野菊のかんざし
一
「いろいろお世話になりましたぞなもし」
甚右衛門たちは和尚夫婦に何度も礼を述べた。これから土佐へ向かうのだが、その前に松山の組合長を訪ねる予定になっている。千鶴とスタニスラフの婚礼の準備をするのだ。
知念和尚と安子は何か言いたげだった。だが結局、二人は何も言えずに微笑んだ。
甚右衛門は和尚夫婦が千鶴たちのことで気遣ってくれていると受け止めたらしい。もう気持ちの整理は済んだから大丈夫だと笑顔で言った。
和尚と安子は笑みを返したが、そういうことではないと言いたそうでもあった。
甚右衛門は気持ちの整理がついたと言ったが、それは千鶴を嫁に出すことで整理をつけただけのことである。スタニスラフのことを認めたわけではない。それがわかっているから、スタニスラフは千鶴と一緒に少し離れた所に立っていた。
本堂脇には大きな楠が生えている。幸子は千鶴をスタニスラフから引き離して、その楠の陰に引っ張って行くと、本当にこれでいいのかと真剣な顔で訊ねた。
千鶴は黙ってうなずいた。もう後戻りはできないのだし、自分にはスタニスラフしかいないのである。
トミも千鶴の所へ来ると、やめるのなら今のうちだと言った。
千鶴は笑顔で母たちに心配してくれたことを感謝した。それでもやめるとは言わなかった。そこへスタニスラフが来たので、幸子もトミも千鶴から離れた。
忠之は千鶴たちとは別の所で、伝蔵の肩を借りて立っていた。
甚右衛門たちは忠之の傍へ行くと、伝蔵に何度も礼を述べ、忠之に別れの挨拶をした。
甚右衛門は忠之の手を握ると、残念そうに言った。
「お前さんを一緒に連れて行きたいけんど、わしらも土佐のことは知らんけんな。恐らく苦労させてしまうじゃろけん、今はここにおった方がよかろ」
忠之はまだ一人では歩けない状態なのだから、土佐へなど行けるわけがない。それでも一緒に連れて行きたいというのは甚右衛門の本音のようだった。
自分みたいな者にはもったいないお言葉ぞなもし――と忠之は涙を浮かべた。甚右衛門は忠之を抱き寄せると、そげなことは言うなと言って泣いた。
トミも涙ぐみながら忠之の両手を握って言った。
「あんたのことは死んでも忘れんけんね。何があってもへこたれたりせんで、しっかり前向いて生きて行くんよ。ええな?」
ありがとうございますと頭を下げながら、忠之は泣いた。
幸子は忠之と進之丞が同じに見えたのだろう。何も言えずに忠之を抱きしめたまま、わんわんと泣いた。忠之も幸子に抱かれたまま黙って涙を流している。
幸子が涙を拭きながら離れると、忠之は三人に言った。
「おらなんかのために、こがぁにようしてもろたこと、おら、一生忘れません。おら、おとっつぁんもおっかさんもおらんなってしもたけんど、みなさんが家族みたいにしてくんさったけん、まっこと嬉しかった……。旦那さんも、おかみさんも、幸子さんも、いつまでもお元気で」
「なして、わしらをそがぁ呼ぶんぞな?」
驚く甚右衛門たちに、千鶴さんに教えてもらいましたと忠之は言った。
「おら、この二年のこと、何も覚えとらんけんど、その間、どがぁにみなさんのお世話になっとったかを、千鶴さんから聞かせてもらいました。そのことも含めまして、みなさん、今までまことにありがとうございました」
甚右衛門たちの目にみるみる涙があふれた。三人は何も言えずに泣きながら、改めて忠之の手を握ったり抱きしめたりした。
知念和尚も安子も泣いている。忠之を支えている伝蔵も、目を潤ませて鼻をすすり上げていた。
千鶴は忠之が山﨑機織にいたことを忘れていたという話に驚いた。大怪我をしたのは知っているが、そのことが原因で全部を忘れたのだろうか。
しかし、ここに何日もいたはずなのに、そのことを今まで自分が知らなかったのは奇妙なことだった。それに、いつ自分が忠之に店の話をしたのかもわからない。
そもそも山﨑機織に忠之がいたことを自分自身が覚えていないし、どうして店がだめになったのかも知らなかった。これでは忠之と同じであり、何だか妙な気分だった。
それはさておき、千鶴もみんなの所へ行きたかった。だが、スタニスラフがそれを許してくれなかった。甚右衛門たちと忠之の別れの挨拶に、千鶴は関係ないと言うのである。
昨夜、スタニスラフは千鶴の寝床へ忍び込んだ。しかし、まだ祝言を挙げたわけではないし、ここはお世話になっているお寺である。それで千鶴は怒り狂い、昨日はあれだけ嬉しかったスタニスラフとの結婚が、少し興醒めしたように思えている。
それでも夫になる相手を怒り過ぎただろうかと、千鶴は少し反省気分だった。それで気持ちを抑えてスタニスラフに従っているのだが、千鶴はまだ山﨑家の者であり、目の前にいるのは家族である。その中に入らせてもらえないというのは、やはり不満だった。
思えば、スタニスラフは何でも自分の好きなようにしたいのだ。それで他の人間がどんな気持ちになるのかなんて考えることがない。昨夜の一件にしても、そういうことだ。
スタニスラフが行く当てのない自分を迎えに来てくれたことには、千鶴は感謝していた。それでも、そのことで自分の考えばかりを主張して、家族や和尚夫婦に迷惑をかけたことには困惑した。
お陰で家族との間に亀裂が入るところだったが、祖父が折れて二人の結婚を認めてくれたのだ。感謝の気持ちがあるならば、家族の邪魔をしないで欲しいと千鶴は思っていた。
ただ、祖父たちの相手が忠之であるのも、千鶴を近づけさせたくない理由だろう。
スタニスラフは信じられないほどのやきもち焼きだ。結婚が決まったのもあるがろうが、千鶴は自分だけのものだと言わんばかりで、たとえ相手が家族であっても、自分を差し置いて千鶴と一緒にいることを認めようとしない。相手が忠之であれば尚更だ。
忠之がスタニスラフに嫌な態度を見せたことはないし、まだ弱った体で周囲の助けが必要な状態だ。それなのにスタニスラフは忠之に対して敵意を剥き出しにして、憎んでいるかと思うほどの形相を見せる。と言うより、恐らく憎んでいるに違いない。
そんなスタニスラフを見るにつけ、千鶴の気持ちは冷めて行くのだが、自分にはスタニスラフしかいないというあきらめが、千鶴を従順にさせていた。
不満を抱きながらも、千鶴は互いに別れを惜しむ家族と忠之を離れた所から眺めていた。すると、何だか前にもどこかで同じ光景を見たことがあるような気がした。
千鶴は唐突に進之丞のことを思い出した。祖父が山﨑機織を畳んだ時に、進之丞は祖父たちに頭を下げて、千鶴が欲しいと頼んだのだ。それに対して祖父たちも泣きながら、千鶴をよろしく頼むと言ったのである。
悲しみが込み上げて呆然と立ち尽くす千鶴の肩を、スタニスラフが優しく抱いた。千鶴は思わずスタニスラフから逃げると、忠之の傍へ駆け寄った。
忠之は千鶴を見ると、涙を拭いて微笑んだ。しかし、その微笑みの向こうには悲しみが隠れている。それはいつも進之丞が見せていた微笑みだ。本当の想いを伝えることができず、黙って千鶴を支え続けてくれていた進之丞の微笑みだった。
「進さん」
