破局
一
事件のせいで、幸子と辰蔵の祝言は取り止めとなった。当日、仕立てた婚礼衣装が届けられたが、袖を通すことなく仕舞われた。
仲人をするはずだった組合長夫妻はもちろん、近所の者たちにも何が起こったのかを、甚右衛門は恥を忍んで話さねばならなかった。
甚右衛門は我が息子の愚かさを認めながらも、事件の主犯はごろつきたちを金で雇った者だと強調した。ただ、その黒幕が千鶴たちを襲わせた理由までは説明できなかった。
また、忠七は男たちを打ちのめしたために喧嘩両成敗で逮捕されたと語った。けれど、弥七がどうして逮捕されたのかは黙っていた。すると、みんなは弥七も千鶴と花江を助けるべく、忠七と一緒に男たちと戦ったのだと勝手に解釈した。
取材に来た新聞記者にも、甚右衛門は同じように説明をした。ところが、記者は弥七が逮捕された理由を知っていた。そこを問われると、甚右衛門は何も言えなくなった。
千鶴と花江は悪いのは男たちであり、忠七さんは自分たちを護ってくれただけだし、弥七さんは男たちに利用されただけですと訴えた。しかし、あとで新聞に掲載された記事では、事件はやくざを巻き込んだ山﨑機織の内輪の揉め事として書かれ、千鶴たちはひどく打ちのめされた。それでも、やらねばならない仕事は山積みだった。
進之丞と弥七が警察に捕まっているので、山﨑機織は手代がいない状態だ。店は甚右衛門が守り、注文取りも注文の品を運ぶのも、辰蔵と慣れない丁稚たちで手分けしてやるしかなかった。
けれどすべての店を辰蔵が廻るわけにもいかず、店によっては亀吉たち丁稚だけで廻りもした。同情してくれる店もあったが、手代が来ないことに文句を言う店もあり、山﨑機織はやくざの集まりかと蔑む店もあった。以後の付き合いを拒まれたり、注文が欲しいのであれば値下げをしろと無理を言われたりもした。
丁稚たちは涙を堪えながら懸命に働き続け、辰蔵も毎日くたくただった。
直接注文をしに来る客もぱったりと途絶えた。辰蔵たちが外へ出ている間、甚右衛門は所在なげに帳場に座るばかりだ。時折、同業組合の組合長や近所の者たちが慰めと励ましの言葉をかけてくれたが、それだけではどうにもならなかった。
辰蔵たちが一日の仕事を終えて戻って来ると、甚右衛門はすぐに警察へ向かい、進之丞と弥七の釈放を訴えた。千鶴とトミも同行し、着替えや食べ物を二人に届けた。
弥七はともかく進之丞の逮捕は誰もが納得していない。進之丞は千鶴たちを助けただけだ。それも普通であれば誰もが尻込みする相手に、たった一人で立ち向かったのである。本来なら英雄扱いされるべきところなのだ。
その結果、相手が重傷を負ったにせよ、それは向こうの責任であって進之丞の責任ではない。なのに逮捕された上になかなか釈放されないことに、甚右衛門もトミも怒りを覚えていた。
一方、トミは弥七を恩知らずと罵り、弥七なんか放っておけばいいと言った。だが、甚右衛門は弥七を唆したのは我が息子の孝平だと理解している。それに山﨑機織の責任者だ。事件への感情はあっても、店の主として知らぬふりはできなかった。
そうはいっても弥七が釈放されたところで、再び手代として使うのはむずかしいに違いない。今の取引先の雰囲気を見ても弥七が受け入れられるとは思えないし、辰蔵たちが弥七を許すかどうかもわからない。何より弥七自身がここにいられないだろう。
いずれにしても店として弥七をどうするかは、弥七が釈放されてから決めると甚右衛門は考えていた。
事件当日病院で働いていた幸子は、仕事を終えて家に戻った時に初めて何が起こったのかを知らされた。激しく動揺した幸子は仕事など手がつかなかったが、病院の勤務を休むわけにはいかなかった。
新聞にも載った事件は病院にも伝わり、院長たちは祝言が中止になったことも含めて、幸子に同情を寄せた。同時に、みんなが事件の真相を知りたがってあれこれ訊こうとするので、幸子は居たたまれない状況にあった。患者ですら幸子が山﨑機織の人間だと知る者たちは、自分の病気や怪我のことも忘れて、何があったのかと幸子を質した。
幸子は悲しみに耐えながら働くしかなかった。家に戻っても、いるのは使用人たちだけで話し相手はいなかった。
甚右衛門の指示で、使用人たちは先に食事を済ませることになっていた。幸子は食事を取らずに茶の間で縫い物をしながら、千鶴たちが警察から戻るのを一人で待ち続けた。そんな幸子に遠慮しながら、辰蔵たちは隣の板の間で夕飯を食べた。ほとんど誰も喋らない暗い雰囲気の中での食事だ。
千鶴たちが戻って来ると丁稚の三人は挨拶をして二階へ上がり、辰蔵は食事をする甚右衛門の横でその日の報告をした。しかし、甚右衛門が明るい話を聞ける日はなかった。
来る日も来る日も同じような報告で、山﨑機織との取引を止めるとか、品物の値を下げろという話ばかりだ。それを甚右衛門は拷問にかけられているみたいな顔で聞くのだが、途中で鳩尾を押さえて食事をやめるのが決まりになっていた。
千鶴たちが食事をする間、花江は一人で板の間に座って繕い物をした。けれど辰蔵の報告が聞こえるたびに、手を止めて悲しげにうつむいた。
事件について花江は深く責任を感じていて、警察での事情聴取が終わったあと、自分に暇を出してほしいと甚右衛門に願い出た。だが甚右衛門は花江のせいではないと言い、逆に愚かな息子がしでかしたことを花江に詫びた。そして、引き続き山﨑機織を助けてほしいと頼んだ。実際、今花江にいなくなられたら山﨑機織は立ちまわらなかった。
トミも花江が孝平についた嘘について怒ったりはせず、悪いのは孝平だと言った。また辰蔵と花江が好き合っていたのに気づかずにいたことを、悪かったねと逆に花江と辰蔵に詫びた。
辰蔵も花江も黙って頭を下げ、花江は山﨑機織に残ることになった。けれども店の状況を見ると、花江にとっては針の筵に座らされているようなものに違いなかった。
二
事件の三日後、千鶴たちが警察を訪ねているところに、道後の花街で捕まった孝平が連行されて来た。
甚右衛門は孝平につかみかかろうとしたが、近くにいた巡査たちに押さえられた。孝平は下を向いて泣いていたが、詫びも何も言わないまま連れて行かれた。
甚右衛門をなだめた巡査は、今の時点でわかっていることを話してくれた。それによれば、男たちの頭目は熊の平次という名で知られる、裏の世界では恐れられた男だった。他の男たちは平次の手下に過ぎず、今回の事件の目的も真相も聞かされていなかった。
といっても、すべての男から話が聞けたわけではない。ほとんどの者は喋れる状態になく、話ができた男たちも寝台に寝たままで動くことはできないらしい。
事情を知る平次は意識を取り戻したが、正気を失ったように意味もなく怯え続けているという。それでも一応の会話はできるので取り調べがされたのだが、首をかなり痛めているし両腕を折られているので、他の者同様に寝台に寝たままの取り調べとなった。
