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異変


      一

 スタニスラフは喜びいっぱいの顔でずっと上機嫌だ。
 一方の千鶴ちづは暗く打ち沈んでいた。心にあるのは後悔だけだ。
 本意ではないスタニスラフとの結婚が認められ、家族は千鶴に背を向けたままだ。和尚夫婦も前みたいには声をかけてくれない。
 これが望まれた結婚であるなら、これから先への期待や不安について、みんなであれこれ語り合っていただろう。進之丞しんのじょう夫婦めおとになると決まった時には、家族五人で尽きることなく話し込んだ。けれど、今の千鶴にはそんな相手はいなかった。
 だが、それは当たり前だ。進之丞が初めて家族として認められ、みんなで話し合ったあの想い出の日は、ほんの一月ひとつきほど前だ。しかも進之丞は千鶴をかばって死んだのだ。なのに、こうしてスタニスラフと結婚するなど正気の沙汰ではない。
 そもそも千鶴自身、スタニスラフと結婚するつもりなどなかった。忠之ただゆきから逃げようとしてこうなっただけだ。
 であれば、そう言えばいいのにできなかった。
 今の状況を招いたのは自分の愚かさだと、千鶴は自覚していた。自ら神戸へ行くことを望み、その結果、スタニスラフに唇を許したのだ。すべては自分の責任だという気持ちと、もう取り返しがつかないという想いがのしかかり、千鶴をスタニスラフに従わせていた。

 伝蔵に外へ連れ出されていた忠之が戻って来た。
 忠之は中の暗い雰囲気にまどっていたが、千鶴に気づいて顔を向けた。千鶴の隣にはスタニスラフがいて、勝ち誇った顔で忠之を見ながら千鶴の肩を抱いている。千鶴はうろたえて忠之から目をらしたが、スタニスラフの手を払いのけはしなかった。それで何があったのか、忠之は悟ったに違いない。
 忠之は何も言わず、千鶴たちから離れて行った。その背中を見ながら千鶴は泣いた。
 スタニスラフに気があるわけではないと、千鶴は忠之に伝えた。スタニスラフに言及した忠之に声を荒らげもした。なのに、その舌の根も乾かぬうちにスタニスラフとの婚姻を決めたのだ。自分が心を寄せた女が、どれほどい加減で恥知らずなのかを、忠之は知っただろう。
 千鶴はせめて忠之には本当の気持ちを伝え、深く傷つけたことをびたかった。だけどいまさらであり、話したところで信じてもらえるはずがない。
 それに千鶴は忠之の世話から外されたので、忠之に話しかける機会もない。
 それを決めたのはさちだが、甚右衛門じんえもんたちも和尚夫婦も反対はしなかった。忠之の世話は幸子がやり、忠之の話し相手も幸子や甚右衛門たちがすることになった。忠之から逃れたいと思った千鶴は、忠之に近づくことすらできなくなった。

 遅くなった昼食が用意された。
 これまではみんなが一所に集まって食事をしていたが、千鶴とスタニスラフの箱膳はこぜんはみんなとは別の部屋に運ばれた。これも幸子の指示によるものだ。スタニスラフを目の前にしては食事も喉を通らないし、トミがまた倒れる恐れがあるというのが理由だ。だけど、千鶴たちを忠之に近づかせないというのが本音だろう。
 母の言い分はもっともだと思いつつも、千鶴は疎外感に落ち込んだ。しかし、スタニスラフは千鶴と二人きりになれるのでかえって喜んだ。
 部屋を仕切るふすまは開け広げてあるので、甚右衛門たちが食事をする様子は、千鶴たちの所から見える。だから向こうからもこちらが見えているが、誰も千鶴たちに目を向けない。千鶴やスタニスラフなど存在していないかのようだ。
 ただ忠之だけが、時折千鶴に心配そうな顔を向けた。千鶴はスタニスラフと一緒になるのだと、誰かから聞かされたのだろう。
 恥じ入っている千鶴は、忠之と目が合うたびに慌てて下を向いた。あまりの情けなさと気まずさで、とてもお詫びをするどころではない。 
 千鶴が黙ったまましょんぼりしていても、スタニスラフは自分の夢を得意げに語るばかりで、少しも千鶴の気持ちを推し量ろうとしない。千鶴の方から一緒に行きたいと言ったからだろうが、自分が楽しければ千鶴も楽しくなると思い込んでいるようだ。
 スタニスラフの夢というのは、アメリカで商売をして金儲かねもうけをすることだ。具体的にどんな商売をするかはまだ決めていないが、とにかくお金をたくさん稼いで贅沢ぜいたくな暮らしをするというのが夢らしい。しかし、千鶴には口先だけにしか聞こえなかったし、どうでもよかった。
 前に忠之の世話を抜け出してしゃべった時は、スタニスラフの話は面白かった。今はどんな話を聞かされても、一つも胸が弾まない。
 スタニスラフに安らぎを覚えたのは、忠之と一緒にいて気が滅入めいっていたからだし、今はスタニスラフの性格に嫌気が差している。スタニスラフの話なんかちっとも楽しくない。
 そのスタニスラフと結婚するなんて、己の道から逃げた天罰に違いない。この先の暮らしを思うと絶望しかないが、もはやどうにもならない。頭の中は、どうしてこうなってしまったのかと悔やむ想いばかりだ。
 こうに戻るとスタニスラフが言った時、思わず一緒に行くと言ったのが失敗だった。冷静になって考えれば、忠之から離れる先は土佐とさでもよかったのだ。
 また、あの時の気持ちの混乱が落ち着けば、改めて忠之と話をして、本当の想いを伝えられたかもしれなかった。そもそも何故佐伯さんから逃げねばならなかったのと、千鶴は自分が取った思いがけない行動を嘆いた。
 どうしてあの時にあそこにスタニスラフがいたのか。どうしてあそこでスタニスラフが叫び声を上げたのか。どうしてあの日にエレーナからの手紙が届いたのか。
 悔やむ心はこうなってしまった原因を探そうとするが、いくら考え悔やんだところでもう遅い。みんなの前でスタニスラフと一緒に行くと宣言し、無理やり了承させてしまったのだ。あの時に、みんなに本当の気持ちを伝えていればと思ってもどうしようもない。

