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戻って来た男


     一

 法生寺ほうしょうじでは月に一度、参拝者の願いを不動明王に届ける護摩ごまきを行っている。きちんと忠之の世話をするために、千鶴はこの護摩焚きで心の迷いを断てるよう祈願した。
 和尚が真言しんごんを唱えながら燃え上がる炎に護摩木をべると、一瞬炎が角のある鬼に見えた。それは進之丞に会いたいという千鶴の本音が炎となって表れたかのようだ。だが本当の願いがかなうはずもない。護摩焚きが終わったあとも千鶴の心は沈んだままだった。
 その日の午後、松山まつやまから組合長が様子を確かめに訪ねて来た。甚右衛門じんえもんたちもいつまでも寺の世話になるわけにはいかず、そろそろ行きを決めねばならなかった。
 鬼を知る組合長に甚右衛門はこれまでのことをすべて話して聞かせた。組合長は何度もうなずきながら涙ぐみ、黙って千鶴ちづの肩をたたいて慰めてくれた。また忠之ただゆきに対しても気の毒がり、これからどうするのかと他の者と同じ質問を千鶴に投げかけた。
 心配されているのはわかるが、何度も同じことをかれると、早く白黒つけよと催促されているみたいに聞こえてしまう。千鶴が返事に困っていると、ほうよほうよと言いながら、組合長はふところから一通の手紙を取り出した。
「これを忘れよったかい。ほれ、千鶴ちゃんへの手紙ぞな」
 それはスタニスラフからの手紙だった。やまさき機織きしょく宛に郵便屋が届けに来た手紙を、組合長が預かっていたそうだ。届いたのは十日ほど前で、すぐには持って来られなかったと組合長はびた。
 いいえと言って受け取った手紙を、千鶴は思わず胸に抱いた。
 スタニスラフにはずっと返事を出さなかったので、いつの間にか手紙は来なくなっていた。もうスタニスラフとは縁が切れたと思っていたし、千鶴の心には進之丞しんのじょうしかいなかった。組合長から手紙を渡されるまで、スタニスラフのことなど思い出しもしなかった。それだけに新たに送られて来た手紙に千鶴は驚き、また有り難く思った。
 きっと忠之の世話で苦しんでいなければ、そんな気持ちにはならなかっただろう。しかし暗闇の中で途方に暮れる千鶴には、この手紙は思いがけず差し伸べられた手のようだった。

 千鶴に手紙を渡した組合長は、しち孝平こうへいの裁判が終わったと甚右衛門たちに報告をした。二人とも素直に罪を認めているために早く結審したらしい。
 弥七は反省している点を考慮されて執行猶予がついたが、孝平の方は実刑判決が出たそうだ。孝平はしばらくの間は外には出られないみたいだが、弥七は解放されたあとどこかへ行ってしまったと組合長は言った。
 甚右衛門は一応話は聞いているが、弥七や孝平などどうでもいい表情だ。トミも孝平が刑務所入りになったと聞いても少しも涙を流さず、代わりに離れた所にいる忠之を悲しげに見つめていた。幸子も同様でまるで他人の話を聞いている顔だ。
 千鶴も弥七や孝平の名前など聞きたくなかった。二人があの事件を起こさなければ、山﨑機織は潰れなかったし、鬼と進之丞も死ななかったのだ。

 千鶴はみんなから離れて他の部屋へ行った。そこで眺めた封筒には、久しぶりに見たスタニスラフの辿々たどたどしいひらがな文字が書かれてあった。それは本来は見ることがなく、見る気も起こらないものだ。それでも千鶴は手紙を開けてみたい衝動に駆られていた。
 希望もなくどうすればいいのかわからない千鶴は、この手紙が自分に元気をくれる気がしていた。スタニスラフの気持ちには応えられないが、この手紙に詰まっているであろうスタニスラフの想いが励ましに思えていた。
 しばらく悩んだのち、千鶴は手紙の封を切った。父の様子も知りたいし、ただ目を通してみるだけだと自分に言い聞かせたが、胸はどきどきするし取り出した手紙を広げるのがもどかしい。
 ようやく目を通した手紙には、スタニスラフたちがいよいよこうを出て、アメリカへ向かうことになったと書かれていた。
 何度手紙を出しても返事が来ないので、スタニスラフは千鶴のことはあきらめてアメリカへ行くことを決めたという。ところが松山の城山に再び魔物が出たと神戸の新聞でも紹介され、心配になったスタニスラフはアメリカへ行く前にもう一度だけ千鶴に会いたいと思ったそうだ。
 スタニスラフは自分が会いに行くことを許してくださいと千鶴に訴え、この手紙を受け取ったらすぐに返事が欲しいと伝えていた。
 父のことが一言も書かれていなかったのは不満だったが、自分を心配してくれるスタニスラフの気持ちはうれしかった。また予想したとおりではあったが、未だに自分を望んでくれているのだと、千鶴は少なからぬ感動を覚えていた。
 高浜港たかはまこうで父とスタニスラフを見送った時、進之丞と出会っていなければスタニスラフと一緒になるのが自分の定めだったのかと、ふと考えたことを千鶴は思い出した。あの時はすぐにその考えを否定したが、あとで進之丞も同じようなことを言っていた。そんなことを考えると、やっぱりスタニスラフは特別な存在なのだろうかと思いたくなる。
 しかし、千鶴は即座にそんな自分を情けないとののしった。それに心の迷いが断てるようにと不動明王に祈願したばかりである。
 千鶴は手紙を自分の荷物の中に突っ込むと、もう忘れることにした。返事なんか出さないし、スタニスラフがアメリカへ行くのはめでたい話だ。
 けれど一度思い出してしまうと、スタニスラフは事あるごとに千鶴の心に顔をのぞかせた。その都度千鶴は腹を立てて自分を戒めたが、その効果は長くは続かなかった。
 忠之のそばにいて進之丞を思い出すと、泣き崩れそうになるほど落ち込んだりもする。そんな誰にもすがれず助けてもらえない時に、スタニスラフは千鶴に微笑みかけてくる。それを避けようとすればするほど、スタニスラフは千鶴の心に忍び込もうとするのだ。
 一方で声も姿も進之丞そのものである忠之は、仕草も千鶴に見せるづかいもますます進之丞に似てきた。
 進之丞とまったくの別人らしく性格もしゃべり方も考え方も違っていれば、千鶴もこんなにつらく感じなかっただろう。忠之を見ていると、本当に進之丞がそこにいるみたいに思えてしまう。だけどそれは進之丞ではなく忠之なのだ。もはや千鶴にとって忠之は苦しみだけの存在になっていた。
 忠之の前では千鶴は精いっぱいの笑顔を繕っているが、本当は泣き叫びたかった。この顔、この声、この体は本当は進さんのものなのにという誤った想いが浮かぶこともあり、千鶴は自分が嫌になっていた。
 千鶴の心はぼろぼろだった。千鶴は癒やしを求めていた。慰めが欲しかった。

 野菊の群生の前に行くと、自分も死にたいと千鶴は進之丞に訴えた。しかし、死んだところでえないと進之丞にくぎを刺されている。どうしてなのかはわからないが、逢えないのであれば死んでも仕方がない。
 また進之丞は今を生きよと言った。だけど千鶴には自分の将来が見えなかった。
 祖父母と母は間もなく土佐へ行ってしまうが、自分は一人残って忠之の世話をしなければならない。つまりこの苦しみからは逃れられないのだ。
 もちろんいつかは忠之の世話を終える時が訪れる。けれど異人の娘である自分は、そのあとどうやって生きていけばいいのかと考えると気持ちは暗く打ち沈む。
 このまま法生寺ほうしょうじの世話になれば、ずっと忠之の傍で暮らすことになる。それは死ぬまで苦しみ続けるという意味であり、忠之の人生を奪った罰だとしてもつらいことだった。
 だがここを出たとしても行く当てがない。祖父母を追って土佐へ行ったところで、自分なんかが快く受け入れてもらえるとは思えなかった。見知らぬ者たちの好気の目にさらされ、差別を受けながら生きるのかと思うととても心細くなってしまう。

