破局
一
事件のせいで、予定していた幸子と辰蔵の結婚式は取り止めとなった。当日、仕立てた婚礼衣装が届けられたが、袖を通すことなく仕舞われた。
仲人をするはずだった組合長夫妻はもちろん、近所の者たちにも甚右衛門は何が起こったのかを説明しなくてはならなかった。
それで、事件の主犯はごろつきたちを金で雇った者で、進之丞は男たちを打ちのめしたために喧嘩両成敗で逮捕されたと、甚右衛門は話した。だが、弥助がどうして逮捕されたのかは黙っていた。
すると、みんなは弥助も進之丞と一緒に、千鶴と花江を助けるべく、男たちと戦ったのだろうと解釈したようだった。
事件について新聞記者が取材に来ると、甚右衛門は同じように説明をした。ところが、記者は弥助が逮捕された理由を知っていた。
そのことについて問われると、甚右衛門は何も言えなくなった。
千鶴と花江は悪いのは男たちであり、進之丞は自分たちを護ってくれただけだし、弥助は男たちに利用されただけだと訴えた。
しかし、あとで新聞に掲載された記事では、事件はやくざを巻き込んだ山崎機織の内輪の揉め事のように書かれ、みんなはひどく打ちのめされた。
それでも、やらねばならない仕事は山積みだった。
進之丞と弥七が警察に捕まっているので、山﨑機織は手代がいない状態だ。店は甚右衛門が守り、注文取りも注文の品を運ぶのも、辰蔵と慣れない丁稚たちで手分けしてやるしかなかった。
だが、全ての店を辰蔵が廻るわけにも行かず、店によっては亀吉と新吉が二人で廻りもした。それに対して同情してくれる者もいたが、手代が来ないことに文句を言う所もあり、山﨑機織はやくざの集まりかと蔑む者もいた。
もう山﨑機織とは付き合わないと言う店もあり、注文が欲しいのであれば、もっと値下げをしろと無理を言われたりもした。
丁稚たちは涙をこらえながら懸命に働き続け、辰蔵も毎日くたくたの状態だった。
直接注文をしに来る客もぱったりと途絶え、辰蔵たちが外へ出ている間、甚右衛門は所在なげに帳場に座るばかりだった。時折、同業組合の組合長や近所の者たちが、慰めと励ましの言葉をかけてくれたが、それだけではどうにもならなかった。
辰蔵たちが一日の仕事を終えて戻って来ると、甚右衛門はすぐに警察へ向かい、進之丞と弥七の釈放を訴えた。千鶴とトミもそれに同行し、着替えや食べ物を二人に届けた。
弥七はともかく、進之丞の逮捕は誰もが納得していない。進之丞は千鶴たちを助けただけである。それも普通であれば誰もが尻込みするような相手に、たった一人で立ち向かってのことだ。本来なら英雄扱いされるところだろう。
その結果、相手が重傷を負ったにせよ、それは向こうの責任であって進之丞の責任ではない。それなのに逮捕された上になかなか釈放されないことに、甚右衛門もトミも怒りを覚えていた。
一方、弥七についてはトミは恩知らずと罵り、弥七のことなど放って置けばいいと言った。
だが甚右衛門は、弥七を唆したのは我が息子の孝平であると理解している。それに甚右衛門は山﨑機織の責任者だ。事件への感情はあっても、店の主として知らぬふりはできないようだ。
そうは言っても、弥七が釈放されたところで、再び手代として使うのはむずかしいと思われる。
今の取引先の雰囲気を見ても、弥七が受け入れられるとは思えないし、他の使用人たちが弥七を許すかどうかもわからない。何より弥七自身がここにいることに耐えられないに違いない。
いずれにしても店として弥七をどうするかは、弥七が釈放されてから決めると甚右衛門は考えているようだった。
事件当日、病院で働いていた幸子は、午後の仕事を終えて家に戻った時に、初めて何が起こったのかを知らされた。
激しく動揺した幸子は、仕事など手がつかない状態だったが、それでも病院の勤務をを休むわけにはいかなかった。
新聞にも載った事件は病院にも伝わり、院長たちは祝言が中止になったことも含めて、幸子に同情を寄せた。
同時に、みんなが事件の真相を知りたがり、幸子にあれこれ訊こうとするので、幸子は居たたまれない状況にあった。
患者ですら、幸子が山﨑機織の人間だと知っている者たちは、自分の病気や怪我のことも忘れて、事件のことを知ろうとした。
幸子は毎日涙をこらえながら仕事を続け、仕事を終えて家に戻ると、千鶴たちが警察から戻るのを食事を取らずに待った。
甚右衛門の指示で、使用人たちは先に食事を済ませることになっていた。それで、辰蔵たちは幸子に遠慮しながら夕飯を食べた。食事中はほとんど誰も喋ることがなく、暗い雰囲気の中の食事だ。
ようやく千鶴たちが戻って来ると、丁稚たちは挨拶をして二階へ上がって行く。
辰蔵は下に残って、食事をする甚右衛門の横でその日の報告をするのだが、甚右衛門が明るい報告を聞ける日はなかった。
来る日も来る日も同じような報告で、山﨑機織との取引を止めるという店や、品物の値を下げろという店の話ばかりだ。
甚右衛門は拷問に掛けられているような顔で、話を聞きながら飯を食う。だが、途中で鳩尾を押さえて食事をやめるのが、毎度のことになっていた。
千鶴たちが食事をする間、花江は一人板の間に座り、悲しげにうつむいていた。
事件について花江は深く責任を感じていて、警察での事情聴取が終わったあと、自分を首にして欲しいと甚右衛門に申し出た。
しかし、甚右衛門は花江のせいではないと言い、引き続き山﨑機織を助けて欲しいと頼んだ。実際、今花江にいなくなられたら、山﨑機織は立ち回らなくなっていた。
トミも花江が孝平についた嘘について怒ったりはせず、悪いのは孝平だと言った。また、辰蔵と花江が好き合っていたのに気づかなかったことを、悪かったねと逆に花江と辰蔵に詫びた。
辰蔵も花江も黙って頭を下げ、花江は山﨑機織に残ることになった。それでも店の状況を見ると、花江にとっては針の筵に座らされているようなものに違いなかった。
二
事件の三日後、千鶴たちが警察にいる時に、道後の花街で捕まった孝平が連行されて来た。
孝平を見つけた甚右衛門はつかみかかろうとしたが、近くにいた警官たちに押さえられた。孝平は下を向いて泣いていたが、何も言わないまま連れて行かれた。
