> 野菊のかんざし > 仕掛けられた罠

仕掛けられた罠

      一

 毎日が同じように過ぎて行く。進之丞が鬼であろうがなかろうが関係なく、みんな日々の仕事に追われて暮らしている。
 それは山﨑機織だけのことではなく、世の中の人々みんなが、そうなのである。
 千鶴が萬翠荘へ招かれたことも、城山で四人の男が瀕死で見つかり、その後全員が死んだことも、特高警察に狙われたことも、そして、鬼除けの祠が不審火で燃えてしまったことも、全部忘れられたかのようだ。
 もう進之丞を人間に戻す努力などしなくても、何も問題ないのではと思えるほど、世の中は機械のごとく動いている。
 それでも千鶴の心のどこかで、このままではいけないと何かが叫び続けているようでもあった。
 井上教諭に二度目の催眠術をかけてもらって以来、千鶴の中にはあきらめのような無力感があった。
 どうしたって進之丞を人間に戻すことはできないのだ、という事実を突きつけられたようで、今では神仏にすがるような気持ちさえも起こらない。
 べっ甲の櫛を千鶴から返されてからというもの、弥七も仕事への気力が失われたようだった。注文の品を間違えたり、辰蔵から注意をされても、何だか投げやりな態度を見せたりで、甚右衛門もいらだつことが多い。
 だが、そんなことに対しても千鶴は何とも思わなかった。以前であれば自分のせいだと悩んだり、何とかならないかと考えただろうが、今は少しもそんな気持ちにならない。はっきり言って、どうでもいいのだ。
 スタニスラフからも相変わらず手紙が届いていたが、封を切るのもわずらわしくて、そのまま読まずに置いてある。
 それでも、あることには千鶴は腹立ちを覚えていた。それは鬼である。
 鬼と言っても、進之丞のことではない。前世で自分たちを苦しめた、あの鬼である。
 進之丞の話を聞いただけの時とは違って、今の千鶴は直接の記憶を取り戻している。鬼がどれほどひどいことをしたのか、肌身で知っているのだ。
 その記憶は前世のものとは言え、現世の記憶と変わらない。千鶴にとっては、つい数日前のことのように思えるのである。
 鬼だって好きこのんで鬼になったわけではない。それは理解している。鬼が心から反省しているという進之丞の言葉も信じよう。
 しかし、だからと言って、鬼がやった悪事を全て許せるのかと言うと、それは話が違うと今の千鶴は思っている。
 苦しみの記憶を忘れているならともかく、苦しみが続いている状態では、とても鬼を許す気にはなれない。
 現世で鬼が千鶴を助けてくれたのであれば、鬼に対して恩義を感じられる。
 実際、千鶴は心を入れ替えた鬼が、自分を助けてくれていたと信じていたからこそ、鬼のことをがんごさんと呼んで受け入れて来た。
 しかし、進之丞が鬼であることがわかり、自分を助けてくれていたのは、前世の鬼ではなく進之丞だったということが判明した。
 前世の鬼はただ見守っているだけで、何もしてくれていなかったのだ。
 それだけでも拍子抜けなところに、今回の恐ろしい記憶で鬼の悪行を直接知ったわけで、千鶴の鬼に対する印象はかなり悪くなっていた。
 鬼がずっとそばにいることを願っていたことが、馬鹿馬鹿しいことのように思えてしまい、もうあんな願いは二度としないと、千鶴は考えていた。
 だが、進之丞の前でそんなことは言えない。鬼を悪く思っていると知られたら、進之丞が傷つくのは間違いない。悪事を働いたことで鬼を責めれば、進之丞もまた責められているように思うはずだ。
 だから進之丞の前で、今の本当の気持ちを喋ることはできない。進之丞と喋る時には、鬼につながる話題は避けていた。
 そのことに進之丞が気づいているのかどうかはわからない。それでも、とにかく進之丞の前では明るく振る舞うようにと、千鶴は心掛けていた。

      二
         
 甚右衛門は辰蔵と幸子の祝言を挙げることに決めた。いつまでもずるずる先延ばしにすることはよくないと判断したようだ。
 式の日取りは七月十五日になった。この日は大安で鬱陶うっとうしい梅雨も明けているものと思われた。
 日取りを告げられた辰蔵と幸子は二人とも、わかりましたと答えるだけで少しも喜ぶ様子はなかった。
 二人が夫婦になることを初めて知った亀吉たちは驚き興奮したが、弥七は何だかあおざめた様子だった。
 花江は平気な顔をしていたが、話を聞かされたあとかわやへ行き、そこで泣いていたことを千鶴は知っている。
 そのことを進之丞に伝えたが、進之丞も気の毒そうにうなずくばかりだった。
 婚礼の仲人は同業組合の組合長夫妻にお願いすることになった。それで組合長夫妻が訪れたり、甚右衛門やトミが組合長の家を訪ねたりと、頻繁に互いを行き来することが続いた。
 辰蔵と幸子の婚礼衣装の準備もあり、すでに二人が夫婦になったような雰囲気が店の中に広がった。

