野菊のかんざし
一
「いろいろお世話になりましたぞなもし。幸子や千鶴ばかりかわしらまで何から何までお世話いただき、いくら感謝してもしきれんぞなもし。このご恩、一生忘れんぞなもし」
甚右衛門たちは和尚夫婦に何度も礼を述べた。これから土佐へ向かうのだが、その前に松山の組合長を訪ねて、千鶴とスタニスラフの婚礼の準備をすることになっている。
「あのな、甚右衛門さん。千鶴ちゃんのことなんやが……」
知念和尚が話をしようとすると、甚右衛門は手を振って、ええんぞなもしと言った。
「もう気持ちの整理はつきましたけん。ほれに千鶴はいずれ進之丞のことは忘れて新たな道を行かにゃなりますまい。やけん、ちぃと早いですけんど、こんでええんぞなもし」
甚右衛門は自分に言い聞かせるように言った。しかし、スタニスラフを認めたという意味ではない。あくまで千鶴の意思を尊重したというだけである。
「ほやけど、今回のことは誤解やて千鶴ちゃんが――」
安子が堪り兼ねたように喋りかけたが、わかっとりますと甚右衛門はうなずいた。
「あの進之丞をそがぁ簡単に忘れられるもんやないですけんな。恐らくあの子は懸命に悲しみから抜け出そとしよんでしょ。あの子の悲しみはあの子にしかわからんですけん」
甚右衛門は千鶴の気持ちを理解しようとしていた。それはトミや幸子にしても同じらしい。二人とも甚右衛門の話にうなずいている。
松山へ向かう乗合自動車の時刻が迫っていた。甚右衛門たちはまだ話を続けたそうな和尚たちに頭を下げると、少し離れた所にいた千鶴とスタニスラフの方へ行った。
どうするのかと言いたげに安子は知念和尚を見たが、和尚も困惑顔を見せるばかりだ。
本音では甚右衛門たちは千鶴とスタニスラフとの結婚をよしとはしていない。三人は祝福の言葉を避けながら、千鶴を介して今後の予定などをスタニスラフに訊いた。
少しすると、幸子とトミは千鶴だけを本堂脇にある大きな楠の陰に連れて行った。スタニスラフも三人について行こうとしたが、甚右衛門が話しかけて引き留めた。
「あんた、ほんまにこれでええんか?」
幸子が真剣な顔で訊ねると、千鶴は黙ってうなずいた。もう後戻りはできないのだし、自分にはスタニスラフしかいないのだ。
「やめるんじゃったら今のうちぞな。今じゃったら、まだ何とでもなるけんな」
トミも迫るように言ったが、千鶴はやめるとは言わなかった。
千鶴が二人に心配してくれたことを感謝していると、スタニスラフがやって来た。幸子たちは千鶴から離れて甚右衛門の所に戻り、伝蔵の肩を借りて立つ忠之の傍へ行った。
甚右衛門たちは伝蔵に何度も礼を述べ、忠之に別れの挨拶をした。
甚右衛門は忠之の手を握ると、残念そうに言った。
「お前さんを一緒に連れて行きたいけんど、わしらも土佐は知らんけんな。恐らく苦労させてしまおう。やけん、今はここにおった方がよかろ」
忠之はまだ一人では歩けない状態なのだから、土佐へなど行けるわけがない。それでも一緒に連れて行きたいというのは甚右衛門の本当の気持ちのようだ。
「おらみたいな者にはもったいないお言葉ぞなもし」
忠之が涙を浮かべると、そげなことは言うなと、甚右衛門は忠之を抱き寄せ涙ぐんだ。
トミは涙を拭きながら忠之の両手を握った。
「あんたのことは死んでも忘れんけんね。何があってもへこたれたりせんで、しっかり前向いて生きていくんよ。ええな?」
ありがとうございますと頭を下げながら、忠之は泣いた。
幸子は忠之と進之丞が同じに見えたのだろう。何も言えずに忠之を抱きしめたまま、わんわん泣いた。忠之も幸子に抱かれたまま黙って涙を流している。
幸子から離れると、忠之は三人に改めて感謝した。
「おらなんかのために、こがぁにようしてもろたこと、おら、一生忘れません。おら、何も覚えとらんのに、お給金もあがぁにようけもろて……。おとっつぁんもおっかさんもおらんなってしもたけんど、みなさんが家族みたいにしてくんさったけん、おら、まっこと嬉しかった……。旦那さんも、おかみさんも、幸子さんも、いつまでもお元気で」
「なして、わしらをそがぁ呼ぶんぞな?」
驚く甚右衛門たちに、千鶴さんに教えてもらいましたと忠之は言った。
「おら、この二年のこと、何も覚えとらんけんど、その間、どがぁにみなさんのお世話になっとったかを、千鶴さんから聞かせてもらいました。ほれも含めまして、みなさん、今までまことにありがとうございました」
甚右衛門たちの目にみるみる涙があふれた。言葉が出ない三人は、もう一度忠之の手を握ったり抱きしめたりしながら泣いた。
知念和尚も安子も泣き、伝蔵も目を潤ませて鼻をすすり上げている。
忠之が山﨑機織にいたことを忘れてしまったという話に千鶴は驚いていた。大怪我をしたのは知っているが、そんな話は初耳だ。怪我が原因で全部を忘れたのだろうか。
法生寺には何日もいたのに、千鶴は忠之の記憶のことを知らなかった。それに、いつ忠之に店の話をしたのかもわからない。そもそも山﨑機織に忠之がいたのも覚えていないし、店がだめになった理由も知らなかった。これでは忠之と同じで妙な気分だ。
それはさておき、千鶴もみんなの所へ行きたかった。けれど、甚右衛門たちと忠之の別れの挨拶に千鶴は関係ないと言って、スタニスラフが行かせてくれなかった。しかし、本当は千鶴を忠之に近づけさせたくないだけなのだ。
スタニスラフは信じられないほどのやきもち焼きだ。結婚が決まって以来、千鶴は自分だけのものだという態度をあからさまに見せる。千鶴が誰かと喋ろうとすると、勝手に間に割り込んで来るし、相手が忠之であれば、話どころか目を合わすのさえ許さない。
忠之はスタニスラフに一度も嫌な態度を見せていないし、まだ弱った体で周囲の助けが必要な状態だ。なのにスタニスラフは忠之に対して敵意を剥き出しにしていた。
昨夜、まだ祝言を挙げたわけではないのに、スタニスラフは千鶴の寝床へ忍び込んで来た。スタニスラフの身勝手で無礼な行為に千鶴は怒り狂った。それが尾を引き、昨日はあれだけ嬉しかったスタニスラフとの結婚に、今は少し興醒めしている。そこへ忠之への冷たい態度を見せられるので、千鶴の気持ちはさらに冷めていた。
それでも自分にはスタニスラフしかいないというあきらめが、千鶴を従順にさせていた。またスタニスラフは夫になるのに、昨夜は怒り過ぎたかという反省気分もあり、千鶴は気持ちを抑えていた。とはいえ、千鶴はまだ山﨑家の者であり、目の前にいるのは千鶴の家族だ。その中に入らせてもらえないというのはやはり不満だった。
互いに別れを惜しむ家族と忠之を眺めていると、千鶴は前にも同じ光景を見たような気がした。と思ったら、千鶴は唐突に進之丞を思い出した。祖父が山﨑機織を畳んだ時、進之丞は祖父たちに千鶴をもらいたいと頭を下げた。祖父たちも泣きながら、千鶴をよろしく頼むと言ったのだ。
悲しみが込み上げて呆然と立ち尽くす千鶴の肩を、スタニスラフが抱き寄せようとした。千鶴は思わずスタニスラフから逃げると、忠之の傍へ駆け寄った。
忠之は千鶴を見ると、涙を拭いて微笑んだ。それは進之丞が見せていた微笑みだ。本当の想いを伝えられず、黙って千鶴を支え続けてくれていた進之丞の微笑みだった。
「進さん」