千鶴が声をかけても、忠之は返事をしてくれなかった。千鶴が自分を進之丞と勘違いしているとわかっているからか、否定はしなかったが、微笑むばかりで何も言ってくれなかった。
千鶴とスタニスラフは甚右衛門たちを北城町にある乗合自動車の乗り場まで見送った。その間、スタニスラフはむすっとしていた。
甚右衛門たちはスタニスラフを認めていない。千鶴と一緒になることは許しても、それとこれとは別だった。
三人は忠之と涙の別れはしても、スタニスラフに笑顔を見せることはなかった。また千鶴の幸せを願っても、スタニスラフに祝福の言葉をかけることはなかった。
そんな感じだから、スタニスラフは甚右衛門たちを見送りたくなかったに違いない。それでも千鶴が見送りに行くと言うので、嫌々ついて来たのだ。嫌なら来なければいいのだが、一応は祝言を挙げてもらう立場だし、千鶴が目に届く所にいたかったようだ。
甚右衛門たちが乗合自動車に乗り込んで風寄を去ると、スタニスラフはようやく明るさを取り戻した。
一方で千鶴は気持ちが沈んでいた。それは家族と別れたからではない。前世の自分がふと顔を見せたために、忘れていた進之丞の記憶が鮮明に思い起こされたからだ。
その大切な記憶が再び色褪せて行こうとしている。それがわかっていても、その記憶をつなぎ止めておけないことが、千鶴は悔しくて悲しかった。
千鶴はスタニスラフとの結婚を取り止めるつもりだったことも思い出していた。
昨夜、千鶴はこれまでの自分を進之丞と不動明王に詫び、結婚の取り止めを誓った。それなのに不動明王の許しは得られず、千鶴は再び進之丞の記憶を失った。
知念和尚の話によれば、進之丞の記憶が消えて行くのは、千鶴が今世を生きる本来の自分に戻ろうとしているからということだった。そうであるなら、この結婚を取り止めたところで、進之丞の記憶は戻って来ないだろう。
それでも千鶴は結婚を取り止めようと思っていた。祖父たちは松山へ向かってしまったが、やはりスタニスラフとの結婚は間違っている。たとえ進之丞の記憶が取り戻せなくなったとしても、自分は独りで生きて行くべきなのだ。
スタニスラフは千鶴が家族と別れて落ち込んでいると見たのだろう。慰めるつもりなのか、千鶴を抱き寄せようとした。そのスタニスラフの腕を、千鶴は払いのけて一人で歩いた。スタニスラフには体に触れられるのも嫌だった。
しかし法生寺の近くまで戻った頃には、千鶴の肩にはスタニスラフの手が載っていた。
スタニスラフに手をつながれて石段を登り、山門をくぐって境内に入ると、大きな楠の隣に本堂が見えた。その本堂の前で忠之が両手を合わせて何かを祈っている。
伝蔵がついていたはずだが、忠之は一人だった。中に一度戻ってから、再び一人で外に出て来たのだろうか。
まだ支えがなければ転ぶかもしれないのに、一人で本堂の階段を登ったようだ。恐らく祖父母たちの安全を願ってくれているのだろう。千鶴が見ている間も一心に拝み続けている。その姿には感謝しか浮かばない。
「千鶴、何見テマズゥカ? 早クゥ、中へ、入リィマシヨ」
不機嫌そうにスタニスラフが千鶴を促した。忠之を見ることさえも気に入らないらしい。
ずっといらだちを抑えていたが、千鶴は我慢がならなくなった。
「おじいちゃんらの旅の安全を祈ってくれとる人を見よるぎりじゃろ? ほれの何が悪いんね。中に入りたいんなら、さっさと一人で入りんさい!」
千鶴が強い口調で言い返すと、スタニスラフは口を噤んだ。それでも不機嫌そうな顔のまま、いつまでここにいるのかと言わんばかりに、千鶴から離れようとしない。
そんなスタニスラフを無視しながら、千鶴は不動明王を拝む忠之を眺め続けた。すると、再び記憶に蘇った進之丞の姿がそこに重なった。
前世でも今世でも、進之丞は不動明王に千鶴の幸せを願ってくれた。忠之が祈る姿は、今も進之丞が千鶴の幸せを願ってくれているようだ。
千鶴がぼろぼろ涙をこぼすと、スタニスラフはうろたえて、何だかわからないまま千鶴を慰めようとした。だが、千鶴はスタニスラフから逃げて泣き続けた。
自分は進之丞のことを忘れて、スタニスラフと一緒になろうとしている。それなのに進之丞はずっと自分の幸せを願い続けてくれている。そう思うと、千鶴は自分が情けなく悲しかった。
それでもまたすぐに進之丞のことを忘れてしまうに違いない。千鶴は泣きながら焦った。今度進之丞のことを忘れてしまえば、もう二度と思い出さないかもしれないのだ。そして自分はスタニスラフの人形として生きるのである。だが、そんなのは絶対に嫌だった。
千鶴は涙を拭くと、急いで庫裏へ向かった。後ろでスタニスラフが呼ぶ声がしたが振り向かなかった。進之丞の記憶が残っているうちに、知念和尚に会って確かめておきたいことがあった。
二
「和尚さん、教えてつかぁさい。成仏するとは、どがぁなことなんぞなもし?」
千鶴は知念和尚を見つけるなり質すように訊ねた。和尚は安子と二人で、ぼんやりと座敷に座っていた。
「成仏? どがぁしたんぞな、いきなし」
きょとんとする和尚たちに千鶴は言った。急いで喋らなければ、頭の中から進之丞がいなくなろうとしている。
後ろの襖を閉めると、千鶴は和尚たちの傍へ行った。
「鬼が死んで進さんがこの世を去る時、みんな成仏できて行くべき所へ行けるようになったて、進さんは言いんさったんです。ほんでも、うちが進さんの後を追って死んでも会えんて言われました。これはどがぁなことでしょうか?」
進之丞が残した言葉のことは、以前にも二人に話していた。だがその時には、このことについて深く考えていなかったし、和尚たちも何も言わなかった。それでも、今は無性にこの言葉の意味を知りたかった。それは進之丞がどうなったのかということだからだ。
「千鶴ちゃん、また進之丞のことを思い出したんか」
驚く和尚と安子に千鶴は素早くうなずくと、時間がないからと返事を急がせた。
千鶴がまたすぐに記憶を失うことは、和尚もわかっている。うむとうなずくと、成仏と言っても言う者によって意味が違うと和尚は話した。
「一般には成仏するいうんはな、この世への未練がのうなって、あの世へ行くいう意味になるな。たとえば、未練があると幽霊になってこの世へ留まろうとするが、未練がのうなるとあの世へ行けるいうことぞな。鬼が成仏でけたいうんもこれと対で、己を許せんいう想いから解放されて、やっとあの世へ行けたいうことじゃろ」
進之丞が言った成仏が、今和尚が話した成仏であれば、進之丞はあの世へ行ったということだ。であれば、後追いをすれば会えるはずだが、進之丞はそれができないと言った。
「今のと違う成仏はどがぁなもんですか?」
「ほれはまことの成仏ぞな。煩悩から抜け出して悟りを開くことを言うんよ。ほれは文字どおりほんまもんの仏になるいうことぞな」
「ほれは、先に言いんさった成仏とは違うんですか?」
「初めに言うた成仏は、ただあの世へ行くいうぎりのことでな。未練は断てても、煩悩から抜け出せたとは限らんのよ。ほじゃけん、そがぁな者らはもういっぺんこの世へ生まれ変わって、己の煩悩を断ち切る必要があるんぞな」
