見まがわれた道
一
前世の話と言われても少しも妙な顔を見せずに、忠之は千鶴の話に耳を傾けた。
その話が自分にどう関係があるのか、何故千鶴がそんな話をするのか、どうして前世がわかるのかなど一切訊かずに、忠之は静かに千鶴の話を聞いた。
千鶴が初めに語ったのは、前世の自分の生い立ちだった。千鶴が前世でもロシア人の父親と日本人の母親の間に生まれた話は忠之を驚かせた。
父親を海に流され、物心がついた頃には母親と一緒に遍路旅をしていた千鶴の境遇は、前世の話ながら忠之を心配させた。道中出くわした鬼に母親を殺された話には、忠之は驚愕しながら涙ぐみ、少しも千鶴の話を疑おうとしなかった。
千鶴が聞かされる立場であったなら、本当の話かと疑うだろう。人によれば前世の話と言われた時点で、真面目に話を聞くのをやめる。ところが忠之は千鶴の話をすべて真実だと受け止めてくれていた。
それだけ信頼されているのだろうが、そこまで信頼してもらえるのは、千鶴には有り難くも不思議なことだった。
独りぼっちになった千鶴が、慈命和尚に法生寺へ連れて来られた話には、忠之は安堵しながら喜んだ。自分がいるこの場所に、前世の千鶴がいたという事実が驚きであり感動したようだ。
当時も千鶴は異人の顔をしていたので、村人たちからがんごめと呼ばれたが、代官の一人息子の柊吉が友だちになってくれたという話を聞くと、忠之は柊吉を褒め称えた。
だが、何故侍の子供が一人で遊びに来られたのかと首を傾げるので、慈命和尚が代官からも敬われていたからと千鶴は説明した。また、初めのうちはお付きの者がいたけれど、柊吉が大きくなると、まったくの一人で訪ねて来るようになったと言った。
柊吉が寺へ来る名目は、慈命和尚からいろいろ教えを受けるというものだ。実際、柊吉は村の子供たちや千鶴と一緒に和尚から学びを受けた。それ以外は千鶴と遊んだし、千鶴と村の子供たちの仲立ちをしてみんなで遊んだりもした。そのお陰でお陰で千鶴をいじめる子供はいなくなった。
柊吉は千鶴の笑顔のためには、何でもやってくれた。千鶴が喜ぶと、柊吉も笑顔でいっぱいになった。千鶴にとって懐かしく切ない思い出だ。
柊吉の優しさに忠之は感心しきりだったが、柊吉に花の神さまと言われたことや、よく野菊の花を飾ってもらったことは、千鶴は恥ずかしくて黙っていた。
柊吉が元服して進之丞になり、千鶴を嫁にする話になると、忠之は身分を超えた結婚にかなり驚いた。
千鶴が武家の嫁になるために、代官の知人の侍の養女になるのが決まっていたと説明されると、忠之はへぇと感服した。そして、よかったなと千鶴を祝福してくれた。
ところがその千鶴と進之丞の幸せは、母を殺した鬼によって引き裂かれたのである。
千鶴は鬼の話をするのがつらかった。
今の千鶴にとっては、鬼も愛しく大切な存在だ。過去のこととはいえ、その鬼の悪行を喋るのは嫌だし、その時の感情を思い出したくなかった。だけど鬼の話をしなければ、忠之に何があったのかを伝えられなくなってしまう。
千鶴は鬼がやったことを忠之に話して聞かせた。鬼を憎む気持ちがない千鶴は、喋りながらただ悲しかった。話を聞く忠之は驚愕と怒りと悲しみで顔をゆがませ続けた。
鬼は本当は救いを求めていたと千鶴は強調した。それから、幼かった千鶴の優しさに憧れた鬼が、その優しさを手に入れるために千鶴を喰らおうとした話をした。だが、喰らうという言葉に忠之がぎょっとしたので、喰らうとはどういうことなのかを説明した。
忠之は目を丸くして話を聞いていたが、忠之自身が進之丞に喰らわれていたのだ。千鶴は喋るうちに罪悪感で目は伏しがちになり、声も小さくなった。
忠之に促されて話に戻った千鶴は、進之丞が鬼と戦い、千鶴の身代わりとなって鬼に喰われたと語った。
千鶴は何度も涙を拭きながら、進之丞を喰らった鬼が己の中の優しさに気づいて心を入れ替えた話や、進之丞の心を受け入れた鬼が、進之丞として生きることになった話を、力を込めて喋った。
自分からすべてを奪った鬼を千鶴がかばうことに、忠之は胸を打たれたようだ。黙ってうなずきながら目を潤ませた。だが忠之の様子に千鶴は戸惑いうろたえた。何故なら、千鶴は自分は罪人だと思っていたからだ。
千鶴は少し迷ったあと、進之丞は重傷を負っていたために、鬼になっても長くは生きられなかったと言った。そして、進之丞の命を奪ったのは自分だと千鶴は泣きながら告白した。
実は、進之丞の命を己自身が奪った事実を、千鶴はまだ誰にも話せていなかった。あまりの罪深さに、家族にも和尚夫婦にも言えなかったのだ。
忠之は項垂れる千鶴を抱いてやろうとしたのか、手を千鶴の方へ伸ばした。しかし、そのためらいがちな手は、千鶴に触れないまま膝の上に降ろされた。代わりに忠之は静かに涙を流した。
「千鶴さん、つらかったな……。いくら鬼が悪い言うたとこで、千鶴さんの苦しみは変わるまいに……。おら、何もしてあげられんけんど……、消せるもんなら、千鶴さんのそがぁな記憶……、おらが全部消してあげるんやがな……。その進さんいうお人も、恐らく同し気持ちやったと思わい……」
千鶴は忠之を見た。やはり忠之と進之丞は同じ心を持っている。それが千鶴は嬉しかったし、話を聞いてもらい、励ましてもらえたのは大きな慰めとなった。
二
鬼が死んだあと自分も後を追ったと千鶴が言うと、忠之は涙に濡れた目を見開いた。
千鶴が地獄へ行った話は、忠之には信じられないようだった。しかし、千鶴は鬼となった進之丞に逢いに行ったのだとわかると、ほっとしながら、そげなことをするんは千鶴さんぎりぞな――と言って笑った。
「その鬼はまっこと嬉しかったろうな。千鶴さんが地獄にまで逢いに来てくれるやなんて思いもせんかったろ……。ほんでもな、鬼はまっこと悲しかったとも思わい」
忠之は微笑んでいたが、少し寂しげだ。
「なして鬼は悲しかったて思いんさるん?」
「ほやかて、おらが鬼じゃったら、自分のせいで千鶴さんを地獄へ呼んでしもたて思うけん……。そがぁな所、鬼は絶対に千鶴さんを来させとうはなかったろ」
忠之の言葉は進之丞が語ったことと同じだった。千鶴は進之丞を思い出しながら、進之丞と対の心を持つ忠之に引き込まれそうになった。
「鬼は困ったんやないんかな?」
忠之に訊かれて我に返った千鶴は、鬼が千鶴を光の世界へ戻すため、千鶴の幸せを願いながら、千鶴への想いを断ち切ろうとした話をした。
忠之は悲しげに目を閉じると、お不動さま――と胸を押さえてつぶやいた。
鬼が千鶴を不動明王に託そうとしたとは、千鶴は言っていない。忠之のつぶやきは、まるで鬼がつぶやいたみたいで、千鶴をうろたえさせた。
「切ないな……」
少しして目を開けた忠之は悲しげ言った。
「鬼はほんまは千鶴さんに傍におってほしかったろうにな……」
