> 野菊のかんざし > 仕掛けられた罠

仕掛けられた罠


      一

 毎日が同じように過ぎていく。進之丞しんのじょうが鬼であろうがなかろうが関係なく、みんな日々の仕事に追われて暮らしている。やまさき機織きしょくだけでなく、世の中のみんながそうなのだ。
 千鶴ちづ萬翠荘ばんすいそうへ招かれた話や、城山で四人の男がひんで見つかった事件は、もう話題にもならない。その後は城山で何も起こらないので、世間では城山の魔物はおそでだぬきわざということで落ち着いたようだ。
 ただお袖狸は人助けをする狸であり、人殺しをするはずがない。それで四人の男たちの事件はやくざ同士の争いだろうということになり、次第に忘れられていった。
 千鶴たちの間でも、特高とっこう警察や不審火で燃えた鬼よけの祠のことは、みんなの頭から抜け落ちており、甚右衛門もトミも考えているのは売り上げを伸ばすことだけだ。あんなに城山の魔物を怖がった亀吉たちも、今は何事もなかったかのように仕事に励んでいる。
 そんな周りの様子を見ていると、進之丞を人間に戻す努力などしなくてもいいのではないかという考えが、千鶴の頭に浮かんでくる。本当はそうではないとわかっているが、千鶴の中にはあきらめが無力感となって広がっていた。
 あれだけつらい想いをしながら井上いのうえ教諭に探ってもらった前世の記憶も、肝心の所が突然現れた白いもやでわからなかった。もうどうしたって進之丞は人間に戻せないのだ、という事実を突きつけられたみたいで、今では神仏にすがる気持ちさえも起こらない。
 べっ甲のくしを千鶴から返されてからというもの、しちも仕事への気力が失われたらしい。注文の品を間違えたり、辰蔵たつぞうから注意をされても投げやりな態度を見せたりで、甚右衛門じんえもんもいらだつことが多い。
 そういう話を耳にしても、千鶴は何とも思わなかった。以前であれば自分のせいだと悩んだり、何とかならないかと考えただろうが、今は少しもそんな気持ちにならない。はっきりいって、どうでもいいのだ。
 手紙をよこさないでほしいと伝えたにもかかわらず、スタニスラフからの手紙も相変わらず届いている。もう封を切るのもわずらわしくて、そのまま読まずに置いたままだ。

 あらゆることに関心がなくなった感じだったが、あることには千鶴は腹立ちを覚えていた。それは鬼だ。前世で自分たちを苦しめた、あの鬼である。
 進之丞の話を聞いた時には、千鶴はまだ鬼のことは思い出していなかった。だが今は鬼が何をしたのかを肌身で覚えている。その記憶は前世のものとはいえ、現世の記憶と変わらない。千鶴にとっては、つい数日前のことなのだ。
 鬼だって好きこのんで鬼になったわけではない。それは理解している。鬼が心から反省しているという進之丞の言葉も信じよう。だからといって、鬼がやった悪事をすべて許せるのかというと、それは話が別だと思っている。苦しみの記憶を忘れているならともかく、苦しみが続いている状態では、とても鬼を許す気にはなれない。
 もしイノシシや特高警察から護ってくれたのがあの鬼であったなら、鬼に対して恩義を感じ、今とは別の受け止め方ができたかもしれない。だけど、実際に助けてくれたのは進之丞だ。あの鬼ではない。あの鬼は進之丞の横で千鶴を見守り励ましていたに過ぎない。その励ましの言葉だって、千鶴の耳には届いていないのだ。
 以前は鬼がずっとそばにいるよう願っていたが、今はそれが馬鹿馬鹿しいと思っている。それどころか、さっさとしんさんから離れてどこにでも行けばいい、という気持ちだ。
 そもそも、あの鬼が進之丞に引っついているという話も疑わしい。
 いくら進之丞が鬼になったといっても、あの鬼は進之丞の父親を八つ裂きにしたのだ。まためい和尚と仁助じんすけの命を奪った上に、進之丞に村人たちをあやめさせもした。さらに、夫婦になろうとしていた自分たちの仲をも引き裂いたのである。
 そんな鬼を少しも恨まずかばうなど、自分であればできないと千鶴は思っている。進之丞が鬼をかばえるのは、本当はあの鬼は地獄へちたままこの世には戻っていないからではないのか。そうであるなら、何故進之丞はあの鬼が一緒にいるなどと言ったのか。
 進之丞は鬼を憎むなと言った。鬼のためではなく、千鶴のためだ。心を憎しみのいろに染めれば、せっかくの新たな暮らしが台無しになるというのが理由である。それで進之丞はあの鬼が自分と一緒に千鶴を見守っていると話したのだろう。そして、その期待どおりに千鶴は鬼を恨まないことにした。
 だが、あの時の気持ちは今はない。進之丞には申し訳ないと思いつつ、千鶴の心はあの鬼への怒りで満ちていた。せいぜいが怒りが憎しみに変わらないようにするだけで、怒り自体は抑えようがない。
 だけどそれは進之丞には話せないし、気づかれてもいけない。進之丞を人間に戻すのをあきらめた態度も、絶対に見せられない。
 進之丞の前では、千鶴はこれまでどおりに明るく振る舞った。けれど、胸の中では怒りと悲しみと絶望が渦巻き続けている。

      二
         
 ついに甚右衛門は辰蔵とさち祝言しゅうげんを挙げることに決めた。いつまでもずるずる先延ばしにするのはよくないと判断したようだ。
 式の日取りは七月十五日。この日は大安で鬱陶うっとうしい梅雨も明けているものと思われた。
 日取りを告げられた辰蔵と幸子は二人とも、わかりましたと答えるだけで少しも喜ぶ様子はなかった。
 二人が夫婦になることが使用人たち全員に伝えられると、亀吉かめきちたちは驚き興奮した。ただ、弥七だけは何故かあおざめていた。
 はなは平気な顔をしていたが、あとでかわやで泣いていたのを千鶴は知っている。その話を進之丞に伝えても、進之丞も気の毒そうにうなずくばかりだった。
 婚礼の仲人なこうどは組合長夫妻にお願いすることになった。それで組合長夫妻が訪れたり、甚右衛門やトミが組合長の家を訪ねたりと、頻繁ひんぱんに互いを行き来することが続いた。
 辰蔵と幸子の婚礼衣装の準備もあり、すでに二人が夫婦になったかのごとき雰囲気が店の中に広がった。しかし少しも喜びが感じられず、でったちも何だか妙な感じだと思っているようだ。笑顔がないままぱたぱたと動きまわっている。
 店を存続させねばならないにしても、誰も幸せになれないのであれば、何のために存続させるのかがわからない。進之丞を人間に戻せない無力感に、みんなの不幸な気持ちが重なって、千鶴はますますどんよりした気分になった。