 いよいよ明日が式となる日、うまい具合に梅雨は明けて夏空が広がっていた。
 式の前日ではあったが、幸子は病院の仕事に行った。式の日取りが決まったのが、あまりにも急なことだったので、病院としても代わりの看護婦を見つけるのは困難だった。
 それで幸子は辰蔵と結婚をしたあとも、その翌日から八月一杯は勤めを続けるということになっていた。
 また山﨑機織の仕事も通常どおり行われ、辰蔵や進之丞たちは普段と同じように仕事に追われていた。
 千鶴と花江は普段の仕事に加えて、明日の式の食事の準備もあって、目が回るほどの忙しさだった。それで午後になると亀吉たちの手が空くので、家の仕事を手伝ってもらおうと千鶴は考えていた。
 一方、昼飯のあと、甚右衛門は組合長の家へ最後の打ち合わせに行き、トミは雲祥寺へ行って、正清の墓に幸子の結婚を報告しに行くことになっていた。
 二人は出かける時に、それぞれが亀吉と新吉を連れて行った。そのため千鶴たちが頼れるのは豊吉一人だけとなった。それでも豊吉は一生懸命に働いてくれた。
 仕事が一段落したところで、花江はお茶にしようと言った。
 みんな出かけていて、家の中にいるのは千鶴と花江と豊吉の三人だけだ。帳場も辰蔵一人である。
 千鶴がお茶を用意すると、花江は戸棚からお茶菓子を出した。自分だけがお菓子を食べられると豊吉は大喜びだ。
 千鶴は辰蔵のお茶も用意したが、花江に声をかけると、花江が辰蔵のお茶とお菓子を帳場へ持って行った。
 二人がどんな想いで顔を合わせるのだろうと、千鶴が心配していると、花江はすぐに戻って来て、それじゃあ一休みしようかね――と言った。恐らく辰蔵とは何も喋らず、祝福の気持ちだけを伝えたのだろう。千鶴は切ない気持ちで花江を迎えた。
 板の間で三人でお茶を飲み、お菓子を食べながら他愛ないお喋りを始めると、三人の中で豊吉が一番よく喋った。頭がよいため理屈っぽいと亀吉に言われた豊吉だが、この日のお喋りは子供っぽいものばかりだった。
 花江は本当は泣きたいだろうに、豊吉の話を聞いて笑う姿が、千鶴にはいじらしく見えた。
 そろそろ仕事を始めようかと花江が言うと、その前に厠へ行くと言って、豊吉は奥庭へ走って行った。その様子を見て笑っていた花江は、実はさ――と千鶴に向き直って言った。
「今月初めのお休みの日さ。ちょうど晴れてたから、道後にお風呂に入りに行ったんだ。そしたらね、またあいつに会っちまったんだよ」
 あいつと言うのは孝平のことだ。また、お休みの日というのは、千鶴が井上教諭を訪ねた日の二日前のことである。
 前に孝平を見てからしばらくの間は、花江は一人で外へ出ないようにしていた。しかし、その後は孝平は現れなかったので、近頃は一人で出かけるようになっていた。それなのに、今度は道後で孝平に会ってしまったと言うのだ。
 千鶴が不安な顔をすると、大丈夫だってと花江は笑った。
「前に見た時は、あたしもすぐに逃げ帰ったからさ。何も喋ることもなかったんだけど、今度はあたしを呼び止めて、話があるって言うんだよ。だからあたしも逃げないで、何の話かっていたんだ」
「孝平叔父は何て言うたん?」
「それがさ、周りに何人も他の人がいたんだよ。そんな所でさ、人目もはばからずにね、もう伊予絣はだめだから、松山を出て一緒に暮らそうって言うんだよ。何もできない自分がだめなくせにさ、偉そうなことを言うから、あたし、言ってやったんだ」
「何を言うたん?」
「お生憎あいにく様、あたしはもうすぐ辰さんと祝言を挙げるんだよ――て言ったのさ」
 驚く千鶴に花江は口を尖らせて、言うだけだからいいじゃないかと言った。
「ほんとはさ、あたし、辰さんと一緒になりたかったんだよ。東京で暮らしてた時から、辰さんに惚れてたんだ。だから辰さんが松山に戻った時には、ひどく落ち込んだよ。でも、あたしには親が決めた許嫁もいたからね。どっちみち無理な話だったんだけどさ」
 花江はその頃を思い出すような顔を見せた。それは楽しそうでもあり、悲しそうでもあった。
「それで、いよいよ祝言って時にね、あの大地震が起きたんだよ。あたしは家もお店も家族も、何もかも失ってさ。許嫁の方も大変な状態で、とてもあたしの面倒を見ることなんてできなかったんだ。簡単に言えばさ、あたしは見捨てられたんだよ」
 瓦礫がれきだらけの場所に、行く当ても頼る者もいないで、一人たたずむ花江の姿が目に浮かび、千鶴は思わず涙ぐんだ。
 独りぼっちの花江は、もう死ぬしかないと思っていたと言う。
「その時さ、辰さんが現れたのは」
 花江はぱっと明るい顔になって言った。
「地獄に仏ってこのことだって思ったよ。まさか辰さんが来てくれるなんて、これぽっちも思ってなかったからね」
「ほれは嬉しかったじゃろね」
 千鶴の言葉にうなずくと、花江は嬉しそうに話を続けた。
「あの時、辰さんはあたしに言ってくれたんだよ。他の所より一番にあたしの所へ来たんだって。しかも、自分と一緒に松山へ行こうって言ってくれたんだ」
 過去の話ではあるが、聞いていて千鶴も嬉しくなった。しかし、そのあとどうなるかがわかっているだけに切なくもあった。
「そんなこと、旦那さんに黙ってできないって言ったらさ、自分が旦那さんにお願いするからって。どうしてそこまでしてくれるのかって訊いたらね、あたしをお嫁にしたかったって言ってくれたんだよ。あたし、嬉しくて嬉しくて、悲しかったことも全部忘れてさ。本当にこのまま天に昇っちゃうんじゃないかって思ったんだ」
 だけどさ――と花江は寂しげに言った。
「あいつに辰さんと一緒になるんだって言ったあとに、旦那さんが辰さんと幸子さんを夫婦にするって言うなんてさ。わかってたことだけど、何だかばちが当たったみたいだよ」
「ほやかて花江さん、何もわるないよ」
「ありがとう。明日が祝言だって言うのに、ごめんよ、こんな話して」
 千鶴が黙ったまま首を振ると、花江は悲しげに微笑んだ。
 そこへ豊吉が戻って来た。
「あぁ、すっきりした」
「長かったね。ちゃんと手は洗ったのかい?」
 花江に言われると、豊吉は両手を広げて見せて、洗ったもーんと言った。
 花江は笑いながら、それじゃあまた始めようかと言うと、千鶴と一緒にお茶飲みの後片づけをして立ち上がった。
 先に土間へ下りた花江は千鶴を振り返り、悪戯っぽく笑みを浮かべて言った。
「実はさ、そん時にもう一つ嘘をついたんだ」
「もう一つ?」
「知りたいかい?」
 千鶴がうなずくと、花江は言った。
「千鶴ちゃんの式も一緒に挙げるんだって言ったんだよ」
「え? うち?」
「そうだよ。あいつさ、最初の話でも目ぇまん丸くしちゃってさ。情けない顔してたんだけど、千鶴ちゃんのこと話したら、何で自分ばっかり取り残されるのかって思ったんだろうねぇ。口元をわなわな震わせてさ。走っていなくなっちまったよ」
 ぽかんと話を聞いていた豊吉が、何の話かと言った。
「何でもないよ。大人の話さ」
 花江がさらりと答えて台所へ行くと、豊吉は千鶴に同じことをたずねた。千鶴は豊吉を無視できず、花江をかばいながら説明した。
「悪い男を追い払うために、ほんまと違うことを言うたぎりぞな」
「嘘言うたん?」
「そうさ。嘘も方便って言うだろ?」
 花江が面倒臭そうに言った。
「ほやけど、嘘はいけんぞな。あとで、身から出たさびになるかもしれんけん」
 花江は感心したように豊吉を見た。
「豊ちゃん、本当に言葉を知ってるんだね。すごいじゃないか」
 豊吉は照れながら、嘘はいけないと繰り返した。
「わかったよ。もう嘘はつかないから。だけどさ、身から出た錆よりさ、あたしは、嘘から出たまことの方がいいな」
「ほうじゃね。うちもそがぁ思うぞな」
 本当にそうであれば、どれだけ嬉しいことだろうと千鶴も思ったが、豊吉はそれでも嘘はいけないと繰り返した。