 進之丞への祈りのあとも不安は続く。そんな千鶴にスタニスラフが微笑みかけてくる。差別をする者が多い中、スタニスラフだけは千鶴を求めてくれる。それにスタニスラフの所には父もいる。父は鬼を信じ、千鶴を信じてくれた。千鶴は父に会いたかった。
 千鶴はスタニスラフに返事を出したくなった。スタニスラフに訪ねて来てほしかったし、父も一緒に来てくれるかもしれないという期待もあった。
 でも手紙を受け取ってから何日にもなる。受け取る前にも十日ほどが過ぎていたらしいから、もうスタニスラフはあきらめてアメリカへったに違いなかった。
 千鶴は残念に思ったが、これでいいのだと思い直した。
 結局はスタニスラフとは縁がなかったのであり、進之丞がいなくなった今も、心の中に住まっているのは進之丞だけだ。スタニスラフに会ったところで仕方がない。父に会えないのは寂しいけれど、これが自分の進む道なのだと千鶴は自分を励ました。

     二

 十月に入ると、ふもとの村は祭りの準備でせわしくなった。
 二年前、千鶴はこの祭りで進之丞と出会った。だが、その進之丞はもういない。祭りの気配は千鶴の胸を詰まらせた。
 千鶴は庫裏くり縁側えんがわに座って忠之の話し相手をしていた。けれど山陰やまかげものである忠之は、祭りの話にはあまり関心を示さなかった、これまで祭りには入れてもらえなかったからだろう。千鶴を追って人垣の中へ入った進之丞は、周囲からののしられて外へ押し出された。その時のことが思い出されて千鶴は切なくなった。
「おとっつぁんとおっかさんは、ほんまにおへんしよろうか」
 忠之は為蔵とタネのことを気にしていた。当然ではあるが、未だに二人に会えないのが寂しいようだ。為蔵たちが遍路旅に出たという話には半信半疑の様子だが、千鶴はわからないとしか答えられなかった。
 忠之は一度家に戻りたいと言った。しかし、まだまだ支えがなければ歩くこともおぼつかない。為蔵たちのことを別にしても、今すぐは無理な話だ。
「おらが松山まつやまへ出てしもたけん、寂しなったろか」
「ほうかもしれんね。えきさんはがいに家族想いのお人じゃけん」
 千鶴に言われると、忠之ははにかみながら微笑んだ。そのあと少し黙って外を眺めると、ぽつりと言った。
「おらな、捨て子なんよ」
 千鶴はどきりとした。忠之が赤ん坊の頃に法生寺ほうしょうじ本堂ほんどうに捨てられていた話は、ねん和尚に聞かされたが進之丞から聞いたことはない。どう応じればいいのか迷いながら、ほうなんですかと千鶴は遠慮がちに言った。
 自分はこの寺に捨てられていたらしいと、忠之は少し寂しげな顔を見せた。その話を誰から聞いたのかとたずねると、同じ集落に住む者だと忠之は言った。
 山陰の者は村人たちから差別を受けているが、その中でも捨て子である忠之は周りから見下されていたという。千鶴は忠之が受けてきた苦しみを思うと胸が痛んだが、忠之の境遇に目を向けることになったのは進之丞がいなくなったからだ。
 進之丞がいた時には、千鶴は忠之を思いやることなく進之丞との暮らしばかりを考えていた。今も進之丞が生きていれば、同じようにしていただろう。しかし、気の毒な忠之を踏み台にして自分たちの幸せを求める行為は、忠之を見下していた者たちと同じである。そのことに今更いまさらながら気がついて千鶴は気持ちが沈んだ。
 千鶴が暗くなったからだろう。忠之は明るい顔に戻るとほんでもなと話を続けた。
「おとっつぁんとおっかさんはこがぁなおらを育ててくれたし、まっこと大事にしてくれとる。ほじゃけんぃはつながってのうても、おらには大切な家族なんよ。あ、この話はおとっつぁんらには内緒やけんな。おらが知っとるてわかったら、二人ともつこてしまうけん」
 忠之は自分の不幸ではなく為蔵とタネの優しさを話したかったようだ。
 きっと為蔵たちは忠之が捨て子という理由で周囲から嫌がらせをされているのを知っていただろう。甚右衛門やトミがそうだったように、二人は忠之が知らないところで忠之を護ってきたに違いない。そして忠之もそのことをわかっている。
 この親子がどれほど互いを思いやっていたのかと考えると、千鶴は泣きたくなる。これほど忠之が大切に想っている為蔵とタネはもういないのだ。決して償うことができない罪の意識で、千鶴は目を伏せて涙ぐんだ。
「つい余計なこと言うてしもたかな。おら、千鶴さん泣かそ思てしゃべったんやないんよ。ほじゃけん、どうか泣かんでおくんなもし」
 慌てた忠之の姿も言葉も、千鶴の涙にうろたえた進之丞と同じだった。それがまた千鶴の涙を誘った。何も知らない忠之はおろおろしている。
 千鶴は涙を拭くと、ごめんなさいと言って笑顔を見せた。だけど気持ちは落ち着かないままだ。
「佐伯さん、本当に親思いなんですね。うちもならわんと」
「千鶴さんこそおっかさんを大事にしよるやないですか。おっかさんも千鶴さんのこと大事にしとらい。見よったらわかるけん」
 千鶴は黙ったまま笑みを見せた。だが心の中は忠之への申し訳なさでいっぱいで、それが顔に出たようだ。忠之は千鶴を元気づけるように明るく言った。
「おらんとこは履物こさえる仕事しよるんよ。ほじゃけん、おら元気になったら世話になったお礼に、千鶴さんにきりの下駄をこさえるけん」
 ふところから桐の下駄を取り出した進之丞の笑顔が千鶴の目に浮かんだ。
 涙がこぼれてえつを漏らしそうになった千鶴は、手で口を押さえながら立ち上がると何も言わずにその場を離れた。忠之には失礼だったが、そこまで考える余裕がなかった。

 境内けいだいへ出て山門さんもんまで行った千鶴は、そこから眼下に見える村をぼんやりと眺めた。だけど悲しみは抑えられない。
 目に映る景色は前世にここから見たものとほとんど変わらない。今世にこの村で進之丞と出ったことに加え、前世での進之丞との想い出もよみがえって悲しみは増す一方だ。
 今にも進之丞あるいは柊吉とうきちが石段を登って来そうな気がして、千鶴は涙にれた目を北城町きたしろまちの方へ移した。そこはかつて進之丞がいた代官屋敷があった所だ。そのすぐ近くにひんの鬼が千鶴を抱えて走って来た道が見える。
 すると、その道を男が一人歩いて来るのが目に留まった。その背格好や服装で男が村の者でないのは一目でわかった。男がだんだん近づいて来るのを見ているうちに、千鶴の心の中に驚きと喜びが湧き上がってきた。
 男は法生寺ほうしょうじへ登る石段の下まで来ると、上を見上げた。千鶴と目が合ったその男は、まさしくスタニスラフだった。

