> 野菊のかんざし > 異変

異変

      一

 スタニスラフは喜びいっぱいの顔でずっと上機嫌だ。
 一方の千鶴ちづは暗く打ち沈んでいた。心にあるのは後悔だけだ。
 本意ではないスタニスラフとの結婚が認められ、家族は千鶴に背を向けたままだ。和尚夫婦も前のようには声をかけてくれない。
 これが望まれた結婚であるなら、これから先への期待や不安について、みんなであれこれ語り合っていたはずだ。進之丞としんのじょう 夫婦めおとになると決まった時には、家族五人でいろいろとしゃべったが、今の千鶴にはそんな相手はいなかった。
 だが、それは当たり前だった。進之丞が初めて家族として認められ、みんなで話し合ったあの想い出の日は、ほんの一月ひとつきほど前のことなのだ。しかも進之丞は千鶴をかばって死んだ。それなのに、こうしてスタニスラフと結婚するなど正気の沙汰ではない。
 自分で考えたって、どうかしていると思うほどである。家族や和尚夫婦から裏切り者と見られても仕方がないことだ。
 スタニスラフと一緒になると決まってから、千鶴は忠之ただゆきの世話をしていない。と言うより、させてもらえなくなった。
 それを決めたのは幸子さちこだが、甚右衛門じんえもんたちも和尚夫婦も反対はしなかった。忠之の世話は幸子がやり、忠之の話し相手も幸子や甚右衛門たちがすることになった。忠之から逃れたいと思っていた千鶴は、忠之に近づくことすらできなくなった。

 昼食時、千鶴はみんなとは離れた所で、スタニスラフと二人で食事をした。他の者たちが喋っても、千鶴はその話に交ざれない。話し相手はスタニスラフだけだ。
 千鶴がスタニスラフと一緒になると決めたと、忠之は教えられたに違いない。千鶴の様子をうかがうように顔を向けた忠之と目が合うたびに、千鶴は慌てて下を向いた。自分が恥ずかしくて、忠之に合わせる顔がなかった。
 千鶴が黙ったまましょんぼりしていても、スタニスラフにはその気持ちを推し量ることができない。千鶴が暗い顔を見せるのは、結婚生活への不安を抱いていると思ったようで、これからの自分の夢を得意げに語った。
 スタニスラフの夢というのは、ヨーロッパで商売をして金儲かねもうけをすることだ。具体的にどんな商売をするのかということは、まだわからないようだが、とにかくお金をたくさん稼いで、贅沢ぜいたくな暮らしをするというのが夢らしい。
 千鶴の夢や希望などには関心がないのか、スタニスラフは自分のことばかりを喋った。しかし、千鶴にはそれが口先だけのようにしか聞こえなかったし、どうでもいいように思っていた。
 スタニスラフの話を聞き流しながら、千鶴が思い浮かべていたのは、頭を抱えて小さくなっていたスタニスラフだった。
 萬翠荘を ばんすいそう 出たあとに特高警察に とっこうけいさつ 捕まった時、闇の中に突如として鬼が現れた。あの時のスタニスラフは千鶴のことなど忘れ、頭を抱えて自分が助かる祈りを唱えていた。そんなスタニスラフがどんなに立派なことを言ったところで、一つも説得力がない。
 忠之の世話を抜け出して喋った時の、スタニスラフの話は面白かった。しかし今はそんな話を聞いても、一つも胸が弾まない。
 安らぎであったはずのスタニスラフだが、それは千鶴が忠之といることで気が滅入めいっていたからだった。忠之から離れて、これからずっとスタニスラフと一緒にいるとなった今、スタニスラフ自身には本当の安らぎがないことを、千鶴はようやく知った。
 忠之に心を奪われそうになり、進之丞への想いを守るために逃げようとはした。だが逃げるのであれば土佐とさでもよかったのである。
 忠之から逃げた時、本堂ほんどう裏にいたスタニスラフを見つけていなければ、今のようにはなっていなかっただろう。あるいは、スタニスラフがエレーナからの手紙を受け取っていなければ、一緒に行くなどという言葉は出なかったはずなのだ。
 だが、いくら考えたところでもう遅い。すべては自分から言い出したことであり、自分がいた種なのだ。スタニスラフと一緒に行くと宣言し、みんなに無理やり了承させてしまったのも自分である。本音がどうあれ、自分がこうしてしまったのだ。
千鶴チヅゥ、ドウシマシタカ?」
 ぼんやりしている千鶴に、スタニスラフが声をかけた。千鶴が顔を向けると、スタニスラフはにっこりと微笑んだ。
 いつでも自分中心で、ひどいやきもち焼きのスタニスラフだが、千鶴に優しいのも事実だ。悔やんだところでどうにもできないのであれば、スタニスラフの優しさだけがせめてもの救いだろう。
 これで誰かが祝福してくれたなら、まだあきらめもつくし、これでよかったのだと自分に言い聞かせることができる。実際にどうなるかはわからないが、祝福がもらえたならば、前を向いて歩き出せるかもしれなかった。
 それでもそんな祝福などしてもらえるわけがない。みんなは渋々二人の仲を認めただけで、喜んで受け入れたのではないのだ。祖母なんかは、祝福はしないとはっきり言い切ったのである。そう言ったのは祖母だけだが、あの言葉はみんなの気持ちの代弁だ。
 千鶴は独りぼっちで不安と罪悪感に押し潰されそうだった。そんな千鶴のそばに忠之が来た。
 忠之はスタニスラフが嫉妬深いのを知っている。それでスタニスラフがかわやへ行った隙に、ふらつきながら千鶴の所へ来て、おめでとう――とにこにこしながら祝福してくれた。
 自分が逃げようとした忠之だけが、祝福してくれたのは皮肉なことだった。千鶴は返事もできずに下を向いた。
 進之丞への想いにそむいても、心がかれるのはスタニスラフではない。忠之だった。自分の横にいて欲しかったのは、スタニスラフではなく忠之だったのである。
 その忠之を自分は深く傷つけてしまった。スタニスラフと一緒に行く話は、忠之をさらに傷つけたに違いない。
 忠之がどんな気持ちで祝福してくれたのか、千鶴にはわかっていた。スタニスラフと違い、忠之は自分の気持ちを殺してでも、千鶴の幸せを願ってくれる。誰も千鶴を祝福しようとしないのを見て励ましに来てくれたのだ。
「……ごめんなさい」