      三

「大変ぞな。おかみさんが倒れんさった! 千鶴さんも花江さんもすぐ来てつかぁさい!」
 外回りに出ていたはずの弥七が、飛び込んで来た。
「おばあちゃんが倒れたて、どこで倒れたん?」
 驚いて千鶴が訊ねると、大林寺で倒れたと弥七は口早に言った。しかし、祖母が大林寺にいる理由が千鶴にはわからなかった。
 トミが出かけた先は雲祥寺であり、大林寺ではない。山﨑家と大林寺の関わりは、父イワノフと母幸子が知り合った場所だということだけだ。他には何のつながりもない。だから、トミが大林寺へ行く理由はないのである。ましてや、今日は祝言の前日だ。
 それに弥七が知らせに来たのも妙に思えた。
 トミには新吉がついている。トミに何かがあったとしたら、走って来るのは弥七ではなく新吉のはずだ。
 そのことを千鶴はただそうと思ったが、弥七は千鶴たちをかしながら、慌てたように表に飛び出した。
 千鶴たちにいろいろ考えている暇はなかった。
 新吉がトミから離れられないのだとすれば、トミは重篤状態だと考えられる。大林寺はすぐそこだから、取りえず行ってみるしかない。
 千鶴と花江は顔を見交わすと、黙ってうなずき合った。
 二人は弥七のあとを追ったが、帳場にいるはずの辰蔵の姿がない。先に大林寺へ走ったのかと思った千鶴は、豊吉を呼んで店番を頼んだ。
 表に出ると、弥七が前方で待っていた。しかし辰蔵はいない。やはり先に大林寺へ行ったのかと思ったが、大林寺へ向かう道に辰蔵の姿はない。弥七が店に戻った時に、辰蔵がすぐに出たとしても、道のどこかに走る辰蔵の姿があるはずだ。
 千鶴は違和感を覚えた。だが弥七が再び走り出し、花江もそれに続いたので、とにかく大林寺へ向かうことにした。

