異変
一
スタニスラフは喜びいっぱいの顔でずっと上機嫌だ。
一方の千鶴は暗く打ち沈んでいた。心にあるのは後悔だけだ。
本意ではないスタニスラフとの結婚が認められ、家族は千鶴に背を向けたままだ。和尚夫婦も前のようには声をかけてくれない。
これが望まれた結婚であるなら、これから先への期待や不安について、みんなであれこれ語り合っていたはずだ。進之丞と夫婦になると決まった時には、家族五人で尽きることなく話し込んだ。けれど、今の千鶴にはそんな相手はいなかった。
だが、それは当たり前だった。進之丞が初めて家族として認められ、みんなで話し合ったあの想い出の日は、ほんの一月ほど前のことなのだ。しかも進之丞は千鶴をかばって死んだ。それなのに、こうしてスタニスラフと結婚するなど正気の沙汰ではない。
そもそも千鶴自身、スタニスラフと結婚するつもりはなかった。忠之から逃げようとしてこうなっただけだ。
であれば、そう言えばいいことなのだが、それができなかった。スタニスラフをその気にさせてしまい、唇まで許してしまったということが、千鶴を絶望とあきらめの気持ちに沈めていた。忠之にも進之丞にも合わせる顔がなく、己の愚かさに嘆くばかりだ。
せめて忠之には本当の気持ちを伝え、深く傷つけたことを詫びたかった。だが、今の自分の姿を忠之がどう見ているのかと思うと、うろたえるしかなかった。
それにスタニスラフと一緒になると決まってから、千鶴は忠之の世話から外されたので、忠之に話しかける機会がない。
それを決めたのは幸子だが、甚右衛門たちも和尚夫婦も反対はしなかった。忠之の世話は幸子がやり、忠之の話し相手も幸子や甚右衛門たちがすることになった。忠之から逃れたいと思っていた千鶴は、忠之に近づくことすらできなくなったのだ。
遅くなった昼食が用意された。
これまではみんなが一所に集まって食事をしていたが、今回は千鶴とスタニスラフの箱膳は、みんなとは別の部屋に運ばれた。これも幸子の指示によるものだ。スタニスラフを目の前にしては食事も喉を通らないし、トミがまた倒れるおそれがあるというのが理由だ。だが、千鶴たちを忠之に近づかせないというのが本音だろう。
母の言い分は尤もだと思いつつも、千鶴は疎外感に落ち込んだ。千鶴はしょんぼりして涙ぐんだが、スタニスラフは千鶴と二人きりになれるので却って喜んだ。
部屋を仕切る襖は開け広げてあるので、甚右衛門たちが食事をする様子は、千鶴たちの所から見える。それは向こうからもこちらが見えるということだが、誰も千鶴たちを見ようとしない。まるで千鶴やスタニスラフが存在していないような態度だ。
ただ忠之だけが、時折千鶴に心配そうな顔を向けた。千鶴がスタニスラフと一緒になると決めたことを、誰かから教えられたに違いない。
スタニスラフに気があるわけではないという話を、千鶴は忠之に伝えた。またスタニスラフに言及した忠之に怒鳴りもした。それなのに、その舌の根も乾かぬうちにスタニスラフとの婚姻を決めたのだ。
忠之は呆れたか、やはりそうかと思ったかのいずれかだろう。また、自分が心を寄せた女が、どれほど好い加減で恥知らずだったかを知ったはずだ。
恥じ入っている千鶴は、忠之と目が合うたびに慌てて下を向いた。あまりの情けなさと気まずさで、とてもお詫びをするどころではない。
千鶴が黙ったまましょんぼりしていても、スタニスラフは自分の夢を得意げに語るばかりで、少しも千鶴の気持ちを推し量ろうとしない。千鶴の方から一緒に行きたいと言ったからだろうが、自分が楽しければ千鶴も楽しいだろうと思い込んでいるようだ。
スタニスラフの夢というのは、ヨーロッパで商売をして金儲けをすることだ。具体的にどんな商売をするかはまだ決めていないようだが、とにかくお金をたくさん稼いで贅沢な暮らしをするというのが夢らしい。しかし、千鶴にはそれが口先だけのようにしか聞こえなかったし、どうでもいいように思っていた。
忠之の世話を抜け出して喋った時は、スタニスラフの話は面白かった。しかし今はどんな話を聞かされても、一つも胸が弾まない。
安らぎであったはずのスタニスラフだが、それは忠之といることで気が滅入っていたからだった。忠之から離れて、これからずっとスタニスラフと一緒にいるとなった今、スタニスラフ自身には本当の安らぎがないこと、そして忠之にこそ安らぎがあったことを、千鶴はようやく知った。
スタニスラフとの暮らしを思うと絶望しかないが、もはやどうすることもできない。
神戸に戻るとスタニスラフが言った時、思わず一緒に行くと言ってしまったが、冷静になって考えれば、忠之から離れるのであれば土佐でもよかったのである。
また、あの時の気持ちの混乱が落ち着けば、改めて忠之と話をして、本当の想いを伝えられたかもしれなかった。
どうしてあの時にあそこにスタニスラフがいたのか。どうしてあそこでスタニスラフが叫び声を上げたのか。どうしてあの日にエレーナからの手紙が届いたのか。
悔やむ心はこうなってしまった原因を探し続ける。しかし、本当の原因が自分にあることは、千鶴にはわかっていた。自分も一緒に連れて行って欲しいと言いさえしなければ、こんなことにはならなかったのである。
だが、いくら考え悔やんだところでもう遅い。みんなの前でスタニスラフと一緒に行くと宣言し、それを無理やり了承させてしまったのだ。あの時に、みんなに本当のことを伝えていればと思っても今更だ。
「千鶴、ドウシマシタカ?」
ぼんやりしている千鶴に、スタニスラフが声をかけた。千鶴が顔を向けると、スタニスラフはにっこりと微笑んだ。
いつも自分中心で人の気持ちがわからないスタニスラフだが、千鶴に優しいのも事実である。後悔しかない今、スタニスラフの優しさだけがせめてもの救いだろう。
そうは言っても、やはり家族との間に大きな溝ができたことはつらかった。家族の誰かが慰め励ましてくれたなら、あきらめて前を向いて歩く気持ちになれるかもしれないが、それは無理な話だった。
家族はみんな千鶴とスタニスラフの結婚を受け入れてはいない。祖父が好きにしろと言ったので、みんな渋々二人の仲を認めただけであり、本音は誰一人今回のことをよしとはしていないのだ。