 いよいよ明日が式となる日、うまい具合に梅雨は明けて夏空が広がった。シャワシャワとにぎやかなせみの鳴き声が聞こえている。
 式の前日ではあったが、幸子は病院の仕事に行った。式の日取りが決まったのが、あまりにも急なことなので、病院としても代わりの看護婦を見つけるのは困難だった。それで幸子は祝言のあとも翌日から八月いっぱいは勤めを続けることになっていた。
 山﨑機織やまさききしょくの仕事も通常どおり行われ、辰蔵や進之丞たちは普段と同じように仕事に追われていた。
 千鶴と花江はいつもの仕事に加えて、明日の式の食事の買い出しや酒の注文もあった。正月どころではない大人数が集まるので、それに応じたぜんそろえておく必要がある。明日の料理は近所の者たちも手伝ってくれるが、全部お任せというわけにはいかない。明日はとにかく忙しいので、今日すべきことは今日の内に済ませておかねばならなかった。
 千鶴は祝言なんか初めてだし、母たちの気持ちを思うと落ち着かない。普段の仕事をするにしても気がいて、いつも以上にせわしく感じていた。それで亀吉たちは午後になれば手がくだろうから、何か手伝ってもらおうと思ったが、その思惑ははずれてしまった。
 昼飯が終わると甚右衛門が亀吉を連れて、組合長の家へ最後の打ち合わせに出かけた。またトミも新吉しんきちをお伴に正清まさきよの墓へ幸子の結婚報告をしに行った。千鶴たちが頼れるのは豊吉とよきち一人になったが、豊吉は一生懸命に動いてくれた。
 千鶴が買い出しから戻って来ると、花江が豊吉と一緒に洗濯物を取り込んでいた。千鶴がいない間に飛び込みの客が来たので、豊吉は辰蔵に命じられた品出しをしたが、かわやの掃除もしてくれたという。千鶴に褒められると、豊吉はにこにこしながら、何でもするけんと言った。去年の春に来た頃と比べると、本当に頼もしくなった。

 次の仕事を始める前にお茶にしようと言って、花江は戸棚から茶菓子を出した。豊吉は自分だけが茶菓子を食べられると大喜びだ。
 千鶴はみんなのお茶をれると、花江に声をかけた。お茶は帳場ちょうばにいる辰蔵の分もある。
 花江はお盆にお茶とお茶菓子を載せると帳場へ運んだ。暖簾のれんの向こうで、花江と辰蔵がどんな想いで顔を合わせるのかと思うと、千鶴は切なくなった。
 花江はすぐに戻って来た。恐らく辰蔵とは何も話さず、祝福の気持ちだけを伝えたのだろう。千鶴たちに向けた花江の笑顔が悲しかった。
 いつもなら板の間に座るところだが、この日は千鶴たち以外誰もいない。千鶴が花江と豊吉を茶の間へいざなうと二人は喜んだ。といっても上がりかまちに腰をかけただけだが、それでも花江たちには特別なことだった。
 お茶を飲み、お菓子を食べながら他愛ないおしゃべりを始めると、三人の中で豊吉が一番よく喋った。豊吉は頭がよいため理屈っぽいと亀吉はこぼすのだが、この日の豊吉のお喋りは子供っぽいものばかりだった。
 本当は泣きたかろうに、豊吉の話を聞いて笑う花江の姿が、千鶴にはいじらしく見えた。

 しばらく喋ったあと、そろそろ仕事を始めようかと花江が言うと、その前にかわやへ行くと、豊吉は渡り廊下を走って行った。その様子を笑っていた花江は、実はさ――と千鶴に向き直った。
「今月初めのお休みの日さ。ちょうど晴れてたから、どうにお風呂に入りに行ったんだ。そしたらね、またあいつに会っちまったんだよ」
 あいつというのは孝平こうへいのことだ。お休みの日というのは、千鶴が井上教諭を訪ねた日の二日前のことである。
 前に孝平を見てからしばらくの間は、花江は一人で外へ出ないようにしていた。けれど、その後は誰も孝平を見なかったので、近頃はまた一人で出かけていた。なのに、今度は道後で孝平に会ってしまったと言うのだ。
 千鶴が不安な顔を見せると、大丈夫だってと花江は笑った。
「前に見た時は、あたしもすぐに逃げ帰ったからさ。何も喋らなかったんだけど、今度はあたしを呼び止めて、話があるって言うんだよ。だからあたしも逃げずに話を聞いたんだ」
「孝平叔父は何て言うたん?」
「それがさ、周りに何人も他の人がいたんだよ。そんな所でさ、人目もはばからずにね、どうせ伊予いよがすりもうからないから、松山まつやまを出て一緒に暮らそうって言うんだよ。何もできない自分がだめなくせにさ、偉そうなことを言うから、あたし、言ってやったんだ」
「何て言うたん?」
「お生憎あいにくさま、あたしはもうすぐたつさんと祝言を挙げるんだよ――て言ったのさ」
 驚く千鶴に、言うだけだからいいじゃないかと花江は口をとがらせた。
「ほんとはさ、あたし、辰さんと一緒になりたかったんだ。東京にいた頃、辰さんがうちの店に来てくれるのが楽しみでね。辰さんが来たら、呼ばれもしないのにお茶にお茶菓子を出したりさ、何か探すふりして帳場に行ったりしたんだよ。でも、あたしには親が決めた許婚いいなずけがいたからね。一緒になるなんて無理な話だったんだけどさ」
 花江はその頃を思い出すような顔になった。その表情は楽しそうではあったが、悲しそうにも見えた。
「辰さんが松山に戻った時はしばらく落ち込んでたけど、あたしもあきらめて許婚と一緒になる覚悟を決めたんだ。それで、いよいよ祝言ってなった時にね、あの大地震が起きたんだよ。あれであたしは何もかも失っちまったけど、許婚の方も大変でね。とてもあたしの面倒を見るなんてできなかったんだ。簡単にいえばさ、あたしは見捨てられたんだよ」
 燃えた家の前に立ちながら、花江はもう死ぬしかないと思ったという。れきだらけの場所で行く当ても頼る者もなく、一人たたずむ花江の姿が目に浮かぶと千鶴は思わず涙ぐんだ。
 しかし花江はぱっと明るい顔になって、そしたらさと言った。
「そこにね、思いがけず辰さんが現れたんだ。地獄に仏ってこのことだって思ったよ。まさか辰さんが来てくれるなんて、これぽっちも思ってなかったからね」
「ほれはうれしかったじゃろね」
「嬉しいなんてもんじゃないよ。奇跡っていうか、あたしの幸運が全部来たって感じだったよ」
 花江は興奮した様子で話を続けた。
「あの時ね、辰さんは言ったんだ。他の所より一番にあたしの所へ来たんだって。しかもね、松山で一緒に暮らそうって言ってくれたんだ。ここで一緒に働かせてもらおうってね」
 過去の話ではあるが、聞いていて千鶴も胸が熱くなった。そのあとどうなるかがわかっているだけに切なくもあった。
「そんなこと、だんさんに黙ってはできないって言ったらさ、自分が旦那さんにお願いするからって。どうしてそこまでしてくれるのかって訊いたらね、あたしをお嫁にしたかったって言ってくれたんだよ。あたし、嬉しくて嬉しくて、悲しかったことも全部忘れてさ。夢なら覚めないでって思ったんだ」
 なのに、二人は今引き裂かれようとしている。夫婦になる直前で引き裂かれた前世の千鶴たちと同じだ。今からでも何とかしてあげたいが、今更いまさらどうにもできない。母と辰蔵の婚礼は明日なのだ。千鶴は自分の無力さを嘆き悔やんだ。
「なして……、なして二人が一緒になるんじゃて、もっとうにおじいちゃんらに言わんかったん?」
「あたしは女中として雇ってもらったんだよ? そんなの言えるわけないじゃないか。だけど今年辺りにね、旦那さんやおかみさんに相談してみるつもりだって、辰さん、言ってくれてはいたんだよ」
 ほうじゃったんと言ったきり、千鶴はあとの言葉が見つからなかった。去年のうちに話していればと思ったが、もうどうしようもない。
 でもさ――と花江は寂しげに言った。
「あいつに辰さんと一緒になるんだって言ったあとに、旦那さんが辰さんと幸子さんを夫婦にするって言うなんてさ。わかってたことだけど、何だかばちが当たったみたいだよ」
「ほやかて花江さん、何もわるないよ」
「ありがとう。明日が祝言だっていうのに、ごめんよ、こんな話して」
 千鶴が黙ったまま首を振ると、花江は悲しげに微笑んだ。