その後の警察の話によれば、捕らえられた男たちは頭目の男に言われたとおり動いていただけで、事件の目的も真相も知らなかったらしい。知っているのは頭目の男だけだった。
頭目の男は熊の平次という名で知られているそうで、熊のような大きな体でのっそり現れることから、そう呼ばれているらしい。
喧嘩も強い上に仲間が多いので、裏の世界では恐れられているらしい。しかし、警察での取り調べでは呆けたような状態で、訊かれたことにはとても素直に答えていると言う。恐らく進之丞の暗示が効いているのだろう。
平次は千鶴たちを襲ったことについて、横嶋つや子という女の指示によるものと話したそうだ。
今回の事件の裏につや子がいたことは、甚右衛門とトミは知らなかった。二人はとても驚きながら、以前に家に侵入した空き巣の連れと同じ女だと言った。そして、どうしてここまで自分たちが狙われるのかと、説明をしていた警官に食ってかかった。
警官は二人をなだめながら、つや子に恨みを買う覚えはないのかと甚右衛門たちに確かめた。
三人が首を振ると、それならば仲間の空き巣を捕らえられたことに対する、逆恨みでしょうと警官は話した。それにしても執拗で異常なやり口なので、恐らくその女は狂っているのに違いないと警官は言った。
つや子は派手な柄の着物が似合う庇髪の女で、時々道後の酒場に顔を出していたらしい。平次はつや子とそこで知り合い、深い仲になると同時にお金で使われるようになったと言う。
つや子の居場所を訊ねても、平次は知らないそうだった。つや子とは一緒に暮らしているわけではなく、つや子の方がぶらりと現れて、平次にお願いという形で指示を出していたそうだ。
つや子がどこの生まれで、どういう人物なのかも、平次は何も知らないし、つや子が千鶴たちを襲う理由も聞いていないらしい。
一方で、自分が御廟所で倒れていたことについて、平次は話すことができなかった。進之丞に何かをされたのかと訊かれても、何も覚えていない様子だと言う。それも進之丞の暗示によるものだ。
平次に何があったのかについて、千鶴も警官から訊かれたが、千鶴は何も知らないし、進之丞も何もしていないと答えていた。
覚えているのは刃物を突きつけられたことだけで、気がついたらこの男が倒れていたと千鶴は証言した。それで平次は何等かの病を抱えているのかもしれないと、警察では受け止めたようだった。
取り調べでの思いがけない平次の素直さも、警察のその考えを後押ししたようだ。
警官は孝平と弥七についても教えてくれた。
山﨑機織を追い出されたあと、行く当てのない孝平は道後の花街で下働きをしていたらしい。そこで平次とつながりができたそうだが、平次によると、何故かつや子は孝平のことを知っていたと言う。
孝平が今回の事件を起こしたのは花江の嘘がきっかけだが、つや子は孝平の花江への未練を巧みに利用したようだった。
花江の嘘に落ち込んだ孝平は、女は力尽くで物にしろと、平次から発破を掛けられていた。そこへ何と弥七が訪ねて来たと言う。
仕事が休みになると町へでかける弥七は、ある時、孝平に出会したそうだ。
孝平が山﨑機織にいた頃には、孝平に反発を覚えていた弥七だったが、千鶴についての悩みを聞いてもらえる相手が欲しくて、それから孝平に近づくようになったらしい。
千鶴の気を引くために、べっ甲の櫛を贈るよう弥七に勧めたのは孝平だった。しかし結果は失敗に終わり、弥七はその恨み言を言うために、道後へ孝平を訪ねたのだそうだ。
この時、自分だけが落ち込みたくない孝平は、弥七に千鶴と忠七が祝言を挙げるという話を聞かせた。話の出所が花江だというのもあって、弥七は大いにうろたえたようだ。
弥七を落ち込ませながらも、自分は虚勢を張りたい孝平は、花江のことは口にせず、番頭が結婚する時に、千鶴と忠七も祝言を挙げるのだと弥七に告げたらしい。
絶望する弥七に気をよくした孝平は、男なら惚れた女は力尽くで物にしろと、自分が平次から言われた言葉を弥七に投げかけた。
藁にも縋る想いの弥七に、千鶴が式を挙げる前に、千鶴を自分の物にしてしまえばいいと孝平は言った。
甚右衛門が弥七に怒りを覚えても世間体があるから、結局は弥七を千鶴の婿と認め、自分の跡継ぎにするだろうと孝平は話した。これは弥七を利用して花江と辰蔵の祝言を中止させる算段だ。
迷った様子の弥七に、弥七にその気があるのなら自分もその話に一枚噛ませてもらい、花江を手に入れたいと孝平は付け加えた。
この最後の言葉がとどめとなった。自分一人ではなく仲間がいるという想いが、弥七に千鶴を襲う決意をさせた。
しかし、自分たちだけで何ができるのかと弥七が問うと、孝平は近くに座っていた平次に弥七を会わせて相談した。
その時は平次は考えておくとだけ言い、あとでこの話をつや子に伝えたと言う。つや子は喜び、平次に具体的な指示を与えた。首尾よく行った時の報酬もあった。それが今回の御廟所の事件である。
辰蔵と幸子を夫婦にすると甚右衛門が宣言をした日、弥七は慌てて道後の孝平を訪ねた。注文取りを後回しにしての報告だった。
この時、甚右衛門は千鶴の婚礼については話していない。それで弥七は番頭さんの結婚が決まったと孝平に報告したあと、千鶴さんの話は出なかったが、どういうことだろうかと訊いたらしい。
すると孝平は、番頭は店の看板だから祝言も賑やかにやるが、千鶴は穢らわしい異人の娘だし、忠七も元は風寄の穢れのある者だから、その祝言は番頭の祝言が終わったあとに、身内だけでひっそり執り行うことになっていると、思いついた適当な説明をした。
だが、その説明は弥七には説得力があったようで、弥七はこれを信じてしまったらしい。
弥七が孝平に番頭の結婚について報告した時に、番頭さんの結婚とは言わずに、番頭さんと幸子さんの結婚と言えば、この事件は回避できたかもしれなかった。
しかし、弥七は番頭の結婚について孝平が何もかも知っていると考えていた。その孝平が番頭の結婚と言うので、同じような言い方をしたと言う。
結果的に、この二人の思い込みによる不運な会話が、つや子の思惑の実現につながってしまったようだった。
