仕掛けられた罠
一
毎日が同じように過ぎて行く。進之丞が鬼であろうがなかろうが関係なく、みんな日々の仕事に追われて暮らしている。それは山﨑機織だけのことではなく、世の中の人々みんながそうなのだ。
千鶴が萬翠荘へ招かれたことも、城山で四人の男が瀕死で見つかり、その後全員が死んだことも、特高警察に狙われたことも、そして鬼よけの祠が不審火で燃えてしまったことも、全部忘れられたかのようだ。
もう進之丞を人間に戻す努力などしなくても、何も問題ないのではと思えるほど、世の中は機械のごとく動いている。
このままではいけないと、心のどこかで何かが叫び続けているようでもあったが、千鶴の中にはあきらめのような無力感が広がっていた。
どうしたって進之丞を人間に戻すことはできないのだ、という事実を突きつけられたようで、今では神仏に縋るような気持ちさえも起こらない。
べっ甲の櫛を千鶴から返されてからというもの、弥七も仕事への気力が失われたようだった。注文の品を間違えたり、辰蔵から注意をされても投げやりな態度を見せたりで、甚右衛門もいらだつことが多い。
だが、そんなことに対しても千鶴は何とも思わなかった。以前であれば自分のせいだと悩んだり、何とかならないかと考えただろうが、今は少しもそんな気持ちにならない。はっきり言って、どうでもいいのだ。
手紙をよこさないで欲しいと伝えたにもかかわらず、スタニスラフからの手紙も相変わらず届いている。もう封を切るのも煩わしくて、そのまま読まずに置いたままだ。
それでも、あることには千鶴は腹立ちを覚えていた。それは鬼である。
鬼と言っても、進之丞のことではない。前世で自分たちを苦しめた、あの鬼である。
進之丞の話を聞いただけの時とは違って、今の千鶴は直接の記憶を取り戻している。鬼がどれほどひどいことをしたのかを、肌身で知っているのだ。
その記憶は前世のものとは言え、現世の記憶と変わらない。千鶴にとっては、つい数日前のことのように思えるのである。
鬼だって好きこのんで鬼になったわけではない。それは理解している。鬼が心から反省しているという進之丞の言葉も信じよう。
しかし、だからと言って、鬼がやった悪事をすべて許せるのかと言うと、それは話が違うと今の千鶴は思っている。
苦しみの記憶を忘れているならともかく、苦しみが続いている状態では、とても鬼を許す気にはなれない。
それでも現世で鬼が千鶴を助けてくれたのであれば、まだ鬼に対して恩義を感じられる。しかし助けてくれたのは進之丞であり、あの鬼は進之丞の横で見守りながら励ましていたに過ぎない。その励ましの言葉だって、千鶴の耳には届いていないのだ。
以前に鬼がずっと傍にいることを願っていたが、今ではそれが馬鹿馬鹿しいことだったと思っている。それどころか、さっさと進さんから離れてどこにでも行けばいい、という気持ちになっていた。
そもそも、本当にあの鬼が進之丞に引っついているのかも疑わしい気がしている。いくら自分が鬼になったとは言っても、あの鬼は進之丞の父親を八つ裂きにしたのだ。また慈命和尚と仁助の命を奪った上に、進之丞に村人たちを殺めさせもした。
そんな鬼を少しも恨まずかばうことなど、自分であればできないと千鶴は思っている。きっと進之丞の言葉は本当ではなく、あの鬼は地獄へ堕ちたままこの世には戻っていないに違いない。
では、何故進之丞はあの鬼が一緒にいるなどと言うのだろう。
進之丞は鬼を憎むなと言った。それは鬼のためではなく、千鶴のためだ。心を憎しみのいろに染めれば、せっかくの新たな人生が台無しになるというのが理由である。
恐らくそのために進之丞は、あの鬼が自分と一緒に千鶴を見守っていると言ったのだろう。そう言うことで鬼への憎しみがなくなることを期待したと思われる。
そして、その期待どおりに千鶴は鬼を恨まないと言った。だが、あの時の気持ちは今はない。進之丞には申し訳ないとは思うが、千鶴の心はあの鬼への怒りでいっぱいだった。せいぜいが怒りが憎しみに変わらないようにするだけで、怒り自体は抑えようがない。
それでも、そのことを進之丞に話すことはできないし、気づかれてもいけない。また、進之丞を人間に戻すことは無理なのだと、認めたような態度は絶対に見せられない。
進之丞の前では、これまでどおりに明るく振る舞うよう心掛けている。だが胸の中では、怒りと悲しみと絶望が渦巻き続けている。
二
ついに甚右衛門は辰蔵と幸子の祝言を挙げることに決めた。いつまでもずるずる先延ばしにするのはよくないと判断したようだ。
式の日取りは七月十五日。この日は大安で鬱陶しい梅雨も明けているものと思われた。
日取りを告げられた辰蔵と幸子は二人とも、わかりましたと答えるだけで少しも喜ぶ様子はなかった。
このことは使用人たち全員に伝えられた。二人が夫婦になることを初めて知った亀吉たちは驚き興奮した。だが弥七は何だか蒼ざめた様子だった。
花江は平気な顔をしていたが、話を聞かされたあと厠へ行き、そこで泣いていたことを千鶴は知っている。そのことを進之丞に伝えたが、進之丞も気の毒そうにうなずくばかりだった。
婚礼の仲人は同業組合の組合長夫妻にお願いすることになった。それで組合長夫妻が訪れたり、甚右衛門やトミが組合長の家を訪ねたりと、頻繁に互いを行き来することが続いた。
辰蔵と幸子の婚礼衣装の準備もあり、すでに二人が夫婦になったような雰囲気が店の中に広がった。
いよいよ明日が式となる日、上手い具合に梅雨は明けて夏空が広がっていた。シャワシャワと賑やかな蝉の鳴き声が聞こえている。