しんみりした沈黙のあと、千鶴は忠之にさっきのつぶやきを訊ねた。
あぁと言って笑った忠之は、照れて頭を掻いた。
「おら、こんまい頃からここの和尚さんや安子さんには、いろいろお世話になっとるけんな。お不動さまとも顔馴染みなんよ。ほじゃけんな、何ぞあったら、すぐにお不動さまて言うてしまうんよ。さっきも鬼の話があんまし切なかったけん、つい言うてしもたんよ」
忠之は鬼の心に自分の心を重ねていたのだろう。千鶴は感銘しながら、はっとなった。
鬼は千鶴を想いながら、千鶴の幸せを願って自らの想いを断った。そんな鬼を切なく想う忠之は、鬼と同じことを考えたのではないか。
忠之が家に戻ると言って譲らない本当の理由は、そこにあると千鶴は悟った。
これまでの千鶴の態度を見て、忠之は自分が避けられていると感じていたはずだ。それがスタニスラフが来てから顕著になったので、千鶴はスタニスラフを好いていると忠之は受け止めたのだ。
なのに、千鶴は忠之の世話があるから自由にできない。だから、忠之は千鶴への想いを断ち、千鶴の幸せのために姿を消すつもりなのだ。
千鶴は泣きそうになった。さっきはどうして忠之から離れたのか、本当の理由を忠之に伝えたかった。だがそれを拒む自分がいた。進之丞への裏切りだと、その自分は訴えていた。ぶつかり合う二つの想いのせいで、千鶴は喋れなくなった。
けれど、今は話を続けねばならない。進之丞が忠之を喰らったという事実を、忠之に伝えなければいけないのだ。
千鶴は気持ちを落ち着けると、そのあと自分は山﨑千鶴として生まれ変わったと言った。しかし、そこで再び口籠もった。
千鶴が黙っているので、鬼はどうなったのかと忠之は訊ねた。
音が聞こえそうなほど心臓がどきどきしている。大きく呼吸をしたあと、千鶴は言った。
「進さんは、うちみたいには生まれ変わらんかったんぞなもし」
「じゃあ、どがぁに?」
千鶴はためらいながら、佐伯さんぞなもし――と言った。意味がわからない忠之は、自分を指差しながら当惑した。
「佐伯さんが最後に覚えとりんさるんは、台風が来よった時に鬼よけの祠の前に立ちんさったことですよね?」
当惑気味にうなずいた忠之を、しっかり見据えながら千鶴は言った。
「ほん時に、進さんは佐伯さんに取り憑きんさったんぞなもし」
え?――忠之は千鶴の言葉が理解できなかった。千鶴は構わず話を続けた。
「進さんは鬼に喰らわれて鬼になりました。その進さんに、佐伯さんは喰らわれんさったんぞなもし」
「おらが? 喰らわれた? 進さんに?」
千鶴はうなずき、忠之にこの二年の記憶がないのは、進之丞の心の一部になっていたためだと説明した。
「進さんは鬼に喰われんさったあとも、進さんのままでおいでたけんど、佐伯さんはほうはならんかったんぞなもし。そがぁして進さんは佐伯さんのお体とご記憶をご自分の物にしんさって、佐伯さんとしてこの二年を生きて来んさったんです」
忠之は動揺していた。自分の手のひらを見たり、体に触れたりしたあと、千鶴に顔を戻した。
「なして、おらが進さんに?」
鬼は心の穢れた者にしか取り憑けないとは言えない。忠之の心が穢れているとも思えない。千鶴は、鬼は自分と似ぃた心に取り憑くそうですと説明した。
「進さんが言いんさるには、進さんと佐伯さんは心が対じゃったらしいんぞなもし。やけん、進さんは佐伯さんに取り憑けたて言うておいでました」
「おらと進さんが心が対?」
千鶴はうなずくと進之丞のために弁解した。
「ほんでも、進さんはわざに佐伯さんを喰ろたんやのうて、気ぃついたら喰ろてしもとったそうなんです。進さん、ほれをずっと気にしておいでて、佐伯さんに申し訳ないことしたて言い続けんさったんです」
驚いた顔のままの忠之に向かって、千鶴は両手を突いた。
「お詫びして許されるもんやないですけんど、うちには詫びるしかできません。この度はまことに申し訳ありませんでした」
頭を下げた千鶴は、忠之が怒りだすのを待った。緊張で突いた手が震えている。
ところが忠之は一向に怒りを見せず、千鶴に頭を上げさせた。
「千鶴さんがおらに取り憑いたわけやないし、千鶴さんが頭下げることないけん」
「ほやけど、うちは進さんが佐伯さんを喰ろたんを知りながら、進さんと暮らして来たんぞなもし。ほやけん、うちにも罪があるんぞなもし」
「おらはそげには思わん。ほれで、進さんはどがぁなったんぞな? おらが意識を取り戻したんじゃけん、進さんはおらから離れたんじゃろ?」
「進さんは……」
最後に花を飾ってくれた鬼の姿が浮かんでいる。涙があふれ出して千鶴が喋れなくなると、忠之は慌てて慰めた。
「おら、余計なこと訊いてしもたんじゃな。ごめんよ。おら、千鶴さんに泣かれたら困るけん。お願いじゃけん、泣きやんでおくんなもし」
忠之のうろたえようは進之丞そっくりだ。千鶴はますます泣いた。
三
千鶴!――と叫びながらスタニスラフが素っ飛んで来た。仕事をせずに、近くで様子を窺っていたらしい。
千鶴を抱きかかえたスタニスラフは、千鶴に何をしたのかと、凄い剣幕で忠之をにらみつけた。
スタニスラフの腕を振り解いた千鶴は、佐伯さんは何もしていないと言い、自分が勝手に泣いただけだと説明した。けれど、スタニスラフは信じる気がないらしく、尚も忠之をにらみ続けた。
千鶴は辟易しながら、邪魔をするなら神戸へ帰りんさい!――ときつく言った。それでもスタニスラフは離れない。そこへ騒ぎを耳にした安子と幸子がやって来た。
幸子はスタニスラフを見つけると、掃除をしていないのかと怒りを露わにした。スタニスラフは少し勢いを失ったが自分の正当性を訴えて、忠之が千鶴を泣かせたと言って聞かなかった。
千鶴は即座に否定して、喋っているうちに昔を思い出して泣いただけで、佐伯さんは何もしていないと言った。
安子は腰に手を当てると、本人がこう説明しているのに、どうして自分勝手なことを言うのかと、強い口調でスタニスラフを叱った。
「まだ千鶴ちゃんらの邪魔するいうんなら、今すぐここから出て行ってもらうけんね!」
安子がここまで強く言うことは滅多にない。さすがにうろたえたスタニスラフは、小さな声でゴメナサイと言うと、悔しそうに部屋から出て行った。
幸子はやれやれという感じで安子と顔を見交わすと、千鶴の傍へ来て、佐伯さんと何の話をしていたのかと訊ねた。
千鶴はうろたえながら、これまでの事とだけ言った。幸子と安子は顔を見交わしてうなずくと、誰にも邪魔はさせないからと言い置いていなくなった。
改めて忠之と二人きりになった千鶴は、スタニスラフの非礼を忠之に詫びた。忠之は何も気にしていないと微笑み、この二年のこともなと付け足した。
忠之の怒りを覚悟していた千鶴は、肩透かしを食らった気分だ。