ヅゥ、ドゥシマシタカ?」
 ぼんやりしている千鶴に、スタニスラフが声をかけた。千鶴が顔を向けると、スタニスラフはにっこりと微笑んだ。
 スタニスラフはいつも自分中心で人の気持ちがわからないが、千鶴に優しいのも事実である。後悔しかない今、スタニスラフの優しさだけがせめてもの救いだろう。どうにもできない以上、そう考えるしかない。
 とはいえ、家族との間に大きな溝ができたのはつらかった。家族の誰かが慰め励ましてくれたなら、あきらめて前を向いて歩く気持ちになれるかもしれないが無理な話だ。
 家族は誰も千鶴とスタニスラフの結婚を受け入れてはいない。祖父が好きにしろと言ったので、渋々二人の仲を認めただけだ。本音は誰一人今回のことをよしとはしていない。
 和尚夫婦も怒りこそしないが、不満と悲しみのいろは隠せない。これまで散々世話になり、力になってくれた二人をそんな気持ちにさせたのは、恩知らずの恥知らず以外の何物でもなかった。

 スタニスラフがかわやへ行った。その隙に、忠之がふらつきながらやって来た。誰も千鶴を祝福しないので、励ましに来てくれたのだ。
「千鶴さん、おめでとう」
 千鶴が自分に見せた言動には触れないまま、忠之はにこにこしながら千鶴を祝福してくれた。自分が逃げようとした忠之だけが、祝福に来てくれたのは皮肉なことだ。
 千鶴は返事もできずに下を向いた。このまま小さくなって消えてしまいたかった。
「……ごめんなさい」
 千鶴は下を向いたまま忠之にびた。忠之を傷つけたことを謝る言葉だったが、スタニスラフと一緒になるのは自分の本意ではないと、忠之に気づいてもらいたかった。
「何も謝らいでええよ。おら、千鶴さんが幸せになってくれるんなら、何も言うことないけん」
 顔を上げた千鶴の前に、忠之の優しい笑顔があった。千鶴は泣きそうになりながら忠之に訴えた。
えきさん、うち、ほんまは行きとないんです。神戸になんぞ行きとないんです。うち、佐伯さんのお世話がしたいんです。これからもずっと佐伯さんのお世話がしたいんです」
 それは死ぬまで忠之の世話を続けたいという意味だ。忠之は微笑んだまま、ええんよと言った。
「言うたろ? おら、一人で何でもできるけん、心配せいでもかまんぞな」
「そげな意味やないんです。うち、ほんまは佐伯さんのねきにおりたいんです。ずっとずっと一緒におりたいんです」
 千鶴は忠之に本当の気持ちを聞かせてもらいたかった。もし一言でもそばにいてほしいと言ってくれたなら、そうするつもりだった。けれど、忠之は言ってくれなかった。
 忠之は少し戸惑いを見せたが、すぐに笑顔になった。
「ありがとう。おら、今の千鶴さんの言葉、ずっと大事にするけんな」
 スタニスラフに一緒に連れて行ってと頼んだのは千鶴である。その話は忠之の耳にも入っているはずだ。だから、忠之は千鶴の言葉を本気には受け取らず、千鶴が声を荒らげてしまったことを詫びているだけだと思ったに違いない。
 千鶴がはっきり想いを伝えようとした時、スタニスラフが戻って来た。忠之はもう一度千鶴に笑顔を見せると、じゃあなと言ってその場を離れた。
 スタニスラフは戻って行く忠之をにらむと、腹立たしげに千鶴の隣に座った。
「アナヒタヴァ、何シニ、来マシタカ?」
 ただすスタニスラフに千鶴は顔を向けないまま、祝福をしに来てくれただけと言った。うそはついていないが、スタニスラフは信じる気がない。
ヅゥヴァ、ボクゥト、コンシマズゥ。ダカラァ、モウ、アナヒタト、喋ルゥ。ダメネ」
 スタニスラフは命令口調で言った。そこに千鶴への優しさはじんも見られなかった。

      二

 千鶴がここを離れるのであれば、忠之が独り立ちできるまで、自分たちが千鶴に代わって世話をすると、甚右衛門たちは和尚夫婦に申し出た。しかし、ねん和尚は丁重にその申し出を断った。
 忠之は自分たちの子供として、やすと二人で面倒を見るから心配はいらないと和尚は言った。本音はこれ以上忠之を悲しませたくないのだ。
 甚右衛門たちは当初の予定どおりに、土佐とさの親戚の元へ行くことになった。甚右衛門はその親戚に宛てた手紙を新たに書くと、ふもとにある郵便箱に出してもらうよう伝蔵でんぞうに頼んだ。出発は明日だ。
 手紙を受け取った伝蔵の懐に ふところ は、もう一通の手紙があった。スタニスラフがこうの家族に宛てた手紙だ。そこには千鶴との結婚が決まり、二人で神戸に戻ると書いてある。
 スタニスラフはすぐにでも千鶴を神戸へ連れ帰りたがっていた。千鶴は自分の家族が土佐へつまでは、絶対にここを離れないと言い張った。
 今生こんじょうの別れとなるであろう家族を、千鶴はきちんと見送りたかった。また、スタニスラフたちがアメリカへ出発する日に、間に合わなくなればという想いもあった。
 千鶴が風寄かぜよせを離れるのをスタニスラフが待てなければ、二人の結婚もなくなると千鶴は期待した。だが、スタニスラフはまだ数日の余裕はあると言った。
 祖父たちが土佐行きを延ばしてくれればと思っても、三人とも早くここを立ち去りたいみたいだ。
 千鶴はもう少しだけここに残ってほしいとお願いしたかった。しかし、そんなことを頼める雰囲気ではないし、家族の方から千鶴に声をかけてくれることもなかった。みんな千鶴とスタニスラフに対して、勝手に好きなようにすればいいという態度だ。
 和尚夫婦も千鶴たちの予定を確かめはしたが、他の話はしなかった。腹を立てている感じではないが、千鶴と共有できる話がない。
 それに千鶴にはスタニスラフが張りついていて、千鶴に近づく者を監視していた。そのため和尚夫婦ですら千鶴に近づきにくいし、ゆっくり話なんかできる感じではない。忠之に至っては、千鶴に顔を向けることすらスタニスラフは許さなかった。
 まるで牢獄ろうごくに監禁されているみたいだが、そんなスタニスラフを千鶴が選んだと思われているので、誰も助けようとしてくれない。忠之にしても千鶴を心配しているかもしれないが、千鶴が望んだことに口は挟めない。
 祖父たちは和尚夫婦や伝蔵に世話になった礼を述べ、土佐の話をしたり、忠之とのごりを惜しんだりした。千鶴はまったくの蚊帳かやの外で、みんながしゃべっているのを離れた所で聞くばかりだ。
 千鶴は頭の中でみんなの所へ駆け寄って、もう結婚はやめたから自分も土佐へ連れて行ってと叫んでいた。あるいは、和尚夫婦と忠之に本当の気持ちを伝え、ずっと佐伯さんのそばにいたいと必死に訴えていた。
 すべては想像だ。現実ではスタニスラフから離れられず、ただみんなの話を聞きながら、その様子を見守るだけだ。
 そんな千鶴を慰めるつもりなのか、スタニスラフは千鶴を他の場所へいざなって、そこで千鶴を抱きしめ口づけをした。
 これが自分が選んだ道であり、愚かな自分への罰なのだと、千鶴はあきらめてスタニスラフに身をゆだねた。絶望で心はしており、ただの人形になった気分だ。
 初めてスタニスラフに唇を許した時に、千鶴は進之丞を心の奥深くに押し込めた。以来、進之丞は心の中に顔を出してない。
 以前は進之丞が死んだあとも、進之丞を身近に感じていた。今は進之丞を感じない。ほんの一月ひとつき前まで進之丞はいたのに、今では進之丞がいたという事実すら、頭から抜け落ちているようだ。