 豊吉が戻って来た。
「あぁ、すっきりした」
「長かったね。ちゃんと手は洗ったのかい?」
 花江が明るい顔でからかうと、豊吉は両手を広げて見せて、洗ったもーんと言った。
 花江は笑うと、千鶴と一緒にお茶飲みのあと片づけをした。先に流しへ向かった花江は、そうそうと言いながら千鶴を振り返り、悪戯いたずらっぽく笑みを浮かべた。
「実はさ、そん時にもう一つうそをついたんだ」
「もう一つ?」
「知りたいかい?」
 千鶴がうなずくと、花江は言った。
「千鶴ちゃんの式も一緒に挙げるんだって言ったんだよ」
「え? うち?」
「そうだよ。あいつ、いつも千鶴ちゃんのこと目のかたきにしてたからね。いい機会だって思って言ってやったんだ。そしたらあいつさ、最初の話でも目ぇまん丸くしちゃって情けない顔してたんだけど、よっぽど悔しかったんだろうねぇ。口元をわなわな震わせてさ。走っていなくなっちまったよ」
 ぽかんと話を聞いていた豊吉が、何の話かと言った。
「何でもないよ。大人の話さ」
 花江がさらりと答えて流しに湯飲みを置くと、豊吉は千鶴に同じことをたずねた。千鶴は豊吉を無視できず、花江をかばいながら説明した。
「そげなことでな、花江さんは孝平叔父を追い払お思て、ほんまやない話をしたんよ」
「嘘言うたん?」
「そうさ。嘘も方便って言うだろ?」
 花江が振り向いて面倒臭そうに弁解した。
「ほやけど、嘘はいけんぞな。あとで、身から出たさびになるかもしれんけん」
 花江は感心した顔で豊吉を見た。
とよちゃん、本当に言葉を知ってるんだね。すごいじゃないか」
 豊吉は照れながら、嘘はいけないと繰り返した。
「わかったよ。もう嘘はつかないから。だけどさ、身から出た錆よりさ、あたしは、嘘から出たまことの方がいいな」
「ほうじゃね。うちもそがぁ思うぞな」
 本当にそうであれば、どれだけ嬉しいことか。だが豊吉は、それでも嘘はいけないと繰り返した。

      三

大事おおごとぞな! おかみさんが倒れんさった! 千鶴さんも花江さんもすぐ来てつかぁさい!」
 注文取りに出ていたはずの弥七が、大声で叫びながら飛び込んで来た。いきなり現れた弥七にも驚いたが、トミが倒れたのも衝撃だ。
「おばあちゃんが倒れたて、どこで倒れたん?」
 千鶴があせってたずねると、だいりんで倒れたと弥七は口早に言った。けれど、祖母が大林寺にいる理由が千鶴にはわからなかった。
 祖母が出かけた先は雲祥寺うんしょうじであり、大林寺ではない。やまさきと大林寺の関わりは、ロシア兵の父と看護婦の母が知り合った場所ということだけだ。他には何のつながりもない。祖母が大林寺へ行く理由はないのだ。ましてや、今日は祝言の前日だ。祖母には用もない大林寺へ立ち寄る暇などない。
 それに弥七が知らせに来たのも釈然としない。祖母には新吉がついているから、祖母に何かがあったとしたら、走って来るのは弥七ではなく新吉のはずだ。そのことを千鶴はただそうと思ったが、弥七は千鶴たちをかしながら慌てたように表に飛び出した。
 以前、家に居座った三津子みつこを追い返すために、祖父が進之丞を使って、祖母が雲祥寺で母を呼んでいると、うその話を仕組んだことはある。
 千鶴は何となくその時の事を思い出したが、今は三津子はいないし、弥七が自分たちをだます理由もない。とはいっても、やはり妙である。
 けれども、いろいろ考えている暇はない。新吉が祖母から離れられないのだとすれば、祖母は重篤なのかもしれないのだ。そうであれば、確かに大事おおごとである。大林寺はすぐそこだから、取りえず行ってみるしかない。
 千鶴と花江は顔を見交わすと、黙ってうなずき合った。
 二人が弥七のあとを追って暖簾のれんをくぐると、帳場ちょうばには誰もいなかった。辰蔵は先に大林寺へ走ったのだと思った千鶴は、豊吉を呼んで店番を頼んだ。
 表に出ると弥七が前方で待っていた。だが、大林寺へ向かう道に辰蔵の姿はなかった。弥七が戻った時にすぐに飛び出したとしても、道のどこかに走る辰蔵を認めるはずだ。
 千鶴は違和感を覚えた。しかし弥七が再び走りだし、花江もそれに続いたので、とにかく大林寺へ向かうことにした。

