仕掛けられた罠
一
毎日が同じように過ぎていく。進之丞が鬼であろうがなかろうが関係なく、みんな日々の仕事に追われて暮らしている。山﨑機織だけの話ではなく、世の中の人々みんながそうなのだ。
千鶴が萬翠荘へ招かれた話や、城山で四人の男が瀕死で見つかり、その後全員が死んだ事件は、もう話題にもならない。その後の城山で何も起こらないので、世間では城山の魔物はお袖狸の仕業ということで落ち着いたようだ。
千鶴たちの間でも、特高警察や不審火で燃えた鬼よけの祠のことは、みんなの頭から抜け落ちたみたいで、甚右衛門もトミも売り上げを伸ばすことばかり考えている。城山の魔物を怖がった亀吉たちも、何事もなかったかのように仕事に励んでいる。
そんな周りの様子を見ていると、進之丞を人間に戻す努力などしなくてもいいのではないかという考えが、千鶴の頭に浮かんでくる。本当はそうではないとわかっているが、千鶴の中にはあきらめが無力感となって広がっていた。
あれだけつらい想いをしながら井上教諭に探ってもらった前世の記憶も、肝心の所が突然現れた白い靄でわからなかった。もうどうしたって進之丞は人間に戻せないのだ、という事実を突きつけられたみたいで、今では神仏に縋る気持ちさえも起こらない。
べっ甲の櫛を千鶴から返されてからというもの、弥七も仕事への気力が失われたらしい。注文の品を間違えたり、辰蔵から注意をされても投げやりな態度を見せたりで、甚右衛門もいらだつことが多い。
そんな話を耳にしても、千鶴は何とも思わなかった。以前であれば自分のせいだと悩んだり、何とかならないかと考えただろうが、今は少しもそんな気持ちにならない。はっきりいって、どうでもいいのだ。
手紙をよこさないでほしいと伝えたにもかかわらず、スタニスラフからの手紙も相変わらず届いている。もう封を切るのも煩わしくて、そのまま読まずに置いたままだ。
けれど、千鶴はあることに腹立ちを覚えていた。それは鬼だ。前世で自分たちを苦しめた、あの鬼である。
進之丞の話を聞いた時には思い出していなかった記憶を、千鶴は取り戻した。鬼が何をしたのかを、今は肌身で覚えているのだ。
その記憶は前世のものとはいえ、現世の記憶と変わらない。千鶴にとっては、つい数日前のことだ。
鬼だって好きこのんで鬼になったわけではない。それは理解している。鬼が心から反省しているという進之丞の言葉も信じよう。だからといって、鬼がやった悪事をすべて許せるのかというと、それは話が別だと思っている。苦しみの記憶を忘れているならともかく、苦しみが続いている状態では、とても鬼を許す気にはなれない。
もしイノシシや特高警察から護ってくれたのがあの鬼であったなら、鬼に対して恩義を感じ、今とは別の受け止め方ができたかもしれない。だけど、実際に助けてくれたのは進之丞だ。あの鬼ではない。あの鬼は進之丞の横で千鶴を見守り励ましていたに過ぎない。その励ましの言葉だって、千鶴の耳には届いていないのだ。
以前は鬼がずっと傍にいるよう願っていたが、今はそれが馬鹿馬鹿しいと思っている。それどころか、さっさと進さんから離れてどこにでも行けばいい、という気持ちだ。
そもそも、あの鬼が進之丞に引っついているという話も疑わしい。
いくら進之丞が鬼になったといっても、あの鬼は進之丞の父親を八つ裂きにしたのだ。また慈命和尚と仁助の命を奪った上に、進之丞に村人たちを殺めさせもした。さらに、夫婦になろうとしていた自分たちの仲をも引き裂いたのだ。
そんな鬼を少しも恨まずかばうなど、自分であればできないと千鶴は思っている。きっと進之丞の言葉は本当ではなく、あの鬼は地獄へ堕ちたままこの世には戻っていない。では、何故進之丞はあの鬼が一緒にいるなどと言うのか。
進之丞は鬼を憎むなと言った。鬼のためではなく、千鶴のためだ。心を憎しみのいろに染めれば、せっかくの新たな人生が台無しになるというのが理由である。
恐らくそのために進之丞は、あの鬼が自分と一緒に千鶴を見守っていると言ったのだ。そう言えば千鶴の鬼への憎しみがなくなると期待したのだと思われる。
そして、その期待どおりに千鶴は鬼を恨まないと言った。だが、あの時の気持ちは今はない。進之丞には申し訳ないと思いつつ、千鶴の心はあの鬼への怒りで満ちていた。せいぜいが怒りが憎しみに変わらないようにするだけで、怒り自体は抑えようがない。
だけどそれは進之丞には話せないし、気づかれてもいけない。進之丞を人間に戻すのをあきらめた態度も、絶対に見せられない。
進之丞の前では、千鶴はこれまでどおりに明るく振る舞った。けれど、胸の中では怒りと悲しみと絶望が渦巻き続けている。
二
ついに甚右衛門は辰蔵と幸子の祝言を挙げることに決めた。いつまでもずるずる先延ばしにするのはよくないと判断したようだ。
式の日取りは七月十五日。この日は大安で鬱陶しい梅雨も明けているものと思われた。
日取りを告げられた辰蔵と幸子は二人とも、わかりましたと答えるだけで少しも喜ぶ様子はなかった。
二人が夫婦になることが使用人たち全員に伝えられると、亀吉たちは驚き興奮した。ただ、弥七だけは何故か蒼ざめていた。
花江は平気な顔をしていたが、あとで厠で泣いていたのを千鶴は知っている。その話を進之丞に伝えても、進之丞も気の毒そうにうなずくばかりだ。
婚礼の仲人は同業組合の組合長夫妻にお願いすることになった。それで組合長夫妻が訪れたり、甚右衛門やトミが組合長の家を訪ねたりと、頻繁に互いを行き来することが続いた。
辰蔵と幸子の婚礼衣装の準備もあり、すでに二人が夫婦になったかのごとき雰囲気が店の中に広がった。しかし少しも喜びが感じられず、丁稚たちも何だか妙な感じだと思っているのだろう。笑顔がないままぱたぱたと動きまわっている。