 大林寺の山門を潜ると、その先には中門ちゅうもんがある。中門の向こうには本堂がある。祖母はそこにいるのかと千鶴は思ったが、弥七はその中門を潜らず、中門から続く土塀沿いに左へ走った。
 突き当たりは久松家の御廟所ごびょうしょだ。一般の者が立ち入る所ではないし、山﨑家にも関係のない場所だ。そんな所にトミがいるはずがない。だが、弥七は御廟所の入り口で千鶴たちを振り返ると、この中だと言って入って行った。
 普段であればここには番人がいて、関係者でない者を中へ入れないようにしている。ところが今日はその番人の姿がない。
 この中でトミが倒れたために、そちらにいるのかもしれない。そう考えると、本当に祖母が危ないのかと思って千鶴は焦った。
 花江が心配そうにしながら先を急ぐと、千鶴も花江に続いた。
 御廟所の入り口を入ると、そこから西へ向かって広大な墓所が広がる。ここには東にある城と向かい合うように、手前に五つ、奥に四つの久松家城主の墓があり、それぞれの墓の上には立派な御廟が建てられている。
 入り口正面の奥には、手前の五つの御廟のための拝殿があり、右手にある四つの御廟には三つの拝殿がある。
 それぞれの御廟の前には、数え切れないほどの石灯籠が並び、静寂ながら圧倒される荘厳そうごんな雰囲気が広がっている。関係のない者が気軽に立ち寄る所ではないことは、空気の違いですぐわかる。やはり、ここはトミがいるには似つかわしくない場所だ。
 そのトミの姿を千鶴たちは探したが、入り口から見える所にはトミも新吉もいなかった。
 いるのは手前の拝殿で手を合わせる五人の男たちだが、この男たちの粗野な風体ふうていも、この墓所の雰囲気には似合わない。男たちが久松家の関係者ではないことは明らかだ。
 弥七は奥の墓所の入り口に立っており、早く来るようにと千鶴たちに手招きをしている。しかしその表情は硬く、激しい手の動きも何だか焦っているように見える。
 花江はすぐに弥七の方へ行こうとしたが、千鶴は花江を引き留めた。
「花江さん、ちぃと待って。これ、何かおかしいぞな。おばあちゃんがこがぁなとこにおるわけないで」
「だって、弥さんが……」
 花江は少しも弥七を疑っていないようだ。しかし、千鶴は大きな胸騒ぎを感じていた。
 早くここから立ち去らねばならないと思った千鶴は、強引に花江の手を引いて御廟所を出ようとした。すると、外から数名のごろつきのような男たちが、こちらへ来るのが見えた。
ねぇやんら、どこへ行くつもりぞな? ここは通れんけん、早よ奥へ行っておくんなもし」
 男の一人がにやにやしながら言った。さすがに花江もこれはおかしいと思ったらしい。そこを通しておくれと気丈に言ったが、男たちは花江の言うことなど聞こうとしない。
「見てのとおり、こっちは一杯で通れんぞな。ほじゃけん、先に姉やんらが奥へ行っておくんなもし」
 千鶴ちゃん――花江は強張った顔で千鶴を見た。
 千鶴が後ろを振り返ると、拝殿で手を合わせていた男たちも、こちらの方へ向かって来る。千鶴と花江は後ずさりをするように、じりじりと奥の墓所へ追い詰められた。
 奥にある三つの拝殿にも複数の男たちがいた。その一番手前の拝殿で男が一人手を合わせていて、そのかたわらに弥七が立っていた。
 トミも新吉も姿は見えず、御廟所の番人らしき者もここにはいない。奥の二つの拝殿にいる男たちは、後ろから来る男たちと同じごろつきである。
「弥七さん、おばあちゃんはどこにおるんね?」
 千鶴が強い口調で問い質しても、弥七はうろたえた様子で黙っている。すると、その横にいた男がくるりと振り返った。男は孝平だった。