 大林寺の山門さんもんをくぐると、その先に中門ちゅうもんがある。本堂ほんどうがあるのは中門の向こうだ。祖母はそこにいるのかと千鶴は思ったが、弥七は中門をくぐらず、中門から続くべい沿いに左へ走った。
 突き当たりは久松ひさまつ御廟所ごびょうしょだ。歴代城主の墓が並ぶ所である。一般の者が立ち入る所ではないし、山﨑家にも関係のない場所だ。そんな所に祖母がいるわけがない。だが、弥七は御廟所の入り口で千鶴たちを振り返ると、この中だと言って入って行った。
 普段であればここには番人がいて、関係者でない者を中へ入れないようにしている。ところが今日はその番人の姿がない。中で祖母が倒れたために、番人がそちらへ向かったのであれば、本当に祖母が危ないのかと千鶴はあせった。
 花江が心配そうにしながら先を急ぐと、千鶴も花江に続いた。
 御廟所の入り口を入ると、そこから西へ向かって広大なしょが広がる。ここには東にある城と向かい合って、手前に五つ、奥に四つの久松家城主の墓があり、それぞれの墓の上には立派な御廟ごびょうが建てられている。
 入り口正面の奥には、手前の五つの御廟のための拝殿はいでんがあり、右手にある四つの御廟には三つの拝殿がある。
 各御廟の前には数え切れないほどのいしどうろうが並び立ち、静寂ながら圧倒されるような荘厳な雰囲気が広がっている。部外者が気軽に立ち寄る所ではないことは、空気の違いですぐわかる。やはり、ここは祖母がいるには似つかわしくない場所だ。
 千鶴たちはトミの姿を探したが、入り口から見える所にはトミも新吉もいなかった。手前の拝殿には手を合わせる五人の男たちがいるが、五人ともこの墓所の雰囲気にはそぐわない粗野な風体ふうていをしている。男たちが久松家の関係者でないのは明らかだ。
 弥七は奥の墓所の入り口に立っており、早く来るようにと千鶴たちに手招きをしている。その表情は硬く、激しい手の動きも何だかぎこちない。
 花江はすぐに弥七の方へ行こうとしたが、千鶴は花江を引き留めた。
「花江さん、ちぃと待って。これ、何かおかしいぞな。おばあちゃんがこがぁなとこにおるわけないで」
「だって、やっさんが……」
 花江は少しも弥七を疑っていないが、千鶴は大きな胸騒ぎを感じていた。
 早くここから立ち去らねばと思った千鶴は、強引に花江の手を引いて御廟所を出ようとした。すると外から六、七名のごろつきのような男たちが、こちらへぞろぞろやって来る。
ねぇやんら、どこへ行くつもりぞな? ここは通れんけん、よ奥へ行っておくんなもし」
 男の一人がにやにやしながら言った。さすがに花江もこれはおかしいと思ったらしい。そこを通しておくれと気丈に言ったが、男たちは花江の言うことなど聞こうとしない。
「見てのとおり、こっちはいっぱいで通れんぞな。ほじゃけん、先にねぇやんらが奥へ行っておくんなもし」
 千鶴ちゃん――花江はこわった顔で千鶴を見た。
 千鶴が後ろを振り返ると、拝殿で手を合わせていた男たちも、こちらの方へ向かって来る。千鶴と花江はあとずさりをしながら、じりじりと奥の墓所へ追い詰められた。
 奥にある三つの拝殿にも複数の男たちがいた。一番手前の拝殿では男が一人手を合わせていて、そのかたわに弥七が立っていた。
 トミも新吉も姿は見えず、御廟所の番人らしき者もここにはいない。奥の二つの拝殿にいる男たちは、後ろから来る男たちと同じごろつきだ。
「弥七さん、おばあちゃんはどこにおるんね?」
 千鶴が強い口調で問いただして、弥七はおろおろしながら黙っている。すると、その横にいた男がくるりと振り返った。男は孝平だった。

      四

「二人とも、ようおいでたの。待ちよったぞな」
 孝平は勝ち誇ったように笑った。
 千鶴は孝平の隣にいる弥七をにらんだ。
「弥七さん、これは何の真似なん?」
 弥七は目を伏せて何も言わない。間違いない。弥七も孝平とぐるだ。
 花江は怒りを隠さず孝平たちをにらみつけた。
「あんたら、あたしたちをだましたんだね? ここであたしたちをどうしようってんだい!」
 後ろは男たちで完全にふさがれている。周囲はすべてべいで囲まれていて、逃げることはできないし、外からも中は見えない。
「さてと、どがいしようかの。そちらの返答次第で、どがぁするかはちごてこう」
 孝平はにやにやして言った。弥七は下を向いたままだ。
 周囲にいる男たちを見る花江の目は、恐怖におびえているようだ。しかし、孝平にしゃべるその口調は勝ち気そのものだ。
「こっちの返答次第? 何だい、それは。あたしたちにどうしろって言うのさ!」
「教えてほしいんなら言うちゃろわい。明日あひた祝言しゅうげんは取り止めて、わしと夫婦めおとになると誓え」
 孝平の言葉を聞いた弥七が、孝平に何か文句をつけた。孝平はうなずくと千鶴に言った。
「千鶴、おまいはこの弥七と夫婦めおとになるんぞ」
「何言うんね。弥七さん、あんた本気なん?」
 千鶴がただすと、弥七はうろたえながらも、孝平さんが言うたとおりやと言った。
 なしてといきどおる千鶴を制して、花江が孝平に話しかけた。
「答える前に聞かせておくれよ。祝言を取り止めないって言ったら、あたしたちをどうするつもりなんだい?」
「ほん時は、おまいらを力尽くでわしらのもんにするまでよ。そがぁなったら、もう祝言なんぞできんけんな」
「じゃあ、取り止めるって言ったら信じるのかい?」
「ほれは――」
 孝平は言葉に詰まって弥七を見た。うそをつかれた時のことなど考えていなかったのだろう。弥七も孝平に任せっきりにしていたのか、困惑顔で孝平を見返すばかりだ。
 そんな二人を眺めながら、花江はふっと笑った。
 何がおかしいと孝平はすごんだが、花江は平気な顔だ。
「あんたらしいなって思っただけさ。よく考えもしないで、こんな大それたことしちゃってさ。あたしよりずっと年上のくせに、ほんっとに馬鹿なんだから。あきれて物が言えないって、このことだよ」
「何やと?」
「さっきの質問に答えてあげる。祝言を取り止めるも何も、あたしは誰とも祝言なんか挙げないよ」
「何?」
「祝言を挙げるのは、あたしじゃなくて幸子さんさ。幸子さんが辰さんと夫婦になるんだよ」
「嘘こけ! おまいと辰蔵が祝言挙げるて、お前が自分で言うたんじゃろが!」
「それは、あんたがしつこく付きまとうからだろ? だいたいさ、あんた、やっさんから話を聞いてないのかい?」
 孝平はうろたえて弥七を見た。弥七も混乱した顔で孝平を見ている。
「孝平さん、知っとったんやないんですか?」
「いや、わしは花江と番頭ばんとうが一緒になるて聞いとったけん」
「ほんな……、ほれじゃったら――」
 弥七の言葉をさえぎって、花江は言った。
「あんたはいつだってそうなんだ。相手のことなんか、これっぽっちもわかろうとしないで、自分勝手に動くんだ。あたしが本当はどう思ってたかなんて、ちっともわかってないんだろ?」
「え? ほれはどがぁなことぞ?」
 当惑している孝平に花江は詰め寄った。気圧けおされた孝平は後ろへのけぞった。
「あんたは人を期待させるだけさせといて、ちっともがんばろうとしない」
「え? 期待?」
「店でも文句ばっかり垂れて、あたしをめにしようとするし」
「いや、ほれは――」
「家を追い出されたあとも、まともな仕事なんかしてなかったんだろ? そんなんで一緒になれるわけないじゃないか」
「一緒にて――」
「あんたが一人前になって戻って来るのを待ってたのに、こんなことしでかすなんて。あたしが今、どんだけ情けない気持ちでいるのか、あんたにはわからないだろうさ!」
 花江の勢いに孝平はかなり動揺したらしい。顔に迷いとあせりのいろが表れている。
「ちぃと待て。おまい、ひょっとしてわしのこと――」
「待ってたんだって言ってるだろ?」
「ほ、ほれじゃあ、わ、わしと一緒になってくれるつもりが――」
 花江はおお袈裟げさに首を振りながら言った。
「あぁ、嫌だ嫌だ。そんなことを女の口から言わせるつもりなのかい? だから、あんたって男はだめなんだよ」
「いや、ほんな……、ちぃと待ってくれ。これは誤解ぞな。わしかておまいにその気があるてわかっとったら、お前に襲いかかったり、こがぁなこともせんかったんぞ。元をいうたら、お前の――」
「あたしの何が悪いっていうのさ?」
 花江がじろりと孝平をにらんだ。
「あ、いや、別に何もわるないか……」
 孝平は小さくなった。勝負ありだ。今度は弥七の番である。