「ほれが生まれ変わるいうことですか?」
「ほういうことぞな。ただ、誰も己が生まれ変わって来たとはわからんけんな。なかなか煩悩を断ち切るいうんは、むずかしいことなんよ」
「まことの成仏をしんさった人が、生まれ変わるいうことはないんですか?」
「まことに成仏したんなら生まれ変わることはない。その必要がないけんな」
千鶴は途方に暮れた。
成仏をした者はあの世へ行ったのちに、その多くが再びこの世へ生まれ変わる。それは自分が前世から今世に生まれ変わったことで理解ができる。あの世のことは覚えていないが、あの世にいたからこそ地獄にいた進之丞に会いに行くことができたのだ。
だが、今度は同じようにはできないと進之丞は言った。それは進之丞はあの世にはいないということになる。であれば、進之丞は煩悩を断ち切った者たちが行く所へ行ってしまったのか。
大丈夫かと安子が千鶴を気遣った。千鶴はうなずくと、また和尚に訊ねた。
「進さんはまことの成仏をしんさったんでしょうか」
「さぁなぁ。ほれはわしにもわからんぞな。鬼というどん底を経験することで悟りを開いたんなら、ほれも有り得るとは思うがな。まことの悟りを開くいうんは、そがぁに簡単なことやないけんな」
――あしはもはや過ぎ去りし記憶、過去の幻影に過ぎぬ。
進之丞の言葉を思い出した千鶴は恐ろしくなった。
「和尚さん、進さんは自分のことを過ぎ去りし記憶、過去の幻影と言いんさったんです。ほれは進さんがほんまに消え去ってしもたいうことなんでしょうか」
知念和尚は少し考えてから、ほれは恐らくこがぁなことぞな――と言った。
「今世の者から見て、前世の自分がどこにおるんかはわからんけんど、どっか心の奥底でつながっとるんじゃろな。前世の千鶴ちゃんが顔出したんも、そがぁなことじゃろ。ほんでも前世の千鶴ちゃんが顔出さなんだら、千鶴ちゃんにとって前世の千鶴ちゃんは、過ぎ去りし記憶や過去の幻影と言えよう?」
「じゃあ、進さんは今は誰かの……」
知念和尚はうなずいた。
「本来、進之丞は前世の人物であって、誰ぞの過ぎ去りし記憶であり、過去の幻影というわけぞな。つまり、進之丞は今度こそどっかで誰ぞに生まれ変わったんじゃな。ほれじゃったら、千鶴ちゃんが後を追わったとこで会えまいが」
そういうことなのかと千鶴は項垂れた。進之丞が消えたのでないのなら、それは嬉しいことだ。しかし、今の進之丞がどこかで産声をあげたばかりの赤ん坊であるなら、もう二人が出逢うことはないだろう。
出逢ったとしても互いを知る術がないし、向こうは赤ん坊だ。これはもう二人が別々の道を歩むしかないということになる。
そう、もはや進之丞は千鶴にとっても過ぎ去りし記憶であり、過去の幻影なのだ。千鶴が前を向いて歩み出したなら、忘れ去られるものなのである。
進之丞が未だに幸せを願ってくれているような気がするけれど、赤ん坊に生まれ変わったのであれば、それは有り得ないことだ。もう進之丞のことは忘れて前に進むしかない。
それでも進之丞は心の赴くままに生きよと言った。それはやはり忠之と生きろということなのだろう。忠之が自分の代わりになってくれるという意味だったのだ。
しかし進之丞の記憶が消えると、忠之とのつながりがなくなってしまう。忠之自身の優しさは覚えていても、忠之と過ごしたこの一月のことを忘れたら何もできないだろう。
進之丞を想いながら忠之の世話を懸命にしていたのは、恐らく前世の自分だ。今世の自分はそのつらさと悲しみに耐えきれず、そこから逃げることばかり考えていたのだ。スタニスラフに惹かれたのも今世の自分で、前世の自分はそれが嫌で姿を消したに違いない。
ありがとうございましたと、千鶴が礼を述べて立ち上がると、安子が千鶴を呼び止めた。
「結婚、どがぁするんね? 今やったら、まだ間に合うで?」
知念和尚も千鶴に期待するような目を向けている。しかし千鶴は唇を噛んだ。
「うちはじきにうちやのうなります。ほやけん、急いでこの話を窺いに来たんです。結婚を取り止めるつもりでおっても、すぐにそのことを忘れてしまうけん、うちには、もうどがぁもできんのです」
和尚も安子も悲しそうな顔をするばかりで、何も言えないようだった。
千鶴はもう一度二人に頭を下げると、部屋を出た。すると、廊下にスタニスラフが不満そうに立っていた。
三
「何ナ話、シテマァシタカ?」
スタニスラフは詰問するように言った。千鶴は何でもないと答えた。腹の中はスタニスラフの態度に煮えくり返っている。
どうやらスタニスラフは襖越しに話を盗み聞きしていたらしい。詳しい話の内容はわからなくても、千鶴たちが進之丞の話をしていたことはわかったようだった。
二人が結婚すると決まったあと、スタニスラフは進之丞のことを根掘り葉掘り訊いて来た。しかし、千鶴は一切説明をしなかった。それでスタニスラフは進之丞について訊くのをあきらめたようだったが、千鶴の心に残る進之丞に嫉妬の炎を燃やしている。
自分と結婚するのに、まだ進之丞が忘れられないのかと、スタニスラフは今にも怒り出しそうな顔で千鶴を詰った。また、千鶴には自分しかいないのに、自分が見捨てたらどうするつもりなのかとも言った。
スタニスラフに嫌気が差していた千鶴にとって、この言葉は決定的だった。それは千鶴を手に入れるために、ずっと隠していた素顔を見せられたようだ。
腹立ちを押さえられないスタニスラフは、祖父たちが別れを惜しんでいた忠之の所へ、千鶴が駆け寄ったことまで蒸し返して文句を言った。
「千鶴ヴァ、本当ニ、僕ト、結婚スルゥ気ィ、アリィマズゥカ?」
自分と結婚したいのであれば怒らせるなと言いたいらしい。家族が松山に去って一人残された千鶴には、頼れる者は自分だけになったと確信しているのだろう。
だが千鶴にすれば、スタニスラフと一緒になる道を選んだことで、大切な進之丞を失うことになったのだ。もちろんそうした自分が悪いのだが、ここまで言われては黙っていられない。
千鶴はスタニスラフをにらみつけると、きっぱりと言った。
「あなたはひどいお人ぞなもし。他人の話を盗み聞きするぎりでも許されんのに、相手がどがぁな気持ちか考えもせんで、いっつもかっつもご自分の言い分ぎりを、押し通そうとしんさるんじゃね。あなたはうちを何やと思とりんさるん? うちは物でも人形でもありません。うちはあなたと同し人間ぞなもし」
千鶴に気圧されたスタニスラフは、言い返そうとしても言葉が上手く出なかった。代わりにロシア語でべらべらと反論したが、千鶴にロシア語がわかるはずがない。
それがわかった上でロシア語で喋り続けるのは、千鶴に文句を言わせないためだろう。そして、これが千鶴を待っている二人の暮らしなのである。
「スタニスラフさん、うちはあなたとは結婚しませんけん。松山での祝言は取り止めます。神戸にも行かんし、ヨーロッパにも行きません。あなたはさっさと一人で戻りんさい」
スタニスラフは口を開けたまま言葉に詰まった。それからうろたえたように言った。
「サンナコト、シタラァ、ミンナァ、困リィマズゥ。サレデモ、イイナデズゥカ」