「進さんが取り憑いてたのに怒らんのですか?」
千鶴が訊ねると、忠之は笑いながら、そげなこと――と言った。
「ほれより、おら、自分が進さんの一部として、この二年をどがぁしよったんか、そっちを知りたいんよ」
それは忠之を喰らった進之丞が、この二年をどう暮らしていたのかという話だ。
千鶴はうなずくと、忘れたくないし忘れられないその記憶を、静かに話し始めた。
風寄の祭りで千鶴が男たちに襲われた時、突然現れた進之丞に助けてもらった話は、忠之を喜ばせた。
進之丞が人力車で千鶴と春子を松山まで運んだり、仲買人の兵頭の牛代わりに風寄の伊予絣を山﨑機織まで届けた話を聞くと、忠之は驚きながら自分の力に感心した。また、山﨑機織の壊れた大八車の代わりに、進之丞が自分の大八車を置いて行った話には、忠之は大きくうなずいた。
すっかり甚右衛門に気に入られた進之丞が、為蔵とタネの世話をする約束で山﨑機織で働くようになった話を聞くと、忠之はなるほどと納得した。為蔵たちがいるのに自分が松山へ行った理由が、やはり気になっていたらしい。
忠之が忠吉や忠七と呼ばれていたことや、忠之が甚右衛門たちを何と呼んでいたのかを千鶴が話すと、忠之は面白そうにそれぞれの呼び方を繰り返した。
懸命に働いた進之丞がみんなに信頼されて、すぐに手代に昇進した話は、忠之を感心させた。自分なんかがという気持ちがあるようで、忠之は進之丞の才能に敬服した。
進之丞は休日になると洗濯や掃除などを手伝ってくれた話や、二人で楽しんだ祭りや花見見物の様子、困った時には進之丞が必ず助けてくれたことなど、二人だけの思い出も千鶴は喋った。その話を忠之は楽しそうに聞いていた。
どうでもいい些細な話や取るに足らないちょっとしたことまで、思い返せばすべてが幸せだった。二人で言い争ったことまでもが、今に思えば愛おしかった。
喋っているうちに、千鶴は涙が止まらなくなった。忠之はうろたえて、もう十分だと話を中断させた。
千鶴は涙を拭きながら、またスタニスラフが素っ飛んで来るのではないかと心配した。すると忠之は、あのロシアの人のことを訊いても構わないかと言った。
千鶴はどきりとした。忠之からすれば、これほど進之丞を愛しく想う千鶴が、スタニスラフと一緒にいたがるのが不思議なのだろう。
忠之は千鶴がスタニスラフと仲よくなった経緯を知りたがった。
千鶴は仕方なく萬翠荘に招かれた時の話をした。忠之は目を輝かせて、自分もその時の千鶴を見てみたかったと言った。
「そがぁなわけで、あのロシアのお人は千鶴さんのことを、余程好いておいでるんじゃな。ほれで遠い所から、わざに千鶴さんを迎えにおいでたんか」
忠之は納得してうなずいた。しかし、それはスタニスラフについてである。肝心の千鶴のことは、忠之は詮索しようとしなかった。
忠之の体を離れた進之丞がどうなったのかを、千鶴はまだ喋っていない。けれど、千鶴の様子を見ていれば、進之丞はもういないのだと誰だって察しがつく。
千鶴の気持ちを訊ねないのは、進之丞がいなくなって千鶴の心が弱っているのを理解しているからだろう。
また千鶴の悲しみを埋めるのは、スタニスラフの役目だと忠之は考えているようだ。だから千鶴がスタニスラフに心を動かされても、千鶴の気持ちを尊重してくれるのだ。
だけど、それは忠之の本音ではないだろうし誤解である。千鶴はきっぱり言った。
「言うときますけんど、うちがスタニスラフさんのお相手しよるんは、あのお人が遠い所からわざにおいでてくんさったけんぞなもし。ほれ以外の理由はないですけん」
少し向きになった言い訳を、忠之がどう受け取ったかはわからない。自分の傍から逃げてスタニスラフに寄り添う千鶴の姿を、忠之は己が目で見ているのだ。
忠之の戸惑う微笑みに動揺しながら、千鶴は天邪鬼の話に話題を変えた。忠之に話さなければならないことが、まだ残っている。
四
天邪鬼がどんな鬼なのかを説明したあと、前世の悲惨な出来事はすべて天邪鬼が仕組んだことだと千鶴は言った。
天邪鬼のせいで千鶴と進之丞は死に別れ、鬼と化した進之丞は地獄へ堕ちた。ところが二人は奇跡的に今世で再会を果たせた。
けれど、それを知った天邪鬼が、再び二人を絶望のどん底へ突き落とそうとしたと千鶴は言った。
天邪鬼は千鶴を辱め、進之丞を鬼に変化させようとした。そのために天邪鬼がやったことに忠之は憤ったが、大林寺での事件のせいで店が潰れたと知ると衝撃を受けたようだ。
千鶴ばかりか甚右衛門たちもが自分の面倒を見てくれているのを、忠之は不思議に思っていた。今の話でその理由がわかった忠之は愕然とし、家も店も失った千鶴たちに同情を寄せた。だが、忠之の方こそすべてを失ったのだ。
いよいよ話の本題が近づき、千鶴の心臓は再び暴れ始めている。
「お店が潰れたあと、進さんはうちをお嫁にして、風寄の仕事を引き継ぐつもりでした。ほれで為蔵さんやおタネさんにその報告をするために、進さんは一足先に風寄に戻りんさったんです」
忠之は目を瞠ったまま話を聞いている。
天邪鬼はともかく、千鶴が喋っているのは、進之丞が忠之の大切なものをすべて奪った話だ。自分と進之丞の罪を懺悔しているのである。
山﨑機織の話は忠之もぴんとこなかったかもしれない。しかし家族の話となれば、人生を奪われたと実感するはずだ。
罪悪感を感じながら、千鶴は話を続けた。続けねばならなかった。
「ほん時……」
緊張が高まり、千鶴は喉が詰まった。喋ろうとすれば唇が震えてしまう。じっと見つめる忠之の視線が痛くて、千鶴は目を伏せて喋った。
「ほん時、天邪鬼が風寄に先回りして、ほれで、ほれで……」
為蔵さんとおタネさんのお命を奪たんです――と千鶴は涙をぽろぽろこぼしながら、声を絞り出して話した。
え?――と言う小さな声が聞こえた。あとは何も聞こえない。忠之は怒鳴りもしなければ泣き叫びもせず、訊き返すことすらしなかった。
「天邪鬼は進さんを怒らせて鬼に変化さすために、お二人を殺めたんです」
千鶴は状況を説明したが、忠之は黙ったままだ。顔を上げてみると、忠之は呆然としていた。その頬をつっと涙がこぼれ落ちたが、忠之の表情は変わらない。
千鶴は忠之に土下座をすると、申し訳ありませんと言った。
「うちらが関わってしもたばっかしに……、佐伯さんのご家族まで犠牲にしてしまいました……。許してほしいとは言いません……。どうぞ、焼くなり煮るなり、うちを好きにしてつかぁさい……」
千鶴は泣きながら忠之の怒りを待った。けれど、いつまで経っても忠之の声は聞こえない。怒鳴りもしなければ罵りもせず、沈黙だけが続いている。
千鶴がもう一度恐る恐る顔を上げると、忠之は放心状態で静かに泣いていた。その様子が悲しくて、千鶴は嗚咽しながらもう一度頭を下げた。