和尚夫婦にしてもそれは同じで、怒りこそしないが、不満と悲しみのいろは隠せない。これまで散々世話になり、力になってくれた二人をそんな気持ちにさせたことは、恩知らずの恥知らず以外の何物でもない。
スタニスラフが厠へ行った。その隙に、忠之がふらつきながらやって来た。誰も千鶴を祝福しようとしないので、励ましに来てくれたのだろう。
「千鶴さん、おめでとう」
千鶴が自分に見せた言動には触れないまま、忠之はにこにこしながら千鶴を祝福してくれた。自分が逃げようとした忠之だけが、祝福に来てくれたのは皮肉なことだった。
千鶴は返事もできずに下を向いた。このまま小さくなって消えてしまいたかった。
「……ごめんなさい」
千鶴は下を向いたまま忠之に詫びた。忠之を傷つけたことを謝る言葉だったが、スタニスラフと一緒になるのは自分の本意ではないと、忠之に気づいてもらいたかった。
「何も謝ることないけん。おら、千鶴さんが幸せになってくれるんなら、何も言うことないけん」
顔を上げた千鶴の前に、忠之の優しい笑顔があった。それは進之丞の笑顔であり、忠之自身の笑顔だった。
千鶴は泣きそうになりながら忠之に訴えた。
「佐伯さん、うち、ほんまは行きとないんです。神戸になんぞ行きとないんです。うち、佐伯さんのお世話がしたいんです。これからも佐伯さんのお世話がしたいんです」
それは死ぬまで世話を続けたいという意味だった。しかし忠之は微笑んだまま、ええんよと言った。
「言うたろ? おら、一人で何でもできるけん、心配せいでも構んぞな」
「そげな意味やないんです。うち、ほんまは佐伯さんの傍におりたいんです。ずっとずっと一緒におりたいんです」
千鶴は忠之に本当の気持ちを聞かせてもらいたかった。もし一言でも傍にいて欲しいと言ってくれたなら、そうするつもりだった。だが忠之はそうは言ってくれなかった。
忠之は少し戸惑ったような顔を見せたが、すぐに笑顔になった。
「だんだんな。おら、今の千鶴さんの言葉、ずっと大事にするけんな」
スタニスラフに一緒に連れて行くように頼んだのは千鶴である。その話は忠之の耳にも入っているはずだ。だから、忠之は千鶴の言葉を本気には受け取らず、千鶴が声を荒らげてしまったことを詫びているだけだと思ったに違いない。
千鶴がはっきり想いを伝えようとした時、スタニスラフが戻って来た。忠之はもう一度千鶴に笑顔を見せると、じゃあなと言ってその場を離れた。
スタニスラフは忠之をにらむと千鶴の隣に座り、あの男は何をしに来たのかと千鶴に質した。
千鶴はスタニスラフに顔を向けないまま、祝福をしに来てくれただけだと言った。
だが、スタニスラフは千鶴の言葉を信じたわけではないようで、もうあの男とは喋らないようにと命令口調で言った。そこに千鶴への優しさは微塵も見られなかった。
二
千鶴がここを離れるのであれば、忠之が独り立ちできるまで、自分たちが千鶴に代わって世話をすると、甚右衛門たちは和尚夫婦に申し出た。しかし、知念和尚は丁重にその申し出を断った。
忠之は自分たちの子供として、安子と二人で面倒を見るから心配はいらないと和尚は言った。だがそれは、これ以上忠之を悲しませたくないという和尚夫婦の本音に違いない。
それで甚右衛門たちは当初の予定どおりに、土佐の親戚の元へ行くことになった。
甚右衛門はその親戚に宛てた手紙を新たに書くと、それを麓にある郵便箱に出してもらうよう伝蔵に頼んだ。出発は明日である。
手紙を受け取った伝蔵の懐には、もう一通の手紙があった。それはスタニスラフが神戸の家族へ書いた手紙だ。そこには千鶴と結婚することになり、二人で神戸に戻ると書いてある。
スタニスラフはすぐにでも千鶴を神戸へ連れ帰りたがっていた。しかし、千鶴は自分の家族が土佐へ発つまでは、絶対にここを離れないと言い張った。
それは今生の別れとなるであろう家族を、きちんと見送りたかったからだが、スタニスラフたちがヨーロッパへ出発する日に、間に合わなくなることを願ってのことでもあった。
千鶴が風寄を離れるのをスタニスラフが待てなければ、二人の結婚はなかったことになるかもしれないと、千鶴は期待していた。だが残念なことに、スタニスラフはまだ数日の余裕はあると言った。
そうなると祖父たちが土佐行きを延ばしてくれればいいのだが、三人とも早くここを立ち去りたい気分のようだった。
千鶴はもう少しだけここに残って欲しいとお願いしたかった。しかし、そんなことを頼める雰囲気ではないし、家族の方から千鶴に声をかけてくれることもなかった。みんな千鶴とスタニスラフに対して、勝手に好きなようにすればいいという態度である。
和尚夫婦も千鶴たちの予定を確かめはしたが、それ以上の話はしなかった。腹を立てている感じではなく、千鶴と共有できる話がないという様子だ。
それに千鶴にはスタニスラフが張りついていて、千鶴に近づく者を監視していた。そのため和尚夫婦ですら千鶴に近づきにくいし、話なんかできる感じではない。忠之に至っては、千鶴に顔を向けることすらスタニスラフは許さなかった。
まるで牢獄に監禁されているようだが、そんなスタニスラフを千鶴が選んだと思われているので、誰も助けようとしてくれない。忠之にしても千鶴を心配しているかもしれないが、千鶴が望んだことに口は挟めないのだろう。
祖父たちは和尚夫婦や伝蔵に世話になった礼を述べ、土佐の話をしたり、忠之との名残を惜しんだりした。しかし千鶴はまったくの蚊帳の外で、みんなが喋っているのを離れた所で聞くばかりだった。
千鶴は頭の中でみんなの所へ駆け寄って、もう結婚はやめたから自分も土佐へ連れて行って欲しいと叫んでいた。あるいは、和尚夫婦と忠之に本当の気持ちを伝え、ずっと佐伯さんの傍にいたいと必死に訴えていた。
だが、すべては想像である。現実ではスタニスラフから離れることができず、ただみんなの話を聞きながら、その様子を見守るだけだ。
そんな千鶴を慰めるつもりなのか、スタニスラフは千鶴を他の場所へ誘って、そこで千鶴を抱きしめ口づけをした。
これが自分が選んだ道であり、愚かな自分への罰なのだと、千鶴はあきらめてスタニスラフに身を委ねた。
初めてスタニスラフに唇を許した時に、千鶴は進之丞を心の奥深くに押し込めた。それ以来、進之丞が心の中に顔を出すことはない。
