明治9年に、愛媛県師範学校は二番町に設立されました(下の写真)。
場所は東堀の向かいで、夏目漱石が赴任した松山中学の北隣です。
明治23年、愛媛県師範学校は城山の西に移転新築されましたが、その華麗な様相から、秦の始皇帝の宮殿に因んで、本館は「伊予の阿房宮」と呼ばれました。
師範学校の生徒には、毎月3円50銭を支給される校費生と、お金を支給されない私費生がいました。
校費生は寄宿舎に収容し、私費生は通学させることを原則で、退校することになった校費生は、支給されていた学資の全額を、退校後50日以内に返金することになっていました。
師範学校の東側には、道路を挟んだ城山の麓に、師範学校の附属小学校があります(上の地図)。
でも、師範学校がこの地に移って来た時には、この小学校はまだありませんでした。
附属小学校が建てられたのは、大正元年です。
上の地図を見るとわかるように、師範学校の西側の敷地に沿って、電車が走っています。
これは伊予鉄道に対抗して作られた松山電気軌道ですが、線路を敷く時に、師範学校の敷地の一部に線路を敷きたいと、学校に交渉をして来たそうです。
ちなみに松山電気軌道が開業したのは、明治44年のことです。
師範学校がまだ二番町にあった明治16年に、附属小学校は開校しました。当時、男子生徒15名、女子生徒7名だったそうです。
師範学校が城山の西に移転した時、附属小学校も一緒に移転して来たのですが、松山電気軌道に敷地の一部を提供して得たお金で、新たな小学校校舎を建築しました。
それが、師範学校の東側の城山の麓です。
ここには元々勝山女学校がありました。その勝山女学校が移転して、済美高等女学校及び済美女学校となったことで、この土地が空いたのですね。
そこへ松山電気軌道からのお金が入り、ここへ附属小学校の校舎を建てたわけです。
この附属小学校は、師範学校とは道路を隔てているため、道路の下に地下道を設け、そこを通って往き来ができるようになっていたと言います。
また、附属小学校の北側には、第二尋常小学校があり、二つの小学校の間には城山へ登る道がありました。
これらの小学校の子供たちは、よく裏の城山で遊んだそうです。
師範学校と小学校の間の道は今治街道です。
千鶴が風寄へ向かうために、客馬車乗り場まで走ったのもこの道で、忠之が千鶴と春子を乗せた人力車を、引っ張って来たのもこの道です。