店を存続させねばならないにしても、誰も幸せになれないのであれば、何のために存続させるのかがわからない。進之丞を人間に戻せない無力感に、みんなの不幸な気持ちが重なって、千鶴はますますどんよりした気分になった。
いよいよ明日が式となる日、うまい具合に梅雨は明けて夏空が広がっていた。シャワシャワと賑やかな蝉の鳴き声が聞こえている。
式の前日ではあったが、幸子は病院の仕事に行った。式の日取りが決まったのが、あまりにも急なことなので、病院としても代わりの看護婦を見つけるのは困難だった。それで幸子は辰蔵と結婚をしたあとも、その翌日から八月いっぱいは勤めを続けることになっていた。
山﨑機織の仕事も通常どおり行われ、辰蔵や進之丞たちは普段と同じように仕事に追われていた。
千鶴と花江はいつもの仕事に加えて、明日の式の食事の準備もあって、目が回るほど忙しかった。忙しい方が花江が悲しむ暇がなくていいのだが、午後になれば手が空く亀吉たちにも手伝ってもらおうと、千鶴は考えていた。
昼飯が終わると、甚右衛門は組合長の家へ最後の打ち合わせに行き、トミは正清の墓に幸子の結婚を報告しに出かけた。二人はそれぞれが亀吉と新吉を連れて行ったので、千鶴たちが頼れるのは豊吉一人だけとなった。それでも豊吉は一生懸命に動いてくれた。
仕事が一段落したところで、花江はお茶にしようと言った。
家の中には千鶴と花江と豊吉の三人しかいない。帳場も辰蔵一人だ。
千鶴がお茶を用意すると、花江は戸棚から茶菓子を出した。自分だけが茶菓子を食べられると豊吉は大喜びだ。
千鶴は辰蔵のお茶も用意したが、花江に声をかけると、花江が辰蔵のお茶と茶菓子を帳場へ持って行った。二人はどんな想いで顔を合わせるのかと思うと、千鶴は切なくなった。
花江はすぐに戻って来た。恐らく辰蔵とは何も喋らず、祝福の気持ちだけを伝えたのだろう。千鶴たちに向けた花江の笑顔が悲しかった。
板の間で三人でお茶を飲み、お菓子を食べながら他愛ないお喋りを始めると、三人の中で豊吉が一番よく喋った。豊吉は頭がよいため理屈っぽいと亀吉はこぼすのだが、この日の豊吉のお喋りは子供っぽいものばかりだった。
本当は泣きたかろうに、豊吉の話を聞いて笑う花江の姿が、千鶴にはいじらしく見えた。
しばらく喋ったあと、そろそろ仕事を始めようかと花江が言うと、その前に厠へ行くと、豊吉は渡り廊下を走って行った。その様子を笑っていた花江は、実はさ――と千鶴に向き直った。
「今月初めのお休みの日さ。ちょうど晴れてたから、道後にお風呂に入りに行ったんだ。そしたらね、またあいつに会っちまったんだよ」
あいつというのは孝平のことだ。お休みの日というのは、千鶴が井上教諭を訪ねた日の二日前のことである。
前に孝平を見てからしばらくの間は、花江は一人で外へ出ないようにしていた。けれど、その後は孝平は現れなかったので、近頃はまた一人で出かけていた。なのに、今度は道後で孝平に会ってしまったと言うのだ。
千鶴が不安な顔を見せると、大丈夫だってと花江は笑った。
「前に見た時は、あたしもすぐに逃げ帰ったからさ。何も喋らなかったんだけど、今度はあたしを呼び止めて、話があるって言うんだよ。だからあたしも逃げないで、何の話かって訊いたんだ」
「孝平叔父は何て言うたん?」
「それがさ、周りに何人も他の人がいたんだよ。そんな所でさ、人目も憚らずにね、どうせ伊予絣は儲からないから、松山を出て一緒に暮らそうって言うんだよ。何もできない自分がだめなくせにさ、偉そうなことを言うから、あたし、言ってやったんだ」
「何て言うたん?」
「お生憎さま、あたしはもうすぐ辰さんと祝言を挙げるんだよ――て言ったのさ」
驚く千鶴に花江は、言うだけだからいいじゃないかと口を尖らせた。
「ほんとはさ、あたし、辰さんと一緒になりたかったんだ。東京にいた時、辰さんがうちの店に来てくれるのが楽しみでね。辰さんが来たら、呼ばれもしないのにお茶にお茶菓子を出したりさ、何か探すふりして帳場に行ったりしたんだよ。でも、あたしには親が決めた許婚もいたからね。一緒になるなんて無理な話だったんだけどさ」
花江はその頃を思い出すような顔になった。その表情は楽しそうではあったが、悲しそうにも見えた。
「辰さんが松山に戻った時はしばらく落ち込んでたけど、あたしもあきらめて許婚と一緒になる覚悟を決めたんだ。それで、いよいよ祝言ってなった時にね、あの大地震が起きたんだよ。あれであたしは何もかも失っちまったけど、許婚の方も大変でね。とてもあたしの面倒を見るなんてできなかったんだ。簡単にいえばさ、あたしは見捨てられたんだよ」
瓦礫だらけの場所で行く当ても頼る者もなく、一人佇む花江の姿が目に浮かび、千鶴は思わず涙ぐんだ。
燃えた家の前に立ちながら、独りぼっちの花江はもう死ぬしかないと思っていたという。
「その時さ、辰さんが現れたのは」
花江は、ぱっと明るい顔になって言った。
「地獄に仏ってこのことだって思ったよ。まさか辰さんが来てくれるなんて、これぽっちも思ってなかったからね」
「ほれは嬉しかったじゃろね」
「嬉しいなんてもんじゃないよ。奇跡っていうか、あたしの幸運が全部来たって感じだったよ」
花江は興奮した様子で話を続けた。
「あの時ね、辰さんは言ったんだ。他の所より一番にあたしの所へ来たんだって。しかもね、松山で一緒に暮らそうって言ってくれたんだ。ここで一緒に働かせてもらおうってね」
過去の話ではあるが、聞いていて千鶴も胸が熱くなった。そのあとどうなるかがわかっているだけに切なくもあった。