式の前日ではあったが、幸子は病院の仕事に行った。式の日取りが決まったのが、あまりにも急なことだったので、病院としても代わりの看護婦を見つけるのは困難だった。
それで幸子は辰蔵と結婚をしたあとも、その翌日から八月いっぱいは勤めを続けるということになっていた。
山﨑機織の仕事も通常どおり行われ、辰蔵や進之丞たちは普段と同じように仕事に追われていた。
千鶴と花江はいつもの仕事に加えて、明日の式の食事の準備もあって、目が回るほどの忙しさだった。忙しい方が花江が悲しむ暇がないのでいいのだが、それでも千鶴は午後になると手が空く亀吉たちに、家の仕事を手伝ってもらおうと考えていた。
昼飯のあと、甚右衛門は組合長の家へ最後の打ち合わせに行き、トミは正清の墓に幸子の結婚を報告しに行くことになっていた。
二人は出かける時に、それぞれが亀吉と新吉を連れて行った。そのため千鶴たちが頼れるのは豊吉一人だけとなった。それでも豊吉は一生懸命に動いてくれた。
仕事が一段落したところで、花江はお茶にしようと言った。
みんな出かけていて、家の中にいるのは千鶴と花江と豊吉の三人だけだ。帳場も辰蔵一人である。
千鶴がお茶を用意すると、花江は戸棚から茶菓子を出した。自分だけが茶菓子を食べられると豊吉は大喜びだ。
千鶴は辰蔵のお茶も用意したが、花江に声をかけると、花江が辰蔵のお茶と茶菓子を帳場へ持って行った。
二人はどんな想いで顔を合わせるのだろうと、千鶴が心配していると、花江はすぐに戻って来て、それじゃあ一休みしようかね――と言った。恐らく辰蔵とは何も喋らず、祝福の気持ちだけを伝えたのだろう。千鶴は切ない気持ちで花江を迎えた。
板の間で三人でお茶を飲み、お菓子を食べながら他愛ないお喋りを始めると、三人の中で豊吉が一番よく喋った。頭がよいため理屈っぽいと亀吉に言われた豊吉だが、この日のお喋りは子供っぽいものばかりだった。
花江は本当は泣きたいだろうに、豊吉の話を聞いて笑う姿が、千鶴にはいじらしく見えた。
そろそろ仕事を始めようかと花江が言うと、その前に厠へ行くと言って、豊吉は渡り廊下を走って行った。その様子を見て笑っていた花江は、実はさ――と千鶴に向き直って言った。
「今月初めのお休みの日さ。ちょうど晴れてたから、道後にお風呂に入りに行ったんだ。そしたらね、またあいつに会っちまったんだよ」
あいつと言うのは孝平のことだ。また、お休みの日というのは、千鶴が井上教諭を訪ねた日の二日前のことである。
前に孝平を見てからしばらくの間は、花江は一人で外へ出ないようにしていた。しかし、その後は孝平は現れなかったので、近頃は一人で出かけるようになっていた。それなのに、今度は道後で孝平に会ってしまったと言うのだ。
千鶴が不安な顔をすると、大丈夫だってと花江は笑った。
「前に見た時は、あたしもすぐに逃げ帰ったからさ。何も喋ることもなかったんだけど、今度はあたしを呼び止めて、話があるって言うんだよ。だからあたしも逃げないで、何の話かって訊いたんだ」
「孝平叔父は何て言うたん?」
「それがさ、周りに何人も他の人がいたんだよ。そんな所でさ、人目も憚らずにね、もう伊予絣はだめだから、松山を出て一緒に暮らそうって言うんだよ。何もできない自分がだめなくせにさ、偉そうなことを言うから、あたし、言ってやったんだ」
「何て言うたん?」
「お生憎さま、あたしはもうすぐ辰さんと祝言を挙げるんだよ――て言ったのさ」
驚く千鶴に花江は口を尖らせて、言うだけだからいいじゃないかと言った。
「ほんとはさ、あたし、辰さんと一緒になりたかったんだ。東京にいた時から、辰さんに惚れてたんだ。だから辰さんが松山に戻った時には、ひどく落ち込んだよ。でも、あたしには親が決めた許嫁もいたからね。どっちみち無理な話だったんだけどさ」
花江はその頃を思い出すような顔を見せた。それは楽しそうでもあり、悲しそうでもあった。
「それで、いよいよ祝言って時にね、あの大地震が起きたんだよ。あたしは家もお店も家族も何もかも失ってさ。許嫁の方も大変な状態で、とてもあたしの面倒を見るなんてできなかったんだ。簡単に言えばさ、あたしは見捨てられたんだよ」
瓦礫だらけの場所で行く当ても頼る者もなく、一人佇む花江の姿が目に浮かび、千鶴は思わず涙ぐんだ。
独りぼっちの花江は、もう死ぬしかないと思っていたと言う。
「その時さ、辰さんが現れたのは」
花江は、ぱっと明るい顔になって言った。
「地獄に仏ってこのことだって思ったよ。まさか辰さんが来てくれるなんて、これぽっちも思ってなかったからね」
「ほれは嬉しかったじゃろね」
「嬉しいなんてもんじゃないよ。奇跡って言うか、あたしの幸運が全部来たって感じだったよ」
花江は興奮した様子で話を続けた。
「あの時、辰さんはあたしに言ってくれたんだよ。他の所より一番にあたしの所へ来たんだって。しかもね、自分と一緒に松山へ行こうって言ってくれたんだ」
過去の話ではあるが、聞いていて千鶴も嬉しくなった。しかし、そのあとどうなるかがわかっているだけに切なくもあった。
「そんなこと、旦那さんに黙ってできないって言ったらさ、自分が旦那さんにお願いするからって。どうしてそこまでしてくれるのかって訊いたらね、あたしをお嫁にしたかったって言ってくれたんだよ。あたし、嬉しくて嬉しくて、悲しかったことも全部忘れてさ。夢なら覚めないでって思ったんだ」
それなのに、二人は今引き裂かれようとしている。それは夫婦になる直前で引き裂かれた前世の千鶴たちと同じだ。
今からでも何とかしてあげたい。だけど、今更どうすることもできない。自分の無力さを千鶴は嘆き悔やんだ。