質問をされると、平次は呆けた様子になって素直に答えるらしいが、御廟所で何があったのかは一つも覚えておらず、その話になると狂ったように騒ぎだすと巡査は言った。
けれども、平次は自分が何をするつもりだったのかは覚えており、横嶋つや子という女の指示で動いていたということを正直に喋ったようだ。それで巡査は横嶋つや子という女に心当たりがあるかと千鶴たちに訊ねた。
甚右衛門は驚きながら、それは忠七が捕まえた空き巣の連れの女だと言った。トミも目を見開いたままうなずいた。だが、つや子との関わりはそれだけで、他につや子の恨みを買うような真似をした覚えはないと甚右衛門は憤った。
巡査は甚右衛門を落ち着かせると、恐らく仲間を捕らえられた逆恨みでしょうと言った。また、そんなことでここまでする女は狂っていると、千鶴たちに同情を寄せた。
警察が平次から聞き出した話によれば、つや子は派手な柄の着物が似合う庇髪の女で、時々道後の酒場に顔を出していたという。平次はそこでつや子と知り合い、深い仲になると同時にお金で使われるようになったらしい。
しかし平次はつや子の居場所は知らなかった。つや子とは一緒に暮らしているわけではなく、つや子の方がぶらりと現れて、お願いという形で平次に指示を出すそうだ。
つや子がどこの生まれで、どういう人物なのかを平次は知らないし、つや子が千鶴たちを襲う理由も聞かされていなかった。平次が関心があるのは、お金だけだった。
自分が御廟所で倒れていたことについては、平次は何も話せなかった。忠七に両腕を折られたことも覚えておらず、今の自分の状態には戸惑っているようだ。
一方で、進之丞もその時のことは覚えていないと答えていた。無我夢中だったという意味だが、警察がそれを鵜呑みにするはずがなかった。そもそも一人の人間が十五名の荒くれ者たちを不具にできること自体が信じられないことであり、佐伯が正直に喋るまでは釈放はむずかしいでしょうと巡査は千鶴たちを落胆させた。
巡査は千鶴に進之丞が平次に何をしたのか教えてほしいと言われた。千鶴は困惑しながら頭をめぐらせ、忠七さんは動きがとにかく素早いので、あっという間に平次を倒したけれど、何がどうなってというのは自分にはわからないと話した。
ほうですかと巡査は残念そうに言い、この話はこれで終わった。
別の日に、警察は孝平と弥七について教えてくれた。それによれば山﨑機織を追い出された孝平は、道後の花街で下働きをしていたそうだ。
道後で花江を見かけた孝平は、辰蔵と祝言を挙げると花江に言われて花街へ逃げ戻ったが、何とそこへ弥七が訪ねて来たという。
孝平が山﨑機織にいた頃、弥七は孝平に反発していた。けれど休みの日に街で偶然出会った孝平が、未だに花江に心を寄せているのを知って気持ちが変わったらしい。
弥七は休みになると街へ出かけていたが、休みなのに千鶴を手伝う進之丞を見て焦ったようだ。それで同じ悩みを抱えた孝平に胸の内を聞いてもらい、べっ甲の櫛で千鶴の気を引くように促された。ところがそれが不発に終わったので、その愚痴を言うために弥七は孝平を訪ねたのだった。
弥七にも惨めな思いをさせたくなった孝平は、花江から聞いた話として、番頭の祝言に併せて千鶴も忠七と祝言を上げるようだと弥七に話した。花江と辰蔵の祝言と言わずに番頭の祝言と言ったのは、花江を辰蔵に奪われる屈辱を弥七に知られたくなかったからだが、このことが後に事態を大きくする要因になった。
弥七は孝平の期待どおりに動揺したが、うろたえる弥七を見ているうちに、孝平は弥七を利用して花江と辰蔵の祝言をやめさせることを思いついた。それが千鶴と花江を二人で手籠めにするというものだ。
自分が痛い目に遭ったことは棚に上げ、女は力尽くで物にしろと孝平は弥七に言った。また千鶴が祝言を挙げる前に、自分の物にしてしまえと弥七を唆した。
そんなのは無理だと弥七が怯むと、そうすれば千鶴に言われた特別な関係になれるし、甚右衛門が怒り狂っても世間体というものがあると孝平は説いた。弥七を追い出して千鶴を傷物のままにするよりも、弥七を千鶴の婿として受け入れる方を甚右衛門は選ぶはずだというのが、孝平の理屈だ。
それでもまだ弥七が迷っていると、千鶴の婿となった者がいずれは山﨑機織の主になるのだと、孝平は強調した。さらに、弥七にその気があるなら自分も一枚噛ませてもらって、花江を手に入れたいと付け加えた。これこそが孝平の本当の狙いだった。
この最後の言葉が、心が揺れる弥七にはとどめとなった。一人ではなく仲間がいることが、弥七に千鶴を襲う決意をさせた。
しかし孝平は店におらず、いるのは弥七だけだ。そんな状態でどうするのかと弥七が問うと、孝平は近くにいた平次に弥七を会わせた。
孝平は平次がどんな人間なのかを知っていて、いつもであればなるべく近づかないようにしていたというが、この時は平次の力を後ろ盾にしようと考えたらしい。
相談を受けた平次は力を貸すとは約束せずに、考えておくとだけ言った。そのあとで平次がこの話をつや子に伝えたところ、喜んだつや子は平次に具体的な指示を与えた。首尾よくいった時の報酬もあった。それが今回の御廟所事件の真相だ。
平次によると、何故かつや子は孝平と弥七のことを知っていたそうだ。そのことは千鶴たちを驚かせた。千鶴が料亭で特高警察に捕まったのも、つや子が千鶴と進之丞の動きを知っていたからで、つや子の不気味な影は千鶴を不安にさせた。
辰蔵と幸子を夫婦にすると甚右衛門が宣言をした日、弥七は慌てて道後の孝平を訪ねた。注文取りを後回しにしての報告だ。
弥七は番頭さんの祝言が決まったと孝平に伝えたあと、千鶴さんの話は出なかったが、どうなっているのかと訊いた。孝平は首を傾げながらも、花江の話は疑わなかった。そこで考えたのは、千鶴たちの祝言については予定が変わり、辰蔵とは別の日に執り行うというものだった。
いずれにしても千鶴と忠七は近々祝言を挙げるはずだとしながら、予定が先に延びたのであれば、弥七にとっては却って好都合だと、孝平は弥七を鼓舞した。弥七は少し気持ちが揺らいだが、計画は予定どおり行われることになった。
今更ではあるが、祝言について弥七が孝平に報告した時、番頭さんの祝言とは言わずに、番頭さんと幸子さんの祝言と言えば、恐らくこの事件は回避できたのである。
しかし、弥七は孝平が何もかも知っていると考えていた。その孝平が番頭の祝言と言うので、同じ言い方をしたらしい。結果的にこの二人の思い込みによる不運な会話が、つや子の思惑の実現につながったのだ。