「そんなこと、旦那さんに黙ってはできないって言ったらさ、自分が旦那さんにお願いするからって。どうしてそこまでしてくれるのかって訊いたらね、あたしをお嫁にしたかったって言ってくれたんだよ。あたし、嬉しくて嬉しくて、悲しかったことも全部忘れてさ。夢なら覚めないでって思ったんだ」
なのに、二人は今引き裂かれようとしている。夫婦になる直前で引き裂かれた前世の千鶴たちと同じだ。
今からでも何とかしてあげたいが、今更どうにもできない。母と辰蔵の婚礼は明日なのだ。千鶴は自分の無力さを嘆き悔やんだ。
「なして……、なして二人が一緒になるんじゃて、もっと早うにおじいちゃんらに言わんかったん?」
「あたしは女中として雇ってもらったのに、そんなの言えるわけないじゃないか。だけど今年辺りにね、旦那さんやおかみさんに相談してみるつもりだって、辰さん、言ってくれてはいたんだよ」
ほうじゃったんと言ったきり、千鶴はあとの言葉が見つからなかった。去年のうちに話していればと思ったが、もうどうしようもない。
でもさ――と花江は寂しげに言った。
「あいつに辰さんと一緒になるんだって言ったあとに、旦那さんが辰さんと幸子さんを夫婦にするって言うなんてさ。わかってたことだけど、何だか罰が当たったみたいだよ」
「ほやかて花江さん、何も悪ないよ」
「ありがとう。明日が祝言だっていうのに、ごめんよ、こんな話して」
千鶴が黙ったまま首を振ると、花江は悲しげに微笑んだ。
豊吉が戻って来た。
「あぁ、すっきりした」
「長かったね。ちゃんと手は洗ったのかい?」
花江が明るい顔でからかうと、豊吉は両手を広げて見せて、洗ったもーんと言った。
花江は笑うと、千鶴と一緒にお茶飲みの後片づけをした。それから先に土間へ下りると、そうそうと言いながら振り返り、悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「実はさ、そん時にもう一つ嘘をついたんだ」
「もう一つ?」
「知りたいかい?」
千鶴がうなずくと、花江は言った。
「千鶴ちゃんの式も一緒に挙げるんだって言ったんだよ」
「え? うち?」
「そうだよ。あいつ、いつも千鶴ちゃんのこと目の敵にしてたからね。いい機会だって思って言ってやったんだ。そしたらあいつさ、最初の話でも目ぇまん丸くしちゃって情けない顔してたんだけど、よっぽど悔しかったんだろうねぇ。口元をわなわな震わせてさ。走っていなくなっちまったよ」
ぽかんと話を聞いていた豊吉が、何の話かと言った。
「何でもないよ。大人の話さ」
花江がさらりと答えて台所へ行くと、豊吉は千鶴に同じことを訊ねた。千鶴は豊吉を無視できず、花江をかばいながら説明した。
「そげなことでな、花江さんは孝平叔父を追い払うために、ほんまやない話をしたぎりぞな」
「嘘言うたん?」
「そうさ。嘘も方便って言うだろ?」
花江が横から面倒臭そうに弁解した。
「ほやけど、嘘はいけんぞな。あとで、身から出た錆になるかもしれんけん」
花江は感心した顔で豊吉を見た。
「豊ちゃん、本当に言葉を知ってるんだね。凄いじゃないか」
豊吉は照れながら、嘘はいけないと繰り返した。
「わかったよ。もう嘘はつかないから。だけどさ、身から出た錆よりさ、あたしは、嘘から出た実の方がいいな」
「ほうじゃね。うちもそがぁ思うぞな」
本当にそうであれば、どれだけ嬉しいことか。だが豊吉は、それでも嘘はいけないと繰り返した。
三
「大事ぞな! おかみさんが倒れんさった! 千鶴さんも花江さんもすぐ来てつかぁさい!」
注文取りに出ていたはずの弥七が、大声で叫びながら飛び込んで来た。いきなり現れた弥七にも驚いたが、トミが倒れたのも衝撃だ。
「おばあちゃんが倒れたて、どこで倒れたん?」
千鶴が焦って訊ねると、大林寺で倒れたと弥七は口早に言った。けれど、祖母が大林寺にいる理由が千鶴にはわからなかった。
祖母が出かけた先は雲祥寺であり、大林寺ではない。山﨑家と大林寺の関わりは、ロシア兵の父と看護婦の母が知り合った場所ということだけだ。他には何のつながりもない。祖母が大林寺へ行く理由はないのだ。ましてや、今日は祝言の前日だ。それに弥七が知らせに来たのも妙に思えた。
祖母には新吉がついている。祖母に何かがあったとしたら、走って来るのは弥七ではなく新吉のはずだ。そのことを千鶴は質そうと思ったが、弥七は千鶴たちを急かしながら、慌てたように表に飛び出した。
以前、家に居座った三津子を追い返すために、祖父が進之丞を使って、祖母が雲祥寺で母を呼んでいると、嘘の話を仕組んだことはある。
千鶴は何となくその時の事を思い出したが、今は三津子はいないし、弥七が自分たちを騙す理由もない。とはいっても、やはり妙である。
けれども、千鶴たちにいろいろ考えている暇はなかった。
新吉が祖母から離れられないのだとすれば、祖母は重篤状態だと考えられる。大林寺はすぐそこだから、取り敢えず行ってみるしかない。
千鶴と花江は顔を見交わすと、黙ってうなずき合った。
二人が弥七の後を追って暖簾をくぐると、帳場に辰蔵の姿がない。先に大林寺へ走ったのかと思った千鶴は、豊吉を呼んで店番を頼んだ。
表に出ると、弥七が前方で待っていたが、辰蔵はいない。先に大林寺へ行ったのかと思ったが、大林寺へ向かう道に辰蔵の姿はない。弥七が店に戻った時に、辰蔵がすぐに出たとしても、道のどこかに走る辰蔵の姿があるはずだ。
千鶴は違和感を覚えた。しかし弥七が再び走りだし、花江も続いたので、とにかく大林寺へ向かうことにした。
大林寺の山門をくぐると、その先に中門がある。本堂があるのは中門の向こうだ。祖母はそこにいるのかと千鶴は思ったが、弥七は中門をくぐらず、中門から続く土塀沿いに左へ走った。