 夕食の前に、甚右衛門ははるの家に挨拶を兼ねて電話を借りに行った。土佐へ向かう前に松山まつやまへ立ち寄り、世話になった組合長に顔を見せることになっている。それについての連絡だ。
 ところが甚右衛門が春子の家を訪ねると、修造しゅうぞうたちは千鶴がスタニスラフと結婚するという話をすでに知っていた。
 どうやら手紙を出しに行った伝蔵が、出会った村人に千鶴たちの話を喋ったらしい。そのうわさは瞬く間に村中に広がり、修造たちの所にも伝わったようだ。
 訪ねて来た甚右衛門に、修造がどんな顔で話をしたのかは定かでない。本来ならば祝福の言葉をかけるところだが、甚右衛門は千鶴とスタニスラフを一緒にはさせないと明言していた。不機嫌そうな顔もしていただろうから、恐らく修造は困惑したに違いない。

 電話を終えて法生寺ほうしょうじに戻った甚右衛門は、千鶴を呼んだ。ずっと声をかけてもらえなかったので、千鶴は緊張しながら祖父の元へ行った。祖父の傍には、祖母と母、そして和尚夫婦がいた。
 千鶴の後ろには、呼ばれもしないのにスタニスラフがついて来ていた。甚右衛門はスタニスラフを無視して、千鶴に電話の内容を伝えた。組合長が二人の祝言しゅうげんを挙げさせてくれるという話だ。
 甚右衛門は初めは組合長の申し出を断った。しかし、千鶴がアメリカへ行ってしまうと二度と会えなくなるのだから、絶対に祝言を挙げさせた方がいいと、組合長は強く主張したという。それで仕方なく申し出を受けたと甚右衛門はうそぶいた。
 幸子と辰蔵たつぞうが着るはずだった婚礼衣装も、組合長に預けたままになっていた。それを二人に合わせて仕立て直せば手間もいらないらしいと、甚右衛門は他人事みたいに喋った。
 だが組合長が何を言ったところで、甚右衛門が拒めばそれまでの話だ。そうしなかったのは、甚右衛門自身が千鶴たちを祝福すると決めたからだ。 
 信じられない想いの千鶴は祖父の手を握ると、ありがとうございます――と泣きながら何度も感謝した。甚右衛門も、幸せになるんぞと涙ぐんだ。
 先日、組合長は訪ねて来た時に、預かっていた忠七の給金と最後の集金を、甚右衛門に渡していた。その最後の集金を婚礼祝いとして千鶴に持たせると甚右衛門は言った。
 それは千鶴と進之丞の婚礼祝いになるはずだったものだ。しかし、祖父に祝ってもらったことで気持ちが舞い上がっていた千鶴は、祝儀をもらえる話を素直に喜んだ。
 甚右衛門が千鶴たちに祝言を挙げさせると決めたので、渋々ながらではあるが、トミも幸子も千鶴を祝福してくれた。
 和尚夫婦も割り切った表情で、千鶴におめでとうと言ってくれた。
 千鶴はようやく新たな一歩を踏み出せた気分になった。いろいろありはしたけれど、これでよかったのだという気持ちになれた。
 後ろにいたスタニスラフに千鶴が涙の笑顔で話を伝えると、スタニスラフは大喜びをして甚右衛門に両手を合わせた。それから千鶴を抱きしめ、甚右衛門の前なのも忘れて千鶴に口づけをした。千鶴もそれを拒まなかった。
 千鶴の胸の中は、あんと喜びでいっぱいだ。進之丞の顔が浮かぶこともなく、気持ちはすでにスタニスラフの妻だった。
 はしゃぐ声が聞こえたからか、忠之が伝蔵に付き添われながら近くへやって来た。スタニスラフは忠之をにらまずに、勝ち誇った笑みを見せた。
 一方、千鶴はというと、不思議なことに忠之を見てもうろたえなかった。少し照れ臭い気持ちはあったが、後ろめたさはなかった。
 千鶴が忠之にかれたのは、忠之の人柄があまりにも進之丞に似ていたからだ。ところが千鶴は完全に進之丞の存在を忘れていた。そのため進之丞と同じ姿の忠之を見ても、これまでみたいに心は騒がなかった。
 進之丞のことを忘れているので、忠之にこれまでの経緯いきさつを語った記憶もない。だから、忠之が優しい人なのはわかっていても、それがどんな優しさなのかは千鶴の頭からすっかり消えていた。
 今の千鶴にとって、忠之は山﨑機織やまさききしょくの元使用人という認識しかなかった。忠之がおおをしたことや、和尚夫婦が忠之の親代わりなのはわかっていた。でも、わかっているのはそれだけだ。
 ただ、忠之には何か心惹かれるところはあった。特に親しくした覚えはないが、げっそり痩せている弱々しげな姿が、そう思わせているのかもしれなかった。
 千鶴は自分たちがここにいる理由も忘れていた。山﨑機織が潰れたのは知っているが、その後どういう事情でほう正寺しょうじの世話になったのかは定かでない。
 店が潰れた理由も知らないし、じょはん学校へ通っていたはずが、どうして教師をしていないのかもわからない。
 いろいろ記憶が曖昧あいまいで、妙な感じではあった。はっきりしているのは、家族が猛反対していたスタニスラフとの結婚が祝福されたことだ。特にうとまれていたはずの祖父母が結婚を認めて祝福してくれたのは、信じられないし本当にうれしいことだった。
 確かにスタニスラフは少し強引なところはあるが、とても優しい人だ。
 ひさまつはくしゃく夫妻に招かれたばんすいそうで一緒に食事をして踊ったのは、本当に幸せなひとときだった。それもスタニスラフが傍にいてくれたからだ。そのスタニスラフがアメリカへの出発が迫っているにもかかわらず、心配してわざわざ神戸から迎えに来てくれた。本当であれば、とっくに縁が切れていたのだ。
 スタニスラフと結婚すれば、外国へ行くことになる。それで反対されていたのに祝言を挙げてもらえるのだ。やはり家族に祝福されるのが一番だ。ロシア兵の娘として肩身の狭い想いばかりしてきた自分に、こんな幸せが用意されていたなんて信じられない。
 母やせっかく自分を受け入れてくれた祖父母と離れるのは寂しいが、ずっと離れていた父と暮らせるのは楽しみだ。まだ顔も知らないスタニスラフの母に会えるのも待ち遠しい。
 もちろん外国であるアメリカに対しては、少なからず不安がある。だけど、父もスタニスラフもいるから心配はいらないだろう。