 千鶴は下を向いたまま忠之にびた。忠之を傷つけたことを謝る言葉だったが、スタニスラフと一緒になるのは自分の本意ではないと、忠之に気づいてもらいたかった。
「何も謝ることないけん。おら、千鶴さんが幸せになってくれるんなら、何も言うことないけん」
 顔を上げた千鶴の前に、忠之の優しい笑顔があった。それは進之丞の笑顔であり、忠之自身の笑顔だった。
 千鶴は泣きそうになりながら忠之に訴えた。
佐伯さえきさん、うち、ほんまは行きとないんです。うち、佐伯さんのお世話がしたいんです」
「言うたろ? おら、一人で何でもできるけん、心配せいでもかまんぞな」
「そげな意味やないんです。うち、ほんまは佐伯さんのねきにおりたかった……」
 忠之が進之丞の偽物であったとしても、そんなことはどうでもよかった。千鶴は忠之に本当の気持ちを聞かせてもらいたかった。もし一言でも自分のそばにいて欲しいと忠之が言ったなら、そうするつもりだった。しかし、忠之はそうは言ってくれなかった。
 忠之は少し戸惑ったような顔を見せたが、すぐに笑顔になった。
「ありがとう。おら、今の千鶴さんの言葉、ずっと大事にするけんな」
 スタニスラフに一緒に連れて行くように頼んだのは千鶴である。その話は忠之にも伝わっているはずだ。だから、忠之は千鶴の言葉を本気には受け取らなかったのだろう。
 千鶴がはっきり想いを伝えようとした時、スタニスラフが戻って来た。忠之はもう一度千鶴に笑顔を見せると、じゃあなと言ってその場を離れた。
 スタニスラフは忠之をにらむと千鶴の隣に座り、忠七ただしちは何をしに来たのかと千鶴にただした。
 千鶴はスタニスラフに顔を向けないまま、祝福をしに来てくれただけだと言った。だが、スタニスラフは千鶴の言葉を信じたわけではないようで、もう忠七とは喋らないようにと命令口調で言った。そこに千鶴への優しさは微塵みじんも見られなかった。

      二

 千鶴がここを離れるのであれば、忠之が独り立ちできるまで、自分たちが千鶴に代わって世話をすると、甚右衛門たちは和尚夫婦に申し出た。しかし、知念和尚はちねんおしょう 丁重にその申し出を断った。
 忠之は自分たちの子供として、自分たちが面倒を見るから心配はいらないと和尚は言った。だがそれは、これ以上忠之を悲しませたくないという和尚夫婦の本音に違いない。
 それで甚右衛門たちは当初の予定どおりに、土佐の親戚の元へ行くことになった。
 甚右衛門はその親戚に宛てた手紙を新たに書くと、それをふもとにある郵便箱に出してもらうよう伝蔵でんぞうに頼んだ。出発は明日である。
 手紙を受け取った伝蔵の懐に ふところ は、もう一通の手紙があった。それはスタニスラフが神戸こうべの家族へ書いた手紙だ。そこには千鶴と結婚することになり、二人で神戸に戻ると書いてある。
 スタニスラフはすぐにでも千鶴を神戸へ連れ帰りたがっていた。しかし、千鶴は自分の家族が土佐へつまでは、絶対にここを離れないと言い張った。
 それは今生の こんじょう 別れとなるであろう家族を、きちんと見送りたかったからだが、スタニスラフたちがヨーロッパへ出発する日に、間に合わなくなることを願ってのことでもあった。
 千鶴が風寄かぜよせを離れるのをスタニスラフが待てなければ、二人の結婚はなかったことになるかもしれないと、千鶴は期待していた。だが残念なことに、スタニスラフはまだ数日の余裕はあると言った。
 そうなると祖父たちが土佐行きを延ばしてくれればいいのだが、三人とも早くここを立ち去りたい気分のようだった。
 千鶴はもう少しだけここに残って欲しいとお願いしたかった。しかし、そんなことを頼める雰囲気ではないし、家族の方から千鶴に声をかけてくれることもなかった。
 みんな千鶴とスタニスラフに対して、勝手に好きなようにすればいいという態度である。
 和尚夫婦も千鶴たちの予定を確かめはしたが、それ以上の話はしなかった。腹を立てている感じではなく、千鶴と共有できる話がないという様子だ。
 それに千鶴にはスタニスラフが張りついていて、千鶴に近づく者を監視していた。そのため和尚夫婦も千鶴に近づきにくいし、話なんかできる感じではない。忠之に至っては、千鶴に顔を向けることすら、スタニスラフは許さなかった。
 まるで牢獄ろうごくに監禁されているようだが、そんなスタニスラフを千鶴が選んだと思われているので、誰も助けようとしてくれない。忠之にしても千鶴を心配しているかもしれないが、千鶴が望んだことに口は挟めないのだろう。
 祖父たちは和尚夫婦や伝蔵に世話になった礼を述べ、土佐の話をしたり、忠之との名残なごりを惜しんだりした。千鶴はまったくの蚊帳かやの外で、みんなが喋っているのを離れた所で聞くばかりだった。
 千鶴は頭の中でみんなの所へ駆け寄って、もう結婚はやめたから自分も土佐へ連れて行って欲しいと叫んでいた。あるいは、和尚夫婦と忠之に本当の気持ちを伝え、ずっと佐伯さんのそばにいたいと必死に訴えていた。
 しかしすべては想像であり、現実の自分はスタニスラフから離れることができず、ただみんなの話を聞きながら、その様子を見守るしかできなかった。
 そんな千鶴を慰めるつもりなのか、スタニスラフは千鶴を他の場所へいざなって、そこで千鶴を抱きしめ口づけをした。
 これが自分が選んだ道なのだと、千鶴はあきらめてスタニスラフに身をゆだねた。そこに少しでも希望と安寧あんねいを求め、自分はきっと幸せになれると、自分に言い聞かせ続けた。
 心の中の進之丞は、初めてスタニスラフに唇を奪われて以来、ずっと心の奥に仕舞っていたが、スタニスラフに抱かれるたびに、進之丞をさらに心の奥へと押し込んだ。

 夕食を食べる前に、甚右衛門は春子の家に電話を借りに行った。土佐へ向かう前に松山まつやまへ立ち寄り、世話になった組合長に挨拶をすることになっているので、そのことについての連絡だった。
 甚右衛門が春子の家を訪ねると、驚いたことに修造た しゅうぞう ちは、千鶴がスタニスラフと結婚するという話をすでに知っていたと言う。
