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野菊のかんざし

      一

 スタニスラフと行くと言う、千鶴の望みが受け入れられたとは言え、それは祝福されたものではなかった。
 千鶴の決断は、進之丞を失った悲しみから逃れるためだった。しかし、それはスタニスラフと結婚するという意味でもあるので、千鶴自身ためらいの気持ちはあった。
 もしかしたら、それは進之丞への裏切りかもしれないという想いがあるので、そうではないと誰かに言ってもらいたかった。
 もしスタニスラフと一緒になることを、みんなから祝福されたのであれば、これでよかったのだと思うことができる。だが現実は、誰もが千鶴の行動を非難しているようだった。
 母は差別に苦しむ千鶴を、千鶴が幼い頃からずっと支えてくれて来た。前世では命を捨てて千鶴を護ってくれたし、今世でも同じことをしようとしてくれた。
 昔は千鶴に冷たかった祖父母も、本当は千鶴を陰で支えてくれていたし、今では心を一つにできるようになった。
 そんな母や祖父母が、祝福どころか白い目を向けているのだ。それは千鶴にとって、何よりつらいものだった。
 忠之の世話が必要でなくなった時には、土佐へ来るようにと祖父は言っていた。それなのに千鶴が土佐ではなくスタニスラフを選んだのは、スタニスラフの気持ちだった。
 土佐に行ったところで、自分を受け入れてくれる人がいるとは限らない。それに進之丞は自分がいなければ、千鶴はスタニスラフと一緒になっていたのかもしれないと言っていた。だから、多少の不安はあるものの、スタニスラフと生きて行くことを決めたのだ。
 しかし、そんなことは誰にも理解してもらえない。進之丞が死んでまだ一月ひとつきが過ぎたばかりなのに、スタニスラフの元へ行くなど、普通に考えれば有り得ない話である。
 もしスタニスラフが近々ヨーロッパへ行くというのでなければ、いずれはスタニスラフと一緒になるとしても、今すぐということは言わなかった。今を逃せば、進之丞に続いてスタニスラフとも、永遠に別れることになると思ったから今となったのだ。
 それでも自分の言い分が間違っていることを、千鶴はわかっていた。自分が決めたことが家族を傷つけ、多大なる世話になった和尚夫婦までをも落胆させてしまったことに、千鶴は気持ちが沈んでいた。
 千鶴がスタニスラフと一緒に行くと宣言してから、祖父母や母は土佐へ行く準備を始めた。まるで千鶴がすることに自分たちは関係ないと言わんばかりである。
 知念和尚と安子は千鶴を否定はしなかったが、肯定もしてくれなかった。もちろん祝福などしてくれない。表向きは和やかに接してくれているが、二人の心も千鶴から遠ざかってしまったようだ。
 あの場にはいなかったが、和尚か安子に聞かされたのだろう。忠之だけは千鶴を祝福し、きっと幸せになれると言ってくれた。
 自分が避けて逃げようとした忠之だけが祝福してくれたのである。だんだんとは言ったものの、嬉しさよりも悲しさがつのるばかりだった。

 甚右衛門たちは土佐へ行く前に、松山の組合長の所へ少しだけ滞在することになっていた。それで甚右衛門は春子の家に電話を借りに行った。
 その時に千鶴がスタニスラフと一緒になるという話は、修造たちにも伝わったようだ。みんなは驚いたそうだが、甚右衛門の表情を見たからだろう。ほうかなと言っただけで、祝福の言葉はなかったらしい。
 しかし、甚右衛門が電話をした組合長は違っていた。
 組合長に今の状況を話すと、組合長は千鶴とスタニスラフのために一席設けたいと申し出たと言う。
 甚右衛門は即座にそれを断ったが、二度と会えないであろう孫娘のために、最後に祝宴を開いてやれと組合長に言われた。
 進之丞が死んだのに祝宴など開けないと甚右衛門が言うと、進之丞は元々この世の者ではなかったのだから、厳密に喪に服する必要もないのではないかと、逆に甚右衛門は諭された。
 また、幸子と辰蔵が着る予定だった婚礼の衣装を預かったままだから、それを千鶴とスタニスラフに合わせて仕立て直せばいいと組合長は言った。婚礼のための手間はいらないということである。
 とにかく可愛い孫娘のために、最後にしてやれることをするべきだと強く促され、結局、甚右衛門はそうすることに決めた。
 つまり、それは組合長夫婦を仲人にして、松山で千鶴とスタニスラフの祝言を挙げるということだった。
 寺に戻った甚右衛門は、その話を千鶴に聞かせた。これは自分の考えではなく、組合長からの申し出だと甚右衛門は強調した。
 しかし、組合長が何を言ったところで、甚右衛門が断ればそれまでの話である。それは甚右衛門が千鶴たちを祝福してくれるということだった。
 千鶴は甚右衛門の手を握り、ありがとうございます――と泣きながら感謝した。
 甚右衛門も涙ぐみ、幸せになるんぞと言った。

 祖父に認めてもらい、祝福までしてもらった千鶴は、随分気持ちが楽になった。それに組合長までもが祝ってくれて、二人のための祝言を挙げさせてくれるのだ。千鶴にとって、こんなに嬉しいことはなかった。
 まだ祝言を挙げていないのに、スタニスラフの妻になった気分である。千鶴はようやく新たな一歩を踏み出せた気になった。
 そのせいなのか、千鶴は忠之を進之丞だと思わなくなっていた。
 忠之が進之丞と同じ姿をしていることは変わらない。にもかかわらず、進之丞を思い出さないということに違和感を覚えないまま、千鶴は忠之に対して明るく接するようになっていた。
 甚右衛門が千鶴たちに祝言を挙げさせると決めたことで、渋々ながらではあるが、トミも幸子も二人を認めてくれた。
 また和尚夫婦も割り切ったような表情で、千鶴におめでとうと言ってくれた。
 この展開にスタニスラフは大喜びだった。千鶴と一緒になれるばかりか、松山で式を挙げさせてもらえるのである。
 自分の言い分が通って、自分の思い通りになったからだろう。スタニスラフは以前よりも大胆になり、人前でも平気で千鶴を抱いたり、唇を求めようとした。
 日本人である千鶴は、さすがに人前でそのようなことはできず、スタニスラフを退けるのだが、人が見ていないところでは、スタニスラフを拒むことはなかった。
 そうして千鶴がスタニスラフに抱かれている時、ふと天邪鬼に対して放った言葉が思い出された。
 ――おらはこの人と一緒におれて幸せぞな。この人ががんごであろうとなかろうと、そげなことは関係ない。たとえ死んでも、この人とのつながりはずっと残るんよ。ほじゃけん、何があっても、おら安心しよるぞな。
 たとえ死んでも進之丞とのつながりはずっと残ると、あの時、自分でそう言ったのだ。それなのに実際はどうなのか。
 千鶴は進之丞を失った悲しみから逃れるために、スタニスラフといることを選んだ。それは進之丞を捨てたのではなく、進之丞のことは大切に胸に仕舞ったつもりだった。
 しかし、実際スタニスラフに抱かれている時、千鶴が進之丞を思い出すことはなかった。スタニスラフに求められる悦びに浸り、進之丞のことは忘れていたのである。しかも進之丞が死んでから、まだ一月ひとつきあまりしか経っていないのだ。
 千鶴はスタニスラフを押し退けると、背中を向けた。どうしたのかとたずねるスタニスラフに、千鶴は返事をしなかった。
 天邪鬼に対してあれだけの見得を切ったのである。また、進之丞も千鶴と縁があったことを、心の底から幸せに思っていると言ってくれた。それなのに――。
 千鶴は少し一人になりたいと言うと、スタニスラフから離れた。