 千鶴は明らかに異常といえる事態にあった。しかし、千鶴は少しも違和感を覚えていなかった。家族や和尚夫婦にしても、はしゃぐ千鶴の姿を見て、やはりこれが千鶴の本音かと思ったみたいで、誰も千鶴の異常に気づいていなかった。

      三

 夕食後、千鶴とスタニスラフは家族の目を逃れ、本堂ほんどうの楠の くすのき 陰で唇を重ね合っていた。だが何故か千鶴は急に悲しくなって、スタニスラフから離れた。
 何かがおかしい。何かが違う。そう感じるのに、それが何なのかはわからない。
 スタニスラフとの結婚が喜びであっても、新しい暮らしへの不安がないわけではない。きっとその気持ちが出て来たのだと思ったが、どうにも気持ちが落ち着かない。
 境内けいだいは夕闇に包まれているが、まだ辺りの様子はうかがえる。掃除をし残したのか、千鶴の足下に一本の短い小枝が落ちていた。何気なくしゃがんで手を伸ばすと、不意に小さな手が横から伸びて来て、千鶴の手に重なった。
 え?――と思って横を見たが、そこには誰もいないし、伸びて来た手も消えていた。ただ一瞬だけ千鶴を見上げた男の子の顔が見えた。
 その男の子に見覚えはない。いや、見覚えがあるような気もしたが、一瞬なのでよくわからない。それでも男の子の姿は目に残っている。お芝居に出て来る昔のお侍みたいな格好で、まげった頭には前髪が残っていた。
 千鶴が驚いて立ち上がると、スタニスラフが再び千鶴を抱こうとした。
 ――千鶴。
 千鶴に呼びかける子供の声が聞こえた。そちらへ顔を向けると、さっきの男の子が微笑んで立っていた。手には一輪の野菊の花を持っている。
 自分はこの子を知っている。だけど、名前を思い出せない。
 頭の中で、表に出て来られない何かが渦巻いている。忘れてはいるが何かとても大切なことで、それがもう少しで姿を見せようとしている。何だかわからないが、胸が締めつけられて、涙が勝手にあふれ出る。何? この子は誰?
 スタニスラフが千鶴の顔を自分の方に向け、顔を近づけて来た。千鶴が顔をそむけると、まだ扉を閉めていない本堂が目に入った。そこには誰もいないが、千鶴には誰かがそこに立って祈っている姿が見えた。その誰かが祈っているのは、千鶴の幸せだった。
 ――あれは誰? なしてうちの幸せを祈ってくれとるん?
 理由わけがわからないまま、胸の奥から悲しみが込み上げてくる。心の中でもう一人の自分が泣き叫んでいるみたいだ。
 スタニスラフはもう一度千鶴の顔を自分に向けると、強引に唇を奪った。そんな気分ではなくなっていたが、千鶴はスタニスラフにあらがえない。そのまま唇を重ね合っていると、頭の中で誰かがつぶやく声が聞こえた。
 ――おらはこの人と一緒におれて幸せぞな。この人ががんごであろうとなかろうと、そげなことは関係ない。たとえ死んでも、この人とのつながりはずっと残るんよ。ほじゃけん何があっても、おら安心しよるぞな。
 千鶴は、はっとなった。今のは天邪鬼あまのじゃくに対して放った自身の言葉だ。
 うろたえた千鶴は、押しのけるようにしてスタニスラフから体を離した。スタニスラフはげんそうに、どうしたのかと言った。千鶴は答えられなかった。
 今の自分の状況が理解できず、千鶴は混乱していた。
 どうして忘れていたのだろう。悲しくつらい城山での出来事を、どうしたって頭から消えなかったあの時のことを、どうして忘れていたのか。
 千鶴は自分が進之丞のことすら忘れていたのに気がついた。
 たとえ死んでも進之丞とのつながりはずっと残ると、自分は天邪鬼に言い切ったのだ。なのに実際はどうなのか。
 スタニスラフとの祝言しゅうげんや、父やスタニスラフとの新しい暮らしばかりに夢中になり、大切な進之丞のことは思い出しすらしなかったのだ。本当であれば、今頃自分は進之丞の嫁になり、風寄かぜよせで暮らしていたのにである。これではまるで誰かに進之丞の記憶を奪われたみたいだ。
 スタニスラフはもう一度千鶴を抱こうとした。千鶴はスタニスラフから逃れて背中を向けた。
 天邪鬼に対してあれだけの見得みえを切ったのだ。進之丞も自分と縁があったことを、心の底から幸せに思っていると言ってくれた。それなのに――。
 いぶかしがるスタニスラフに、少し一人にしてと言って、千鶴はスタニスラフを無理やりどこかへ行かせた。
 スタニスラフがいなくなったのを見届けると、千鶴は楠爺くすじいを抱いた。楠爺は物は言わないが、前世から見守り続けてくれている、千鶴の大切な知り合いだ。こうして楠爺を抱いていると、千鶴は気持ちが安らいだ。その安らぎは千鶴を前世へと導いてくれる。
 ここで初めて進之丞と出い、進之丞と数え切れないほど遊んだ。嫁になってもらいたいと進之丞にわれたのもここなのだ。
 そのあと突然鬼に襲われ、進之丞は千鶴の身代わりに鬼となった。そして攘夷じょうい侍たちから千鶴を護って死んだ。
 その進之丞と風寄で奇跡的に再会し、二年の間ともに暮らした。とても幸せな時だった。しかし、天邪鬼が二人の仲を引き裂こうとした。
 鬼にへんした進之丞は天邪鬼と対決し、これを討ち果たしたあと、祖父が撃った猟銃から千鶴をかばい、鬼とともにここで死んだ。ほんの一月ひとつきほど前のことだ。
 どうしてそれを忘れてしまったのか。ひんの鬼に自分に取りくよう懇願したが、鬼はそうはしなかった。鬼は千鶴の幸せだけを考えてくれていた。その鬼をどうすれば忘れられるのか。
 楠爺を抱きながら千鶴は泣いた。自分が情けなくて泣いた。進之丞と鬼にびながら泣き続けた。