突き当たりは久松家の御廟所だ。歴代城主の墓が並ぶ所である。一般の者が立ち入る所ではないし、山﨑家にも関係のない場所だ。そんな所に祖母がいるわけがない。だが、弥七は御廟所の入り口で千鶴たちを振り返ると、この中だと言って入って行った。
普段であればここには番人がいて、関係者でない者を中へ入れないようにしている。ところが今日はその番人の姿がない。
中で祖母が倒れたために、番人がそちらへ向かったのであれば、本当に祖母が危ないのかと千鶴は焦った。
花江が心配そうにしながら先を急ぎ、千鶴も花江に続いた。
御廟所の入り口を入ると、そこから西へ向かって広大な墓所が広がる。ここには東にある城と向かい合って、手前に五つ、奥に四つの久松家城主の墓があり、それぞれの墓の上には立派な御廟が建てられている。
入り口正面の奥には、手前の五つの御廟のための拝殿があり、右手にある四つの御廟には三つの拝殿がある。
各御廟の前には数え切れないほどの石灯籠が並び立ち、静寂ながら圧倒されるような荘厳な雰囲気が広がっている。部外者が気軽に立ち寄る所ではないことは、空気の違いですぐわかる。やはり、ここは祖母がいるには似つかわしくない場所だ。
千鶴たちはトミの姿を探したが、入り口から見える所にはトミも新吉もいなかった。いるのは手前の拝殿で手を合わせる五人の男たちだけだが、その粗野な風体もこの墓所の雰囲気にはそぐわない。男たちが久松家の関係者でないのは明らかだ。
弥七は奥の墓所の入り口に立っており、早く来るようにと千鶴たちに手招きをしている。その表情は硬く、激しい手の動きも何だかぎこちない。
花江はすぐに弥七の方へ行こうとしたが、千鶴は花江を引き留めた。
「花江さん、ちぃと待って。これ、何かおかしいぞな。おばあちゃんがこがぁな所におるわけないで」
「だって、弥さんが……」
花江は少しも弥七を疑っていないが、千鶴は大きな胸騒ぎを感じていた。
早くここから立ち去らねばと思った千鶴は、強引に花江の手を引いて御廟所を出ようとした。すると、外から数名のごろつきのような男たちが、こちらへ来るのが見えた。
「姉やんら、どこへ行くつもりぞな? ここは通れんけん、早よ奥へ行っておくんなもし」
男の一人がにやにやしながら言った。さすがに花江もこれはおかしいと思ったらしい。そこを通しておくれと気丈に言ったが、男たちは花江の言うことなど聞こうとしない。
「見てのとおり、こっちはいっぱいで通れんぞな。ほじゃけん、先に姉やんらが奥へ行っておくんなもし」
千鶴ちゃん――花江は強張った顔で千鶴を見た。
千鶴が後ろを振り返ると、拝殿で手を合わせていた男たちも、こちらの方へ向かって来る。千鶴と花江は後ずさりをしながら、じりじりと奥の墓所へ追い詰められた。
奥にある三つの拝殿にも複数の男たちがいた。その一番手前の拝殿で男が一人手を合わせていて、その傍に弥七が立っていた。
トミも新吉も姿は見えず、御廟所の番人らしき者もここにはいない。奥の二つの拝殿にいる男たちは、後ろから来る男たちと同じごろつきだ。
「弥七さん、おばあちゃんはどこにおるんね?」
千鶴が強い口調で問い質しても、弥七はおろおろしながら黙っている。すると、その横にいた男がくるりと振り返った。男は孝平だった。
四
「二人とも、ようおいでたの。待ちよったぞな」
孝平は勝ち誇ったように笑った。
千鶴は孝平の隣にいる弥七をにらんだ。
「弥七さん、これは何の真似なん?」
弥七は目を伏せて何も言わない。間違いない。弥七も孝平とぐるだ。
花江は怒りを隠さず孝平たちをにらみつけた。
「あんたら、あたしたちを騙したんだね? ここであたしたちをどうしようってんだい!」
後ろは男たちで完全にふさがれている。周囲はすべて土塀で囲まれていて、逃げることはできないし、外からも中は見えない。
「さてと、どがいしようかの。そちらの返答次第で、どがぁするかは違てこう」
孝平はにやにやして言った。弥七は下を向いたままだ。
周囲にいる男たちを見る花江の目は、恐怖に怯えているようだ。しかし、孝平に喋るその口調は勝ち気そのものだ。
「こっちの返答次第? 何だい、それは。あたしたちにどうしろって言うのさ!」
「教えてほしいんなら言うちゃろわい。明日の祝言は取り止めて、わしと夫婦になると誓え」
孝平の言葉を聞いた弥七が、孝平に何か文句をつけた。孝平はうなずくと千鶴に言った。
「千鶴、お前はこの弥七と夫婦になるんぞ」
「何言うんね。弥七さん、あんた本気なん?」
千鶴が質すと、弥七はうろたえながらも、孝平さんが言うたとおりや――と言った。
なしてと憤る千鶴を制して、花江が孝平に話しかけた。
「答える前に聞かせておくれよ。祝言を取り止めないって言ったら、あたしたちをどうするつもりなんだい?」
「ほん時は、お前らを力尽くでわしらの物にするまでよ。そがぁなったら、もう祝言なんぞできんけんな」
「じゃあ、取り止めるって言ったら信じるのかい?」
「ほれは――」
孝平は言葉に詰まって弥七を見た。嘘をつかれた時のことなど考えていなかったのだろう。弥七も孝平に任せっきりにしていたのか、困惑顔で孝平を見返すばかりだ。
そんな二人を眺めながら、花江はふっと笑った。
何がおかしいと孝平は凄んだが、花江は平気な顔だ。
「あんたらしいなって思っただけさ。よく考えもしないで、こんな大それたことしちゃってさ。あたしよりずっと年上のくせに、ほんっとに馬鹿なんだから。呆れて物が言えないって、このことだよ」
「何やと?」
「さっきの質問に答えてあげる。祝言を取り止めるも何も、あたしは誰とも祝言なんか挙げないよ」
「何?」
「祝言を挙げるのは、あたしじゃなくて幸子さんさ。幸子さんが辰さんと夫婦になるんだよ」