しばらくしたら、鼻をすする音と穏やかな声が聞こえた。
「千鶴さん、もうええけん。おら、怒っとらんけん、頭を上げてつかぁさい」
忠之の顔は涙に濡れていたが、千鶴の顔もぐちゃぐちゃだ。忠之は両手の親指で千鶴の涙を拭うと、千鶴に微笑みかけた。
「千鶴さんはおらの家族を知っておいでるんかな?」
こくりと千鶴がうなずくと、二人はどんな感じだったかと忠之は訊ねた。
初めて会った時の為蔵たちのことを、千鶴は正直に伝えた。また、二人が千鶴たちのために履き物を作ってくれた話や、千鶴を嫁として連れて戻るようにと進之丞に命じていた話もした。
忠之は笑いながら、おとっつぁんが失礼な態度を見せたことは、勘弁してやってつかぁさいと言った。
「おとっつぁんは頑固なけん、いっぺん言いだしたら聞かんのよ。ほんでも、ほんまは千鶴さんがどがぁなお人なんかは、ちゃんとわかっとったと思わい」
千鶴はどんな顔をすればいいのかわからず下を向いた。忠之は遠くを眺めるようにしながら、懐かしそうに喋った。
「何だかんだ言うても、おとっつぁんはおっかさんには頭が上がらんかった……。偉そにしよっても、結局はうねうね言いもって、おっかさんの言うたとおりに動きよった……」
千鶴が上目遣いに忠之を見ると、忠之は千鶴をにっこりと見返した。
「二人とも、おらにまっこと優しかった……。おらが捨て子じゃったとは一言も言わずにな、おらを実の子のように、大事に育ててくれたんよ……。まっこと、おらにはもったいない親じゃった……」
微笑んだ忠之の頬を、涙がまた流れ落ちた。恥ずかしげに涙を拭く忠之に千鶴は訊ねた。
「佐伯さん、うちや、進さんのこと、ほんまに怒っておいでんのですか?」
「怒っとらんよ」
「なして? なして怒らんのですか?」
ほやかて――と忠之は戸惑いながら下を向いた。
「別に千鶴さんがおとっつぁんらを殺めたんやないし、進さんにしたかて、おらの代わりにおとっつぁんらを大事にしてくれとったんじゃろ? 悪いんは天邪鬼で、千鶴さんも進さんも悪ないけん」
「ほやけど――」
「ええんよ。もう済んだ話ぞな。今更どがぁ言うたとこで詮ないことよ。ほれより天邪鬼よ。天邪鬼はどがぁなったんぞな? 今もまだ千鶴さんを狙いよるんかな」
険しい顔になった忠之に、天邪鬼は死んだと千鶴は言った。
驚く忠之に、千鶴は城山で鬼に変化した進之丞が、天邪鬼を退治したと話した。ただ、自分が天邪鬼の手に落ちて、進之丞すなわち忠之の命を奪おうとした話や、井上教諭まで巻き込んで死なせてしまった話はできなかった。忠之もどうして千鶴たちが城山に登ったのかは訊かなかった。
天邪鬼を倒したあと、天邪鬼が呼び寄せた警官がやって来た話をした千鶴は、鬼の姿の進之丞が自分を抱きかかえて本壇の外へ飛び降りたと言った。
「ほしたら、そこにおじいちゃんがおいでたんです」
「おじいちゃんて、旦那さんかな?」
千鶴はうなずくと、自分が鬼に連れ去られたと思い込んでいた祖父が、猟銃を持って城山へ探しに来ていたと話した。忠之は顔を強張らせ、まさか――と言った。
「おじいちゃん、鬼に抱かれたうちを見つけて、うちを助けようとしんさったんです。うち、この鬼は悪い鬼やないて、必死で叫んだけんど、ほん時、大雨が降って雷が落ちたけん、うちの声はおじいちゃんには聞こえんかったんです。ほれで……」
すぐに逃げていれば、進之丞は撃たれなかった。なのに、進之丞は千鶴を甚右衛門に返そうとした。稲光の中で見た祖父の驚いた顔が浮かび、千鶴はすすり泣いた。
「進さん、すぐに手当したら助かったのに……、うちをここまで運んだけん、血ぃがいっぱい出て……」
あとの言葉が出せず、千鶴は泣いた。忠之は大きく目を見開いたが、やがて目を伏せると、ほういうことかと力なく言った。
千鶴は涙を拭きながら話を続けた。
「佐伯さんの右の腰にある傷は、山で怪我したんやありません。ほれは、おじいちゃんの猟銃で撃たれた傷ぞなもし。鬼が死んだ時、佐伯さんも死んだはずじゃったけんど、佐伯さんは息を吹き返しんさって、生き返ることができたんです」
「鬼も進さんも死んだのに、おらは生き返ったんかな」
驚きながらも少ししょんぼりしている忠之に、千鶴は言った。
「佐伯さんぎりでも生き残れたんは幸いなことでした……。佐伯さんから心と体ばかりか、大切なご家族を奪てしもた上に……、佐伯さんのお命まで奪うとこでした……。おじいちゃんも佐伯さんに申し訳ないことしたて……、ずっと悔やんでおいでるんです……」
忠之は自分が死にかけたことには触れずに、悪かったなと顔を曇らせながら言った。
「おらばっかし息吹き返してしもて……。ほんまなら、進さんも一緒じゃったらよかったのにな」
どきりとしながらも、千鶴は忠之の言葉に腹が立った。
「なしてそがぁなことを言いんさるん? うちらは佐伯さんに取り返しがつかんご迷惑をおかけしてしもたんぞな。謝るんはこっちの方であって、佐伯さんが謝りんさるんは間違とります。佐伯さんは怒りんさってええんです。うちのこと、怒ってどやしつけて殴り飛ばしてつかぁさい。うちはその覚悟でこの話をしたんぞなもし」
忠之は微笑みながら言った。
「そげなこと、できるわけなかろがな。千鶴さんはおらの命の恩人ぞな。千鶴さんは懸命におらを助けてくんさった。おらな、身内以外でこがぁに親切にされたんは、生まれて初めてなんよ。おら、千鶴さんには感謝の気持ちしかないけん」
こんな風に言われるなんて千鶴は思いもしていなかった。そこまで想いを寄せてくれているのかと胸が打たれたが、この言葉は正体を明かす前の進之丞が口にした言葉でもあった。どこまでも進之丞と似ている忠之に、千鶴は泣きそうになった。
忠之は少し戸惑いながら、ほれにな――と言った。
「おら、千鶴さんがこの二年、幸せに過ごしんさったんが嬉しいんよ」
思いも寄らない言葉に、千鶴は忠之を見た。
「おら、ずっと千鶴さんの傍におったろうに、何ちゃ覚えとらん。けんどさっきの話聞いたら、千鶴さん、幸せにしよったみたいなし、こがぁなおらが、ほれにちぃとでも役に立てたんじゃなて思たら嬉しいんよ」
「なして、うちなんか……」
「言うたじゃろ? 千鶴さんはおらの命の恩人やし、おらに優しゅうしてくれたお人やけん。その千鶴さんが喜んでくれよったいうんが、おらには何よりなんよ」
どうすればこんな風に考えられるのだろう。いくら好意を持ってくれていたとしても、他の者なら絶対にこんなことは言わない。
千鶴はこらえられなくなった。忠之に背を向けると、声を殺して泣いた。
五
「千鶴さん、おらと一緒におったら、ほんまはつらかろ?」
後ろから忠之が申し訳なさそうに声をかけた。千鶴はぎくりとなった。
急いで涙を拭くと、そがぁなこと――と言いながら忠之を振り返った。しかし、忠之と目が合うと思わず下を向いた。気恥ずかしさとうろたえがもつれ合っている。