「なして……、なして二人が一緒になるんじゃって、もっと早うにおじいちゃんらに言わんかったん?」
「言えるわけないじゃないか。あたしは女中として雇ってもらったんだからね。それでも今年辺りに、旦那さんやおかみさんに相談してみるつもりだって、辰さん、言ってくれてはいたんだよ」
ほうじゃったんと言ったきり、千鶴はあとの言葉が見つからなかった。去年のうちに話していればと思ったが、もうどうにもならないことである。
だけどさ――と花江は寂しげに言った。
「あいつに辰さんと一緒になるんだって言ったあとに、旦那さんが辰さんと幸子さんを夫婦にするって言うなんてさ。わかってたことだけど、何だか罰が当たったみたいだよ」
「ほやかて花江さん、何も悪ないよ」
「ありがとう。明日が祝言だって言うのに、ごめんよ、こんな話して」
千鶴が黙ったまま首を振ると、花江は悲しげに微笑んだ。
そこへ豊吉が戻って来た。
「あぁ、すっきりした」
「長かったね。ちゃんと手は洗ったのかい?」
花江に言われると、豊吉は両手を広げて見せて、洗ったもーんと言った。
花江は笑いながら、それじゃあまた始めようかと言うと、千鶴と一緒にお茶飲みの後片づけをして立ち上がった。
先に土間へ下りた花江は千鶴を振り返り、悪戯っぽく笑みを浮かべて言った。
「実はさ、そん時にもう一つ嘘をついたんだ」
「もう一つ?」
「知りたいかい?」
千鶴がうなずくと、花江は言った。
「千鶴ちゃんの式も一緒に挙げるんだって言ったんだよ」
「え? うち?」
「そうだよ。あいつ、いつも千鶴ちゃんのこと目の敵にしてたからね。いい機会だって思って言ってやったんだ。そしたらあいつさ、最初の話でも目ぇまん丸くしちゃって情けない顔してたんだけど、よっぽど悔しかったんだろうねぇ。口元をわなわな震わせてさ。走っていなくなっちまったよ」
ぽかんと話を聞いていた豊吉が、何の話かと言った。
「何でもないよ。大人の話さ」
花江がさらりと答えて台所へ行くと、豊吉は千鶴に同じことを訊ねた。千鶴は豊吉を無視できず、花江をかばいながら説明した。
「花江さんは悪い男を追い払うために、ほんまと違うことを言うたぎりぞな」
「嘘言うたん?」
「そうさ。嘘も方便って言うだろ?」
花江が面倒臭そうに言った。
「ほやけど、嘘はいけんぞな。あとで、身から出た錆になるかもしれんけん」
花江は感心したように豊吉を見た。
「豊ちゃん、本当に言葉を知ってるんだね。すごいじゃないか」
豊吉は照れながら、嘘はいけないと繰り返した。
「わかったよ。もう嘘はつかないから。だけどさ、身から出た錆よりさ、あたしは、嘘から出た実の方がいいな」
「ほうじゃね。うちもそがぁ思うぞな」
本当にそうであれば、どれだけ嬉しいことだろう。だが豊吉は、それでも嘘はいけないと繰り返した。
三
「大事ぞな! おかみさんが倒れんさった! 千鶴さんも花江さんもすぐ来てつかぁさい!」
注文取りに出ていたはずの弥七が飛び込んで来た。
「おばあちゃんが倒れたて、どこで倒れたん?」
驚いて千鶴が訊ねると、大林寺で倒れたと弥七は口早に言った。しかし、祖母が大林寺にいる理由が千鶴にはわからなかった。
祖母が出かけた先は雲祥寺であり、大林寺ではない。山﨑家と大林寺の関わりは、ロシア兵の父と看護婦である母が知り合った場所ということだけだ。他には何のつながりもない。だから、祖母が大林寺へ行く理由はないのである。ましてや、今日は祝言の前日だ。
それに弥七が知らせに来たのも妙に思えた。
祖母には新吉がついている。祖母に何かがあったとしたら、走って来るのは弥七ではなく新吉のはずだ。
そのことを千鶴は質そうと思ったが、弥七は千鶴たちを急かしながら、慌てたように表に飛び出した。
千鶴たちにいろいろ考えている暇はなかった。
新吉が祖母から離れられないのだとすれば、祖母は重篤状態だと考えられる。大林寺はすぐそこだから、取り敢えず行ってみるしかない。
千鶴と花江は顔を見交わすと、黙ってうなずき合った。
二人は弥七の後を追ったが、帳場にいるはずの辰蔵の姿がない。先に大林寺へ走ったのかと思った千鶴は、豊吉を呼んで店番を頼んだ。
表に出ると、弥七が前方で待っていた。しかし辰蔵はいない。やはり先に大林寺へ行ったのかと思ったが、大林寺へ向かう道に辰蔵の姿はない。弥七が店に戻った時に、辰蔵がすぐに出たとしても、道のどこかに走る辰蔵の姿があるはずだ。
千鶴は違和感を覚えた。だが弥七が再び走り出し、花江もそれに続いたので、とにかく大林寺へ向かうことにした。
大林寺の山門をくぐると、その先に中門がある。本堂があるのは中門の向こうだ。祖母はそこにいるのかと千鶴は思ったが、弥七は中門をくぐらず、中門から続く土塀沿いに左へ走った。
突き当たりは久松家の御廟所だ。歴代城主の墓が並ぶ所である。一般の者が立ち入る所ではないし、山﨑家にも関係のない場所だ。そんな所に祖母がいるはずがない。だが、弥七は御廟所の入り口で千鶴たちを振り返ると、この中だと言って入って行った。
普段であればここには番人がいて、関係者でない者を中へ入れないようにしている。ところが今日はその番人の姿がない。
中で祖母が倒れたために、番人はそちらへ向かったのだろうか。そう考えると、本当に祖母が危ないのかと思えて、千鶴は焦った。
花江が心配そうにしながら先を急ぎ、千鶴も花江に続いた。
御廟所の入り口を入ると、そこから西へ向かって広大な墓所が広がる。ここには東にある城と向かい合うように、手前に五つ、奥に四つの久松家城主の墓があり、それぞれの墓の上には立派な御廟が建てられている。
