攘夷論は幕末期に広まった、異国との通商反対や、異国を撃退して鎖国をしようとする思想のことです。
その根本には、異国に対する不信感と恐怖感があるのでしょう。
それに加えて、日本より優れた異国の品や思想が広がることで、支配者である侍の権威が失墜するのではないかという、不安があったのではないかと思います。
ペリー率いるアメリカの黒船艦隊が来港したことは、武家社会を不安に陥れ、攘夷論が広がるきっかけとなりました。
そして、鎖国政策を取っていたはずの幕府が、アメリカの圧力に屈した形で、安政5年(1858年)に日米修好通商条約を締結すると、攘夷論にますます火がつきました。
と言うのは、この条約はアメリカに一方的に有利な、不平等条約だからです。
日本との交易において、アメリカがどこの国よりも不利益にならないことを約束する、最恵国待遇のほか、裁判権や関税を決める権利が日本にないという内容の条約でした。
しかも、こんな大事な条約を、天皇の許可をもらわないまま、幕府が勝手に結んでしまったのが問題でした。
アメリカが日本と条約を結ぶと、同じ年に、オランダ・ロシア・イギリス・フランスが、アメリカと同じ内容の条約を結ぶよう幕府に迫り、幕府はこれを了承します。
つまり、日本は五つの西欧諸国と、同じ不平等条約を結んだわけです。
これは攘夷論者が危惧する展開であり、このままでは日本が西欧諸国に乗っ取られてしまうという、危機感が攘夷論者を襲ったのです。
その結果、文久2年(1863年)に薩摩とイギリスとの戦い(薩英戦争)が起こり、文久3年と4年には、長州とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との戦い(下関戦争)が、二度に渡って起こりました。
ところで、異国に対する松山の立場ですが、松山を治めていた久松松平家は、徳川家の親戚筋です。
松山は親藩であり幕府側なので、攘夷を掲げてはいません。
また、幕府の指示には逆らえません。
攘夷論を掲げる長州を征伐するようにという、幕府からの指示があると素直に従って、二度の長州征伐へ向かいました。
もちろん、松山の武士たちの中にも、攘夷論者はいたかもしれません。
しかし、久松松平家としては、攘夷論を抑える立場にあるわけです。
家来としては、自分の思いはどうあれ、お殿さまの意向に従うのが武士です。
現実には、お殿さまに逆らってまで、攘夷論に走った者の記録はありません。
でも、一人一人の心のうちはわかりません。
異国船の乗組員たちが、松山の領土を不法に占拠するようなことがあれば、命懸けで戦う覚悟はしていたでしょう。
三津浜には砲台を設置したお台場がありますが、これも万が一の時の準備です。
攘夷論者を抑えながらも、異国の者たちに対する警戒は、常に持ち続けていたと言えるでしょう。
そもそも徳川幕府は、文政8年(1825年)に異国船打払令を出していたのです。
日本沿岸に接近する異国船は、見つけ次第に砲撃して追い払えという命令です。
これは、まさに攘夷そのものです。
西欧諸国との交易を認めた幕府も、それは渋々であり、本音は攘夷にあったのではないかと思います。