忠之は寂しげに言った。
「進さんはおらと真っ対なんよな? というか、おらの体を使いよったんじゃけん、おらが進さんじゃったんよな。ほんでも、今のおらは進さんやないけん、おらと一緒におったら、千鶴さん、混乱してしまわい」
まったくの図星である。忠之は千鶴の心の内を見抜いていた。だけど今は進之丞への想いと別に、忠之に惹かれる気持ちもある。ただ、それは口にはできない。
「さっきも言うたけんど、おらぎりやのうて、進さんも生き返ったらよかったのにな」
しょんぼり話す忠之に、千鶴は腹が立ったし悲しかった。
「そがぁなことは言わんでつかぁさい! こんでもうちは佐伯さんが助かるようにがんばったつもりぞなもし」
千鶴の剣幕に忠之は、ほやかて――と言って悲しげに口を噤んだ。
今度は千鶴は自分に腹を立てた。忠之にこう言わせたのは千鶴なのだ。せっかく生き返った忠之が、己には生きる価値がないと思ったならば、それは千鶴の責任だ。
これまでの自分の態度について千鶴が詫びると、ほれはええんよと忠之は言った。
「おらと進さんは対やけんど、別人じゃけんな。千鶴さんが戸惑うんもわかるし、どんだけ苦しいんかもわかる気がすらい」
ただな――と忠之は目を伏せて話を続けた。
「おら、千鶴さん悲しませとないし、いつまでも千鶴さんをおらに縛りつけとないんよ。おら、千鶴さんには自由でおってほしいし、好きにしてもらいたいんよ」
顔を上げた忠之はにっこり笑い、千鶴さんには笑顔が似合うけんと言った。
千鶴は切なくなった。やはり忠之は自分の気持ちを殺して姿を消そうとしていたのだ。
本当は自分もあなたの傍にいたい。そう伝えたいが、言葉は頭の中に留まったまま口には出せない。自分の心は進之丞だけのものだし、進之丞が死んで間もないというのに、もう他の男に心を移すのかと、もう一人の自分が罵っている。
そんな千鶴の葛藤を知らぬまま、忠之は笑顔を見せて言った。
「おら、もう何だって一人でできらい。和尚さんもおるし、安子さんもおる。千鶴さんがおらいでも、おら何ちゃ困らんけん。ほじゃけん、千鶴さんはおらには構んで、自分が思たようにしておくんなもし」
「そがぁ言われても……」
「ええんよ。おらに遠慮なんぞせんでええけん。ほんまにおらじゃったら大丈夫ぞな。千鶴さんは悲しいこと忘れて、自分が楽しゅう思えることをしよったらええ。ほれがおらの望みぞな」
「ほやかて……」
「あのロシアのお人が初めておいでた時、一緒に戻んておいでた千鶴さん、まっこと幸せそうに笑いよった。おら、あがぁな千鶴さんでおってほしいんよ」
千鶴は体中の血が顔に集まったように感じた。
思いがけないスタニスラフの訪問に、すっかり舞い上がっていて気づかなかったが、あの時、庫裏の縁側にいた忠之に二人の様子を見られていたのだ。
萬翠荘での舞踏会を進之丞に見られた時の、あの焦りと動揺が千鶴を襲った。
あの時、進之丞はスタニスラフと踊る千鶴の笑顔こそが、お不動さまが見せようとした笑顔なのだと思いながら泣いていた。きっと忠之も同じ気持ちだったに違いない。
「ほうやないんです」
千鶴は訴える眼差しで忠之を見たが、あとの言葉が続かない。それは忠之の言葉を否定できないという意味になる。
うろたえる千鶴を励まそうと思ったのか、忠之は少し迷いながら言った。
「おら、あのお人が千鶴さんにどがぁなんかはわからんけんど……、もし千鶴さんがあのお人のことを好いておいでるんなら――」
やめて!――と千鶴は叫んだ。忠之は驚いて口を噤んだ。
何故自分を犠牲にしてそんなことを言うのか。どうして進さんと同じことを言うのか。忠之の悲しみが、進之丞の悲しみとなって千鶴の上にのしかかる。
進さんでもないのに、進さんと対のことを言うなと、千鶴は怒鳴りたかった。だけど本当はそんな悲しい言葉を口にしてほしくなかった。そんな言葉を言わせてしまったことを謝りたかった。なのに狼狽と腹立ちで混乱した千鶴は、思わず声を荒らげてしまった。
「何も知らんずくに、知ったかぶりして余計なこと言わんでつかぁさい!」
忠之は呆気に取られた顔になった。はっとなった千鶴は、激しく動揺した。
詫びている相手に怒鳴ったのだ。しかも忠之は千鶴の長い話に付き合い、千鶴の悲しみに涙してくれた。その忠之を怒鳴ったのである。
おろおろする千鶴に忠之はしゅんとなって、悪かった――と謝った。その姿を見て、千鶴は愚かな自分に泣きたくなった。
「つい言わいでええこと言うてしもた。堪忍してやってつかぁさい。おら、千鶴さんの笑た顔が見たかったぎりなんよ」
忠之は進之丞ではないのに、進之丞そのものだ。進之丞としても忠之は千鶴を惹きつけてしまう。最後の抗いが力をなくしそうだ。
とはいえ、忠之に声を荒らげたのだ。忠之は千鶴が笑顔の仮面を取って、素顔を見せたと受け止めただろう。千鶴に好意を寄せながら、自分の存在が千鶴を不快にさせていると思う忠之が、今のでどれほど傷ついたのかが、千鶴には痛いほどにわかっていた。
うろたえた千鶴は、忠之を抱きしめて本当の気持ちを伝えそうになった。どうして自分がいらだつのか、その本当の理由を説明したかった。
けれど進之丞への想いが踏みとどまらせた。進之丞ではない者を好きになるのは許されないのだ。
だけど、それでは忠之を傷つけたままになってしまう。千鶴は言い訳しようと口を動かしたが、言葉が出て来ない。何とか出たのは、ごめんなさい――という言葉だけだった。
忠之は微笑んだが、その目には悲しみのいろが浮かんでいた。
六
本当であれば、千鶴は自分の気持ちを抑えながら、忠之が一人で暮らせるようになるまで、励ましながら支えてやるつもりでいた。それが忠之への償いであり、進之丞の想いの代弁でもあった。
なのに忠之に声を荒らげてしまったのだ。そんな者に忠之の世話をする資格はない。自分を嫌う相手に世話をされるなど、忠之だって望まない。
忠之の悲しげな目が頭から離れない。絶対に悲しませたくない人が泣いている。
千鶴は頭を抱えて泣いた。頭の中で何度も忠之に詫びた。一方で、泣きながら忠之を想う自分を叱りつける、もう一人の自分がいた。
あの人に心を奪われるなんて、進さんへの裏切りだ。このままでは間違いなく進さんを忘れて、自分はあの人のものになってしまう。そうなる前に早くここから逃げなければ。
進之丞を慕う心はそう訴え、これ以上忠之といるのは危険だと強い警告を発していた。
だけど――と忠之に惹かれる心がためらいを見せる。まだ本当は回復していない忠之を放ってはおけないし、忠之から離れたくない。けれど忠之をあれほど深く傷つけてしまった以上、もう忠之の世話はできない。
