正体を明かしていなかった頃の進之丞が、目の前に座っているみたいだ。
 千鶴はうろたえながら、今からする話を気持ちを落ち着けて聞いて欲しいと忠之に言った。
 真実を知った忠之から罵倒ばとうされることは覚悟していた。
 心が惹かれる忠之に罵倒されるのは、とてもつらいことだった。しかし、むしろ罵倒してもらった方が、気持ちが楽になるという想いもあった。
 だが、いざ話そうと思うと、どこから話せばいいのかわからなかった。
 少し考えたあと、千鶴は前世の話をすることにした。自分と進之丞、そして鬼の物語である。