      四

 以前は千鶴は忠之の隣に布団を敷いてもらっていた。でも今晩から幸子が忠之のそばに寝て、千鶴は別の部屋で一人で寝ることになった。それはスタニスラフを大いに刺激した。
 みんながとこいたあと、スタニスラフは千鶴が寝ている部屋へ忍び込んで来た。二人が結婚するのは決まっているので、別に構わないと思ったのだろう。恐らく千鶴もそれを望んでいるか、少なくとも拒みはしないと考えたに違いない。
 一方、千鶴は大切な進之丞を忘れていたことで、深く落ち込んでいた。布団に入ってもなかなか眠れず、自分をずっと責めながら進之丞にび続けていた。
 そうして、もう一度しんさんにいたいと願いながら、いつの間にかうとうとし始めたところを、突然何者かに起こされたのである。
 布団に侵入して来た埒者らちものに体をまさぐられ、上にのし掛かられた千鶴は、大声で悲鳴を上げた。慌てふためいた相手は千鶴の口を手でふさぎ、ボクゥデズゥ――と潜めた声で千鶴に呼びかけた。
 千鶴は口をふさいだ手にみつき、この不埒者を布団の外へり出した。それから急いで体を起こすと着物の乱れを直しながら、闇に向かって怒鳴りつけた。
「あんた、いったい何考えとるんね! まだ祝言しゅうげんも挙げとらんのに何しよるんよ! この恥知らず! 獣! けだもん 
「チヨト、待テクゥダサイ。アコラナイデ」
「うるさい! 出てけ!」
 千鶴が投げつけた枕が当たったらしい。スタニスラフは小さくうめくと、そそくさと部屋を出て行った。
 部屋の外で別の声が聞こえた。母や和尚たちが騒ぎを聞いて起きて来たようだ。スタニスラフが何か言い訳をしていたが、みんなからきつくしかられた。
 少しすると幸子がふすま越しに千鶴に声をかけた。大丈夫かと聞かれたので大丈夫だと答えると、幸子は襖を開けずにそのまま行ってしまった。
 本当は大丈夫ではなかった。体がどうにかなったわけではないが、千鶴は怒りが収まらなかった。
 千鶴は進之丞の夢を見ていた。それを途中で起こされたのだ。怒りが収まるはずがない。
 しかも、ここは進之丞と鬼が死んだ場所だ。本当ならば口づけさえ許されないのに、体を求めるなどとんでもないことだ。
 スタニスラフがいなくなっても興奮冷めやらぬ千鶴は、進之丞に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。あんな男と結婚する自分が情けなくて死にたかった。
 だけど今日の自分は進之丞を忘れ、スタニスラフとの結婚を喜び、みんなから隠れておうを楽しんだのだ。今も進之丞を忘れたままでいたなら、きっとスタニスラフの求めに応じていたに違いない。
 進之丞と鬼が死んだこの場所で、スタニスラフと抱き合う自分を思い浮かべると、千鶴は大声で叫びたくなった。
 涙ぐみうろたえながら、どうしてこんなことになったのかと千鶴は考えた。そして、これは天罰だと受け止めた。

 そもそもはスタニスラフに甘えたのが間違いの元だった。
 みんながにらむ中、千鶴はスタニスラフをここへ残らせた。そして、忠之の世話を離れてスタニスラフの元へ行った。そうして進之丞を思い出す悲しみから逃げていたのだが、考えてみれば、それは進之丞を記憶から消そうとしていたのと同じなのだ。
 忠之の世話をするのは、直接お詫びができない進之丞に代わっての罪滅ぼしだ。それを放棄したのは、進之丞の想いを捨てたことになる。
 スタニスラフが来てから、進之丞と鬼が死んだ場所での祈りもしていない。どんなに言い訳をしたところで、祈りよりもスタニスラフを尊重したのは事実だ。本当に祈りを大切に思うなら、スタニスラフをこうへ追い返せばよかったのだ。
 忠之に心を奪われそうになって、スタニスラフに助けを求めた時、確かに動揺はしていた。しかし、本当にスタニスラフを嫌だと思っていたら、助けを求めたりはしなかっただろう。一緒に連れて行ってと願った背景には、ばんすいそうでスタニスラフに感じた想いが心のどこかに残っていたのかもしれない。
 スタニスラフが法正寺ほうしょうじに残るのを望んだのも、恐らくあの時の陶酔感とうすいかんが忘れられなかったからだ。実際、進之丞を忘れた千鶴は、萬翠荘での体験を至福の喜びと受け止めていた。
 でも萬翠荘でスタニスラフと二人で踊っていた時、進之丞は陰からその姿を眺めて泣いていたのだ。なのにスタニスラフに傍にいてほしいと願うなんて、とんだ恥知らずだ。 
 スタニスラフに唇を求められた時だって、進之丞が生きていたなら絶対に拒んでいたはずだ。それを拒まずに進之丞を心の奥へ押し込めたのは、明らかに進之丞への裏切りだ。
 結局は我が身が可愛かっただけであり、つらさや責任から逃れようとして、何より大切なはずの進之丞を二の次にしていたのだ。
 不動明王は地獄から千鶴を救おうとした進之丞の想いにこたえて、進之丞を忠之の体に宿らせた。
 進之丞は与えられた命を使い、千鶴の幸せだけを考えて生きてきた。そして千鶴を護って死んだのに、千鶴は進之丞を忘れて己のことばかり考える道を選んだのだ。
 だから不動明王がお怒りになり、進之丞の記憶を奪ったのだろう。それほど進之丞より自分を大事に思うのならば、願いどおりにしてやろうというわけだ。
 だけど、スタニスラフとの暮らしに幸せがあるとは思えない。相手のことなど考えず、自分の気持ちだけで動くスタニスラフと一緒になったところで、幸せになんかなれるわけがない。優しいように見えても、スタニスラフにとって千鶴はただのかごの鳥だ。だから常に息が詰まるほどに監視しているし、他の者が千鶴を籠から出すのを許さないのだ。
 心のおもむくままに生きればそこに幸せが待っていると、進之丞は言った。きっと進之丞は、千鶴が忠之に心がかれるとわかっていたに違いない。それで忠之に千鶴の幸せを託すつもりだったのだ。
 己の心に従って忠之を選んでいたなら、進之丞を忘れたりはしなかった。忠之も進之丞を受け入れてくれていたはずなのだ。
 なのに進之丞を忘れてスタニスラフとの結婚を喜ぶ自分は、何もわからない愚かな生きた屍だ しかばね と千鶴は思った。本当は死んでいるのに、生きているつもりの屍だ。
 進之丞の存在を忘れるのは、進之丞を消し去ることであり、進之丞の命を奪うのと変わらない。それは前世で鬼に魅入られた時の自分であり、今世で進之丞を殺すよう暗示をかけられた自分と同じだ。これを天罰と言わずして、何と言えるだろう。
 これまでの己をかえりみた千鶴は、うなれるしかできなかった。言い訳をするならいくらでもできた。けれど、どんなに言い訳をしたところで意味がないのは、今の自分を見ればわかる。
 千鶴はスタニスラフとの結婚をごさんにしたいと思った。
 だけど、すべては二人の結婚へと動きだしている。松山では組合長が二人の祝言の準備を進めてくれているし、あれほど猛反対した家族や和尚夫婦も、二人の結婚を祝福してくれたのだ。それを再び取り止めるとはなかなか言い出せるものではない。
 自分勝手にスタニスラフとの結婚を宣言して無理やり認めさせたのに、また自分勝手にやめるのかと言われるのが怖かった。
 ――みんな、自分ばかりが大事なんだ。それが人間ってもんなのさ。口でどんなにきれい事を言ったって、そんなの全部うそっぱちなんだよ!
 天邪鬼の声が聞こえる。そう、天邪鬼の言うとおりだ。結局は自分が傷つくのが嫌なのだ。スタニスラフに間違いだったと言えなかったのも、スタニスラフを怒らせ、嘘つき呼ばわりされたくなかったからだ。
 父とスタニスラフが松山を訪れる前に、進之丞を責め立てた時もそうだ。さっさと素直に謝っていればよかったのに、自分の非を認めるのが嫌だったのだ。あの時に進之丞の気持ちを思いやっていれば、スタニスラフをその気にさせたりはしなかったのである。それを自分のことばかり考えていたから、進之丞を傷つけスタニスラフを誤解させてしまった。
 本当はどうすればいいのかわかっているのに、傷つくのが怖くて動こうとしない。そうして言い訳ばかり探している。
 千鶴は唇をんだ。二度と進之丞を忘れまいと考えながら、スタニスラフとの結婚を取り止める勇気がないのも、みんなから何と言われるかが怖いからだ。本当に進之丞が大事なら、今すぐにでもスタニスラフの所へ行って、結婚はしないと言うべきだ。それをやらない後悔など嘘っぱちだ。

