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松山城 その1

標高132メートルの勝山かつやま山頂に築かれた松山城は、市内のどこからでも眺めることができる松山のシンボルです。

松山城は慶弔7年(1602年)に、加藤嘉明の命によって築城が開始されました。

松山の南に重信川という川がありますが、この川より南は伊予郡松前町まさきちょうです。
かつてこの松前町の浜辺近くに、松前城というお城がありました。

元々は戦国時代に伊予国を支配していた河野氏の拠点だった城ですが、のちに豊臣氏と徳川氏が争い始めた頃には、徳川方についていた加藤嘉明かとうよしあきが城主でした。

※加藤嘉明

関ヶ原の戦いで功を成した加藤嘉明は、その武功によって10万石の領地を、20万石に倍増してもらいました。

そこで加藤嘉明は20万石に相応しい城を、新たに築城することにしました。
それが松山城の始まりです。

当時の松山城は五層の天守閣だったそうですが、その後、城主が代わり、寛永十九年(1642年)に松平定行が天守閣を三層に造り変えました。

五層を三層に変えたのは、地盤が悪かったからと言われていますが、五層では幕府に対して畏れ多いため、三層にしたという話もあります。
つまり、幕府から目をつけられないように造り直したということですね。

この松山城ですが、山の麓に二ノ丸(城主の館があった所)と三ノ丸(武家屋敷があった所)があり、山頂は全体が本丸ほんまる(天守閣のある所)となっています。

本丸は敵に攻め込まれた時の、最後の砦になる所なので、本丸に行き着くまでにはいくつかの門を潜らなければなりません。

また松山城の本丸には、さらに本壇ほんだんという高い石垣に囲まれた砦があり、天守閣はその中心に据えられています。

本丸に入っても、本壇へ入らなければ城は攻略できません。
しかし、この本壇へ入って大天守に行き着くまでに、いくつもの門を潜らなければならず、その間に上から弓や鉄砲などで攻撃されれば、なかなか城を落とすことはできないでしょう。

※松山城本丸内にある本壇

ちなみに千鶴と井上教諭、それに甚右衛門が城山に登ったのは、師範学校の近くにある古町口登城道です。

ここから本丸へ入るまでにある門は、本丸にある乾門いぬいもんだけで、南側から登る道と比べると障害になる門は、ないに等しい状態です。

本当は乾門の外側に、乾一ノ門という門があったのですが、明治時代に取り壊されて、大正時代には乾門だけとなりました。

同じように明治時代に取り壊されたものに、本壇北側の中仕切門と本壇東のうしとら門があります。
これらの門の内、艮門だけが昭和59年に復元されました。

乾門に乾一ノ門を加えても、古町口登城道には二つの門しかありません。
それは古町口登城道があとから造られたもので、江戸時代には存在しなかった道だからです。

古町口登城道が造られたのは、明治43年に本丸が松山公園として、市民に開放された時です。
県庁裏から城山へ登る道も、この時に一緒に造られました。

乾門を通って本丸の外へ出た場合、本来の道は城山の麓までは続いておらず、本丸周辺を廻る道や、城山の北を護る北曲輪くるわとつながる道があるだけでした。

北曲輪には出入りする門があり、北曲輪からの登城道はあったのですね。

※松山城北曲輪

明治時代には北曲輪は監獄として使われていました。

大正10年には第六尋常小学校が建設され、北曲輪の櫓は取り壊されてしまいました。

千鶴たちが暮らした大正時代には、北曲輪からの登城道は使われなくなっており、紙屋町から一番近い登城道としては、古町登城道が利用されました。

下の写真は、古町登城道入り口です。

街灯などありませんので、夜だと真っ暗でほとんど何も見えなかったでしょう。

昼間に登れば20分程度ですが、提灯一つで登った千鶴と井上教諭は、恐らく1時間近くかかったと思われます。

足場がいいのは初めだけです。
後半は土がむき出しの道になっています。

でも、がんばって登って行くと、やがて本丸にたどり着きます。
下の写真は本丸の西を護る乾櫓です。

乾櫓の石垣を右に回ると……

乾門が現れます。
写真の正面が乾門で、その脇にあるのは乾門東続櫓です。
写真左端に乾櫓が写っています。
写真右端に見えているのは、本丸内にある南隅櫓です。

乾門に到着しました。
本丸へ入るには、門を潜って右の坂を登ります。

乾門から本丸へ入った時に、目に入る光景です。
この高い石垣と櫓で構成されているのが、大天守がある本壇です。
この位置からは大天守は見えません。
ここに見えているのは、左端の北隅櫓と右端の南隅櫓、それと二つの櫓の間にある多聞たもん櫓です。
多聞櫓は中が通路にもなっていて、十間廊下じっけんろうかとも呼ばれています。