そうしたのは進之丞に今の自分を見られたくなかったからだが、千鶴は自分が進之丞とは別の世界へ踏み込んだような気がしていた。
以前は進之丞が死んでも、進之丞を身近に感じていた。しかし今は進之丞を感じることはなくなった。ほんの一月前まで進之丞はいたのに、今では進之丞がいたという事実が夢だったような気持ちになっている。
千鶴はそんな自分が情けなく悲しかったが、どうすることもできなかった。
夕食を食べる前に、甚右衛門は春子の家に挨拶を兼ねて電話を借りに行った。土佐へ向かう前に松山へ立ち寄り、世話になった組合長に顔を見せることになっている。そのことについての連絡だった。
ところが甚右衛門が春子の家を訪ねると、驚いたことに修造たちは、千鶴がスタニスラフと結婚するという話をすでに知っていた。
どうやら手紙を出しに行った伝蔵が、出会った村人に千鶴たちのことを喋ったらしい。それでその噂が瞬く間に村中に広がり、修造たちの所にも伝わったようだ。
訪ねて来た甚右衛門に、修造がどんな顔で話をしたのかは定かでない。本来ならば祝福の言葉をかけるところだろうが、甚右衛門は千鶴とスタニスラフを一緒にはさせないと明言していたし、不機嫌そうな顔をしていたはずだ。恐らく修造は困惑していたに違いない。
電話を終えて法生寺に戻った甚右衛門は、千鶴を呼んだ。ずっと声をかけてもらえないままだったので、千鶴は緊張しながら祖父の元へ行った。祖父の傍には、祖母と母、そして和尚夫婦がいた。
千鶴の後ろには、呼ばれもしないのにスタニスラフがついて来ていた。しかし甚右衛門はスタニスラフを無視して、千鶴に電話の内容を伝えた。それは組合長が二人の祝言を挙げさせてくれるという話だった。
甚右衛門は初めは組合長の申し出を断ったらしい。しかし、千鶴がヨーロッパへ行ってしまうと二度と会えなくなるのだから、絶対に祝言を挙げさせた方がいいと、組合長は強く主張したそうだ。それで仕方なく申し出を受けることにしたと甚右衛門はうそぶいた。
幸子と辰蔵が着るはずだった婚礼の衣装も、組合長に預けたままだった。それを二人に合わせて仕立て直せば手間もいらないようだと、甚右衛門は他人事のように喋った。
だが組合長が何を言ったところで、甚右衛門が拒めばそれまでの話である。それは甚右衛門が千鶴たちを祝福してくれるということだった。
信じられない想いの千鶴は祖父の手を握ると、ありがとうございます――と泣きながら何度も感謝した。
甚右衛門も涙ぐみ、幸せになるんぞと言った。
祖父に認めてもらい、祝福までしてもらったことで、千鶴はずいぶん気持ちが楽になった。それに組合長までもが祝ってくれて、二人のための祝言を挙げさせてくれるのだ。千鶴にとって、こんなに嬉しいことはなかった。
甚右衛門が千鶴たちに祝言を挙げさせると決めたことで、渋々ながらではあるが、トミも幸子も千鶴を祝福してくれた。
また和尚夫婦も割り切ったような表情で、千鶴におめでとうと言ってくれた。
千鶴はようやく新たな一歩を踏み出せた気分になった。いろいろありはしたけれど、これでよかったのだという気持ちになれた。
後ろにいたスタニスラフに千鶴が涙の笑顔で話を伝えると、スタニスラフは大喜びをして甚右衛門に両手を合わせた。それから千鶴を抱きしめ、甚右衛門の前であることも忘れて千鶴に口づけをした。千鶴もそれを拒まなかった。
千鶴の胸の中は、安堵と喜びでいっぱいだった。進之丞の顔が浮かぶこともなく、気持ちはすでにスタニスラフの妻だった。
はしゃぐ声が聞こえたからか、忠之が伝蔵に付き添われながら近くへやって来た。スタニスラフは忠之をにらまずに、勝ち誇った笑みを見せた。
一方、千鶴はと言うと不思議なことに、忠之を見ても何とも思わなかった。少し照れくさい気持ちはあったが、後ろめたさはなかった。
何故か千鶴は進之丞の存在を忘れていた。顔が浮かばないだけでなく、進之丞がいたという事実そのものが、千鶴の頭から抜け落ちていた。そのため進之丞と同じ姿の忠之を見ても、これまでのように心は騒がなかった。
今の千鶴にとって、忠之は山﨑機織の元使用人で優しい人だという認識しかなかった。ただ具体的にどう優しいのかはわからない。進之丞を忘れているので、忠之が進之丞と同じ優しさを持っているということも、千鶴は忘れていた。
忠之が大怪我をしたらしいことや、和尚夫婦が忠之の親代わりであることはわかっていた。しかしそれ以外のことはわからなかったし、知ろうとも思わなかった。
ただ、忠之には何か心惹かれるところはあった。特に親しくした覚えはないけれど、げっそり痩せている弱々しげな姿が、そう思わせているのかもしれなかった。
それでもスタニスラフの妻になる身では、忠之の世話をすることはできない。気にはなっても、もうすぐここを離れることになっている。
どうして自分たちがここにいるのかは忘れたが、山﨑機織が潰れたことは知っている。それで和尚たちの世話になっていると思ってはいるが、本当のところはわかっていない。
山﨑機織が潰れた理由も知らないし、女子師範学校へ通っていたはずが、どうなったのかも覚えていない。師範になった記憶はないから、家の事情か何かで退学をしたのだろうと思うのだが、何か学校で嫌なことがあったような気もした。
いろいろ記憶が曖昧で、妙な感じではあった。だが、いずれにしても久松伯爵夫妻に招かれた萬翠荘で一緒に食事をして踊った、スタニスラフと結婚するのである。そのためにスタニスラフはわざわざ神戸から迎えに来てくれたのだ。それは千鶴にとって喜びであり、他のことはどうでもよかった。
スタニスラフは少し強引なところはあるけれど、とても優しい人だ。ロシア兵の娘として肩身の狭い想いばかりして来た自分に、こんな幸せが用意されていたことが、千鶴には信じられなかった。
母や祖父母と離れるのは寂しいが、ずっと離れていた父と一緒に暮らせるのは楽しみだった。それに、まだ顔も知らないスタニスラフの母に会えるのも待ち遠しい。
もちろん外国であるヨーロッパに対しては、少なからず不安がある。それでも父もスタニスラフもいるから心配はいらないだろうと千鶴は考えていた。
これは千鶴にとって明らかに異常と言える事態である。しかし、千鶴は自分の状態について、少しも違和感を覚えていなかった。また家族や和尚夫婦にしても、やはりこれが千鶴の本音だったかと見ているみたいで、誰も千鶴の異常に気づいていないようだった。