「弥七さん、なしてこがぁなことしたん? うちがくしを受け取らんかったけん、孝平叔父さんと一緒になって、うちを手籠めにしよ思たん?」
 千鶴に問い詰められると、うろたえた弥七は、ほやかてと蚊の鳴くような声で言った。
「ほやかて、何よ?」
「ほやかて千鶴さん、あいつと祝言挙げるて聞いたけん……」
「そがぁなこと誰から聞いたんね? 花江さんが言いんさったとおり、祝言挙げるんはうちのお母さんと辰蔵さんぞな。おじいちゃんがそがぁ言いんさったんを、弥七さんかて聞いたじゃろ?」
 弥七は黙って横目で孝平を見た。孝平は慌てて両手を振り、わしやないと言った。
「わしは花江から聞いたことを、こいつに教えたったぎりぞな。わしが言うたんやないけん」
「また、あたしのせいにするわけ?」
 花江ににらまれると、いや――と孝平は下を向いた。
「あしは千鶴さんを他の男に取られとないんよ」
 覚悟を決めたのか、弥七ははっきりした声で言った。
「あしはずっと前から千鶴さんをいとった。ほれやのに千鶴さんは、あとから入って来たあいつの方がええみたいなけん、あしは何とかあいつに負けまいとがんばりよったんよ。ほんでも、千鶴さんはあいつと一緒になるて聞いたけん、ほじゃけん……」
 弥七は下を向いて涙をこぼした。
「あしが千鶴さんと特別な関係になるいうたら、こがぁするしかなかったんよ。ほやないと、千鶴さんは明日あひたあいつのもんになってしまうけん、こがぁするしかなかったんよ……」
 すすり泣く弥七の横で孝平がまどっている。この騒ぎにどう始末をつけたらいいのかわからないのだろう。小さくため息をついた花江は困惑顔で言った。
「千鶴ちゃん、ごめんよ。あたしのせいで、とよちゃんの言ったとおりになっちまった」
 千鶴は黙って小さく首を振ると、弥七に言った。
「弥七さん、こがぁなことして、うちの気持ちが自分に向くて思たん? かえって嫌われるとは思わなんだん?」
 弥七はうなれたまま黙っている。
 この狂乱は孝平が主犯だ。弥七は孝平に従っているだけであり、孝平さえ手を引けば、すべて解決する。千鶴は孝平に声をかけた。
「孝平叔父さん、花江さんの誤解が解けたんなら、もうええでしょ? うちも花江さんも、このことは誰にも言わんけん」
「ほんまに言わんのか?」
 孝平は疑わしそうに眉根を寄せた。
「うちにしても花江さんにしても、余計なこと言うてごたごたするより、黙って何もなかったことにしよる方がええもん」
 なぁ、花江さん――と千鶴が花江に振ると、花江もうなずき、千鶴ちゃんの言うとおりだよと言った。
 穏やかな顔になった孝平が、ほれでええかと弥七に言った。弥七がうなずくと、千鶴と花江は笑顔を見交わした。
 ところが、黙って話を聞いていた男たちの一人が、ほうはいくまいと言った。それまでとは別の異様な雰囲気が広がり、他の男たちも薄ら笑いを浮かべている。
 声を出した男は、他の男たちより二回り体がでかい。どうやら男たちの頭目とうもくのようだ。その男が冷たい口調で孝平に言った。
「孝平、勝手な真似は許さんぞな」