事件当日の午前中、弥七は亀吉と二人で太物屋へ注文の品を納めに廻っていた。その時に弥七は甚右衛門やトミの予定を孝平に伝えた。その様子は亀吉が目撃しており、突然現れた孝平に弥七が何やら耳打ちをしていたと亀吉は証言した。
午後にいったん店を離れた弥七は、計画に従って辰蔵を帳場から離れさせた。甚右衛門が組合長の家で倒れたと伝え、辰蔵を組合長の家まで走らせたのだ。
そのあと弥七はトミが大林寺で倒れたと言って、千鶴と花江を引っ張り出した。ここまでが巡査が教えてくれた事の経緯だ。
もし進之丞が駆けつけていなければ、千鶴と花江は男たちの玩具にされた挙げ句に大阪へ売り飛ばされ、弥七と孝平は殺されて海に沈められていたはずだった。進之丞が千鶴たちを助けられたのは、豊吉の機転があったからだ。
三
太物屋を廻った時に弥七が孝平と喋っていた話を、豊吉は亀吉から聞かされていた。弥七に不審を抱いた亀吉は、あの二人は何だか怪しいと丁稚だけで話していたそうだ。
そのあと突然現れた弥七が、有無を言わせぬ形で千鶴と花江を引っ張り出し、帳場の辰蔵もいなくなっていたので、これは何かあると豊吉は思ったという。
千鶴から店番を頼まれたので、店を空けることに気が引けはしたが、豊吉は真っ直ぐ進之丞の元へ走った。
亀吉や新吉同様に、豊吉は進之丞を兄のごとく慕っていた。進之丞は豊吉の頭のよさを大いに評価したが、それが豊吉は何より嬉しかった。その敬愛する進之丞から、自分の留守中に千鶴や店に異変があったなら、すぐに知らせてほしいと豊吉は頼まれていた。
今こそ忠七兄貴に知らせる時だと思った豊吉は、時間帯から進之丞の居場所を考え、そこへ走った。豊吉の予想はどんぴしゃりで、異変を聞かされた進之丞は注文書を豊吉に預けると、疾風のごとくに大林寺へ向かったという。
まさに豊吉の大手柄であったが、まさか弥七がこんな大それたことをするとは、さすがの豊吉も思いもしなかっただろう。
ただ、千鶴たちの危機に進之丞が間に合ったのは、孝平のお喋りも幸いしていた。
当初の計画では、孝平と弥七は初めから千鶴たちを無理やり手籠めにして、自分たちの物にするはずだった。ところが花江に対して自分の優位性と正当性を誇示したくなった孝平は、花江を手籠めにする前に得意げに話しかけた。
けれど、ただの思いつきでは花江にいろいろ言われても返答ができず、ついには花江に言いくるめられた。だがそのやり取りがあったお陰で、進之丞が間に合ったのである。
「千鶴さんは以前にもごろつきたちに襲われたそうですな」
唐突に巡査が話したので、千鶴は大いに焦った。そんな話は初耳の甚右衛門とトミは驚いて千鶴に真偽を確かめた。千鶴は返答ができなかったが、巡査は構わず続けた。
「平次の取り調べには時間がかかりましてな。あとになってから、前にもつや子に頼まれて、手下のごろつきたちに千鶴さんと佐伯を襲わせたと言うんですわい」
「ほれはいつのことですかな?」
訊ねる甚右衛門に、春頃らしいぞなもしと巡査は言った。
「千鶴さんが佐伯と二人で郵便局へ行くのを待ち伏せしよったと言うとりました」
甚右衛門たちはあの時かとすぐにわかったようだ。何故黙っていたのかと問い詰められた千鶴は、家族に心配をかけたくなかったからと下を向いて言った。
「男たちには鬼山喜兵衛という剣道四段の用心棒がついとったらしいんですが、結局は全員が佐伯にぶちのめされたようですな」
またもや驚いた甚右衛門とトミは、喜兵衛の名前をもう一度巡査に確かめた。
「鬼山をご存知ですかな?」
「ご存知も何も、千鶴の婿にと思たことがある男ぞなもし」
「ほうですかな。ほれは何とまぁ」
巡査は唖然としながら、平次が十五人もの手下を率いたのは佐伯への警戒があったからだと言った。ところが進之丞の強さは平次の予想を遥かに超え、全員が病院送りになった。たかだか五名のごろつきに用心棒が一人加わったところで、進之丞に敵うはずがないのだが、巡査は進之丞が木刀を持った喜兵衛を素手で倒したことに注目していた。
甚右衛門もトミも喜兵衛に憤りを見せたが、忠七という男は何者かと思っただろう。それでも訝しむどころか、忠七は大した男だと二人で笑みを見せながらうなずき合った。
しかし、やはり警察では進之丞を怪しんでいた。どこでどうやってそんな強さを身に着けたのかと質したそうだが、進之丞は生まれつきだとしか言わないらしい。それで千鶴は進之丞の強さについて訊かれたが、わからないと惚けた。
「ところで、千鶴さんは以前に特高警察に捕まりそうになったと伺うとりますが、その後は連中と関わることはありませんでしたか?」
巡査が話題を変えると、千鶴はぎょっとした。料亭で見つかった男たちの様子が、今回のごろつきたちの状態と似ていると、警察では見たのかもしれなかった。
千鶴は何とか平静を装い、お陰さまで何もありませんと答えた。すると、すぐさま甚右衛門が言った。
「この子やのうて、この子の母親が誘拐されそうになったことはあるけんど、ほん時も忠七が連中をぶちのめして警察に突き出しとります。その話は聞いとりませんかな?」
巡査が少し苦笑しながら、聞いとりますと答えると、トミは鼻息荒く言った。
「そいつらは牢屋に入れられとるんじゃろ? こちらではうちらがロシアのスパイやないてわかってくんさっとるみたいなし、さすがに特高も出て来れまい」
巡査は、ほうですなと言った。実は男たちはすぐに釈放されたとは言えないのだろう。つまりこれ以上は料亭の話はできなくなったわけだ。意図せずして千鶴たちをかばってくれた祖父母に千鶴は感謝した。
平次もつや子から特高警察のことは聞かされていなかったようだ。また、あの時のごろつきたちも進之丞と戦うのに必死で、千鶴が料亭の中へ連れ込まれるところは見ていなかったと思われる。千鶴はほっとしながら言った。
「忠七さんが鬼山さんたちを打ちのめしたことも、罪として咎められるのでしょうか?」
「いいえ、ほれについては被害届が出とりませんし、誰が怪我をしたんかもわからんですけん咎めはありません。ほんでも、今回は重傷者がおるんがわかっとりますけん、佐伯のやったことが罪に問われる可能性はあるでしょうな」
巡査の返答に千鶴たちは猛抗議をした。けれど、巡査は申し訳ありませんがと言うばかりだった。
四
進之丞が千鶴や花江を護ろうとしただけだというのは、警察も理解していた。ただ、あまりにも人間離れした暴れぶりに、警察は進之丞が何者なのかを慎重に調べているらしかった。とにかくこの男をすぐに外へ出してはならぬというのが警察の姿勢だった。
とはいえ誰に正義があるかは、素人が見ても明らかだ。紙屋町の人々は進之丞の無実と即時釈放を訴え、多くの署名を集めて警察へ提出してくれた。それは普段の進之丞の人柄や働きぶりを、紙屋町の人たちが認めてくれていたということで、千鶴たちには何より心強く嬉しかった。