     三

 千鶴は急いで石段を下りた。足が勝手に動いていた。
 石段を降りきってスタニスラフと向き合った千鶴は、息を弾ませるばかりで言葉が出ない。しかし、会いたかったという想いは目に出ていたに違いない。
 こぼれんばかりの笑みを見せたスタニスラフは、黙って千鶴を抱きしめた。千鶴はあらがわないでスタニスラフの腕に身を任せた。
ボクゥヴァ、ヅゥヴァズゥレェナイ。アキラァメナイ。ダカラァ、会イニ、来マシタ」
 千鶴を抱きながらスタニスラフは言った。千鶴は黙ってうなずくと、スタニスラフの胸で泣いた。忠之の前でずっと押し殺していた悲しみが、せきを切ったようにあふれ出た。
 千鶴を慰めていたスタニスラフは、千鶴が少し落ち着くと唇を求めた。千鶴は慌ててスタニスラフから離れると、泣いたことをびた。
 スタニスラフは少しばつが悪そうな顔をしたが、それ以上は千鶴を求めなかった。
 同じくばつが悪い千鶴は、どうしてここへ来たのかとはぐらかしてたずねた。スタニスラフは千鶴からの手紙の返事を待ちきれなかったと言った。
ボクゥヴァ、ヅゥムゥカエニ、来マシタ。僕ト、シヨニ、行キマショウ」
 手紙にはそんなことは書かれていなかったが、初めからそのつもりでいたのだろう。
 スタニスラフは千鶴が本当に想っているのは自分だと信じている。また城山の魔物から千鶴を救うには、千鶴をここから離すしかないと考えているのだ。千鶴がスタニスラフの腕で泣いたからか、その真剣な眼差しは千鶴がうなずくと確信しているようだ。
 千鶴は当惑しながら、一緒には行けないと言った。その理由をかれて説明できずにいると、スタニスラフは紙屋町かみやちょうで店の話を聞いて驚いたと話を変えた。
 再び紙屋町を訪れてみるとやまさき機織きしょくが潰れていたので、スタニスラフはとても困ったという。近所の店に千鶴たちの行方を訊ねてもわからないと言われるばかりで、途方に暮れていたところを運よく組合事務所にいた組合長が気づいてくれたらしい。
「アナヒタヅゥガ、コォコォイルゥ、アシエテクゥレェマシタ」
 スタニスラフは組合長が法生寺ほうしょうじまでの道程みちのりを書いてくれた紙を千鶴に見せた。
 店の話を聞いたと言っておきながら、スタニスラフは店が潰れた理由も訊ねないし、そのことで千鶴や家族をねぎらう言葉も出て来ない。店にはまったく関心がないようだ。
ヅゥヴァ、店、継ガナイデズゥネ」
 期待で目を輝かせながらスタニスラフは言った。
 それは事実なので千鶴がうなずくと、ならば結婚の話はどうなったのかと、スタニスラフは畳みかけて訊ねた。それには答えられず千鶴が目を伏せると、スタニスラフは結婚の話もだめになったと受け止めたらしい。
「店、ナクゥナタ。コンモ、ナクゥナタ。ヅゥヴァ、自由ネ。デモォ、千鶴ヴァ、シヨニ、行ケナイ。ドシテデズゥカ?」
 スタニスラフにただされても、千鶴は答えなかった。スタニスラフは質問を変え、どうしてここにいるのかと言った。
「お店で働いていた忠七ただしちさんがここでおおをしたけん、みんなでお世話をしとります」
 ここは忠七の故郷だと千鶴は説明したが、スタニスラフは忠七が誰かがわからない。また、使用人である忠七の世話のために千鶴たちがここにいる理由が理解できなかった。
「サナヒタヅゥナ、コンナ人デズゥカ?」
 スタニスラフはけんしわを寄せながら言った。結婚はだめになったのに、忠七が未だに千鶴を束縛していると受け止めたのだろう。スタニスラフの態度は千鶴をいらだたせた。せっかくの久しぶりの再会を喜んでいたのに、そこへ水を差す言動は千鶴の気持ちをえさせた。
 忠之が進之丞であるのなら、千鶴は迷わずにうなずいていた。しかし忠之は進之丞ではない。それにスタニスラフに忠之への敵対心を抱いてほしくなかった。
「忠七さんはうちらにとって家族みたいなお人やけん」
 千鶴の曖昧あいまいな返事にスタニスラフはふっと笑った。千鶴は忠七をかばっているだけで好きなわけではないと見たようだ。
 スタニスラフは何でも自分に都合のいいように解釈する。それにうんざりしていたことを思い出した千鶴は、ため息をつきたくなった。

 スタニスラフは話題を変えて、城山の魔物の話を持ち出した。
 新聞に出ていた魔物はあの時の悪魔なのかと訊かれ、千鶴は一気に気持ちが沈んだ。やはりスタニスラフは変わらない。
 鬼を悪魔だと信じるスタニスラフには、何を言っても通じない。それに進之丞や鬼の話は、家族や和尚夫婦以外にはしたくなかった。
 無思慮に悪魔と言い続けるスタニスラフに腹立たしさを覚えながら、悲しみが膨らんだ千鶴は黙って涙をこぼした。それをスタニスラフは千鶴が未だに悪魔に苦しんでいると勝手に思い込んだようだ。顔をしかめると、千鶴の両肩をつかんで強い口調で言った。
ヅゥボクゥト、シヨニ、アメリカへ、行キマショウ。ソウズゥレェバ、悪魔アクゥマカラァ、逃ゲラレェマズゥ」
 千鶴はスタニスラフの言い草に辟易へきえきした。思わずスタニスラフの腕の中で泣いてしまったことを後悔しながら離れると、それはできないと言った。
 忠之と一緒にいるつらさから逃げ出したい気持ちがあるのは事実だ。だけど忠之に対する責任は感じているし、罪を償わねばとの想いもある。どんなにつらくても逃げるわけにはいかない。そもそもつらいのはばちが当たったからであり、罪滅ぼしがつらいのは当たり前なのだ。
 それにここは進之丞や鬼と死に別れた場所だ。忠之のことがなければここから離れたいとは思わない。たとえ離れることがあったにしても、進之丞や鬼を悪魔呼ばわりするスタニスラフと一緒に行くなど間違っても有り得ない。
ボクゥヴァ、ヅゥ、助ケニ、来マシタ。僕ト、シヨニ、逃ゲマショウ」
 スタニスラフが繰り返すので、千鶴は少しおきゅうえてやりたくなった。
「スタニスラフさんはがんごと戦うお気持ちはないんかなもし?」
 千鶴が真顔で訊ねると、スタニスラフは顔をこわらせた。
悪魔アクゥマト、戦ウ、神ダケデズゥ。ダカラァ、教会デ、洗礼シテ、神ニ、護テモラァイマショウ」
「教会なんぞ行く前に、がんごに殺されるぞなもし。今ここに鬼が現れたら、スタニスラフさんはどがぁしんさるんぞな?」
「サレェヴァ……」
 スタニスラフは返事ができなかった。その顔は相当あせっている。千鶴は笑うと、別にええんぞなもしと言った。
 自分のことばかり言うスタニスラフには疲れるが、こうからわざわざ会いに来てくれたことは素直にうれしかった。ずっと暗い気持ちでいた心に、ささやかな明かりを灯してくれたのは有り難いことだった。
がんごの話はもうええけん、まずはみんなにお顔を見せてあげておくんなもし。きっと喜んでくれるぞなもし」
 千鶴の言葉に救われたスタニスラフは、たんに元気を取り戻して大きくうなずいた。

     四

 みんなに挨拶をしたスタニスラフは隣に座った千鶴を見て、城山の魔物の記事を知って千鶴が心配になったので、アメリカへ行く前に会いに来たと話した。
 知念和尚とやすは、遙々はるばるこうから千鶴を訪ねて来たスタニスラフをねぎらった。二人は近頃の千鶴の様子に気づいていたのだろう。スタニスラフの来訪を喜んでくれた。
 甚右衛門たちも一応は頭を下げて感謝の気持ちを示した。だが、まだ千鶴をあきらめていない様子のスタニスラフを警戒しているようだ。そのスタニスラフの隣に千鶴が座ったことも気になるようで、何も言いはしないが三人ともいぶかしげな顔をしている。
 さちにミハイルのことをかれると、スタニスラフはエレーナに頭が上がらないミハイルの話をしてみんなを笑わせた。また、ミハイルは本当はアメリカへは行きたくないみたいだと話し、ここへも一緒に来たがっていたと言った。しかしそれはエレーナが許さないので、ミハイルはスタニスラフに手紙を持たせたそうだ。
 スタニスラフから渡された一枚の紙には、急いで書いたと思われる短い文があった。それを千鶴は幸子と一緒に読んだ。そこには、どんなに離れていても私の心はいつも二人のそばにありますと書かれてあった。
 幸子は読みながら口を押さえて涙ぐみ、千鶴も父の気持ちに涙をこぼした。甚右衛門とトミもしんみりとなり、和尚夫婦は千鶴たちによかったなと声をかけた。部屋の中には温かい雰囲気が広がり、みんながスタニスラフに話しかけた。

