紙屋町を含めた城山の北西から西側は、古町三十町と呼ばれ、明治まで松山の商業の中心地でした。
城山の南側は外側と呼ばれ、やはり商人が暮らしていましたが、明治に入ると商業の中心は、古町三十町から次第に外側へと移って行きました。
その理由の一つに、古町が江戸時代に受けていた租税免除などの優遇が、明治からはなくなったということが挙げられます。
また別の理由として、外側に拠点を置いた鉄道路線の開通があります。
明治21年に、松山と三津を結ぶ鉄道が開通されましたが、それを皮切りに、松山の南部や西部につながる鉄道が、次々に造られました。
各路線の共通した拠点となったのが、外側地区に造られた松山駅(現在は松山市駅)です。
このことが外側地区の発展に、大きく影響したのは間違いないでしょう。
商売の中心が外側へ移ることに、危機感を抱いた古町では、明治35年に西堀端に古町勧商場を開設し、大正6年には札ノ辻近くに大丸百貨店が建てられました。
勧商場とは、ショッピングセンターのようなもので、一ヶ所で日用雑貨や衣類などが、買えた所です。
運営は複数の商人の共同で、それぞれの商品を持ち寄って、陳列していました。
それまでは店舗に入ると、履き物を脱いで上にあがり、番頭さんに商品の希望を伝えると、店の奥から商品を持って来るという、座売り形式が一般的でした。
しかし勧商場では、履き物は履いたままで、そこに陳列されている商品を、いろいろ見ることができました。
また、掛け値なしの現金売りだったので、当時の人々にとっては、新鮮な商売のやり方に見えたそうです。
古町勧商場はお堀のある表の道から、裏の道へ通り抜けられるように造られていました。
明治35年には、外側地区にも勧商場が造られたので、勧商場による古町復活は、勢いを削がれたと思われます。
また、初めは大いに賑わった勧商場ですが、次第に粗悪な商品が並ぶようになり、客足は次第に遠のいたようです。
古町復活のために、古町勧商場に続いて、大丸百貨店が建てられたのですが、場所が古町勧商場の近くであったため、かえって古町勧商場には大打撃となったようです。
この大丸百貨店は木造4階建てで、一階は洋品、二階は呉服、三階は文具と化粧品、四階は食堂という造りになっていました。
買い物客は店の入り口で、スリッパに履き替え、その履物は下足番が預かったそうです。
脱いだ履き物は、すぐに出口へ回されて、お客が帰る時に戻されました。
この百貨店には、エレベーターが設置されていました。
日本初のエレベーターやエスカレーターを備えた、東京の三越本店が建てられのは、わずか三年前の大正3年でした。
そのことを考えると、松山の大丸百貨店は、かなりハイカラだったと言えます。
そのため、大丸百貨店は松山の名所になったのですが、結局は時代の流れに勝てず、10年後の昭和4年に閉店となりました。