その署名の効果だろうか、進之丞は逮捕の一週間後にようやく解放された。だが、弥七と孝平は釈放されなかった。
事件の黒幕はつや子であり、千鶴たちを襲ったのはつや子の指示に従った男たちだ。孝平と弥七はつや子の存在を知らないし、男たちが自分たちとは別の指示で動いていたのもわかっていなかった。孝平たちはつや子に利用されたに過ぎない。
それでも事実を知るまでは、孝平たちには首謀者としての自覚はあった。二人の目的は明らかで、犯罪者として裁判にかけられるそうだ。また現場が大林寺の御廟所であることも問題視されていた。神聖な場所を汚したことでも二人は厳しく問われるようだ。
弥七は自分がしたことの意味を理解しており、深く悔いていた。事件のせいで店の経営が傾いている事実を知らされると、壁に頭を打ちつけて泣いたという。
一方、孝平は実家に迷惑をかけたとは思っていなかった。孝平が気にしていたのは花江だけだ。今も大林寺での花江の言葉を信じていて、自分を待っていてくれた花江に申し訳ないことをしたと、花江の話になると悄気るらしい。
二人とも山﨑機織の関係者であり、いわば身内の争いなので、甚右衛門たちが罪を軽減するよう申し出れば、情状酌量の余地はあると巡査は言った。
甚右衛門は弥七の罪を軽減してやってほしいと述べ、トミも渋々ながら夫の言葉に同意した。だが孝平については、甚右衛門は受けるべき罰を受けさせてほしいと願い、トミは死罪にしてもらっても一向に構わないと言った。
進之丞が釈放され、甚右衛門もトミも安堵の顔を見せた。
千鶴は人目も憚らず、進之丞に抱きついて泣いた。進之丞は千鶴を抱き返し、甚右衛門とトミに深々と頭を下げた。甚右衛門もトミも泣きながら、苦労をかけたと進之丞に感謝し、これから一からやり直しだと言った。
紙屋町の人々も進之丞が戻ったことを喜んでくれた。町中の人たちが進之丞のために署名をしてくれたと聞かされると、進之丞は男泣きに泣いた。その涙に他の者たちも釣られるように泣き、みんなで進之丞に拍手をした。
けれど、それでめでたしめでたしではない。山﨑機織が置かれた状況は最悪といえた。
翌日から進之丞は仕事に復帰したが、取引先の進之丞を見る目は冷ややかだった。
中には十五人ものやくざを相手に勇ましく戦ったと、進之丞を称賛してくれる者もいた。しかし、進之丞をただの乱暴者と捉える者も少なくなく、注文する物は何もないと言われることが多かった。かつては娘の婿になってくれと言っていた所も、手のひらを返したごとき応対を見せた。
事件は大阪にも伝わったみたいで、胡散臭い所とは付き合わないと言って、山﨑機織との取り引きをやめる所が出てきたと、作五郎から連絡が入った。
東京は大丈夫かと思ったが、他の伊予絣問屋から営業に出ている者たちが事件の話を広げていると、茂七からの手紙が届いた。
紙屋町ではどの店も山﨑機織に同情してくれているように見えた。ところが、東京では山﨑機織を蹴落として取引先を奪おうとする動きがあった。恐らく状況は大阪も同じに違いなかった。
伊予絣問屋は同じ伊予絣を扱う仲間ではあるけれど、顧客を奪い合う商売敵でもある。その現実を思い知らされて、甚右衛門もトミも人間不信に陥った。
悪いことには悪いことが重なるもので、山﨑機織を危ないと見た銀行の行員が、八月初めにまたもや店の経営状況を確かめに来た。
七月の前半はよかったが、事件の影響で後半が散々だったため、月末に集金できた金額は予定よりもかなり少なかった。帳簿を見た行員は山﨑機織へ貸した金を、すぐにまとめて返済してもらうと言いだした。
経営が傾いたとはいっても、まだ盛り返せる可能性はある。なのに借金を取り立てられるとなると、店を取り上げられてしまう。それは店が潰れるということだ。
何としても店を差し押さえられるのだけは防がねばならず、甚右衛門はなりふり構わず行員に、もう少しだけ待ってほしいと畳に額をこすりつけた。トミも使用人の前であったが、両膝を突いて行員を拝んだ。
千鶴と進之丞も土間に手を突いて頭を下げ、花江や辰蔵、丁稚たちまでもが行員を囲んで土下座をした。
前にトミが倒れたのを覚えていたのか、うろたえた行員は一月だけ待つと約束した。一応の情けをかけるというのだろうが、九月一日に確認する八月の売り上げが今回よりも増えていなければ、容赦なく取り立てると行員は言った。取り敢えずは難を逃れた形になり、みんなはがんばろうと誓い合った。だが、現実は厳しかった。
行員が帰ったすぐあとに、東京にいる茂七から電報が届いた。集金した売上金を盗まれたというのだ。
東京や大阪からの売上金は銀行で小切手にしてもらい、それを郵送してくる。だから、向こうの売上金を現金として受け取れるのは、小切手が届いてからだ。その金額は七月の売り上げとして計上されている。
売上金を盗まれたために、ただでも少ない七月の売り上げがさらに落ち込んだ。それは八月に使える現金が少なくなったという意味だ。しかも東京での売上金の一部は、茂七が東京に滞在するための経費として使う。それを失っては、茂七は東京に残れない。
茂七がいるのは安宿ではあるが、毎日泊まっているのでその金額は馬鹿にならない。食費や移動の費用も必要だ。電報だけでは詳しい事情はわからないが、茂七は責任を感じながら、身動きが取れなくなっているはずだ。甚右衛門はすぐさま茂七に送金する準備をし、取り敢えずの金を送るから待つようにと電報を送った。
翌日、作五郎からの小切手が届いた。ほっとはしたものの、やはり金額はかなり少なかった。
蔵の中には、行き場を失った絣の箱が山積みになっている。なのに、注文をしていた品は織元から次々に届けられる。
太物屋へ売った品の代金は、月末になるまで手に入らない。けれど、遠くから伊予絣を運んで来る仲買人たちには、その都度支払いをする必要があった。その支払いが次第に怪しくなり、ついには支払いを待ってほしいと頼む事態になった。
また、売れない品を注文しても在庫の山になるばかりなので、次回の注文も待ってほしいと言うと、仲買人は臍を曲げた。
この仲買人は山﨑機織との取り引きを止めると言い、運んで来た絣をそのまま持ち帰った。そのあとに来た仲買人たちも同じことになった。
仲買人たちに見切りをつけられた話は噂となって広がった。まだ取り引きを続けてくれていた太物屋も、山﨑機織はもうだめだと思ったらしい。ほとんどの店が、もう注文はしないと決めた。
山﨑機織はついに命運が尽きた。実にあっけない幕切れであり、甚右衛門はトミと二人で泣いた。
五
商いがだめになったと銀行に悟られないために、甚右衛門は辰蔵たちに八月三十日まで仕事をしているふりをするよう命じた。
茂七にも、東京から手を引くので戻って来るようにと、手紙を書いた。作五郎にも、店を畳むので注文は必要がなくなったと伝えた。また、売り上げが減ったにも拘わらず、いつもと同じだけの給金を送金した。