後悔と恐れと恋慕の想いが混乱の渦となって、千鶴から思考力を奪っていた。頭の中は真っ白で、何をどうすればいいのかわからない。ただ忠之を傷つけた罪深さが、この場から逃げ出したいという気持ちとなり、ここを離れねばという想いに拍車をかけた。
千鶴は庫裏の外へ出ると、楠爺の陰に隠れた。前世から見守り続けてくれている楠爺だけが、自分をわかってくれる気がした。
「楠爺、おら、もうここにはおれん。おら、どがぁしたらええん?」
千鶴は楠爺に抱きつくと泣きながら話しかけた。楠爺は何も答えてくれなかったが、お前の好きにしなさいと言っているみたいでもあった。
その時、本堂の裏手からスタニスラフの悲鳴のような声が聞こえた。
千鶴は楠爺から離れて本堂の裏に回った。すると手紙らしき物を両手に持ったスタニスラフが、天に向かって怒りの叫び声を上げていた。
千鶴が声をかけると、スタニスラフは驚いて振り返った。手にしているのは、やはり手紙だ。
千鶴が近づくと、スタニスラフは絶望的な顔で、母からの手紙が届いたと言った。
法生寺に住み込みで働くと決めたあと、スタニスラフは家に手紙を書いた。こちらの事情を説明して、アメリカ行きをもう少し待ってほしいという内容だ。今読んでいたのは、その手紙に対する返事らしい。
「千鶴、僕ヴァ、帰ラァナイト、イケナイ」
え?――と驚く千鶴に、アメリカ行きはこれ以上は引き延ばせないと、母に告げられたとスタニスラフは言った。
「帰るて、いつ?」
「スゥグゥニデズゥ」
ついさっき、千鶴はスタニスラフの嫉妬深さにうんざりし、スタニスラフと一緒にいたことを後悔した。スタニスラフが一人でさっさと神戸へ戻ればいいとさえ思っていた。
なのに、ここから逃げることしか考えられない千鶴は、自分一人がここに取り残されると動揺した。激しく狼狽した千鶴は、ほとんど衝動的に喋った。
「うちも……、うちも一緒に連れて行っておくんなもし」
エ?――今度はスタニスラフが驚いた。
「千鶴、今、何ト、言イマシタカ?」
「うちを一緒に連れて行ってて言うたんぞな」
「一緒ニ? 神戸へ?」
千鶴は強張った顔でうなずいた。心の中で、本当にそれでいいのかと叫ぶ自分がいた。けれどその声はとても小さく、混乱した気持ちにかき消された。
みるみる顔に笑みが広がったスタニスラフは、跳び上がらんばかりに喜んだ。千鶴を抱きしめ、さらに抱き上げると、スタニスラフはくるくる回りながら喜びの雄叫びを上げた。
そのあまりの喜びように、千鶴は自分が過ちを犯したと知った。スタニスラフは誤解をしている。これはまずいと思った千鶴に、スタニスラフの顔が迫って来る。
一緒に連れて行ってほしいとスタニスラフに頼んだのは、ここから逃げ出したいという意味だった。だがスタニスラフにとっては、千鶴が自分と一緒になる道を選んだという意味になる。
そのことに千鶴はようやく気がついたが、もはや手遅れだ。部屋から外へ出ようとして蜘蛛の巣に引っかかった蝶のごとく、スタニスラフの腕に絡め取られた千鶴は身動きができなかった。
うろたえ動揺しながらも、千鶴はスタニスラフを拒めなかった。自分の方から連れて行ってと頼んだのである。
こんなはずではと悔やみながら、ついに千鶴はスタニスラフに唇を奪われた。頭の中で進之丞に詫びながら、心だけは進さんのものだからと訴えて許しを請うた。
しかしスタニスラフと唇を重ねる自分を、心の中の進之丞に見せたくはない。千鶴は涙をこぼしながら進之丞に詫び続け、進之丞を心の奥深くに仕舞い込んだ。
頭の中は空っぽで、悲しげな進之丞の顔も浮かばない。ただ、スタニスラフに愛撫されるのを感じているだけで、喜びも悲しみもない。
かすかに心の奥で別の自分が泣き叫んでいた。千鶴はスタニスラフの腕の中で、その泣き声も進之丞と一緒に心の奥底へ押しやった。
七
スタニスラフはみんなに話がしたいと、知念和尚に告げた。千鶴はスタニスラフの後ろで下を向いている。
スタニスラフは興奮しているが、千鶴は後ろめたさと狼狽が隠せない。ずっと目を伏せがちで、スタニスラフに従う姿勢を取っていた。
知念和尚はスタニスラフに手紙が届いたのは知っていた。恐らくその話だと思ったようだが、千鶴が一緒なのが気になったらしい。これは何か重大事だと、すぐにみんなを呼び集めに行った。
集まって来た甚右衛門たちも、千鶴たちの様子を知念和尚から聞いたのだろう。みんな不安のいろを浮かべている。
一方で、和尚は忠之を境内へ連れ出すよう伝蔵に頼んでいた。スタニスラフが訪ねて来た時みたいに、ひょっこり忠之が顔を出してはまずいと判断したようだ。
全員が席に着くと、まずスタニスラフが母から手紙が届いた報告した。
アメリカへ行く日程を変えられないので、すぐに戻って来るようにという手紙の内容を聞かされると、スタニスラフはどうするつもりなのかと安子が訊ねた。
スタニスラフは手紙の指示どおりに神戸に戻ると言った。甚右衛門たちから不安のいろが消え、安堵の笑みが広がった。しかし、その笑みは続くスタニスラフの言葉によってすぐに消された。
「神戸ニヴァ、千鶴モ、一緒ニ、行キマズゥ」
スタニスラフの言葉に、場は騒然となった。
初めてスタニスラフが法生寺へ来た時に、スタニスラフは同じことを言ってみんなを怒らせた。その時に、自分は行かないと千鶴は断言した。だけど今はスタニスラフの隣で下を向いたまま黙っている。
「スタニスラフ、あんた、またそげな勝手なこと言うとるんね!」
頭に血が昇った幸子が叫ぶように言った。スタニスラフは涼しい顔で、千鶴ガ言イマシタと答えた。
幸子は千鶴に目を向けたが、千鶴は顔を上げられない。
異様な雰囲気が広がる中、ほうなんか――と知念和尚が穏やかに千鶴に訊ねた。千鶴は返答ができずにうろたえた。
「どがぁなんや?」
黙ったままの千鶴を、知念和尚は促した。
和尚の顔が見られない千鶴は、下を向いたまま小さくこくりとうなずいた。みんなはどよめき、どがぁなことぞ!――と甚右衛門が怒鳴り声を上げた。
トミも幸子も、黙ってないで説明せよと怒りを隠さない。和尚夫婦は何も言わないが、納得しているわけがない。
千鶴はおどおどしながら顔を上げた。怒りと不信、悲しみに満ちたみんなの目が、千鶴を刺すがごとくに向けられている。千鶴はどこを見ればいいかわからず、目を左右に泳がせながら蚊が鳴くような声を出した。
「うちは……」
顔は強張り、手も体も震え続けている。胸の中では心臓が破れそうなほど激しく動き、息が苦しい。吐きそうな気分だ。何でこうなってしまったのか。だけど、もう後戻りはできない。
千鶴はまた下を向くと、震える小声で言った。
「うちは……、スタニスラフさんと一緒に……行くことになりました」
「何じゃと! も、もういっぺん言うてみぃ!」