入り口正面の奥には、手前の五つの御廟のための拝殿があり、右手にある四つの御廟には三つの拝殿がある。
それぞれの御廟の前には数え切れないほどの石灯籠が並び立ち、静寂ながら圧倒されるような荘厳な雰囲気が広がっている。部外者が気軽に立ち寄る所ではないことは、空気の違いですぐわかる。やはり、ここは祖母がいるには似つかわしくない場所だ。
それでも千鶴たちはトミの姿を探した。しかし、入り口から見える所にはトミも新吉もいなかった。
いるのは手前の拝殿で手を合わせる五人の男たちだが、この男たちの粗野な風体もこの墓所の雰囲気にはそぐわない。男たちが久松家の関係者ではないことは明らかだ。
弥七は奥の墓所の入り口に立っており、早く来るようにと千鶴たちに手招きをしている。しかしその表情は硬く、激しい手の動きも何だか焦っているように見える。
花江はすぐに弥七の方へ行こうとしたが、千鶴は花江を引き留めた。
「花江さん、ちぃと待って。これ、何かおかしいぞな。おばあちゃんがこがぁな所におるわけないで」
「だって、弥さんが……」
花江は少しも弥七を疑っていないようだ。しかし、千鶴は大きな胸騒ぎを感じていた。
早くここから立ち去らねばならないと思った千鶴は、強引に花江の手を引いて御廟所を出ようとした。すると、外から数名のごろつきのような男たちが、こちらへ来るのが見えた。
「姉やんら、どこへ行くつもりぞな? ここは通れんけん、早よ奥へ行っておくんなもし」
男の一人がにやにやしながら言った。さすがに花江もこれはおかしいと思ったらしい。そこを通しておくれと気丈に言ったが、男たちは花江の言うことなど聞こうとしない。
「見てのとおり、こっちはいっぱいで通れんぞな。ほじゃけん、先に姉やんらが奥へ行っておくんなもし」
千鶴ちゃん――花江は強張った顔で千鶴を見た。
千鶴が後ろを振り返ると、拝殿で手を合わせていた男たちも、こちらの方へ向かって来る。千鶴と花江は後ずさりをするように、じりじりと奥の墓所へ追い詰められた。
奥にある三つの拝殿にも複数の男たちがいた。その一番手前の拝殿で男が一人手を合わせていて、その傍に弥七が立っていた。
トミも新吉も姿は見えず、御廟所の番人らしき者もここにはいない。奥の二つの拝殿にいる男たちは、後ろから来る男たちと同じごろつきである。
「弥七さん、おばあちゃんはどこにおるんね?」
千鶴が強い口調で問い質しても、弥七はうろたえた様子で黙っている。すると、その横にいた男がくるりと振り返った。男は孝平だった。
四
「二人とも、ようおいでたの。待ちよったぞな」
孝平は勝ち誇ったように言った。
千鶴は孝平の隣にいる弥七をにらんだ。
「弥七さん、これは何の真似なん?」
弥七は目を伏せて何も言わない。間違いなく弥七も孝平とぐるである。
花江は怒りを隠さず孝平たちに言った。
「あんたら、あたしたちを騙したんだね? ここであたしたちをどうしようって言うんだい!」
後ろは男たちで完全にふさがれている。周囲はすべて土塀で囲まれていて、逃げることはできないし、外からも中は見えない。
「さてと、どがいしようかの。そちらの返答次第で、どがぁするかは違て来う」
孝平はにやにやして言った。弥七は下を向いたままだ。
周囲にいる男たちを見る花江の目は、恐怖に怯えているようだ。しかし、孝平に喋るその口調は勝ち気そのものだった。
「こっちの返答次第? 何だい、それは。あたしたちにどうしろって言うのさ!」
「教えて欲しいんなら言うちゃろわい。明日の祝言は取り止めて、わしと夫婦になると誓え」
孝平の言葉を聞いた弥七が、孝平に何か文句をつけた。孝平はうなずくと千鶴に言った。
「千鶴、お前はこの弥七と夫婦になるんぞ」
「何言うんね。弥七さん、あんた本気なん?」
千鶴が質すと、弥七はうろたえた様子で、孝平さんが言うたとおりや――と言った。
なして――と声を荒げようとした千鶴を制して、花江が孝平に話しかけた。
「答える前に聞かせておくれよ。明日の祝言を取り止めないって言ったら、あたしたちをどうするつもりなんだい?」
「ほん時は、お前らを力尽くでわしらの物にするまでよ。そがぁなったら、もう祝言なんぞできんけんな」
「じゃあ、取り止めるって言ったら信じるのかい?」
「ほれは――」
孝平は言葉に詰まって弥七を見た。どうやら、嘘をつかれた時のことを考えていなかったようだ。
弥七も孝平に任せっきりにしていたのか、困ったように孝平を見返すばかりで黙っている。
そんな二人を眺めながら、花江はふっと笑った。
何がおかしいと、孝平は花江に凄んだが、花江は平気な顔だ。
「あんたらしいなって思っただけさ。よく考えもしないで、こんな大それたことしちゃってさ。あたしよりずっと年上のくせに、ほんっとに馬鹿なんだから。呆れて物が言えないって、このことだよ」
「何やと?」
「さっきの質問に答えてあげる。祝言を取り止めるも何も、あたしは誰とも祝言なんか挙げないよ」
「何?」
「明日祝言を挙げるのは、あたしじゃなくて幸子さんさ。幸子さんが辰さんと夫婦になるんだよ」
「嘘こけ! お前と辰蔵が祝言挙げるて、お前が自分で言うたんじゃろが!」
「それは、あんたがしつこく付きまとうからだろ? だいたいさ、あんた、弥さんから明日の話を聞いてないのかい?」
孝平はうろたえたように弥七を見た。弥七も混乱したような顔で孝平を見ている。
「孝平さん、知っとったんやないんですか?」
「いや、わしは花江と番頭が一緒になるて聞いとったけん」