      二

 その夜、千鶴が寝ている部屋へスタニスラフが忍び込んで来た。結婚するのだから別に構わないだろうと、スタニスラフは思っていたようだ。
 スタニスラフは眠っている千鶴の布団に潜り込んで来て、いきなり千鶴に抱きついた。驚いて目を覚ました千鶴は、求めて来るスタニスラフに対して本気で怒った。
 まだ夫婦にもなっていないのに、そのような行為は許されないことである。千鶴もスタニスラフの妻になった気分でいたが、やはりそこはきちんとしていたかった。
 それに進之丞はここで死んだのである。こんな所でスタニスラフの求めに応じるなど絶対にできないことだ。それはあまりにも進之丞をないがしろにすることだった。
 今度こんなことをすればヨーロッパ行きは取り止めると、激しい剣幕で千鶴が言うと、スタニスラフはすごすごと残念そうに自分の部屋へ戻って行った。
 それでも興奮冷めやらぬ千鶴は、進之丞に申し訳ない気持ちになった。またスタニスラフの妻になることが、とても不安になった。
 本当はスタニスラフと一緒になるというだけでも、進之丞に申し訳ないのに、ここのところは進之丞のことを思い浮かべることがなくなっていた。
 いずれはそんな時が来るのだとしても、進之丞が死んだのは、ついこないだのことなのだ。一緒に鬼になるという千鶴の申し出を拒み、進之丞が死んだ時のことを忘れるなど、自分でも信じられないほどの愚かさである。
 結局自分は進之丞の代わりになる男を求めているだけなのかと、千鶴は自分を情けなく思っていた。
 今の自分を進之丞が見たら、どんな気持ちになるだろう。萬翠荘の舞踏会を、窓の外から眺めていた進之丞が、どんな想いでいたのかを思い出すと、千鶴は悲しくなった。
 確かにスタニスラフは優しい。しかし、スタニスラフは進之丞ではない。
 進之丞は他人を気遣う気持ちを忘れたことがない。特に千鶴の気持ちは何より大切にしてくれた。自分の本当の気持ちを殺してでも千鶴のために動いてくれた。
 それなのにスタニスラフときたら、千鶴が困ったり恥をかいたりするかもしれないのに、常に自分の気持ちが最優先だ。今だって自分が千鶴を抱きたいと思ったから来たのであり、千鶴の気持ちなど二の次である。
 スタニスラフは自分がこうだと思えば、相手や周りがどう思っていようと、力尽くで思ったことをやる性格だ。しかも相当なやきもち焼きで、千鶴を自分だけの物にしていたいと考えているようだ。
 千鶴はスタニスラフの妻になる自信がなくなって来た。スタニスラフの強引さに振り回されて、喧嘩ばかりしてしまうような気がする。
 思えば忠之に惹かれたのは、忠之が優しかったからだけではなかった。前世から続く忠之の温もりが、千鶴の本当の居場所のように感じられたのである。
 しかし、スタニスラフにその温もりは感じられない。スタニスラフの優しさは、進之丞の優しさと比べると、とても薄っぺらで押しつけがましく思えてしまう。
 鬼が現れた時、スタニスラフは自分が千鶴を護ると言った。しかし、スタニスラフは鬼と戦ったわけではない。進之丞は命を懸けて戦い、千鶴の身代わりに鬼になったのである。
 暗い部屋の中で、千鶴は一人で泣いた。
 進之丞に会いたかった。一目でいいから会いたかった。現実に会えないのであれば、せめて夢の中で会いたかった。
 千鶴は進之丞と過ごした日々のことを思い出そうとした。進之丞のいろんな顔や姿を思い出したかった。だが、進之丞の顔も姿も浮かんで来なかった。
 驚いた千鶴は何でもいいから思い出そうとした。しかし、何とか思い出せたのは、風寄で進之丞に助けてもらったことや、春子と一緒に進之丞に人力車で運んでもらった時のことぐらいだった。
 進之丞と山﨑機織で過ごした思い出は、何一つ浮かんで来ない。進之丞の姿どころか、進之丞と一緒に過ごしたはずのことが、何も思い出せないのである。
 進之丞以外の者たちとのことは、簡単に思い出すことができた。可愛い丁稚たちの言い争う様子は、思わず微笑むほどに思い出せるし、辰蔵や花江の笑顔もすぐに思い浮かべることができた。それなのに進之丞のことだけが思い出せないのだ。
 千鶴は焦った。これまで何があったのかを思い出しながら、その時のことを懸命に思い浮かべたが、やはり無理だった。
 風寄へ進之丞を迎えに来て、自分も前世のことを覚えていると告げ、互いに抱き合って泣いたことは、事実としては思い出した。しかし、その時の場面が浮かんで来ない。
 千鶴は初めて鬼が現れた夜のことを思い出そうとした。
 萬翠荘での晩餐会や舞踏会が楽しかったことや、人力車の中でスタニスラフに心が揺れたことは、今もそこにいるかのように思い出せる。そのあと特高警察に捕まって、暗い夜道へ連れ込まれた時のことも目に浮かべることができた。
 ところが、そのあとのことが思い出せなかった。
 鬼が助けてくれたことはわかっている。しかし、その鬼の姿が思い出せないし、鬼が何をしたかもわからなかった。
 高浜港でミハイルとスタニスラフを見送った時のことは思い出せた。そのあと、進之丞を探して泣いたことは覚えているのに、進之丞が姿を見せてくれた場面が思い浮かばない。
 雲祥寺の墓地で自分の正体を明かした進之丞を、泣きながら励ました時のことも、進之丞が特高警察や荒くれ男たちと戦ってくれた時のことも、何も思い出せない。
 あの城山で天邪鬼と対峙たいじした時のことですら、千鶴は思い出せなくなっていた。そういう事実があったことはわかっているが、その事実があったことさえもが、今にも消えて行きそうなはかない感じがする。
 嵐の中を瀕死の鬼に法生寺まで運んでもらい、鬼にすがって泣いたことも遠い夢の世界のようだ。
 鬼がどんな姿をしていて、進之丞とどんな別れをしたのかも、出来事そのものが記憶からほとんど消えかけていた。
 何より大切だった進之丞が、どんどん自分の中から消えて行く。それを止められない千鶴は叫びたい気持ちになった。
 かろうじて残っている初めて出会った時の進之丞の顔を思い浮かべ、どうか消えないでと千鶴は必死に祈った。しかしその顔もはっきりしない上に、次第に自分とは関係のない他人の顔のように思えて来る。
 このまま眠ってしまえば、次に目が覚めた時には、進之丞のことは全て忘れてしまうような気がして、千鶴は眠ることができなくなった。
 どうしてこんなことになったのだろうと考えるうちに、進之丞という名前さえもが、誰のことなのかがわからなくなるようだった。

