日本でバス事業が始まったのは、明治36年(1903年)に京都で、乗り合い自動車の運行が始まったのが、最初とされています。
京都で始まった、この乗合自動車は6人乗りで、とても今のバスとは似ても似つかない姿です。
日本バス協会は、この自動車をバス事業の始まりと位置づけていますが、少し無理があるかも知れません。
愛媛県に初めて登場した自動車も、乗合自動車(バス)でした。
愛媛で、乗合自動車が初めて運行されたのは、明治44年です。
運行区間は、松山の木屋町口から堀江村まででした。
これは千鶴が乗った客馬車と、同じ道を通ることになるので、客馬車と競合することになったようです。
ちなみに明治38年には、広島で12人乗りのバスが運行されました。
こちらは屋根もついていて、少しバスっぽくなりましたが、馬を除けた馬車のようにも見えます。
せっかく登場した広島の乗合自動車ですが、車両の故障が頻発と資金不足のため、2月に運行を始めたその年の、9月で営業を終了したそうです。
話を愛媛に戻しますが、明治44年に木屋町口から堀江まで、運行が開始された乗合自動車は、中古の12人乗り乗用車でした。
初めは1台だけでしたが、その後、10人乗り乗用車が1台追加されました。
当時の乗合自動車の写真はありませんが、おそらく廃業になった広島の乗合自動車を、愛媛の業者が購入したのだと思います。
乗合自動車の車輪は、前輪が空気入りのタイヤでしたが、後輪はゴムの塊で、乗り心地はとても悪かったと言います。
この乗合自動車で木屋町口~堀江の間を、一日六往復したそうですが、片道の運賃は9銭でした。
当時の客馬車の、木屋町~堀江間の運賃は8銭でしたので、1銭割高になっています。
それでも客馬車よりも、速く快適に移動できれば、よかったのでしょう。
でも実際は、広島での運行で故障が頻発していたように、やはり故障も多かったそうです。
おまけに沿道の住民からは、ホコリが立つと文句を言われ、県当局からは道を傷めると指摘されたり、何かと運行にケチがついたようです。
それで結局は、この乗合自動車は開業数年後に姿を消しました。
しかし、大正5年(1916年)になると、シボレーやフォードなどのアメリカ製の自動車を改造した、6人乗りの乗合自動車が愛媛県内で運行開始となりました。
6人乗りというのは、一列だった後部座席を二列にして、それぞれに3人乗せたようです。
アメリカ人と比べたら日本人は小柄なので、そういう改造も可能だったのでしょうが、それにしても窮屈な感じですね。
ちなみに、運転台には運転者と助手の2人が、乗っていたそうです。
大正7年には、松山~今治間にも、同様の乗合自動車が走るようになり、松山と北条の間も、再び乗合自動車を利用できるようになりました。
その一つは大正13年に始まりましたが、松山~北条~大井の区間を、一日七往復しました。
大井というのは、現在は大西町と名称が変わっていますが、今治と北条の間にある町です。
大正13年は、国有鉄道の讃予線が、大井まで延びて来た年です。
そのため、大井~松山の間に乗合自動車を走らせたのでしょうが、昭和2年に讃予線が松山まで開通すると、この業者は営業をやめました。
この時の大井~北条間の、乗合自動車の運賃は1円30銭で、所要時間は1時間20分でした。
また、北条~松山間の運賃は1円10銭で、所要時間は50分でした。
北条~松山間は15kmなので、乗合自動車の速度は、おおよそ時速18kmぐらいだったとわかります。
ちなみに、昭和2年に松山まで開通した讃予線は、北条~松山間の運賃は15銭だったそうです。
乗合自動車も客馬車も、とても太刀打ちできる値段ではありませんね。
鉄道の開通とともに、両者が姿を消して行ったのは、仕方のないことだったようです。