 いろいろ談笑していると、ふらつきながら忠之が顔を見せた。まだ誰かの支えが必要なのに珍しい来客に興味をかれたのか、柱につかまったりしながら来たようだ。
 千鶴は急いで立ち上がると、忠之に肩を貸して知念和尚の隣に座らせた。そのあとスタニスラフの隣に戻ったが、忠之が進之丞であれば千鶴の座る所は忠之の隣だ。また忠之の世話をする身であることを考えたなら、やはり千鶴が座る場所は忠之の隣である。なのにスタニスラフの隣に座ったことで、千鶴は後ろめたさを覚えていた。
 遠方から訪ねて来た客をねぎらっているつもりなのだが、スタニスラフがどういう人物かを考えると、これでいいのかとまどう気持ちがあった。家族の目も気になるし、じっと見つめる忠之が進之丞のように思えて胸の中は落ち着かない。

 知念和尚がスタニスラフに忠之を紹介すると、スタニスラフは知っていると答えた。忠七の名前は覚えていなくても、忠之の顔は覚えていたらしい。挨拶もしないで忠之ににらむような目を向けている。この男が千鶴を縛りつけていたのかと考えているのだ。
 一方、忠之はスタニスラフが誰だかわからない。なのに向こうは自分のことを知っていて、何故だか怒っているように見えるから困惑するしかない。忠之は少しうろたえながら、黙ってぺこりと頭を下げた。
 スタニスラフの表情に気づいた千鶴は、忠七さんはのせいで昔のことを思い出せないと、慌ててスタニスラフに話した。
 どういうことかとたずねるスタニスラフに、忠七さんは山で大怪我をしてずっと意識がなかったと千鶴は説明した。そのせいで記憶を失い、あなたが誰なのかはわからないと聞かされると、スタニスラフは納得してうなずいた。その口元には笑みが見える。
 スタニスラフは自分を指差して、覚エテマズゥカと忠之に訊ねた。いいえと忠之が首を横に振ると、スタニスラフの小さな笑みは満面の笑顔になった。こんな男は自分の敵ではないと思ったのだろう。可哀想カヴァイソウデズゥネと笑みを消して、一応は忠之への同情を見せが、すぐに勝ち誇った笑みを再び浮かべた。
 スタニスラフの様子はみんなが見ている。初めは歓迎していたはずが、何だか空気がおかしくなり始めていた。

 甚右衛門はスタニスラフと千鶴の関係や、スタニスラフがアメリカへ行く前に神戸から千鶴に会いに来たむねを忠之に説明してやった。もちろん二人がばんすいそうに招かれた話や、スタニスラフが千鶴と結婚したがっていたことなどは口にしなかった。
 忠之はアメリカはもちろん神戸がどこなのかもわからなかった。忠之の様子を見た幸子は、神戸はないかいの向こうで、アメリカはもっと遠くの海のずっと向こうにある外国だと教えてやった。
 どちらもここから遠いと理解した忠之は、笑顔を見せてスタニスラフに話しかけた。
「そがぁなとわとこからわざにおいでて、もっと遠い所へお行きんさるんかな。ほれは大儀たいぎぃなことぞなもし」
ヅゥモ、シヨデズゥ」
 相手をねぎらう忠之に、スタニスラフは間髪かんはつ入れずにこやかに言った。千鶴は自分の物だという宣言だ。
 千鶴はあせったが、和尚夫婦も甚右衛門たちも言葉を失った。千鶴とスタニスラフはすでにそんなことを決めていたのかと、みんな驚きを隠せなかった。
「あんた、そげな話いつ決めたんね?」
 幸子がきびしい口調で千鶴をただした。
「うち、なんも決めとらん」
 千鶴はうろたえながら答えた。しかしスタニスラフは自分は千鶴を迎えに来たと言い、そのことは千鶴もわかっていると主張した。
「スタニスラフ、あんたはちぃと誤解しよるぞな。千鶴はな――」
 スタニスラフに注意しようとする母を、千鶴は制して言った。
「ええんよ、お母さん。スタニスラフさんには、あとでうちから話しとくけん」
 幸子は不満げに千鶴を見た。甚右衛門やトミ、和尚夫婦も当惑している。何故みんなの前で一緒に行くつもりはないとはっきり言わないのかと、誰もが言いたげな顔だ。
 進之丞がこの世を去ってから、まだ一月ひとつきである。忠之は生き返ったが、進之丞は死んだのだ。進之丞はただの使用人ではなく、千鶴の許婚いいなずけであり家族だった。そして千鶴を護って死んだのである。
 知念和尚は進之丞のために毎日お経を上げてくれている。和尚がお経を上げている間、千鶴のそばには安子が座り、その後ろで甚右衛門たちも一緒に手を合わせている。
 特に甚右衛門は進之丞を死なせてしまった責任を深く感じており、一月ひとつき経った今もまだ落ち込み続けている。けれど甚右衛門からすれば、千鶴こそが誰より一番進之丞の死を悲しみ深く傷ついているはずだった。なのに、さっき来たばかりのスタニスラフと一緒になるような話が出て、千鶴がそれを明確に否定しないのは納得できるものではない。
 トミや幸子、和尚夫婦にしても同じ想いだろう。千鶴が進之丞を失って嘆き苦しんでいるのは、みんなが理解している。だからといって、この時期に他の男に心を移すなど断じて受け入れられない話だ。ましてや、その男と一緒に異国へ行くなど言語道断である。
 今の千鶴の態度を見た甚右衛門たちには、スタニスラフの手紙を受け取った時から千鶴が心変わりをしたと見えたに違いない。千鶴が自らスタニスラフの隣に座ったのも、そういうことかと思っただろう。これまで進之丞をとむらうために千鶴が手を合わせていたのは、すべて偽りだったのかという疑いがみんなの目に見てとれる。
 知念和尚と安子は忠之を我が子のごとく思っている。その忠之と進之丞が別人なのは二人とも理解している。けれど忠之の記憶を持ち、忠之と同じく優しく賢い進之丞を忠之と区別するのはむずかしい。
 和尚夫婦には進之丞も我が子のようで、千鶴の態度に心を痛めている様子だ。また、すべてを失った忠之が千鶴からも見捨てられるのかと落胆したようにも見えた。

 険悪な空気が漂い始めたからか、忠之はみんなに頭を下げるとその場を離れようとした。雰囲気が悪くなったことに責任を感じたのだろう。しかし足下がふらついて転びそうになり、危うく知念和尚に支えてもらった。
 千鶴は忠之の所へ行こうとしたが、先に立ち上がった幸子が忠之をづかいながら連れて行った。まるで千鶴には世話をさせないと言っているみたいだ。
 千鶴は居たたまれなかったが、みんながスタニスラフや自分の態度で動揺しているのは理解していた。
 スタニスラフは一度思い込んだら周りが見えなくなる性格だ。とはいえ、まさかこんな状況でいきなり自分の言いたいことを言うとは千鶴も予想していなかった。一緒には行けないと伝えたはずなのにこんなことになってしまい、千鶴も困惑を覚えている。
 けれど、わざわざ神戸から会いに来てくれたスタニスラフに恥をかかせるような真似はしたくなかった。それで曖昧あいまいな態度を見せたのだが、そのせいでいっぺんに歓迎の雰囲気が失われてしまい、千鶴はうろたえるばかりだった。