      三

 翌朝、千鶴は暗いうちから布団を出ると、まだ寒いままの客間へ行って、知念和尚と安子が起きて来るのを待った。
 しばらくすると安子が現れ、千鶴を見つけて驚いた。
 どうしてこんな早く起きるのかと言われ、千鶴は自分に起こった異変を安子に話した。だが、話しながらも進之丞の名前がすぐに出て来ず、涙がぼろぼろ出るばかりだった。
 安子は千鶴に待つよう言うと、知念和尚を連れて来た。和尚は少し寝惚けた様子だったが、千鶴の話を聞くと眉をひそめて、うーむと唸った。
 安子が火鉢を用意する横で、和尚は千鶴を落ち着かせながら、何を覚えていて何を覚えていないのかを聞き取った。また、覚えていることについても関心が薄れて行くものは何なのかを確かめた。
 そのあと和尚はふーむと言うと、千鶴に前世のことを思い出せるかと訊ねた。
 千鶴は前世の記憶を探ってみたが、思い出せることは何一つなかった。当時のことが思い浮かばないどころか、何があったのかを全て忘れてしまっていた。
 鬼に襲われたことや、進之丞に助けられたこと、子供の頃の進之丞との出会いや、遍路旅の途中で母親が鬼に殺されたことなどを、和尚から確認されても、そんなことがあったことすらわからなくなっていた。
 ほういうことかと知念和尚はうなずくと、千鶴の中にいた前世の千鶴が姿を消したのだろうと言った。
「つまり、千鶴ちゃんは進之丞に出会う前の、元の千鶴ちゃんに戻りつつあるいうことぞな」
「ほれはどがぁな……」
がんごとなった進之丞がおらんなったからか、あるいは鬼が成仏して鬼でなくなったからなんかしらんけんど、千鶴ちゃんが今世で本来あるべき状況に戻ろとしとるんじゃろ」
「ほんな……、ほやかて、あの人はうちにとって……」
「あの人て誰のことぞな?」
 もう進之丞という名前が出て来ない。千鶴は唇を噛んだ。
「あの人は……、あの人ぞなもし」
「じゃあ、あの人は千鶴ちゃんにとって何やったんぞな?」
「ほれは……」
 千鶴は答えられなくなっていた。
 自分にとって大切な人がいたはずだという、感覚のような想いが残っているだけで、具体的なことは何も思い出せなくなっていた。
「うちがスタニスラフと生きることにしたけん、ばちが当たったんでしょか」
 うろたえる千鶴に知念和尚は諭すように言った。
「わしや安子も含めてみんなほうやが、前世のことを覚えて暮らしよるもんなんぞおらんじゃろ? ほれが本来の姿であるわけで、千鶴ちゃんは本来の姿に戻ったんよ。ばちなんぞやないぞな」
 安子も千鶴を励ますように話しかけた。
「千鶴ちゃんが今世で進之丞さんにうとらんかったら、どがぁな道を進みよったじゃろかて考えたらええんよ。もしかしたら、あのロシアの子と一緒になることが、千鶴ちゃんのほんまの道やったんかもしれんぞな」
 スタニスラフと一緒に行くと決めたことで、今世の本来の道に戻ったということなのか。それで前世の自分は居場所がなくなり、元いた場所に引っ込んだのか。
 確かにそうなのかもしれないと千鶴は思った。
 スタニスラフに唇を許した時、千鶴は進之丞への想いを封じたことを思い出した。進之丞への想いを封じたということは、進之丞を知る前世の自分を封じたということなのだ。
 だから、前世の自分が関わる記憶が消えてしまったのである。進之丞と過ごした二年のほとんどは、自分の意識を占めていたのは前世の自分だったのだろう。現世の自分が覚えているのは、進之丞が関わっていないところだけだ。
 進之丞が消えたことで、忠之は元の自分を取り戻した。しかし、二年の記憶は失われた状態だ。
 今の自分は忠之と同じだった。前世の自分が消えたことで、この二年のほとんどの記憶が失われたのだ。だからスタニスラフと生きるということに浮かれていたし、忠之を見ても平気になったのに違いなかった。
 今は前世の記憶が失われることでうろたえているが、やがてこのこと自体を忘れてしまい、何事もなかったようにスタニスラフの妻として生きることになるのだろう。
 千鶴は号泣した。進之丞との想い出がつらくて、そこから逃げ出そうとしたのに、今にも全てが消えてしまいそうなその想い出が、どれだけ自分にとって大切であったのかを思い知らされたようだった。
 忠之が進之丞の記憶を失ったのと同じに思えた千鶴は、やはりこれは忠之に冷たくしたばちなのかもしれないと考えていた。
 記憶を失うことがどれだけつらいのか、身をもって知れと神から言われているようだった。

      四

「いろいろお世話になりましたぞなもし」
 甚右衛門たちは和尚夫婦に何度も礼を述べた。千鶴とスタニスラフの婚礼の準備のため、一足先に松山へ戻るのである。
 幸子は本堂脇にある大きな楠の陰へ千鶴を引っ張って行くと、真剣な顔で言った。
「もういっぺんぎりくけんど、あんた、ほんまにこれでええんやな?」
 千鶴は黙ってうなずいた。もう後戻りはできないのだし、自分にはスタニスラフしかいないのである。
 トミは忠之の両手を握り、しっかり生きて行くようにと励ましている。忠之がトミの手を握り返し、ありがとうございますと感謝を伝えると、忠之の元へ戻った幸子も同じように忠之を励ました。
 甚右衛門は残念そうに、忠之を一緒に連れて行きたいが、土佐での暮らしは苦労が多いだろうから、ここにいた方がいいだろうと言った。
 忠之は甚右衛門にも感謝をし、自分が覚えていない間にも、いろいろ世話になったであろうことについて改めて礼を述べた。
 体に気をつけてと、忠之から逆に気遣われた甚右衛門は泣き出してしまい、何も言えなくなった。同じように感謝され気遣われたトミと幸子も、忠之を抱いて泣いた。
 千鶴は進之丞のことを忘れていた。頭にあるのはスタニスラフと一緒になるということだった。
 しかし、甚右衛門たちと忠之が泣きながら別れを惜しむ姿を眺めていると、はっと進之丞のことを思い出した。
 進之丞は千鶴と夫婦になる決意をし、甚右衛門たちに頭を下げて千鶴が欲しいと頼んだのだ。また、甚右衛門たちも泣きながら、千鶴をよろしく頼むと言ったのである。
 悲しみが込み上げて呆然と立ち尽くす千鶴の肩を、スタニスラフが優しく抱いた。千鶴は思わずスタニスラフから逃げると、忠之の傍へ駆け寄った。
 忠之は千鶴を見て微笑んだ。しかし、その微笑みの向こうには悲しみが隠れているようだった。それはいつも進之丞が見せていた微笑みだ。本当の想いを伝えることができず、黙って千鶴を支え続けてくれていた進之丞の微笑みだった。
「進さん」
 千鶴が声をかけても、忠之は返事をしてくれなかった。千鶴が自分を進之丞と勘違いしているとわかっているからか、否定はしなかったが、微笑むばかりで何も言ってくれなかった。