千鶴が声をかけても、忠之は返事をしてくれなかった。千鶴が自分を進之丞と勘違いしているとわかっているからだろうが、微笑んだだけで何も言ってくれなかった。
二
千鶴とスタニスラフは北城町まで甚右衛門たちを見送った。三人を乗せた乗合自動車が行ってしまうと、スタニスラフは満面の笑みを見せた。甚右衛門たちへの気疲れから解放されたのと、家族がいなくなって千鶴が一人になったという嬉しさがあるのだろう。
一方で千鶴は気持ちが沈んでいた。家族と別れたからではない。前世の自分がふと顔を見せたために、忘れていた進之丞の記憶が鮮明に思い起こされたからだ。
その大切な記憶が再び色褪せていこうとしている。それがわかっていても、その記憶をつなぎ止めておけない。それが千鶴は悔しくて悲しかった。
千鶴はスタニスラフとの結婚を取り止めるつもりでいたのも思い出し、そうしなければと考えていた。祖父たちは松山へ向かってしまったが、やはりスタニスラフとの結婚は間違っている。たとえ進之丞の記憶が取り戻せなくなったとしても、誰にも頼らず独りで生きていくべきなのだ。
スタニスラフは千鶴が家族と別れて落ち込んでいると思ったようだ。慰めるつもりなのか、千鶴を抱き寄せようとした。だが千鶴はスタニスラフの腕を払いのけて一人で歩いた。スタニスラフには体に触れられるのも嫌だった。
法生寺の近くまで戻った頃、千鶴の肩にはスタニスラフの手が載っていた。
千鶴はスタニスラフに手をつながれて石段を登り、山門をくぐって境内に入った。大きな楠の隣に本堂が見える。その本堂の前で、忠之が両手を合わせて何かを祈っていた。
さっきは伝蔵がついていたが、今は忠之一人だ。中に一度戻ってから、再び一人で外に出て来たのだろうか。まだ支えがなければ転ぶかもしれないのに、一人で本堂の階段を登ったようだ。恐らく祖父母たちの安全を願ってくれているのだろう。千鶴が見ている間も一心に拝み続けている。その姿には感謝しか浮かばない。
「千鶴、何見テマズゥカ? 早クゥ、中へ、入リィマシヨ」
不機嫌そうにスタニスラフが千鶴を促した。千鶴が忠之を見るのが気に入らないらしい。ずっといらだちを抑えていたが、千鶴は我慢がならなくなった。
「おじいちゃんらの旅の安全を祈ってくれとるお人を見よるぎりじゃろがね。ほれの何が悪いんね。中に入りたいんなら、さっさと一人で入りんさい!」
千鶴が強い口調で言い返すと、スタニスラフは口を噤んだ。それでも、いつまでここにいるのかと言いたげな顔で千鶴から離れない。
千鶴はスタニスラフを無視して、不動明王を拝む忠之を眺め続けた。すると、再び記憶に蘇った進之丞の姿がそこに重なった。
前世でも今世でも、進之丞は不動明王に千鶴の幸せを願ってくれた。忠之が祈る姿は、今も進之丞が千鶴の幸せを願ってくれているようだ。
千鶴がぼろぼろ涙をこぼすとスタニスラフはうろたえて、何だかわからないまま千鶴を抱こうとした。千鶴はスタニスラフから逃れると、背を向けて泣き続けた。
進之丞は千鶴の幸せを願い続けてくれている。なのに自分は進之丞を忘れてスタニスラフと一緒になろうとしているのだ。千鶴は自分が情けなく悲しかった。だけど、またすぐに進之丞のことは忘れてしまうに違いない。
千鶴は泣きながら焦った。今度進之丞を忘れてしまえば、もう二度と思い出さないかもしれない。そしてスタニスラフの人形として生きるのだ。
千鶴は涙を拭くと、急いで庫裏へ向かった。後ろでスタニスラフが呼ぶ声がしたが振り返らなかった。進之丞の記憶が残っているうちに、知念和尚に会って確かめておきたいことがあった。
三
「和尚さん、教えてつかぁさい。成仏するとは、どがぁなことなんぞなもし?」
千鶴は知念和尚を見つけるなり質すように訊ねた。和尚は安子と二人で、ぼんやりと座敷に座っていた。
「成仏? どがぁしたんぞな、いきなし」
きょとんとする和尚たちに千鶴は言った。急いで喋らなければ、頭の中から進之丞がいなくなろうとしている。
後ろの襖を閉めると、千鶴は和尚たちの傍へ行った。
「鬼が死んで進さんがこの世を去る時、みんな成仏できて行くべき所へ行けるようになったて、進さんは言いんさったんです。ほんでも、うちが進さんの後を追って死んでも会えんて言われました。これはどがぁなことでしょうか?」
進之丞が残した言葉は、以前にも二人に伝えていた。その時には忠之の看病に必死で深く考えなかったし、和尚たちも何も言わなかった。けれど、今は無性にこの言葉の意味を知りたかった。結局、進之丞はどうなったのか。それをこの言葉は示している。
「千鶴ちゃん、また進之丞のこと思い出したんか」
驚く和尚と安子に千鶴は素早くうなずき、時間がないからと返事を急がせた。
千鶴がすぐに記憶を失うのは和尚もわかっている。うむとうなずくと、成仏といっても言う者によって意味が異なると和尚は話した。
「一般には成仏するいうんはな、この世への未練がのうなって、あの世へ行くいう意味になるな。たとえば、未練があると幽霊になってこの世へ留まろうとするが、未練がのうなるとあの世へ行ける。ほれを成仏したというんよ。鬼が成仏でけたいうんもこれと対で、己を許せんいう想いから解放されて、やっと地獄やないあの世へ行けたんじゃろ」
進之丞が言った成仏が、今和尚が話した成仏であれば、進之丞はあの世へ行ったことになる。であれば、後追いをすれば会えるはずだが、進之丞はできないと言った。
「今のと別の成仏はどがぁなもんですか?」
「ほれはまことの成仏ぞな。煩悩から抜け出して悟りを開くんよ。ほれは文字どおりほんまもんの仏になるいう意味ぞな」
「ほれは、先に言いんさった成仏とは違うんですか?」
「初めに言うた成仏は、ただあの世へ行くいうぎりの話でな。未練は断てても、煩悩から抜け出せたとは限らんのよ。ほじゃけん、そがぁな者らはもういっぺんこの世へ出て来て、己の煩悩を断ち切る必要があるんぞな」
「ほれが生まれ変わりですか?」
「ほうよ。ただ、誰も己が生まれ変わってきたとはわからんけんな。煩悩を断ち切るいうんは、なかなかむずかしいんよ」
「まことの成仏をしんさった人は、生まれ変わらんのですか?」
「まことに成仏したんなら生まれ変わることはない。その必要がないけんな」
千鶴は途方に暮れた。
成仏をした者はあの世へ行ったのちに、その多くが再びこの世へ生まれ変わる。それは自分が前世から今世に生まれ変わったから理解ができる。あの世のことは覚えていないが、あの世にいたからこそ地獄にいた進之丞に会いに行けたのだ。
しかし、今度は同じようにはできないと進之丞は言った。それは進之丞はあの世にはいないという意味になる。ならば、進之丞は煩悩を断ち切った者たちが行く所へ行ってしまったのか。
大丈夫かと安子が千鶴を気遣った。千鶴はうなずくと和尚に訊ねた。
「進さんはまことの成仏をしんさったんでしょうか」
「さぁなぁ。ほれはわしにもわからんぞな。鬼というどん底を経験して悟りを開いたんなら、ほれも有り得るとは思うがな。まことの悟りを開くいうんは、そがぁに簡単な話やないけんな」
――あしはもはや過ぎ去りし記憶、過去の幻影に過ぎぬ。
進之丞の言葉を思い出した千鶴は恐ろしくなった。