「嘘こけ! お前と辰蔵が祝言挙げるて、お前が自分で言うたんじゃろが!」
「それは、あんたがしつこく付きまとうからだろ? だいたいさ、あんた、弥さんから話を聞いてないのかい?」
孝平はうろたえて弥七を見た。弥七も混乱した顔で孝平を見ている。
「孝平さん、知っとったんやないんですか?」
「いや、わしは花江と番頭が一緒になるて聞いとったけん」
「ほんな……、ほれじゃったら――」
弥七の言葉を遮って、花江は言った。
「あんたはいつだってそうなんだ。相手のことなんか、これっぽっちもわかろうとしないで、自分勝手に動くんだ。あたしが本当はどう思ってたかなんて、ちっともわかってないんだろ?」
「え? ほれはどがぁなことぞ?」
当惑している孝平に花江は詰め寄った。気圧された孝平は後ろへのけぞった。
「あんたは人を期待させるだけさせといて、ちっともがんばろうとしない」
「え? 期待?」
「店でも文句ばっかり垂れて、あたしを手籠めにしようとするし」
「いや、ほれは――」
「家を追い出されたあとも、まともな仕事なんかしてなかったんだろ? そんなんで一緒になれるわけないじゃないか」
「一緒にて――」
「あんたが一人前になって戻って来るのを待ってたのに、こんなことしでかすなんて。あたしが今、どんだけ情けない気持ちでいるのか、あんたにはわからないだろうさ!」
花江の勢いに孝平はかなり動揺したらしい。顔に迷いと焦りのいろが表れている。
「ちぃと待て。お前、ひょっとしてわしのこと――」
「待ってたんだって言ってるだろ?」
「ほ、ほれじゃあ、わ、わしと一緒になってくれるつもりが――」
花江は大袈裟に首を振りながら言った。
「あぁ、嫌だ嫌だ。そんなことを女の口から言わせるつもりなのかい? だから、あんたって男はだめなんだよ」
「いや、ほんな……、ちぃと待ってくれ。これは誤解ぞな。わしかてお前にその気があるてわかっとったら、お前に襲いかかったり、こがぁなこともせんかったんぞ。元を言うたら、お前の――」
「あたしの何が悪いって言うのさ?」
花江がじろりと孝平をにらんだ。
「あ、いや、別に何も悪ないか……」
孝平が小さくなると、今度は千鶴が弥七に言った。
「弥七さん、なしてこがぁなことしたん? うちが櫛を受け取らんかったけん、孝平叔父さんと一緒になって、うちを手籠めにしよ思たん?」
弥七はうろたえながら、ほやかて――と蚊の鳴くような声で言った。
「ほやかて、何よ?」
「ほやかて千鶴さん、あいつと祝言挙げるて聞いたけん……」
「そがぁなこと誰から聞いたんね? 花江さんが言いんさったとおり、祝言挙げるんはうちのお母さんと辰蔵さんぞな。おじいちゃんがそがぁ言いんさったんを、弥七さんかて聞いたじゃろ?」
弥七は黙って横目で孝平を見た。孝平は慌てて両手を振り、わしやないと言った。
「わしは花江から聞いたことを、こいつに教えたったぎりぞな。わしが言うたんやないけん」
「また、あたしのせいにするわけ?」
花江ににらまれると、いや――と孝平は下を向いた。
「あしは千鶴さんを他の男に取られとないんよ」
覚悟を決めたのか、弥七ははっきりした声で言った。
「あしはずっと前から千鶴さんを好いとった。ほれやのに千鶴さんは、あとから入って来たあいつの方がええみたいなけん、あしは何とかあいつに負けまいとがんばりよったんよ。ほんでも、千鶴さんはあいつと一緒になるて聞いたけん、ほじゃけん……」
弥七は下を向いて涙をこぼした。
「あしが千鶴さんと特別な関係になるいうたら、こがぁするしかなかったんよ。ほやないと、千鶴さんは明日あいつの物になってしまうけん、こがぁするしかなかったんよ……」
すすり泣く弥七の横で孝平が戸惑っている。この騒ぎにどう始末をつけたらいいのかわからないのだろう。小さくため息をついた花江は困惑顔で言った。
「千鶴ちゃん、ごめんよ。あたしのせいで、豊ちゃんの言ったとおりになっちまった」
千鶴は黙って小さく首を振ると、弥七に言った。
「弥七さん、こがぁなことして、うちの気持ちが自分に向くて思たん? 却って嫌われるとは思わなんだん?」
弥七は項垂れたまま黙っている。
この狂乱は孝平が主犯だ。弥七は孝平に従っているだけであり、孝平さえ手を引けば、すべて解決する。千鶴は孝平に声をかけた。
「孝平叔父さん、花江さんの誤解が解けたんなら、もうええでしょ? うちも花江さんも、このことは誰にも言わんけん」
「ほんまに言わんのか?」
孝平は疑わしそうに眉根を寄せた。
「うちにしても花江さんにしても、余計なこと言うてごたごたするより、黙って何もなかったことにしよる方がええもん」
なぁ、花江さん――と千鶴が花江に振ると、花江もうなずき、千鶴ちゃんの言うとおりだよと言った。
穏やかな顔になった孝平が、ほれでええかと弥七に言った。弥七がうなずくと、千鶴と花江は笑顔を見交わした。
ところが、黙って話を聞いていた男たちの一人が、ほうはいくまいと言った。
それまでとは別の異様な雰囲気が広がり、他の男たちも薄ら笑いを浮かべている。
声を出した男は、他の男たちより二回り体がでかい。どうやら男たちの頭目のようだ。その男が冷たい口調で孝平に言った。
「孝平、勝手な真似は許さんぞな」
五
驚く孝平と弥七に頭目の男は言った。
「お前さんら、あしらの顔潰す気ぃか?」
孝平は顔を強張らせながら言い返した。
「ほ、ほやかて事情が変わったいうか、誤解が解けたんやし――」
「そげなこと、あしらには関係ない」
「何言うとるんぞ? お前らはわしの手伝いしに集まったんじゃろが。そのわしがもうええて言うとるんじゃけん、ほれでよかろが」
