神輿の宮出しを迎えるため、朝の暗いうちから、たくさんのダンジリの屋台が、村々(今は町です)を練り歩き、神社前に集結します。
ダンジリの屋根は、無数の小さな日の丸をつけた笹で飾られ、それが提灯の明かりで、闇の中に浮かび上がります。
ダンジリは半鐘と太鼓を叩くのですが、その様子が火事のようなので、火事祭りと呼ばれています。
でも火事祭りと呼ばれる本当の由来は、国津比古命神社のご祭神である「天照国照日子天火明櫛玉饒速日尊」の神名だとか。
国津比古命神社のすぐ隣には、櫛玉比賣命神社があります。
二つの神社の神さまは、夫婦なのです。
宮出しは双方の神社から、神輿が二体ずつ出されるのですが、宮出し前夜には、櫛玉比賣命神社の神さまが、この地域の庄屋であった門田家を、お忍びで訪れます。
これを神事「宵の明星」と呼ぶのですが、櫛玉比賣命神社から一台の神輿が、掛け声もなく静かに現れ、門田家まで渡御するのです。
これは女の神さまが、人々の幸せを祈るもので、この神輿が現れると、それまで賑やかにしていた、だんじりの屋台も静かになって、神事を見守ります。
宮出し当日、村々を渡御した神輿が、神社に戻って来ると、国津比古命神社の39段ある石段の上から、投げ落とされます。
これは神輿が壊れるまで、何度も繰り返されます。
神輿が壊れて、中の御神体が現れると、男たちがそれを奪い合います。
しかし昭和30年代までは、壊れた神輿から御神体が出て来ると、男たちはその場から離れ、神職が御神体を拾い上げて、本殿に納めていたと言います。
この神輿の投げ落としは、四体の神輿全てで行われます。
何故、神輿を壊すのかというと、一度神さまにお供えした物は、二度は使わないためで、翌年の神輿は、また新たに造り直すのです。
ちなみに風早のだんじりが始まったのは、江戸時代末期の頃だそうです。
北条の町は、明星川を境にして、北が北条町、南が辻町と呼ばれていました。
この二つの町のだんじりを、国津比古命神社近くの大庄屋(門田家のことでしょう)まで、縄で引いて運んだそうですが、その時は、芸者総出で道踊りをするのが、習わしだったそうです。
それが、ある年、北条町がだんじりに、かき棒をつけ、鐘と太鼓を乗せて担いで行ったらしいのですが、それが今のだんじりの元となったようです。