「ほんな……、ほれじゃったら――」
弥七の言葉を遮るように、花江は言った。
「あんたはいつだってそうなんだ。相手の気持ちなんか、これっぽっちもわかろうとしないで、自分勝手に考えて動くんだ。あたしが本当はどう思ってたかなんて、ちっともわかってないんだろ?」
「え? ほれはどがぁなことぞ?」
当惑している孝平に花江は詰め寄った。気圧された孝平は後ろへのけぞった。
「あんたは人を期待させるだけさせといて、ちっともがんばろうとしない」
「え? 期待?」
「店でも文句ばっかり垂れて、あたしを手籠めにしようとするし」
「いや、ほれは――」
「家を追い出されたあとも、まともな仕事なんかしてなかったんだろ? そんなんで一緒になれるわけないじゃないか」
「一緒にって――」
「あんたが一人前になって戻って来るのを待ってたのに、こんなことしでかすなんて。あたしが今、どんだけ情けない気持ちでいるのか、あんたにはわからないだろうさ!」
花江の勢いに孝平はかなり動揺したようだ。顔に迷いと焦りのいろが表れている。
「ちぃと待て。お前、ひょっとしてわしのこと――」
「待ってたんだって言ってるだろ?」
「ほ、ほれじゃあ、わ、わしと一緒になってくれるつもりが――」
花江は大袈裟に首を振りながら言った。
「あぁ、嫌だ嫌だ。そんなことを女の口から言わせるつもりなのかい? だから、あんたって男はだめなんだよ」
「いや、ほんな……、ちぃと待ってくれ。これは誤解ぞな。わしかてお前にその気があるてわかっとったら、お前に襲いかかったり、こがぁなこともせんかったんぞ。元を言うたら、お前の――」
「あたしの何が悪いって言うのさ?」
花江がじろりと孝平をにらんだ。
「あ、いや、別に何も悪ないか……」
孝平が小さくなると、今度は千鶴が弥七に言った。
「弥七さん、なしてこがぁなことしたん? うちが櫛を受け取らんかったけん、孝平叔父さんと一緒になって、うちを手籠めにしよ思たん?」
弥七はうろたえながら、ほやかて――と蚊の鳴くような声で言った。
「ほやかて、何よ?」
「ほやかて千鶴さん、明日あいつと祝言挙げるて聞いたけん……」
「そがぁなこと誰から聞いたんね? 花江さんが言いんさったように、明日祝言挙げるんはうちのお母さんと辰蔵さんぞな。おじいちゃんがそがぁ言いんさったんを、弥七さんかて聞いたじゃろ?」
弥七は黙って横目で孝平を見た。孝平は慌てて両手を振り、わしやないと言った。
「わしは花江から聞いたことを、こいつに教えたったぎりぞな。わしが言うたわけやないけん」
「また、あたしのせいにするわけ?」
花江ににらまれると、いや――と孝平は下を向いた。
「あしは千鶴さんを他の男に取られとないんよ」
弥七は覚悟を決めたように、はっきりした声で言った。
「あしはずっと前から千鶴さんを好いとった。ほれやのに千鶴さんは、あとから入って来たあいつの方がええみたいなけん、あしは何とかあいつに負けまいとがんばりよったんよ。ほんでも、千鶴さんは明日あいつと一緒になるて聞いたけん、ほじゃけん……」
弥七は下を向いて涙をこぼした。
「千鶴ちゃん、ごめんよ。あたしのせいで、豊ちゃんの言ったとおりになっちまった」
花江は千鶴に困惑した顔で言った。千鶴は黙って小さく首を振ると、弥七に言った。
「弥七さん、こがぁなことして、うちの気持ちが自分に向くて思たん? 却って嫌われるとは思わなんだん?」
弥七は項垂れたまま黙っている。
今回のことは孝平が主犯に違いない。弥七は孝平に従っているだけであり、孝平さえ手を引けば、弥七も手を引くはずだ。そう考えた千鶴は孝平に声をかけた。
「孝平叔父さん、花江さんのこと誤解が解けたんなら、もうええでしょ? うちも花江さんもこのことは誰にも言わんけん」
「ほんまに言わんのか?」
孝平が疑わしそうに言った。
「うちにしても花江さんにしても、余計なこと言うてごたごたするより、黙って何もなかったことにしよる方がええもん」
なぁ、花江さん――と千鶴が花江に振ると、花江もうなずき、千鶴ちゃんの言うとおりだよと言った。
穏やかな顔になった孝平が、ほれでええかと弥七に言った。弥七がうなずくと、千鶴と花江は笑顔を見交わした。
ところが、黙って話を聞いていた男たちの一人が、ほうは行くまいと言った。
それまでとは別の異様な雰囲気が広がり、他の男たちも薄ら笑いを浮かべている。
声を出した男は、他の男たちより二回り体がでかい。どうやら男たちの頭目のようだ。その男が冷たい口調で孝平に言った。
「孝平、勝手な真似は許さんぞな」
五
驚く孝平と弥七に頭目の男は言った。
「お前さんら、あしらの顔潰す気ぃか?」
孝平は顔を強張らせながら言い返した。
「ほ、ほやかて事情が変わった言うか、誤解が解けたんやし――」
「そげなこと、あしらには関係ない」
「何言うとるんぞ? お前らはわしの手伝いする言うて集まったんじゃろが。そのわしがもうええて言うとるんじゃけん、ほれでよかろが」
花江の手前だからか、孝平は少し強気で喋ったが、男にはまったく通用しなかった。
「お前があしらに銭をよこすんか? 違うじゃろ? あしらは銭もろて動きよるんぞ。一銭も出しとらんお前の言うことを、なしてあしらが聞く必要があるんぞな?」
孝平と男たちの関係を千鶴たちは知らない。それでも二人のやり取りからすると、このことに絡む黒幕がいるようだ。
どうやら自分が男たちに指図ができる立場だと、孝平は思い込んでいたらしい。だが、そうではなかったと思い知らされた今、孝平の声は怒りと怯えで震えていた。
