日本で初めて乗合馬車が開業したのは、明治2年(1869年)の横浜~東京間です。
愛媛では明治33年(1900年)に、松山と今治を結ぶ今治街道の途中、松山~北条 間に開業されたのが、初めての乗合馬車でした。
北条の発着所は、北条の中心となる辻町という所にありました。
大正時代の初め頃には、途中の堀江という所にも駅ができました。
物語で千鶴が乗っている馬車は、まさにこの松山~北条間の乗合馬車なのです。
ただし、物語では北条ではなく、北城町という架空の町になっています。
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松山の乗合馬車の発着所は、現在の木屋町4丁目と御幸町の境目辺りにあったようです。
そこは山越山手と呼ばれる川の土手で、明治から大正にかけて、乗合馬車や荷車の溜まり場になっていたそうです。
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木屋町4丁目は、かつては山越村と呼ばれた所で、明治22年に隣接する祝谷村と姫原村と一つになって、御幸村となりました。
しかし、大正15年に御幸村は松山市に編入され、その一部が木屋町となったわけです。
そのためだと思いますが、記録文書では松山における乗合馬車の発着所を、木屋町と記載したり、山越と記載したりとまちまちでした。
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乗合馬車の発着時間は決まっておらず、客の状況に合わせて運行していました。
それで山越山手(木屋町口)に到着すると、馬車の御者は南の集落へ向かって、ラッパをプーッと吹いて、馬車の到着を知らせたそうです。
馬車を降りる時は、好きな所で下車させてくれたようです。
今と違って、のんびりした感じがありますよね。
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馬車は木造で、 屋根から下に青い幕を、張りめぐらせていたそうです。
おそらく、日除けや雨除けだったのでしょう。
客車は六人乗りで、乗客は左右の長いシートに、三人ずつ座ったようです。
馬車への乗り降りは、一番後ろの部分からしていました。
馬車は一頭の馬に引かせ、御者が馬に指示を出していました。
御者はラッパを持ち、先に述べたように、出発や到着などの合図は、ラッパで行っていました。
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堀江から少し行くと、前方を小さな山が道をふさぐように突き出ている所があります。
今はこの山に沿って道路が走っていますが、かつてはここはすぐ海になっていて、通ることができませんでした。
山の向こうへ行くためには、この山を登って超えなければなりません。
この山が粟井坂と呼ばれる所で、難所と言われた所です。
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海沿いの道ができるまでは、この粟井坂を通るしかなかったようですが、この道では客馬車や乗合自動車は通ることができなかったでしょう。
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千鶴たちが乗った客馬車は、粟井坂は通らずに海沿いの道を通って、この大師堂の所へ出て来ます。
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途中の柳原という所で、鳥打ち帽をかぶった男が客馬車を降ります。
ここは客馬車の駅ではありませんが、好きな所で下ろしてもらえました。
この辺りは、在町として栄えた所です。
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運賃は明治のうちは、北条~松山間は18銭でしたが、大正になると、36銭にまで値上げになったそうです。
乗合馬車は初めて開業されて以来、県内のあちこちで、うなぎ登りに数を増やして行きました。
しかし、国有鉄道(現在のJR)讃予線(現在の予讃線)が香川から延びて来ると、それに合わせて、次第に数が減って行きました。
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北条まで国有鉄道が伸びて来たのが、大正15年です。
その後、国有鉄道は昭和2年に、北条~松山間を開通させました。
これによって北条~松山の乗合馬車は、その役割を終えて姿を消すことになりました。
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ちなみに春子の故郷である名波村は、北城町の北を流れる立岩川を渡った所にあります。
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