事件当日、太物屋へ注文の品を納めに廻っていた時に、突然現れた孝平に弥七が何かを話しかけていたのを、一緒に廻っていた亀吉が目撃している。この時に弥七は、甚右衛門やトミの予定を孝平に伝えたらしい。
そのあと、午後になってから弥七は計画に従って、辰蔵を帳場から離れさせた。甚右衛門が組合長の家で倒れたと辰蔵に伝え、辰蔵を組合長の家まで走らせたのである。
それから弥七はトミが大林寺で倒れたと言って、千鶴と花江を引っ張り出した。ここまでが警官が教えてくれた事の経緯である。
もし進之丞が駆けつけていなければ、千鶴と花江は男たちの玩具にされた挙げ句に、大阪へ売り飛ばされていたに違いない。
また弥七と孝平は殺されて、海に沈められていただろう。
弥七たちの計画では進之丞は現れるはずがなかったし、千鶴も花江も進之丞が来てくれるとは思っていなかった。
それなのに進之丞が二人を助けることができたのは、豊吉の機転があったからだった。
太物屋を廻った時に弥七が孝平と喋っていた話を、豊吉は亀吉から聞かされていた。亀吉は弥七の様子に不審を抱いていたらしい。
そのあと、突然現れた弥七が有無を言わせぬ形で、千鶴と花江を引っ張り出し、帳場にいるはずの辰蔵もいなくなっていたので、これは何かあると豊吉は思ったそうだ。
千鶴から店番を頼まれたので、店を空けることに気が引けはしたが、豊吉は真っ直ぐ進之丞の元へ走った。
亀吉や新吉同様に、豊吉は進之丞を兄のように慕っていた。それに進之丞は豊吉の頭のよさを、大いに評価してくれていた。そのことが豊吉は何より嬉しかったそうだ。
その敬愛する進之丞から、自分がいない間に千鶴や店に異変があったなら、すぐに知らせるようにと豊吉は頼まれていた。
その日の午後に進之丞がどこの太物屋を廻っているかを、豊吉はしっかりと頭に入れていた。今こそ忠七兄貴に知らせる時だと思った豊吉は、時間帯から進之丞がどこにいるのかを考え、そこへ走って行ったのである。
豊吉の予想はどんぴしゃりで、異変を聞かされた進之丞は注文書を豊吉に預けると、風のごとくに大林寺へ向かったと言う。
まさに豊吉の大手柄であったが、まさか弥七がこのような大それたことをするとは、さすがの豊吉にも思いも寄らないことだった。
平次は以前にもつや子に頼まれて、手下のごろつきたちに千鶴を襲わせたことがあったらしいと警官は言った。
その話に驚いた甚右衛門とトミは、千鶴に真偽を確かめた。
千鶴が返答に困っていると、鬼山喜兵衛という男に襲われたでしょうと警官が千鶴に言った。
喜兵衛の名前に甚右衛門もトミも眉を吊り上げ、喜兵衛に襲われたのかともう一度千鶴を問い質した。
千鶴が仕方なくうなずくと、どうして黙っていたのかと甚右衛門たちは言った。
家族に心配をかけたくなかったと千鶴と答えると、その時にも男たちは返り討ちに遭い、しばらく動くこともできなかったようですと警官は話した。
警官が特高警察の話をしないので、どうやら平次は特高警察のことは知らなかったらしいと千鶴は安堵した。
また、千鶴が料亭の中へ連れ込まれたことも、男たちは進之丞と戦うのに必死で、全然目に入っていなかったようだ。
警官はその時のことを進之丞に確かめようとしたそうだが、進之丞はよく覚えていないと言うばかりだそうだった。
それについて千鶴は、家族に心配をかけたくないので黙っといて欲しいと、自分が頼んだからですと説明した。
そのことも罪として咎められるのかと千鶴が心配すると、相手から被害届が出ているわけでもないし、誰が怪我をしたのかもわからないので、それについての咎めはないと思うと警官は答えた。
千鶴や甚右衛門たちが安心すると、それでも今回は前の時とは事情が違うと警官は言った。
それは今回は重傷者がいることが明らかなので、まだ進之丞を釈放するわけにはいかないというものだった。
それに対して千鶴たちは抗議したが、やはりその抗議はこれまでと同じで聞いてはもらえなかった。
三
警察では進之丞が千鶴や花江を護ろうとしたことは理解していた。ただ、あまりにも人間離れした進之丞の暴れぶりに、警察は進之丞が何者であるのかを、慎重に調べているらしかった。
今回の事件で傷を負わずに済んだのは平次だけであり、他の男たちは誰もがかなりの重傷を負わされていた。
だが、あの時に千鶴が止めていなければ、平次は間違いなく八つ裂きにされていたはずだった。平次が無事であったことは、双方にとって幸いなことだったと言える。
どこでそんな強さを身に着けたのかと訊ねても、進之丞は生まれつきだとしか言わなかったらしい。しかし、生まれつきここまで強い者などいない。
とにかくこの男をすぐに外へ出してはならぬというのが、警察の対応だった。
しかし誰に正義があるかは、素人が見ても明らかである。進之丞は千鶴と花江を護っただけに過ぎない。
そんな進之丞の無実と即時釈放を訴えて、紙屋町の人々が多くの署名を集めて警察へ提出してくれた。
それは普段の進之丞の人柄や働きぶりを、紙屋町の人たちが認めてくれていたからである。そのことは千鶴たちにとって、何より心強く嬉しいことだった。
その署名の効果だろうか、進之丞は逮捕の一週間後にようやく解放された。しかし、弥七と孝平は釈放されなかった。
黒幕はつや子であり、千鶴たちを襲ったのはつや子の指示に従った男たちだ。
孝平と弥七はつや子の存在を知らないし、男たちが自分たちとは別の指示で動いていたことも知らなかった。言ってみれば、孝平たちはつや子に利用されたのである。
それでも事実を知るまでは、孝平たちには首謀者としての自覚はあった。二人の目的は明らかであり、犯罪者として裁判にかけられるとのことだった。
また、犯罪現場が大林寺の御廟所であったことも、神聖な場所を汚したということで、厳しく問われるようだった。
弥七は今では自分がしたことの意味を理解しており、そのことを深く悔いているらしい。事件のせいで店の経営が傾いている事実を知らされると、壁に頭を打ちつけて泣いたそうだ。
一方、孝平はどうかと言うと、孝平は弥七ほどには実家に迷惑をかけたことを、反省しているわけではないようだった。