作五郎からは山﨑機織の店仕舞いを残念がる手紙が届いた。
手紙で作五郎は一度は仕事を失った自分を拾ってくれたことへの感謝と、孝平をうまく育てられなかった詫びを伝えていた。作五郎も山﨑機織の倒産について、深い責任を感じているようだった。
甚右衛門は丁稚たちに次の働き場所を探してやった。幸い三人とも引受先が見つかった。
亀吉たちのために甚右衛門は上等の絣の反物を用意してやり、千鶴と幸子とトミで三人に新しい着物を縫ってやった。進之丞はどこかから調達して来た稲藁で、三人に新しい藁草履を作ってやった。
新たな仕事もなく、悲しみに満ちた日々が過ぎていく。働いているふりをするため、進之丞は丁稚の一人を従えて、届ける先のない反物の箱を載せた大八車を引いて廻った。辰蔵も誰も来ない帳場にずっと座り続けた。
そして別れの日が訪れた。この日は日曜日だ。幸子も病院の仕事は休みで、山﨑機織の者全員が揃っている。甚右衛門がこの日まで使用人たちを引き留めたのは、銀行の目を欺く他に、家族全員でみんなを送り出すという意図があったからだ。
亀吉、新吉、豊吉の三人は新しい着物を着せられながら泣いた。三人ともずっと山﨑機織で働きたかったと言い、ここを離れたくないと駄々を捏ねた。
進之丞は亀吉たちを上がり框に座らせると、一人ずつ藁草履を履かせてやった。亀吉たちは涙をぽろぽろこぼしながら、みんなに世話になった礼を述べた。
甚右衛門も言葉に詰まりながら三人を励まし、最後まで面倒を見てやれなかったことを詫びた。トミはみんなを孫のように思っていたと言い、涙ぐみながら一人一人の頭を撫でてやった。
花江は泣きながら豊吉にごめんねと言い、亀吉と新吉にも謝った。豊吉は首を振り、花江さんは悪くないと言った。亀吉と新吉も同じように花江を慰めた。
東京から戻っていた茂七は、すまないと亀吉たちに深く頭を下げた。亀吉たちは茂七を責めたりせず、逆に励ましてやった。
幸子と千鶴は三人を順番に抱いてやり、いつか立派なお店を持ってねと言った。
亀吉たちが泣きながら山﨑機織を去って行くと、甚右衛門は辰蔵たちに最後の給金を払うと言った。甚右衛門は店で回すお金がなくなる中で、使用人たちに支払う給金だけは使わずに残していた。
自分が文無しになる甚右衛門が給金をもたせようとすると、いりませんと辰蔵は言った。それでも甚右衛門は無理やり辰蔵に給金を持たせ、茂七にも給金を手渡そうとした。
茂七は自分にはそんな資格はないと受け取りを拒んだが、甚右衛門は押しつけるようにして給金を持たせ、これまでの苦労をねぎらった。茂七は返す言葉がなく、ただ泣くばかりだった。
甚右衛門は花江にも世話になった礼を述べて給金を渡そうとした。やはり花江も固辞したが、受け取ってあげてと千鶴は懇願した。トミもこれは辰蔵との仲を引き裂こうとしたお詫びでもあるからと言った。花江は給金を受け取ると、胸に抱いて泣いた。
進之丞も騒ぎを起こしたからと給金を断ったが、甚右衛門は千鶴に持たせた。甚右衛門は千鶴が進之丞の給金を預かっていることを知っていた。
茂七が泣きながら何度も頭を下げて去ると、花江もそれに続こうとした。甚右衛門は花江を呼び止めると、辰蔵にも声をかけた。
「これはな、いつかお前に暖簾分けさせよと思て貯めよった銭ぞな。これで花江さんと二人で何ぞ商いを始めたらええ」
甚右衛門はトミから受け取った銭の袋を辰蔵に渡そうとした。驚いた辰蔵はとんでもないと受け取ろうとせず、花江も、旦那さんたちこそこれで出直してくださいと言った。
しかし甚右衛門は自分がこの金を持っていると銀行に差し押さえられるから、受け取ってほしいと繰り返した。トミも、自分たちができなかったことを今度は二人で成し遂げてもらいたいと言った。
花江と顔を見交わした辰蔵は、甚右衛門から銭を受け取ると号泣した。その横で花江もわんわん泣いた。二人は礼を述べようとしたが言葉にならず、代わりに甚右衛門たちが二人に励ましの言葉をかけた。
千鶴と進之丞も、おめでとうと声をかけた。幸子も笑顔で祝福した。どん底の状態ではあったが、みんなで二人を祝ってやれたのがせめてもの救いだった。
鼻をぐずぐずさせながらも、ようやく落ち着いた辰蔵と花江が礼を述べると、これからどこで暮らすつもりかと甚右衛門は訊ねた。
「東京へ行てみよかと思とります」
辰蔵は花江の顔を見てから言った。
東京は花江にとってはつらい所ではあるが、想い出の場所でもある。花江が嬉しそうにうなずくと、甚右衛門もトミもそれがいいと微笑んだ。
みんなで辰蔵と花江を送り出したあと、進之丞は甚右衛門とトミに向かって両手を突き、千鶴に風寄で履物作りの仕事を手伝ってもらいたいと頭を下げた。それが千鶴を嫁にもらいたいという意味なのは、誰の目にも明らかだった。
甚右衛門はこちらから頼みたいくらいだと言って進之丞を立たせた。そして進之丞の手を取ると、千鶴をよろしく頼むと深々と頭を下げた。それから進之丞を抱き、これまでのことについての感謝とねぎらいを伝えた
トミも千鶴を頼みますと言い、進之丞の手を握りながら涙ぐんで頭を下げた。
進之丞は改めて二人に頭を下げたが、目には涙が光っている。千鶴も涙ながらに祖父母に感謝した。
次に進之丞は幸子と向き合い、再び黙って手を突いた。進之丞の体はとても緊張したように小さく震えている。
幸子はしゃがんで進之丞の手を握ると、これまでの感謝をして、千鶴をよろしくお願いしますと言った。進之丞は打ち伏したまま泣き、申し訳ありませぬと幸子に詫びた。
幸子は進之丞の田舎の者らしからぬ言葉に戸惑いながら、あなたは何一つ悪いことはしてないから自分を責めないでと言った。しかし、その言葉はさらに進之丞を泣かせた。
甚右衛門とトミは土佐にいる遠い親戚の世話になることが決まっていた。
山﨑家の先祖は土佐の出で、これまで音沙汰がなかった何軒かの親戚に甚右衛門は手紙を書いた。手紙を書いたのは、茂七から売上金を盗まれたという知らせが届いた直後だ。甚右衛門はその時に店がだめになると覚悟したようだ。
出した手紙への返事はほとんど戻って来なかったが、一軒だけが快い返事をくれた。それで甚右衛門はそこを頼ることにしたのである。
幸子と辰蔵との婚礼は中止になったが、幸子が病院で働くのは八月いっぱいという話に変わりはなかった。今更変更してほしいとは言えないし、幸子のあとに入る看護婦がすでに決まっていた。そのため幸子は八月末で仕事を辞めざるを得なかった。
図らずも最後の病院勤務は山﨑機織を畳む日と重なったのだが、幸子はそれでよかったと思っていた。年老いた両親だけを見知らぬ土地へ行かせるわけにはいかないと、二人に同伴することを幸子は決めていた。しかし、土佐へ行くのはもう少しあとだ。