      四

「二人とも、ようおいでたの。待ちよったぞな」
 孝平は勝ち誇ったように言った。
 千鶴は孝平の隣にいる弥七をにらんだ。
「弥七さん、これは何の真似まねなん?」
 弥七は目を伏せて何も言わない。間違いなく弥七も孝平とぐるである。
 花江は怒りを隠さず孝平たちに言った。
「あんたら、あたしたちをだましたんだね? ここであたしたちをどうしようって言うんだい!」
 後ろは男たちで完全にふさがれている。周囲は全て土塀で囲まれていて、逃げることはできないし、外からも中は見えない。
「さて、どうしようかの。そちらの返答次第で、どがぁするかはちごう」
 孝平はにやにやして言った。弥七は下を向いたままだ。
 周囲にいる男たちを見る花江の目は、恐怖におびえているようだ。しかし、孝平に喋るその口調は勝ち気そのものだった。
「こっちの返答次第? 何だい、それは。あたしたちにどうしろって言うのさ!」
「明日の結婚式を取り止めろ。ほれで、わしと夫婦になると言え」
 孝平の言葉を聞いた弥七が、孝平に何か文句を言った。孝平はうなずくと、千鶴は弥七と一緒になれと付け加えた。
 驚いた千鶴は、どういうつもりかと弥七を質した。弥七はうろたえた様子で、孝平さんが言うたとおりや――とだけ言った。
「弥七さん、本気でそがぁなこと――」
 憤る千鶴を制して、花江が孝平に話しかけた。
「答える前に聞かせておくれよ。明日の式を取り止めないって言ったら、あたしたちをどうするつもりなんだい?」
「ほん時は、お前らを力尽くでわしらのもんにするまでよ。そがぁなったら、もう明日の式なんぞできんけんな」
 ふーんと言いながら、花江は孝平を楽しげに見つめた。
 戸惑った孝平は、何がおかしいと花江にすごんだ。だが、花江は平気な顔で言った。
「今のがあんたの本心なんだね? 全くあんたって人は、あたしよりずっと年上のくせに、ほんっとに馬鹿なんだね。呆れて物が言えないって、このことだよ」
「何やと?」
「じゃあ、教えてあげる。明日式を挙げるのはね、あたしじゃないよ。辰さんと幸子さんさ」
「嘘こけ! お前と辰蔵が結婚すると、お前が自分で言うたんじゃろが!」
 弥七が驚いたように孝平を見て何かを言おうとした。しかし、孝平は興奮するし花江も負けていない。とても弥七が口を挟む隙はなかった。
「それは、あんたがしつこく付きまとうからだろ? 店でも文句ばっかり垂れて、一っつもがんばろうとしないし、あたしを手籠めにしようとして家を追い出されたあとも、まともな仕事なんかしてなかったみたいだし。そんなんで一緒になれるわけないじゃないか。そんなこともわからないで、すぐにあきらめてしまうなんて、あたしがどんだけ情けなかったか、あんたにはわからないだろうさ!」
 花江の勢いに孝平は動揺したらしい。その顔に迷いのいろが表れている。
「え? ちぃと待て。お前、何を言うとるんぞな?」
「だから、あんたがちゃんと働いてくれるのを、待ってたんだって言ってるだろ?」
「え? ほれじゃあ、ひょっとして、わしと一緒になってくれるつもりがあったんか?」
 花江は首を振りながら言った。
「あぁ、嫌だ嫌だ。そんなことを女の口から言わせるつもりなのかい? だから、あんたって男はだめなんだよ」
 うろたえた孝平は花江の方に近づいて来た。
「いや、ほんな……、ちぃと待ってくれ。これは誤解ぞな。わしかてお前にその気があるてわかっとったら、お前に襲いかかったり、こがぁなこともせんかったんぞ。元を言うたら、お前の――」
「あたしの何が悪いって言うのさ?」
 花江がじろりと孝平をにらんだ。
「あ、いや、別に何もわるないか……」
 孝平が小さくなると、今度は千鶴が弥七に言った。
「弥七さん、なしてこがぁなことしたん? うちがくしを受け取らんかったけん、孝平叔父さんと一緒になって、うちを手籠めにしよ思たん?」
 弥七はうろたえながら、ほやかて――と蚊の鳴くような声で言った。
「ほやかて、何よ?」
「ほやかて千鶴さん、明日あいつと結婚するて聞いたけん……」
「そがぁなこと誰から聞いたんね? 花江さんが言うたように、明日式を挙げるんは、うちのお母さんと辰蔵さんぞな。おじいちゃんがそがぁ言いんさったんを、弥七さんかて聞いたじゃろ?」
 弥七は黙って横目で孝平を見た。孝平は慌てて両手を振り、わしやないと言った。
「わしは花江から聞いたことを、こいつに教えたったぎりぞな。わしが言うたわけやないけん」
「また、あたしのせいにするわけ?」
 花江ににらまれると、いや――と孝平は下を向いた。
「あしは千鶴さんを他の男に取られとないんよ」
 弥七は覚悟を決めたように、はっきりした声で言った。
「あしは千鶴さんを好いとった。ほれやのに千鶴さんは、あとから入って来たあいつの方がええみたいなけん、あしは何とかあいつに負けまいとがんばりよったんよ。ほんでも、千鶴さんは明日あいつと一緒になるて聞いたけん、ほじゃけん……」
 弥七は下を向いて涙をこぼした。
「千鶴ちゃん、ごめんよ。あたしのせいで、豊ちゃんの言ったとおりになっちまった」
 花江は千鶴に困惑した顔で言った。千鶴は黙って小さく首を振ると、弥七に言った。
「弥七さん、こがぁなことして、うちの気持ちが自分に向くて思たん? かえって嫌われるとは思わなんだん?」
 弥七は項垂うなだれたまま黙っている。
 今回のことは孝平が主犯に違いない。弥七は孝平に従っているだけであり、孝平さえ手を引けば、弥七も手を引くはずだ。そう考えた千鶴は孝平に声をかけた。
「孝平叔父さん、花江さんのこと誤解が解けたんなら、もうええでしょ? うちも花江さんもこのことは誰にも言わんけん」
「ほんまに言わんのか?」
 孝平が疑わしそうに言った。
「うちにしても花江さんにしても、余計なこと言うてごたごたするより、黙って何もなかったことにしよる方がええもん」
 なぁ、花江さん――と千鶴が花江に振ると、花江もうなずき、千鶴ちゃんの言うとおりだよと言った。
 穏やかな顔になった孝平が、それでいいかと弥七に言った。弥七がうなずくと、千鶴と花江は笑顔を見交わした。
 ところが、黙って話を聞いていた男たちの一人が、ほうは行くまいと言った。
 それまでとは別の異様な雰囲気が広がり、他の男たちも薄ら笑いを浮かべている。
 声を出した男は、他の男たちより一回り体がでかい。どうやら男たちの頭目とうもくのようだ。その男が冷たい口調で孝平に言った。
「孝平、勝手な真似は許さんぞな」