もちろん悪いことをしたとは思っているらしいが、孝平が気にしているのは花江のことだそうだ。
孝平は今でも大林寺で花江が言った言葉を信じているようで、自分を待っていてくれた花江に申し訳ないことをしたと、そればかりを口にしているらしい。
二人はこれから裁判にかけられるが、二人とも山﨑機織の関係者であり、いわば身内の争いでもあるので、甚右衛門たちが罪を軽減するよう申し出れば、情状酌量の余地はあるということだった。
甚右衛門は弥七の罪を軽減してやって欲しいと述べ、トミも渋々ながら甚右衛門の言葉に同意した。しかし孝平については、甚右衛門は受けるべき罰を受けさせて欲しいと願い、トミは死罪にしてもらっても一向に構わないと言った。
進之丞が釈放されたことで、甚右衛門もトミも少しは安堵したようだった。
千鶴は人目も憚らず、進之丞に抱きついて泣いた。進之丞は千鶴を抱き返し、それから甚右衛門とトミに深々と頭を下げた。
甚右衛門もトミも泣きながら、苦労をかけたと進之丞に感謝し、これから一からやり直しだと言った。
紙屋町の人々も進之丞が戻ったことを祝ってくれた。
町中の人たちが進之丞のために署名をしてくれたと聞かされると、進之丞は男泣きに泣いた。その涙に他の者たちも釣られるように泣き、みんなで進之丞に拍手をした。
それでも、それでめでたしめでたしではない。山﨑機織が置かれた状況は最悪と言えた。
翌日から、進之丞は仕事に復帰した。だが紙屋町の人々と違い、取引先の者たちの進之丞を見る目は冷ややかだった。
中には十五人ものやくざを相手に勇ましく戦ったと、進之丞を称賛してくれる者もいた。しかし、進之丞をただの乱暴者と捉える者も少なくなく、注文する物は何もないと言われることが多かった。
事件は大阪にも伝わったようで、胡散臭い所とは商いをしないと言って、山﨑機織との取引をやめる所が出て来たと、作五郎から連絡が入った。
東京は大丈夫かと思ったが、他の伊予絣問屋から営業に出ている者たちが事件の話を広げていると、茂七からの手紙が届いた。
紙屋町ではどの店も山﨑機織に同情してくれているように見えた。だが、東京では山﨑機織を蹴落として取引先を奪おうとする動きがあるようだった。また、それは大阪でも同じに違いなかった。
伊予絣問屋は同じ伊予絣を扱う仲間ではあるけれど、顧客を奪い合う商売敵でもある。その現実を思い知らされて、甚右衛門もトミも人間不信に陥ったようだった。
悪いことには悪いことが重なるもので、山﨑機織を危ないと見た銀行が、八月初めにまたもや店の経営状況を確かめに来た。
七月の前半はよかったが、事件の影響で後半が散々だったため、月末に集金できた金額は予定よりもかなり少なかった。
それを見た銀行は山﨑機織へ貸した金を、すぐにまとめて返済してもらうと言い出した。
経営が傾いたとは言っても、まだ盛り返せる可能性はある。しかし、借金を取り立てられるとなると、店を取り上げられることになる。それは店が潰れるということだ。
何としても店を差し押さえられることだけは防がねばならず、甚右衛門はなりふり構わず銀行の行員に、もう少しだけ待って欲しいと頼んだ。トミも使用人の前であったが土下座をして頼んだ。
千鶴と進之丞も祖父母と一緒に頭を下げると、花江や辰蔵、それに丁稚たちまでもが行員を囲むように土下座をした。
行員はうろたえながら、一ヶ月だけ待つことを約束した。だが、九月一日に来て八月の売り上げを確認した時に、今回よりも増えていなければ容赦なく取り立てると言った。
取り敢えずは難を逃れた形になり、みんなはがんばろうと誓い合った。だが、現実は厳しいものだった。
銀行の行員が帰ったすぐあとに、東京にいる茂七から電報が届いた。それは集金した売上金を盗まれたというものだった。
東京や大阪からの売上金は、銀行で為替手形にしてもらい、それを郵送して来る。だから、向こうの売上金を現金として受け取れるのは、為替手形が届いてからである。それでもその金額は七月の売り上げとして計算されている。
売上金を盗まれたということは、ただでも少ない七月の売り上げが、さらに落ち込むということであり、八月に使える現金が少なくなったということだ。
しかも、東京での売上金の一部は、茂七が東京に滞在するための経費として使っている。それを失ったということは、茂七が東京にいられなくなったということでもある。
茂七がいるのは安宿ではあるが、毎日泊まっているので、その金額は馬鹿にならない。それに食費や移動の費用も必要である。
電報だけでは詳しい事情はわからないが、茂七が責任を感じながら、身動きが取れなくなっているのは間違いない。
甚右衛門はすぐさま茂七に送金する準備をし、取り敢えずの金を送るから待つようにと電報を送った。
翌日、大阪の作五郎から為替が届いた。ほっとはしたものの、やはり金額はかなり少なかった。
蔵の中には、行き場を失った絣の箱が山積みになっている。それでも注文をしていた品は、織元から次々に届けられる。
太物屋へ売った品の代金は、月末になるまで手に入らない。しかし、遠くから伊予絣を運んで来る仲買人たちには、その都度支払いをする必要があった。
その支払いが次第に怪しくなり、ついには支払いを待って欲しいと頼むことになった。また、売れない品を注文しても、在庫の山になるばかりなので、次回の注文も待って欲しいと言うと、仲買人は臍を曲げた。
この仲買人は山﨑機織との取引を止めると言い、そのあとに来た仲買人たちも同じことになった。
仲買人たちに見切りをつけられた話は、噂となって広がった。まだ取引を続けてくれていた太物屋も、山﨑機織はもうだめだと思ったらしい。ほとんどの店が、もう注文はしないことに決めた。
山﨑機織はついに命運が尽きたようだった。実にあっけない幕切れであり、甚右衛門はトミと二人で泣いた。
四
商いがだめになったことを銀行に悟られないように、甚右衛門は辰蔵たちに八月三十日まで仕事をしているふりをするよう命じた。
茂七にも、東京から手を引くので戻って来るようにと、手紙を書いた。作五郎にも、店を畳むことにしたので注文は必要がなくなったと伝えた。また、売り上げが減ったにもかかわらず、いつもと同じだけの給金を送金した。