 どうやら手紙を出しに行った伝蔵が、出会った村人に千鶴たちのことを喋ったらしい。それでそのうわさが瞬く間に村中に広がり、修造たちの所にも伝わったようだ。
 甚右衛門が訪ねて来た時、修造はそのことを確かめたものの、それに対する祝福の言葉は述べなかったそうだ。前に甚右衛門が千鶴とスタニスラフは一緒にしないと言ったことを覚えていただろうし、甚右衛門が不機嫌そうな顔をしていたに違いない。
 電話を終えて法生寺に ほうしょうじ 戻ると、甚右衛門は千鶴を呼んだ。ずっと声をかけてもらえないままだったので、千鶴は緊張しながら祖父の元へ行った。
 千鶴の後ろには、呼ばれもしないのにスタニスラフがついて来ていた。しかし、甚右衛門はスタニスラフを無視して千鶴に言った。それは組合長が二人の祝言を しゅうげん 挙げさせてくれるという話だった。
 甚右衛門は初めは組合長の申し出を断ったらしい。しかし、千鶴がヨーロッパへ行ってしまうと二度と会えなくなるのだから、絶対に祝言を挙げさせた方がいいと、組合長は強く主張したそうだ。それで仕方なく申し出を受けることにしたと甚右衛門はうそぶいた。
 幸子と辰蔵が着るはずだった婚礼の衣装も、組合長に預けたままだった。それを二人に合わせて仕立て直せば手間もいらないようだと、甚右衛門は他人事のように喋った。
 だが組合長が何を言ったところで、甚右衛門が拒めばそれまでの話である。それは甚右衛門が千鶴たちを祝福してくれるということだった。 
 信じられない想いの千鶴は甚右衛門の手を握り、ありがとうございます――と泣きながら何度も感謝した。
 甚右衛門も涙ぐみ、幸せになるんぞと言った。

 祖父に認めてもらい、祝福までしてもらったことで、千鶴はずいぶん気持ちが楽になった。それに組合長までもが祝ってくれて、二人のための祝言を挙げさせてくれるのだ。千鶴にとって、こんなにうれしいことはなかった。
 甚右衛門が千鶴たちに祝言を挙げさせると決めたことで、渋々ながらではあるが、トミも幸子も二人を認めてくれた。
 また和尚夫婦も割り切ったような表情で、千鶴におめでとうと言ってくれた。
 千鶴はようやく新たな一歩を踏み出せた気分になった。これでよかったのだという気持ちが、千鶴を明るくさせてくれた。
 後ろにいたスタニスラフに千鶴が涙の笑顔で話を伝えると、スタニスラフは大喜びをして甚右衛門に両手を合わせた。それから千鶴を抱きしめ、甚右衛門の前であることも忘れて、千鶴に口づけをした。千鶴もそれを拒まなかった。
 千鶴の胸の中は、安堵あんどと喜びでいっぱいだった。進之丞の顔が浮かぶこともなく、気持ちはすでにスタニスラフの妻だった。
 はしゃぐ声が聞こえたからか、忠之が幸子に付き添われながら近くへやって来た。スタニスラフは忠之をにらまずに、勝ち誇った笑みを見せた。
 一方、千鶴はと言うと不思議なことに、忠之を見ても何とも思わなかった。
 何故か千鶴は進之丞の存在を忘れていた。そのため進之丞と同じ姿の忠之を見ても、以前のような気持ちになることはなかった。
 今の千鶴にとって、忠之は山﨑機織の やまさききしょく 元使用人で優しい人だという認識しかなかった。忠之が大怪我をしたらしいことや、和尚夫婦が忠之の親代わりであることはわかっているが、それ以外のことはわからなかったし、知ろうとも思わなかった。
 どうして自分たちがここにいるのかも忘れてしまったが、山﨑機織が潰れたことは知っている。それで和尚たちの世話になっているのだろうと思っているが、本当のところはわからない。
 山﨑機織が潰れた理由も知らないし、女子師範学校へじょししはんがっこう 通っていたはずが、どうなったのかも覚えていない。師範しはんになった記憶はないから、家の事情か何かで退学をしたのだろうが、スタニスラフと結婚するとなった今ではどうでもいいことだった。
 みんなに祝福されてスタニスラフと夫婦になるということ以外、千鶴の頭からは何もかもがすっぽりと抜け落ちていた。また、そのこと自体に気がつかず、わからないことにも関心が向かなかった。
 頭の中にあるのは、これからの新たな生活だ。母や祖父母と離れるのは寂しいが、ずっと離れていた父と一緒に暮らせるのである。
 もちろん外国であるヨーロッパに対しては、少なからず不安がある。それでも父もスタニスラフもいるから心配はいらないとも思っていた。
 これは千鶴にとって明らかに異常と言える事態である。しかし、千鶴は自分の状態について、少しも違和感を覚えていなかった。

 夕食後、千鶴とスタニスラフは家族の目を逃れ、本堂ほんどうの楠の くすのき 陰で唇を重ね合っていた。だが何故か千鶴は急に悲しくなって、スタニスラフから離れた。
 何かがおかしい。何かが違う。そう感じるのだが、それが何なのかはわからない。
 境内けいだいは夕闇に包まれているが、まだ辺りの様子はうかがえる。掃除をし残したのか、千鶴の足下に一本の短い小枝が落ちていた。何気なくそれを拾おうと手を伸ばすと、不意に小さな手が横から伸びて来て、千鶴の手に重なった。
 え?――と思って横を見たが、そこには誰もいないし、伸びて来たはずの手も消えていた。ただ一瞬だけ千鶴を見上げた男の子の顔が見えた。見えたというより、頭に浮かんだのかもしれない。
 お芝居に出て来るような昔のお侍みたいな格好で、まげった頭には前髪が残っていた。
 千鶴が驚いて立ち上がると、スタニスラフが来て再び千鶴を抱こうとした。
 ――千鶴。
 千鶴に呼びかける子供の声が聞こえた。そちらへ顔を向けると、さっきの男の子が微笑んで立っている。男の子が手に持っているのは、一輪の野菊の花だ。
 頭の奥から何かが顔を出しそうだった。忘れているがとても大切な何かが、もう少しで姿を見せようとしている。
 スタニスラフが千鶴の顔を自分の方に向け、顔を近づけて来た。千鶴が顔をそむけると、まだ扉を閉めていない本堂ほんどうが目に入った。そこには誰もいないが、千鶴には誰かがそこに立って祈っているように見えた。その誰かが祈っているのは、千鶴の幸せだった。
 ――あれは誰? なしてうちの幸せを祈ってくれとるん?