      五

 驚く孝平と弥七に頭目の男は言った。
「おまいさんら、あしらの顔つやぃか?」
 孝平は顔をこわらせながら言い返した。
「ほ、ほやかて事情が変わったいうか、誤解が解けたんやし――」
「そげなこと、あしらには関係ない」
「何言うとるんぞ? おまいらはわしの手伝いしに集まったんじゃろが。そのわしがもうええて言うとるんじゃけん、ほれでよかろが」
 花江の手前、孝平は少し強気でしゃべったが、頭目の男にはまったく通用しなかった。
「おまいがあしらに銭をよこすんか? ほうやなかろ? あしらは銭もろていごきよるんぞ。一銭いっせんも出しとらんお前の言うことを、なしてあしらが聞かにゃならんのぞ?」
 孝平と男たちの関係を千鶴たちは知らない。しかし二人のやり取りからすれば、このことに絡む黒幕がいるようだ。
 どうやら孝平は自分が男たちに指図ができる立場だと思い込んでいたらしい。ところがそうではなかったと思い知らされ、怒りとおびえで顔を赤らめた。
「な、何やて? ほ、ほれじゃったら、おまいら、はなからわしの手伝いするぃなんぞ、な、な、なかった言うんか?」
「そがぁなこと、あしらはおまいに一言も言うとるまいが。あしらが手伝うて、お前が勝手に思いよったぎりよ」
「孝平さん、話が違うやないか!」
 弥七になじられ、孝平は頭目の男につかみかかった。ところが逆に殴り倒され、弥七も他の男に張り倒された。
 千鶴と花江は男たちに取り囲まれた。千鶴は以前にも料亭の前で男たちに囲まれたが、今いる男たちはあの時の倍以上いる。しかも、ここには進之丞がいない。ばんきゅうすだ。
「あんたら、やめないと大声を出すよ。ここの和尚さんたちに見つかったら、あんたらだってただじゃ済まないからね」
 花江は男たちを見まわしながら気丈に言った。けれど怯えは隠せない。体が小さく震えている。
 男たちの中には長脇差ながわきざしを持った者が二人いた。その男たちは長脇差のさやを捨てると、倒れている孝平と弥七の喉元に、その切っ先を当てた。その様子をちらりと見てから、頭目の男がおどしをかけた。
「そげなことをしたら、どがぁなるかは見てわかろ? おまいらは黙ってあしらの言うとおりにするしかないんぞ」
「あたしらをどうするつもりなんだい!」
 花江がみつくと、頭目の男は言った。
「さぁて、大阪おおさかにでも売り飛ばすかの。ほんでも騒がれても困るけんな。その前にあしらを存分に楽しませてもらおわい」
「こんな所であたしらをめにしようってのかい? このばち当たり!」
「あしらは生まれつきばち当たりぞな」
「この外道げどされ!」
 倒れたまま孝平が叫んだ。しかし長脇差で喉元を少し刺されると、声にならない悲鳴を上げた。隣では弥七が横目で千鶴たちを見ながら、ぶるぶる震えている。
「おまいらは己がれたおなが、あしらを楽しませるんをそこで眺めよれ」
 頭目の男がにやりとしながら孝平たちに言うと、通路をふさいでいた男が下卑げびた笑いを浮かべて言った。
「わし、いっぺんでええけん、このロシアのお姫さんを抱いてみたかったんぜ。もう考えるぎりであそこがおっ立つぞな」
 股間を両手で押さえる仕草をした男は、次の瞬間、ぐぇっと叫んで宙に高く浮いた。男は地面に落ちると、股間をさらに踏み潰されて悶絶もんぜつした。

 他の男たちが一斉いっせいに振り返った。そこにいたのは進之丞だった。男の股を踏み潰した進之丞の後ろには、数名の男たちが声も出さないまま倒れている。
しんさん! おいでてくれたんじゃね」
 千鶴が喜びの声を上げると、近くにいた男たちが進之丞に襲いかかった。
 進之丞は目にも留まらぬ速さで片っ端から男たちの腕をへし折り、あごあばらを打ち砕き、地面にたたきつけた。男たちへの遠慮はじんも見られず、千鶴は進之丞が男たちを殺すのではないかとはらはらした。
 孝平と弥七を押さえていた男たちが、長脇差で進之丞に斬りかかった。進之丞は紙一重でやいばをかいくぐって男の一人を捕まえると、長脇差を持った右腕を肘の所で無造作にへし折った。そこへもう一人が再び斬りかかると、進之丞はその男をたてにした。
 楯にされた男は肩から背中をざっくり斬られ、真っ赤な血が男の切り裂かれた着物を染めた。斬った方の男がろうばいすると、すかさず進之丞は楯にした男を捨てて、動揺する男の長脇差を持つ腕をつかんだ。男の腕は先の男と同じようにへし折られ、男は悲鳴を上げて長脇差を落とした。
 進之丞は叫ぶ男を軽々と抱え上げると、勢いよくべいに投げつけた。張りつくように土塀にぶつかった男は、崩れた土壁と一緒に地面に落ちて静かになった。
 初めは進之丞の登場に歓喜した花江も、あまりの凄惨せいさんさに言葉を失い、進之丞を見る目におびえのいろを浮かべていた。
 残った男たちがうろたえながら後ずさりをすると、頭目は男たちを怒鳴りつけて無理やり進之丞を襲わせた。だが、へっぴり腰になった男たちなど進之丞の敵ではない。全員があっという間に打ち伏せられ、地面にたたきつけられた。