そうしておいて甚右衛門は、丁稚たちに次の働き場所を探してやった。幸い亀吉も新吉も豊吉も引受先が見つかった。
甚右衛門は三人のために上等の絣の反物を用意してやり、千鶴と幸子とトミで三人に新しい着物を縫ってやった。
進之丞はどこかから調達して来た稲藁で、三人のために新しい草鞋を作ってやった。
八月三十日は日曜日だ。幸子も病院の仕事は休みで、山﨑機織の者全員が揃っている。甚右衛門がこの日まで使用人たちを引き留めていたのは、家人全員が揃った中でみんなを送り出すという意図もあったようだ。
そしてその日が来ると、新しい着物と草鞋を身に着けた三人は、泣きながら山崎機織を去って行った。
甚右衛門は店で回すお金がなくなる中で、使用人たちに支払う給金だけは使わずに残しておき、みんなに持たせてやった。
東京から戻った茂七は最後の給金を手渡されると、自分には給金を受け取る資格がないと固辞した。それでも無理やり給金を持たされると声を上げて泣き、何度も頭を下げながら去って行った。
作五郎からは山﨑機織の店仕舞いを残念がる手紙が届いた。作五郎は一度は仕事を失った自分を拾ってくれたことへの感謝と、孝平をうまく育てられなかったことの詫びを伝えていた。また、作五郎も山﨑機織の倒産について、深い責任を感じているようだった。
店の跡継ぎを心配していた時、甚右衛門は辰蔵と幸子を夫婦にさせようとした。しかし、そう考えるまでは、いつか辰蔵に暖簾分けをしてやるつもりだった。そのため辰蔵への給金とは別に、その時のための資金をこつこつと蓄えていた。
自分は文無しになる甚右衛門は、銀行に差し押さえられる前にと言って、その金を辰蔵へ持たせてやった。辰蔵は感激と悲しみで打ち伏して泣いた。
甚右衛門は花江にも世話になった礼を述べると、みんなと同じように給金を手渡した。
花江もそれを固辞しようとしたが、受け取ってやって欲しいとトミが懇願した。これは花江と辰蔵を引き裂こうとしたことへの、お詫びでもあるとトミが言うと、花江は給金を胸に抱いて泣いた。
甚右衛門も辰蔵と花江に、二人を引き裂くような真似をしたことを改めて詫びた。そして、これからは二人でどこかで商いを始めるようにと言った。
辰蔵も花江も泣くばかりで、甚右衛門たちに礼を述べようとしても言葉にならなかった。そんな二人に千鶴と幸子は、おめでとうと声をかけた。どん底の状態ではあったが、辰蔵と花江を祝福してやれることがせめてもの救いだった。
進之丞も二人を祝福し、二人ならきっとうまくやれると言った。
まだ鼻をぐずぐずさせながらも、ようやく二人が落ち着くと、これからどこで暮らすつもりかと甚右衛門は訊ねた。
辰蔵は花江の顔を見てから、東京へ行ってみよかと思とりますと言った。
東京は花江にとってはつらい所ではあるが、思い出の場所でもある。辰蔵と顔を見交わした花江が嬉しそうにうなずくと、甚右衛門もトミもそれがいいと言った。
みんなで辰蔵たちを送り出したあと、進之丞は甚右衛門とトミに向かって両手を突き、千鶴に風寄で履き物作りの仕事を手伝ってもらいたいと頭を下げた。それが千鶴を嫁にもらいたいという意味なのは、誰の目にも明らかだった。
甚右衛門はこちらから頼みたいくらいだと言い、進之丞を立たせると深々と頭を下げ、これまでのことについての感謝とねぎらいを伝えた。トミも千鶴を頼みますと言って、進之丞の手を握りながら頭を下げた。
進之丞は改めて二人に頭を下げ、千鶴も涙ながらに二人に感謝した。
進之丞は幸子とも向き合い、再び黙って手を突いた。その様子は甚右衛門やトミの時とは違い、進之丞の体はとても緊張したように小さく震えていた。
幸子はしゃがんで進之丞の手を握ると、これまでの感謝をして、千鶴のことをよろしくお願いしますと言った。
進之丞は顔を上げず打ち伏したまま泣き、申し訳ありませぬと幸子に詫びた。
田舎の者らしからぬ言葉に戸惑いながら、幸子は進之丞が自分のせいで店を潰したと考えていると思ったのだろう。あなたは何一つ悪いことはしていないから、自分を責めないで欲しいと言った。しかし、その言葉はさらに進之丞を泣かせた。
千鶴は進之丞を慰めながら、進之丞とともに暮らすことを認めてくれた、祖父母や母に何度も感謝した。
甚右衛門とトミは土佐にいる遠い親戚の世話になることが決まっていた。
山崎家の先祖は土佐の出で、これまで音沙汰がなかった何軒かの親戚に、甚右衛門は手紙を書いた。手紙を書いたのは、茂七から売上金を盗まれたという知らせが届いた直後だ。甚右衛門はその時に店がだめになると覚悟したようだった。
出した手紙への返事はほとんど戻って来なかった。だが、一軒だけが快い返事をくれた。それで、そこを頼ることにしたのである。
幸子と辰蔵との婚礼は中止になったが、幸子が病院で働くのは八月一杯という話に変わりはなかった。今更変更して欲しいとは言えないし、幸子のあとに入る看護婦がすでに決まっていた。そのため幸子は八月末で仕事を辞めざるを得なかった。
図らずも、それは山﨑機織を畳む日と重なったわけだが、幸子はそれでよかったと思っている。年老いた両親だけを見知らぬ土地である土佐へ行かせるわけにはいかないと、二人に同伴することにを決めていた。しかし、土佐へ行くのはもう少しあとである。
明日はわずかながらも最後の集金があり、甚右衛門は最後の挨拶を兼ねて、それを一人で廻るつもりでいた。そして、その金を進之丞との婚礼の祝儀として、千鶴に持たせることにしていた。
売上金が全くないと知れたら、銀行が怒り狂うのは必至である。土佐へ向かうのは、その銀行と借金返済の話をつけてからだった。
甚右衛門が店を畳む決断をしたのは、藪入りの直前だった。
進之丞は藪入りも仕事をするつもりだったが、店仕舞いになることを受けて、今後のことを決めるために風寄へ戻った。
そこで進之丞は為蔵とタネに今の状況を伝え、月末に戻って来ると伝えた。また甚右衛門の許しが出れば、千鶴を連れて戻ると二人に告げていた。