 理由わけがわからないまま、胸の奥から悲しみが込み上げて来て、千鶴は泣きそうになった。
 スタニスラフはもう一度千鶴の顔を自分に向けると、強引に唇を奪った。そんな気分ではなくなっていたが、千鶴はスタニスラフにあらがえない。そのまま唇を重ね合っていると、頭の中で誰かがつぶやく声が聞こえた。
 ――おらはこの人と一緒におれて幸せぞな。この人ががんごであろうとなかろうと、そげなことは関係ない。たとえ死んでも、この人とのつながりはずっと残るんよ。ほじゃけん何があっても、おら安心しよるぞな。
 千鶴は、はっとなった。それは天邪鬼に あまのじゃく 対して放った自身の言葉だった。
 うろたえた千鶴は、押しのけるようにしてスタニスラフから体を離した。スタニスラフは怪訝けげんそうに、どうしたのかと言った。しかし、千鶴は答えることができなかった。
 今の自分の状況が理解できず、千鶴は混乱していた。
 どうして忘れていたのだろう。悲しくつらい城山での出来事を、どうしたって頭から消えることがなかったあの時のことを、どうして忘れていたのだろう。
 千鶴は自分が進之丞のことすら忘れていたことに気がついた。
 たとえ死んでも進之丞とのつながりはずっと残ると、自分は天邪鬼に言い切ったのだ。それなのに実際はどうなのか。
 スタニスラフとの祝言を挙げてもらえることや、父やスタニスラフと新しい暮らしをすることばかりに夢中になり、大切な進之丞のことは思い出しすらしていなかったのだ。本当であれば、今頃自分は進之丞の嫁になり、風寄で暮らしていたはずなのにである。
 これはまるで誰かに進之丞の記憶を奪われたような感じだ。
 スタニスラフはもう一度千鶴を抱こうとした。しかし、千鶴はスタニスラフから逃れて背中を向けた。
 天邪鬼に対してあれだけの見得みえを切ったのである。また、進之丞も自分とえんがあったことを、心の底から幸せに思っていると言ってくれた。それなのに――。
 いぶかしがるスタニスラフに少し一人にして欲しいと言って、千鶴はスタニスラフを無理やりどこかへ行かせた。
 スタニスラフがいなくなったのを見届けると、千鶴は楠爺くすじいを抱いた。楠爺は物は言わないが、前世から見守り続けてくれている、千鶴の大切な知り合いだ。こうして楠爺を抱いていると、千鶴は気持ちが安らいだ。その安らぎは千鶴を前世へと導いてくれる。
 ここで初めて進之丞とい、進之丞と数え切れないほど遊んだのだ。嫁になって欲しいと進之丞にわれたのもここだった。
 だが突然鬼に襲われ、進之丞は鬼となって千鶴を護って死んだ。
 その進之丞と風寄で奇跡的に再会し、二年の間ともに暮らした。とても幸せな時だった。しかし、天邪鬼が二人の仲を引き裂こうとした。鬼に変化へんげした進之丞は天邪鬼と対決し、鬼とともにここで死んだ。それは、ほんの一月ひとつきほど前のことだった。
 どうしてそんなことを忘れていたのだろう。瀕死ひんしの鬼に自分に取りくように懇願したが、鬼はそうはしなかった。鬼は千鶴の幸せだけを考えてくれていた。その鬼のことを、どうして忘れていたのだろう。
 楠爺を抱きながら千鶴は泣いた。自分が情けなくて泣いた。進之丞と鬼にびながら泣き続けた。

      三

 以前は千鶴は忠之の隣に布団を敷いてもらっていた。しかし今晩から幸子が忠之のそばに寝て、千鶴は別の部屋で一人で寝ることになった。そのことはスタニスラフを大いに刺激した。
 みんながとこいたあと、スタニスラフは千鶴が寝ている部屋へ忍び込んで来た。二人が結婚するのは決まっているので、別に構わないと思ったのだろう。恐らく千鶴もそれを望んでいると考えたのか、少なくとも拒みはしないと考えたに違いない。
 一方、千鶴は大切な進之丞を忘れていたことで、深く落ち込んでいた。布団に入ってもなかなか眠れず、自分をずっと責めながら進之丞にび続けていた。
 そうして、もう一度しんさんにいたいと願いながら、いつの間にかうとうとし始めたところを、突然何者かに起こされた。
 布団に侵入して来た不埒者ふらちものに体をまさぐられ、上にのし掛かられた千鶴は、大声で悲鳴を上げた。相手は慌てた様子で千鶴の口を手でふさぎ、ボクゥデズゥ――と潜めた声で千鶴に呼びかけた。
 千鶴は口をふさいだ手にみつき、スタニスラフを布団の外へり出した。それから急いで体を起こすと着物の乱れを直しながら、闇の中にいるスタニスラフを怒鳴りつけた。
「あんた、いったい何考えとるんね! まだ祝言も しゅうげん 挙げとらんのに何しよるんよ! この恥知らず! 獣! けだもん 
「チヨト、待テクゥダサァイ。怒ラナァイデ」
「うるさい! 出てけ!」
 千鶴が投げつけた枕が当たったらしい。スタニスラフは小さくうめくと、そそくさと部屋を出て行った。
 部屋の外で別の声が聞こえた。母や和尚たちが騒ぎを聞いて起きて来たらしい。スタニスラフが何か言い訳をしていたが、きつくしかられたようだ。
 少しすると幸子がふすま越しに千鶴に声をかけた。大丈夫かと聞かれたので大丈夫だと答えると、幸子は襖を開けずにそのまま行ってしまった。
 しかし、本当は大丈夫ではなかった。体がどうにかなったわけではないが、千鶴は怒りが収まらなかった。
 スタニスラフに起こされるまで、千鶴は進之丞の夢を見ていた。それを途中で起こされたのである。怒りが収まるはずがない。
 しかも、ここは進之丞と鬼が死んだ場所である。本当ならば口づけさえ許されないのに、体を求めるなどとんでもないことだった。