 千鶴はさっき見ていた夢を思い返した。前世や今世での進之丞の記憶が色のない映像となって、そうとうのように声も音もないまま、静かに現れては消えるというものだ。
 そこには何の感情もなく、千鶴はただ流れる白黒の映像を、ぼんやりと眺めていた。進之丞との想い出を目にしていたのに、何も感じなかったのだ。
 千鶴が見た夢は、何とか取り戻したつもりの進之丞の記憶が、再び失われてしまう暗示のようだった。
 このまま再び進之丞の記憶を奪われるのは、千鶴にとって何より重い罰であり、死ぬよりつらい。せっかく進之丞のことを思い出したのに、その重い罰が改めてり行われようとしている。
 千鶴はうろたえて泣いた。たとえ独りぼっちであっても、進之丞とのつながりを信じていれば、立派に生きていけた。なのにこうなったのは、進之丞の死を嘆くばかりで、二人のつながりを信じなかったからだ。
 千鶴は進之丞に詫びながら、スタニスラフとは結婚しないと約束した。不動明王にも、もう二度と道を踏み外しませんと誓った。そのあかしとして、明日の朝一番にみんなの前で結婚はしないと告げますと、不動明王と進之丞の双方に宣言した。
 当然スタニスラフは怒るし、みんなにもあきれられるだろう。だがそれが正しい道であり、そうしなくてはならなかった。詫びる相手にはきちんと頭を下げ、誤った道を正すのだ。
 千鶴は進之丞の記憶を確かめるため、また自分を鼓舞するためにも、進之丞と過ごした日々を思い浮かべようとした。ところが何も浮かんで来なかった。ついさっき見た夢さえもが、まったくわからない。
 驚いた千鶴は何でもいいから思い出そうとした。何とか浮かんだのは、風寄かぜよせで進之丞に助けてもらったことや、春子と一緒に人力車に乗せてもらったことぐらいだ。
 進之丞と山﨑機織やまさききしょくで過ごした想い出は、何一つ浮かんで来ない。進之丞の姿どころか、進之丞と一緒に過ごしたことが、何も思い返せないのである。
 進之丞以外の者たちについては、簡単に思い出せた。可愛いでったちの言い争う様子はまざまざと目に浮かぶし、辰蔵やはなの笑顔もすぐに思い浮かんだ。しち孝平こうへいの顔でさえ覚えているのに、進之丞だけが出て来ない。これではまるで山﨑機織には、進之丞が存在していなかったみたいだ。
 千鶴はあせった。これまで何があったのかを思い起こしながら、その時のことを懸命に思い浮かべた。けれど、やはり無理だった。
 風寄へ進之丞を迎えに来て、自分も前世を覚えていると告げ、互いに抱き合って泣いたのは、事実としては覚えている。だけど、その時の場面が浮かんで来ない。
 千鶴は初めて鬼が現れた夜を思い浮かべた。
 萬翠荘ばんすいそうでの晩餐会ばんさんかいとうかいや、人力車の中でスタニスラフに心が揺れたことは、気分が悪くなるほど有り有りと思い出せる。そのあと特高とっこうけいさつに捕まって、暗い夜道へ連れ込まれた時のことも目に浮かぶ。ところが、そのあとがわからなかった。
 鬼が助けてくれたのは確かなのに、鬼の姿が浮かばないし、鬼が何をしたかも忘れてしまった。
 高浜港たかはまこうで父とスタニスラフを見送った場面は記憶に残っている。そのあと、進之丞を探して泣いたのは覚えているのに、進之丞が姿を見せてくれた場面が思い浮かばない。
 雲祥寺うんしょうじの墓地では、自分の正体を明かした進之丞とともに泣いた。特高警察や荒くれ男たちに襲われた時は、進之丞が戦って護ってくれた。なのに、その場面が出て来ない。
 あの城山で天邪鬼とたいした時のことですら、千鶴は思い出せなくなっていた。そういう事実があったとはわかっているが、事実さえもが今にも消えそうなはかない感じがする。
 嵐の中をひんの鬼に法生寺まで運ばれて、死にゆく鬼にすがって泣いたのも遠い夢の世界のようだ。
 鬼の最後はどうだったのか。進之丞とどんな言葉を交わしたのか。大切なことがわからなくなるだけでなく、出来事そのものが記憶から消えかけていた。
 不動明王に詫びたのに、明王の怒りは解けなかったらしい。何より大切な進之丞が自分の中から消えていく。それを止められない千鶴は叫びたい気持ちになった。
 かろうじて残っている初めて出った時の進之丞の顔を思い浮かべ、どうか消えないでと千鶴は必死に祈った。だけどその顔もはっきりしない上に、次第に自分とは関係のない他人の顔に見えてくる。
 このまま眠ってしまえば、次に目が覚めた時には、進之丞のことはすべて忘れているような気がして、千鶴は眠れなくなった。どうすればと考えるうちに、進之丞という名前さえもが、誰のことかわからなくなりそうだ。