      五

 驚く孝平と弥七に頭目の男は言った。
「お前さんら、あしらの顔つやす気ぃか?」
 孝平は顔を強張らせながら言い返した。
「ほ、ほやかて事情が変わった言うか、誤解が解けたんやし――」
「そげなこと、あしらには関係ない」
「何言うとるんぞ? お前らはわしの手伝いする言うて集まったんじゃろが。そのわしがもうええて言うとるんじゃけん、ほれでよかろが」
 花江の手前だからか、孝平は少し強気で喋ったが、男には全く通用しなかった。
「お前があしらに銭を寄越すんか? 違うじゃろ? あしらは銭もろていごきよるんぞ。一銭も出しとらんお前の言うことを、なしてあしらが聞く必要があるんぞな?」
 孝平と男たちの関係を千鶴たちは知らない。それでも二人のやり取りからすると、このことに絡む黒幕がいるようだ。
 どうやら自分が男たちに指図ができる立場だと、孝平は思い込んでいたらしい。だが、そうではなかったと思い知らされた今、孝平の声は怒りとおびえで震えていた。
「何やて? ほれじゃったら、お前ら最初からわしの手伝いする気ぃはなかった言うことか?」
「そがぁなこと、あしらはお前に一言も言うとらんじゃろが。あしらが手伝うて、お前が勝手に思いよったぎりぞな」
「孝平さん、話が違うやないか!」
 弥七になじられ、孝平は頭目の男につかみかかった。ところが、逆に男に殴り倒され、弥七も他の男に張り倒された。
 千鶴と花江は男たちに取り囲まれた。千鶴は以前に料亭の前で男たちに囲まれたが、今いる男たちはあの時の倍以上いる。しかも、ここには進之丞がいない。万事休すである。
「あんたら、やめないと大声を出すよ。ここの和尚さんたちに見つかったら、あんたらだってただじゃ済まないからね」
 男たちの中には、長脇差を持った者がいた。その男たちは長脇差しの鞘を捨てると、倒れている孝平と弥七の喉元に、その切っ先を当てた。その様子をちらりと見てから、頭目の男が脅すように言った。
「そげなことをしたら、どがぁなるかは見てわかろ? お前らは黙ってあしらの言うとおりにするしかないんぞ」
「あたしらをどうするつもりなんだい!」
 花江が噛みつくと、頭目の男は言った。
「さぁて、大阪にでも売り飛ばすかの。ほんでも、騒がれても困るけんな。その前に、ここであしらを十分楽しませてもらおわい」
「こんな所であたしらを手籠めにしようってのかい? このばち当たり!」
「あしらは生まれつきばち当たりぞな」
「この卑怯者!」
 倒れたまま孝平が叫んだ。しかし、長脇差の刃先を喉元に少し刺されると、声にならない悲鳴を上げた。隣では弥七が横目で千鶴たちを見ながら、ぶるぶる震えている。
「お前らは己が惚れた女子おなごが、あしらに手籠めにされるんを見て楽しんだらええ」
 頭目の男が面白そうに孝平たちに言うと、通路をふさいでいた男が下卑げびた笑いを浮かべて言った。
「わし、いっぺんでええけん、このロシアのお姫さんを抱いてみたかったんぜ。もう考えるぎりであそこがおっ立つぞな」
 股間を両手で押さえる仕草をした男は、次の瞬間、ぐぇっと叫んで宙に浮いた。男は地面に落ちると、そのまま股間を押さえながら悶絶した。
 他の男たちが一斉に振り返った。そこにいたのは進之丞だった。
 悶絶した男の股間は進之丞に蹴り潰されたようだ。その後ろにも数名の男たちが声も出さないまま倒れていた。
「進さん! おいでてくれたんじゃね」
 千鶴が喜びの声を上げると、近くにいた男たちが進之丞に襲いかかった。しかし、進之丞は片っ端から男たちの腕をへし折り、顎やあばらを打ち砕き、地面に叩きつけた。男たちへの遠慮は微塵も見られず、千鶴は進之丞が男たちを殺すのではないかとはらはらした。
 孝平と弥七を押さえていた男たちが、長脇差で進之丞に斬りかかった。だが、進之丞は紙一重で刃をかいくぐると、目にも留まらぬ速さで、男の一人を捕まえた。そして、もう一人が再び斬りかかって来た時に、その男を楯にした。
 楯にされた男は肩をざっくり斬られ、斬った方の男は驚きうろたえた。すかさず進之丞は楯にした男を捨てて、もう一人の男の長脇差を握った右腕を左手でつかんだ。
 男が悲鳴を上げて長脇差を落とすと、進之丞は男の右腕をつかんだまま男の足を払い、倒れる男の頭を右手で押さえて地面に打ちつけた。男は痙攣したあと動かなくなった。
 初めは進之丞の登場に歓喜した花江も、あまりの凄惨さに言葉を失い、進之丞を見る目におびえのいろを浮かべていた。
 頭目の他に男たちは数名残っていたが、みんな戦意を喪失したようにうろたえている。
 頭目は男たちを怒鳴りつけ、無理やり進之丞を襲わせた。だが、へっぴり腰になった男たちなど進之丞の敵ではない。全員があっと言う間に打ち伏せられ、あるいは地面に叩きつけられた。
いごくな!」
 頭目の男が叫んだ。頭目は千鶴を捕まえ、懐から取り出した小刀を、千鶴の喉元に当てている。
「千鶴ちゃん!」
 花江が叫ぶと、進之丞は男をにらんだまま、逃げろと花江に叫んだ。男たちにふさがれていた通路には、もう誰もいない。
 花江が迷っていると、進之丞はもう一度、逃げろと言った。しかし、その命令口調の声はいつもの進之丞とは違う、低くて凄味のある声になっていた。
「進さん、いけん。落ち着いて!」
 頭目に捕まりながら、千鶴は叫んだ。続けて花江に、お寺の人を呼んで来てと言った。
 頭目は焦ったように、余計なことを言うなと千鶴に怒鳴った。だが、千鶴の言葉で花江は走って逃げ出した。
 すると、花江を追いかけるように孝平も逃げ出し、弥七もそのあとへ続こうとした。
 途中、弥七は立ち止まって千鶴を振り返ったが、千鶴が警察を呼ぶように言うと、再び走り出した。
 くそっ!――と頭目の男は逃げる弥七を横目で見てから、進之丞に目を戻すと、驚いたように目を見開いた。
 進之丞の頭から角が生え、口からは牙がのぞいている。その顔はほとんど鬼になっており、体も今にも膨らみそうだった。
「進さん、いけん! 変化へんげしたらいけん! 変化せいでも何とかできるじゃろ?」
 千鶴が必死に叫ぶと、進之丞は二、三度首を大きく横に振り、気持ちを落ち着けるように目を閉じた。
「な、何ぞ、お前は? 化けもんか?」
 男の言葉にかちんと来た千鶴は、男の腕に思い切り噛みついた。
 痛ててと男がひるんだ隙に、千鶴は進之丞の所へ逃げた。
「進さんは化けもんなんぞやない。人間ぞな!」
「人間やと? そいつは人間やない!」
「人間やないんは、あんたの方じゃ! この人でなし!」
 元の姿に戻った進之丞は、男をじっとにらんだ。すると、男はほうけたようになって、手に持った小刀をぽとりと落とした。
 進之丞は男の額に指を当てると、誰の差し金でやったのかと問うた。すると男はぼんやりしたまま、つや子――と言った。
「つや子?」
 進之丞は千鶴と顔を見交わした。また、つや子だ。
「なして、つや子がお前らに千鶴らを襲わせたんぞ?」
「ほれは知らん……。あしらは銭さえもろたら……、何でもする」
「つや子は今はどこにおるんぞ?」
「わからん……」
「ほうか、わかった。ほれじゃあ、今ここで見たことは全て忘れ、警察で己の罪を洗いざらい白状せぃ」
 男は目を閉じると、崩れるように倒れた。