「誰も困らんぞな。みんな、うちらの結婚には反対しよったんじゃけん」
「ダケド、ア祝イズゥルゥ人、困リィマズゥ」
「組合長さんのこと言うとりんさるんなら、うちがあとで謝っときます」
「千鶴ヴァ、僕ガ、イナイト、ドシマズゥカ?」
「家族と土佐へ行くんもええし、ここのお世話になることもできます。ほじゃけん、うちのことは何も心配いらんぞなもし」
どう言ったところで千鶴には通じないと、スタニスラフはようやく悟ったようだ。さっきまでの勢いはどこへやらで、手のひらを返したように千鶴に平謝りした。しかし千鶴は許すつもりはない。この結婚をやめたいと思っていたから、ちょうどいい機会だった。
「どがぁしたんぞな?」
知念和尚が部屋から顔を出した。安子も一緒だ。
千鶴たちの言い争いが聞こえていたのだろうが、いつまでも終わらないので心配して出て来たようだ。
千鶴は事情を説明しようとした。しかし、スタニスラフと言い争う前に、何を問題としていたのかを忘れていた。覚えているのは、スタニスラフが横柄な態度で自分を怒らせたということだけだ。
それでも怒る理由が説明できないと話にならない。怪訝そうにする和尚夫妻に、もうええんです――と言った。
二人はスタニスラフに顔を向け、何があったのかと訊ねた。しかし、スタニスラフにしても婚約が破談になるようなことは言いたくないのだろう。慌てたように笑顔を繕うと、何デモナァイネ――と言ってごまかした。
それでこの場は何となく収まったのだが、千鶴の中のスタニスラフへの不信感は消えなかった。二人が争った原因は忘れてしまったが、スタニスラフが見せた嫌な態度はしっかりと覚えている。
だが、結婚を取り止めようという気持ちは萎えていた。さっきは本気でそう思ったが、よく考えればスタニスラフが言うように、みんなに迷惑がかかってしまう。そんなことは簡単にできることではない。
それに悔しいが、やはりスタニスラフでなければ自分を嫁に望む者などいないだろう。一生嫁のもらい手がないまま過ごすことを考えると、腹立ちを覚えても我慢するしかない。
スタニスラフへの不信は残ったまま、スタニスラフへの怒りは急速にしぼんで行った。
四
千鶴とスタニスラフが法生寺を去るこの日、奇しくも風寄の祭りが始まったいた。村々をだんじりや神輿が賑やかに練り歩くのが山門から見えた。村の様子にスタニスラフは興奮気味だ。
本当ならば昨夜神社の前に集まっただんじりを、スタニスラフと一緒に見るところだった。しかし、スタニスラフへの嫌悪感を持った千鶴はそんなことはしなかった。
スタニスラフは境内から見えるだんじりの灯りに惹かれたようだったが、千鶴は一緒に行こうとは言わなかった。
春子の家には昨日のうちに、千鶴が一人で挨拶に行って来た。
スタニスラフは千鶴を一人で行かせることを嫌がった。行った先に男たちがいるのを気にしたようだ。だが、こんなに嫉妬深い者を同行させられるわけがない。向こうにはロシア人を嫌う者もいるだろうからと、千鶴はスタニスラフを強引に寺に残して出かけた。
当然ながら、修造たちはスタニスラフも連れて来ればよかったのにと残念がった。しかし、それでは落ち着いて話ができないだろうし、きっと雰囲気が悪くなったに違いない。そのせいで、せっかくの婚姻に水を差すような、妙な噂が広がることは避けたかった。
みんな、千鶴とスタニスラフが久松伯爵夫妻の前で結婚を誓い合った話を知っていた。
その時のことを千鶴はよく覚えていないが、新聞に載っていたというから事実なのだろう。適当にみんなの話に合わせながら、スタニスラフが優しく素敵な人だということを千鶴は強調した。本当は気が短いやきもち焼きだとは言えなかった。
春子は祭好きだが、仕事で戻って来られなかったようだ。それでも千鶴とスタニスラフのことは修造たちから聞かされたようで、よろしく伝えて欲しいとのことだった。
修造たちは千鶴を祝福し、スタニスラフなら間違いないと言ってくれた。また、ヨーロッパに行ってもがんばるようにと応援してくれた。
スタニスラフの本性を知る千鶴は、みんなの励ましや祝福に笑顔を繕うしかなかった。これから先のことを考えると不安だらけだったが、そんなことを言えるはずがなかった。
この日は松山へ着いたら、早速スタニスラフとの祝言を挙げることになっている。二人の婚礼衣装は母と祖母が仕立て直してくれているはずだ。
だが、その前に銭湯で体をきれいにしなくてはならないし、千鶴は髪を結う必要がある。いろいろ時間は決められており、それに合わせて動かなければならなかった。
祭りの間は松山への客馬車は走らない。それで乗合自動車で松山へ向かうことになっているが、その時刻が迫っていた。
乗合自動車のことを考えると、二年前に春子に誘われて、風寄の祭りを見に来た時のことが思い出される。
あの時には戻りの客馬車や乗合自動車がなくて、このままでは退学になると、春子と二人で泣いたのだ。その時に救いの手を差し伸べてくれたのが佐伯さんだったと、千鶴は懐かしく当時を振り返った。
確か、佐伯さんには暴漢から護ってもらった記憶もある。優しいばかりでなく喧嘩も強い人だったが、まさかその人が山﨑機織で働くことになるなんて思いもしなかった。
佐伯さんが山﨑機織で働くことになった経緯はわからないけど、真面目な人柄が祖父たちに気に入られたに違いない。だから、昨日はあれほどみんなが別れを惜しんで泣いたのだ。
店にいた頃の佐伯さんのことは、何故か何も覚えていない。どうして覚えていないのか、それが不思議で仕方がないけれど、一緒にいたのだからいろいろ世話になったはずだ。その佐伯さんが死ぬほどの大怪我をしたのは、本当に気の毒だった。
商いのことはよくわからないけど、伊予絣業界は不振の波に呑まれていたように思う。山﨑機織はその煽りで潰れたのだろう。それで佐伯さんは故郷である風寄へ戻って来たのに、ここでまた大怪我をするだなんて、まさに踏んだり蹴ったりだ。
しかも大怪我で伏せっている間に記憶を失い、身内の老夫婦までもが亡くなったそうだから、不幸が一度に襲って来たようなものだ。
ここを離れる前に、一言声をかけて励ましてあげたいのだけど、いったいどこへ行ってしまったのだろう。佐伯さんの姿は今朝から見かけない。
自分は何もしたつもりはないのだが、本当に世話になったと佐伯さんには感謝されている。まだ体の調子がよくないのに、その佐伯さんを残して祝言を挙げることが、何となく後ろめたい。佐伯さんはこれからどうするのだろう。
実は佐伯さんには何となく惹かれるものがあって、離れがたい気もしている。思い返せば、二年前にいろいろ助けてもらった時に、とても心が惹かれたような思い出がある。そのあとのことは覚えていないけれど、今でもあの時の気持ちが残っているようだ。
だけど、そんなことをスタニスラフに知られたら大事だ。これから祝言を挙げるというのに、またもや大喧嘩になってしまう。
初めて会った時には、スタニスラフがこんな人だとは思いもしなかった。とても優しく誠実な人だと思っていたのに、実際は心が狭く自分勝手で独占欲が強い人だった。