 千鶴とスタニスラフは甚右衛門たちを北城町にある客馬車の停車場まで見送った。その間、スタニスラフはむすっとしていた。
 甚右衛門たちはスタニスラフを認めていない。千鶴と一緒になることは許しても、それとこれとは別だった。だから、忠之と涙の別れはしても、スタニスラフに笑顔を見せることはなく、千鶴の幸せを願っても、スタニスラフに祝福の声をかけることはなかった。
 三人とも千鶴のことだけは心配しているようで、トミなんかはスタニスラフに聞こえないように、やめるのなら今のうちだとこっそり千鶴に耳打ちをした。
 そんな千鶴の家族と離れたからだろうが、寺に戻る時のスタニスラフは明るさを取り戻していた。
 一方で千鶴は気持ちが沈んでいた。それは家族と別れたからではない。
 前世の自分がふと顔を見せたために、忘れかけていた進之丞の記憶が鮮明に思い起こされたからだ。その大切な記憶が再び色せて行こうとしている。それがわかっていても、その記憶をつなぎ止めておけないことが、千鶴は悔しくて悲しかった。
 石段を登り、山門を潜って境内に入ると、大きな楠の隣に本堂が見える。その本堂の前で忠之が両手を合わせて拝んでいる姿が見えた。
 まだ階段ののぼりは大変だろうに、一人で本堂へ上がって一心に拝んでいる。何を祈っているかはわからない。恐らく祖父母たちの安全を願ってくれているのだろう。
 それでも忠之が拝む姿を眺めているうちに、再び千鶴の頭に進之丞の記憶が蘇って来た。
 進之丞はどこにいても不動明王に向かって手を合わせていた。願うことはいつも千鶴の幸せだった。
 忠之が祈る姿を見ていると、今も進之丞が千鶴の幸せを願ってくれているように思えて、千鶴はぼろぼろ涙をこぼした。
 千鶴が何故泣き出したのかがわからないスタニスラフは、千鶴を抱いて慰めようとした。だが、千鶴はスタニスラフといることが、本当に進之丞が願う幸せなのかがわからなくなっていた。
 千鶴はスタニスラフから離れると、知念和尚の所へ急いだ。進之丞の記憶が残っているうちに訊いておきたいことがあった。

「和尚さん、成仏するとはどがぁなことなんぞなもし?」
 千鶴は知念和尚を見つけるなりただすように訊ねた。
「成仏? どがぁしたんぞな、いきなし」
 きょとんとする和尚に千鶴は言った。急いで喋らなければ、頭の中から進之丞がいなくなろうとしている。
 後ろの襖を閉めると、千鶴は和尚の傍へ行った。
がんごが死んで進さんがこの世を去る時、みんな成仏できて行くべきとこへ行けるようになったて、進さんはこがぁ言いんさったんです。ほんでも、うちが進さんのあとおわって死んでも会えんて言われました。これはどがぁなことでしょうか?」
 この話は以前にも和尚にしたはずだが、その時にはこのことについて深く考えていなかったし、和尚も何も言わなかった。
 知念和尚は少し考えてから、成仏と言っても、言う者にとって意味が違うと言った。
「一般にはな、成仏するいうんは、この世への未練がのうなって、あの世へ行くいう意味になるな。たとえば、未練があると幽霊になってこの世へ留まろうとするが、未練がのうなるとあの世へ行けるいうことぞな。がんごが成仏でけたいうんもこれとついで、己を許せんいう想いから解放されて、やっとあの世へ行けたいうことじゃろ」
 進之丞が言った成仏が、今和尚が話した成仏であれば、進之丞はあの世へ行ったということだ。であれば、後追いをすれば会えるはずだが、進之丞はそれができないと言った。
「和尚さん、今のと違う成仏はどがぁなもんですか?」
「ほれはまことの成仏ぞな。煩悩ぼんのうから抜け出して悟りを開くことを言うんよ。ほれは文字通り、ほんまもんの仏になるいうことぞな」
「ほれは、先に言いんさった成仏とは違うんですか?」
「初めに言うた成仏は、ただあの世へ行くいうぎりのことでな。未練は断てても煩悩から抜け出せたとは限らんのよ。ほじゃけん、そがぁなもんらはもういっぺんこの世へ生まれ変わって、己の煩悩を断ち切る必要があるんぞな」
「ほれが生まれ変わるいうことですか?」
「ほういうことぞな。ただ、誰も己が生まれ変わって来たとはわからんけんな。なかなか煩悩を断ち切るいうんは、むずかしいことなんよ」
「ほれじゃったら、まことの成仏をしんさった人が、生まれ変わるいうことはないんですか?」
「まことに成仏したんなら生まれ変わることはない。その必要がないけんな」
 千鶴は途方に暮れた。
 成仏をした者はあの世へ行ったのち、再びこの世へ生まれ変わる。それは自分が前世から今世に生まれ変わったことで理解ができる。あの世のことは覚えていないが、あの世にいたからこそ地獄にいた進之丞に会いに行くことができたのだ。
 だが、今度は同じようにはできないと進之丞は言った。それは進之丞は千鶴が前に訪れたあの世にはいないということになる。であれば、進之丞は煩悩を断ち切った者たちが行く所へ行ってしまったのか。
「進さんはまことの成仏をしんさったんでしょうか」
「さぁなぁ。ほれはわしにもわからんぞな。がんごというどん底を経験することで悟りを開いたんなら、ほれも有り得るとは思うがな。まことの悟りを開くいうんは、そがぁに簡単なことやないけんな」
 ――あしはもはや過ぎ去りし記憶、過去の幻影に過ぎぬ。
 進之丞の言葉を思い出した千鶴は恐ろしくなった。
「和尚さん、進さんは自分のことを過ぎ去りし記憶、過去の幻影と言いんさったんです。ほれは進さんがほんまに消え去ってしもたいうことなんでしょうか」
 知念和尚は少し考えてから、ほれは恐らく――と言った。
「本来進之丞は前世の人物であって、今世には存在しとらんはずぞな。今世のもんから見て、前世の者がどこにおるんかはわからんけんど、どっか心の奥底でつながっとるんじゃろな。ほれが時折、今回みたいに今世でも顔を出すことがあるんやろが、普段はほれは今世の者からしたら、昔の記憶や過去の幻影みたいなもんなんじゃろ」
「じゃあ、進さんは今もどこかで……」
「誰ぞの心の奥底に居場所を見つけたんかもしれんな。つまり、新たにどっかで生まれ変わったんかもしれんぞな。ほれじゃったら、千鶴ちゃんが後追いしたところで会えんじゃろが」
 そういうことなのかと千鶴は項垂うなだれた。進之丞が消えたのでないのなら、それは嬉しいことだ。しかし、今の進之丞がどこかで産声をあげたばかりの赤ん坊であるなら、もう二人が出会うことはないだろう。
 出会ったとしても互いを知るすべがないし、向こうは赤ん坊だ。これはもう二人が別々の道を歩むしかないということになる。
 そう、もはや進之丞は千鶴にとって過ぎ去りし記憶であり、過去の幻影なのだ。千鶴が前を向いて歩み出したなら、忘れ去られるものなのである。
 悲しいけれど、気持ちの整理がついた気がした千鶴は、知念和尚に礼を述べて部屋を出た。
 廊下にはスタニスラフが不満そうに立っていた。