明日は多くはないが最後の集金がある。店仕舞いの挨拶を兼ねて甚右衛門が一人で廻るのだが、その金は進之丞との婚礼の祝儀として千鶴に持たせるつもりだ。売上金がまったくないと知れたら銀行が怒り狂うのは必至だが、そこは承知の上だ。土佐へ向かうのは、激怒した行員と借金返済の話をつけてからになる。
進之丞は藪入りも仕事をするつもりでいた。しかし店仕舞いにすると知らされ、藪入りには今後のことを決めるために風寄へ戻った。そこで為蔵とタネに今の状況を話し、月末に戻って来ると伝えた。また甚右衛門の許しが出れば千鶴を連れて戻ると、二人に告げた。
千鶴は祖父母や母が松山にいる間は松山に残ろうと考えていた。ここで祖父母たちと別れるともう二度と会えないかもしれず、残された時をともに過ごしたかった。
千鶴が残るのであれば進之丞もここにいればいいのだが、為蔵たちには八月末に戻ると伝えてある。二人が待っているので進之丞だけが明日風寄へ一人で向かい、翌日に再び千鶴を迎えに戻ることになった。
千鶴と夫婦になれば、進之丞は山﨑家の使用人ではなく身内になる。しかし、五人が一緒にいられるのは今だけだ。限られた時間を惜しむように、みんなでいろんなことを語り合った。思い出話もあればこれから先の話もした。不安もあれば期待もあった。
進之丞は履き物の大店を作って甚右衛門たちを迎えると約束し、待っとるぞなと甚右衛門たちは笑顔で応じた。そんな話に花を咲かせていると、どこで山﨑機織の話を聞きつけたのか、突然三津子が訪ねて来た。
三津子は甚右衛門とトミに慰めの言葉をかけると、幸子と抱き合って泣いた。そのあと千鶴にも声をかけて励まし、これからどうするのかと訊ねた。
千鶴が説明をしかねていると、代わりに幸子が今後について三津子に話した。
三津子は家族がばらばらになってしまうと同情して嘆きつつ、千鶴と進之丞をにこやかに祝福した。そして手提げの小さな鞄から財布を取り出すと、中からお札をつかみ出し、祝いを兼ねた餞別だと言って千鶴に持たせた。
これまでの意地汚い三津子からは想像もできないことだった。千鶴は三津子に感謝しながら、これまで三津子を悪く見ていたことを心の中で申し訳なく思った。
いつ風寄へ行くのかと三津子に訊かれた千鶴は、恐らく明後日だと思うと答えた。ただ進之丞は明日先に発つと話すと、ほうなんと三津子はにっこり笑い、改めて千鶴と進之丞を祝福した。
いつもの三津子ならそのまま居座り続けているところだ。ところがこの日の三津子は驚いたことに、みんな揃っての最後の日に邪魔をしてはいけないからと帰って行った。
へぇと千鶴は感心し、さすがにこういう時にはちゃんとできる人なのだと、三津子のことを見直した。見ると、幸子も何だかほっとしているみたいだ。
甚右衛門もトミも妙な感じだと言いながら、三津子を好意的に受け止めていた。
進之丞も三津子の様子を訝しく思ったのだろう。三津子が出て行ったあとを、じっと見つめていた。
六
翌日、進之丞は風寄へ向かった。千鶴は途中まで見送りだ。
山﨑機織へ来た時のように、進之丞は両手と背中に大きな風呂敷包みを持たされた。
背中の風呂敷には半纏とあの継ぎはぎの着物を入れ、両手の風呂敷には上等の絣の反物が詰められるだけ詰めてある。反物は千鶴が風寄へ行ってから、為蔵とタネ、そして進之丞の着物を仕立てるつもりだ。
進之丞と二人で歩く千鶴の胸の中では、いろんな感情が渦巻いている。
店がだめになり、みんながばらばらになるのはとても悲しい。しかし、それぞれが新たな道を歩みだすのだと考えれば、必ずしも悪いことではない。実際、千鶴と進之丞は晴れて夫婦になるわけで、暮らしも履物作りの仕事があるから心配はない。法生寺も近いし、春子の実家もある。全然知らない土地へ行くのではないから安心だ。
進之丞は、実は――と言って、藪入りに風寄へ戻った時に、おとっつぁんとおっかさんから何としても千鶴を嫁にもらって来るよう命じられたと、笑顔で千鶴に話した。千鶴には驚きであり感激の話だ。あの為蔵さんがそこまで言ってくれたのかと、胸の中が熱くなり、間もなく風寄で暮らすことになる日が待ち遠しくなった。
実際に一緒に暮らせば、いろいろ問題は出て来るだろう。だけど進さんと夫婦になれるのだから、何があろうと乗り越えられる。そんな想いが千鶴の期待を膨らませた。
師範学校の北端まで来ると、見送りはここまででいいと進之丞は言った。進之丞はまだ捕まらないつや子を警戒していた。
進之丞は三津子にも気をつけるようにと言った。三津子には妙なものを感じるらしい。
三津子は元々妙な女であり、言われなくても警戒はしている。ただ今回餞別をもらったので、千鶴の三津子に対する気持ちは緩んでいた。どうせもう三津子に会うことはないと思いながら、気ぃつけるけんと千鶴は進之丞に約束した。
そんなことより、千鶴はこのまま進之丞について行きたかった。でも、祖父母を残しては行けない。それに明日になれば進之丞は戻って来る。寂しいが少しだけの辛抱だ。
けれど寂しさはどんどん募り、このまま進之丞と永遠に別れてしまうような、そんな予感がした。
行こうとする進之丞を千鶴は抱きしめた。進之丞を行かせたくなかった。道行く者たちや近くの店の者たちが見ていたが、他人の目を気にする余裕はなかった。
進之丞は不安がる千鶴を抱き返しながら、案ずるなと言った。
「明日の朝一番に戻んて来る故、藪入りとさほど変わるまい。ほんでも、ほれまでは旦那さんらの傍におるんぞ。あしにしたかて、お前のことが心配なけんな」
やっと進之丞を送り出す決心をした千鶴は、進之丞の手を握りながら言った。
「待ちよるけん、なるべく早よ戻んてな」
うむとうなずくと、進之丞は歩きだした。何度も振り返りながら進之丞がどんどん遠ざかって行く。その様子に海で千鶴を見つめながら遠ざかる鬼の姿が重なって見えた。
「進さん!」
思わず千鶴は大きな声で叫んだ。進之丞は一度だけ千鶴を振り返ると、道を行き交う者たちの中に姿を消した。それはまるで千鶴に応えた鬼が海に消えたみたいだった。
取り返しがつかないことをした気がした千鶴は、急いで進之丞を追いかけた。やはり引き留めなければと、襲ってくる不安に呑み込まれそうになっていた。
しかし、千鶴が進之丞に追いつくことはできなかった。進之丞は走り去ったようで、道のどこにも進之丞の姿はなかった。
七
千鶴は夜明け前から目を覚ましていた。進之丞のことが気になって、昨夜もほとんど眠れていない。進之丞との別れ際に感じた不穏な想いはずっと消えずに残っている。
昨日の約束では進之丞は朝に迎えに来ることになっており、その約束に縋ることで千鶴は不安を抑えようとした。