      五

 翌朝、千鶴は暗いうちから布団を出ると、まだ寒いままの客間へ行って、知念和尚と安子が起きて来るのを待った。結局、昨夜ゆうべはあれから一睡もしていない。
 初めは忠之の所へ行ってみようかとも思った。忠之といれば進之丞を忘れずにいられるかもしれなかったし、忠之なら今の自分の話を聞いて力になってくれる気がした。
 しかし、忠之のそばには母が寝ている。祖父母が寝ているのもその近くだ。部屋は真っ暗だし、そんな所へ忍び込むのは、さっきのスタニスラフと同じだ。
 それで忠之の所へ行くのはあきらめたが、和尚たちを待っている間にも、どんどん記憶が消えていく。自分が自分でなくなっていくのを感じて、千鶴は叫びたくなった。
 しばらくするとようやく安子が現れ、おびえた千鶴を見つけて驚いた。
 どうしてこんな早く起きるのかと言われ、千鶴はうろたえながら自分に起こった異変を必死に訴えた。なのに、話しながらも進之丞の名前がすぐに出て来ず、涙がぼろぼろ出るばかりだ。
 安子は千鶴に待つように言うと、知念和尚を連れて来た。和尚は少しとぼけていたが、千鶴の話を聞くと眉をひそめて、うーむとうなった。
 安子がばちを用意するかたわらで、千鶴はスタニスラフとの結婚が進さんを忘れないためだったと打ち明けた。
 どういうことかと問う和尚たちに、佐伯さんに心を奪われそうになり、怖くなって逃げたんですと千鶴は言った。そこへスタニスラフからすぐに神戸に戻ることになったと聞かされて、自分も一緒に行くと思わず言ってしまったと、泣きながら告白した。
 決してスタニスラフと結婚したいと思ったわけではなく、ただここから逃げたかっただけですと千鶴は泣きじゃくった。そして、スタニスラフの誤解を解けず、みんなに嫌な想いをさせたことを悔やんでいると、うなれながら和尚夫婦にびた。
 また進さんを忘れてスタニスラフとの結婚を望むのなら死にたいと泣く千鶴を、和尚も安子も話はわかったからと慰めた。二人とも初めて知った千鶴の心の内にあんしたようだ。
 よく話してくれたと二人は千鶴をいたわったが、千鶴は泣きながら自分には天罰が下ったと言った。
「うちにはしんさんがすべてでした。佐伯さんのお世話も、進さんに代わってのお詫びのはずでした。ほれやのに佐伯さんから逃げ出して、こがぁな進さんを裏切るような真似をしてしもたけん、お不動さまがうちから進さんを取り上げんさったんぞな」
 泣き崩れる千鶴を、和尚と安子はもう一度慰めた。
 千鶴が少し落ち着きを取り戻すと、和尚は千鶴が何を覚えていて何を覚えていないのかを聞き取った。そのあと、ふーむとうなった和尚は、今度は前世についてたずねた。
 千鶴は前世の記憶を探ってみたが、思い出せるものは何一つなかった。当時のことが思い浮かばないどころか、何があったのかをすべて忘れてしまっていた。
 へん旅をしている時に母親が鬼に殺されたことや、子供の頃の進之丞との出い、鬼との戦いや進之丞との死別など、和尚は前世の出来事を千鶴に確かめた。けれど、千鶴は何もわからなかった。
 知念和尚は、ほういうことか――とうなずいた。
 どがぁなことねと安子が訊ねると、和尚は千鶴と安子を見比べながら、恐らくやがなと前置きをして言った。
「千鶴ちゃんの中におったな、前世の千鶴ちゃんが姿を消したんよ」
「前世のうち?」
「つまりじゃな、千鶴ちゃんは進之丞に出逢う前の、元の千鶴ちゃんに戻りつつあるいうことぞな。前世も進之丞もまだ何も思い出しとらなんだ頃の千鶴ちゃんに戻ろとしとるんよ。ほじゃけん、決して天罰が下ったわけやないとわしは思わい」
 和尚の説明はかなっているように聞こえる。だけど、どうして前世の自分が姿を消したのか、千鶴には理解ができなかった。
「なしてそがぁな……」
「人は生まれ変わっても、前世のことなど覚えちゃせん。ほんでも、前世のまんまの進之丞が現れたんで、千鶴ちゃんの中におった前世の千鶴ちゃんが引っ張り出されたんよ」
「千鶴ちゃんが前世の記憶を思い出したんは、そがぁなことやったんですね?」
 安子の合いの手に、恐らくなと知念和尚はうなずいた。
「ところが、その進之丞がおらんなってしもたけん、前世の千鶴ちゃんは今世にとどまりにくなったんじゃろな」
 和尚の説明は、千鶴にはわかるようでわからない。
「ほれは、どがぁなことですか?」
「進之丞がおったら前世のもん同士でしゃべったり、前世の話をしてお互いを確かめ合えろ? けんど片方がおらんなってしもたら、残された方は出番がのうなってしまお?」
「ほやけど、うちはずっと覚えとりました」
「ほんでも千鶴ちゃんは忠之のねきにおって、進之丞を思い出すんがつらかったろ?」
 千鶴は言葉が返せなかった。しょんぼり下を向いた千鶴に和尚は言った。
「進之丞が死んで悲しんだんは前世の千鶴ちゃんで、その悲しみから逃れたいと思たんは今世の千鶴ちゃんじゃと考えたら、どがぁかな?」
「千鶴ちゃんは進之丞さんのこと、忘れとなかったんよね?」
 安子が千鶴を慰めるように声をかけた。千鶴はこくりとうなずき、昨日の昼までは覚えていたと訴えた。
昨日きにょうの朝、うちはこれまでのことを佐伯さんにすべてお話しました。ほん時は全部覚えよったし、佐伯さんから逃げたんも、あの人のことが頭にあったけんです」
「じゃあ、いつからわからんなったんぞな?」
 千鶴は小首をかしげ、昼飯を食べたあとじゃろかとつぶやいたが、すぐにその言葉を否定した。
 昼飯の時、スタニスラフがいなくなった隙に忠之が来てくれた。千鶴は忠之に自分の本当の気持ちを知ってほしいと思ったが、進之丞を気にしたりはしなかった。あの時、すでに進之丞のことを考えなくなっていたのか。