「何ノ話、シテマァシタカ?」
 詰問するようにスタニスラフが訊ねたが、何でもないと千鶴は言った。しかし、スタニスラフは襖越しに話を盗み聞きしていたらしい。詳しい話の内容はわからなくても、進之丞の話をしていたことはわかったようだった。
 自分と結婚するのに、まだ進之丞が忘れられないのかと、スタニスラフは今にも怒り出しそうな顔で千鶴を責めた。
 また、千鶴には自分しかいないのに、自分が見捨てたらどうするつもりなのかと言った。
 千鶴はスタニスラフが優しい人だと思っていた。だが、本当はそうではなかったのかと疑いの気持ちを持った。
 スタニスラフがやきもち焼きなのはわかっていたが、それはそれだけ自分のことを好いてくれているからだと千鶴は考えていた。しかし、ここまで嫉妬深いとは思っていなかった。
 スタニスラフは千鶴の顔が常に自分の方を向いていないと気に入らないらしい。千鶴が他の方を見るのを嫌がるし、見ているのが他の男であれば我慢がならないようだ。
 祖父たちが別れを惜しんでいた忠之の所へ、千鶴が駆け寄ったことまで蒸し返して、スタニスラフは文句を言った。
 仮面を外したスタニスラフの本当の顔を見た気がして、千鶴は呆然となった。これまでは千鶴を手に入れるために隠していた顔を、千鶴を手に入れたという安心で見せてしまったに違いない。
「あなたはひどいお人ぞなもし。他人の話を盗み聞きするぎりでも許されんのに、相手がどんだけ傷ついとるんか考えもせんで、何でもご自分の気に入るようにしんさるんじゃね。うちはあなたの物やありません。うちはあなたとおんなし人間ぞな。ほれがわからんのじゃったら、さっさと一人で神戸へ戻りんさったらよろし」
 思いがけない千鶴の反撃にあったスタニスラフは、うろたえながらおとなしくなり、ゴメナサイと千鶴に謝った。
 だが、千鶴のスタニスラフへの気持ちは冷めていた。ただ、スタニスラフと一緒に行くという話を、本気でくつがえすことまでは考えていなかった。自分には他に選ぶ道はないし、すでに二人が夫婦になるということで全てが動き出している。
 しかし、この先どんなにスタニスラフが優しくしてくれたとしても、スタニスラフの裏の顔を忘れることはないだろう。また、スタニスラフには決して補うことができない、一抹の寂しさがついて回ることを千鶴は感じていた。
 きっとその寂しさは死ぬまで一生残るだろうと思ったが、千鶴は何故自分がその寂しさを感じるのかがわからなくなっていた。
 今それについて、ここで知念和尚と何かを喋っていたのは覚えている。だが、どんな話をしていたのかを、千鶴は思い出すことができなかった。

      五

 千鶴とスタニスラフが法生寺を去るこの日、しくも風寄の祭りが始まった。村々をだんじりや神輿が、賑やかに練り歩くのが寺門から見えた。村の様子にスタニスラフは興奮気味だ。
 春子の家には昨日のうちに、千鶴が一人で挨拶に行って来た。
 スタニスラフは千鶴を一人で行かせることを嫌がった。行った先に男たちがいるのを気にしたようだ。
 それでもロシア人を嫌う者もいるだろうからと、千鶴はスタニスラフを無理やり寺に残して出かけた。恐らくスタニスラフと一緒であれば、落ち着いて話ができなかったはずだった。
 忠之のことはみんなが残念がっていたが、事情を知っているので千鶴を悪く言う者はいなかった。それにスタニスラフは久松伯爵夫妻の前で、千鶴と結婚を誓い合った男である。
 そこの真偽は誰も確かめなかったが、スタニスラフなら間違いないと、みんなは千鶴を祝福してくれた。また、ヨーロッパに行ってもがんばるようにと応援してくれた。

 この日は松山へ着いたら、早速スタニスラフとの祝言を挙げることになっている。二人の婚礼衣装は母と祖母が仕立て直してくれているはずだ。
 だが、その前に銭湯で体をきれいにしなくてはならないし、千鶴は髪を結う必要がある。いろいろ時間は決められており、それに合わせて動かなければならなかった。
 祭りの間は松山への客馬車は走らない。それで乗合自動車で松山へ向かうことになっているが、その時刻が迫っていた。
 乗合自動車のことを考えると、二年前に春子に誘われて、風寄の祭りを見に来た時のことが思い出される。
 あの時には帰りの客馬車や乗合自動車がなくて、このままでは退学になると、春子と二人で泣いたのだ。その時に救いの手を差し伸べてくれたのが忠之だった。
 確か、忠之には暴漢から護ってもらったこともあった。いい人だと思っていたが、まさかその人が山﨑機織で働くことになったとはと、千鶴は感慨深い気持ちになった。
 どうして忠之が山﨑機織で働くことになったのか、その経緯はわからないが、真面目な人柄が祖父たちに気に入られたに違いない。
 店にいた頃の忠之のことは何も覚えていないが、いろいろ世話になったはずである。その忠之が山でイノシシに襲われて死ぬほどの大怪我をしたことを、千鶴はとても気の毒に思っていた。
 伊予絣業界の不振の波に呑まれて、山﨑機織が潰れてしまったため、故郷である風寄へ戻って来たのだろうが、仕事を失い大怪我をするだなんて、まさに踏んだり蹴ったりである。
 しかも大怪我で伏せっている間に、身内の老夫婦までもが死んでしまったそうだから、不幸が一度に襲って来たようなものだ。
 ここを離れる前に、一言声をかけて励ましてやりたいと千鶴は思っているのだが、いったいどこへ行ってしまったのか、忠之の姿は今朝から見かけない。
 自分は何もしたつもりはないのだが、本当に世話になったと忠之には感謝されている。まだ体の様子がよくないのに、その忠之を残して自分だけが幸せになることが、何となく後ろめたい気はする。
 だからこそ最後に忠之に挨拶をして励ましてやりたいのだが、忠之がどこへ行ったのかは誰も知らなかった。
 ただ寺男の伝蔵が、忠之が本堂でご本尊の不動明王に手を合わせていたのを目にしている。しかし、それが最後であとの行方はわからない。
 もし忠之が大怪我をしていなければ、恐らく自分たちはここへは来ていなかっただろう。きっと今頃は祖父母と一緒に土佐の親戚を訪ねていたはずだ。そうなるとスタニスラフとの再会もなかったわけで、この日を迎えることもなかったのだ。
 そう考えると、やはり忠之には感謝をしなくてはいけないと思ったが、そろそろ出発の時刻になりそうだ。