花江の手前、孝平は少し強気で喋ったが、男にはまったく通用しなかった。
「お前があしらに銭をよこすんか? ほうやなかろ? あしらは銭もろて動きよるんぞ。一銭も出しとらんお前の言うことを、なしてあしらが聞かにゃならんのぞ?」
孝平と男たちの関係を千鶴たちは知らない。しかし、二人のやり取りからすれば、このことに絡む黒幕がいるようだ。
どうやら孝平は自分が男たちに指図ができる立場だと思い込んでいたらしい。そうではなかったと思い知らされた今、孝平の声は怒りと怯えで震えていた。
「な、何やて? ほ、ほれじゃったら、お前ら、端からわしの手伝いする気ぃなんぞなかった言うんか?」
「そがぁなこと、あしらはお前に一言も言うとるまいが。あしらが手伝うて、お前が勝手に思いよったぎりよ」
「孝平さん、話が違うやないか!」
弥七に詰られ、孝平は頭目の男につかみかかった。ところが逆に殴り倒され、弥七も他の男に張り倒された。
千鶴と花江は男たちに取り囲まれた。千鶴は以前に料亭の前で男たちに囲まれたが、今いる男たちはあの時の倍以上いる。しかも、ここには進之丞がいない。万事休すだ。
「あんたら、やめないと大声を出すよ。ここの和尚さんたちに見つかったら、あんたらだってただじゃ済まないからね」
花江は男たちを見まわしながら気丈に言った。けれど怯えは隠せない。体が小さく震えている。
男たちの中には長脇差を持った者が二人いた。その男たちは長脇差の鞘を捨てると、倒れている孝平と弥七の喉元に、その切っ先を当てた。その様子をちらりと見てから、頭目の男が脅しをかけた。
「そげなことをしたら、どがぁなるかは見てわかろ? お前らは黙ってあしらの言うとおりにするしかないんぞ」
「あたしらをどうするつもりなんだい!」
花江が噛みつくと、頭目の男は言った。
「さぁて、大阪にでも売り飛ばすかの。ほんでも騒がれても困るけんな。その前にあしらを存分に楽しませてもらおわい」
「こんな所であたしらを手籠めにしようってのかい? この罰当たり!」
「あしらは生まれつき罰当たりぞな」
「この外道され!」
倒れたまま孝平が叫んだ。しかし長脇差で喉元を少し刺されると、声にならない悲鳴を上げた。隣では弥七が横目で千鶴たちを見ながら、ぶるぶる震えている。
「お前らは己が惚れた女子が、あしらを楽しませるんをそこで眺めよれ」
頭目の男がにやりとしながら孝平たちに言うと、通路をふさいでいた男が下卑た笑いを浮かべて言った。
「わし、いっぺんでええけん、このロシアのお姫さんを抱いてみたかったんぜ。もう考えるぎりであそこがおっ立つぞな」
股間を両手で押さえる仕草をした男は、次の瞬間、ぐぇっと叫んで宙に高く浮いた。男は地面に落ちると、そのまま股間を押さえながら悶絶した。
他の男たちが一斉に振り返った。そこにいたのは進之丞だった。悶絶した男の後ろには、数名の男たちが声も出さないまま倒れていた。
「進さん! おいでてくれたんじゃね」
千鶴が喜びの声を上げると、近くにいた男たちが進之丞に襲いかかった。
進之丞は片っ端から男たちの腕をへし折り、顎や肋を打ち砕き、地面に叩きつけた。男たちへの遠慮は微塵も見られず、千鶴は進之丞が男たちを殺すのではないかとはらはらした。
孝平と弥七を押さえていた男たちが、長脇差で進之丞に斬りかかった。
進之丞は紙一重で刃をかいくぐると、目にも留まらぬ速さで男の一人を捕まえた。そして、もう一人が再び斬りかかって来た時に、その男を楯にした。
楯にされた男は肩をざっくり斬られ、斬った方の男は驚きうろたえた。すかさず進之丞は楯にした男を捨てて、もう一人の男の長脇差を握った右腕を左手でつかんだ。同時に右手は男の顔をつかんでいる。
男は悲鳴を上げて長脇差を落とした。進之丞につかまれた男の右腕は、ぐにゃりと曲がっている。進之丞は男の足を払い、倒れる男の頭を地面に打ちつけた。男は痙攣したあと動かなくなった。
初めは進之丞の登場に歓喜した花江も、あまりの凄惨さに言葉を失い、進之丞を見る目に怯えのいろを浮かべていた。
頭目の他に男たちは数名残っていたが、みんな戦意を喪失したようにうろたえている。
頭目は男たちを怒鳴りつけ、無理やり進之丞を襲わせた。しかし、へっぴり腰になった男たちなど進之丞の敵ではない。全員があっという間に打ち伏せられ、あるいは地面に叩きつけられた。
「動くな!」
頭目が叫んだ。みんなの目が進之丞に向いていた隙に、頭目は千鶴を捕まえていた。千鶴の喉元には小刀が当てられている。
「千鶴ちゃん!」
花江が叫ぶと、進之丞は男をにらんだまま、逃げろと花江に叫んだ。男たちにふさがれていた通路には、もう誰もいない。
進之丞から凄まじい殺気が発せられている。その殺気を恐れたのか、頭目は千鶴を人質にしながら、じりじりと墓所の土塀へと後ずさりした。
花江がもう一度千鶴を呼んだ。進之丞は頭目をにらみながら、後ろにいる花江に、逃げろと繰り返した。その命令口調の声はいつもの進之丞ではない、低くて凄味のある声になっている。千鶴から見えるその顔は、今にも鬼に変化しそうだ。
「進さん、いけん。落ち着いて!」
頭目に捕まりながら、千鶴は叫んだ。続けて花江に、お寺の人を呼んで来てと大声で頼んだ。
頭目は焦っているらしく、余計なことを言うなと千鶴に怒鳴った。だが、千鶴の言葉で花江は走って逃げ出した。花江を追いかけるように孝平も逃げ出すと、弥七もそのあとへ続こうとした。
途中、弥七は立ち止まって千鶴を振り返ったが、千鶴が警察を呼んでと叫ぶと、再び走りだした。
くそっ!――と頭目は逃げる弥七を見てから進之丞に目を戻すと、驚いて大きく目を見開いた。
進之丞の頭から角が生え、口からは牙がのぞいている。その顔はほとんど鬼になっており、体も膨らみ始めている。
