黒船と言えば、嘉永6年(1853年)に来航した、アメリカのペリー艦隊が有名です。
しかし、それ以前にも貿易のために訪れていた、ポルトガルやオランダの船も黒船と呼ばれていました。
船が黒いのは、防水加工に使われた樹脂が黒かったからです。
ポルトガルやオランダの黒船と、ペリーの黒船の大きな違いは、前者が帆船であるのに対し、後者は蒸気船だったということです。
鎖国していた日本には、アメリカの黒船が来航して以来、西欧諸国が交易を求めてやって来るようになりました。
危機感を感じた武士たちは、各地に砲台を設置したお台場を建設します。
瀬戸内海沿岸にも、お台場は造られました。
松山でも安政2年(1855年)に、三津浜にお台場を築造したのを皮切りに、堀江方面の海岸近くに、いくつかの砲台が設置されました。
安政5年(1858年)に日米修好通商条約が締結されると、同年、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも、同様の修好通商条約が締結されました。
神奈川県の下田と北海道の箱館(函館)の2港が、西欧諸国に開港されていましたが、その後、下田は閉鎖となり、代わって横浜が開港しました。
また他に、新潟・長崎・兵庫(神戸)が開港しました。
ちなみに、ペリー艦隊はアメリカの黒船ですから、日本まで太平洋を横断して来たイメージが湧くと思います。
でも、当時のアメリカは東海岸が中心で、太平洋側である西海岸は、まだ船を出せる状態ではありませんでした。
ですから、ペリー艦隊は大西洋を渡り、アフリカの喜望峰を回って、インド洋を経由し、上海などに立ち寄ったあと、日本へ来たようです。
黒船が、日本海の新潟や九州の長崎から、神戸へ向かうとなれば、やはり瀬戸内海航路を通ることになります。
瀬戸内海に黒船が現れても、不思議ではありません。
そうは言っても、一般庶民にはとても珍しい船です。
伊予国沿岸部にも、時折黒船が停泊することがあり、人々を驚かせることがあったようです。
松山近辺では、安政6年(1859年)、オランダ船が北条沖を通過しています。
万延元年(1860年)には、三津浜のすぐ近くにある興居島に、異国船が来航しました。
文久元年(1861年)七月には、三津浜に異国船(ロシア船)が来航しました。
ただ、この船はイギリス船だった可能性もあります。
当時の三津浜は、松山の重要な玄関口でした。
そこに異国船が停泊するのは、松山の侍たちにとって、かなりの脅威であったに違いありません。
黒船が現れると、浜辺には多くの見物人が集まったようです。
しかし、すぐさま異国船見物禁止のお触れが出されて、見物に集まっていた人々は解散させられました。
それでもお触れが出る前に、小舟を出して黒船に近づいた者がいたと言います。
侍たちの慌てぶりに対する、好奇心に満ちた庶民の豪胆さが面白いですね。
三津浜に停泊した船は商船で、日本人の水先案内人が同乗していたそうです。
本来ならば、興居島の向こう側を通るつもりだったのが、潮の流れが悪かったため、島の手前の三津浜に立ち寄ったというのが、事実であったようです。
結局、黒船は三津浜周辺の海を測量した後、三津浜を去りました。
江戸幕府からは、異国人を上陸させないこと、鉄砲を撃たれたら砲撃するように、との指示が出ていました。
そして、三津浜にはお台場がありました。
万が一のことを想定して、侍の役人たちは肝を冷やしたことでしょう。
下の写真は下関戦争で、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国に、長州藩が砲撃を加えたために、返り討ちにあってしまったものです。
三津浜の砂浜に設置された砲台も、恐らくこのような感じだったと思います。
そして、沖に停泊する黒船を砲撃していれば、これと同じようになっていたかもしれません。
この年の十月には、風早の浅海本谷村にイギリスの測量船が着岸して、乗組員が上陸するという事件もありました。
これも大事にはなりませんでしたが、知らせを受けた役人は、大いに肝を冷やしたことと思います。