 知念和尚は出発前に千鶴に見せておきたい物があると言い、千鶴について来るよう手招きをした。千鶴が和尚について行くと、スタニスラフも一緒に行こうとした。
 すると、安子がスタニスラフを引き留めて、千鶴と和尚の二人だけの別れの時だからと言った。それでもスタニスラフはついて行こうとしたが、千鶴にきつく叱られて、結局は安子の傍にとどまった。
 知念和尚が千鶴を連れて来たのは寺の墓地だった。
 千鶴は寺の仕事を手伝っていたので、墓地の掃除もしていた。だから和尚は今更ここにどうして自分を連れて来たのだろうと思っていた。
 知念和尚は墓の一つを指差して、この墓は慈命和尚という、明治の前にこの寺にいた住職の墓だと言った。
 その古い墓は千鶴も目にしていた。だが、それが慈命和尚の墓だとは知らなかったし、知ったところでどうということはなかった。
 出発が迫ったこの時に、知念和尚はこの寺の歴史を話すつもりなのかと千鶴はいぶかしんだ。
 しかし、和尚は寺の歴史を語ることなく、今度は別の墓を千鶴に示した。それも古いが大きく立派な墓だった。
 和尚はこの墓が風寄にいた代官の墓だと言った。この墓も目にしていた千鶴は、ほうですかと言うだけで和尚の意図がわからなかった。
 その隣には少し小ぶりの墓があり、それはこの代官の妻の墓だと和尚は言った。何でもこの代官の妻は、代官が亡くなったあと、この寺で尼として暮らしながら、代官を弔い続けていたらしい。
 やはり寺の歴史の話かと千鶴が思っていると、知念和尚はこの代官夫婦には一人息子がいたのだと言った。
 その一人息子も代官が亡くなった時に命を落としたのだが、その墓が見つからなかったと言う。
 知念和尚は千鶴を墓地の片隅へいざなった。そこは無縁仏の墓が集められた所だ。
 四国遍路の旅をしていると、旅の途中で亡くなる者もいる。その者たちは近隣の村人たちの手で、遍路道の脇に葬られる。しかし、先の慈命和尚は旅の途中で亡くなった、身寄りのない者たちのことを引き受けて、ここに墓を作っていたそうだ。
 慈命和尚という方は、その名のとおりに人を思いやる優しい人だったのだなと千鶴は思った。それでもまだ千鶴には和尚が何を言わんとしているのかがわからない。
 知念和尚は無縁仏の墓が並ぶ片隅に、ひっそりたたずんだ二つの小さな墓石を指差すと、千鶴に見せたかったのはこの墓だと言った。
「先に言うた代官の息子の墓がな、これなんよ。わしもここ来て十五年になるけんど、こがぁな所に隠れよったとは、ちぃとも気づかなんだ。ほれがな、昨日になって偶然見つけたんよ」
 しかし墓は二つある。そのことを訊ねると、和尚はその墓は代官の息子の許嫁の墓だと言った。
「その許嫁はな、千鶴ちゃんみたいに異国の血を引いた娘なんよ。ほじゃけん、村の者らから冷とうされよったそうな」
「そがぁな娘さんを、お代官の息子は嫁にしようとしんさったんですか?」
 ほうよと和尚はうなずき、代官の息子は心が広く気高い人物だったと思うと言った。また、自分の息子が異国の血を引く娘を、嫁にすることを認めた代官も立派だと和尚は褒め称えた。
 確かにそれは和尚の言うとおりだと千鶴は思った。自分だってスタニスラフでなければ、嫁に欲しいと言ってくれる者などいない。
 しかし、何故その二人の墓がこんな所に、ひっそりと作られたのかと千鶴は疑問に思った。
 それについて和尚は、二人が夫婦になる直前に事件が起きたと言った。
 それはこの娘を狙った鬼が村を襲い、娘をさらったというものだった。その時に慈命和尚も代官も命を落とし、代官の息子は娘を取り戻そうと鬼を追ったのだと言う。
 鬼が本当にいたということに千鶴は驚きながら、和尚の話に引き込まれた。それで代官の息子は許嫁を取り戻せたのかと訊ねると、和尚は悲しそうな顔で小さくうなずいた。
「代官の息子はな、その娘を助けることはできたんよ。やがな、その代償に己自身が鬼になってしもたんよ」
 千鶴は思わず息を呑んだ。そんなことがあるのだろうか。
 和尚は話を続け、代官の息子は鬼になる前に深手を負って、長くは生きられなかったと言った。
 そこへ今度は異国人を敵視する攘夷じょうい侍が何人も現れて、せっかく助けたはずの娘に襲いかかったと、和尚は自分の目で見ていたかのように話した。
 鬼になった代官の息子は、傷ついた体で必死になって侍たちと戦った。そして娘を護りきったところで力尽きて海に沈み、娘もその鬼を追って海に姿を消したそうだと和尚は語った。
 知念和尚は喋りながら涙ぐんでいた。恐らく言い伝えの話だろうに、何故涙ぐむのだろうと思いながら、千鶴はしゃがんで二つの墓石を眺めた。
 それぞれには名前が彫り込んであるが、とても古い石のようで、何と書いてあるのかは読みづらかった。それでも千鶴は凝視して読んで見た。
 右の墓石に刻まれた名前は長かったが、左の方は二文字だけだった。それで千鶴は左の方から読んだ。
「千……鶴?」
 え?――と千鶴は和尚を振り返った。
「うちとおんなし名前?」
 和尚はうなずくと、隣の墓も読んでみるようにと言った。
 千鶴は右の墓に目を向けると、ゆっくりと上から順に刻まれた文字を読み上げた。
「佐……伯……進……之……丞……忠……之?」
「ほうじゃ。ほれが代官の息子の名前ぞな。この名前見て、千鶴ちゃん、何とも感じんかな?」
 千鶴はもう一度墓石の名前を見ると、佐伯さんの名前と似ていると言った。それはそうだと和尚はうなずき、忠之の名前は代官の名前から付けたものだと言った。
 また進之丞というのは呼び名であり、忠之というのはいみなというもので、それが本当の名前だと和尚は説明した。
「この墓をこさえたんは、恐らくこの進之丞の母親じゃと、わしは思とるんよ。ほれにしても代官の息子なんじゃけん、ほんまじゃったら、もうちぃと立派な墓を建てたらよかったのに、こがぁな所にひっそりあるんはなしてじゃと思う?」
 千鶴が首を横に振ると、身分違いの娘が侍の嫁になるには、婚姻の前にいったん武家の養女になる必要があったと和尚は話した。
「ほんでもこん時には、まだ千鶴ちゃんはお武家の養女やなかったけん、立派な墓は建てられなんだ。ほじゃけん、進之丞の母親は息子の墓を千鶴ちゃんの墓に合わせて、こがぁな形にしたんじゃと思う。きっと千鶴ちゃんのことを大事に思てくんさったんじゃろな」
 和尚の言葉に千鶴が眉をひそめていると、和尚は慌ててここにおった娘のことぞなと言い直した。
「千鶴ちゃんとついの名前じゃけん、ごっちゃになってしもたわい」
「ほら、そがぁなりますよね」
 千鶴は笑って立ち上がった。何だか悲しい話だが、そろそろ行く時間である。向こうでスタニスラフが不機嫌になっているに違いなかった。スタニスラフは優しいけれど、やきもち焼きで気が短いのが玉にきずである
 知念和尚に珍しい話を聞かせてもらったお礼を述べると、千鶴は改めて二つの墓石に向かって手を合わせて話しかけた。
「夫婦になれんかったんは残念なけんど、二人とも今度生まれ変わって来たら、ほん時には必ず夫婦になれるけんね」
 そう言った千鶴の頬を、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。何故涙が流れたのか、千鶴にもわからない。ただ、仲睦なかむつまじく並んでいる墓石を眺めていると、自然に涙がこぼれてしまう。
 千鶴は涙を拭くと、知念和尚に照れ笑いをしながら言った。
「妙ですね。何か勝手に涙が出て来てしもた」
 和尚はさらに何かを言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。
「何かこのお墓見よったら、スタニスラフやのうて佐伯さんのお嫁になりんさいて言われとるような気がしたぞなもし」
 千鶴が冗談を言うと、和尚は顔をゆがめて涙をこぼした。
 どがぁしんさったんですかと千鶴が訊ねると、和尚はあわてて涙を拭き、何でもないと言って笑った。