昨日の喧嘩では一応の仲直りをしたけれど、正直言えば、この人と一緒になることに自信がない。だけど結婚を取り止めることなどできないし、異人の顔をした自分にはこの人しかいないだろう。
でも、どうせだったら佐伯さんと一緒になれたらよかったのにと密かに思う。店も潰れ、大怪我をした上に、家族まで失くした佐伯さんの傍にいてあげたい。なのに、そうならなかったのは縁がなかったのか。どうして自分はスタニスラフを選んだのだろう。
とにかく何を言っても詮ないことだ。松山ではスタニスラフとの祝言を執り行う準備が始まっている。もうすぐ乗合自動車が来るから、そろそろここを立ち去らねばならない。
でも最後に佐伯さんには挨拶をしたい。昨日、祖父たちも泣きながら別れの挨拶をしたのだ。自分だって最後の挨拶をして励ましてあげたい。
千鶴は辺りを見回した。だが、忠之の姿はどこにもない。
寺男の伝蔵が、忠之が本堂でご本尊の不動明王に手を合わせていたのを目にしている。祖父たちの時も旅の無事を祈ってくれていたようだから、自分たちのことも祈ってくれたのだろう。だが、そのあとの行方はわからない。いったいどこへ行ってしまったのか。
祖父たちとの別れを考えれば、忠之が見送りをしないなど考えられない。これは何かがあったのに違いない。もしかしたら、どこかで転んで動けなくなっているのだろうか。
千鶴は焦って辺りを探し回ったが、どうしても忠之は見つからない。山門から石段の下も見下ろしたが、やはり忠之はいなかった。
スタニスラフがいらいらし出した。そろそろ出発する時刻のようだ。
五
知念和尚は出発前に千鶴に見せておきたい物があると言った。
ついて来るようにと和尚が手招きをするので、千鶴は安子に手荷物の風呂敷包みを預けて、和尚の所へ行こうとした。すると、スタニスラフもついて来ようとした。
和尚は珍しく険しい顔になり、用があるのは千鶴ちゃんぎりぞな――と強い口調で言った。安子もここに留まるようにと、少し怖い顔でスタニスラフに言った。それでも、もう寺に留まる必要がないからか、スタニスラフは従おうとしなかった。
千鶴はスタニスラフをきつく叱った。逆らえば結婚は取り止めである。それでようやくスタニスラフはあきらめたが、結婚をしたあとでは、もはやスタニスラフを止めることはできなくなるだろう。千鶴はため息をつくと、知念和尚に従った。
知念和尚が千鶴を連れて来たのは寺の墓地だった。
千鶴は寺の仕事を手伝っていたので、墓地の掃除もしていた。それで、どうして和尚さんは今更ここに自分を連れて来たのだろうと思っていた。
知念和尚は墓の一つを指差して、この墓は慈命和尚という明治の前にこの寺にいたご住職の墓だと言った。
その古い墓は千鶴も目にしていた。だが、それが慈命和尚の墓だとは知らなかったし、知ったところでどうということはなかった。
出発が迫ったこの時に、知念和尚はこの寺の歴史を語るつもりなのかと千鶴は訝しんだ。しかし和尚はそんなことを語ることなく、ただ千鶴の様子を窺っているだけだった。
次に和尚は別の墓を千鶴に示した。それも古いが大きく立派な墓だった。
和尚はこの墓はかつて風寄にいた代官の墓だと言った。この墓も目にしていた千鶴は、ほうですかと言うだけで和尚の意図がわからなかった。
その隣には少し小ぶりの墓があり、それはこの代官の妻の墓だと和尚は言った。何でもこの代官の妻は、代官が亡くなったあと、この寺で尼として暮らしながら、代官を弔い続けていたらしい。
やはり寺の歴史の話かと千鶴が思っていると、知念和尚はこの代官夫婦には一人息子がいたのだと言った。その一人息子も代官が亡くなった時に命を落としたのだが、その墓が見つからなかったらしい。
知念和尚は代官やその息子が死んだ理由は話さないまま、千鶴を墓地の片隅へ誘った。そこは無縁仏の墓が集められた所だ。
四国遍路の旅をしていると、旅の途中で亡くなる者もいる。その者たちは近隣の村人たちの手で、遍路道の脇に葬られることが多いと言う。しかし先の慈命和尚は旅の途中で亡くなった身寄りのない者たちを引き受けて、ここに墓を作って弔ったそうだ。
慈命和尚という方は、その名のとおりに人を思いやる優しい人だったのだなと千鶴は思った。それでもまだ千鶴には和尚が何を言わんとしているのかがわからない。
知念和尚は無縁仏の墓地の隅っこにある、二つの小さな墓石を指差した。見せたかったのはこの墓だと和尚は言った。
その二つの墓は、目立たないようにひっそり佇んでいる。見方によれば、寄り添っているようにも見える。
知念和尚はこの二つの墓を見つめながら言った。
「先に言うた代官の息子の墓がな、これなんよ。わしもここ来て三十年になるけんど、こがぁな所に隠れよったとは、ちぃとも気づかなんだ。ほれがな、昨夜、安子の夢に出て来たんでわかったんよ」
千鶴は思わず、へぇと言った。
「安子さんが見んさったんは、どがぁな夢やったんですか?」
「夢ん中で安子はな、尼さんやったんよ。ほれで、ここでこの墓を拝みよったそうな。その話を聞いてな、今朝確かめてみたら、ほんまにこの墓があったんよ」
それは不思議な話である。まるでこの墓の場所を教えたような夢だ。しかし墓は二つある。そのことを訊ねると、和尚はこの墓は代官の息子と、その許嫁の墓だと言った。
「その許嫁の娘はな、千鶴ちゃんみたいに異国の血ぃを引いとったんよ。ほじゃけん、村の者らから冷とうされよったそうな」
「そがぁな娘さんを、お代官の息子は嫁にしようとしんさったんですか?」
ほうよと和尚はうなずき、代官の息子は心が広く気高い人物だったと言った。また、自分の息子が異国の血を引く娘を、嫁にすることを認めた代官も立派だと和尚は褒め称えた。
確かにそれは和尚の言うとおりだと千鶴は思った。自分だってスタニスラフでなければ、嫁に欲しいと言ってくれる者などいない。しかし、何故その二人の墓がこんな所にひっそりと作られたのか。
それについて和尚は、二人が夫婦になる直前に事件が起きたと言った。
それはこの娘を狙った鬼が村を襲い、娘を攫ったというものだった。その時に慈命和尚も代官も命を落とし、代官の息子は娘を取り戻そうと鬼を追ったのだと言う。
鬼が本当にいたということに千鶴は驚きながら、和尚の話に引き込まれた。それで代官の息子は許嫁を取り戻せたのかと訊ねると、和尚は悲しそうな顔で小さくうなずいた。
「代官の息子はな、その娘を助けることはできたんよ。やがな、その代償に己自身が鬼になってしもたんよ」
千鶴は思わず息を呑んだ。そんなことがあるのだろうか。
和尚は話を続け、代官の息子は鬼になる前に深手を負って、長くは生きられなかったと言った。
そこへ今度は異国人を敵視する攘夷侍が何人も現れて、せっかく助けたはずの娘に襲いかかったと、和尚は自分の目で見ていたかのように話した。
鬼になった代官の息子は、傷ついた体で必死になって侍たちと戦った。そして娘を護りきったところで力尽きて海に沈み、娘もその鬼を追って海に姿を消したそうだと和尚は語った。
