バラックのすぐ北には、御幸山があります。
上の写真が御幸山ですが、この山の左端の辺りに、ロシア人墓地が作られました。
バラックから北に出て、丘を登った所です。
そこは瀬戸内海から城山、バラックへと見渡すことができる、とても眺めのよい高台でした。
上の地図は昭和2年のものです。
この年にバラックの北を通っていた、古町から道後へ向かう路線が廃線となり、代わりにバラックの南を通って、城山の南へ回る路線が作られました。
地図に描かれた線路は、その新しい路線のものです。
ミハイルとスタニスラフが松山を訪れた大正14年には、まだ古町からバラックの北を通って、道後へ向かう路線が残っていました。
地図に書かれた「千秋寺停車場」はその路線の駅で、千鶴たちはここで電車を降りて、ロシア人墓地へ向かいました。
亡くなったロシア兵は98名だそうですが、その中で唯一将校だった者がいます。
ボイスマン大佐です。
やはり将校ですから、ボイスマン大佐の葬儀は盛大に執り行われ、日本人も多く参列しました。
参列者数は600人を超え、葬列の長さは650メートルもあったそうです。
木製の墓は次第に朽ちて行きます。
それで日露戦争後に陸軍省が、木製の墓を石の墓に建て直しました。
日露戦争が終わると、捕虜兵たちは自由の身になってロシアへ帰国します。
役目を終えたバラックは解体されて、元の城北練兵場に戻されました。
千秋寺停車場から幸子とミハイルが眺めた城北練兵場は、下の写真のようなものでした。
それでも二人の脳裏には、当時のバラックが浮かんでいたことでしょう。
ちなみに、その後のロシア人墓地は次第に忘れ去られ、麓の土砂を建築業者が採取したため、墓地が崩れる危険性が高まりました。
そのため、元の場所よりも北西に100メートルほど入り込んだ場所に移されました。
それが現在のロシア人墓地です。
そこはもう以前のように眺めのいい所ではありません。
以前のロシア人墓地は、松山大学御幸キャンパズのプールの辺りだそうです。