「和尚さん、進さんは自分を過ぎ去りし記憶、過去の幻影て言いんさったんです。ほれは進さんが消え去ってしもたいうことなんでしょうか」
知念和尚は少し考えてから、ほれは恐らくこがぁなことぞなと言った。
「今世の者から見て、前世の自分がどこにおるんかはわからんけんど、どっか心の奥底でつながっとるんじゃろな。前世の千鶴ちゃんが顔出したんも、そがぁなことじゃろ。ほんでも前世の千鶴ちゃんが顔出さなんだら、千鶴ちゃんにとって前世の千鶴ちゃんは、過ぎ去りし記憶や過去の幻影と言えよう?」
「じゃあ、進さんは今は誰かの……」
知念和尚はうなずいた。
「本来、進之丞は前世の人物であって、誰ぞの過ぎ去りし記憶であり、過去の幻影なんよ。つまり、進之丞は今度こそどっかで誰ぞに生まれ変わったんじゃな。ほれじゃったら、千鶴ちゃんが後を追わったとこで会えまいが」
そうなのかと千鶴は項垂れた。進之丞が消えたのでないのなら、それは嬉しいことだ。けれど、今の進之丞がどこかで産声をあげたばかりの赤ん坊であれば、もう二人が出逢うことはない。
出逢ったとしても互いを知る術がないし、向こうは赤ん坊だ。二人は別々の道を歩むしかない。そう、もはや進之丞は千鶴にとっても過ぎ去りし記憶であり、過去の幻影だ。千鶴が前を向いて歩みだしたなら、忘れ去られるものなのだ。
進之丞が未だに幸せを願ってくれているような気がしたが、赤ん坊に生まれ変わったのであれば有り得ない話だ。もう進之丞のことは忘れて前に進むしかない。
進之丞は心の赴くままに生きよと言った。それはやはり忠之と生きろという意味だったのだ。忠之が自分の代わりになってくれると、進之丞は期待したのだろう。
素直な気持ちに従っていれば、進之丞のことを忘れても、進之丞と築くはずだった暮らしができたのだ。それに考えてみれば、忠之は進之丞とまったくの別人というわけではない。千鶴が慕った進之丞の中に忠之はいたのである。言い換えれば、忠之は進之丞が千鶴のために残してくれた分身なのだ。だからこそ、あれほど心が惹かれたのだろう。
だけど今更である。忠之自身と心を通わせていたならともかく、今は進之丞の記憶が消えると、忠之とのつながりがなくなってしまう。忠之と過ごしたこの一月のことを忘れたら、何もできずに離れるだけだ。
ありがとうございましたと、千鶴が礼を述べて立ち上がると、安子が呼び止めた。
「結婚、どがぁするんね? 今やったら、まだ間に合うで?」
知念和尚も期待の眼差しを向けている。千鶴は唇を噛むと下を向いた。
「うちはじきにうちやのうなります。ほやけん、急いでこの話を伺いに来たんです。結婚を取り止めるつもりでおっても、すぐにそのことを忘れてしまうけん、うちには、もうどがぁもでけんのです」
和尚も安子も悲しそうな顔をするばかりで何も言わなかった。
千鶴はもう一度二人に頭を下げると部屋を出た。そこにはスタニスラフが不愉快な顔で立っていた。
四
「何ナ話、シテマシタカ?」
スタニスラフは詰問の口調で質した。千鶴は何でもないと答えたが、腹の中はスタニスラフの態度に煮えくり返っている。
どうやらスタニスラフは襖越しに話を盗み聞きしていたらしい。詳しい話の内容はわからなくても、千鶴たちが進之丞の話をしていたのはわかったようだ。
前にスタニスラフは進之丞のことを根掘り葉掘り訊いてきた。その時は千鶴はまだ進之丞の存在を覚えていたが、一切説明をしなかった。スタニスラフは進之丞について訊くのをあきらめたが、千鶴の心に残る進之丞に嫉妬の炎を燃やしていた。その嫉妬を剥き出しにしたスタニスラフは、捲し立てて千鶴を詰った。
「千鶴ヴァ、僕ト、結婚シマズゥ。ダケドォ、進之丞、忘レェナイ。何故デズゥカ? 進之丞、死ニマシタ。進之丞、モウイナイ。千鶴ニヴァ、僕ダケネ。僕ガ、見捨テタラァ、千鶴ヴァ、ドウシマズゥカ?」
これがスタニスラフの本音なのだ。ロシアの血を引く千鶴など、自分でなければ誰にも相手にされないと決めつけている。それは千鶴を見下しているということだ。スタニスラフはこれまで隠していた素顔を、千鶴が逃げられないと思って見せたようだ。しかし、スタニスラフに嫌気が差していた千鶴にとって、この言葉は決定的だった。
千鶴の怒りに気づかないスタニスラフは、祖父たちが別れを惜しんでいた忠之の所へ、千鶴が駆け寄ったことまで蒸し返して文句を言った。
「千鶴ヴァ、本当ニ、僕ト、結婚スルゥ気ィ、アリィマズゥカ?」
自分と結婚したいのであれば怒らせるなと言いたいらしい。だが千鶴にすれば、スタニスラフと一緒になる道を選んだために、大切な進之丞を失うことになったのだ。
千鶴はスタニスラフをにらみつけると、きっぱりと言った。
「あなたはまっことひどいお人ぞなもし。他人の話を盗み聞きするぎりでも許されんのに、ほうやって相手の気持ちも考えんで、ご自分の言い分ぎりを押し通そうとしんさる。あなたはうちを何やと思とりんさるん? うちは物でも人形でもありません。うちはあなたと同し人間ぞなもし」
千鶴に気圧されたスタニスラフは、言い返そうとしても言葉がうまく出なかった。代わりに眉間に皺を寄せながらロシア語でべらべらと反論したが、千鶴にはロシア語がまったくわからない。なのにロシア語で喋り続けるのは、千鶴に文句を言わせないためだ。そして、これが千鶴を待っている二人の暮らしなのだ。
「スタニスラフさん、うちはあなたとは結婚しません。松山での祝言は取り止めます。神戸にも行かんし、アメリカにも行きません。あなたはさっさと一人で戻りんさい」
口を開けたまま言葉に詰まったスタニスラフは、大いにうろたえた。
「サンナカト、シタラァ、ミンナァ、困リィマズゥ。サレデモォ、イイデズゥカ」
「誰も困らんぞな。みんな、うちらの結婚には反対しよったんじゃけん」
「ダケドォ、ア祝イズゥルゥ人、困リィマズゥ」
「組合長さんのこと言うとりんさるんなら、うちがあとで謝っときます」
「千鶴ヴァ、僕ガ、イナイト、ドシマズゥカ?」
「家族と土佐で暮らすんもええし、ここのお世話になることもできます。ほじゃけん、うちのことはなーんも心配いらんぞなもし」
どう言ったところで千鶴には通じないと、スタニスラフはようやく悟ったらしい。さっきまでの勢いはどこへやらで、手のひらを返すがごとくに千鶴に平謝りした。けれど、千鶴は許すつもりはない。この結婚をやめたいと思っていたから、ちょうどいい機会だ。
「どがぁしたんぞな?」
知念和尚が部屋から顔を出した。安子も一緒だ。
千鶴たちの言い争いが聞こえていたと思うが、いつまで経っても終わらないので心配して出て来たらしい。
千鶴は事情を説明しようとしたが、スタニスラフと言い争う前に何を問題としていたのかを忘れていた。覚えているのは、スタニスラフが横柄な態度で自分を怒らせたということだけだ。
怒る理由が説明できなければ話にならない。怪訝そうにしている和尚夫妻に、もうええんですと千鶴は言った。
二人はスタニスラフに顔を向け、何があったのかと訊ねた。慌てて笑顔を繕ったスタニスラフは、何デモナイネと言ってごまかした。
それでこの場は何となく収まったが、千鶴が抱いたスタニスラフへの不信感は消えなかった。二人が争った原因は忘れてしまったが、スタニスラフが見せた嫌な態度はしっかりと覚えている。