しかし、千鶴は祖父母や母が松山にいる間は、松山に残ることに決めていた。それはわずかな間ではあったが、ここで祖父母たちと別れると、もう二度と会うことがないかもしれないので、限られた時間をともに過ごしたいと思ったのである。
千鶴が残るのであれば、進之丞も残ってもよかったのだが、為蔵たちには八月末に戻ると伝えてある。二人が待っているので、進之丞だけが明日風寄へ一人で向かい、翌日に再び千鶴を迎えに戻ることになった。
千鶴と夫婦になるのであれば、進之丞は山﨑家の使用人ではなく身内になる。しかし、五人が一緒にいられるのは今だけだった。これまでとは違う雰囲気の中でみんなで語り合っていると、どこで山﨑機織の話を聞きつけたのか、突然三津子が訪ねて来た。
三津子は甚右衛門とトミに慰めの言葉をかけると、幸子と抱き合って泣いた。それから千鶴にも声をかけて励ましたあと、これからどうするのかと訊ねた。
千鶴が説明をしかねていると、代わりに幸子が今後のことを三津子に話した。
驚いた三津子は家族がばらばらになってしまうと嘆いたが、千鶴と進之丞のことはにこやかに祝福した。また懐から取り出した財布からお札をつかみ出すと、祝いを兼ねた餞別だと言って千鶴に持たせた。
それはこれまでの意地汚い三津子からは、想像もできないようなことだった。千鶴は三津子に感謝しながら、これまで三津子を悪く見ていたことを心の中で申し訳なく思った。
いつ風寄へ行くのかと三津子に訊かれた千鶴は、恐らく明後日だと思うと答えた。ただ、進之丞が明日先に立つと話すと、ほうなんと三津子は嬉しそうにうなずき、改めて千鶴と進之丞を祝福した。
いつもであれば三津子はそのまま居座って喋り続けるのだが、この日の三津子は違った。みんな揃っての最後の日に、邪魔をしてはいけないからと帰って行った。
へぇと千鶴は感心し、さすがにこういう時にはちゃんとできる人なのだと思った。見ると、母も何だかほっとしているようだ。
甚右衛門もトミもいつもと違う三津子のことを、何だか妙な感じだと言いながら好意的に受け止めていた。
進之丞も以前と違う三津子の様子を訝しく思ったのだろう。三津子が出て行ったあとを、じっと見つめていた。
五
翌日、進之丞は風寄へ向かった。千鶴は途中まで見送りだ。
山﨑機織へ来た時と同じように、進之丞は両手と背中に大きな風呂敷包みを持たされていた。中に入っているのは、詰められるだけ詰められた上等の絣の反物と、あの継ぎはぎの着物だった。
反物は千鶴が風寄へ行ってから、為蔵とタネ、そして進之丞の着物を仕立てることになっていた。
進之丞と二人で歩く千鶴の胸の中は、悲しみと喜び、あるいは不安と期待が混ざり合っていた。
店がだめになり、みんながばらばらになることは、とても悲しいことだった。それでも、それぞれが新たな道を歩み出すことになったと考えれば、必ずしも悪いことではないと思えた。
実際、自分と進之丞は晴れて夫婦になるわけで、暮らしも履き物作りの仕事があるから心配はない。法生寺も近いし、春子の実家もある。全然知らない土地へ行くわけでもないから安心だ。
また進之丞は藪入りに実家へ戻った時に、実はじいさまとばあさまから何としても千鶴を嫁にもらって来るよう命令されたと笑っていた。
千鶴も一緒に笑ったが、あの為蔵がそこまで言ってくれたのかと思うと、胸の中が嬉しさで一杯になった。
実際に一緒に暮らせば、いろいろ問題は出て来るだろう。だが、進之丞と夫婦になれることを考えれば、何があろうと乗り越えられると思っていた。
師範学校の北端まで来ると、見送りはここまででいいと進之丞は言った。それは、まだ捕まらないつや子を警戒してのことだった。
進之丞は三津子にも気をつけるようにと言った。三津子には妙なものを感じると言うのである。
三津子は元々妙な女であり、言われなくても警戒はしている。ただ、今回餞別をもらったことで、千鶴の三津子に対する気持ちは緩んでいた。
どうせもう三津子に会うことはないだろうと思いながら、千鶴は気をつけるからと進之丞に約束した。
千鶴はこのまま進之丞について行きたかった。しかし、祖父母を残してそれはできなかった。それに明日になれば、進之丞が迎えに戻って来る。寂しいが少しだけの辛抱だ。
だが、その寂しさはどんどん募り、このまま進之丞と永遠に別れてしまうような、そんな予感がするようになった。
行こうとする進之丞を千鶴は抱きしめた。進之丞を行かせたくなかった。
道を歩く者たちや近くの店の者たちが見ていたが、それを気にする余裕はなかった。千鶴の不安はそれほど大きくなっていた。
進之丞は不安がる千鶴を抱き返しながら、心配するなと言った。
「明日の朝一番に戻んて来るけん。藪入りと大して変わらんぞな。ほんでも、ほれまでは旦那さんらと一緒におってくれよ。あしにしたかて、お前のことが心配じゃけんな」
千鶴はうなずくと、ようやく進之丞を送り出す決心をした。
その場に残って見送る千鶴を、進之丞は何度も振り返りながらどんどん遠ざかって行く。その姿を眺めていると、千鶴は前世の海で千鶴を見つめる鬼の姿を思い出した。
あの時にどんどん遠ざかった鬼の姿が、今の進之丞の姿と重なってしまう。
「進さん!」
思わず千鶴は大きな声で叫んだ。進之丞は一度だけ千鶴を振り返ると、道行く者たちの中に姿を消した。それはまるで千鶴に応えた鬼が海に消えたようだった。
取り返しがつかないことをしたような気になった千鶴は、急いで進之丞を追いかけた。進之丞を引き留めなければと思っていた。
しかし、千鶴が進之丞に追いつくことはできなかった。恐らく進之丞は走って行ったのに違いなかった。
六
千鶴は夜明け前から目を覚ましていた。進之丞のことが気になって、昨夜もほとんど眠れていない。
昨日の約束では、進之丞は朝に迎えに来ることになっている。進之丞のことだから、朝飯も食べずに来るはずだ。きっと今頃は風寄を出ているに違いない。そんなことを考えていると、千鶴は横になっているのももどかしかった。
外が少し薄明るくなった頃、千鶴はまだ寝息を立てている母を起こさないようにしながら、そっと起きて着替えをした。それから台所へ行くと、竈に火を入れた。朝を食べずに来る進之丞の分も、食事を用意しておくつもりだった。
