「野菊のかんざし」は大正時代の松山が舞台です。
大正天皇は生誕時より病弱で、幾度も大病を患ったそうです。
1912年に明治天皇が崩御され、第123代天皇に即位しましたが、その翌年辺りから体調を崩して、公務や日常生活へ支障を来すようになったと言います。
そのため1921年に、長男の皇太子裕仁親王が20歳で摂政宮となり、大正天皇に代わって公務に就くようになりました。
結局、大正天皇は体調が回復しないまま、1926年に亡くなります。
大正天皇が崩御されると、摂政宮は昭和天皇に即位します。
まだ摂政宮であった大正11年11月に、四国で陸軍の特別大演習が行われ、その統監を行ったあと、地方視察ということで、摂政宮が松山を訪れることになりました。
久松家別邸の萬翠荘は、松山を訪れる摂政宮の宿泊先として、建設されたそうです。
愛媛を訪れた摂政宮は、三津浜から上陸し、オープンカーで萬翠荘に向かいます。
三津浜港では花火が上がり、沿道には10万人を越える人垣ができたと言います。
摂政宮は松山高等学校を訪問し、中等学校の生徒の絵画や書道作品を見たあと、奉迎運動会を観覧し、そのあとは愛媛県女子師範学校へ向かいます。
愛媛県女子師範学校では、生徒による薙刀の集団演武や合唱曲が披露されました。
千鶴もこの中にいたのですね。
その後、松山城へ登り、歩兵第二十二連隊本部を訪問し、道後公園で小学生や青年団によるマスゲームを観覧しました。
夜は高浜港から船に乗り、船の中で晩餐会が行われました。