――進さんのことやけん、朝飯も食わんでおいでるんじゃろな。たぶん今頃は風寄を出てこっちへ向かっとろ。もう堀江の辺りまでおいでとろうか。
千鶴は自分に言い聞かせるように考えをめぐらせていたが、進之丞が本当に早くに戻るのであれば寝てなんかいられない。
外が少し薄明るくなった頃、千鶴はまだ寝息を立てている母を起こさないようにしながら、そっと起きて着替えをした。それから台所へ行くと、米を研いで竈に火を入れた。炊く米は進之丞の分も入っているが、いつもより量が少ないので炊き損じないよう気をつけねばならない。
ひょっとしたらご飯を炊いているところに戻って来るかもしれない。そうなったら前みたいに手伝ってもらおう。お母さんも一緒だけど、最後の朝飯だから賑やかでいい。
そんなことを考えながら、千鶴は朝飯を作り始めた。すぐに幸子が起きてきて加わったが、進之丞は姿を見せない。そのうち甚右衛門とトミも起きて来て食事の時間になったが、進之丞は戻って来なかった。
口に出さなくても千鶴が落胆しているのはわかるので、みんなは心配ないからと千鶴を慰めた。きっと為蔵さんらがきちんと朝飯を食わせているのだと甚右衛門が言うと、トミも幸子もうなずいた。
進之丞の戻りを待ちながら、食事はいつもよりもゆっくりしていた。食べ終わったあとも、しばらくはみんなで他愛ない話をしながら進之丞を待った。しかし、いつまで経っても進之丞が戻らないので、千鶴と幸子は仕方なく片づけを始めた。
千鶴の胸の中では、不安が大きく膨らんでいる。それが顔に出ていたのだろう。忠さんは大丈夫なけんと幸子が慰めの声をかけた。
銀行の行員がやって来た。約束どおり八月の売り上げを確かめに来たのだ。
帳簿を見せるよう甚右衛門に迫る行員は、どうせだめなのはわかっていると言いたげで、意地悪そうな笑みを浮かべていた。
甚右衛門に渡された帳簿を確かめた行員は、それ見たことかと言わんばかりに帳簿を投げ出し、残っている金を見せろと言った。
甚右衛門がないと答えると行員は笑みを消し、どういうことかと眉をひそめた。
銭は全部暇を出した使用人たちにくれてやったと甚右衛門が答えると、行員の顔はみるみる険悪になった。行員は怒りを隠さず、騙しやがったなと口汚く罵ると、明日にでも財産をすべて差し押さえると言いおいて出て行った。
行員がいなくなったあと、甚右衛門はやれやれと言いながら、みんなと顔を見交わして笑った。本当は昨日集めた金がまだ残っている。千鶴と進之丞の祝儀にするため、甚右衛門が猟銃と併せて組合長に預けたのだ。千鶴が預かっていた進之丞の給与も一緒だ。
組合長は仕事だけでなく、イノシシ猟でも甚右衛門とはいい仲だった。辰蔵と幸子のためにあつらえた婚礼衣装も組合長に預けており、佐伯くんが戻ればその衣装を渡すから、仕立て直して二人で使えと甚右衛門は千鶴に言った。
トミも幸子もよかったなと言い、千鶴は涙が出るほど喜んだ。また、一度も婚礼をしたことがない母に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
話はそこで留まらず、トミが土佐へは二人の婚礼を見てから行こうかと言いだした。幸子もうなずき、自分も見たいと言った。
泊まる所がないと甚右衛門が口をゆがめると、法生寺に泊めてもらえばいいと幸子は応じた。甚右衛門はなるほどとうなずき、ほれはええなと笑顔を見せた。
客馬車の金はどうするのかとトミが言うと、そんなものは組合長が出してくれると甚右衛門は胸を張った。
みんなが本気で喋っていると思った千鶴は、進之丞への心配も忘れて嬉しくなった。
知念和尚と安子に仲人をしてもらい、為蔵とタネ、そして自分の家族が集まった中での祝言の様子が目に浮かぶ。早く進之丞が戻ってこの話に加わればいいのにと、千鶴は胸を弾ませた。
八
「ごめん」
訪いを入れる声が聞こえた。千鶴が表をのぞくと、二人の巡査が立っていた。
一人は以前に城山の事件のことで千鶴の話を聞きに来た年配の巡査だった。もう一人はかなり若い感じで、佐伯忠之はおるかと、いきなり偉そうに千鶴を問い質した。
千鶴の後ろに出ていた甚右衛門は若い巡査をにらむと、お前は物の訊ね方を教わっとらんのかと叱りつけた。
若い巡査は顔を赤らめて気色ばんだが、年配の巡査は頭を下げながら、ご尤もぞなもしと言って若い巡査をたしなめた。それから年配の巡査は訪ねて来た理由を説明した。
「実は昨夕のことですけんど、こちらで働きよった佐伯が、風寄の家族を惨殺して逃げたいう知らせがありましてな。ほんで申し訳ないんですけんど、佐伯が戻んとらんか、家の中を確かめさせてもらいたいんですわい」
巡査の話を千鶴たちは理解ができなかった。甚右衛門は精いっぱいの平静を保ちながら言った。
「ちぃと待ってつかぁさいや。今、何と仰たんかな? うちの忠七が人を殺めたと、こがぁ聞こえたけんど」
「風寄の実家の老夫婦を殺めたんぞなもし」
「実家の老夫婦て、為蔵さんとおタネさんですか?」
千鶴が訊ねると、年配の巡査は手帳を確かめてから、そげですなと言った。
千鶴は愕然となった。つい昨日、為蔵とタネに千鶴を嫁にするよう命じられたと、進之丞は笑いながら言ったのである。その二人を進之丞が殺めるなど、天地がひっくり返っても有り得ない。
「そげなこと、絶対にないですけん!」
千鶴が叫ぶように言うと、甚右衛門たちも怒りを隠さず抗議した。
若い巡査がむっとした顔で何か言おうとしたが、年配の巡査はそれを制し、見た者がおるんですわいと言った。
「同し集落の者が、佐伯が山へ逃げるんを見とるんです。ほんで家をのぞいてみたら、二人が殺されよったいうことぞなもし」
「ほんなん、嘘ぞな。そのお人が嘘こいとるんよ!」
千鶴が大きな声を出すと、若い巡査が頭ごなしに怒鳴った。
「誰も嘘なんぞこいとらん! 佐伯を隠しとらんのなら、さっさと中を見せんか!」
「若造のくせに何を偉そうに言うか! 貴様の親は、貴様にどがぁな躾をしたんぞ!」
甚右衛門が怒鳴り返すと、トミも甚右衛門に加勢した。
「この人の言うとおりぞな。いきなし人ん所来といて家の中見せぇて、自分がどんだけ失礼な物言いしよんのかわからんのかな。子供でもそがぁな物言いはせんぞな!」
何を!――と憤る若い巡査を、年配の巡査はきつく叱った。
「この方らの言い分は尤もぞな。この方らは犯罪者やないし、佐伯を匿とる証拠はない。お前が偉そに言える理由はなかろが」
さすがに年配の仲間には噛みつけず、若い巡査は面白くなさげに口を噤んだ。
年配の巡査は千鶴たちに向き直ると、お気持ちはわかりますと言った。
「私にしても、佐伯が身内を殺めたいう話は信じがたいと思とります。ほんでも実際に殺人が起こって目撃者がおる以上は、ほれを調べるんが私らの勤めぞなもし」