 スタニスラフがいなくなっても興奮冷めやらぬ千鶴は、進之丞に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。また、あんな男と結婚することになってしまった自分が情けなくて死にたくなった。
 しかし、今日の自分は進之丞のことを忘れ、スタニスラフと結婚できることを喜び、みんなから隠れて逢瀬おうせを楽しんでいたのだ。今も進之丞のことを忘れたままであったなら、きっとスタニスラフの求めに応じていたに違いない。
 進之丞と鬼が死んだこの場所で、そんなことをしている自分を思い浮かべると、千鶴は大声で叫びたくなった。そんなことをするなら死ぬ方がいいと思った。
 どうしてこんなことになってしまったのか。これは天罰に違いないと千鶴は考えた。
 忠之の世話を忘れてスタニスラフの元へ行ったのは、進之丞のことを思い出す悲しみから逃げていたのである。それは進之丞との想い出を避けようとしたのと同じだ。
 それに忠之の世話をするのは、直接お詫びができない進之丞に代わっての罪滅ぼしのはずだった。それを放棄したのは、進之丞の想いを捨てたのと同じことになる。
 スタニスラフが来てから、進之丞と鬼が死んだ場所で祈りを捧げることもしなくなった。これも進之丞よりスタニスラフを大事にしたということだ。
 忠之に心を奪われそうになった時、スタニスラフに助けを求めたのは、心のどこかに萬翠荘で ばんすいそう スタニスラフに感じた想いが残っていたのに違いない。陰で進之丞が泣いていたというのに、あの時の陶酔感が とうすいかん まだ忘れられていなかったのだろう。
 そしてスタニスラフに求めに応じて唇を許した時、千鶴は進之丞を心の奥へ押し込めた。進之丞への想いを守るためと言いながら、やったことは真逆のことだった。
 結局は進之丞への想いより、我が身が可愛かっただけのことなのだ。己がつらさから逃れることばかり考えて、進之丞のことは二の次にしていたのである。
 不動明王は ふどうみょうおう 地獄から千鶴を救おうとした進之丞の想いにこたえて、進之丞を忠之の体に宿らせた。
 進之丞は与えられた命を使い、千鶴の幸せだけを考えて生きて来た。そして千鶴を護って死んだのに、千鶴は進之丞より己を大切にする道を選んだのだ。
 きっと不動明王がお怒りになり、進之丞の記憶を奪ったのだと千鶴は考えていた。それほど進之丞より自分を大事に思うのならば、願いどおりにしてやろうというわけだ。
 だが、スタニスラフとの暮らしに幸せがあるとは思えない。相手のことなど考えず、自分の気持ちだけで動くスタニスラフが、千鶴を幸せにできるわけがないのだ。それにいつも千鶴を監視するような嫉妬深さは、牢獄ろうごくに入れられるのと同じに違いない。
 千鶴はすぐにでもスタニスラフとの結婚を、ご破算わさんにしたいと思っていた。
 しかし、すべては二人の結婚へと動き出している。松山では組合長が二人の祝言の準備を進めてくれているし、あれほど猛反対した家族や和尚夫婦も、二人の結婚を祝福してくれたのだ。それをなかったことにするとは言い出せるものではない。
 自分勝手にスタニスラフとの結婚を宣言し、それを無理やり認めさせたのに、また自分勝手にやめるのかと言われるのが怖かった。
 ――みんな、自分ばかりが大事なんだ。それが人間ってもんなのさ。口でどんなにきれい事を言ったって、そんなの全部うそっぱちなんだよ!
 天邪鬼の声が聞こえる。そうなのだ。天邪鬼の言うとおりだ。結局は自分が傷つくのが嫌なのだ。進之丞を思い出すからと言って、忠之から離れようとしたのだって、自分が傷つきたくなかったからだ。
 本当はどうすればいいのかわかっているのに、傷つくのが怖くて動こうとしない。そうして動こうとしない言い訳ばかり探している。
 二度と進之丞のことを忘れまいと思いながら、スタニスラフとの結婚を取り止める勇気がない。本当に今でも進之丞が大事なら、今すぐにでもスタニスラフの所へ行って、結婚はしないと言うべきなのだ。それをやらない後悔など嘘っぱちである。
 千鶴はさっき見ていた夢を思い返した。それは前世や今世での進之丞の記憶が色のない映像となって、走馬灯そうまとうのように声も音もないまま、静かに現れては消えるというものだった。
 そこには何の感情もなく、千鶴はただ流れる白黒の映像を、ぼんやりと眺めていただけだった。進之丞との思い出を目にしていたのに、何も感じなかったのである。
 それは何とか取り戻したはずの進之丞の記憶が、再び失われてしまうことの暗示のようだった。
 このまま再び進之丞の記憶を奪われることは、千鶴にとって何より重い罰であり、死ぬよりつらいことである。せっかく進之丞のことを思い出したのに、その重い罰が改めてり行われようとしているようだ。
 千鶴はうろたえて泣いた。たとえ独りぼっちであっても、進之丞とのつながりを信じていれば、立派に生きて行けるはずだった。それなのにこうなったのは、進之丞の死を嘆くばかりで、二人のつながりを信じることを忘れていたからだ。
 千鶴は進之丞に詫びながら、スタニスラフとは結婚しないと約束した。不動明王にも、もう二度と道を踏み外しませんと誓った。そのあかしとして、明日の朝一番にみんなの前で結婚はしないと告げることを、不動明王と進之丞の双方に宣言した。
 当然スタニスラフは怒るだろう。みんなにもあきれられるに違いない。それでもそうすることが正しい道であり、そうしなくてはならなかった。詫びる相手にはきちんと頭を下げ、誤った道を正すのである。
