今治街道の堀江と北条の間には、海岸に突き出した丘陵地があります。
明治時代、堀江村がある地域は和気郡と呼ばれ、北条がある地域は風早郡と呼ばれていました。
この丘陵地は、和気郡と風早郡を分ける形でありました。
遍路道も兼ねた今治街道は、かつてはこの丘陵地を乗り越えていました。
海抜50メートルほどある丘陵地なので、急な坂の山道となり、粟井坂と呼ばれていました。
粟井坂は、この辺りの難所の一つで、遥か昔の戦国時代の頃、峠の辺りには関所があったそうです。
つまり、丘陵地の向こうへ行くには、この道を行くよりほか、なかったということです。
かつての今治街道は、和気郡から上の写真の「大谷口バス停」辺りまでは、海沿いを通っていたようです。
しかし、ここからは丘陵地を登る道になり、峠を越えた後、「粟井坂大師堂」の辺りへ出たと言います。
粟井坂を通るのは大変だったので、明治時代、粟井坂の北側、風早郡小川村の里正、大森盛寿氏が立ち上がります。
里正というのは、庄屋のような役割で、里正という呼び名を使うのか、庄屋という言い方をしたのかは、地方によって様々だそうです。
当時の大森氏は、風早郡副長でもありました。
大森氏は、峠を越えるのではなく、海側に迂回路を造ることを思い立ちます。
でも結局、迂回路の案は、上司に受け入れてもらえませんでした(恐らく費用の問題だったのでしょう)。
そこで大森盛寿氏は、建設資金を蓄えることを決めます。
そして数年後、資金を用意できた大森盛寿氏は、あらためて新道建設を申請します。
すると今度は、新道建設の承認が下り、県から補助金まで出してもらえることになりました。
こうして明治13年4月、ついに新道工事は着工となり、同年7月に道路は完成しました。
それが今も利用されている、海沿いの道なのです。
この時の工事に携わった者は、延べ人数で 5,079名だそうです。
とても大変な工事だったことが、わかると思いますが、その工事を実現させた大森盛寿氏は、本当にすごい人だと思いました。
ちなみに、この旧道である粟井坂の道は、今は通る人がありません。
粟井坂大師堂の方からは、まだ関所跡の辺りへ登ることができますが、大谷口バス停からの登り道は、もう通れる状態にはないそうです。