 みんなの前でスタニスラフと一緒に行くと宣言した時、家族は進之丞の名前を出して千鶴を責めた。千鶴は言われたことは理解したし話を聞くのがつらかった。しかし、あの時に進之丞を思い浮かべていたかと考えると、そうではなかったように思える。
 あの時は大変なことをしたという想いばかりで、進之丞に詫びることより、みんなから責められるつらさだけが頭にあった。進之丞の記憶はあの時にも失われていたのだ。では、いつ進之丞は千鶴の中から姿を消したのか。
 ずっと思い返していった千鶴は、千鶴ははっとなった。
 スタニスラフに唇を許した時、千鶴は進之丞を心の奥に押し込めた。思えば、それから進之丞の姿は思い浮かばなくなった。
 千鶴は半分開いた口をわなわなと震わせ、己の愚かさに泣いた。
「どがぁしたんな? 何ぞ思い出したんかな?」
 知念和尚が訊ねると、あの人――と千鶴は泣きながら言った。
「うちは、あの人を押し込めてしもた……」
「あの人? あの人とは誰のことかな?」
 進之丞という名前が出て来ない。
「あの人は……、あの人ぞなもし」
 千鶴は答えながらうろたえた。心の中から進之丞が再び消えようとしていた。
「あの人て、進之丞さんでしょ?」
 安子が助け船を出してくれたので、千鶴は何とか進之丞の存在を引き留めることができた。
「うちは進さんを心の奥に押し込めてしもたんです。スタニスラフさんに抱かれた時に、進さんに見られとなくて押し込めてしもたんです」
 項垂れる千鶴に、なるほどなと知念和尚は言った。
「千鶴ちゃんは、ほん時に前世の千鶴ちゃんも、進之丞と一緒に心の奥に押し込めてしもたんかもしれまい」
 和尚の説明に、安子は疑問を投げかけた。
「ほうやとしても、今の千鶴ちゃんも進之丞さんと一緒に過ごした記憶があるでしょ? 前世のことがわからんなるぎりならともかく、今世のことまで忘れるてどがぁなこと?」
「これも恐らくやが、今世についても進之丞の記憶があるんは、前世の千鶴ちゃんじゃったということじゃろ」
 安子はけんしわを寄せて首を振った。
「そがぁな説明じゃ、さっぱしわからんぞな。もちっとわかりやすうに言うておくんなもし」
「つまりじゃな、今世で進之丞と喋ったりしよったんは、実は前世の千鶴ちゃんであって、今世の千鶴ちゃんは前世の千鶴ちゃんの後ろで、ほれを眺めよったぎりいうことぞな」
 安子はうーんと唸り、もう少しやさしく言ってと頼んだ。自分もわかってるわけではないと前置きをして、和尚は喋った。
「今の千鶴ちゃんが進之丞のことがわかるんは、前世の千鶴ちゃんと記憶を分かち合いよったけんじゃろと思う」
「記憶を分かち合う?」
 和尚はうなずくと、話を続けた。
「進之丞は前世の人間じゃけん、今世であっても、進之丞と喋ったり、進之丞のことを考えるんは前世の千鶴ちゃんなんよ。今世の千鶴ちゃんは前世の千鶴ちゃんから記憶や考えを分けてもろて、ほれで自分が進之丞をわかった気になるんぞな」
「ほじゃけん、前世の千鶴ちゃんがおらんなったら、今世の千鶴ちゃんは全部わからんなってしまうんですか?」
「たぶんな。千鶴ちゃんが何とか進之丞のことがわかるんは、前世の千鶴ちゃんが後ろでこそっと顔を出しよるんよ。ほんでも完全に隠れてしもたら、千鶴ちゃんは進之丞のことは一切わからんなってしまうんじゃろ」
 それはスタニスラフとの祝言に浮かれていた時のことだ。和尚の説明では、その自分こそが今世の本来の自分であるわけだ。だけど、あの愚かでれんな自分は生きた屍だ しかばね 
 ほんな――と千鶴は肩を落としたが、またもや進之丞の名前がわからなくなっている。
「あの人はうちにとっても大切なお人ぞな。そのお人のことを忘れるやなんて……」
 涙を流す千鶴に、安子は優しく言った。
「そがぁに心配せいでも、すぐ思い出すわいね。ほれより、あのロシアの子との結婚はどがぁするつもりぞな? 今のままにするん?」
 いいえと千鶴は首を振った。
「結婚は取り止めたいて思とります。何べんも言うこと変えたら、またみんなからしかられるでしょうが、うちはもう決めました。明日あひたの朝一番で、みんなの前でそがぁ言うつもりぞなもし。もちろんスタニスラフさんにも謝ります」
 知念和尚と安子はうれしそうにうなずいた。
「ほうじゃな。ほれがええ。千鶴ちゃんがやっぱし結婚やめるて言うても、誰も怒ったりせんけん」
「ほうよほうよ。千鶴ちゃんのほんまの気持ちがわかったら、みんな喜んでくれるぞな。ほじゃけん、何も心配いらんけん」
 二人は千鶴を励ました。だけど、どうしてスタニスラフとの結婚を取り止めようと思ったのか、千鶴にはその理由がわからなくなっていた。
「進之丞のことはともかく、スタニスラフとの結婚は絶対に止めといた方がええわい」
「ほうですよね。ぎりぎりじゃったけんど、千鶴ちゃんのほんまの気持ちが聞けてよかったぞなもし」
 和尚と安子の会話が、千鶴には二人が遠くで喋っているように聞こえていた。まるで自分とは関係のない話をしているみたいだ。
 千鶴の様子に気づいた二人は、あせった声をかけた。千鶴の頭は次第にぼやけていく。
 忠之が二年の記憶を失ったことを、千鶴はかすかに覚えていた。その忠之を見捨てるような真似をしたから、こんなことになったのかと、千鶴はぼんやりする頭で考えた。そのうち、その考えもすぐに消えてしまった。
「千鶴ちゃん、しっかりするんよ」
 安子が泣きそうな顔で声をかけている。知念和尚も必死に、がんばるんぞなと千鶴を励ましている。でも、千鶴には二人が何を言っているのかがわからなかった。
「あの……、うちはここへ何しに来たんでしょうか?」
 訊ねる千鶴に、和尚と安子は顔をゆがめた。
 自分が泣いていたと知った千鶴は、慌てて涙を拭いたあと、どうして自分は泣いていたのかと和尚たちにいた。
 けれど、和尚も安子も何も答えてくれなかった。代わりに今度は二人が泣いた。