しかし、結婚を取り止める気持ちは萎えていた。さっきは本気で思ったが、よく考えればスタニスラフが言うように、みんなに迷惑がかかってしまう。とても簡単にできることではない。
それに悔しいけれど、スタニスラフでなければ自分を嫁に望む者などいない。一生嫁のもらい手がないまま過ごすことを考えると、腹立ちを覚えても我慢するしかない。
千鶴の中にスタニスラフへの不信は残っていたが、怒りの気持ちは急速にしぼみ、代わってあきらめと空しさが広がった。
五
千鶴とスタニスラフが法生寺を去るこの日、奇しくも風寄の祭りが始まったいた。今朝は暗いうちからたくさんのだんじりが神社に集まり、今は神輿が賑やかに村々を練り歩いている。山門から見える村の祭りの様子にスタニスラフは興奮気味だ。
本当は昨夜神社の前に集まっただんじりを、スタニスラフと一緒に見に行くはずだった。しかし、スタニスラフへの嫌悪感を持った千鶴はそんなことはしなかった。
スタニスラフは境内から見えるだんじりの灯りに惹かれていたが、千鶴は一緒に行こうとは言わなかった。行きたければ一人で行けばいいのに、スタニスラフは千鶴から離れたくはないようで、見に行こうと何度も千鶴を誘ったが、千鶴は耳を貸さなかった。
それでもだんじりの灯を目にした千鶴は、二年前に春子に誘われて風寄の祭りを見に来たことを思い出した。その懐かしさは千鶴に忠之との出会いを呼び起こさせた。
忠之にはどこか心惹かれるところがあった。忠之との想い出が蘇ってその理由を理解した千鶴は、どうしてスタニスラフではなくこの人を選ばなかったのかと悔しくなった。
二年前、千鶴は春子の従兄たちに襲われた。それを救ってくれたのが忠之だ。あの頃の忠之は喧嘩も強く、信じられないほどの力持ちだった。
松山へ戻る手段を失った千鶴と春子を、人力車で運んでくれたのも忠之だ。他の誰もやらないような親切を忠之は見せてくれた。
忠之には夫婦約束をした娘がいたが、山陰の者という理由で夫婦にはなれなかった。その娘もロシアの血を引いており、千鶴とそっくりな上に名前までもが同じだった。実に不思議な巡り合わせだが、忠之が示してくれた優しさの陰には、別れざるを得なかった娘への想いが隠れていた。そんな切ないまでの忠之の優しさに千鶴は虜になったのだ。
あのあと、忠之とは二度と会えないと思っていた。ところがある日、忠之は大八車を引いて風寄の絣を運んで来た。仲買人の牛が病気で動かなくなったので、代わりを買って出たのだ。そして店の壊れた大八車の代わりに、その大八車を残してくれた。
あの頃、千鶴は自分は本当は鬼ではないかと思い悩んでいた。そんな千鶴を忠之は抱いて慰めてくれた。そして、たとえ千鶴に命を奪われても死ぬまで千鶴を慰め続けると言ってくれた。また鬼の話もしてくれて、千鶴の悩みが勘違いだと教えてくれた。
当時のことを思い出した千鶴は胸が高ぶった。自分にはスタニスラフしかいないと思い込んでいたけれど、こんな身近に本当に心惹かれる人がいたのだ。
それでも山﨑機織にいたという忠之のことは何も思い出せない。他の使用人たちのことは思い浮かべることができるのに、忠之のことだけがわからない。それはとても奇妙なことであり、悔しく残念なことだった。
何にしても、千鶴はスタニスラフの嫁になろうとしている。忠之とのことは遠い想い出だ。忠之と結ばれなかったのは、きっと忠之は別れた娘が忘れられなかったのだろう。
だけど、今の忠之はあんなやつれた体になった上に記憶までも失くしている。家族も亡くなり天涯孤独の身の上だ。その気の毒な忠之を残してここを離れるのである。
しかもスタニスラフには嫌悪感しかない。自分が見捨てたらどうするのかと言われたことは忘れない。もっと早くに佐伯さんのことを思い出していれば、スタニスラフとの結婚なんか考えもしなかっただろうにと、千鶴は自分の愚かさを悔やむばかりだった。
今日になっても忠之への想いは募る一方だ。
結婚なんかしないで、ずっと佐伯さんの傍にいてお世話をしてあげたい。もっと本当をいえば、佐伯さんと一緒になりたい。たとえ佐伯さんの心に今も昔の想い人がいたとしても構わない。佐伯さんの妻になって、一生佐伯さんを支えてあげたい。
そんな想いで頭はいっぱいだけど、松山では祝言の準備が進められている。今更結婚しないとは言えるものではない。千鶴は遣る瀬なさと無力感にため息をついた。
今朝、千鶴は春子の家へ行った。二年前にお世話になったお礼も兼ねての挨拶だ。暇がないので大急ぎでの訪問である。
スタニスラフもついて行くと言ったが、こんなに嫉妬深い者など同行させられない。連れて行けばどうなるかは明らかだ。
向こうにはロシア人を嫌う者もいるからと、千鶴はスタニスラフを寺に残そうとした。事実、春子の兄嫁は千鶴を嫌っているし、従兄は未だにロシア人を敵と見なしている。
スタニスラフが千鶴もロシア人の顔をしていると反発すると、自分は半分日本人だし、春子の友だちだから特別だと強引にスタニスラフを黙らせた。
春子の家に行くと、イネとマツが歓迎してくれたが、いないと思っていた修造もいた。神輿は若い者たちに任せているので年寄りは一休みだと修造は笑った。
千鶴が一人なので、修造たちはスタニスラフが来なかったことを残念がった。
いろいろ準備があるのでと弁解したら、おとっつぁんに認めてもらえてよかったなと修造は言った。イネとマツもうなずいている。ただ、三人とも千鶴と忠之の関係を知っているので、千鶴の態度の変化には戸惑っていた。
以前は修造たちは忠之を見下していたが、全力で忠之を支えると千鶴の前で誓った。なのに、肝心の千鶴が忠之を見放したのでは戸惑うのは当たり前だ。だけど、千鶴はその時のことは覚えていない。修造たちの様子は千鶴には奇妙に見えた。
本当は修造たちは千鶴の心変わりの理由を訊きたいのだろう。何か言いたげにしながら愛想笑いをし、伯爵御夫妻の御前で結婚を誓い合ったのだから、これでよかったと修造たちはうなずき合った。
千鶴は春子がいるかと思ったが、残念ながら春子は仕事で戻って来られなかったみたいだ。春子は師範として松山よりずっと南にある砥部の小学校に赴任しているそうで、忙しいし遠いのでとても里帰りなどできないらしい。千鶴とスタニスラフの結婚は電話で修造たちから聞かされており、よろしく伝えてほしいとのことだった。
春子の話をする時、修造たちは申し訳なさそうな顔をしていた。どうして三人がそんな顔をするのかわからなかったが、千鶴はとにかく明るい顔で春子の仕事ぶりを喜んだ。
春子の家を出る時、イネとマツが忠之はどうしているのかと訊ねた。
千鶴は今の忠之の体の状態を説明し、昨日祖父たちが松山へ向かった時の様子を話した。今朝も千鶴たちを祝福して別れを惜しんでくれたと話したが、実際はスタニスラフが忠之を近づけないので、挨拶すらできていなかった。
ほうかねと言いながら、イネとマツは何故か涙ぐんだ。修造も複雑な顔を見せたが、すぐに笑顔になって、アメリカに行ってもがんばんなさいやと応援してくれた。
六
この日は松山へ着いたら、スタニスラフとの祝言を挙げる手筈だ。二人の婚礼衣装は母と祖母が仕立て直してくれている。