 千鶴は進之丞の記憶を確かめるため、また自分を鼓舞するためにも、進之丞と過ごした日々のことを思い浮かべようとした。ところが何も浮かんで来なかった。ついさっき見たはずの夢さえもが、まったく思い出せなくなっている。
 驚いた千鶴は何でもいいから思い出そうとした。しかし、何とか思い出せたのは、風寄で進之丞に助けてもらったことや、春子と一緒に進之丞に人力車で運んでもらった時のことぐらいだった。
 進之丞と山﨑機織で過ごした思い出は、何一つ浮かんで来ない。進之丞の姿どころか、進之丞と一緒に過ごしたはずのことが、何も思い出せないのである。
 進之丞以外の者たちとのことは、簡単に思い出すことができた。可愛い丁稚でっちたちの言い争う様子はまざまざと思い出せるし、辰蔵や花江の笑顔もすぐに思い浮かべることができた。弥七や孝平の顔でさえ覚えているのに、進之丞のことだけが思い出せないのだ。
 それはまるで山﨑機織には、進之丞が存在していなかったかのようだった。
 千鶴はあせった。これまで何があったのかを思い出しながら、その時のことを懸命に思い浮かべた。だが、やはり無理だった。
 風寄へ進之丞を迎えに来て、自分も前世のことを覚えていると告げ、互いに抱き合って泣いたことは、事実としては思い出した。しかし、その時の場面が浮かんで来ない。
 千鶴は初めて鬼が現れた夜のことを思い出そうとした。
 萬翠荘で ばんすいそう の晩餐会や ばんさんかい 舞踏会ぶとうかいが楽しかったことや、人力車の中でスタニスラフに心が揺れたことは、今もそこにいるかのように思い出せる。そのあと特高警察に とっこうけいさつ 捕まって、暗い夜道へ連れ込まれた時のことも目に浮かべることができた。
 ところが、そのあとのことが思い出せなかった。
 鬼が助けてくれたことはわかっている。しかし、その鬼の姿が思い出せないし、鬼が何をしたかもわからなかった。
 高浜港で たかはまこう 父とスタニスラフを見送った時のことは思い出せた。そのあと、進之丞を探して泣いたことは覚えているのに、進之丞が姿を見せてくれた場面が思い浮かばない。
 雲祥寺の うんしょうじ 墓地で自分の正体を明かした進之丞と、ともに泣いた時のことも、進之丞が特高警察や荒くれ男たちと戦ってくれた時のことも、何も思い出せない。
 あの城山で天邪鬼と対峙たいじした時のことですら、千鶴は思い出せなくなっていた。そういう事実があったことはわかっているが、その事実があったことさえもが、今にも消えて行きそうなはかない感じがする。
 嵐の中を瀕死ひんしの鬼に法生寺まで運んでもらい、死にゆく鬼にすがって泣いたことも遠い夢の世界のようだ。
 鬼がどんな姿をしていて、進之丞とどんな別れをしたのかも、よくわからなくなっている。出来事そのものが記憶からほとんど消えかけていた。
 不動明王に詫びたはずだが、明王の怒りは解けなかったらしい。何より大切だった進之丞が、どんどん自分の中から消えて行く。それを止められない千鶴は叫びたい気持ちになった。
 かろうじて残っている初めて出逢であった時の進之丞の顔を思い浮かべ、どうか消えないでと千鶴は必死に祈った。しかしその顔もはっきりしない上に、次第に自分とは関係のない他人の顔のように思えて来る。
 このまま眠ってしまえば、次に目が覚めた時には、進之丞のことはすべて忘れているような気がして、千鶴は眠ることができなくなった。どうすればと考えるうちに、進之丞という名前さえもが、誰のことなのかがわからなくなるようだ。

      四

 翌朝、千鶴は暗いうちから布団を出ると、まだ寒いままの客間へ行って、知念和尚と安子やすこが起きて来るのを待った。結局、昨夜ゆうべはあれから一睡もしていない。
 初めは忠之の所へ行ってみようかと思ったが、忠之のそばには母が寝ている。祖父母が寝ているのもその近くだ。部屋は真っ暗だし、そんな所へ忍び込んでも仕方がない。
 それで和尚たちを待つことにしたのだが、待っている間にも、どんどん記憶が消えて行く。何度も忠之を起こしに行こうかと迷っていたが、そのうち忠之を起こす理由すらわからなくなっていた。
 しばらくすると安子が現れ、千鶴を見つけて驚いた。
 どうしてこんな早く起きるのかと言われ、千鶴はうろたえながら自分に起こった異変を必死に訴えた。だが、話しながらも進之丞の名前がすぐに出て来ず、涙がぼろぼろ出るばかりだった。
 安子は千鶴に待つよう言うと、知念和尚を連れて来た。和尚は少し寝惚ねとぼけた様子だったが、千鶴の話を聞くと眉をひそめて、うーむとうなった。
 安子が火鉢ひばちを用意するかたわらで、千鶴はスタニスラフと結婚することになったのは、進さんを忘れないためだったと打ち明けた。
 どういうことかと言う和尚たちに、千鶴は忠之に心を奪われそうになったことが怖くなり、忠之から逃げたと言った。そこへスタニスラフから、すぐに神戸に戻ることになったと聞かされて、自分も一緒に行くと思わず言ってしまったと、泣きながら告白した。
 決してスタニスラフと結婚したいと思ったわけではなく、ただここから逃げたかっただけですと千鶴は言った。それでスタニスラフがいなくなると、どこにも逃げられなくなると思ってしまったと、千鶴は泣きじゃくった。
 すぐに自分が何をしたのかはわかったけれど、もう自分ではどうすることもできなくて、みんなに嫌な想いをさせたことを悔やんでいると、千鶴は項垂うなだれながら和尚夫婦に詫びた。
 和尚も安子も話はわかったからと千鶴を慰めた。二人とも初めて知った千鶴の心の内に安堵した様子だ。