いごくな!」
 頭目が叫んだ。みんなの目が進之丞に向いていた隙に、頭目は千鶴を捕まえていた。千鶴の喉元には小刀が当てられている。
「千鶴ちゃん!」
 花江が叫ぶと、進之丞は男をにらんだまま、逃げろと花江に叫んだ。男たちにふさがれていた通路には、もう誰もいない。
 進之丞からすさまじい殺気が発せられている。その殺気を恐れたのか、頭目は千鶴を人質にしながら、じりじりとしょの土塀へとあとずさりした。
 花江がもう一度千鶴を呼んだ。進之丞は頭目をにらみながら、後ろにいる花江に、逃げろと繰り返した。その命令口調の声はいつもの進之丞ではない、低くてすごのある声になっている。千鶴から見えるその顔は、今にも鬼にへんしそうだ。
「進さん、いけん。落ち着いて!」
 頭目に捕まりながら、千鶴は叫んだ。続けて花江に、お寺の人を呼んで来てと大声で頼んだ。
 頭目はあせっているらしく、余計なことを言うなと千鶴に怒鳴った。だが、千鶴の言葉で花江は走って逃げた。花江を追いかけるように孝平も逃げ出すと、弥七もそのあとへ続こうとした。
 途中、弥七は立ち止まって千鶴を振り返ったが、千鶴が警察を呼んでと叫ぶと、再び走りだした。くそっと声を出した頭目は、進之丞に顔を戻すと目を大きく見開いた。
 進之丞は頭から角が生え、口からは牙がのぞいている。目は鋭く頭目を見え、怒りと殺意に満ちたその顔はほとんど鬼だ。体も膨らみ始めて、今にも着物が破れそうだ。
「進さん、いけん! へんしたらいけん! 変化せいでも何とかできよう?」
 千鶴が必死に叫ぶと、進之丞は二、三度首を大きく横に振って気持ちを落ち着けようとした。だが、まだへんけない。
「な、何ぞ、おまいは? 化けもんか?」
 頭目が震える声で虚勢を張った。進之丞の姿に怯えたためか、小刀を持つ頭目の手が緩んでいる。
 頭目の言葉にかちんと来た千鶴は、頭目の手をつかんで小刀を喉元からはずすと、思い切りみついた。気持ちは自分もがんごめになったつもりだった。
 いてててと頭目がひるんで小刀を落とした隙に、千鶴は進之丞の所へ逃げた。
 千鶴が噛みついた頭目の腕から血がにじんでいる。千鶴はけがらわしさを吐き出すように、ぺっとつばを吐いてから頭目に言った。
「進さんは化けもんなんぞやない。人間ぞな!」
「人間やと? そ、そいつは人間やない!」
「人間やないんは、あんたの方じゃ! この人でなし!」
 頭目は逃げようとした。だが進之丞がすぐに捕まえ、首をつかんで引き倒した。
「このまま首を引きちぎってやろうか? それともはらわたを引きずり出してやろうか?」
 身震いをしてしまう進之丞の声に、頭目は怯えていた。進之丞の一方の手が頭目の腹をつかむと、頭目は必死にあらがおうとした。だが、その両腕はどちらもへし折られ、頭目は泣き叫んだ。しかし、再び進之丞に首をつかまれると声を出せなくなった。進之丞の指は頭目の首に食い込み、本当に首を引きちぎりそうだ。
「進さん、いかんてば! 早よ元に戻らんと、人が来るぞな!」
 千鶴がはあせりながら叫ぶと、進之丞は横目で千鶴を見て、頭目に牙をいた。それから目を閉じると、元の進之丞に戻った。
 進之丞が手を離すと、頭目は何度もせながら泣いた。しかし進之丞がひたいに指を当てると、頭目はほうけたようになった。
「これは誰の差し金ぞ?」
 進之丞に問われると、頭目はぼんやりしたまま、つや子――と言った。
「つや子?」
 進之丞は千鶴と顔を見交わした。また、つや子だ。
 頭目に顔を戻すと、進之丞は再びたずねた。
「なして、つや子がおまいらに千鶴らを襲わせたんぞ?」
「ほれは知らん……。あしらは銭さえもろたら……、何でもする」
「つや子は今はどこにおるんぞ?」
「わからん……」
「ほうか、わかった。ほれじゃあ、今ここで見たことはすべて忘れて、警察で己の罪を洗いざらい白状せぃ」
 頭目は目を閉じると意識を失った。

      六

 花江が寺の住職や小僧たちを連れて戻って来た。大切な御廟ごびょうしょでの惨状に、住職も小僧たちも言葉を失ったが、驚いたことに住職たちの後ろには三津子みつこがいた。
「あら? 千鶴ちゃんやないの。ほれにだいにいやんも。なして、あなたたちがこがぁなとこにおるん? いったい、ここで何があったんね?」
 驚いた様子の三津子は、倒れている男たちを踏みつけながら千鶴の所へ来た。
「なして、三津子さんがここにおいでるんぞな?」
 千鶴がき返すと、三津子はだいりんを見学に来たついでに、向こうで住職としゃべっていたと言った。
「ところで、この人ら何なん?」
 三津子は自分が踏みつけた男たちを振り返り、眉をひそめた。
 千鶴は答えるのを少し迷ったが、黙り続けるわけにもいかない。
「うちと花江さんをここへ連れ込んで、めにしようとしたんぞな」
「千鶴ちゃんと女中さんを手籠めに? ここで? うそじゃろ?」
 三津子は進之丞に、そうなのかとたずねた。
 進之丞はじっと三津子を見つめたままうなずいた。すると、んまぁ!――と三津子は驚きの声を上げた。
「ほれで、誰がこの人らをやっつけたん? ひょっとして、このにいやんが?」
 改めて倒れている男たちを見たあと、三津子は進之丞に顔を向けた。しかし、進之丞は黙ったまま答えなかった。代わりに花江が、そうだよと言った。
たださんがたった一人でやっつけたんだよ。かなり荒っぽかったけど、これぐらいしなかったら、逆にこっちがやられてたよ」
 花江は進之丞の戦いぶりに恐れをなした。だが少し冷静になった今は、進之丞の強さに敬意を払っていた。進之丞が来てくれていなかったらどうなっていたかと考えているのだろう。
「ちぃと待って。このにいやんがたった一人でやっつけたん? この人らを全部?」
 三津子はまん丸に見開いた目で進之丞を見たあと、倒れている男たちを見まわしながら、ひぃ、ふぅ、みぃと数えた。
「嘘じゃろ? 十五人もおるぞな。しかも、何? この人ら刃物持ってたん?」
 仲間に斬られて血まみれの男を見ても、三津子は平気な顔で喋り続けた。それを花江が指摘したら、元は看護婦じゃったけんねと三津子は楽しげに言った。
「こがぁな傷、しっかり押さえよったら大丈夫ぞな。ちぃとそこの小僧さんら。こっちへおいでてくんさらん?」
 住職と一緒に立ちすくんでいる小僧たちに手招きした三津子は、斬られた男の傷をふさぐよう、しっかり手で押さえなさいと言った。
 小僧たちは恐れをなしたが、言われたとおりにせよと住職に命じられると、二人の小僧が顔をそむけながら男の傷を押さえた。それでも傷が大き過ぎて押さえきれず、小僧たちの手は漏れ出た血で真っ赤に汚れた。男は虫の息だ。
 住職は千鶴たちの所へ来ると、何があったのかくわしい話を聞かせてほしいと言った。
 しかし、孝平や弥七のことを千鶴は喋りたくなかった。花江も同じ気持ちだろう。二人で黙っていると、代わりに三津子がぺらぺらと説明をした。
 話を聞いた住職は、どういう理由で千鶴たちが狙われたのかと訊ねた。三津子は答えられず、なしてなん?――と千鶴たちを振り返った。
「ほれは、うちらもわからん。けんど、この人らの後ろには黒幕がおるらしいぞな」
「黒幕? 誰やのん、ほれは?」
 三津子はけんしわを寄せた。
 千鶴はつや子の名は出さずに頭目の男を指差して、この人が金をもらったと言っていたとだけ話した。頭目がつや子の名を喋るはずがなく、つや子の名を出すのはまずいと判断してのことだ。
「ほんなこと言うたん、この男!」
 三津子は頭目をにらむと、このくずと言って頭を蹴飛ばした。看護婦だった面影は微塵も見られない。