祝言の前には銭湯で体をきれいにしなくてはならないし、千鶴は髪を結う必要がある。いろいろ時間は決められており、それに合わせて動かなければならなかった。
祭りの間は客馬車は走らない。それで乗合自動車で松山へ向かうのだが、その時刻が迫っていた。スタニスラフは焦っているが、千鶴は忠之に人力車に乗せてもらった時のことを懐かしく思い出していた。
あの時も客馬車が走らず乗合自動車も出たあとで、千鶴たちは途方に暮れていた。松山に戻れなければ退学になると春子と二人で泣いていたら、忠之が車夫の格好で現れた。それで千鶴たちを人力車で松山まで運んでくれたのだ。車夫の衣装も人力車も黙って拝借したものだ。ただの好意だけでできるものではない。今考えても胸が熱くなる。
スタニスラフが忘れ物はないかと、ぼんやり立っていた千鶴に言った。我に返った千鶴は風呂敷包みを抱えた。荷物はそれで全部だけれど、忘れ物はある。忠之だ。
最後の別れの挨拶がしたいのに、千鶴が春子の家から戻った時から忠之は行方知れずになっていた。千鶴がいない間に、忠之が本堂で御本尊の不動明王に手を合わせていたのを伝蔵が目にしているが、そのあとどこへ行ったのかがわからない。
和尚夫婦も伝蔵と一緒に探してくれているが、それでも忠之は見つからない。このままではここを離れられないが、スタニスラフは心配する千鶴を気遣うことなく急かした。
千鶴はスタニスラフをにらんだが、時間がないのは事実だ。だが、だからといって忠之と言葉を交わさないままここを立ち去るなどできない。
千鶴は思い出した。二年前に風寄を訪れた時、千鶴は春子の家を飛び出して山で化け物みたいなイノシシに襲われた。そのあと気がついたら何故か法生寺の前に寝かされていて、頭には野菊の花が飾られていたのだ。
あのイノシシからどうやって助かったのかはわからないけど、花は忠之が飾ってくれたものだった。忠之は野菊の花が好きだったという娘を思い浮かべながら、同じ顔をした千鶴のことを思いやってくれた。そして千鶴の幸せをお不動さまにお願いしてくれたのだ。初めて会ったばかりなのに、千鶴の幸せを願ってくれたのである。
千鶴の目から涙がこぼれた。あの頃に戻りたかった。また自分に優しくしてくれた忠之の恩に報いたかった。けれど、今その忠之を置き去りにしてここを去ろうとしている。千鶴は胸が潰れそうになった。
今こそ恩を返す時である。それなのに、どうしてこのままあの人を置いて行けるのか。
千鶴はここに残ると言おうとした。でも、スタニスラフの険しい顔を見ると言えなくなった。大喧嘩になるのも嫌だし、松山で待っている人たちに迷惑はかけられない。
それでも、せめて忠之には別れの挨拶がしたい。ここを離れる前に一言声をかけて励ましてあげたかった。けれど、知念和尚たちはまだ忠之を見つけられないようだ。
七
知念和尚は出発前に千鶴ちゃんに見せておきたい物があると言った。
ついて来なさいと和尚が手招きをすると、時間がないとスタニスラフが文句を言った。けれど和尚もわかった上で千鶴を呼ぶのだから、何かとても大切なことに違いない。
千鶴は安子に風呂敷包みを預けて和尚の所へ行こうとした。すると、スタニスラフも鼻息を荒くしながらついて来ようとした。
「用があるのは千鶴ちゃんぎりぞな。あなたには関係ないことやけん」
和尚は珍しく険しい顔で強く制した。安子も怖い顔で、あなたはここに残りなさいと言った。だが、もう寺に留まる必要がないからか、スタニスラフは従おうとしない。
千鶴はスタニスラフをきつく叱った。逆らえば結婚は取り止めだ。それでスタニスラフはようやくあきらめた。
千鶴はため息をつくと、知念和尚のあとに従った。
知念和尚が千鶴を連れて来たのは寺の墓地だった。
千鶴は寺の仕事を手伝っていたので、墓地の掃除もしていた。だから、どうして和尚さんは今更ここに自分を連れて来たのだろうと思っていた。
知念和尚は墓の一つを指差して、この墓は慈命和尚という明治の前にこの寺にいたご住職の墓だと言った。
その古い墓は千鶴も目にしていた。だけど、それが慈命和尚の墓だとは知らなかったし、知ったところでどうということはない。
出発が迫ったこの時に、知念和尚はこの寺の歴史を語るつもりなのかと千鶴は訝しんだ。しかし、和尚はただ千鶴の様子を窺っているだけだ。
次に和尚は別の墓を千鶴に示した。それも古いが大きく立派な墓だ。
和尚はこの墓はかつて風寄にいた代官の墓だと言った。この墓も目にしていた千鶴は、ほうですかと言うだけで和尚の意図がわからなかった。
その隣には少し小ぶりの墓があって、代官の妻の墓だと和尚は言った。この代官の妻は代官が亡くなったあと、ここで尼として暮らしながら代官を弔い続けていたという。
やはり寺の歴史の話かと千鶴が思っていると、知念和尚はこの代官夫婦には一人息子がいたのだと言った。その一人息子も代官が亡くなった時に命を落としたというが、その墓が見つからなかったらしい。
知念和尚は代官やその息子が死んだ理由は話さないまま、千鶴を墓地の片隅へ誘った。そこは無縁仏の墓が集められた所だ。
四国遍路の旅をしていると、旅の途中で亡くなる者もいる。その者たちは近隣の村人たちの手で、遍路道の脇に葬られることが多いという。しかし先の慈命和尚は旅の途中で亡くなった身寄りのない者たちを引き受けて、ここに墓を作って弔ったそうだ。
慈命和尚という方は、その名のとおりに人を思いやる優しい人だったのだなと千鶴は思った。けれど、千鶴にはまだ和尚が何を言わんとしているのかがわからない。
知念和尚は無縁仏の墓地の隅っこにある、二つの小さな墓石を指差した。見せたかったのはこの墓だと和尚は言った。
その二つの墓は目立たないようにひっそり佇んでいる。見方によれば、寄り添っているみたいにも見える。
知念和尚はこの二つの墓を見つめながら言った。
「先に言うた代官の息子の墓がな、これなんよ。わしもここ来て三十年になるけんど、こがぁな所に隠れよったとは、ちぃとも気づかなんだ。ほれがな、昨夜、安子の夢に出て来たんでわかったんよ」
千鶴は思わず、へぇと言った。
「安子さんが見んさったんは、どがぁな夢やったんですか?」
「夢ん中で安子はな、尼さんやったんよ。ほれで、ここでこの墓を拝みよったそうな。その話を聞いてな、今朝確かめてみたら、ほんまにこの墓があったんよ」
不思議な話である。まるでこの墓の場所を教えたような夢だ。しかし墓は二つある。千鶴が訊ねると、和尚はこの墓は代官の息子と、その許嫁の墓だと言った。
「その許嫁の娘はな、千鶴ちゃんみたいに異国の血ぃを引いとったんよ。ほじゃけん、村の者らから冷とうされよったそうな」
「そがぁな娘さんを、お代官の息子はお嫁にしようとしんさったんですか?」
ほうよと和尚はうなずき、代官の息子は心が広く気高い人物だったと言った。また、我が息子が異国の血を引く娘を嫁にするのを認めた代官も立派だと和尚は褒め称えた。
確かに和尚の言うとおりだと千鶴は思った。だけど、何故その二人の墓がこんな所にひっそりと作られたのか。
和尚は、二人が夫婦になる直前に事件が起きたと言った。この娘を狙った鬼が村を襲い、娘を攫ったというのだ。その時に慈命和尚も代官も命を落とし、代官の息子は娘を取り戻そうと鬼を追ったという。