 二人は千鶴に、よく話してくれたと慰めた。千鶴は泣きながら自分に天罰が下ったと言った。
「うちにはしんさんがすべてでした。ほれやのに、佐伯さんのお世話をやめてこがぁなことをしてしもたけん、お不動さまがうちから進さんを取り上げんさったんぞな」
 泣き崩れる千鶴を、和尚と安子はもう一度慰めた。
 千鶴が少し落ち着きを取り戻すと、和尚は千鶴が何を覚えていて何を覚えていないのかを聞き取った。また覚えていることについても、関心が薄れて行くものは何なのかを確かめた。
 そのあと和尚はふーむと言うと、千鶴に前世のことを思い出せるかとたずねた。
 千鶴は前世の記憶を探ってみたが、思い出せることは何一つなかった。当時のことが思い浮かばないどころか、何があったのかをすべて忘れてしまっていた。
 遍路旅へんろたびをしている時に母親が鬼に殺されたことや、子供の頃の進之丞との出逢い、鬼との戦いや進之丞との死別など、和尚は前世の出来事を千鶴に確かめた。だが、千鶴はそんなことがあったことすらわからなくなっていた。
 知念和尚は、ほういうことか――とうなずいた。
 どがぁなことねと安子が訊ねると、和尚は千鶴と安子を見比べながら、恐らくやがと前置きをして言った。
「千鶴ちゃんの中におったな、前世の千鶴ちゃんが姿を消したに違いないぞな」
「前世のうち?」
「つまりじゃな、千鶴ちゃんは進之丞に出逢う前の、元の千鶴ちゃんに戻りつつあるいうことぞな。前世のことも進之丞のことも、まだ何も思い出しとらなんだ頃の千鶴ちゃんに戻ろとしとるんよ。ほじゃけん、決して天罰が下ったわけやないとわしは思うぞな」
 和尚の説明はかなっているように聞こえる。それでも、どうして前世の自分が姿を消したのか、千鶴には理解ができなかった。
「なしてそがぁな……」
「人は生まれ変わっても、前世のことなど覚えちゃせん。しかし、前世のまんまの進之丞が現れたことで、千鶴ちゃんの中におった前世の千鶴ちゃんが、引っ張り出されることになったんよ」
「千鶴ちゃんが前世の記憶を思い出したんは、そがぁなことやったんですね?」
 安子の合いの手に、知念和尚はうなずいた。
「ところが、その進之丞がおらんなってしもたけん、前世の千鶴ちゃんは今世にとどまりにくなったんじゃろな」
 和尚の説明は、千鶴にはわかるようでわからない。
「ほれは、どがぁなことですか?」
「進之丞がおったなら、前世のもん同士で喋ったり、前世の話をすることで、お互いを確かめ合えろ? けんど、片方がおらんなってしもたら、残された方は出番がのうなってしまうけんな」
「ほやけど、うちはずっと覚えとりました」
「ほんでも、千鶴ちゃんは忠之のねきにおって、進之丞のことを思い出すんが嫌じゃったんじゃろ?」
 千鶴は言葉が返せなかった。しょんぼり下を向いた千鶴に、和尚は言った。
「進之丞が死んで悲しんだんは前世の千鶴ちゃんで、その悲しみから逃れたいと思たんは今世の千鶴ちゃんじゃと考えたら、どがぁかな?」
「ほんでも、千鶴ちゃんは進之丞さんのこと、忘れとなかったんよね?」
 安子が千鶴を慰めるように言った。千鶴がうなずくと、和尚が訊ねた。
「千鶴ちゃんを責めるつもりはないがな。そがぁに進之丞が大事じゃったら、いくら衝動に駆られたにしても、なしてあのスタニスラフと一緒になるやなんて決めたんぞな? 忠之から離れたい言うぎりじゃったら、他にもやり方があったじゃろに」
 それはまったく知念和尚の言うとおりである。自分でもそこのところは悔やむばかりだ。
 千鶴は萬翠荘でスタニスラフと過ごした時の高揚こうようした気持ちが残っていて、それでスタニスラフを特別な人のように思ってしまったと言った。
 だが、その時に進之丞と花江を疑っていたことや、進之丞が陰から二人の様子を見ていたことなどは思い出さなかった。
「ほん時の気持ちが未だに残っておったというわけか。ほれでスタニスラフを選んだということじゃな」
「ほんでも、うちは今、後悔しとります。なしてあがぁなことをしてしもたんか……」
「今はあの子を想う気持ちはないていうこと?」
 安子が訊ねると、千鶴はこくりとうなずいた。
「今はと言うより、最初からそがぁな気持ちはありませんでした。確かに、あの人に甘えはしたけんど、あの人と一緒になりたいて思たわけやなかったんです」
 千鶴は少し口をつぐむと、自分の愚かさを吐露とろした。
「うちは佐伯さんから逃げるために、スタニスラフを利用したんです。うちは、ずるうて愚かな女子おなごでした。ほじゃけん、スタニスラフと結婚することも拒めませんでした。ほんでも今は結婚を取り止めたいて思とります。やけん、朝一番でみんなの前でそがぁ言うて決めました。スタニスラフにも謝ります」
「そがぁなことじゃったか」
 知念和尚は、やるせなさそうに安子と顔を見交わした。
「千鶴ちゃん、つらかったな」
 安子が慰めると、千鶴は小さくうなずいた。
「うち、進さんに申し訳のうて、心の中の進さんに自分を見られるんが嫌で、進さんを心の奥の方に仕舞しもたんです。ほれで、頭ん中はからっぽにしたまま……」
 千鶴が泣き出すと、和尚も安子も話はわかったからと、千鶴を落ち着かせようとした。千鶴は涙を拭くと、うち――と言ったが、口を半分開いたまま困惑の目を和尚たちに向けた。
「どがぁしたん?」
 安子が心配そうに声をかけた。
「うち……」
 次の言葉が出て来ない。
「大丈夫ぞな。千鶴ちゃん、落ち着いて喋ったらええけん」
 知念和尚が優しく言った。しかし、千鶴は喋ることができない。
 二人がじっと見守る中、千鶴はうろたえながら言った。
