明治37年(1904年)2月、日露戦争が開戦されました。
朝鮮半島と、中国の満州の権益争いが理由ですが、現地の中国や朝鮮の人々にとっては、迷惑な話だったと思います。
それはさておき、開戦してから37日後に、最初の捕虜収容所が、松山に開設されました。
収容所の場所として、松山が選ばれたのは、四国という島にあること、気候が温暖であること、大陸からの捕虜の移送に便利なこと(松山は瀬戸内海にありますが、下関を越えると、すぐに大陸です)、歩兵第22連隊の駐屯地であること、などが理由だったそうです。
日露戦争が開戦される少し前の明治32年(1899年)、オランダのハーグで結ばれた国際条約に、日本は調印しました。
この条約で、日本は捕虜を人道的に扱うことを、国際的に約束したのです。
日露戦争は、この条約締結後の初めての戦争でした。
松山での捕虜の取り扱いには、世界中が注目していたわけです。
そのため、今では考えられないような扱いで、捕虜を厚遇し、松山市民にも捕虜を侮辱することのないよう、指導が為されたと言います。
どんな厚遇が為されたかと言うと、たとえば監視人付ではありましたが、町を自由に散策し、買い物や食事ができました。
松山には道後温泉がありますが、捕虜兵たちは温泉を貸し切って、楽しむことができました。
松山の学校見学や、文化体験などのツアーが組まれました。
将校の中には、収容所を出て一軒家を借り、ロシアから訪ねて来た家族と、一緒に暮らす者もいました。
どうですか。
今だったら信じられない扱いでしょう?
これらの事に加え、傷病兵に対する献身的な看護婦たちも、ロシア兵たちの心を大きく癒やしたと言います。
ロシア兵たちは看護婦たちに心を開き、中には恋心を抱く者もいたようです。
松山はロシア兵たちを、人道的に扱ったと胸を張りたくなりますが、実際には、全ての捕虜を平等に扱ったわけではありません。
厚遇されていたのは、主に将校という階級がある者たちだけでした。
下士卒と呼ばれる単なる兵士たちは、将校たちほどの自由が保証されていたわけではありませんでした。
また、将校たちは国から多額の送金を受けられたので、町に出て贅沢を楽しむことができました。
しかし、兵士たちにはそんなお金はありませんでした。
それに、いくら自由を与えられているとは言っても、所詮は捕虜であり、監視下における自由です。
国に帰りたくても帰れません。
また、全員が一軒家をあてがわれたわけではなく、ほとんどの者たちは、収容所になった市内の寺で狭苦しい生活を強いられるか、病院のベッドで寝ているかでした。
それでもロシア兵の中には、一般の人々との交流を通し、本来であれば、互いに血を流させる必要のない国民同士が、どうして戦うことになったのかと、両国の指導者たちへの疑念を持つ者もいたそうです。
このことから、一般人同士の交流がいかに大切かということを、切に感じさせられます。
ちなみに、戦争が終結するまでに、松山で収容したロシア兵は、最大で4千人前後、延べで6千人ほどだそうです。
初めに松山に、捕虜を収容することを考えられた時、 陸軍が想定していたのは、1500名だったと言います。
ところが実際は、それを遥かに上回る捕虜兵が、松山へ移送されて来たのでした。
列車に乗れる人数は限られていますので、将校と傷病人が列車に乗り、他のロシア兵たちは線路に沿って歩かされました。
当時の松山の人口は、約32,500でした。
世帯数は、約8,500です。
この数と比べると、捕虜兵が最大で4千人いたということが、いろんな意味で大変なことだったというのが、わかると思います。
①大林寺 ②衛戍(えいじゅ)病院 ③勧善社 ④公会堂 ⑤法龍寺
⑥妙清寺 ⑦雲祥寺 ⑧バラック(仮設病室) ⑨正宗寺
⑩一番町収容所(大林区署。今の営林署) ⑪妙圓寺 ⑫出淵町収容所(木村屋敷)
⑬雄郡収容所(伝染病院)
⑭山越第一収容所(弘願寺・不退寺・長建寺・法華寺の四つの寺)
⑮山越第二収容所(浄福寺・来迎寺・龍穏寺・天徳寺の四つの寺)