      六

 いよいよ出発の時が来た。
 千鶴は忠之に別れの挨拶をしたかった。だが、忠之を探している暇はない。ずっと待たされていたスタニスラフが、和尚夫婦の前でも不機嫌を隠そうとせずに、しきりに時間を気にしている。
「ほんまに、こがぁな時に、どこへ行ってしもたんじゃろか」
 安子がうろたえ気味に言った。
「ずっと一緒におりんさった千鶴さんが、もうおらんなるんじゃけん、どっかで隠れて泣きよるんやなかろか」
 寺男の伝蔵が笑って言った。しかし、その笑みは半分で、残り半分は何だか悲しそうだった。
千鶴チヅゥ、急ガナイト、自動車ジドシヤガ、来マズゥ」
 スタニスラフがいらいらした顔で言った。
 だが、千鶴は忠之が気になった。だいぶ歩けるようになったとは言え、まだ足下が悪いと転びかねない状態だった。スタニスラフとのことがなければ、もう少し傍にいてやりたいところだ。寺の中にいるのならばいいのだが、外に出ていたらと思うと心配になった。
 さっきの墓石のこともあり、千鶴はどうしても忠之の顔が見たかった。しかし、スタニスラフはそれを許してくれなかった。
 乗合自動車の時間のこともあるのだろうが、それ以上に、千鶴が自分以外の男のことを考えることが許せないようだ。
 結局、後ろ髪を引かれながらも、千鶴はこのまま忠之に会わずに行くことにした。それで、改めて和尚夫婦や伝蔵に世話になった礼を述べると、佐伯さんをよろしくお願いしますと言った。
 だが、元々忠之は和尚夫婦の子供のようなものである。何も心配することはないと和尚は言い、幸せにね――と安子は千鶴とスタニスラフの手を握った。
 ずっといらいらしていたくせに、この時ばかりはスタニスラフは千鶴の肩を抱き、ダイジヨブ――と誇らしげに言った。
 スタニスラフの自信に満ちた笑顔を見ながら、千鶴は不安を感じていた。
 今のスタニスラフを見ていると、自分が思っていたのとは違うように思える時がある。だから、この先のことを考えると、確かに不安はあるのだが、今感じている不安はその不安ではない。このままここを立ち去っても、本当にいいのだろうかという不安だった。
 何かが胸の中で叫んでいるような気がする。それでも千鶴は何でもないふりをして、境内にある楠の老木を抱きしめた。何百年も前からここにいるというこの老木は、千鶴のお気に入りだった。
 後ろでスタニスラフが、またかという顔をしているが、スタニスラフの言いなりになるのは嫌だった。それで千鶴は構わず本堂へ向かった。もう二度とここを訪れることはないだろうから、法生寺のご本尊であるお不動さまに挨拶をしておきたかった。
 炎を背負い剣と索を手にした不動明王を見ると、千鶴は何故か懐かしい気がした。
「お不動さま。これまで長い間、お世話になりました」
 千鶴は不動明王に手を合わせたが、奇妙なことに前にも同じことをしたような気がした。
 だが、これまでそんなことをした記憶はない。忠之の世話や突然迎えに来てくれたスタニスラフのことなどで、失礼ながら不動明王に挨拶する余裕がなかった。
 それなのに、何故か前にもここで同じように不動明王に手を合わせたような気がするし、自分ではない誰かがここで不動明王に何かを祈っていたような気もした。
 その時、一心に不動明王に祈る誰かの後ろ姿が、千鶴の脳裏に浮かんだ。その幻は一瞬にして、今千鶴が立っている場所に立った。
 千鶴は幻の人物と重なっている。千鶴の頭の中に、その人物が祈る声が聞こえて来た。
 ――千鶴が幸せになりますように。どうか、千鶴が幸せを見つけますように。
「進……さん?」
 千鶴の中に進之丞の記憶が蘇った。
 知念和尚が見せてくれた、自分たちの小さな墓石を千鶴は思い出した。仲睦まじそうなあの墓石の姿こそ、自分が求めていたものであり、本来自分たちのあるべき姿だった。
 千鶴は泣いた。大声を上げて泣きたかったが、スタニスラフに来られたくはなかったので、両手を合わせながら声を殺して泣いた。
 だが、進之丞がいないという現実は同じであり、すぐそこでスタニスラフが待っている。自分が行くべき道はすでに決まっていた。
 それでもまだ迷いがある千鶴は不動明王に祈った。進之丞は誰の中にもお不動さまがいて、人を正しき道に導かれると言っていた。だが、千鶴にはその道がわからなかった。
 ――お不動さま。どうか、うちを導いてつかぁさい。うちはどがぁすればええんでしょうか。
 千鶴は祈った。しかし、心の中にいるはずのお不動さまは、何も語ってくれなかった。
 それでも千鶴は、たった一度でいいから、もう一度だけ進さんに会わせて欲しいと願った。
 だが、所詮しょせんそれは無理な願いだった。進之丞はもういないのである。今頃どこかの赤ん坊になっているだろうし、その赤ん坊を見ても、それが進之丞であると知ることもできないのだ。
 千鶴が落胆を隠して本堂を離れると、スタニスラフが爆発寸前の顔をしていた。
 知念和尚はもう一泊していけばどうかと冗談を言ったが、スタニスラフは噛みつきそうな顔で、絶対にそれは嫌だと言い返した。
 和尚は少しむっとしたが、スタニスラフは気にすることもなく。戻って来た千鶴をかした。安子は呆れた顔をしていたが、目を赤くした千鶴を見て心配した。
 知念和尚も千鶴に声をかけたが、二人が千鶴に事情を聞いている暇はなく、スタニスラフは千鶴の手を引いて寺を出た。