三
夕食後、千鶴とスタニスラフは家族の目を逃れ、本堂脇の楠の陰で唇を重ね合っていた。だが何故か千鶴は急に悲しくなって、スタニスラフから離れた。
何かがおかしい。何かが違う。そう感じるのだが、それが何なのかはわからない。
境内は夕闇に包まれているが、まだ辺りの様子は窺える。掃除をし残したのか、千鶴の足下に一本の短い小枝が落ちていた。何気なくそれを拾おうとしゃがんで手を伸ばすと、不意に小さな手が横から伸びて来て、千鶴の手に重なった。
え?――と思って横を見たが、そこには誰もいないし、伸びて来たはずの手も消えていた。ただ一瞬だけ千鶴を見上げた男の子の顔が見えた。見えたというより、頭に浮かんだのかもしれない。
その男の子に見覚えはない。いや、見覚えがあるような気もしたが、一瞬のことなのでよくわからない。それでも男の子の姿は目に残っている。お芝居に出て来るような昔のお侍みたいな格好で、髷を結った頭には前髪が残っていた。
千鶴が驚いて立ち上がると、スタニスラフが再び千鶴を抱こうとした。
――千鶴。
千鶴に呼びかける子供の声が聞こえた。そちらへ顔を向けると、さっきの男の子が微笑んで立っていた。手には一輪の野菊の花を持っている。
自分はこの子を知っている。だけど、名前を思い出せない。
頭の中で、表に出て来られない何かが渦巻いているようだ。忘れているが、それはとても大切なことで、それがもう少しで姿を見せようとしている。何だかわからないが、胸が締めつけられて、涙が勝手にあふれ出る。何? この子は誰?
スタニスラフが千鶴の顔を自分の方に向け、顔を近づけて来た。千鶴が顔を背けると、まだ扉を閉めていない本堂が目に入った。そこには誰もいないが、千鶴には誰かがそこに立って祈っているように見えた。その誰かが祈っているのは、千鶴の幸せだった。
――あれは誰? なしてうちの幸せを祈ってくれとるん?
理由がわからないまま、胸の奥から悲しみが込み上げて来る。心の中でもう一人の自分が泣き叫んでいるようだ。
スタニスラフはもう一度千鶴の顔を自分に向けると、強引に唇を奪った。そんな気分ではなくなっていたが、千鶴はスタニスラフに抗えない。そのまま唇を重ね合っていると、頭の中で誰かがつぶやく声が聞こえた。
――おらはこの人と一緒におれて幸せぞな。この人が鬼であろうとなかろうと、そげなことは関係ない。たとえ死んでも、この人とのつながりはずっと残るんよ。ほじゃけん何があっても、おら安心しよるぞな。
千鶴は、はっとなった。それは天邪鬼に対して放った自身の言葉だった。
うろたえた千鶴は、押しのけるようにしてスタニスラフから体を離した。スタニスラフは怪訝そうに、どうしたのかと言った。しかし、千鶴は答えることができなかった。
今の自分の状況が理解できず、千鶴は混乱していた。
どうして忘れていたのだろう。悲しくつらい城山での出来事を、どうしたって頭から消えることがなかったあの時のことを、どうして忘れていたのだろう。
千鶴は自分が進之丞のことすら忘れていたことに気がついた。
たとえ死んでも進之丞とのつながりはずっと残ると、自分は天邪鬼に言い切ったのだ。それなのに実際はどうなのか。
スタニスラフとの祝言を挙げてもらえることや、父やスタニスラフと新しい暮らしをすることばかりに夢中になり、大切な進之丞のことは思い出しすらしていなかったのだ。本当であれば、今頃自分は進之丞の嫁になり、風寄で暮らしていたはずなのにである。
これはまるで誰かに進之丞の記憶を奪われたような感じだ。
スタニスラフはもう一度千鶴を抱こうとした。しかし、千鶴はスタニスラフから逃れて背中を向けた。
天邪鬼に対してあれだけの見得を切ったのである。また、進之丞も自分と縁があったことを、心の底から幸せに思っていると言ってくれた。それなのに――。
訝しがるスタニスラフに、少し一人にして欲しいと言って、千鶴はスタニスラフを無理やりどこかへ行かせた。
スタニスラフがいなくなったのを見届けると、千鶴は楠爺を抱いた。楠爺は物は言わないが、前世から見守り続けてくれている、千鶴の大切な知り合いだ。こうして楠爺を抱いていると、千鶴は気持ちが安らいだ。その安らぎは千鶴を前世へと導いてくれる。
ここで初めて進之丞と出逢い、進之丞と数え切れないほど遊んだのだ。嫁になって欲しいと進之丞に請われたのもここだった。
だが突然鬼に襲われ、進之丞は千鶴の身代わりに鬼となった。そして攘夷侍たちから千鶴を護って死んだ。
その進之丞と風寄で奇跡的に再会し、二年の間ともに暮らした。とても幸せな時だった。しかし、天邪鬼が二人の仲を引き裂こうとした。
鬼に変化した進之丞は天邪鬼と対決し、これを討ち果たしたあと、鬼とともにここで死んだ。祖父が撃った猟銃から千鶴をかばってのことだった。それはほんの一月ほど前のことなのだ。
どうしてそんなことを忘れていたのだろう。瀕死の鬼に自分に取り憑くように懇願したが、鬼はそうはしなかった。鬼は千鶴の幸せだけを考えてくれていた。その鬼のことを、どうして忘れていたのだろう。
楠爺を抱きながら千鶴は泣いた。自分が情けなくて泣いた。進之丞と鬼に詫びながら泣き続けた。
四
以前は千鶴は忠之の隣に布団を敷いてもらっていた。しかし今晩から幸子が忠之の傍に寝て、千鶴は別の部屋で一人で寝ることになった。そのことはスタニスラフを大いに刺激した。
みんなが床に就いたあと、スタニスラフは千鶴が寝ている部屋へ忍び込んで来た。二人が結婚するのは決まっているので、別に構わないと思ったのだろう。恐らく千鶴もそれを望んでいると考えたのか、少なくとも拒みはしないと考えたに違いない。
一方、千鶴は大切な進之丞を忘れていたことで、深く落ち込んでいた。布団に入ってもなかなか眠れず、自分をずっと責めながら進之丞に詫び続けていた。
そうして、もう一度進さんに逢いたいと願いながら、いつの間にかうとうとし始めたところを、突然何者かに起こされたのである。
布団に侵入して来た不埒者に体をまさぐられ、上にのし掛かられた千鶴は、大声で悲鳴を上げた。相手は慌てた様子で千鶴の口を手でふさぎ、僕デズゥ――と潜めた声で千鶴に呼びかけた。