知念和尚は喋りながら涙ぐんでいた。恐らく言い伝えの話だろうに、何故涙ぐむのだろうと思いながら、千鶴はしゃがんで二つの墓石を眺めた。
それぞれには名前が彫り込んであるが、とても古い石のようで、何と書いてあるのかは読みづらかった。それでも千鶴は凝視して読んで見た。
右の墓石に刻まれた名前は長かったが、左の方は二文字だけだった。それで千鶴は左の方から読んだ。
「千……鶴?」
え?――と千鶴は和尚を振り返った。
「うちと同し名前?」
和尚はうなずくと、隣の墓の名も読んでみるようにと言った。
千鶴は右の墓に目を向けると、ゆっくりと上から順に刻まれた文字を読み上げた。
「佐……伯……進……之……丞……忠……之?」
「ほうじゃ。ほれが代官の息子の名前ぞな。この名前見て、千鶴ちゃん、何とも感じんかな?」
千鶴はもう一度墓石の名前を見ると、佐伯さんの名前と似ていると言った。ほらほうよと和尚はうなずき、あの子の名前は代官の名前から付けたものだと言った。
また墓石に刻まれた進之丞というのは呼び名であり、忠之というのが諱と言われる本当の名前だと和尚は説明した。
「この墓をこさえたんは代官の妻ぞな。ほんでも、もうちぃと立派な墓建てたらよかったのに、こがぁな所にひっそりあるんはなしてじゃと思う?」
千鶴が首を横に振ると、身分違いの娘が侍の嫁になるには、婚姻の前にいったん武家の養女になる必要があったと和尚は話した。
「ほんでもこん時には、まだ千鶴ちゃんはお武家の養女やなかったけん、立派な墓は建てられなんだ。ほじゃけん、代官の妻は息子の墓を千鶴ちゃんの墓に合わせて、こがぁな形にしたんよ。そんだけ千鶴ちゃんのことを大事に思てくれとったんぞな」
和尚の言葉に千鶴が眉をひそめていると、和尚は慌ててここにおった娘のことぞなと言い直した。
「千鶴ちゃんと対の名前じゃけん、ごっちゃになってしもたわい」
「ほら、そがぁなりますよね」
千鶴は笑って立ち上がった。何だか悲しい話だが、そろそろ行く時間である。向こうでスタニスラフが爆発しそうに違いない。
知念和尚に珍しい話を聞かせてもらったお礼を述べると、千鶴は改めて二つの墓石に向かって手を合わせて話しかけた。
「夫婦になれんかったんは残念なけんど、二人とも今度生まれ変わって来たら、ほん時には必ず夫婦になれるけんね」
そう言った千鶴の頬を、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。何故涙が流れたのか、千鶴にもわからない。ただ、仲睦まじく並んでいる墓石を眺めていると、自然に涙がこぼれてしまう。
千鶴は涙を拭くと、知念和尚に照れ笑いをしながら言った。
「妙ですね。何か勝手に涙が出て来てしもた」
和尚はさらに何かを言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。
「何かこのお墓見よったら、スタニスラフやのうて佐伯さんのお嫁になりんさいて言われとるような気がしたぞなもし」
千鶴が冗談を言うと、和尚は顔をゆがめて涙をこぼした。
どがぁしんさったんですかと千鶴が訊ねると、和尚はあわてて涙を拭き、何でもないと言って笑った。
六
いよいよ出発の時が来た。
千鶴は忠之に別れの挨拶をしたかった。だが、忠之を探している暇はない。ずっと待たされていたスタニスラフが、和尚夫婦の前でも不機嫌を隠そうとせずに、しきりに時間を気にしている。
「ほんまに、こがぁな時にどこ行てしもたんじゃろか」
安子がうろたえ気味に言った。知念和尚も心配そうに辺りを見回した。
「ずっと一緒におりんさった千鶴さんが、もうおらんなるんじゃけん、どっかで隠れて泣きよるんやなかろか」
寺男の伝蔵が笑って言った。しかしその笑みは半分で、残り半分は何だか悲しそうだった。
「千鶴、急ガナァイト、自動車ガ、来マァズゥ。乗リ場マデ、走ラナァイト、ダメデズゥ」
スタニスラフがいらいらした顔で言った。
だが、千鶴は忠之が気になった。忠之は絶対に見送りに出て来るはずだ。それが姿を見せないのは、何かがあったに違いない。
だいぶ歩けるようになったとは言え、忠之はまだ支える者がいないと転びかねない。スタニスラフとのことがなければ、もう少し傍にいてやりたいところなのだ。
それに、さっきは知念和尚に冗談めかして言ったけれど、千鶴は二つの墓石が忠之の嫁になるべきだと告げているように感じていた。今更どうにもできないけれど、それでも最後に忠之の顔が見たかった。会って、少しでも自分の想いを伝えたかった。
伝蔵が言うように、どこかに隠れているのであれば構わない。しかし、みんながいなくなって一人になる寂しさに耐えきれず、よからぬことを考えたのではと思うと、千鶴は気が気でなかった。
予定を変更してでも忠之を探したくて、千鶴はスタニスラフを見た。だが険しい顔のスタニスラフを見ると、何も言えなかった。本当であればすでに出発しているところを、無理やり待たせたのだ。これ以上は許されない。それに松山では祖父たちが待っている。
結局、後ろ髪を引かれながらも、千鶴はこのまま忠之に会わずに行くことにした。それで、改めて和尚夫婦や伝蔵に世話になった礼を述べ、佐伯さんをよろしくお願いしますと言った。
忠之がいないことは和尚夫婦も気になっているはずだ。しかし、何も心配することはないと知念和尚は言い、幸せにね――と安子は千鶴とスタニスラフの手を握った。二人は別れを惜しんでくれているのか、悲しそうに涙ぐみ、声も泣きそうに震えている。
それで気分がよくなったのか、スタニスラフはずっといらいらしていたくせに、ダイジヨブ――と千鶴の肩を抱きながら誇らしげに言った。
そんなスタニスラフの自信に満ちた笑顔を見ながら、千鶴は不安を感じていた。
この先のスタニスラフとの暮らしは不安だらけだ。だが、今感じている不安はその不安ではない。このままここを立ち去っても、本当にいいのだろうかという不安だった。
知念和尚に見せてもらった二つの小さな仲睦まじい墓石が、頭の中に浮かんでいる。胸の中はずっともやもやしており、このまま行ってはだめだと、何かが心の奥で叫んでいるようだ。
どうしてスタニスラフと結婚することになったのかは覚えていない。しかし、異人の娘である自分にはこの道しかないと受け止めていた。
それでも優しかったはずのスタニスラフの本性が明らかになるにつれ、自分が行こうとしている道には絶望しかないと感じている。これまでその気持ちを抑えて進もうとしていたが、それを自分のすべてが拒んでいるみたいだった。
これ以上自分を偽ることはできない。そう思った千鶴は、ここに留まるための時間稼ぎを始めることにした。そうするうちに忠之が姿を見せてくれる期待があったし、スタニスラフが怒り出して大喧嘩になり、その勢いで結婚がご破算になればという想いもあった。
千鶴は本堂脇にある楠の老木に近づくと、その太い幹を抱きしめた。何百年も前からここにいるというこの老木は、千鶴のお気に入りだ。かつてここにいた自分と同じ名前の娘も、きっとこうしてこの老木を抱いていたのだろうと思うと、何だか泣きそうになる。