 寺門の外の石段は急なので、スタニスラフに手を引かれたのでは転びそうになる。千鶴はスタニスラフの手を振り放すと、一人で石段を下りた。
 遠くの方で神輿が練り歩く声が聞こえる。しかし、スタニスラフは祭りの音に耳を傾ける余裕もなく、足早に石段を下りようとして危うく足を踏み外しそうになった。
 気をつけてと千鶴に言われても、知らぬ顔で下へ下りたスタニスラフは、ゆっくり下りて来る千鶴を早く下りるようにと急かした。
 あまりにいらついて横暴な態度を見せるスタニスラフに、石段を下りきった千鶴は、自分はもう行かないから一人で行くようにと言った。
 こんな時にそんなことを言うのかと言わんばかりに、スタニスラフは顔をゆがめた。しかし、まだ正式に夫婦になったわけではない千鶴を、ここで怒らせてはいけないと考え直したのだろう。渋々ながらという感じで、自分の態度を千鶴に詫びた。
 それならと、千鶴はスタニスラフにここで少し待つようにと言った。スタニスラフが絶望的な顔になるのは承知の上だった。
 それでも千鶴には絶対に譲れない理由があった。この先で自分を護ってくれた鬼と死に別れたのだ。それは再会できたはずの進之丞との別れでもあった。その場所へ行き、本当に最後の別れの挨拶がしたかった。
 最後になって進之丞のことを思い出したのは、最後の別れの機会を、お不動さまが与えてくれたのだと千鶴は思っていた。
 きっとすぐに進之丞のことは忘れてしまう。今を逃せば、もう別れを告げる機会が訪れることはないのだ。
 何も言い返せずに頭を抱えるスタニスラフを残し、千鶴は小走りに海の方へ向かった。
 そこには見事な野菊の花の群生が広がり、花たちの前に誰かが立っている。その誰かが千鶴に気づいて振り返った。身に着けているのはあの継ぎはぎの着物で、手には一輪の野菊の花を持っている。
「進さん?」
 思わず駆け寄ると、それは進之丞ではなく忠之だった。
 近くで見ると泥で汚れた顔や手に傷がある。恐らく石段から転げ落ちたに違いない。流れた血はまだ固まっておらず、継ぎはぎの着物も泥だらけだ。
 心配していたとおりになったと、千鶴は涙ぐみながら忠之の傷を確かめ、寺へ連れ戻ろうとした。
 しかし忠之は大丈夫だと言うと、千鶴を見つめて微笑んだ。
「千鶴さん、いよいよ行きんさるんじゃな。おめでとな。おらな、千鶴さんにお祝いがしたかったけんど、何もあげるもんがないけん、せめてこれをと思て、ここで待ちよったんよ」
 忠之は戸惑う千鶴の髪に、手に持っていた花を飾ってくれた。
「うん、きれいじゃ。千鶴さんには、この花が一番似合うぞな。こがぁして見たら、千鶴さん、花の神さまみたいじゃな」
 え?――驚く千鶴に忠之は微笑みながら言った。
「千鶴さんは誰より優しいお人じゃし、まっこと誰よりきれいじゃけん、絶対幸せになれるぞな」
「なして、その言葉を?」
「その言葉? その言葉て?」
「うちのこと優しいてきれいじゃて……」
 忠之は照れたように頭を掻いた。
「ほれは……、ほやかて、そがぁ思たけん言うたぎりなけんど、おら、また余計なこと言うてしもたじゃろか? 気ぃ悪したんなら謝るぞなもし」
 うろたえる忠之は進之丞そのものだった。まるで忠之の心の奥に進之丞が隠れているようだ。
 まさか?――千鶴は必死に考えを巡らせた。
 赤い霧になった進之丞は、ここで千鶴にそれぞれが行くべき所へ行けるようになったと言った。そして、自身のことは過ぎ去りし記憶、過去の幻影だと言ったのである。
 知念和尚の話では、それは進之丞が今は誰かとして生まれ変わったということらしい。その誰かは赤ん坊だと思っていたが、そうではなかったのか。
 千鶴は忠之をじっと見た。戸惑った忠之は、どうしたのかと言った。しかし、千鶴は忠之を見つめながら考えた。
 忠之が初めて鬼に変化へんげした時に、進之丞は忠之に取り憑いて忠之の心を喰ったと言った。だが、進之丞自身には忠之を喰った記憶はなかった。結果的にそうなっていたと受け止めていただけだ。
 千鶴は進之丞と忠之の関係を、前世の自分と今の自分に当てはめた。自分もある時から前世の記憶が蘇ったが、それは前世の自分が心を占めるようになったからだ。
 だから前世の自分が姿を消すと、今の自分は前世や進之丞のことを忘れてしまう。その結果、今の忠之のように二年の記憶のほとんどを失ってしまうのだ。
 今は再び前世の自分が顔を出している。だが、これは前世の自分に、今世の自分が乗っ取られたと言えるのか。
 そうではないと千鶴は首を振った。
 どこまで前世の自分が主導権を握るのか、それはその時によって違うが、どちらが主導権を握っていたとしても、それはどちらも自分なのだ。
 今世の自分しかいないと思っても、前世の自分が後ろからこっそり顔を見せる時、さっきの墓石での涙のような、自分でも思いがけないことが起こるに違いない。
 それとついだと考えるなら、この人の言葉や振る舞いが進さんにそっくりなのは……。
「千鶴さん、大丈夫かな?」
 忠之が心配そうに声をかけた。
「千鶴さん、そろそろ行かんと、あのお人が待ちよるぞな」
 忠之がスタニスラフを心配して話しかけているが、千鶴の頭の中では進之丞の声が聞こえていた。
 ――千鶴、今を生きよ。今にこそ、お前の真の幸せが隠されておる。本来、お前に用意されておった幸せがな。
 自分は進之丞という過去を追い求めていた。そして、進之丞がいない未来に不安を抱き続けていた。しかし、これまで今というものに目を向けただろうか。
 忠之といういみなこそが本当の名前だと知念和尚は言った。和尚が口にしたその言葉は、真実を示唆しているに違いない。それなのにそこへ目を向けなかったのは、進之丞という名前を追い求めてばかりいたからだ。
 進之丞がどこへ行ったのか、どこが進之丞の居場所であるのか、それを千鶴はついに悟った。
 ――進さんはこの人の心を喰うたんやない。進さんは初めからおいでたんよ、この人の中に。ほれはつまり、佐伯忠之という名前のこの人こそが……。
 千鶴は忠之の手を握った。懐かしい温もりが千鶴の手に流れて来る。
 どうして、この温もりに気がつかなかったのだろう? 
 千鶴は悲しくなった。ずっと傍にあったこの温もりに、どうして気がつかなかったのか。何度も感じていたはずなのに……。
 千鶴は忠之を抱きしめた。千鶴の体が、千鶴の心が温もりに包まれる。あの懐かしい時を超えた温もりだ。
 千鶴は涙が止まらなかった。忠之を抱きながら千鶴は声を上げて泣いた。
 忠之は少し慌てたが、千鶴をそっと抱き返した。
「千鶴さん、もう泣かんのよ。千鶴さんに泣かれたら、おら、困ってしまわい」
 泣きじゃくる千鶴の耳元で忠之は囁いた。
「千鶴さん、今までほんまにありがとう。おら、お不動さまに千鶴さんのこと、お願いしといたけんな。ほじゃけん、千鶴さん、絶対幸せになれるぞな」
 後ろでスタニスラフが怒鳴っている。すぐにもやって来そうな剣幕だ。
 だが、千鶴の耳にスタニスラフの声は聞こえない。聞こえているのは、千鶴に呼びかける忠之の心の声だけだ。
 また、千鶴の濡れた目に映るものは、忠之の優しい笑顔と、そよ風に揺れる野菊の花たちだけだった。
                        (了)