千鶴は口をふさいだ手に噛みつき、この不埒者を布団の外へ蹴り出した。それから急いで体を起こすと着物の乱れを直しながら、闇に向かって怒鳴りつけた。
「あんた、いったい何考えとるんね! まだ祝言も挙げとらんのに何しよるんよ! この恥知らず! 獣!」
「チヨト、待テ下サァイ。怒ラナァイデ」
「うるさい! 出てけ!」
千鶴が投げつけた枕が当たったらしい。スタニスラフは小さく呻くと、そそくさと部屋を出て行った。
部屋の外で別の声が聞こえた。母や和尚たちが騒ぎを聞いて起きて来たらしい。スタニスラフが何か言い訳をしていたが、きつく叱られたようだ。
少しすると幸子が襖越しに千鶴に声をかけた。大丈夫かと聞かれたので大丈夫だと答えると、幸子は襖を開けずにそのまま行ってしまった。
しかし、本当は大丈夫ではなかった。体がどうにかなったわけではないが、千鶴は怒りが収まらなかった。
スタニスラフに起こされるまで、千鶴は進之丞の夢を見ていた。それを途中で起こされたのである。怒りが収まるはずがない。
しかも、ここは進之丞と鬼が死んだ場所である。本当ならば口づけさえ許されないのに、体を求めるなどとんでもないことだった。
スタニスラフがいなくなっても興奮冷めやらぬ千鶴は、進之丞に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。また、あんな男と結婚することになってしまった自分が情けなくて死にたくなった。
しかし、今日の自分は進之丞のことを忘れ、スタニスラフと結婚できることを喜び、みんなから隠れて逢瀬を楽しんでいたのだ。今も進之丞のことを忘れたままであったなら、きっとスタニスラフの求めに応じていたに違いない。
進之丞と鬼が死んだこの場所で、そんなことをしている自分を思い浮かべると、千鶴は大声で叫びたくなった。そんなことをするなら死ぬ方がいいと思った。
どうしてこんなことになってしまったのか。千鶴はうろたえながら考えた。そして、これは天罰に違いないと受け止めた。
そもそもはスタニスラフに甘えたのが間違いだった。
スタニスラフがここへ残ることを許し、忠之の世話を離れてスタニスラフの元へ行ったのは、進之丞を思い出す悲しみから逃げていたのである。だが考えてみれば、それは進之丞を記憶から消そうとするのと同じだった。
また忠之の世話をするのは、直接お詫びができない進之丞に代わっての罪滅ぼしのはずだった。それを放棄したのは、進之丞の想いを捨てたのと同じことになる。
スタニスラフが来てから、進之丞と鬼が死んだ場所で祈りを捧げることもしなくなった。どんなに言い訳をしたところで、祈りよりもスタニスラフを尊重したのは事実である。本当に祈りを大切に思うなら、スタニスラフを神戸へ追い返せばよかったのだ。
忠之に心を奪われそうになって、スタニスラフに助けを求めた時、確かに動揺はしていた。それでも一緒に連れて行って欲しいと願った背景には、心のどこかに萬翠荘でスタニスラフに感じた想いが残っていたのではなかったか。
スタニスラフが法正寺に残ることを望んだのも、あの時の陶酔感がまだ忘れられていなかったのだろう。しかし二人が萬翠荘で踊っていた時、進之丞は陰からその姿を眺めて泣いていたのだ。それなのにスタニスラフに傍にいて欲しいと願うなんて、自分のことしか考えないとんだ恥知らずだ。
スタニスラフが唇を求めて来た時、それを拒むことはできたはずだった。なのに、それを拒まずに進之丞を心の奥へ押し込めたのは、どう考えたって進之丞への裏切りだ。
結局は我が身が可愛かっただけであり、つらさや責任から逃れることばかり考えて、進之丞のことは二の次にしていたのである。
不動明王は地獄から千鶴を救おうとした進之丞の想いに応えて、進之丞を忠之の体に宿らせた。
進之丞は与えられた命を使い、千鶴の幸せだけを考えて生きて来た。そして千鶴を護って死んだのに、千鶴は進之丞より己のことだけ考える道を選んだのだ。
だから不動明王がお怒りになり、進之丞の記憶を奪ったのだと千鶴は考えていた。それほど進之丞より自分を大事に思うのならば、願いどおりにしてやろうというわけだ。
だが、スタニスラフとの暮らしに幸せがあるとは思えない。相手のことなど考えず、自分の気持ちだけで動くスタニスラフが、幸せにしてくれるわけがないのだ。それにいつも監視するような嫉妬深さには息が詰まる。スタニスラフにとって、自分は籠の鳥だった。
心の赴くままに生きればそこに幸せが待っていると、進之丞は言った。きっと進之丞は、千鶴が忠之に心が惹かれるとわかっていたのに違いない。それで忠之に千鶴の幸せを託すつもりだったのだ。
しかし千鶴は自分のつらさや責任から逃れようとして、スタニスラフをその気にさせた。すぐに間違いだったと言えばよかったのに、今度は自分の言葉に責任を感じて、スタニスラフの物になってしまった。スタニスラフがどんな人間かがわかっていたはずなのに。
進之丞のことを忘れ、スタニスラフとの結婚を喜ぶ自分は、何もわからない愚かな生きた屍だと千鶴は思った。本当は死んでいるのに、生きているつもりの屍である。
進之丞の存在を忘れるのは、進之丞を消し去ることであり、進之丞の命を奪うことと変わらない。それは前世で鬼に魅入られた時の自分であり、今世で進之丞を殺すよう暗示をかけられた自分と同じだった。これを天罰と言わずして、何と言えるだろう。
これまでの己を顧みた千鶴は、項垂れるしかできなかった。言い訳をするならいくらでもできた。だが、どんなに言い訳をしたところで意味がないことは、今の自分を見ればわかることだ。
千鶴はすぐにでもスタニスラフとの結婚をご破算にしたいと思った。
だが、すべては二人の結婚へと動き出している。松山では組合長が二人の祝言の準備を進めてくれているし、あれほど猛反対した家族や和尚夫婦も、二人の結婚を祝福してくれたのだ。それを再びなかったことにするとは、なかなか言い出せるものではない。
自分勝手にスタニスラフとの結婚を宣言し、それを無理やり認めさせたのに、また自分勝手にやめるのかと言われるのが怖かった。
――みんな、自分ばかりが大事なんだ。それが人間ってもんなのさ。口でどんなにきれい事を言ったって、そんなの全部嘘っぱちなんだよ!