      六

 花江が寺の住職や小僧たちを連れて戻って来た。驚いたことに、住職たちの後ろには三津子がいた。
 大切な御廟所での惨状に、住職も小僧も言葉を失った。
「あら? 千鶴ちゃんやないの。ほれに、手代さんも。なして、あなたたちがこがぁなとこにおるん? いったい、ここで何があったんね?」
 驚いた様子の三津子は、倒れている男たちを踏みつけながら千鶴の所へ来た。
「なして、三津子さんがここにおいでるんぞな?」
 千鶴が訊き返すと、三津子は大林寺を見学に来たついでに、向こうで住職と喋っていたと言った。
「ところで、この人ら何なん?」
 三津子は自分が踏みつけた男たちを振り返り、眉をひそめた。
 千鶴は答えるのを少し迷ったが、黙り続けるわけにもいかない。
「うちと花江さんをここへ連れ込んで、手籠めにしようとしたんぞな」
「千鶴ちゃんとこの女中さんを手籠めに? ここで? 嘘じゃろ?」
 三津子は進之丞に、そうなのかと訊ねた。
 進之丞はじっと三津子を見つめたままうなずいた。すると、んまぁ!――と三津子は驚きの声を上げた。
「ほれで、誰がこの人らをやっつけたん? ひょっとして、こちらのにいやんが?」
 三津子は進之丞を見たが、進之丞は黙ったまま答えなかった。代わりに花江が、そうだよと言った。
「忠さんがたった一人でやっつけたんだよ。かなり荒っぽかったけど、これぐらいしなかったら、逆にこっちがやられてたよ」
「ちぃと待って。この兄やんがたった一人でやっつけたん? この人らを全部?」
 三津子は倒れている男たちを見回しながら、ひぃ、ふぅ、みぃと数えた。
「嘘じゃろ? 十五人もおるぞな。しかも、何? この人ら、刃物持ってたん?」
 仲間に斬られて血まみれの男を見ても、三津子は平気な様子で喋り続けた。そのことを花江が指摘すると、元は看護婦じゃったけんねと三津子は楽しげに言った。
「こがぁな傷、しっかり押さえよったら大丈夫ぞな。ちぃとそこの小僧さんら。こっちへおいでてくんさらん?」
 住職と一緒に立ちすくんでいる小僧たちに手招きすると、斬られた男の傷をふさぐよう、しっかり手で押さえるようにと三津子は言った。
 小僧たちは恐れをなしたが、言われたとおりにせよと住職に言われると、二人の小僧が顔をそむけながら男の傷を押さえた。
 住職は千鶴たちの所へ来ると、何があったのか詳しい話を聞かせて欲しいと言った。
 しかし、孝平や弥七のことを千鶴は喋りたくなかった。花江も同じ気持ちなのだろう。二人で黙っていると、代わりに三津子がぺらぺらと説明をした。
 話を聞いた住職は、それにしてもどういう理由で千鶴たちが狙われたのかと訊ねた。だが、それには三津子は答えられず、なしてなん?――と千鶴たちを見た。
「ほれは、うちらもわからんぞなもし。けんど、この人らの後ろには黒幕がおるらしいぞな」
「黒幕? 誰やのん、ほれは?」
 三津子は眉間みけんしわを寄せた。
 千鶴はつや子の名は出さずに頭目の男を指差して、この人が金をもらったと言っていたとだけ話した。男がつや子の名を喋るはずがなく、つや子の名を出すのはまずいと判断してのことだった。
 三津子は頭目の男をにらみ、このくず!――と言って蹴飛ばした。
 そこへ弥七が数名の警官を連れて戻って来た。
 警官たちも御廟所へ入るなり、うっと呻いて立ちすくんだ。それでもさすがは警官で、すぐに我に返ると、倒れている男たちの様子を、一人一人確かめながら千鶴たちの所へ来た。
 そこで何があったのかと訊ねるので、三津子がまた得意げに説明を始めた。しかし、三津子は住職と喋っていただけで、事件とは関係がないとわかると、警官たちは三津子に黙っているようにと強い口調で命じた。
 それから改めて千鶴と花江から事情を訊き、男たちが千鶴たちを手籠めにしようとしたこと、男たちの後ろに黒幕がいること、そして進之丞が一人で男たちを倒して、千鶴たちを助けたことを確かめた。
 警官たちは怪我の程度のひどい者たちは、病院へ運ぶよう手配して、動けそうな者たちは無理やり起こして連行した。
 御廟所の西南の隅を調べた警官が、御廟の陰から猿ぐつわを噛まされて、縛り上げられた男を見つけた。
 住職は驚いて男に駆け寄ると、この御廟所の番人だと警官に話した。
 猿ぐつわを外されて縄を解かれた番人は、いきなり現れた男たちに刃物を突きつけられて縛られたと言った。しかし、番人は男たちについては何も知らないようだった。
 千鶴と花江は改めて話を聞きたいのでと、警察への同行を求められた。二人がそれを了承すると、その警官は進之丞に向き直り、喧嘩の当事者として逮捕すると言った。
 驚いた千鶴と花江は猛抗議したが、警官は聞き入れてくれなかった。進之丞がおとなしく両手を後ろに回すと、警官はその両手を縛ろうとした。
 千鶴と花江は尚も抗議したが、三津子も怒りをあらわにして警官に喰ってかかった。
 三津子は進之丞を縛ろうとしていた警官を押し倒し、逮捕する相手が違うとわめいた。それで三津子までもが逮捕されそうになったので、進之丞は三津子に頭を下げ、改めて警官に両手を差し出した。
 そうしながら進之丞は、捕まえるのは自分一人で十分のはずだと言った。それで警官は改めて進之丞を逮捕し、三津子については厳重注意で済ますことになった。
 三津子は目に涙を浮かべながら、唇をわなわなと震わせて、後ろ手に縛られる進之丞をじっと見つめていた。
 千鶴と花江もどうすることもできず、進之丞の横で泣くばかりだった。
 警官が進之丞を連行しようとすると、その前に弥七が立ちはだかった。
 弥七はこの事件を引き起こしたのは自分だと申し出て、自分も逮捕して欲しいと警官に訴えた。
 どういうことかと警官が訊ねると、弥七は自分と孝平がこの男たちを使って、千鶴と花江を手に入れようとしたと白状した。
 警官は改めて千鶴と花江に、そうなのかと確かめた。泣く二人は喋ることができないまま、黙ってうなずいた。
 警官は別の警官を呼ぶと、弥七を逮捕させた。そして、逃げた孝平を捕まえるよう他の警官に指示をした。

