庚申庵というのは、寛政12年(1800年)に伊予の俳人・栗田樗堂が、残された人生を俳句一筋で生きようと思って建てた庵です。
栗田樗堂、52歳の時のことです。
もちろん経済力がなければ、このようなことはできません。
栗田樗堂は酒造業を営み、町役の大年寄も担っていた町の有力者でもあったようです。
庚申庵という名前の由来は、寛政12年が干支でいう庚申であったことと、古庚申と呼ばれる青面金剛の祠が、近くにあったのに因んだとされています。
道教では、人間の頭と腹と足に三尸という3種類の虫が棲み、常にその人間の行動を監視していると言います。
60日に一度訪れる庚申の日の夜、その人間が眠っている間に、三尸虫はその人間の体を抜け出して、天帝にその悪事を告げ口するそうです。
三尸虫から悪事を聞かされた天帝は、その人間の寿命を短くするそうなので、身に覚えがある人は、三尸虫の告げ口を恐れます。
それで、庚申の日の夜は三尸虫が抜け出せないよう、眠らないでみんなで集まり、酒盛りなどをしながら夜を明かすという風習がありました。
その風習は庚申待と呼ばれています。
青面金剛は青い顔をした金剛童子で、三尸虫を押さえる力があると言われています。
そのため庚申待の夜に、青面金剛が祀られていたそうです。
縁側から藤棚や庭園を眺めることができます。
庚申庵が創られた時の図面が上です。
この時の庚申庵は、句会を楽しむための場所ですので、便所も台所もありません。
上の図は、のちに住めるように改築された庚申庵の図面です。
井上教諭がここに住んだ大正14年には、まだここまで改築はされていなかったかもしれませんが、物語の中では改築されたことにしています。
現在の庚申庵は、創建当時の姿に戻されていますが、井上教諭が暮らした時には、上の図面のような状態でした。
ちなみに現在の庚申庵の敷地は、立派な壁で遮られていますが、当時の庚申庵は、田んぼの一画を笹垣で囲った形で建てられていたそうです。