天邪鬼の声が聞こえる。そうなのだ。天邪鬼の言うとおりだ。結局は自分が傷つくのが嫌なのだ。スタニスラフに間違いだったと言えなかったのも、嘘つき呼ばわりされたくなかったからだ。
本当はどうすればいいのかわかっているのに、傷つくのが怖くて動こうとしない。そうして動こうとしない言い訳ばかり探している。
二度と進之丞のことを忘れまいと思いながら、スタニスラフとの結婚を取り止める勇気がないのも、みんなから何と言われるかが怖いからだ。本当に今でも進之丞が大事なら、今すぐにでもスタニスラフの所へ行って、結婚はしないと言うべきなのだ。それをやらない後悔など嘘っぱちである。
千鶴はさっき見ていた夢を思い返した。それは前世や今世での進之丞の記憶が色のない映像となって、走馬灯のように声も音もないまま、静かに現れては消えるというものだった。
そこには何の感情もなく、千鶴はただ流れる白黒の映像を、ぼんやりと眺めていただけだった。進之丞との思い出を目にしていたのに、何も感じなかったのである。
それは何とか取り戻したはずの進之丞の記憶が、再び失われてしまうことの暗示のようだった。
このまま再び進之丞の記憶を奪われることは、千鶴にとって何より重い罰であり、死ぬよりつらいことである。せっかく進之丞のことを思い出したのに、その重い罰が改めて執り行われようとしているようだ。
千鶴はうろたえて泣いた。たとえ独りぼっちであっても、進之丞とのつながりを信じていれば、立派に生きて行けるはずだった。それなのにこうなったのは、進之丞の死を嘆くばかりで、二人のつながりを信じることを忘れていたからだ。
千鶴は進之丞に詫びながら、スタニスラフとは結婚しないと約束した。不動明王にも、もう二度と道を踏み外しませんと誓った。その証として、明日の朝一番にみんなの前で結婚はしないと告げることを、不動明王と進之丞の双方に宣言した。
当然スタニスラフは怒るだろう。みんなにも呆れられるに違いない。それでもそうすることが正しい道であり、そうしなくてはならなかった。詫びる相手にはきちんと頭を下げ、誤った道を正すのである。
千鶴は進之丞の記憶を確かめるため、また自分を鼓舞するためにも、進之丞と過ごした日々のことを思い浮かべようとした。ところが何も浮かんで来なかった。ついさっき見たはずの夢さえもが、まったく思い出せなくなっている。
驚いた千鶴は何でもいいから思い出そうとした。しかし何とか思い出せたのは、風寄で進之丞に助けてもらったことや、春子と一緒に進之丞に人力車で運んでもらった時のことぐらいだった。
進之丞と山﨑機織で過ごした思い出は、何一つ浮かんで来ない。進之丞の姿どころか、進之丞と一緒に過ごしたはずのことが、何も思い出せないのである。
進之丞以外の者たちとのことは、簡単に思い出すことができた。可愛い丁稚たちの言い争う様子はまざまざと思い出せるし、辰蔵や花江の笑顔もすぐに思い浮かべることができた。弥七や孝平の顔でさえ覚えているのに、進之丞のことだけが思い出せないのだ。
それはまるで山﨑機織には、進之丞が存在していなかったかのようだった。
千鶴は焦った。これまで何があったのかを思い出しながら、その時のことを懸命に思い浮かべた。だが、やはり無理だった。
風寄へ進之丞を迎えに来て、自分も前世のことを覚えていると告げ、互いに抱き合って泣いたことは、事実としては思い出した。しかし、その時の場面が浮かんで来ない。
千鶴は初めて鬼が現れた夜のことを思い出そうとした。
萬翠荘での晩餐会や舞踏会が楽しかったことや、人力車の中でスタニスラフに心が揺れたことは、今もそこにいるかのように思い出せる。そのあと特高警察に捕まって、暗い夜道へ連れ込まれた時のことも目に浮かべることができた。
ところが、そのあとのことが思い出せなかった。
鬼が助けてくれたことはわかっている。しかし、その鬼の姿が思い出せないし、鬼が何をしたかもわからなかった。
高浜港で父とスタニスラフを見送った時のことは思い出せた。そのあと、進之丞を探して泣いたことは覚えているのに、進之丞が姿を見せてくれた場面が思い浮かばない。
雲祥寺の墓地で自分の正体を明かした進之丞と、ともに泣いた時のことも、進之丞が特高警察や荒くれ男たちと戦ってくれた時のことも、何も思い出せない。
あの城山で天邪鬼と対峙した時のことですら、千鶴は思い出せなくなっていた。そういう事実があったことはわかっているが、その事実があったことさえもが、今にも消えて行きそうな儚い感じがする。
嵐の中を瀕死の鬼に法生寺まで運んでもらい、死にゆく鬼に縋って泣いたことも遠い夢の世界のようだ。
鬼がどんな姿をしていて、進之丞とどんな別れをしたのかも、よくわからなくなっている。出来事そのものが記憶からほとんど消えかけていた。
不動明王に詫びたはずだが、明王の怒りは解けなかったらしい。何より大切だった進之丞が、どんどん自分の中から消えて行く。それを止められない千鶴は叫びたい気持ちになった。
辛うじて残っている初めて出逢った時の進之丞の顔を思い浮かべ、どうか消えないでと千鶴は必死に祈った。しかしその顔もはっきりしない上に、次第に自分とは関係のない他人の顔のように思えて来る。
このまま眠ってしまえば、次に目が覚めた時には、進之丞のことはすべて忘れているような気がして、千鶴は眠ることができなくなった。どうすればと考えるうちに、進之丞という名前さえもが、誰のことなのかがわからなくなるようだ。
五
翌朝、千鶴は暗いうちから布団を出ると、まだ寒いままの客間へ行って、知念和尚と安子が起きて来るのを待った。結局、昨夜はあれから一睡もしていない。