丁重な言葉には、甚右衛門もトミも怒鳴れない。けれど自分たちは忠七を信じており、家を調べさせるような真似は忠七を疑うことになるから断ると言った。
また何か言いたげな若い巡査を横目でじろりと見てから、年配の巡査は甚右衛門たちに言った。
「私は佐伯が犯人じゃと決めつけとるわけやありません。ただ、今の状況が佐伯にとって不利なんは間違いないですけん、いろいろ調べて確かめにゃならんのです」
千鶴はすぐに反論した。
「なしてですか? あの人はがいな家族想いやったんです。今度もうちをお嫁に迎えるために先に風寄へ戻ったぎりですし、為蔵さんもおタネさんも、うちに会うんを楽しみにしんさったんです。ほれやのに、なしてあの人が家族を殺さないけんのですか?」
「ほれもまだわからんことぞなもし。ほじゃけん、私は佐伯が犯人じゃとは決めつけとらんと申しとるんですわい」
「ほれじゃったら他に犯人がおるやもしれんと、あんたは思いんさるんかな?」
甚右衛門が訊ねると、もちろんぞなもしと年配の巡査は言った。
「ほんでも佐伯が犯人でないんなら、家族が殺されとるんを見つけた時に逃げたりせんで、駐在所へ知らせるんが普通でしょう。ほれやのに逃げたいうんは、何ぞ後ろめたいことがあるんやないかと疑われても、仕方ないいうことになりませんかな?」
言い返せない甚右衛門に代わって、トミが訊ねた。
「その目撃が誤りいうことはないんかな?」
「もちろんその可能性もありますが、ほれにしても佐伯が駐在所に顔も見せんで姿を眩ますんは理解できかねますな。とにかく本人に話聞いてみんことには、ほんまのとこは何もわかりますまい」
そういうわけで家の中を見せてもらえないかと、年配の巡査が改めて丁重に頼むと、甚右衛門はようやく許可を出した。
ほれではと、年配の巡査は若い巡査に二階を調べるよう指示を出すと、自身は奥庭へ向かった。
「あの――」
幸子が恐る恐る声をかけると、巡査は勝手口で立ち止まって振り返った。
「忠さんのご家族は、どがぁな風に……」
「二人とも、包丁でめった刺しと聞いとります」
幸子は口を開けたまま何も言えなかった。ほんなと言ったきり千鶴も言葉が出ず、涙がぼろぼろこぼれ落ちた。甚右衛門もトミも顔が強張っている。
「ほんでも、そこが引かかるとこぞなもし」
巡査がため息交じりに言うと、甚右衛門は鋭く巡査を見た。
「引かかるとは?」
「佐伯はまっこと強い男ぞなもし。先だっての大林寺での騒動ですが、どがぁに強い男でも刃物まで持った荒くれ男十五人を、あげな目には遭わせられんでしょう。そこまで強い男が、相手を殺すんに刃物を使うとは思えませんな。しかも相手は年寄りぞなもし」
「ほれは、ほうじゃな。お前さんの言うとおりぞな」
「ほれに事情聴取した時の佐伯の態度は、まっこと礼儀正しい上に正義感もあるし、他者への思いやりがあったと聞いとります。そがぁな男がいきなし家族を殺すとは思えんのですわい」
「じゃったら――」
縋るような甚右衛門の言葉を遮って、ほれでもと巡査は言った。
「最前も申しましたように、佐伯が隠れて姿を見せんのは、後ろめたさがあると見られてしまいますけん。今は通常の捜査をさせてもらうしかないんですわい」
それだけ話すと、巡査は再び背を向けて奥庭へ出て行った。
九
結局、巡査たちは進之丞を見つけられず、佐伯が戻って来たら必ず連絡をしてほしいと言いおいて帰って行った。
気丈に堪えていたトミは堰を切ったように泣き崩れ、甚右衛門は、畜生め!――と上を向いて喚いた。あの時の胸騒ぎはこれだったのかと、千鶴は進之丞を引き留められなかったことを深く悔やんだ。
「なして、あの子は逃げたりしたんね……」
トミが泣きながらつぶやくと、甚右衛門が力なく言った。
「気が動転したんじゃろ……」
「ほやかて、何も逃げることなかろに」
「お前が殺したんじゃろて言われるんが怖かったんよ。何もしよらんでも悪ぅ見られてしまうけん……」
かつて進之丞を山陰の者というだけで退けようとしたことがあるからだろう。甚右衛門は唇を噛んで涙ぐんだ。けれど千鶴は進之丞が姿を消した理由を知っていた。あまりの怒りに鬼に変化しそうになったのだ。
それにしても誰が為蔵とおタネを殺したのか。千鶴の頭に女の影が過った。つや子だ。
「おい、鬼! こそこそ隠れよらんで出て来い!、わしらぁ油断させて破滅させたぎりじゃ、まだ足らん言うんか! そがぁに祠が気に障った言うんなら、出て来てわしと正々堂々と勝負せぃ!」
突然狂ったように、甚右衛門が物陰に向かって叫んだ。すべては鬼が仕組んだと受け止めたらしい。
千鶴と幸子は甚右衛門を懸命になだめた。トミも鬼は関係ないと言った。けれど、甚右衛門は聞こうとはしなかった。
「鬼が千鶴を護っとんなら、なして大林寺で千鶴が襲われた時に現れんかったんぞ。なして千鶴を護ってくれんかったんぞ。鬼が護ってくれとったら、忠七が捕まることはなかったし、店も潰れんかった……。忠七の家族も殺されたりせんかったんじゃ……」
悲しみを隠さずに泣く甚右衛門に、トミも涙ぐみながら諭すように言った。
「あの子が駆けつけてくれたけん、鬼は出る幕がなかったんよ。ほれにあげな所で鬼が出よったら、ほれはほれでもっと大事になっとったろ? 鬼はこの子の迷惑にならんように気ぃ遣いよったんよ」
「お前に何がわかるんぞ! 忠七の家族を殺したんは鬼ぞ。千鶴を忠七に奪われる思た鬼が、見せしめに忠七の家族を殺したんぞ!」
やめて!――千鶴は叫ぶと泣きだした。
「……なしてこがぁなことになったんぞ」
甚右衛門は力が抜けたようにぺたんと座り込んで項垂れた。
「あの女じゃ」
幸子が言った。
「あの女て?」
トミが幸子を見た。
「つや子ぞな。男に千鶴を襲わせよった横嶋つや子ぞな」
甚右衛門もはっとして顔を上げた。
「ほうじゃ。あの女ぞな。絶対ほうに決まっとらい」
みんなの気持ちがつや子へ向いた時、千鶴は言った。
「うち、これから風寄へ行くけん!」
鬼に変化した進之丞が身動きできなくなっている。じっとなんかしていられない。
千鶴が土間へ降りると、ならん!――と叫んで甚右衛門も土間へ飛び降りた。千鶴と甚右衛門は揉み合い、幸子とトミは必死に二人を引き離そうとした。
「お邪魔しまっせ」
表から声がした。
甚右衛門が千鶴から離れて暖簾を持ち上げると、店の入り口に誰かが立っている。目を細めてその人影を見た甚右衛門は、みるみる険しい顔になった。
「貴様!」
甚右衛門が帳場へ出て行くと、千鶴と幸子もすぐに追いかけた。甚右衛門は男につかみかかろうとしたが、おっとっと――と男は慌てて表に逃げた。
「旦さん、何をそんなに怒ってはりまんのんや? わて、何もしとりまへんやん」
千鶴と幸子は表に出ようとした甚右衛門を何とか押さえた。安心した男は茶色い歯を見せて笑った。男は畑山孝次郎だった。