後ろでスタニスラフが顔をゆがめているが、今のところは黙ったままだ。また結婚を取り止めると言われるのが怖いのだろう。
ならばと、千鶴は今度は本堂へ向かった。
忠之の世話や突然現れたスタニスラフのことなどで、失礼ながらご本尊のお不動さまにご挨拶する余裕がなかった。もしこのままここを離れることになれば、恐らく二度とここを訪れることはないだろう。だから、どうしてもお不動さまには挨拶をしておきたかった。
スタニスラフが怒りを抑えた声で千鶴を呼んだ。だが千鶴は無視した。知念和尚たちがはらはらしているようだが、怒るなら怒れである。
本堂の中をのぞくと、炎を背負い剣と羂索を手にした不動明王が鎮座していた。
不動明王はとても厳めしい顔で千鶴を見つめている。本当は恐ろしく見えるであろうその明王が、何故か千鶴には懐かしく思えた。
前に春子に風寄の祭に招かれた時に、二人でお不動さまを拝んだ記憶はある。しかしそれよりもっと昔から、このお不動さまを知っているような気がするのだ。
不思議な気持ちを抑えながら、千鶴は手荷物を脇に置いて不動明王に手を合わせた。
「お不動さま。これまで長い間、お世話になりました」
挨拶をして不動明王を拝むと、奇妙なことに前にも同じことをしたような気がした。
春子と一緒に拝んだ時の記憶だろうかと思ったが、やはりもっと昔のことのような気がした。それに自分ではない誰かがここで、自分のために祈ってくれていたように思えるのだ。
誰だろうと思ったその時、千鶴の脳裏に一人の人物の後ろ姿が浮かんだ。その人物は不動明王に向かって何かを一心に祈っている。
え?――と思うと、その幻は一瞬にして、今千鶴が立っている場所に立った。
千鶴は幻の人物と重なっている。千鶴の頭の中にその人物が祈る声が聞こえて来た。
――千鶴が幸せになりますように。どうか、千鶴が幸せを見つけますように。
「進……さん?」
千鶴の中に進之丞の記憶が蘇り、目から涙があふれ出た。
知念和尚が見せてくれた自分たちの小さな墓石を、千鶴は再び思い出した。仲睦まじそうなあの墓石の姿こそ、自分が求めていたものであり、本来自分たちのあるべき姿だった。
千鶴は泣いた。大声を上げて泣きたかったが、スタニスラフに来られたくはなかったので、両手を合わせながら声を殺して泣いた。
それでも進之丞がいないという現実は変わらない。すぐそこでスタニスラフが怒りをこらえて待っている。運命に抗いはしているが、抗いきれる自信はない。悲しみに生きる力を奪われてしまう。忠之がいてくれれば、気持ちを奮い立たせられただろう。しかし、その忠之は未だに姿を見せてくれない。
このまま行くことに迷いがある千鶴は、不動明王に祈った。進之丞は誰の中にもお不動さまがいて、人を正しき道に導かれると言っていた。だが、千鶴にはその道がわからなかった。
――お不動さま。どうか、うちを導いてつかぁさい。うちはどがぁすればええんでしょうか。
千鶴は祈った。しかし、心の中にいるはずのお不動さまは、何も語ってくれなかった。
千鶴は祈り続け、たった一度でいいから、もう一度だけ進さんに会わせて欲しいと願った。
だが、所詮それは無理な願いだった。進之丞はもういないのである。今頃どこかの赤ん坊になっているだろうし、その赤ん坊を見ても、それが進之丞であると知ることもできないのだ。
忠之にも会えないようだし、やはり自分にはスタニスラフと生きる道しかないのか。
千鶴が落胆を隠して本堂を離れると、スタニスラフが爆発寸前の顔をしていた。
知念和尚はもう一泊していけばどうかと冗談を言ったが、スタニスラフは噛みつきそうな顔で、絶対ニ嫌ダ!――と言い返した。
和尚は少しむっとしたが、スタニスラフは気にすることもなく。戻って来た千鶴を急かした。
安子は呆れた顔をしていたが、千鶴が目を赤くしているのに気づいて心配した。知念和尚も千鶴に声をかけたが、二人が千鶴に事情を聞いている暇はない。
スタニスラフは千鶴を心配することもせず、世話になった和尚夫婦に最後の声もかけないまま、千鶴の手を引いて足早に寺を後にした。
七
山門の外の石段は急なので、スタニスラフに手を引かれたのでは転びそうになる。千鶴はスタニスラフの手を振り放すと、一人で石段を下りた。無神経なスタニスラフにはうんざりだが、和尚夫婦へのスタニスラフの失礼な態度も許せなかった。
遠くの方で神輿が練り歩く声が聞こえる。進之丞と出逢った祭りだ。千鶴は思わず神輿の声に耳を澄ませた。まるで、あの時に戻ったような感じがする。今もすぐそこに進之丞がいるように思えて、千鶴は胸が苦しくなった。
二年前のこの日、そう、まさに今日だった。源次たちに襲われた自分を、突然現れた進之丞が救ってくれたのだ。そのあとも進之丞は自分と春子を人力車に乗せて、松山まで運んでくれた。
前の日にはイノシシから救ってくれた上に、法生寺へ運んで野菊の花を飾ってくれた。あの時に進之丞がどんな想いでいたのかと考えると、涙を抑えることができない。
千鶴が石段の上に立ち尽くして泣いている間、スタニスラフは祭りの音に耳を傾ける余裕もなく、急いで石段を下りようとした。だがあまりに急ごうとしたため、危うく足を踏み外しそうになって声を上げた。そのせいで追憶は中断され、千鶴は現実に引き戻された。
気をつけてと千鶴に言われても、知らぬ顔で先に下りたスタニスラフは、ゆっくり下りて来る千鶴を早く下りるようにと急かした。自分が転げ落ちそうになったくせに、千鶴が転ぶかもしれないなど考えもしないようだ。
今のスタニスラフには、かつての優しさは微塵もない。あの優しさは何だったのかと思えるほどだ。
あまりにいらついた横暴な態度が腹に据えかねた千鶴は、石段を下りきったところでスタニスラフに言った。さっきの弱気はスタニスラフの傲慢さが忘れさせてくれたようだ。
「そがぁにうちに腹を立てんさるんなら、うちはもう行かんけん、松山にはあなた一人で行きんさい」
千鶴は本気だった。進之丞のことを思い出しているから気迫がある。
こんな時にそんなことを言うのかと言わんばかりに、スタニスラフは顔をゆがめた。しかし、ここで千鶴を怒らせるわけにはいかない。今の立場は千鶴の方が上だった。
スタニスラフは顔を引きつらせながら自分の態度を詫びた。頭の中では、千鶴を神戸へ連れて行きさえすれば、こっちのものだと考えているに違いない。
それではと、千鶴はスタニスラフにここで少し待つようにと言った。スタニスラフが絶望的な顔になるのは承知の上だった。また、これで祝言がだめになることを千鶴は期待していた。どんなに独りぼっちが寂しくても、こんな人と暮らすなんて真っ平だった。
しかし、今の自分がスタニスラフを拒んでも、また進之丞のことを忘れてしまうと、どうなるのかはわからない。スタニスラフに不満を抱きながらも、このまま流されてしまうかもしれなかった。
とにかく自分には時間が限られていた。自分が自分でいられるうちに、やらなければならないことがあった。