     五

 何の弁解もできずに千鶴が小さくなっていると、忠之を連れ出した幸子が戻って来た。幸子が座ると、知念和尚はスタニスラフにたずねた。
「スタニスラフさんというたかな。あなたのご家族はいつアメリカへちんさるおつもりかな?」
 発つという言葉がよくわからないスタニスラフに、アメリカへはいつ行くのかと千鶴がき直してやった。スタニスラフはうなずくと、自分がこうに戻った時だと言った。
 今度は安子がいつ神戸に戻るつもりなのかと訊ねた。場の空気が読めないのかわかった上でなのか、スタニスラフは胸を張ると千鶴が一緒に行く時だと答えた。
 またもや一方的にしゃべるので、みんなはさらに不愉快になった。今にも怒鳴りだしそうな家族の顔を見て、さすがの千鶴も黙っていられなくなった。
「うちはあなたと一緒に行かれんて言うたでしょ? なしてそげな勝手なことぎり言いんさるん? うちはあなたとは行かんけん」
「サレェヴァ、ヅゥナ、本当ナ、気持チジャナイ」
 何を言おうとスタニスラフは自分が正しいと信じている。その姿勢は千鶴を少なからずいらだたせた。
「あのな、これ以上おんなしこと言い続けるんなら、せっかく神戸からおいでてもろたけんど、このまま神戸にんでもらうぞなもし」
 千鶴の言葉がちゃんと理解できたかはわからないが、千鶴のきびしい顔を見たからかスタニスラフは勢いを失った。そうなると自分をにらむみんなの顔が気になりだしたようで、一転態度を改め自分が悪かったと認めてみんなにびた。
 ただ、どこまで本気で悪いと思っているのかはわからない。それでも和尚夫婦はスタニスラフの謝罪を受け入れてくれた。きっと千鶴の顔を立ててくれたのだろう。異国人は日本のことがわからなくても仕方がないと二人は表情を緩めた。
 一方、甚右衛門とトミは不機嫌そうな顔のままだ。幸子はミハイルの息子が和尚夫婦に不快な思いをさせたと深く恐縮していた。

「ところで千鶴ちゃんはいつまで今のままでおるつもりかな?」
 知念和尚が千鶴に訊ねた。千鶴のはっきりした気持ちを知りたいのだ。
 千鶴はきっぱりと答えた。
「うちはえきさんが一人でおっても大丈夫なんがわかるまでは、ここを離れるつもりはありません」
「ほれじゃったら、千鶴ちゃんがいつここを離れられるんかはわかるまいに」
 和尚は横目でスタニスラフを見ながら言った。スタニスラフは千鶴に佐伯とは誰かと訊いた。忠七さんのことだと千鶴が答えると、忠七と千鶴はどういう関係なのかとスタニスラフは問うた。石段の下で千鶴がはっきり答えなかった質問だ。
「忠七さんはうちらにとって大切なお人ぞなもし」
 千鶴としては精いっぱいの言い方をしたが、スタニスラフは納得しなかった。何故使用人がそこまで大切なのかまったく理解できないと、手振りを交ぜて疑問を投げかけた。
 自分と一緒に行くと千鶴に言わせられないので、スタニスラフは別な形で千鶴の本音を引き出そうと考えているのだろう。千鶴が義務的に忠之の世話をしているようなことを口にすれば、そこから千鶴を解放すべしと意見を述べるつもりなのだ。
 何も事情を知らずに身勝手なことを言うスタニスラフの態度は、当然みんなを怒らせた。甚右衛門とトミがついに怒りを爆発させて怒鳴ろうとしたが、先に口火を切ったのは幸子だった。
「あんたな、ぇ加減にしぃや! あの人と千鶴がどがぁな関係かなんて、なして一々あんたに説明せんといけんのよ? 千鶴はあんたと一緒には行かんて言うとるんじゃけん、男じゃったらごちゃごちゃ言わんでいさぎようにあきらめんかね!」
 さっきまでとはまったく異なる幸子の様子にスタニスラフは仰天した。
 今度は興奮した甚右衛門が待ちかねて言った。
「おまいを見よったら、正清まさきよがロシアに殺されたいう気持ちがよみがえってしまわい。相手のこと考えんで言いたい放題言いよったら、また戦争になってしまおが!」
 トミも続いて言った。
「前にあんたを見た時はええ子や思いよったけんど、今のあんた見よったらほれは間違いじゃったておもわい。やっぱしロシア人いうんは人の気持ちがわからんのかいねぇ」
 トミの言葉に少しうろたえた幸子は、もう一度スタニスラフに言った。
「あんたが自分勝手なことしよったらな、他のロシアの人もみんながあんたとついじゃて思われてしまんよ。あんたのお父さんやお母さんまでが、ロシア人いうぎりでわるう見られてしまうんで」
 どこまでみんなの言葉が理解できたのかはわからないが、思った以上の怒りをぶつけられたのはスタニスラフには衝撃だったようだ。スタニスラフがしゅんとなると、そこら辺にしてあげてと千鶴は言った。
 みんなが不満げな顔のまま黙ると、千鶴はスタニスラフを諭した。
「あなたにはわからんじゃろけんど、忠七さんはうちらには大切な人なんよ。とってもとっても大切な人ぞなもし。やけんな、うちはあなたとは一緒には行かれんのよ」
 このままではまずいと思ったのか、スタニスラフは再び自分の態度をみんなに詫びた。それから知念和尚に自分もここに置いてほしいと頼んだ。
 ぎょっとする和尚たちに、スタニスラフは自分も千鶴を手伝いたいと言った。和尚と安子が困惑を見せるのも構わず、何でもしますとスタニスラフは必死に訴えた。
 和尚たちは千鶴に目を向けた。千鶴の考えを知りたいようだ。
 千鶴はスタニスラフにいてもらいたい気持ちがあった。だが、そんなことを言えるわけがない。千鶴が黙って下を向くと、わかったと和尚は言った。
「あなたのご家族がいつまで待てるかわからんが、好きなだけここにおりんさい」
「やけんいうて、千鶴ちゃんが一緒に行くとは思わんでね」
 安子がくぎを刺したが、スタニスラフには通じない。スタニスラフは大喜びで千鶴を抱きしめた。千鶴が一緒に喜んでくれると思ったらしい。甚右衛門たちの顔がゆがんでいる。
 千鶴はスタニスラフから逃れると、和尚たちに黙って頭を下げた。
 和尚夫婦がスタニスラフを受け入れたので、甚右衛門たちもそれ以上はスタニスラフを責めなかった。しかしたび重なるスタニスラフの身勝手な態度に不愉快なのは隠せないようだ。
 スタニスラフを受け入れた千鶴も同罪だ。一緒に行けないとみんなの前でスタニスラフに告げたにもかかわらず、じろりと千鶴を見た家族の目は不審のいろに満ちていた。