「な、何やて? ほ、ほれじゃったら、お前ら、端からわしの手伝いする気ぃなんぞ、なかった言うことか?」
「そがぁなこと、あしらはお前に一言も言うとらんじゃろが。あしらが手伝うて、お前が勝手に思いよったぎりぞな」
「孝平さん、話が違うやないか!」
弥七に詰られ、孝平は頭目の男につかみかかった。ところが、逆に殴り倒され、弥七も他の男に張り倒された。
千鶴と花江は男たちに取り囲まれた。千鶴は以前に料亭の前で男たちに囲まれたが、今いる男たちはあの時の倍以上いる。しかも、ここには進之丞がいない。万事休すである。
「あんたら、やめないと大声を出すよ。ここの和尚さんたちに見つかったら、あんたらだってただじゃ済まないからね」
花江は男たちを見回しながら気丈に言った。しかし、怯えは隠せない。体が小さく震えている。
男たちの中には長脇差を持った者がいた。その男たちは長脇差の鞘を捨てると、倒れている孝平と弥七の喉元に、その切っ先を当てた。その様子をちらりと見てから、頭目の男が脅すように言った。
「そげなことをしたら、どがぁなるかは見てわかろ? お前らは黙ってあしらの言うとおりにするしかないんぞ」
「あたしらをどうするつもりなんだい!」
花江が噛みつくと、頭目の男は言った。
「さぁて、大阪にでも売り飛ばすかの。ほんでも、騒がれても困るけんな。その前に、ここであしらを十分楽しませてもらおわい」
「こんな所であたしらを手籠めにしようってのかい? この罰当たり!」
「あしらは生まれつき罰当たりぞな」
「この卑怯者!」
倒れたまま孝平が叫んだ。しかし、長脇差で喉元を少し刺されると、声にならない悲鳴を上げた。隣では弥七が横目で千鶴たちを見ながら、ぶるぶる震えている。
「お前らは己が惚れた女子が、あしらに手籠めにされるんを見て楽しんだらええ」
頭目の男が楽しげに孝平たちに言うと、通路をふさいでいた男が下卑た笑いを浮かべて言った。
「わし、いっぺんでええけん、このロシアのお姫さんを抱いてみたかったんぜ。もう考えるぎりであそこがおっ立つぞな」
股間を両手で押さえる仕草をした男は、次の瞬間、ぐぇっと叫んで宙に高く浮いた。男は地面に落ちると、そのまま股間を押さえながら悶絶した。
他の男たちが一斉に振り返った。そこにいたのは進之丞だった。
悶絶した男の股間は進之丞に蹴り潰されたようだ。その後ろにも数名の男たちが声も出さないまま倒れていた。
「進さん! おいでてくれたんじゃね」
千鶴が喜びの声を上げると、近くにいた男たちが進之丞に襲いかかった。しかし、進之丞は片っ端から男たちの腕をへし折り、顎や肋を打ち砕き、地面に叩きつけた。男たちへの遠慮は微塵も見られず、千鶴は進之丞が男たちを殺すのではないかとはらはらした。
孝平と弥七を押さえていた男たちが、長脇差で進之丞に斬りかかった。だが、進之丞は紙一重で刃をかいくぐると、目にも留まらぬ速さで男の一人を捕まえた。そして、もう一人が再び斬りかかって来た時に、その男を楯にした。
楯にされた男は肩をざっくり斬られ、斬った方の男は驚きうろたえた。すかさず進之丞は楯にした男を捨てて、もう一人の男の長脇差を握った右腕を左手でつかんだ。同時に右手は男の顔をつかんでいる。
男は悲鳴を上げて長脇差を落とした。進之丞につかまれた男の右腕は、ぐにゃりと曲がっている。進之丞は男の足を払い、倒れる男の頭を地面に打ちつけた。男は痙攣したあと動かなくなった。
初めは進之丞の登場に歓喜した花江も、あまりの凄惨さに言葉を失い、進之丞を見る目に怯えのいろを浮かべていた。
頭目の他に男たちは数名残っていたが、みんな戦意を喪失したようにうろたえている。
頭目は男たちを怒鳴りつけ、無理やり進之丞を襲わせた。だが、へっぴり腰になった男たちなど進之丞の敵ではない。全員があっと言う間に打ち伏せられ、あるいは地面に叩きつけられた。
「動くな!」
頭目が叫んだ。みんなの目が進之丞に向いていた隙に、頭目は千鶴を捕まえていた。千鶴の喉元には小刀が当てられている。
「千鶴ちゃん!」
花江が叫ぶと、進之丞は男をにらんだまま、逃げろと花江に叫んだ。男たちにふさがれていた通路には、もう誰もいない。
進之丞から凄まじい殺気が発せられている。その殺気を恐れたのか、頭目は千鶴を人質にしながら、じりじりと墓所の奥へと後ずさりした。
花江がもう一度千鶴を呼んだ。進之丞は頭目をにらみながら、後ろにいる花江に、逃げろと繰り返した。しかし、その命令口調の声はいつもの進之丞とは違う、低くて凄味のある声になっている。
「進さん、いけん。落ち着いて!」
頭目に捕まりながら、千鶴は叫んだ。続けて花江に、お寺の人を呼んで来てと言った。
頭目は焦ったように、余計なことを言うなと千鶴に怒鳴った。だが、千鶴の言葉で花江は走って逃げ出した。
すると、花江を追いかけるように孝平も逃げ出し、弥七もそのあとへ続こうとした。
途中、弥七は立ち止まって千鶴を振り返ったが、千鶴が警察を呼ぶように言うと、再び走り出した。
くそっ!――と頭目は逃げる弥七を横目で見てから、進之丞に目を戻すと、驚いたように目を見開いた。
進之丞の頭から角が生え、口からは牙がのぞいている。その顔はほとんど鬼になっており、体も今にも膨らみそうだった。
「進さん、いけん! 変化したらいけん! 変化せいでも何とかできるじゃろ?」
千鶴が必死に叫ぶと、進之丞は二、三度首を大きく横に振り、気持ちを落ち着けるように目を閉じた。
「な、何ぞ、お前は? 化け物か?」