鬼が本当にいたことに千鶴は驚きながら、和尚の話に引き込まれた。かつて鬼に取り憑かれたと悩んでいた千鶴にすれば、他人事には思えない話だ。
千鶴は和尚が続きを話すのが待てず、代官の息子は許嫁を取り戻せたのかと訊ねた。和尚は悲しげに小さくうなずいた。
「代官の息子はな、その娘を助けることはでけたんよ。やがな、その代償に己自身が鬼になってしもたんよ」
千鶴は思わず息を呑んだ。本当にそんなことがあるのだろうか。
和尚は話を続け、代官の息子は鬼になる前に深手を負って、長くは生きられなかったと言った。そして、そこへ今度は異国人を敵視する攘夷侍が何人も現れて、せっかく助けた娘に襲いかかったのだと、和尚は自分の目で見ていたかのごとくに話した。
鬼になった代官の息子は、傷ついた体で必死になって侍たちと戦った。そして娘を護りきったところで力尽きて海に沈み、娘も鬼を追って海に姿を消したと和尚は語った。
知念和尚は喋りながら涙ぐんでいた。言い伝えの話だろうが、確かに悲しい話だ。
千鶴はしゃがんで二つの墓石を眺めた。それぞれには名前が彫り込んであるが、とても古い石で何と書いてあるのかは読みづらい。右の墓石に刻まれた名前は長かったが、左の方は二文字だけだ。千鶴は左の方から凝視しながら読んだ。
「千……鶴?」
え?――と千鶴は和尚を振り返った。
「うちと同し名前?」
和尚はうなずくと、隣の墓の名も読んでみなさいと言った。
千鶴は右の墓に目を向けると、ゆっくりと上から順に刻まれた文字を読み上げた。
「佐……伯……進……之……丞……忠……之?」
「ほうじゃ。ほれが代官の息子の名前ぞな。この名前見て、千鶴ちゃん、何とも感じんかな?」
千鶴はもう一度墓石の名前を見ると、佐伯さんの名前と似ていると言った。ほらほうよと和尚はうなずき、あの子の名前は代官の名前から付けたものだと言った。
墓石に刻まれた進之丞というのは呼び名であり、忠之というのが諱といわれる本当の名前だと和尚は説明した。
「この墓は恐らく代官の妻がこさえたんよ。けんど、もうちぃと立派な墓建てたらよかったのに、こがぁな所にひっそりあるんはなしてじゃと思う?」
千鶴が首を横に振ると、身分違いの娘が侍の嫁になるには、婚姻の前にいったん武家の養女になる必要があったと和尚は話した。
「ほんでもこん時には、まだ千鶴ちゃんはお武家の養女やなかったけん、立派な墓は建てられなんだ。ほじゃけん、代官の妻は息子の墓を千鶴ちゃんの墓に合わせて、こがぁな形にしたんよ。そんだけ千鶴ちゃんのことを大事に思てくれとったんよな」
和尚の言葉に千鶴が眉をひそめていると、和尚は慌ててここにおった娘のことぞなと言い直した。
「千鶴ちゃんと対の名前じゃけん、ごっちゃになってしもたわい」
「ほら、そがぁなりますよね」
千鶴は笑って立ち上がった。何だか悲しい話だけど、和尚がこの墓を見せた理由は、やはりよくわからない。佐伯さんが出て来るまでの時間稼ぎをしたのだろうか。いずれにしても、もう行かねばならない。きっとスタニスラフが爆発しそうになっている。
知念和尚に珍しい話を聞かせてもらったお礼を述べると、千鶴は改めて二つの墓石に向かって手を合わせて話しかけた。
「夫婦になれんかったんは残念なけんど、二人とも今度生まれ変わってきたら、ほん時には必ず夫婦になれるけんね」
千鶴の頬をぽろりと涙がこぼれ落ちた。何故涙が流れたのか、千鶴にもわからない。ただ、仲睦まじく並んでいる墓石を眺めていると、自然に涙がこぼれてしまう。
千鶴は涙を拭くと、知念和尚に照れ笑いをしながら言った。
「妙ですね。勝手に涙が出て来てしもた」
和尚はさらに何かを言いたげだったが、それ以上は何も言わなかった。
「何かこのお墓見よったら、スタニスラフやのうて佐伯さんのお嫁になりんさいて言われとる気ぃがしたぞなもし」
千鶴が冗談を言うと、和尚は顔をゆがめて涙をこぼした。どがぁしんさったんですかと千鶴が訊ねると、和尚はあわてて涙を拭き、何でもないと言って笑った。
八
いよいよ出発の時が来た。
忠之はいない。ずっと待たされていたスタニスラフが、和尚夫婦の前でも不機嫌を隠さず、しきりに時間を気にしている。忠之を探している暇はない。
「ほんまに、こがぁな時にどこ行てしもたんじゃろか」
安子がうろたえ気味に言った。知念和尚も心配そうに辺りを見まわした。
「ずっと一緒におりんさった千鶴さんが、もうおらんなるんじゃけん、どっかで隠れて泣きよるんやなかろか」
伝蔵が笑って言った。しかしその笑みは半分で、残り半分は何だか悲しそうだ。
「千鶴、急ガナイト、自動車ガ、来マズゥ。乗リ場マデ、走ラナイト、ダメデズゥ」
スタニスラフがいらいらした顔で言った。だけど千鶴は忠之が気になった。忠之は絶対に見送りに出て来るはずだ。なのに姿を見せないのは、きっと何かがあったのだ。
伝蔵が言うように、どこかに隠れているのであれば構わない。でもそうではなく、みんながいなくなって一人になる寂しさに耐えきれず、よからぬことを考えたのではと思うと、千鶴は気が気でなかった。
もし忠之が無事でいるなら、千鶴は自分の想いを伝えたかった。さっきは知念和尚に冗談めかして言ったけど、二つの墓石が千鶴に忠之の嫁になるべきだと告げているように思えてならなかった。
千鶴は落ち着きなく周囲を見まわし忠之を探した。スタニスラフが怖い顔で千鶴を呼ぶと、見かねた和尚たちが忠之のことは心配いらないと言った。二人は忠之の悲しみがわかっているのだろう。忠之には千鶴が心配していたことを、あとで伝えておくからと言った。スタニスラフは鼻から大きく息を吐くと、急ギナサイと命令口調で言った。
仕方がないので、千鶴は後ろ髪を引かれながら発つことにした。結婚はやめると言えない以上、行くしかなかった。
幸せにねと安子は千鶴とスタニスラフの手を握った。知念和尚も黙って二人を見つめている。別れを惜しむ二人の顔は今にも泣きそうだ。
スタニスラフはずっといらいらしていたくせに、和尚たちの様子に気分がよくなったのか、ダイジヨブと千鶴の肩を抱きながら誇らしげに言った。
だが、千鶴は不安を感じていた。このままここを立ち去っても本当にいいのかと、心の中で誰かが叫び続けていた。
千鶴自身、忠之に会わずに行けば一生後悔すると思っていた。松山で待っている家族や組合長たちには迷惑をかけるが、これ以上自分を偽ることはできない。自分は神戸にもアメリカにも行きたくない。ここにいたいのだ。
それでもまだ本音を口にしにくい千鶴は、ここに留まるための時間稼ぎをすることにした。その間に忠之が姿を見せてくれる期待があったし、スタニスラフが怒りだして大喧嘩になり、その勢いで結婚がご破算になればという想いもあった。予定の乗合自動車に乗れなければ、祝言も中止になるだろう。そう思うと、千鶴は希望が見えた。
千鶴は本堂脇にある楠の老木に近づくと、その太い幹を抱きしめた。何百年も前からここにいるというこの老木は、千鶴のお気に入りだ。前に忠之が教えてくれたことだが、かつてここにいた娘も異国の血を引いていたらしい。その娘もこうしてこの老木を抱いていたのかと思うと、何だか泣きそうになる。