     六

 スタニスラフが仕事に加わったといっても、忠之に悪意を抱くスタニスラフに忠之の世話を手伝わせるわけにはいかない。忠之に関することは千鶴が一人で続けた。それに自分もい加減な気持ちで世話をしているのではないと、千鶴はみんなに示さなければならなかった。
 けれど忠之は初めの頃とは違って、今では自分で食事もできるしかわやで用も足せる。千鶴がしているのは移動の時の支えや、れた手拭てぬぐいで体を拭いてやること、着替えの手伝いぐらいだ。右腰の傷も一応はふさがっている。
 あとは世話というのではないが、食事の時はもちろんそうでない時にもできるだけ忠之のそばにいてやり、話し相手になってやるのが千鶴の日課となっていた。
 千鶴がすることには寺の仕事もある。九月にはがんの法要の準備があったし、護摩ごまきに訪れる村人の接待もした。その他にも食事や掃除、洗濯など日々の仕事もしなければならない。時々は村の者が手伝いに来てくれるが、千鶴と幸子はてらおとこでんぞうと一緒に毎日動き続けていた。スタニスラフはそこに入ることになった。
 スタニスラフが法生寺ほうしょうじに住み込みで働き始めた話は、すぐに村人たちの知るところとなって修造しゅうぞうの耳にも届いた。
 千鶴とスタニスラフが久松ひさまつ伯爵はくしゃく夫妻の前で結婚を誓い合ったという新聞記事を思い出した修造は、今の状況を勝手に解釈した。それは千鶴が忠之に見切りをつけてスタニスラフと結婚するというものだ。村長の見解はまたたく間に村中に広がった。
 寺を訪れる村人たちの中には千鶴の心変わりに理解を示す者もいたが、忠之を気の毒がる者もいた。そんな話にはなっていないと千鶴が否定してもスタニスラフは上機嫌で肯定するので、いつまで経ってもうわさはなくならなかった。
 村の噂には甚右衛門たちも困惑していた。それで修造が見舞いに来た時に、甚右衛門は千鶴をスタニスラフと結婚させるつもりは毛頭ないと言った。ならばこのまま忠之と一緒にさせるのかと問われると、甚右衛門は返事に窮した。
 もし千鶴を忠之と夫婦めおとにするのであれば、甚右衛門たちが風寄かぜよせで暮らせるように手配をすると修造は申し出た。修造としては約束どおり忠之の力になりたいようだ。
 土佐とさへ行くのが決まっているとはいえ、甚右衛門たちはそこの土地を知らないし、迎え入れてくれる親戚とも面識がない。甚右衛門たちにとって、修造の申し出はとても有り難かった。
 ただ、千鶴が忠之といるのを苦痛に感じているのは甚右衛門たちもわかっていた。それを無理に一緒にはさせられないので、甚右衛門は修造からの申し出を丁重に断った。
 ではどうするのかと改めてかれると、今はわからないと甚右衛門は言った。
 前世でも今世でも進之丞との別れの地となったここを立ち去るか否かは、千鶴が決めることだと甚右衛門は考えているようだった。

 スタニスラフが寺の仕事を手伝うようになると、千鶴は仕事の手を休めてスタニスラフと一緒にいることが多くなった。
 初めのうちはスタニスラフをづかって少ししゃべる程度だった。ところがその時間が次第に長くなり、ついには幸子にしかられるほどになっていた。
 忠之と一緒にいると千鶴は進之丞を思い出す。それで忠之と喋っている間にうわそらになったり泣きそうになっても、笑顔を見せていねばならなかった。
 でもスタニスラフと喋る時は進之丞のことを考えずにいられた。またスタニスラフが聞かせてくれるロシアの話は面白かった。強引なことさえ言わなければスタニスラフといるのは楽しかった。
 必要な世話はきちんとやっているので、スタニスラフの所へ行くのは息抜きのつもりでいた。しかし他の者の目にはやはりスタニスラフに心移りしたのだと映ったようだ。
 甚右衛門たちは千鶴の態度に苦い思いをしていたに違いない。けれどみんなあきらめているのか、千鶴に小言を言う者はいなかった。
 その代わり甚右衛門とトミが忠之の話し相手になった。そこに幸子が加わることもあった。千鶴が忠之の傍を離れたあとに戻って来ても、もう誰かが忠之の両脇を占めていて千鶴の居場所はなくなっていた。

 忠七に持たせた反物を使って佐伯くんに着物を作ってやってはどうかと、甚右衛門はトミに提案した。ほれはええねとトミはすぐに忠之の体の採寸をした。
 トミが忠之の着物を作り始めると、幸子も自分もやりたいと言って暇を見つけては別の絵柄の着物を作り始めた。それを見ると千鶴は後ろめたくなった。本当であれば自分がしてやればいいのに、それをやらないから二人が代わりにしていると思った。
 忠之が着物を作ってもらうのを見て、スタニスラフは自分にも作ってほしいと千鶴にせがんだ。前に作ってあげたと千鶴が言うと、あれはこうにあるからとスタニスラフはここでの着物を欲しがった。
 千鶴がその話をすると、ならんと甚右衛門は素っ気なく言った。この反物は忠七にやった物であり、スタニスラフには使わせないと言うのだ。トミも幸子も同意見で、忠之には作ってやらない着物をスタニスラフには作ってやるのかと千鶴に白い目を向けた。
 千鶴にしてもスタニスラフに着物を作ってやるつもりはなく、ただ話をしただけなのだが、家族の反応にはまどうしかなかった。
 それでも自分に非があるのは千鶴もわかっていた。もちろん千鶴ばかりが一方的にスタニスラフの所へ行くわけではない。スタニスラフの方から千鶴を呼ぶこともしばしばだった。けれど別に用事がないのはわかっているわけで、それを拒まないのは千鶴が悪いという話だ。

     七
 
 スタニスラフが来てから千鶴は野菊の群生地にも行かなくなった。行こうとするとスタニスラフがついて来るので、進之丞や鬼に祈りをささげることができなかった。
 ついて来ないでと言っても、スタニスラフはついて来る。それで進之丞や鬼と死に別れた場所から足が遠のいてしまった。
 祈りを大切に思うのなら、スタニスラフをこうへ追い返せばいいことだ。しかし千鶴はスタニスラフがいないと、忠之と一緒にいるつらさに潰れてしまいそうだった。そのためについずるずるとスタニスラフを拒まずにいたのだが、ある時さすがに千鶴も我慢ならないことがあった。

 スタニスラフは何かと悪魔の話を持ち出し、教会で洗礼を受けろとうるさかった。千鶴を神戸に連れて帰るにも、悪魔がいたままでは困るのだろう。ここを離れれば悪魔から逃れられると言ったくせに、本当は洗礼を受けねば悪魔は離れないと思っているようだ。
 千鶴が墓地の掃除をしていた時、スタニスラフがやって来てまた同じ話を繰り返した。うんざりした千鶴は鬼は死んだとスタニスラフに告げた。スタニスラフは信じなかったが、鬼は死んだからその話はしないでと千鶴は強い口調で言った。
 疑うスタニスラフは悪魔はいつどうやって死んだのかと説明を求めた。喋りたくない千鶴は信じるかどうかはあなたの勝手だと突っぱね、とにかく鬼は死んだと不機嫌をあらわにした。どうして今まで黙っていたのかと訊かれても、言いたくなかったからとしか言わなかった。
 スタニスラフは千鶴が適当な話をしていると思ったようで、本気で聞こうとはしなかった。しかし真顔の千鶴が涙ぐむのを見てようやく鬼の死を信じた。
 スタニスラフの考えでは、悪魔の死を悲しむ千鶴は魔女のはずである。しかしみるみる顔に笑みが広がったスタニスラフは、手をたたき声を出して喜んだ。たとえ千鶴が魔女でも、悪魔さえいなければ何とかなると思ったのだろう。
 千鶴は怒りを抑えてスタニスラフに背を向けたが、愚かなスタニスラフは千鶴を自分の方に向き直させ、オイヴァイシマショウと言って抱きしめた。
 こらえきれなくなった千鶴は、スタニスラフを力任せに突き飛ばした。
 尻餅をついたスタニスラフは驚いた顔で千鶴を見た。千鶴が肩をいからせてにらむと、スタニスラフは千鶴が魔女の本性を見せたと思ったようだ。やはり自分の手には負えないと考えたのか、その目には困惑と恐れのいろが浮かんでいた。
 千鶴は再び背を向けて仕事に戻った。鬼の死を、進之丞の死を喜ぶ者など許せない。鬼はスタニスラフをも特高とっこうけいさつから救ってくれたのだ。その鬼の死を喜ぶスタニスラフは最低の男だった。
 スタニスラフがどんな人間なのかはわかっていたはずだ。なのに忠之といるつらさから逃げたくて、スタニスラフを有り難がってしまった。でも怒りを覚えたことで、千鶴は目が覚めた気がした。胸の中は進之丞や鬼への申し訳なさと自分への情けなさしかなかった。