「進さん、いけん! 変化したらいけん! 変化せいでも何とかできるじゃろ?」
千鶴が必死に叫ぶと、進之丞は二、三度首を大きく横に振り、気持ちを落ち着けるように目を閉じた。
「な、何ぞ、お前は? 化け物か?」
頭目の言葉に千鶴はかちんと来た。進之丞の姿に気を取られていたからか、小刀を持つ頭目の手が緩んでいた。千鶴はその手をつかんで小刀を喉元から外すと、思い切り噛みついた。気持ちは自分もがんごめになったつもりだった。
痛ててと頭目が怯んで小刀を落とした隙に、千鶴は進之丞の所へ逃げた。
千鶴が噛みついた頭目の腕から血が滲んでいる。千鶴は汚らわしさを吐き出すように、ぺっと唾を吐いてから頭目に言った。
「進さんは化け物なんぞやない。人間ぞな!」
「人間やと? そ、そいつは人間やない!」
「人間やないんは、あんたの方じゃ! この人でなし!」
元の姿に戻った進之丞は、頭目をじっとにらんだ。すると、頭目は呆けたようになった。
進之丞は頭目に近づくと、額に指を当てて言った。
「これは誰の差し金ぞ?」
頭目はぼんやりしたまま、つや子――と言った。
「つや子?」
進之丞は千鶴と顔を見交わした。また、つや子だ。
頭目に顔を戻すと、進之丞は再び訊ねた。
「なして、つや子がお前らに千鶴らを襲わせたんぞ?」
「ほれは知らん……。あしらは銭さえもろたら……、何でもする」
「つや子は今はどこにおるんぞ?」
「わからん……」
「ほうか、わかった。ほれじゃあ、今ここで見たことはすべて忘れて、警察で己の罪を洗いざらい白状せぃ」
頭目は目を閉じると、崩れるように倒れた。
六
花江が寺の住職や小僧たちを連れて戻って来た。大切な御廟所での惨状に、住職も小僧も言葉を失ったが、驚いたことに、住職たちの後ろには三津子がいた。
「あら? 千鶴ちゃんやないの。ほれに手代の兄やんも。なして、あなたたちがこがぁな所におるん? いったい、ここで何があったんね?」
驚いた様子の三津子は、倒れている男たちを踏みつけながら千鶴の所へ来た。
「なして、三津子さんがここにおいでるんぞな?」
千鶴が訊き返すと、三津子は大林寺を見学に来たついでに、向こうで住職と喋っていたと言った。
「ところで、この人ら何なん?」
三津子は自分が踏みつけた男たちを振り返り、眉をひそめた。
千鶴は答えるのを少し迷ったが、黙り続けるわけにもいかない。
「うちと花江さんをここへ連れ込んで、手籠めにしようとしたんぞな」
「千鶴ちゃんと女中さんを手籠めに? ここで? 嘘じゃろ?」
三津子は進之丞に、そうなのかと訊ねた。
進之丞はじっと三津子を見つめたままうなずいた。すると、んまぁ!――と三津子は驚きの声を上げた。
「ほれで、誰がこの人らをやっつけたん? ひょっとして、この兄やんが?」
改めて倒れている男たちを見たあと、三津子は進之丞に顔を向けた。しかし、進之丞は黙ったまま答えなかった。代わりに花江が、そうだよと言った。
「忠さんがたった一人でやっつけたんだよ。かなり荒っぽかったけど、これぐらいしなかったら、逆にこっちがやられてたよ」
花江は進之丞の戦いぶりに恐れをなした。だが少し冷静になった今は、進之丞の強さに敬意を払っていた。
進之丞が来てくれていなかったらと思うと、千鶴はぞっとした。きっと花江も同じ気持ちだろう。
「ちぃと待って。この兄やんがたった一人でやっつけたん? この人らを全部?」
三津子はまん丸に見開いた目で進之丞を見たあと、倒れている男たちを見まわしながら、ひぃ、ふぅ、みぃと数えた。
「嘘じゃろ? 十五人もおるぞな。しかも、何? この人ら刃物持ってたん?」
仲間に斬られて血まみれの男を見ても、三津子は平気な顔で喋り続けた。それを花江が指摘したら、元は看護婦じゃったけんねと三津子は楽しげに言った。
「こがぁな傷、しっかり押さえよったら大丈夫ぞな。ちぃとそこの小僧さんら。こっちへおいでてくんさらん?」
住職と一緒に立ちすくんでいる小僧たちに手招きした三津子は、斬られた男の傷をふさぐよう、しっかり手で押さえなさいと言った。
小僧たちは恐れをなしたが、言われたとおりにせよと住職に命じられると、二人の小僧が顔を背けながら男の傷を押さえた。
住職は千鶴たちの所へ来ると、何があったのか詳しい話を聞かせてほしいと言った。
しかし、孝平や弥七のことを千鶴は喋りたくなかった。花江も同じ気持ちだろう。二人で黙っていると、代わりに三津子がぺらぺらと説明をした。
話を聞いた住職は、どういう理由で千鶴たちが狙われたのかと訊ねた。三津子は答えられず、なしてなん?――と千鶴たちを振り返った。
「ほれは、うちらもわからんぞなもし。けんど、この人らの後ろには黒幕がおるらしいぞな」
「黒幕? 誰やのん、ほれは?」
三津子は眉間に皺を寄せた。
千鶴はつや子の名は出さずに頭目の男を指差して、この人が金をもらったと言っていたとだけ話した。頭目がつや子の名を喋るはずがなく、つや子の名を出すのはまずいと判断してのことだ。
「ほんなこと言うたん、この男!」
三津子は頭目をにらみ、この屑!――と言って頭を蹴飛ばした。
そこへ弥七が巡査を二名連れて戻って来た。
巡査たちは御廟所へ入るなり、うっと呻いて立ちすくんだ。それでもさすがは巡査で、すぐに我に返ると、一人が倒れている男たちの具合を確かめ始め、もう一人は真っ直ぐ千鶴たちの所へ来た。
その巡査がここで何があったのかと訊ねると、三津子がまた得意げに説明を始めた。しかし、三津子は住職と喋っていただけで事件とは関係がないとわかると、巡査は三津子に黙っているようにと強い口調で命じた。