後ろでスタニスラフが顔をゆがめているが、今のところは黙ったままだ。また結婚を取り止めると言われるのが怖いのだろう。
ならばと、千鶴は今度は本堂へ向かった。
法生寺には長く滞在していたのに、失礼ながら御本尊のお不動さまにご挨拶する余裕がなかった。もしこのままここを離れてしまえば、恐らく二度と訪れることはない。だから、どうしてもお不動さまには挨拶をしておきたかった。
スタニスラフが怒りを抑えた声で千鶴を呼んだが、千鶴は無視した。知念和尚たちがはらはらしているが、怒るなら怒れである。
本堂の中をのぞくと、炎を背負い剣と羂索を手にした不動明王が鎮座していた。
不動明王はとても厳めしい顔で千鶴を見つめている。本当は恐ろしく見えるであろうその明王が、何故か千鶴には懐かしく思えた。二年前に春子と二人で拝みはしたが、それよりもっと昔からこのお不動さまを知っているような気がするのだ。
千鶴は手荷物を脇に置くと、不動明王に手を合わせた。
「お不動さま。これまで長い間、お世話になりました」
挨拶をして不動明王を拝むと、やはりずっと昔にも拝んでいた気がした。それに別の誰かがここで、自分のために祈ってくれていたようにも思えた。
佐伯さんだろうかと思ったが、少し違う。誰だろうと思ったその時、千鶴の脳裏にその人物の後ろ姿が浮かんだ。その人物は不動明王に向かって何かを一心に祈っている。
え?――と思うと、その幻は一瞬にして、今千鶴が立っている場所に立った。
千鶴は幻の人物と重なっている。千鶴の頭の中にその人物が祈る声が聞こえた。
――千鶴が幸せになりますように。どうか、千鶴が幸せを見つけますように。
「進……さん?」
千鶴の中に進之丞の記憶が蘇り、目から涙があふれ出た。
知念和尚が見せてくれた自分たちの小さな墓石を、千鶴は思い出した。仲睦まじく並んだあの墓石の姿こそ自分が求めていたものであり、本来自分たちのあるべき姿だった。
千鶴は泣いた。大声を上げて泣きそうになったが、スタニスラフに来られたくなかったので、両手を合わせながら声を殺して泣いた。
スタニスラフとは絶対に結婚しない。千鶴は進之丞と不動明王に誓った。けれど千鶴には迷いがあった。それは忠之のことだ。
自分には進之丞だけだと思っていたのに、どうしても忠之に心が惹かれてしまう。スタニスラフと一緒になるという話も、その混乱から逃れようとしたがためだった。今を生きよという進之丞の言葉が、本当に忠之のことを示しているのであればそうするつもりだけれど、千鶴ははっきりした答えが欲しかった。
進之丞は誰の中にもお不動さまがいて、人を正しき道に導かれると言った。だけど、千鶴にはその道がわからなかった。
――お不動さま。どうか、うちを導いてつかぁさい。うちはどがぁすればええんでしょうか。
千鶴は祈った。しかし、心の中にいるはずのお不動さまは、何も語ってくれなかった。
進之丞が死んで何年も経っているならともかく、今忠之に心を移すことには、やはり罪悪感を覚えてしまう。一生独りで生きていくのが定めであるなら、それに従うまでだ。忠之が姿を見せなくなったのも、もしかしたらそういう意味なのかもしれない。
千鶴は進之丞に会いたかった。もう一度進之丞に会うことができたなら、今の迷いを捨てて生きていけると思った。
――お不動さま。たった一度で構いません。どうか、もう一度ぎり進さんに会わせてつかぁさい。進さんのお顔を見せてつかぁさい。進さんのお声を聞かせてつかぁさい。
千鶴は真剣に願ったが、所詮無理な願いだった。進之丞はもういないのである。今頃どこかの赤ん坊になっているだろうし、その子を見ても進之丞だと知る術はないのだ。
千鶴が落胆を隠して本堂を離れると、スタニスラフが爆発寸前の顔をしていた。やはり忠之の姿は見えない。きっと独りで生きよという意味なのだろう。
千鶴は松山へ行って結婚を取り止める旨を伝え、みんなを混乱させたことを詫びようと決めた。あとは祖父たちと一緒に土佐へ行くのだ。また進之丞のことを忘れる不安はあるが、これが定めであるなら結婚を取り止めるまでは進之丞を覚えていられるだろう。
知念和尚はもう一泊していけばどうかと冗談を言ったが、スタニスラフは噛みつきそうな顔で、絶対ニ嫌ダ!――と言い返した。和尚夫婦は顔をしかめ、伝蔵も眉をひそめた。
千鶴は和尚夫婦に最後の挨拶をしたかったが、スタニスラフは千鶴の手を乱暴につかんで足早に山門へ向かった。和尚たちが呼びかけても、スタニスラフは止まらなかった。
九
山門まで来ると、千鶴はスタニスラフの手を振り放し、和尚たちを振り返って頭を下げた。それからスタニスラフの後ろを一人で石段を下りると、遠くの方で神輿が練り歩く声が聞こえた。進之丞と出逢った祭りだ。
千鶴は思わず神輿の声に耳を澄ませた。まるで、あの時に戻ったみたいだ。今もすぐそこに進之丞がいるように思えて胸が苦しくなった。
二年前のこの日、そう、まさに今日だった。源次たちに襲われた千鶴を、突然現れた進之丞が救ってくれた。進之丞はその前の日から千鶴のことを見守ってくれていたのだ。
千鶴が石段の上に立ち尽くして泣いている間、スタニスラフは祭りの声に耳を傾ける余裕もなく、急いで石段を下りた。しかしあまりに急ごうとしたため、危うく足を踏み外しそうになって声を上げた。そのせいで追憶は中断され、千鶴は現実に引き戻された。
気をつけてと千鶴に言われても、知らぬ顔で先に下りたスタニスラフは、ゆっくり下りて来る千鶴に早く下りろと怒鳴った。自分が転げ落ちそうになったくせに、千鶴が転ぶかもしれないなどこれっぽっちも考えていない。
松山に着いてから結婚は取り止めると言うつもりだったが、スタニスラフの横暴な態度が腹に据えかねた千鶴は、石段を下りきったところでスタニスラフに言った。
「あとで言うつもりやったけんど、もう我慢できんけん、ここで言わせてもらうぞなもし。うちはあんたと結婚なんかせんけん。結婚は取り止めます。あんたみたいな自分勝手で礼儀知らずで思いやりのない人なんかとは、絶対一緒になったりせんけん!」
こんな時にそんなことを言うのかと言わんばかりに、スタニスラフは顔をゆがめた。それでもまだ千鶴が本気で言っているとは思っていないらしい。また千鶴が怒りを爆発させたところで、時間が経てばすぐに怒りは収まると考えているだろう。
スタニスラフは自分の態度を詫びながらも時間がないことを強調した。千鶴がこんな強気でいられるのも今だけで、結婚してアメリカへ行きさえすれば、自分に従わざるを得ないと思っているに違いない。
実際、いつまで進之丞のことを覚えているかはわからない。またすぐに忘れてしまい、松山で祝言の準備を迫られたら断りきれない可能性はある。進之丞を忘れても忠之がいればスタニスラフを退けられるが、自分一人だけでそうできる自信はない。進之丞を覚えている今のうちにスタニスラフをあきらめさせたいが、簡単にはいかないようだ。
千鶴はスタニスラフに背を向けると、海の方を見た。この先には野菊の群生地がある。そこは進之丞との想い出の場所であり、進之丞と死に別れた場所でもあった。千鶴はそこで進之丞と最後の別れの挨拶がしたかった。それができるのは今しかない。
千鶴がそちらへ向かおうとすると、スタニスラフがついて来ようとした。