頭目の言葉に千鶴はかちんと来た。進之丞の姿に気を取られていたからだろう。小刀を持つ頭目の手が緩んでいたので、千鶴はその手をつかんで小刀を喉元から外すと、思い切り噛みついた。気持ちは自分もがんごめになったつもりだった。
痛ててと頭目が怯んで小刀を落とした隙に、千鶴は進之丞の所へ逃げた。
千鶴が噛みついた頭目の腕から血が滲んでいる。千鶴は汚らわしさを吐き出すように、ぺっと唾を吐いてから頭目に言った。
「進さんは化け物なんぞやない。人間ぞな!」
「人間やと? そいつは人間やない!」
「人間やないんは、あんたの方じゃ! この人でなし!」
元の姿に戻った進之丞は、頭目をじっとにらんだ。すると、頭目は呆けたようになった。
進之丞は頭目に近づくと、額に指を当てて言った。
「これは誰の差し金ぞ?」
頭目はぼんやりしたまま、つや子――と言った。
「つや子?」
進之丞は千鶴と顔を見交わした。また、つや子だ。
頭目に顔を戻すと、進之丞は再び訊ねた。
「なして、つや子がお前らに千鶴らを襲わせたんぞ?」
「ほれは知らん……。あしらは銭さえもろたら……、何でもする」
「つや子は今はどこにおるんぞ?」
「わからん……」
「ほうか、わかった。ほれじゃあ、今ここで見たことはすべて忘れて、警察で己の罪を洗いざらい白状せぃ」
頭目は目を閉じると、崩れるように倒れた。
六
花江が寺の住職や小僧たちを連れて戻って来た。驚いたことに、住職たちの後ろには三津子がいた。
大切な御廟所での惨状に、住職も小僧も言葉を失った。
「あら? 千鶴ちゃんやないの。ほれに手代の兄やんも。なして、あなたたちがこがぁな所におるん? いったい、ここで何があったんね?」
驚いた様子の三津子は、倒れている男たちを踏みつけながら千鶴の所へ来た。
「なして、三津子さんがここにおいでるんぞな?」
千鶴が訊き返すと、三津子は大林寺を見学に来たついでに、向こうで住職と喋っていたと言った。
「ところで、この人ら何なん?」
三津子は自分が踏みつけた男たちを振り返り、眉をひそめた。
千鶴は答えるのを少し迷ったが、黙り続けるわけにもいかない。
「うちと花江さんをここへ連れ込んで、手籠めにしようとしたんぞな」
「千鶴ちゃんと女中さんを手籠めに? ここで? 嘘じゃろ?」
三津子は進之丞に、そうなのかと訊ねた。
進之丞はじっと三津子を見つめたままうなずいた。すると、んまぁ!――と三津子は驚きの声を上げた。
「ほれで、誰がこの人らをやっつけたん? ひょっとして、この兄やんが?」
改めて倒れている男たちを見たあと、三津子は進之丞に顔を向けた。しかし、進之丞は黙ったまま答えなかった。代わりに花江が、そうだよと言った。
「忠さんがたった一人でやっつけたんだよ。かなり荒っぽかったけど、これぐらいしなかったら、逆にこっちがやられてたよ」
花江は進之丞の戦いぶりに恐れをなしていたはずだった。だが少し冷静になった今は、進之丞の強さに敬意を払っているようだ。
進之丞が来てくれていなかったらと思うと、千鶴は寒気がした。きっと花江も同じ気持ちなのに違いない。
「ちぃと待って。この兄やんがたった一人でやっつけたん? この人らを全部?」
三津子は驚きの顔で進之丞を見たあと、倒れている男たちを見回しながら、ひぃ、ふぅ、みぃと数えた。
「嘘じゃろ? 十五人もおるぞな。しかも、何? この人ら刃物持ってたん?」
仲間に斬られて血まみれの男を見ても、三津子は平気な様子で喋り続けた。そのことを花江が指摘すると、元は看護婦じゃったけんねと三津子は楽しげに言った。
「こがぁな傷、しっかり押さえよったら大丈夫ぞな。ちぃとそこの小僧さんら。こっちへおいでてくんさらん?」
住職と一緒に立ちすくんでいる小僧たちに手招きすると、斬られた男の傷をふさぐよう、しっかり手で押さえるようにと三津子は言った。
小僧たちは恐れをなしたが、言われたとおりにせよと住職に言われると、二人の小僧が顔を背けながら男の傷を押さえた。
住職は千鶴たちの所へ来ると、何があったのか詳しい話を聞かせて欲しいと言った。
しかし、孝平や弥七のことを千鶴は喋りたくなかった。花江も同じ気持ちなのだろう。二人で黙っていると、代わりに三津子がぺらぺらと説明をした。
話を聞いた住職は、それにしてもどういう理由で千鶴たちが狙われたのかと訊ねた。だが、それには三津子は答えられず、なしてなん?――と千鶴たちを見た。
「ほれは、うちらもわからんぞなもし。けんど、この人らの後ろには黒幕がおるらしいぞな」
「黒幕? 誰やのん、ほれは?」
三津子は眉間に皺を寄せた。
千鶴はつや子の名は出さずに頭目の男を指差して、この人が金をもらったと言っていたとだけ話した。男がつや子の名を喋るはずがなく、つや子の名を出すのはまずいと判断してのことだった。
「ほんなこと言うたん、この男!」
三津子は頭目をにらみ、この屑!――と言って頭を蹴飛ばした。
そこへ弥七が巡査を二名連れて戻って来た。
巡査たちは御廟所へ入るなり、うっと呻いて立ちすくんだ。それでもさすがは巡査で、すぐに我に返ると、一人が倒れている男たちの様子を確かめ始め、もう一人は真っ直ぐ千鶴たちの所へ来た。
その巡査がここで何があったのかと訊ねると、三津子がまた得意げに説明を始めた。しかし、三津子は住職と喋っていただけで事件とは関係がないとわかると、巡査は三津子に黙っているようにと強い口調で命じた。
それから改めて千鶴と花江から事情を訊き、男たちが千鶴たちを手籠めにしようとしたこと、男たちの後ろに黒幕がいること、そして進之丞が一人で男たちを倒して、千鶴たちを助けたことを確かめた。
しばらくすると数名の巡査が応援に駆けつけた。