巡査は改めて千鶴と花江から、男たちが千鶴たちを手籠めにしようとしたという話を聞いた。また、男たちの後ろに黒幕がいることや、進之丞が一人で男たちを倒して、千鶴たちを助けたことを確かめた。
しばらくすると数名の巡査が応援に駆けつけた。
その巡査たちも凄惨な現場に言葉を失っていたが、先にいた巡査に協力して、怪我の程度のひどい者たちを病院へ運ぶよう手配した。
だが、どの男たちも意識がないか朦朧としており、辛うじて意識があるものは苦しみ悶えていた。それで結局は、全員が病院へ運ばれることになった。
これだけの男たちを病院へ運ぶのは大仕事だ。巡査たちは寺の雨戸を運搬用の戸板として利用させてもらい、集まった野次馬たちに協力を仰いで男たちを運び始めた。
頭目には千鶴の噛み跡と、三津子が蹴飛ばした跡以外の傷はなかったが、巡査たちが起こそうとしても目を覚まさなかった。仕方なく、頭目も板に載せられて運ばれて行った。
そのあと、御廟所の西南の隅を調べた巡査が、御廟の陰から猿ぐつわを噛まされて、縛り上げられた男を見つけた。
住職は驚いて男に駆け寄ると、この御廟所の番人だと巡査に話した。
猿ぐつわを外されて縄を解かれた番人は、いきなり現れた男たちに刃物を突きつけられて縛られたと言った。しかし、番人は男たちについては何も知らなかった。
千鶴と花江は改めて話を聞きたいのでと、警察への同行を求められた。二人が了承すると、その巡査は進之丞に向き直って、あなたを喧嘩の当事者として逮捕しますと言った。
驚いた千鶴と花江は猛抗議したが、巡査は聞き入れてくれなかった。進之丞がおとなしく両手を後ろに回すと、巡査はその両手を縛ろうとした。
千鶴と花江は尚も抗議したが、三津子も怒りを露わにして巡査に食ってかかった。
三津子は進之丞を縛ろうとしていた巡査を押し倒し、逮捕する相手が違うと喚いた。それで三津子までもが逮捕されそうになった。
進之丞は三津子に頭を下げると、改めて巡査に両手を差し出し、捕まえるのは自分一人で十分だろうと言った。
巡査は改めて進之丞を逮捕し、三津子については厳重注意で済ますことになった。
三津子は目に涙を浮かべながら、唇をわなわなと震わせて、後ろ手に縛られる進之丞をじっと見つめていた。千鶴と花江もどうすることもできず、進之丞の横で泣くばかりだ。
行くぞと言って、巡査が進之丞を連行しようとすると、弥七が前に立ちはだかった。
弥七はこの事件を引き起こしたのは自分だと申し出て、自分も逮捕してほしいと巡査に訴えた。
どういうことかと巡査が訊ねると、弥七は自分と孝平がこの男たちを使って、千鶴と花江を手に入れようとしたと白状した。
巡査は改めて千鶴と花江に、そうなのかと確かめた。泣く二人は喋ることができないまま、黙ってうなずいた。
その巡査は別の巡査を呼ぶと、弥七を逮捕させた。そして、逃げた孝平を捕まえるよう他の巡査に指示をした。
大林寺を出ると、そこに多くの人だかりができていた。その中を後ろ手に縛られた進之丞と弥七が連行されて行く。その後ろを千鶴と花江は泣きながらついて行った。
集まった者たちの中には、当然千鶴たちが知る者もいた。何があったのかと声をかけられたが、説明などできなかった。
警察へ向かうのに、千鶴たちは紙屋町を通り抜けなければならなかった。
両脇の店々からは、馴染みの顔がいくつものぞいている。千鶴たちに声をかけた者もいるが、すぐに巡査たちに遠ざけられた。
山﨑機織の前を通る時、店に戻っていた甚右衛門とトミ、辰蔵と丁稚たちが、巡査につかみかからんばかりに飛び出して来て、千鶴たちを取り戻そうとした。けれど結局はみんな引き離されて、トミはその場に泣き崩れた。
甚右衛門は辰蔵に店を任せると、千鶴たちについて来た。しかし、警察に着くまで千鶴たちと喋ることは敵わず、甚右衛門もまた連行される一人のように見えた。
千鶴の隣では、花江が死にそうな顔で打ちしおれている。自分のついた嘘でこんなことになったと、責任を感じているのだろう。
弥七は項垂れたまま泣いている。だが進之丞は顔を真っ直ぐ上げて前を向いていた。考えているのは、つや子のことに違いない。
進之丞が逮捕されたのはまったくの理不尽であり、千鶴の胸は怒りと悲しみでいっぱいだった。一方で、千鶴はつや子のことが頭から離れず、今後のつや子の動きが気になっていた。
どうしてつや子はここまでのことをするのか。そこまで自分たちに恨みがあるというのか。だとすれば、これで終わりではなく、今後もつや子の企みは続くはずだ。
千鶴は不安と恐怖に襲われた。それはつや子を捕まえない限り終わらない。
歩いている間、道を通る者や、道の脇に家や店を持つ者たちが、好奇と侮蔑の目を向け続けている。その中には二百三高地の髷を結った女もたくさんいた。
客馬車で一緒になったつや子の顔を、千鶴ははっきりとは覚えていない。自分たちを眺める二百三高地の女を認めるたびに、もしやこの女がつや子ではなかろうかと、疑心暗鬼の気持ちにさせられる。
でも堂々としている進之丞を見ると、自分はその女房らしくいようと思った。見るなら見ろである。
千鶴は涙を拭くと、進之丞の隣に身を寄せた。進之丞を後ろから連行する巡査が、千鶴に離れるように命じたが、自分はこの人の女房だと千鶴は強く言い返した。そして進之丞と同じように顔を上げ、胸を張って歩いた。
自分たちは何も悪いことをしていないのだから、胸を張るのは当然だ。どこかで見ているつや子に、少しも堪えていないところを見せてやるのだ。
そんな千鶴を横目で見て、進之丞は微かに笑った。その笑みが千鶴にとっては何よりの励みであり誇りだ。
何があろうとも自分たちは一緒だという想いを強く胸に抱き、千鶴は進之丞とともに長い道のりを歩き続けた。