 弥七が巡査じゅんさを二名連れて戻って来た。巡査たちは御廟所へ入るなり、うっとうめいて立ちすくんだ。それでもさすがは巡査で、すぐに我に返ると、一人が倒れている男たちの具合を確かめ始め、もう一人は真っぐ千鶴たちの所へ来た。
 その巡査がここで何があったのかと訊ねると、三津子がまた得意げに説明を始めた。ところが、三津子は住職と喋っていただけで事件とは関係がないとわかると、巡査は三津子に黙っているようにと強い口調で命じた。
 巡査は改めて千鶴と花江から、男たちが千鶴たちを手籠めにしようとしたという話を聞いた。また男たちの後ろに黒幕がいることや、進之丞が一人で男たちを倒して、千鶴たちを助けたことを確かめた。
 しばらくすると数名の巡査が応援に駆けつけ、やはり凄惨せいさんな現場に言葉を失った。だがすぐに先にいた巡査に協力して、の程度のひどい者たちを病院へ運ぶよう手配した。
 だが、どの男たちも意識がないか朦朧もうろうとしており、かろうじて意識があるものは苦しみもだえていた。それで結局は全員が病院へ運ばれることになった。
 これだけの男たちを病院へ運ぶのは大仕事だ。巡査たちは寺の雨戸を運搬用の戸板として利用させてもらい、集まった野次馬たちに協力を仰いで男たちを運び始めた。
 頭目は巡査たちが起こそうとしても目を覚まさなかった。それで頭目も板に載せられた。
 そのあと、御廟所の西南の隅を調べた巡査が、御廟の陰から猿ぐつわを噛まされて、縛り上げられた男を見つけた。
 住職は驚いて男に駆け寄ると、この御廟所の番人だと巡査に話した。
 猿ぐつわをはずされて縄をかれた番人は、いきなり現れた男たちに刃物を突きつけられて縛られたと言った。しかし、番人は男たちについては何も知らなかった。
 千鶴と花江は改めて話を聞きたいのでと、警察への同行を求められた。二人が了承すると、その巡査は進之丞に向き直って、あなたをけんの当事者として逮捕しますと言った。
 驚いた千鶴と花江は猛抗議したが、巡査は聞き入れてくれなかった。進之丞がおとなしく両手を後ろに回すと、巡査はその両手を縛ろうとした。
 千鶴と花江はなおも抗議したが、三津子も怒りをあらわにして巡査に食ってかかった。
 三津子は進之丞を縛ろうとしていた巡査を押し倒し、逮捕する相手が違うとわめいた。それで三津子までもが逮捕されそうになった。
 進之丞は三津子に頭を下げると、改めて巡査に両手を差し出し、捕まえるのは自分一人で十分だろうと言った。
 巡査は改めて進之丞を逮捕し、三津子については厳重注意で済ますことになった。
 三津子は目に涙を浮かべながら唇をわなわなと震わせて、後ろ手に縛られる進之丞をじっと見つめていた。千鶴と花江もどうすることもできず、進之丞の横で泣くばかりだ。
 行くぞと巡査が進之丞を連行しようとすると、弥七が前に立ちはだかった。弥七はこの事件を引き起こしたのは自分だと申し出て、自分も逮捕してほしいと巡査に訴えた。
 どういうことかと巡査が訊ねると、弥七は自分と孝平がこの男たちを使って、千鶴と花江を手に入れようとしたと白状した。
 巡査は改めて千鶴と花江に、そうなのかと確かめた。泣く二人は喋ることができないまま、黙ってうなずいた。
 その巡査は別の巡査を呼ぶと、弥七を逮捕させた。そして、逃げた孝平を捕まえるよう他の巡査に指示を出した。

 大林寺を出ると、そこに多くの人だかりができていた。その中を後ろ手に縛られた進之丞と弥七が連行されて行く。その後ろを千鶴と花江は泣きながらついて行った。
 集まった者たちの中には、当然千鶴たちが知る者もいた。何があったのかと声をかけられたが、説明などできなかった。
 警察へ向かうのに、千鶴たちは紙屋町かみやちょうを通り抜けなければならなかった。
 両脇の店々からは、馴染なじみの顔がいくつものぞいている。何人かが千鶴たちに声をかけて近づこうとしたが、すぐに巡査たちに遠ざけられた。
 山﨑機織やまさききしょくの前を通る時、店に戻っていた甚右衛門とトミ、辰蔵とでったちが、巡査につかみかからんばかりに飛び出して来て、千鶴たちを取り戻そうとした。けれど結局はみんな引き離されて、トミはその場に泣き崩れた。
 甚右衛門は辰蔵に店を任せると、千鶴たちについて来た。しかし、警察に着くまで千鶴たちと喋ることはかなわず、甚右衛門もまた連行される一人のように見えた。
 千鶴の隣では、花江が死にそうな顔で打ちしおれている。自分のついた嘘でこんなことになったと、責任を感じているのだろう。
 弥七はうなれたまま泣いている。だが進之丞は顔を真っぐ上げて前を向いていた。考えているのは、つや子のことに違いない。
 進之丞が逮捕されたのはまったくの理不尽であり、千鶴の胸は怒りと悲しみでいっぱいだった。一方で、千鶴はつや子のことが頭から離れず、今後のつや子の動きが気になっていた。
 どうしてつや子はここまでのことをするのか。そこまで自分たちに恨みがあるというのか。だとすれば、これで終わりではなく、今後もつや子のたくらみは続くはずだ。
 千鶴は不安と恐怖に襲われた。それはつや子を捕まえない限り終わらない。
 歩いている間、道の脇に家や店を持つ者たちは心配そうに見ていたが、道行く者たちは好奇とべつの目を向けている。その中には二百にひゃくさんこうまげった女もたくさんいた。
 客馬車で一緒になったつや子の顔を、千鶴ははっきりとは覚えていない。自分たちを眺める二百三高地の女を認めるたびに、もしやこの女がつや子ではなかろうかと、疑心暗鬼の気持ちにさせられる。
 でも堂々としている進之丞を見ると、自分はその女房らしくいようと思った。見るなら見ろである。
 千鶴は涙を拭くと、進之丞の隣に身を寄せた。進之丞を後ろから連行する巡査が、千鶴に離れるように命じたが、自分はこの人の女房だと千鶴は強く言い返した。そして進之丞と同じように顔を上げ、胸を張って歩いた。
 自分たちは何も悪いことをしていないのだから、胸を張るのは当然だ。どこかで見ているつや子に、少しもこたえていないところを見せてやるのだ。
 そんな千鶴を横目で見て、進之丞はかすかに笑った。その笑みが千鶴にとっては何よりの励みであり誇りだ。
 何があろうとも二人が離れることはない。どんな困難も二人で乗り切ってみせる。そんな想いを強く胸に抱き、千鶴は進之丞とともに長い道のりを歩き続けた。