「うち、あの人を……」
「あの人て?」
 知念和尚が訊ねた。しかし、名前が出て来ない。
「あの人は……、あの人ぞなもし」
「進之丞さんのことでしょ?」
 安子が助け船を出してくれた。千鶴はすぐにうなずき、進さんぞなもし――と言い直した。だが、進之丞の記憶が風前の灯火であるのは明らかだった。
「スタニスラフの求めに応じるために、うちは進さんを心の奥底へ仕舞い込んでしまいました。うちが進さんを忘れるようになってしもたんは、そのせいでしょうか?」
 安子は知念和尚を見た。和尚は腕組みをすると、ほうかもしれまいと言った。
「千鶴ちゃんはこれからの暮らしをどがぁするかいうことに、気持ちを向けた。一方で前世の千鶴ちゃんは進之丞のことぎり考えよった。ほじゃけん、千鶴ちゃんが進之丞を心の奥へ押し込めた時に、前世の千鶴ちゃんのことも、一緒に押し込めてしもたんじゃろな」
 そういうことだったのかと、千鶴はようやく理解ができた。しかし、だからと言って、どうして進之丞のことを忘れてしまうのか。
 それについて和尚は言った。
「進之丞の記憶を持っておるんは、今の千鶴ちゃんやのうて前世の千鶴ちゃんぞな。今の千鶴ちゃんが進之丞のことを考えるんは、前世の千鶴ちゃんと記憶を分かち合いよったけん、でけたんよ」
「記憶を分かち合う?」
 和尚はうなずくと、話を続けた。
「千鶴ちゃんが進之丞のことを考えよる時はな、千鶴ちゃんの後ろに前世の千鶴ちゃんがおるんよ。千鶴ちゃんは何か考えよったいうことは覚えよっても、ほれが進之丞のことじゃいうんは、前世の千鶴ちゃんが覚えとるんよ」
「やけん、前世のうちがおらんなったら、うちは……、うちは……あの人のことがわからんなるんですね?」
「ほういうことやと思うぞな。千鶴ちゃんが今あの人言うとるんかて、まだちょっぴり前世の千鶴ちゃんが顔のぞかせとるんじゃろ。前世の千鶴ちゃんが完全に引っ込んでしもたら、あの人いう言葉さえ出て来んようになるじゃろな」
 それはスタニスラフとの祝言に浮かれていた時のことだろう。千鶴はあの時、進之丞のことなどすっかり忘れていたのである。それは前世の千鶴が千鶴の心から姿を消していたということなのだ。
 あの時の自分はみんなに認めてもらいたい、祝福してもらいたいという想いでいっぱいだった。自分のことだけを考えて、進之丞のことは心の奥に押し込めたままだった。
 前世の自分など出て来る余地はなかったし、進之丞ではない男と祝言を挙げる所になど、出て来たくもなかっただろう。
 しかし、千鶴はそんなことを認めたくなかった。前世の自分だけでなく、今の自分にとっても進之丞は大切な人なのだ。
「うち、あの人のこと、忘れとありません」
 知念和尚は気の毒そうに言った。
「そがぁ言うても、どがぁもできまい。千鶴ちゃんは今世の人間なんじゃけん、進之丞は千鶴ちゃんが知るべき人間やなかったんよ」
「ほんでも、忘れとないんです」
 千鶴は泣いた。だが、千鶴は誰のことを忘れたくないのかが、わからなくなっていた。誰か大切な人がいたような気がするだけで、大切なはずの記憶はもはや余韻となっていた。
「あんた、何とかならんの?」
 安子がうろたえた様子で知念和尚に言った。しかし、和尚はうめくばかりで何も言えない。
「なぁ、あんた」
「わかっとる。ほんでも、わしにもどがぁもでけんことぞな」
「千鶴ちゃん、こがぁに後悔しとるのに、なして前世の千鶴ちゃんが、また引っ込んでしまうん?」
「そがぁなこと、わしに言われてもこまらい。わしかて、わかって言うとるわけやないんじゃけん」
「ほやけど……」
 千鶴を思いやる安子に、和尚は言った。
「まあ、えて言うなら、前世の千鶴ちゃんは今世に顔出すはずやなかったけん、元のさやに収まる定めにあったんやなかろか」
「元の鞘?」
 安子が顔を戻すと、和尚はうなずいた。
「ほうよ。前世の千鶴ちゃんは、今世の千鶴ちゃんから見たら、心のずっと奥の方におったはずじゃろ? そこへ戻るいうことぞな」
「ほんでも、今まで残っとったんじゃろ?」
「進之丞のことがあったけん、前世の千鶴ちゃんはがんばって残ろとしよったんよ。ほれを千鶴ちゃんが無理こやりこ押し込めてしもたけん、ほれが戻るきっかけになってしもたんやもしれまい」
 和尚と安子の会話が、千鶴には二人が遠くで喋っているように聞こえていた。まるで自分とは関係のない話をしているようだ。
 千鶴の様子に気づいた二人は、あせった様子で千鶴に声をかけた。しかし、千鶴の頭は次第にぼやけて行くようだった。
 今、千鶴は忘れてはいけないものを忘れようとしていた。それは自分が自分でなくなることを意味している。それはとても恐ろしく悲しいことだった。
 忠之が二年の記憶を失ったことを、千鶴はかすかに覚えていた。その忠之を見捨てるようなことをしたから、こんなことになったのかと、千鶴は泣きながらぼんやりしていく頭で考えていた。
 記憶を失うことがどれほどつらく悲しいことなのか、身をもって知れと不動明王から言われているようだ。
「千鶴ちゃん、しっかりするんよ」
 安子が泣きそうな顔で声をかけている。知念和尚も必死に、がんばるんぞなと千鶴を励ましている。
 だが、千鶴には二人が何を言っているのかがわからなかった。
「うち……、ここへ何しに来たんでしょうか?」
 訊ねる千鶴に、和尚と安子は顔をゆがめた。
 自分が泣いていたことを知った千鶴は、慌てて涙を拭いたあと、どうして自分は泣いていたのかと和尚たちに訊ねた。
 だが、和尚も安子も何も答えてくれなかった。代わりに今度は二人が泣いた。