その巡査たちも凄惨な現場に言葉を失った様子だったが、先にいた巡査に協力して、怪我の程度のひどい者たちを病院へ運ぶよう手配した。
だが、どの男たちも意識がないか朦朧としており、辛うじて意識があるものは苦しみ悶えていた。それで結局は、全員が病院へ運ばれることになった。
これだけの男たちを病院へ運ぶのは大仕事である。巡査たちは寺の雨戸を運搬用の戸板として利用させてもらい、集まった野次馬たちに協力を仰いで、順番に男たちを運び始めた。
頭目には千鶴の噛み跡と、三津子が蹴飛ばした跡以外の傷はなかったが、巡査たちが起こそうとしても目を覚まさなかった。それで板に載せられて運ばれて行った。
そのあと、御廟所の西南の隅を調べた巡査が、御廟の陰から猿ぐつわを噛まされて、縛り上げられた男を見つけた。
住職は驚いて男に駆け寄ると、この御廟所の番人だと巡査に話した。
猿ぐつわを外されて縄を解かれた番人は、いきなり現れた男たちに刃物を突きつけられて縛られたと言った。しかし、番人は男たちについては何も知らないようだった。
千鶴と花江は改めて話を聞きたいのでと、警察への同行を求められた。二人がそれを了承すると、その巡査は進之丞に向き直って、喧嘩の当事者として逮捕すると言った。
驚いた千鶴と花江は猛抗議したが、巡査は聞き入れてくれなかった。進之丞がおとなしく両手を後ろに回すと、巡査はその両手を縛ろうとした。
千鶴と花江は尚も抗議したが、三津子も怒りを露わにして巡査に食ってかかった。
三津子は進之丞を縛ろうとしていた巡査を押し倒し、逮捕する相手が違うと喚いた。それで三津子までもが逮捕されそうになったので、進之丞は三津子に頭を下げ、改めて巡査に両手を差し出した。
そうしながら進之丞は、捕まえるのは自分一人で十分のはずだと言った。それで巡査は改めて進之丞を逮捕し、三津子については厳重注意で済ますことになった。
三津子は目に涙を浮かべながら、唇をわなわなと震わせて、後ろ手に縛られる進之丞をじっと見つめていた。
千鶴と花江もどうすることもできず、進之丞の横で泣くばかりだった。
巡査が進之丞を連行しようとすると、その前に弥七が立ちはだかった。
弥七はこの事件を引き起こしたのは自分だと申し出て、自分も逮捕して欲しいと巡査に訴えた。
どういうことかと巡査が訊ねると、弥七は自分と孝平がこの男たちを使って、千鶴と花江を手に入れようとしたと白状した。
巡査は改めて千鶴と花江に、そうなのかと確かめた。泣く二人は喋ることができないまま、黙ってうなずいた。
その巡査は別の巡査を呼ぶと、弥七を逮捕させた。そして、逃げた孝平を捕まえるよう他の巡査に指示をした。
大林寺を出ると、そこに多くの人だかりができていた。その中を後ろ手に縛られた進之丞と弥七が連行されて行く。その後ろを千鶴と花江は泣きながらついて行った。
集まった者たちの中には、当然千鶴たちが知る者もいて、何があったのかと声をかけて来た。だが説明などできなかった。
警察へ向かうのに、千鶴たちは紙屋町を通り抜けなければならなかった。
両脇の店々からは、馴染みの顔がいくつものぞいている。千鶴たちに声をかけた者もいるが、すぐに巡査たちに遠ざけられた。
山﨑機織の前を通る時、店に戻っていた甚右衛門とトミ、辰蔵と丁稚たちが、巡査につかみかからんばかりに飛び出して来て、千鶴たちを取り戻そうとした。しかし結局は引き離されて、トミはその場に泣き崩れた。
甚右衛門は辰蔵に店を任せると、千鶴たちについて来た。だが、警察に着くまで千鶴たちと喋ることは敵わず、甚右衛門もまた連行される一人のように見えた。
千鶴の隣では、花江が死にそうな顔で打ちしおれている。自分のついた嘘でこんなことになったと、責任を感じているのだろう。
弥七は項垂れたまま泣いている。だが、進之丞は顔を真っ直ぐ上げて前を向いていた。考えているのは、つや子のことに違いない。
進之丞までもが逮捕されたのは理不尽だが、それ以上に今後のつや子の動きが、確かに千鶴も気になっていた。
頭は混乱し、怒りと悲しみで胸がいっぱいではあったが、それでもつや子のことが頭から離れない。
どうしてつや子はここまでのことをするのだろう。そこまで自分たちに恨みがあるというのだろうか。だとすれば、これで終わりではなく、今後もつや子の企みは続くはずだ。
それを考えると、千鶴は不安と恐怖に襲われた。つや子を捕まえない限り、この不安と恐怖は終わらない。
歩いている間、道を通る者や、道の脇に家や店を持つ者たちが、好奇と侮蔑の目を向け続けている。その中には二百三高地の髷を結った女もたくさんいた。
客馬車で一緒になったつや子の顔を、千鶴ははっきりとは覚えていない。それで自分たちを眺める二百三高地の女を認めるたびに、もしやこの女がつや子ではないだろうかと、誰を見ても疑いたくなった。
だが、堂々としている進之丞を見ると、自分はその女房らしくいようと思った。見るなら見ろである。
千鶴は涙を拭くと、進之丞の隣に身を寄せた。進之丞を後ろから連行する巡査が離れるように言ったが、自分はこの人の女房だと強く言い返した。そして進之丞と同じように顔を上げ、胸を張って歩いた。
自分たちは何も悪いことをしていないのだから、胸を張るのは当然である。どこかで見ているつや子に、少しも堪えていないところを見せてやるのだ。
そんな千鶴を横目で見て、進之丞は微かに笑った。その笑みが千鶴にとっては何よりの励みであり誇りだった。
何があろうとも自分たちは一緒なのだと強く想い、千鶴は進之丞とともに長い道のりを歩き続けた。