ところが戻って来るはずの進之丞は、みんなが起きて来て食事をする頃になっても戻って来なかった。
それについて、みんなは心配することはないと言った。きっと為蔵さんらが急ぐなと言い、きちんと朝飯を食わせているのだと甚右衛門が言うと、トミも幸子もうなずいた。幸子は昨日で最後の病院の仕事を終えて、今日からは家族と一緒だ。
ひょっとして進之丞が朝飯を食わずに戻るかもしれないと言うので、千鶴たちの食事の時間はいつもよりもゆっくりだった。食べ終わったあとも、しばらくは他愛ない話をしながら進之丞を待った。しかし進之丞が戻らないので、千鶴と幸子は片付けを始めた。
すると、そこへ銀行の行員がやって来た。約束どおり八月の売り上げを確かめに来たのである。
帳簿を見せるよう甚右衛門に迫る行員は、どうせだめなのはわかっていると言いたげで、意地悪そうな笑みを浮かべていた。
甚右衛門に渡された帳簿を確かめた行員は、それ見たことかと言わんばかりに帳簿を投げ出し、残っている金を見せろと言った。
しかし、甚右衛門がないと言うと行員は笑みを消し、どういうことかと眉をひそめた。銭は全部解雇した使用人たちにくれてやったと甚右衛門が答えると、行員の顔はみるみる険悪になった。
怒りを隠さない行員は、騙しやがったなと口汚く罵り、すぐにでも財産を全て差し押さえると言い残して出て行った。
行員がいなくなったあと、甚右衛門はやれやれと言いながら、みんなと顔を見交わして笑った。
本当は昨日集めた金はまだ残っている。甚右衛門が猟銃と一緒に組合長に預けたのだ。組合長は仕事だけでなく、イノシシ猟でも甚右衛門とはいい仲だった。
辰蔵と幸子のためにあつらえた婚礼衣装も、甚右衛門は組合長に預けていた。その話をした甚右衛門は、進之丞が戻ればその衣装を渡すから、仕立て直して二人で使えと千鶴に言った。
トミも幸子もよかったなと言い、千鶴は涙が出るほど喜んだ。
話はそこで留まらず、トミは土佐へは二人の婚礼を見てから行こうかと言い出した。幸子もうなずき、自分も見たいと言った。
泊まる所がないと甚右衛門が口をゆがめると、法生寺に泊めてもらえばいいと幸子は応じた。
甚右衛門はなるほどとうなずき、ほれはええなと笑顔を見せた。
客馬車の金はどうしようかとトミが言うと、そんなものは組合長が出してくれると甚右衛門は胸を張った。
どうやらみんなが本気で喋っていると思った千鶴は、進之丞への心配も忘れて嬉しくなった。
知念和尚と安子に仲人をしてもらい、為蔵とおタネ、そして自分の家族が集まった中での婚礼の様子が頭に浮かぶ。早く進之丞が戻って、この話に加わればいいのにと千鶴は胸を弾ませた。
「ごめん」
訪いを入れる声が聞こえた。千鶴が表をのぞくと、二人の警官が立っていた。
一人は以前に城山の事件のことで、千鶴の話を聞きに来た年配の警官だった。もう一人はかなり若い感じで、佐伯忠之はいるかと、いきなり偉そうに千鶴を問い質した。
千鶴の後ろに出ていた甚右衛門は、若い警官をにらむと、お前は物の訊ね方を教わっとらんのかと叱りつけた。
若い警官は顔を赤らめて気色ばんだが、年配の警官は頭を下げながら、ご尤もぞなもしと言って、訪ねて来た理由を説明した。
「実は、昨夕のことですけんど、こちらで働きよった佐伯が、風寄の家族を惨殺して逃げた言う知らせがありましてな。ほんで、申し訳ないんですけんど、佐伯が戻んとらんか、家の中を確かめさせてもらいたいんですわい」
警官の話を千鶴たちは理解ができなかった。甚右衛門は精一杯の平静を保ちながら言った。
「ちぃと待ってつかぁさいや。今、何て仰ったんかな? うちの使用人が人を殺したと、こがぁ聞こえたけんど」
「風寄の実家の老夫婦を殺したんぞなもし」
「実家の老夫婦て、為蔵さんとおタネさんですか?」
千鶴が訊ねると、年配の警官は手帳を確かめてから、そげですなと言った。
千鶴は愕然となった。つい昨日、為蔵とタネに千鶴を嫁にするよう命じられたと、進之丞は笑いながら言ったのである。その二人を進之丞が殺めるなど、天地がひっくり返っても有り得ない。
「そげなこと、絶対に有り得ませんけん!」
千鶴が叫ぶように言うと、甚右衛門たちも同じように怒りを隠さず抗議した。
それに対して、若い警官がむっとした顔で何か言おうとした。年配の警官はそれを制すると、目撃者がおるんですわいと言った。
「同し集落の者が、佐伯が山へ逃げるんを見とるんです。ほんで家をのぞいてみたら、二人が殺されよったいうことぞなもし」
「ほんなん、嘘ぞな。そのお人が嘘こいとるんよ!」
千鶴が大きな声を出すと、若い警官が頭ごなしに怒鳴った。
「誰も嘘なんぞこいとらん! 佐伯を隠しとらんのなら、さっさと家の中を見せんか!」
「若造のくせに何を偉そうに言うか! 貴様の親は、貴様にどがぁな躾をしたんぞ!」
甚右衛門が怒鳴り返すと、トミも甚右衛門に加勢した。
「この人の言うとおりぞな。いきなし来といて家の中見せぇて、自分がどんだけ失礼な物言いしよんのかわからんのかな。うちにおった丁稚でも、そがぁな物言いはせんかったぞな!」
何を!――と憤る若い警官を、年配の警官はきつく叱った。
「この方らの言い分は尤もぞな。この方らは犯罪者やないし、佐伯を匿とる証拠はない。お前が偉そに言える理由はなかろが」
さすがに年配の仲間に噛みつくことはできず、若い警官は面白くなさそうに口を噤んだ。
年配の警官は千鶴たちに向き直ると、お気持ちはわかりますと言った。
「私にしても、佐伯が身内を殺めたいう話は信じがたいと思とります。ほんでも実際に殺人が起こり、目撃者がおる以上は、ほれを調べるんが私らの勤めぞなもし」
丁重な言葉には、甚右衛門もトミも怒鳴ることができない。それでも自分たちは忠七を信じており、家を調べさせるようなことは、忠七を疑うことになるから断ると言った。
また何か言いたげな若い警官を横目でじろりと見てから、年配の警官は甚右衛門たちに言った。
「これは個人的な意見ですけんど、私は佐伯が犯人じゃと決めつけとるわけやありません。ただ、今の状況が佐伯にとって不利じゃいうことは間違いありませんな」
千鶴はすぐに反論した。