「ついて来んで!」
千鶴は声を荒らげて叫んだ。今度ばかりは絶対にスタニスラフに邪魔はさせない。それでもスタニスラフが来ようとすると、千鶴はスタニスラフをにらみつけた。
「ほれ以上ついて来たら、鬼に殺されるで!」
思わず出た言葉だったが効果はてきめんだ。スタニスラフは顔を強張らせている。
「悪魔ヴァ、死ニマシタ」
「あれは嘘じゃ! あんたがしつこいけん、死んだて言うたんよ」
スタニスラフは言葉が出せず、固まったように動かない。千鶴は構わず背を向けると、野菊の群生地へ走った。以前は毎日訪れていたのに、スタニスラフが来てからは足を運ばなくなっていた。胸の中は後悔だらけで、千鶴はあふれる涙を拭きながら、松原の手前にあるその場所に来た。
そこには見事な野菊の群生が広がり、愛らしい花が一面に咲き誇っていた。その花たちの前に誰かが立っている。その誰かが千鶴に気づいて振り返った。身に着けているのはあの継ぎはぎの着物だ。手には一輪の野菊の花を持っている。
「進さん?」
思わず駆け寄ると、立っていたのは進之丞ではなく忠之だった。行方がわからなかった忠之は、こんな所にいたのだ。
近くで見ると、顔や手や脛が泥で汚れた上に傷がある。恐らく石段から転げ落ちたのだろう。流れ出た血はまだ固まりきっておらず、継ぎはぎの着物も泥だらけだ。
千鶴は涙ぐみながら忠之の傷を確かめ、寺へ連れ戻ろうとした。スタニスラフが許さなくても、忠之を放っておくことなど絶対にできなかった。
忠之は大丈夫だと言うと、千鶴を見つめて微笑んだ。
「千鶴さん、いよいよお行きんさるんじゃな。おめでとな。おら、千鶴さんにお祝いしたかったけんど何もあげる物がないけん、せめてこれをと思て、ここで待ちよったんよ」
忠之は戸惑う千鶴の髪に、手に持っていた花を飾ってくれた。
「うん、きれいじゃ。千鶴さんには、この花が一番似合うぞな。こがぁして見よったら、千鶴さん、花の神さまみたいじゃな」
え?――驚く千鶴に忠之は微笑みながら言った。
「千鶴さんは誰より優しいお人じゃし、まっこと誰よりきれいじゃけん、絶対幸せになれるぞな」
「なして、ほの言葉を?」
「ほの言葉? ほの言葉て?」
「うちのこと、花の神さまとか、優しゅうてきれいじゃて……」
忠之は照れながら頭を掻いた。
「ほれは……、ほやかて、そがぁ思たけん言うたぎりなけんど、おら、またいらんこと言うてしもたろか? 気ぃ悪したんなら謝るぞなもし」
うろたえる忠之は進之丞そのものだ。それに、今の言葉は進之丞の言葉だ。まるで忠之の心の奥に進之丞が隠れていて、忠之を通して喋っているみたいだ。
そう感じた千鶴は、まさか?――と思った。
金色の霧になった進之丞は、鬼の一部だった者たちが行くべき所へ行けるようになったと言った。そして、自身のことは過ぎ去りし記憶、過去の幻影だと表現したのである。
知念和尚は、進之丞は誰かとして生まれ変わったのだと言った。その誰かは赤ん坊だと思っていたが、そうではなかったのか。
千鶴は忠之をじっと見た。忠之は狼狽した様子で、どうしたのかと言った。千鶴は忠之を見つめながら考え続けた。
自身が鬼であることを明かした進之丞は、忠之に取り憑いてその心を喰ったと言った。けれど、進之丞自身には忠之を喰った覚えはなかった。結果的に喰ってしまったと受け止めていただけだ。だから、本当にそうだったとは言い切れない。
前世の自分が隠れた時、今の自分はこの二年の記憶のほとんどを失ってしまう。それは忠之の状態と似ているが、似ているというより同じなのではないのか。
忠之の心から進之丞が離れたために、忠之は二年の間のことがわからない。そして自分も前世の自分が離れると、同じ状態になってしまう。
だが前世の自分は完全に消えたわけではない。時折、後ろからこっそり姿を見せる。そんな時には、さっきの墓石を見た時の涙のように思いがけないことが起こる。
――もし……、もし佐伯さんがうちと対じゃとしたら、佐伯さんが進さんそっくりの言動を見せんさるんは……。
忠之を見つめる千鶴の目に涙が滲んだ。
「ほうやったんじゃね……。ほういうことやったんじゃね……」
忠之がうろたえると、千鶴は目を伏せ泣きそうな声でつぶやいた。
「うちは抜け作じゃった……。まっこと抜け作じゃった……」
「千鶴さん? 大丈夫かな?」
忠之は千鶴の顔を心配そうにのぞき込んだ。だがこぼれる千鶴の涙を見ると、忠之はまたうろたえた。
進之丞は自分と忠之の心が対だったと言った。まさにその言葉どおりであったなら、進之丞がどこへ行ったのか、その答えは明らかだ。進之丞が自身を過ぎ去りし記憶、過去の幻影と表現したのは、そういう意味だったのだ。心の赴くままに生きよという言葉も、進之丞は自分の居場所を伝えようとしていたのに違いない。
進之丞の声が聞こえてくる。
――千鶴、今を生きよ。今にこそ、お前の真の幸せが隠されておる。本来、お前に用意されておった幸せがな。
どこへ進之丞は行ったのか、どこが進之丞の居場所なのか、千鶴はついに悟った。何故忠之に心を奪われたのか。その理由がここにあった。
思い返せば、知念和尚も教えてくれたように、忠之という諱こそが進之丞の本当の名なのだ。進之丞という名にこだわっていたばかりに諱の意味が頭に浮かばなかった。今の自分が前世と同じ千鶴という名前であるがごとく、忠之という名が何を示していたかはわかっていたはずだったのに。
それに忠之の右腰にある赤痣は生まれつきだ。あれが前世の傷であるならば、佐伯忠之が何者なのかは明白だ。
「千鶴さん、そろそろ行かんと、あのお人が待ちよらい」
忠之は落ち着きのない様子で、石段の近くで待っているスタニスラフの方を見た。
千鶴は構わず忠之の手を握った。忠之は驚いたが、黙って千鶴に手を握らせた。懐かしい温もりが、手を通して千鶴の中に流れ込んで来る。
どうして、この温もりに気がつかなかったのだろう? この温もりは初めからあったに違いない。
千鶴は悲しくなった。きっと忠之を拒む気持ちが気づかせなかったのだ。ずっと傍にあったこの温もりを、何度も感じていたはずなのに……。
持っていた手荷物を落とすと、千鶴は忠之を抱きしめた。忠之は大いに慌てたが、すぐに千鶴をそっと抱き返した。
千鶴の体が、心が、忠之の温もりに包まれる。時を超えたあの懐かしい温もりだ。
この温もりは、きっと忠之も感じていただろう。なのに自分を殺して、ずっと千鶴のことだけを考えてくれていたのか。
千鶴は涙が止まらなかった。忠之を抱きながら声を上げて泣いた。
忠之はもう慌てることはせず、千鶴を抱きながら優しく慰めた。
「千鶴さん、もう泣かんのよ。千鶴さんに泣かれたら、おら、困ってしまわい」
泣きじゃくる千鶴の耳元で、忠之も涙ぐみながら囁いた。
「千鶴さん、今までほんまにありがとう。おら、お不動さまに千鶴さんのこと、お願いしといたけんな。ほじゃけん、千鶴さん、絶対幸せになれるぞな」
後ろの方でスタニスラフが喚いてる。だけど千鶴の耳にスタニスラフの声は聞こえない。聞こえているのは、千鶴に呼びかける忠之と進之丞の声だけだ。
また、千鶴の濡れた目に映っているのは、忠之の優しい笑顔と、そよ風に揺れる野菊の花たちだけだった。
(了)