甚右衛門は興奮しながらうろたえている。千鶴はもう一度顔を上げると、祖父の顔を見ながら少し大きな声で繰り返した。
「うちは、スタニスラフさんと一緒に、神戸へ行くことになりました」
甚右衛門は口をぱくぱくさせたが言葉が出ない。驚くばかりの幸子とトミは、今にも泣きだしそうだ。和尚夫婦も口を半分開いたままの顔を、うろたえたように見交わした。
顔を紅潮させた甚右衛門が、やっと声を荒らげた。
「お、お前は行かんて言うたはずぞ。ほの言葉を違えるんは、なしてぞ? やっぱし、お前は……最初からほのつもりやったんか!」
千鶴は項垂れて首を横に振り、違いますと言った。
「うちはここで佐伯さんのお世話をするつもりでおりました。スタニスラフさんと一緒には行かんて言うたんは嘘やありません」
「じゃったら、なしてぞ? なして急に考えを変えたんぞ?」
「うちには佐伯さんのお世話ができんけんです。がんばってはみたけんど、これ以上はもう無理なんぞなもし」
それが忠之に心を奪われるという意味だと理解する者は一人もいない。千鶴は忠之と一緒にいる苦痛に耐えられなくなったのだと、誰もが受け止めただろう。だがそれにしても、千鶴の宣言はあまりにも唐突であり理不尽だった。
気を取り直した幸子が訝しげに言った。
「あんた、最前まで佐伯さんと話しよったばっかしやのに、あん時に何ぞあったんか?」
安子も理解しかねた顔で千鶴の返事を待っているが、千鶴は返事ができない。
「ひょっとして佐伯さんが怒りんさったんか?」
幸子は気遣うように訊ねたが、千鶴は首を横に振った。
じゃったらなして――と幸子は当惑した。千鶴が下を向いていると、安子が穏やかに千鶴に質した。
「あの子は千鶴ちゃんの話聞いて、何て言うたん? 怒りはせんにしても、何ぞ千鶴ちゃんを傷つけるようなこと言うたんか?」
千鶴はいいえと首を振り、少しだけ顔を上げて言った。
「佐伯さんはそがぁなことは何も言うとりません」
「じゃあ何て言うたん? 千鶴ちゃんから話聞いて、ずっと黙ったままやったんか?」
「もう自分で何でもでけるけん、世話してもらわんでも大丈夫じゃて言うてくんさりました」
「千鶴ちゃんは、今のあの子がその言葉どおりやて思たん?」
千鶴はまた項垂れて首を振った。甚右衛門たちは何かを言いたげにしていたが、安子が続けて訊ねた。
「千鶴ちゃんは、あの子にもう世話せんでも構んて言われて傷ついたんか?」
傷ついたのは忠之の方だ。千鶴を気遣ってくれただけなのに、その忠之に千鶴は声を荒らげたのだ。悲しげな忠之の顔を思い出し、千鶴は涙ぐんだ。
黙り続ける千鶴に、あんたな――と幸子が怒った声を張り上げた。
「佐伯さんが、なしてそがぁなこと言いんさったんかわからんのか? まだ支えがなかったら歩けんのやで? そがぁな体やのに世話はいらんて言いんさったんは、あんたがそがぁ言わせたんやないんか?」
千鶴は下を向いたまま、ぼろぼろ涙をこぼした。まったく母の言うとおりであり、返す言葉がなかった。
今度はトミが言った。
「さっき幸子から聞いたけんど、お前、あの子とこれまでのこといろいろ話したそうやな。あの子はほんまに怒らんかったんか?」
はい――と千鶴は小さな声で答えた。
「あの子のご両親が亡くなった話もしたんか?」
千鶴が声も出せずにうなずくと、トミはその時の忠之の様子を聞かせるよう求めた。
千鶴はすぐには話せなかった。それでも繰り返し求められると、佐伯さんは黙って泣いただけで少しも怒らなかったと話した。
「この二年のことはどがぁね? 何も覚えとらんこの二年を、あの子はどがぁ言うた?」
千鶴は目を伏せ、佐伯さんは少しも怒らず、逆にお世話を感謝されましたと言った。
トミは唇を震わせながら涙をこぼすと、お前は――と言った。
「お前はそがぁな優しい子を見捨てる言うんか……。お前を責めもせんで感謝までしてくれる……、そがぁな子をお前は見捨てるんか……。お前のせいで独りぼっちになってしもたあの子に……、お前はこがぁな仕打ちをするんか……」
千鶴は弁解したかった。でも、できなかった。進之丞の死を悼んでいるはずなのに、その心を忠之に奪われるとは言えなかった。
なのに、そんな自分がスタニスラフの嫁になろうとしている。いくら心は進之丞のものだといっても、これは大きな矛盾であり説得力の欠片もない。だが、もはや千鶴は自分では止まれなくなっていた。
知念和尚が千鶴に助け船を出すがごとく、話に割って入った。
「千鶴ちゃんはこれまでの話をあの子にしよるうちに、進之丞のことを改めて思い出したんじゃろ。ほれで、ほれがあんましつろうて耐えきれんなったんよ。ほうじゃろ? 違うかな?」
和尚の言葉は間違いではない。忠之に心を奪われまいと抗うのは、進之丞のことを忘れていないからだ。
千鶴は和尚にこくりとうなずいた。だけど、和尚が誤解しているのはわかっているし、みんなも納得なんかしない。
甚右衛門が横目でスタニスラフをにらみながら言った。
「やけんいうて、なしてこの男と一緒になるんぞ? 進之丞を思い出して、佐伯くんの傍におるんがつろなった。そこまではええ。ほれぎりじゃったら、まだ話はわからい。やが、やけんこの男と一緒に行くいうんは筋が通るまい?」
ほうよほうよと幸子も言った。なしてね?――とトミも疑問を投げかけ、和尚夫婦も答えを待っている。
千鶴はただ忠之から逃れたかっただけなのだ。だから、スタニスラフとこうなってしまったことに、千鶴自身が困惑してうろたえていた。そこをみんなから責められると、千鶴は泣くしかできなかった。
八
スタニスラフはみんなが何を問題にしているのかが理解できない。言葉もよくわからないし、そもそもの話の流れを知らないのだ。
とはいえ、千鶴がみんなから責められ続けるのが、スタニスラフは我慢ならなかったらしい。チヨトイイデズゥカァ――と不満げな声を上げた。
「千鶴ヴァ、僕ト、結婚シマズゥ。カレェヴァ、僕ト、千鶴ガ、決メルゥカトデズゥ。千鶴ヴァ、僕ト、一緒ニナルゥ、言イマシタ。ダカラァ、何モ、問題ナイネ」
スタニスラフのこの言葉は火に油を注いでしまった。
甚右衛門は真っ赤になって立ち上がり、何を抜かすか!――と怒鳴った。トミも興奮して、何も知らん異人が勝手なことを言うなと喚き、心配した幸子はトミを懸命になだめた。
スタニスラフは甚右衛門たちの怒りように驚いたが、自分が誤ったことを言ったとは思っていない。
千鶴はスタニスラフに、日本では子供の結婚を決めるのは親の役目で、自分たちだけでは勝手に決められないと説明した。納得できないスタニスラフは、それはおかしいと気色ばんだ。
甚右衛門は千鶴に顔を向けると、体を震わせながら言った。
「千鶴、お前はこがぁに失礼な男の嫁になる言うんか! 進之丞が死んでまだ四十九日も終わっとらんのに、その進之丞を忘れて、進之丞とは真逆のこがぁな礼儀知らずの男と一緒になるんか!」