 スタニスラフは千鶴を恐れたのか、しばらく千鶴に近づこうとしなかった。それでもやはりあきらめきれないようで、千鶴の様子をうかがいながら謝りに来た。しかし千鶴は許す気がない。千鶴が黙っているとスタニスラフは少しおどおどしながら、教会へ行って洗礼を受けようと話しかけた。懲りないスタニスラフに千鶴は怒りしかなかった。
 松山まつやまで特高警察に捕まりそうになった時、誰が助けてくれたのかと千鶴は問うた。返事に困ったスタニスラフは、神が助けてくれたと言った。千鶴のことも忘れて祈り続けたお陰で助かったというわけだ。千鶴はあきれて次の言葉が見つからなかった。
 ため息しか出ない千鶴は、自分は魔女だからあきらめて神戸に帰るようにと言った。スタニスラフは帰らないと言い張り、自分が千鶴を救うと宣言した。魔女になった千鶴にとにかく洗礼を受けさせるつもりなのだろう。
 勝手にしんさいと言って、千鶴はスタニスラフを無視した。千鶴の言葉どおり、スタニスラフは何かと千鶴のそばにいようとした。千鶴が野菊の群生地へ向かおうとすると、他の仕事があっても千鶴のあとをついて来た。
 スタニスラフは千鶴が悪魔を復活させる儀式をすると思い込んでいた。ついて来ないでと千鶴が声を荒らげても、千鶴を護るのが自分の役目だと聞く耳を持たなかった。それで結局は死に別れた場所で進之丞や鬼をしのべない状況は変わらず、千鶴は肩を落とすしかなかった。

     八

 千鶴は忠之に着物を作った。忠之にびる気持ちがあるなら作るべきだと思い、祖母と母に頭を下げて作らせてもらったのだ。
 祖母や母が作った着物にそでを通した時、忠之はとても喜んだ。しかし、千鶴が作った着物を着た時には感極まって涙ぐんだ。その姿は進之丞そのもので、千鶴も思わず泣いた。だが、それが千鶴が今まで見ようとしなかった進之丞ではない忠之自身の姿なのだと気づくと、千鶴は胸が熱くなった。
 忠之は何もしていないのに二年の記憶を失い、大切な家族をも失った。この二年を振り返ると千鶴は悲しみでいっぱいになるが、忠之にはそんな泣ける想い出すらなかった。進之丞として一度は死んだ身なので体は惨めなくらい痩せ細ってしまい、以前のような体力を取り戻せるかもわからない。
 そんな忠之が自分の着物をそこまで喜んでくれたことは、千鶴の胸を打った。少しでも罪滅ぼしができたうれしさもあったが、忠之の人柄が千鶴の心に温かいものを運んでくれた。
 進之丞が話したとおり、忠之の心は進之丞とついだった。似ているというより同じなのだ。忠之の優しさは進之丞の優しさであり、忠之の憂いは進之丞の憂いだ。だけど、どんなに似ていたとしても忠之は忠之なのである。
 忠之が進之丞とそっくりなのは、千鶴にとって苦痛ではあったが慰めでもあった。けれど、やがて苦痛ばかりになってそこから逃げ出したくなりもした。それが今は逆に忠之自身にかれるようになった。
 しかし、それは問題だった。千鶴の心は進之丞のものであり、千鶴が慕うのは進之丞ただ一人のはずなのだ。なのに千鶴の中では忠之の存在がどんどん膨らみだし、ついにはみ込まれそうになっていた。
 それでも忠之から逃げることはできない。千鶴には忠之の世話をする義務がある。加えてお世話をしたい気持ちはつのる一方で、逃げねばという想いすら失せてしまう。
 そんな気持ちに困惑した千鶴は自分を戒めながら忠之に接し、できるだけ忠之への想いを押し殺して表に出さないようにした。
 ところが、そうなるとどうしても笑顔が見せられなくなる。ぎこちなくなった態度は忠之を拒んでいるみたいに見えたようだ。そのせいで忠之が顔を曇らせると、千鶴は胸が苦しくなった。これは忠之といるのが苦痛だったのとは真逆のつらさだった。

 この日、千鶴は忠之と玄関脇の部屋にいた。忠之が千鶴の両親のめについて訊くので、母や祖父母から離れたこの部屋で話すことにしたのだ。
 スタニスラフは千鶴たちを気にしていたが、スタニスラフには掃除の仕事がある。それに千鶴が忠之の世話をしているところには近づけない。また例の一件以来、千鶴がスタニスラフと距離を置くようになったのもあり、スタニスラフは苦々しげにしながら己の仕事をするしかなかった。
 忠之を座らせた千鶴は自分もその横に腰を下ろした。冷静さを保とうとはしても、忠之の隣にいると胸がどきどきしてしまう。そんな自分を情けなく思いながら、千鶴は母から聞いていた話を忠之にしてやった。
 忠之は興味深く話を聞いた。そして戦争をしている国の者同士が戦時中に恋に落ち、その想いを貫いたことを驚きをもって賞賛した。
 幸子が結ばれたのは敵国の兵士である。幸子がどんな境遇にいたのかは想像がつく。それは二人の子供として生まれた千鶴も同様だ。忠之は幸子や千鶴の苦労を思いやり、二人の強さを褒め称えた。またミハイルが千鶴たちに会いに来てくれた話には、我が事のように喜んだ。
 忠之には親はいない。育ての親はいても実の親は忠之を捨てたのだ。けれどそんなことはおくびにも見せず、千鶴さんはまっこと大事にされとらいと、忠之は親がいる千鶴を祝福した。その上、千鶴が温かい人々に囲まれていることにも言及して千鶴を励ましてくれた。
 また忠之は自分もみんなから家族みたいに面倒を見てもらえるのが、不思議だし幸せなことだと感慨深く話した。
「おとっつぁんとおっかさんがおへんからんたら、おら、みなさんを二人に会わせたいて思いよるんよ。おらが世話になっとったんはこがぁなええ人らじゃて、おとっつぁんらに見せてやりたいんよ」
 忠之が言ういい人たちの中には千鶴も入っている。千鶴は罪悪感でいっぱいだった。
 何も知らない忠之は、為蔵とタネに会うのを楽しみにしている。だが二人はもうこの世にはいない。いずれその事実を忠之は知ることになるが、その時に忠之を襲う絶望を思うと千鶴は居たたまれなかった。
 優しい笑顔を向ける忠之が、千鶴には哀れであり愛おしかった。忠之に詫びる想いはもちろんあるが、それとは別の想いだ。
 千鶴は黙って忠之を抱きしめてやりたかった。一生そばにいてあげたいと思った。だがそれは忠之に心を奪われたという意味になる。千鶴には絶対に認められないことだった。
 今も千鶴の心は進之丞だけのものである。死んでもつながっているはずの心を、別の男に捧げるなど許されない。しかも進之丞が死んだのはついこないだなのだ。
 それでも忠之への想いはつのるばかりだ。どんなに否定しようとしても、それは確かに胸の中にある。千鶴はうろたえるばかりで何も言えなくなった。