 大林寺を出ると、そこに多くの人だかりができていた。その中を後ろ手に縛られた進之丞と弥七が連行され、千鶴と花江が泣きながら歩いて行く。
 集まった者たちの中には、当然千鶴たちが知る者もいて、何があったのかと声をかけて来たが、説明などできなかった。
 警察へ向かうのに、千鶴たちは紙屋町を通り抜けなければならなかった。
 両脇の店々からは、馴染みの顔がいくつものぞいている。千鶴たちに声をかけた者もいるが、すぐに警官たちに遠ざけられた。
 山﨑機織の前を通る時、店に戻っていた甚右衛門とトミ、辰蔵と丁稚たちが、警官につかみかからんばかりに飛び出して来て、千鶴たちを取り戻そうとした。しかし結局は引き離されて、トミはその場に泣き崩れた。
 甚右衛門は辰蔵に店を任せると、千鶴たちについて来た。だが、警察に着くまで千鶴たちと喋ることはかなわず、甚右衛門もまた連行される一人のように見えた。
 千鶴の隣では、花江が死にそうな顔で打ちしおれている。自分のついた嘘で、こんなことになったと責任を感じているのだろう。
 弥七は項垂うなだれたまま泣いている。だが、進之丞は顔を真っ直ぐ上げて前を向いていた。考えているのは、つや子のことに違いない。
 進之丞までもが逮捕されたのは理不尽だが、それ以上に今後のつや子の動きが、確かに千鶴も気になっていた。
 頭は混乱し、怒りと悲しみで胸が一杯ではあったが、それでもつや子のことが頭から離れない。
 どうしてつや子はここまでのことをするのだろう。そこまで自分たちに恨みがあるというのだろうか。だとすれば、これで終わりではなく、今後もつや子の企みは続くはずだ。
 それを考えると、千鶴は不安と恐怖に襲われた。つや子を捕まえない限り、この不安と恐怖は終わらない。
 歩いている間、道を通る者や、道の脇に家や店を持つ者たちが、好奇と侮蔑の目を向け続けている。その中には、二百三高地の髪をした女もたくさんいた。
 客馬車で一緒になったつや子の顔を、千鶴ははっきりとは覚えていない。
 自分たちを眺める二百三高地の女を認めるたびに、もしやこの女がつや子ではないだろうかと、千鶴は誰を見ても疑いたくなった。
 だが、堂々としている進之丞を見ると、自分はその女房らしくいようと思った。見るなら見ろである。
 千鶴は涙を拭くと、進之丞の隣に身を寄せた。そして進之丞と同じように顔を上げ、胸を張って歩いた。自分たちは何も悪いことをしていないのだから、胸を張るのは当然だと思っていた。
 そんな千鶴を横目で見て、進之丞はかすかに笑った。その笑みが千鶴にとっては何よりの励みであり誇りだった。
 何があろうとも、自分たちは一緒なのだと強く想い、千鶴は進之丞とともに長い道のりを歩き続けた。