「なしてですか? あの人は、がいな家族想いやったんです。今度もうちと暮らすために先に風寄へ戻ったぎりですし、為蔵さんもおタネさんも、うちに会うんを楽しみにしんさったんです。ほれやのに、なしてあの人が家族を殺さないけんのですか?」
「ほれもまだわからんことぞなもし。ほじゃけん、私は佐伯が犯人じゃとは決めつけとらんと言うとるんですわい」
「ほれじゃったら、他に犯人がおるかもしれんと、あんたは思いんさるんかな?」
甚右衛門が訊ねると、もちろんぞなもしと年配の警官は言った。
「ほんでも、もし佐伯が犯人でないんなら、家族が殺されとるんを見つけた時に、逃げたりせんで交番へ連絡するんが普通でしょう。ほれやのに逃げたいうことは、何ぞ後ろめたいことがある思われても仕方ないいうことになりませんかな?」
「その目撃が間違いいうことはないんかな?」
今度はトミが訊ねた。
「もちろんその可能性もありますけんど、ほれにしても、佐伯が警察に連絡せんで姿を眩ますんは理解できかねますな。とにかく本人に話聞いてみんことには、本当のとこは何もわからんのですわい」
そういうわけで家の中を見せてもらえないかと、年配の警官が改めて丁重に頼むと、甚右衛門はようやく許可を出した。
それではと、若い警官に二階を調べるよう指示を出した年配の警官に、幸子が恐る恐る訊ねた。
「忠さんのご家族は、どがぁな殺され方をしよったんかなもし」
奥庭へ向かおうとしていた年配の警官は、振り返って言った。
「二人とも、包丁でめった刺しと聞いとります」
幸子は口を開けたまま何も言えなかった。ほんな――と言ったきり千鶴も言葉が出ず、涙がぼろぼろこぼれ落ちた。甚右衛門もトミも顔が強張っている。
「ほんでも、そこが引かかるとこぞなもし」
警官がため息交じりに言うと、甚右衛門は鋭く警官を見た。
「引かかるとは?」
「佐伯はまっこと強い男ぞなもし。先だっての大林寺での騒動ですけんど、どがぁに強い男でも刃物まで持った荒くれ男十五人を、あがぁな目に遭わせることはできんでしょう。そこまで強い男が、相手を殺すんに刃物なんぞ使うとは思えませんけん。しかも相手は年寄りです」
「ほれは、ほうじゃな。お前さんの言うとおりぞな」
「ほれに事情聴取した時の佐伯の態度は、まっこと礼儀正しい上に正義感もあるし、他者への思いやりがありました。そがぁな男がいきなし家族を殺すとは思えんのですわい」
「ほれじゃったら――」
縋るような甚右衛門の言葉を遮るように、ほれでも――と警官は言った。
「さっきも言いましたように、佐伯が隠れて姿を見せんのは、後ろめたさがあると見られてしまいますけん。今は通常の捜査をさせてもらうしかないんですわい」
それだけ話すと、警官は再び背を向けて奥庭へ出て行った。
結局、警官たちは進之丞を見つけることはできず、佐伯が戻って来たら必ず連絡をするように、と言い残して帰って行った。
気丈にこらえていたトミは、堰を切ったように泣き崩れ、甚右衛門は、畜生め!――と上を向いて喚いた。
あの時の胸騒ぎはこれだったのかと、千鶴は進之丞を引き留められなかったことを悔やんだ。
「なして、忠七は逃げたりしたんじゃ……」
トミが泣きながらつぶやくと、甚右衛門が力なく言った。
「気が動転したに違いないわい」
「ほやかて、何も逃げることなかろに」
「お前が殺したんじゃろて言われるんが怖かったんじゃろ。何もしよらんでも悪ぅ見られてしまうけん……」
かつて進之丞を山陰の者というだけで退けようとしたことがあるからだろう。甚右衛門は唇を噛んで涙ぐんだ。
だが、千鶴は進之丞が姿を消した理由を知っていた。あまりの怒りに鬼に変化しそうになったからに違いないのだ。
それにしても誰が為蔵とおタネを殺したのか。そう考えた千鶴の頭に女の影が過った。それはつや子である。
「おい、鬼! こそこそ隠れよらんで出て来い!、わしらを油断させて破滅させたのに、ほれでもまだ足らん言うんか! そがぁに祠が気に障った言うんなら、出て来てわしと正々堂々と勝負せぃ!」
突然狂ったように、甚右衛門が物陰に向かって叫んだ。全ては鬼が仕組んだことだと受け止めたようだ。
千鶴と幸子は甚右衛門を懸命になだめた。トミも鬼は関係ないと言った。だが、甚右衛門は聞こうとはしなかった。
「鬼が千鶴を護っとんなら、なして大林寺で千鶴が襲われた時に現れんかったんぞ。なして千鶴を護ってくれんかったんぞ。鬼が護ってくれとったら、忠七が捕まることはなかったし、店が潰れることもなかったんじゃ……。忠七の家族が殺されることも……」
泣く甚右衛門に、トミも涙ぐみながら諭すように言った。
「忠七が駆けつけてくれたけん、鬼は出る幕がなかったんぞな。ほれにあげな所で鬼が出よったら、ほれはほれでもっと大事になっとったぞな。鬼はこの子の迷惑にならんよう気ぃ遣いよったんよ」
「お前に何がわかるんぞ! 恐らく忠七の家族を殺したんは鬼ぞ。千鶴を忠七に奪われる思た鬼が、見せしめに忠七の家族を殺したんじゃ」
やめて!――千鶴は叫ぶと泣き出した。
甚右衛門はぺたんと座り込むと、なしてこがぁなことに――と項垂れた。
「あの女じゃ」
幸子が言った。
「あの女て?」
トミが幸子を見た。
「つや子ぞな。男に千鶴を襲わせよった横嶋つや子ぞな」
甚右衛門もはっとしたように顔を上げた。
「ほうじゃ。あの女ぞな。絶対ほうに決まっとる」
みんなの気持ちがつや子へ向いた時、千鶴は言った。
「うち、これから風寄へ行くけん!」
鬼に変化した進之丞が、風寄で身動きできなくなっているに違いない。そう思うと、千鶴はじっとしていられなくなった。
千鶴が土間へ降りると、ならん!――と叫んで甚右衛門も土間へ飛び降りた。
千鶴と甚右衛門は揉み合い、幸子とトミは必死に二人を引き離そうとした。その時、お邪魔しまっせ――と表から声がした。
見ると、店の入り口に人が立っている。
甚右衛門は目を細めてその影を見ていたが、それが誰だかわかると、貴様!――と言って近づいて行った。
「おっとっと! 何を怒ってはりまんのんや?」
つかみかかろうとする甚右衛門から慌てて逃げるその男は、畑山孝次郎だった。