この先には野菊の群生地がある。そこは進之丞との思い出の場所であり、進之丞と死に別れた場所でもあった。千鶴はそこで進之丞と最後の別れの挨拶がしたかった。
スタニスラフが来たために、毎日訪れていたはずのこの場所に、足を運ぶことがなくなった。本当は、あの時にスタニスラフをはっきり拒むべきだったと、胸の中は後悔でいっぱいだった。
この時になって進之丞のことを思い出したのは、最後の別れの機会を、お不動さまが与えてくれたのだと千鶴は思っていた。
きっとすぐに進さんのことは忘れてしまう。千鶴はあふれる涙を拭きながら、何も言い返せずに頭を抱えるスタニスラフを残し、小走りに海の方へ向かった。
そこには見事な野菊の群生が広がっていた。愛らしい花が一面に咲き誇っている。その花たちの前に誰かが立っている。その誰かが千鶴に気づいて振り返った。身に着けているのはあの継ぎはぎの着物だ。手には一輪の野菊の花を持っている。
「進さん?」
思わず駆け寄ると、それは進之丞ではなく忠之だった。
近くで見ると、顔や手や脛が泥で汚れた上に傷がある。恐らく石段から転げ落ちたに違いない。流れ出た血はまだ固まりきっておらず、継ぎはぎの着物も泥だらけだ。
心配していたとおりになったと、千鶴は涙ぐみながら忠之の傷を確かめ、寺へ連れ戻ろうとした。スタニスラフが許さなくても、忠之を放って置くことなど絶対にできなかった。
しかし忠之は大丈夫だと言うと、千鶴を見つめて微笑んだ。
「千鶴さん、いよいよお行きんさるんじゃな。おめでとな。おら、千鶴さんにお祝いがしたかったけんど、何もあげる物がないけん、せめてこれをと思て、ここで待ちよったんよ」
忠之は戸惑う千鶴の髪に、手に持っていた花を飾ってくれた。
「うん、きれいじゃ。千鶴さんには、この花が一番似合うぞな。こがぁして見よったら、千鶴さん、花の神さまみたいじゃな」
え?――驚く千鶴に忠之は微笑みながら言った。
「千鶴さんは誰より優しいお人じゃし、まっこと誰よりきれいじゃけん、絶対幸せになれるぞな」
「なして、ほの言葉を?」
「ほの言葉? ほの言葉て?」
「うちのこと、花の神さまとか、優しゅうてきれいじゃて……」
忠之は照れたように頭を掻いた。
「ほれは……、ほやかて、そがぁ思たけん言うたぎりなけんど、おら、またいらんこと言うてしもたろか? 気ぃ悪したんなら謝るぞなもし」
うろたえる忠之は進之丞そのものだ。それに、今の言葉は進之丞の言葉だった。まるで忠之の心の奥に進之丞が隠れていて、忠之を通して喋っているようだ。
そう感じた千鶴は、まさか?――と思った。
金色の霧になった進之丞は、鬼の一部だった者たちが行くべき所へ行けるようになったと言った。そして、自身のことは過ぎ去りし記憶、過去の幻影だと表現したのである。
知念和尚は、進之丞は誰かとして生まれ変わったのだろうと言った。その誰かは赤ん坊だと思っていたが、そうではなかったのか。
千鶴は忠之をじっと見た。忠之は狼狽した様子で、どうしたのかと言った。しかし、千鶴は忠之を見つめながら考え続けた。
自身が鬼であることを明かした進之丞は、忠之に取り憑いてその心を喰ったと言った。だが、進之丞自身には忠之を喰った覚えはなかった。結果的にそうなっていたと受け止めていただけだ。
前世の自分が隠れた時、今の自分はこの二年の記憶のほとんどを失ってしまう。それは今の忠之の状態と似ているが、似ていると言うより同じなのではないのか。
忠之の心から進之丞が離れたことで、忠之は二年の間のことがわからない。そして自分も前世の自分が離れると、同じ状態になってしまう。
だが、前世の自分は完全に消えたわけではない。時折、後ろからこっそり姿を見せる。そんな時には、さっきの墓石を見た時の涙のように、思いがけないことが起こる。
――もし……、もし佐伯さんがうちと対じゃとしたら、佐伯さんが進さんそっくりの言動を見せるんは……。
興奮した千鶴の目に涙が滲んだ。慌てうろたえる忠之に、ごめんなさい――と千鶴は言った。
「うちは抜け作じゃった……。まっこと抜け作じゃった……」
「千鶴さん? 大丈夫かな?」
忠之が心配そうに千鶴の顔をのぞき込んだ。しかし千鶴が涙をこぼすと、忠之はまたうろたえた。
進之丞は自分と忠之の心が対だったと言った。まさにその言葉どおりであったなら、進之丞がどこへ行ったのか、その答えは明らかだった。進之丞が自身を過ぎ去りし記憶、過去の幻影と表現したのは、そういう意味だったのだ。
心の赴くままに生きよという言葉も、進之丞は自分の居場所を伝えようとしていたのに違いない。
――千鶴、今を生きよ。今にこそ、お前の真の幸せが隠されておる。本来、お前に用意されておった幸せがな。
進之丞の声が聞こえる。
どこへ進之丞は行ったのか、どこが進之丞の居場所なのか、それを千鶴はついに悟った。何故忠之に心を奪われそうになったのか。その理由がここにあった。
思い返せば、知念和尚も教えてくれたように、忠之という諱こそが進之丞の本当の名だった。進之丞という名にこだわっていたばかりに、わかっていたはずのそのことが頭に浮かばなかった。今の自分が前世と同じ名前であるように、忠之という名こそが進之丞である証だった。
「千鶴さん、そろそろ行かんと、あのお人が待ちよるぞな」
忠之は落ち着きのない様子で、石段の近くで待っているスタニスラフを心配した。きっとスタニスラフはかんかんに怒っているに違いない。しかし、千鶴にはそんなことはどうでもよかった。
千鶴は忠之の手を握った。忠之は驚いたが、黙って千鶴に手を握らせた。懐かしい温もりが、手を通して千鶴の中に流れ込んで来る。
どうして、この温もりに気がつかなかったのだろう? この温もりは初めからあったはずだ。
千鶴は悲しくなった。きっと忠之を拒む気持ちが、そうさせていたに違いない。ずっと傍にあったこの温もりを、何度も感じていたはずなのに……。
持っていた手荷物を落とすと、千鶴は忠之を抱きしめた。忠之は大いに慌てたが、すぐに千鶴をそっと抱き返した。
千鶴の体が、千鶴の心が、忠之の温もりに包まれる。それはあの懐かしい、時を超えた温もりだ。
この温もりは忠之も感じていたに違いない。それなのに自分を殺して、ずっと千鶴のことだけを考えてくれていたのか。
千鶴は涙が止まらなかった。忠之を抱きながら千鶴は声を上げて泣いた。
忠之はもう慌てることはせず、千鶴を抱きながら優しく慰めた。
「千鶴さん、もう泣かんのよ。千鶴さんに泣かれたら、おら、困ってしまわい」
泣きじゃくる千鶴の耳元で、忠之も涙ぐみながら囁いた。
「千鶴さん、今までほんまにありがとう。おら、お不動さまに千鶴さんのこと、お願いしといたけんな。ほじゃけん、千鶴さん、絶対幸せになれるぞな」
後ろの方でスタニスラフが喚いてる。すぐにでもやって来そうな剣幕だ。
だが、千鶴の耳にスタニスラフの声は聞こえない。聞こえているのは、千鶴に呼びかける忠之と進之丞の声だけだ。
また、千鶴の濡れた目に映っているのは、忠之の優しい笑顔と、そよ風に揺れる野菊の花たちだけだった。
(了)