     九

「すんません」
 千鶴は立ち上がると、逃げるようにその場を離れた。
 部屋を出ると、玄関に母がいた。千鶴は母に忠之を頼むと、そのまま縁側えんがわのある座敷へ行った。外を眺められる場所で混乱した気持ちを落ち着けたかった。
 座敷には祖父母がいると思ったが、いたのはスタニスラフだけだった。スタニスラフは掃除もせずにぽつんと縁側に座って庭を眺めていた。
 千鶴に気がつくとスタニスラフは笑顔で振り返り、自分の隣へ千鶴をいざなった。
 千鶴はスタニスラフの横へ行きたいとは思わなかった。ただ気持ちを落ち着けるために、誰かと話がしたい気分ではあった。祖父母がいればよかったが、二人ともいなかった。スタニスラフにくと、祖父母は墓地の掃除に出たという。
 千鶴は少し迷ったが、仕方がないのでスタニスラフの隣に座った。スタニスラフは早速千鶴に体を寄せて肩に手を回した。
 忠之と何をしていたのかとスタニスラフがたずねると、千鶴はスタニスラフの手をはずしながら、ちょっと話をしていただけと言った。スタニスラフは何の話をしていたのか聞きたがったが、大した話ではないと言って千鶴はごまかした。
 スタニスラフと一緒にいても、前みたいにしゃべることがない。だるさと気まずさが沈黙となると、こうにはいつ戻るのかと千鶴は素っ気なく訊ねた。
 神戸に戻るのは千鶴が一緒に行く時だとスタニスラフは公言したのに、その千鶴からそんなことを訊かれては困惑しかない。顔をゆがめたスタニスラフは直接は答えずにアメリカの話をしたが、千鶴にはそんな話は少しも響いてこない。
 千鶴の表情にあせったスタニスラフは、今度はばんすいそうでのばんさんかいとうかいの話を持ち出した。あの時の千鶴の気持ちを取り戻したいのだろうが、今の千鶴には後悔の想いしかない。うわつらの楽しさに浸っていた千鶴たちを陰から見ながら泣く進之丞が思い浮かぶ。
 千鶴は立ち上がろうとした。いくら話し相手が欲しくても、スタニスラフと一緒にいたのは間違いだった。
 慌てたスタニスラフは千鶴の腕を引っ張ると、無理やり抱き寄せた。千鶴はあらがったが腕を押さえられて動けない。スタニスラフが千鶴に顔を近づけた時、千鶴を呼ぶ幸子の声が聞こえた。はっとしたスタニスラフを千鶴が押しのけると、廊下に忠之に肩を貸した幸子が現れた。
 押しのけたとはいっても、千鶴がいるのはスタニスラフのすぐ隣だ。幸子には二人が体を寄せ合ってたわむれているように見えたのだろう。けんに深いしわを寄せている。忠之も千鶴たちの姿を目にしたはずで、千鶴は顔から血の気が引いた。
 こうなっているのはスタニスラフに強引に迫られたからだが、二人にはわからない。また佐伯さんをないがしろにしているのかと、幸子の目は千鶴を責めていた。
 だが忠之は気にする様子もなく、幸子に礼を述べると一人で千鶴たちの所へ来ようとした。まだ足下がおぼつかずふらつくとすぐに幸子が支えたが、千鶴も立ち上がって忠之に駆け寄った。
「佐伯さんがな、どがぁしてもあんたに話したいことがある言うけん連れて来たのに」
 しかる口調の幸子は、情けなさと申し訳なさの顔で忠之を見た。忠之はばつが悪そうに微笑みながら、邪魔をして申し訳ないと千鶴に頭を下げた。
 佐伯さんにこんなことを言わせるのかと言いたげに、幸子は千鶴をにらんだ。だけど千鶴自身同じ気持ちだった。
 うろたえた千鶴はうわった声で忠之から離れたことをび、申し訳ないのは自分の方だと言った。スタニスラフに会うために離れたわけではないと弁解もしたかったが、それ以上はうまく喋れなかった。

 スタニスラフが縁側に座ったまま、千鶴たちに嫉妬の目を向けている。それを見とがめた幸子がスタニスラフを叱りつけた。
「スタニスラフ、あんた、こがぁなとこでずるけしよらんで、しゃんしゃん仕事せんかね」
 スタニスラフが渋々立ち上がると、幸子は千鶴に顔を戻した。忠之を預けて本当に大丈夫なのかと不審げだ。千鶴が忠之に肩を貸すと、幸子は鼻で大きく息を吐いて心配そうに見守った。それからもう一度スタニスラフに目をると、ススタニスラフ!――と叫んだ。
 スタニスラフは腰を上げたものの、その場に立ち続けて忠之をにらんでいた。自分と千鶴の邪魔をしたと思っているのだろう。忠之の着物もスタニスラフは気に入らない。自分には作ってもらえなかった着物を、忠之が着ているのがしゃくさわるのだ。
 幸子ににらまれながらスタニスラフが出て行くと、幸子は千鶴たちをちらりと見てからいなくなった。
 千鶴は忠之を縁側に座らせた。それから自分もその隣に腰を下ろしたが、胸の中で心臓が暴れ続けている。スタニスラフと寄り添って座っていたところを見られてしまい、恐らく誤解されているという気持ちが千鶴をあせらせていた。改めてお詫びと言い訳をしようとしたが、何と言えばいいのかわからない。
「ごめんなさい。うち……」
 言葉が続かず目を伏せる千鶴に、忠之は明るく言った。
「ええんよ。おらのことは気にせんでつかぁさい。おらの方こそ千鶴さんの邪魔して悪かった。ほんでもな、おら、どがぁしても千鶴さんにお願いしたいことがあるんよ」
「お願い?」
 顔を上げた千鶴に、忠之はうなずいた。
「さっき言うたらよかったんやけんど、言いそびれてしもたけん」
 忠之が言いそびれたのではなく、千鶴の方が勝手に席を立ったのだ。忠之の顔を見づらい千鶴は、目を伏せがちにしながら頼み事の中身を訊いた。
 忠之はそろそろ家に戻りたいと訴えた。何を頼まれるのかと少し緊張したが、その話かと千鶴は肩から力が抜けた。
 家に戻りたいとは、前にも言われたことだ。その時にはまだ早いからと説得し、忠之もそれを受け入れた。今回はあの時よりも強い気持ちのようだ。決心は変わらないと言わんばかりの目で見られると千鶴は困惑した。
「佐伯さんのお気持ちはわかるけんど、まだいけんぞな。もうちぃと、もうちぃとぎり我慢しておくんなもし」
 今までならば、千鶴がこれだけ言えば忠之は引き下がってくれた。なのに今日は珍しく忠之は首を縦に振ろうとしない。
 自分はもう一人で何でもできるから、世話はいらないし家に戻りたいと忠之は主張した。家に戻っても誰もいないと千鶴は言ったが、おとっつぁんとおっかさんがいつ戻ってもいいように、履物を作りながら待っていると譲らなかった。
 実際、為蔵たちが遍路旅に出ているという話を忠之がどれだけ信じているかはわからない。いつまで経っても会いに来ない家族が、本当のところはどうしているのかを自分の目で確かめたいのだろう。
 困った千鶴は知念和尚に相談しようと思った。しかし、もう事実を告げる時が来たのだと思い直した。どうせいつかは誰かが話さなくてはならないのだ。その誰かというのも自分を置いてはいない。
 千鶴は少し悩んだあと、佐伯さんと言った。
「実は、うち、佐伯さんにお話せんといけんことがあるんぞなもし」
「おらに話? おらの家族のことかな?」
 やはり忠之は遍路旅の話を疑っていたようだ。でも話を聞くのが不安なのか、少しそわそわしている。
 千鶴も喋ると決めたつもりなのに話を続けるのが怖くなった。だけど、もう話があると言ったのだ。
「ほれもあるけんど、他にも佐伯さんにお伝えせんといけんことがあるんぞなもし」
 喋りながら千鶴は緊張したが、忠之も同じだ。ほうなんかと言った忠之の顔は硬くこわっている。
 千鶴が忠之に向き直ると、忠之も体の向きを変えた。向かい合って座る忠之を見ると、まだ自分の正体を明かしていなかった頃の進之丞が目の前に座っているみたいだ。思わず目を伏せたが、千鶴は自分を励まし顔を上げた。
「今から大切な話をしますけん、気持ちをように落ち着けて聞いてつかぁさい」
 声が自然に震えてしまう。千鶴自身が気持ちを落ち着けねばならなかった。
 真実を知った忠之からとうされる覚悟はしていた。とてもつらいことではあるけれど、むしろ罵倒してもらった方が気持ちが楽になるという想いもあった。
 しかし、いざ話そうと思うとどこから話せばいいのかわからない。少し考えたあと、千鶴は前世の話をすることにした。自分と進之丞、そして鬼の物語である。