トミも怒りを隠さない。落ち着かせようとする幸子を無視して千鶴を責めた。
「そもそも伯爵御夫妻の御前でこの男と結婚の約束交わしたいうんも、新聞の間違いなんぞやなかったんじゃな。進之丞はお前をかぼて死んだいうのに、お前はあん時からこの男に心変わりしよったんか! あれこれ偉そなこと言うておきながら、やっぱし普通の男がよかったいう話じゃろが。この恩知らずの浮気者!」
千鶴は首を横に振り、そうではないと言おうとした。しかし自分がやっていることは、こう責められても仕方がない。
スタニスラフは千鶴をかばいながら、シンノジョウとは誰かと、みんなの顔を見まわしながら訊ねた。
「知りたいんなら、千鶴に訊いたらよかろ!」
トミが吐き捨てるように言った。スタニスラフは困惑しながら千鶴に訊ねたが、千鶴には説明できなかった。話したところでスタニスラフには理解できないし、簡単に他人に喋ることではない。特にスタニスラフには何も話したくなかった。
千鶴が泣きだしても、甚右衛門たちは容赦しなかった。スタニスラフが何か言おうとしても、一切聞く耳を持たなかった。
幸子も涙を流しながら、千鶴を叱りつけた。
「千鶴、あんた、自分がやろとしよること、忠さんの前で言うとうみ。もう、あなたのことは忘れたけん、この人と一緒になりますて言うとうみや!」
母にまで厳しく責められて、千鶴は泣き崩れた。本当の気持ちなど誰にも言えないし、誰にもわかってもらえない。
今度は忠さんという名前が出て来たので、スタニスラフはさらに混乱したみたいだ。幸子はため息をつくと、スタニスラフに言った。
「佐伯さんやないで。さっきから言うとる進之丞や。進之丞はな、この子と夫婦になるはずじゃった、まっことええ子やったんよ。その子がな、つい一月前に亡くなったんよ」
「ナクゥナタ?」
「死んだんよ。この子護って、この子の代わりに死んだんよ。ほれでこの子もずっと泣きよったのに、手のひら返して、あんたと一緒に行く言うけん、みんなが怒りよるんよ」
初めて聞いた話にスタニスラフは驚いた。でも、自分と結婚すると千鶴が決めたのは、本当は進之丞を好きではなかったからだと、スタニスラフは言った。
誰も反論しなかった。いや、できなかった。事実、千鶴は進之丞を忘れて、スタニスラフの嫁になろうとしているのだ。千鶴ですら、スタニスラフの言葉を否定できなかった。
どこに千鶴の本心があったのか、甚右衛門たちにとっては明らかだ。何も知らずに千鶴に偽られ続けて命まで失った進之丞を、甚右衛門たちは哀れに思って涙を流している。
千鶴は居たたまれなくなり、おじいちゃん――と言った。
「うちは今の自分の気持ちを口にしました。ほやけど、うちの相手を決める権利はおじいちゃんにあります。おじいちゃんがスタニスラフさんと一緒に行くんは許さんと言いんさるなら、うちはほれに従います」
千鶴の言葉にスタニスラフは慌てた。しかし、千鶴は祖父の言葉に救いを求めていた。この結婚を止められるのは祖父だけだ。絶対に許さんと言ってほしかった。
千鶴の濡れた目に見つめられたまま、甚右衛門は返事をしない。下を向いたまま黙っている。千鶴の言葉が聞こえていなかったみたいだ。
おじいちゃん――千鶴が促すように声をかけると、甚右衛門は顔を上げた。目を真っ赤にした甚右衛門は、疲れ切って途方に暮れた表情だ。
「お前が自分の気持ちを言うたように、わしらも自分の気持ちを言うた。ほんでも、わしはお前に命令はできん」
千鶴は驚きうろたえた。祖父が引き留めてくれると思ったのに、何だかおかしい。祖母や母も妙な顔をしている。
「言うたように、わしはお前を法生寺におった娘の生まれ変わりとして、大切にすると誓た。そのお前がその男を選ぶと言うんなら、あきらめるしかなかろ。お前と進之丞が夫婦になっとったんならともかく、そがぁなる前にあの男は死んだけんな。お前があの男の喪に服する義務はない」
甚右衛門の言葉には、トミも幸子も驚いた。目を見開いて甚右衛門を見たが、甚右衛門は力なく話を続けた。
「ほんまじゃったら、あの男こそがお前の夫となるはずじゃったが、わしが死なせてしもたけんな。そがぁなわしにとやかく言う権利はない。お前の好きにしたらええ」
喋り終えた甚右衛門はこらえきれずに泣いた。進之丞の無念を想い、進之丞に詫びながら泣いているに違いない。
「おじいちゃん……」
呆然とする千鶴の横で、甚右衛門の最後の言葉だけがわかったスタニスラフは大喜びした。みんなの前で千鶴を抱きしめ、その頬に口づけをした。
千鶴は人形みたいにスタニスラフに抱かれたまま、祖父を見つめていた。もう自分を止めてくれるものはなくなったと、千鶴の目から涙がこぼれた。みんなはそれを感激の涙と見たようだ。
トミも幸子も悲しげにしていたが、甚右衛門が認めた以上は何も言えない。知念和尚と安子も黙ったまま涙ぐんでいる。
和尚夫婦にとっては、忠之も進之丞も我が子と同じだ。その二人ともが千鶴から見捨てられようとしている。和尚夫婦が悲しまないわけがなかった。
トミは悔しげな顔で、二人の仲を認めはするが祝福はしないと言った。それが精いっぱいの言葉だった。
憔悴しきったトミは、立ち上がろうとしてふらりと倒れそうになった。幸子が慌てて体を支えて別の部屋へ連れて行き、甚右衛門も心配そうについて行った。けれど、千鶴はそこへ加われなかった。
スタニスラフが来て以来、千鶴と家族の間はぎくしゃくしていたが、まだその関係は途絶えてはいなかった。和尚夫婦も何とか千鶴の気持ちをわかろうとしてくれていた。
だけど、今度ばかりは家族との関係が完全に途絶えてしまったようだ。和尚夫婦との間にも、見えない壁ができたみたいだ。
千鶴は本当の孤独になった。これまで千鶴は一人で悲しみを背負っている気分でいた。だが、そうではなかったのだと思い知らされていた。
進之丞との想い出や、進之丞を失った悲しみを、本当は家族や和尚夫婦と分かち合っていたのである。なのにそのことを知ろうとせず、自分の気持ちばかりに目を向けていたため、そのすべてを失う羽目になってしまった。それどころか、進之丞の姿を思い浮かべることすらできなくなった。
進之丞への想いを守ると言いながら、進之丞を裏切ってスタニスラフの嫁になるのだ。心の中の進之丞に合わせる顔などないし、もう自分の苦しみも聞いてもらえない。今のこの絶望的な状況のこともである。
まさに千鶴は独りぼっちだった。唯一千鶴の相手ができるのは、千鶴の心を知ることができないスタニスラフだけだ。
みんながいなくなったので、スタニスラフは千鶴を抱きしめて唇を求めた。
千鶴はスタニスラフを押しのけると、背を向けて泣いた。