初めは忠之の所へ行ってみようかとも思った。忠之といれば進之丞のことを忘れないかもしれなかったし、忠之ならば今の自分の話を聞いて力になってくれるような気がした。
しかし、忠之の傍には母が寝ている。祖父母が寝ているのもその近くだ。部屋は真っ暗だし、そんな所へ忍び込むのは、さっきのスタニスラフと同じだ。
それで和尚たちを待つことにしたのだが、待っている間にも、どんどん記憶が消えて行く。何度も忠之を起こしに行こうかと迷っていたが、そのうち忠之を起こす理由すらわからなくなっていた。
しばらくすると安子が現れ、千鶴を見つけて驚いた。
どうしてこんな早く起きるのかと言われ、千鶴はうろたえながら自分に起こった異変を必死に訴えた。だが、話しながらも進之丞の名前がすぐに出て来ず、涙がぼろぼろ出るばかりだった。
安子は千鶴に待つよう言うと、知念和尚を連れて来た。和尚は少し寝惚けた様子だったが、千鶴の話を聞くと眉をひそめて、うーむと唸った。
安子が火鉢を用意する傍らで、千鶴はスタニスラフと結婚することになったのは、進さんを忘れないためだったと打ち明けた。
どういうことかと問う和尚たちに、佐伯さんに心を奪われそうになり、それが怖くなって逃げたと千鶴は言った。そこへスタニスラフから、すぐに神戸に戻ることになったと聞かされて、自分も一緒に行くと思わず言ってしまったと、泣きながら告白した。
決してスタニスラフと結婚したいと思ったわけではなく、ただここから逃げたかっただけですと千鶴は泣きじゃくった。そして、スタニスラフの誤解を解くことができず、みんなに嫌な想いをさせたことを悔やんでいると、項垂れながら和尚夫婦に詫びた。
和尚も安子も話はわかったからと千鶴を慰めた。二人とも初めて知った千鶴の心の内に安堵した様子だ。
よく話してくれたと二人は千鶴をいたわったが、千鶴は泣きながら自分には天罰が下ったと言った。
「うちには進さんがすべてでした。佐伯さんのお世話も、進さんに代わってのお詫びのはずでした。ほれやのに佐伯さんから逃げ出して、こがぁな進さんを裏切るようなことをしてしもたけん、お不動さまがうちから進さんを取り上げんさったんぞな」
泣き崩れる千鶴を、和尚と安子はもう一度慰めた。
千鶴が少し落ち着きを取り戻すと、和尚は千鶴が何を覚えていて何を覚えていないのかを聞き取った。また覚えていることについても、関心が薄れて行くものは何なのかを確かめた。
そのあと和尚はふーむと言うと、千鶴に前世のことを思い出せるかと訊ねた。
千鶴は前世の記憶を探ってみたが、思い出せることは何一つなかった。当時のことが思い浮かばないどころか、何があったのかをすべて忘れてしまっていた。
遍路旅をしている時に母親が鬼に殺されたことや、子供の頃の進之丞との出逢い、鬼との戦いや進之丞との死別など、和尚は前世の出来事を千鶴に確かめた。だが、千鶴はそんなことがあったことすらわからなくなっていた。
知念和尚は、ほういうことか――とうなずいた。
どがぁなことねと安子が訊ねると、和尚は千鶴と安子を見比べながら、恐らくやがなと前置きをして言った。
「千鶴ちゃんの中におったな、前世の千鶴ちゃんが姿を消したに違いないぞな」
「前世のうち?」
「つまりじゃな、千鶴ちゃんは進之丞に出逢う前の、元の千鶴ちゃんに戻りつつあるいうことぞな。前世のことも進之丞のことも、まだ何も思い出しとらなんだ頃の千鶴ちゃんに戻ろとしとるんよ。ほじゃけん、決して天罰が下ったわけやないとわしは思うぞな」
和尚の説明は理に適っているように聞こえる。それでも、どうして前世の自分が姿を消したのか、千鶴には理解ができなかった。
「なしてそがぁな……」
「人は生まれ変わっても、前世のことなど覚えちゃせん。しかし、前世のまんまの進之丞が現れたことで、千鶴ちゃんの中におった前世の千鶴ちゃんが、引っ張り出されることになったんよ」
「千鶴ちゃんが前世の記憶を思い出したんは、そがぁなことやったんですね?」
安子の合いの手に、知念和尚はうなずいた。
「ところが、その進之丞がおらんなってしもたけん、前世の千鶴ちゃんは今世に留まりにくなったんじゃろな」
和尚の説明は、千鶴にはわかるようでわからない。
「ほれは、どがぁなことですか?」
「進之丞がおったなら、前世の者同士で喋ったり、前世の話をすることで、お互いを確かめ合えろ? けんど、片方がおらんなってしもたら、残された方は出番がのうなってしまうけんな」
「ほやけど、うちはずっと覚えとりました」
「ほんでも、千鶴ちゃんは忠之の傍におって、進之丞のことを思い出すんが嫌じゃったんじゃろ?」
千鶴は言葉が返せなかった。しょんぼり下を向いた千鶴に、和尚は言った。
「進之丞が死んで悲しんだんは前世の千鶴ちゃんで、その悲しみから逃れたいと思たんは今世の千鶴ちゃんじゃと考えたら、どがぁかな?」
「ほんでも、千鶴ちゃんは進之丞さんのこと、忘れとなかったんよね?」
安子が千鶴を慰めるように声をかけた。千鶴はこくりとうなずき、昨日の昼までは覚えていたと訴えた。
「昨日の朝、うちはこれまでのことを佐伯さんにすべてお話しました。ほん時は全部覚えよったし、佐伯さんから逃げたんも、あの人のことが頭にあったけんです」
「じゃあ、いつからわからんなったんぞな?」
千鶴は小首を傾げ、昼飯を食べたあとだろうかと言った。しかし、すぐにその言葉を否定した。
昼飯の時、スタニスラフがいなくなった隙に忠之が来てくれた。あの時、千鶴は忠之に自分の本当の気持ちを知って欲しいと思ったが、進之丞のことは頭になかったような気がした。
昼飯の前、スタニスラフと一緒に行くと宣言した時、家族は進之丞の名前を出して千鶴を責めた。千鶴は言われたことは理解したし話を聞くのがつらかった。しかし、あの時に進之丞のことを思い浮かべていたかと考えると、そうではなかったように思えた。
あの時は大変なことをしたという想いばかりで、進之丞に詫びることより、みんなから責められるつらさだけが頭にあった。それは進之丞の記憶が消える兆候が、すでにその時に始まっていたということだ。
では、いつ進之丞は千鶴の中から姿を消したのか。千鶴ははっとなった。
スタニスラフに唇を許した時、千鶴は進之丞を心の奥に押し込めた。思えば、それから進之丞の姿が思い浮かんだことはない。
千鶴は半分開いた口をわなわなと震わせ、己の愚かさに泣いた。
「どがぁしたんな? 何ぞ思い出したんかな?」
知念和尚が訊ねると、あの人――と千鶴は泣きながら言った。
「うちは、あの人を押し込めてしもた……」
「あの人? あの人とは誰のことかな?」
進之丞という名前が出て来ない。
「あの人は……、あの人ぞなもし」
千鶴は答えながらうろたえた。心の中から進之丞が再び消えようとしていた。
「あの人て、進之丞さんのことでしょ?」
安子が助け船を出してくれたので、千鶴は辛うじて進之丞の存在を引き留めることができた。
「うちは進さんを心の奥に押し込めてしもたんです。スタニスラフさんに抱かれた時に、進さんに見られとなくて押し込めてしもたんです」
項垂れる千鶴に、なるほどなと知念和尚は言った。
「千鶴ちゃんは、ほん時に前世の千鶴ちゃんも、進之丞と一緒に心の奥に押し込めてしもたんかもしれまい」
和尚の説明に、安子は疑問を投げかけた。
「ほうやとしても、今の千鶴ちゃんにも進之丞さんと一緒に過ごした記憶があるはずやないんですか? 前世のことがわからんなるぎりならともかく、今世のことまで忘れるてどがぁなことじゃろか?」
「これも恐らくやが、今世についても進之丞の記憶があるんは、前世の千鶴ちゃんじゃったということじゃろ」
安子は眉間に皺を寄せて首を振った。
「そがぁな説明じゃ、さっぱしわからんぞな。もちっとわかりやすうに言うておくんなもし」
「つまりじゃな、今世で進之丞と喋ったりしよったんは、実は前世の千鶴ちゃんであって、今世の千鶴ちゃんは前世の千鶴ちゃんの後ろで、ほれを眺めよったぎりいうことぞな」
安子はうーんと唸り、もう少しやさしく言って欲しいと言った。自分もわかってるわけではないと前置きをして、和尚は喋った。
「今の千鶴ちゃんが進之丞のことがわかるんは、前世の千鶴ちゃんと記憶を分かち合いよったけんじゃろと思う」
「記憶を分かち合う?」
和尚はうなずくと、話を続けた。
「進之丞は前世の人間じゃけん、たとえ今世のことであっても、進之丞と喋ったり、進之丞のことを考えるのは、前世の千鶴ちゃんなんよ。今世の千鶴ちゃんはその記憶や考えを分けてもらうことで、自分が進之丞のことをわかった気になるんぞな」
「ほじゃけん、前世の千鶴ちゃんがおらんなったら、今世の千鶴ちゃんは全部わからんなってしまうわけですか?」
「たぶん、ほういうことやと思う。千鶴ちゃんが何とか進之丞のことがわかるんは、前世の千鶴ちゃんが後ろでこそっと顔を出しよるんよ。ほんでも完全に隠れてしもたら、千鶴ちゃんは進之丞のことは一切わからんなってしまうんじゃろ」
それはスタニスラフとの祝言に浮かれていた時のことだろう。和尚の説明では、その自分こそが今世の本来の自分であるわけだ。しかしあの愚かで破廉恥な自分は、生きた屍以外の何物でもない。
ほんな――と千鶴は肩を落としたが、またもや進之丞の名前がわからなくなっている。
「あの人はうちにとっても大切なお人ぞな。その人のことを忘れるやなんて……」
涙を流す千鶴に、安子は優しく言った。
「そがぁに心配せいでも、また思い出すぞな。ほれより、あのロシアの子との結婚はどがぁするつもりぞな? 今のままにするん?」
いいえと千鶴は首を振った。
「結婚は取り止めたいて思とります。何べんも言うこと変えたら、みんなから叱られるかもしれんけんど、うちはもう決めました。明日の朝一番で、みんなの前でそがぁ言うつもりぞなもし。もちろんスタニスラフさんにも謝ります」
知念和尚と安子は嬉しそうにうなずいた。
「ほうじゃな。ほれがええ。千鶴ちゃんがやっぱし結婚やめるて言うても、誰も怒ったりせんけん」
「ほうよほうよ。千鶴ちゃんのほんまの気持ちがわかったら、みんな喜んでくれるぞな。ほじゃけん、何も心配せいでも大丈夫」
二人は千鶴を励ました。だが、どうしてスタニスラフとの結婚を取り止めようと思ったのか、千鶴にはその理由がわからなくなっていた。
「進之丞のことはともかく、スタニスラフとの結婚は絶対に止めといた方がええわい」
「ほうですよね。ぎりぎりじゃったけんど、千鶴ちゃんのほんまの気持ちが聞けてよかったぞなもし」
和尚と安子の会話が、千鶴には二人が遠くで喋っているように聞こえていた。まるで自分とは関係のない話をしているようだ。
千鶴の様子に気づいた二人は、焦った様子で千鶴に声をかけた。しかし、千鶴の頭は次第にぼやけて行くようだった。
忠之が二年の記憶を失ったことを、千鶴は微かに覚えていた。その忠之を見捨てるようなことをしたから、こんなことになったのかと、千鶴はぼんやりする頭で考えた。だが、その考えもすぐに消えてしまった。
「千鶴ちゃん、しっかりするんよ」
安子が泣きそうな顔で声をかけている。知念和尚も必死に、がんばるんぞなと千鶴を励ましている。だが、千鶴には二人が何を言っているのかがわからなかった。
「あの……、うちはここへ何しに来たんでしょうか?」
訊ねる千鶴に、和尚と安子は顔をゆがめた。
自分が泣いていたことを知った千鶴は、慌てて涙を拭いたあと、どうして自分は泣いていたのかと和尚たちに訊いた。
だが、和尚も安子も何も答えてくれなかった。代わりに今度は二人が泣いた。