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落ちていた着物


     一

 千鶴ちづたちが引き止められたのは県庁の前だ。周囲には男たちの他に人影はない。
 男たちはしゃたちに、このまま真っぐ進んでお堀に突き当たった所を右に入れと指示を出した。そこは昨日千鶴たちが城山へ登ろうとして入った道だ。
 南からひがし堀端ほりばたを進んで来た電車が、千鶴たちの方へ向きを変えた。照明が辺りを照らし、ミハイルとさちが乗った人力車も、別の男二人に止められているのが見えた。
 千鶴は助けを求める気持ちで電車を見た。しかし乗客のいない電車は、無情にも千鶴たちの右脇を通り過ぎて行った。
 電車が去って辺りが再び薄暗くなると、父と母を乗せた人力車が再び動き始めた。
 男たちが前に続けと言うと、千鶴たちの人力車も動きだした。車夫たちはおびえきっており、千鶴たちをづかうのも忘れて黙って男たちに従うばかりだ。
 道がお堀に突き当たった所には、お堀を渡る橋がある。その先にあるのは松山まつやまへい第二十二連隊駐屯地ちゅうとんちの東門だ。門の向こうには夜勤の衛兵えいへいがいると思われるが、誰かが門の所まで来ない限り、衛兵も堀の外のことなど気にしないだろう。
 千鶴たちを乗せた人力車は誰にも助けを求められないまま、前の人力車に続いて橋の手前を右に曲がった。
 この道に街灯はない。月明かりのお陰で周囲の建物などが見えるが、月がなければ真っ暗闇だ。右手に日本赤十字社の建物があるが、明かりは見えないし、ひっそりしていて人の気配もない。左手にあるお堀の向こうは、るいが築かれていて中の様子はわからない。逆にいえば、向こうからも千鶴たちのことはわからないわけだ。
 お堀の突き当たりにある衛戌えいじゅ病院も、消灯時間を過ぎたらしく建物はほとんど真っ暗だ。直接行き来できる道もないから、病院へ逃げることもできない。
 登城道とじょうどうへ向かうためだけのこの道をこんな夜分に訪れる者はなく、声を出したところで誰にも聞こえない。いわば、千鶴たちは密室へ連れ込まれたのと同じ状況にあった。

 道の奥の黒々とした城山が迫った所で、千鶴たちは人力車から降りろと言われた。少し先で母たちを乗せた人力車にも男たちが怒鳴っている。
 表の通りを誰かが通っても、ここで何が起こっているのかはわからないだろう。お堀の脇を電車が来ても、その光はここにはほとんど届かない。スタニスラフは千鶴を抱いたまま動かなかったが、やはり怯えているようだ。体の震えが伝わってくる。
 男の一人がスタニスラフの腕をつかみ、よせぇと怒鳴った。あらがうのをあきらめたスタニスラフは、千鶴をちらりと見てから降りようとした。それでも怖いのだろう。降りるのをまどっていると、男に引っ張られて地面に転げ落ちた。
「スタニスラフ!」
 千鶴が叫ぶと、男は千鶴も無理やり引きずり降ろそうとした。スタニスラフがやめさせようとしたが、もう一人の男が容赦なくスタニスラフを殴りつけた。
「やめて! 今降りますけん、乱暴はやめてつかぁさい」
 千鶴が大声で言うと、男はスタニスラフを殴るのをやめた。
 見ると、前でも同じことが起きていた。人力車のすぐ脇で殴り倒されたミハイルを、幸子が身をていしてかばっている。どちらの車夫たちもただ黙って見ているだけで、誰も千鶴たちを助けようとはしない。
 人力車から降りた千鶴は、怖かったが気丈に男たちに向かって言った。
「あんた方、兵庫ひょうごのとっこうて言うたけんど、とっこうてなんぞなもし?」
なんぞなもし?」
 男たちは千鶴の喋り方を小馬鹿にして笑った。
「こっちは、ど田舎やからな」
 スタニスラフを殴った男が、突っ立ったままの車夫たちを眺めながら言った。
 しゃあないなと、もう一人の男が面倒臭そうに頭をいた。
「知らんのなら教えたろ。特高とっこういうんはな、正式には特別高等警察ていうんや。松山にはまだないけどな。その名のとおり、わしらは内務省ないむしょう直属の特別な警察よ。ひめの県知事とか、警察の本部長なんかにいちいちおうかがい立てんでも自由に動けるんや。それに巡査じゅんさはサーベルしか持たしてもらえんがな、わしらは拳銃を持たしてもろとるんや。わしらが特別いうんがわかるやろ?」
 しょうもないことまで言うなと、ミハイルたちの所にいる男が怒鳴った。怒鳴られた男は、わかったわかったとうるさそうに返事をし、車夫たちをドスの利いた声でおどした。
「そういうわけやから、お前らも余計なことしゃべったら、ただじゃ済まんからな。わかったら、さっさと行け!」
 車夫たちは千鶴たちを横目で見ながらいなくなった。提灯ちょうちんがなくなり月明かりだけになったが、その月もすぐに雲に隠れて辺りは闇に包まれた。それでもまだ雲を通して弱々しい光が届くので、男たちの様子はかろうじてが見えている。

「うちらが何をした言うんですか!」
 幸子がミハイルをかばったまま大声で抗議した。幸子の近くにいた男は、幸子の脇にしゃがんで言った。
「それをお前らに吐かせるんが、わしらの仕事や」
 千鶴も近くの男たちに必死に訴えた。
「うちら、なんもしとりません。だいたい、なして兵庫の警察が来るんぞな? ここは松山ぞな!」
 千鶴のそばにいる男は、千鶴の声など聞く素振りもなく煙草たばこに火をつけた。代わりにスタニスラフを殴った男が言った。
「言うたやろ? わしらは特高や。愛媛も兵庫も関係ないんや」
「アナァタタチ、コウカラァ、ボクゥタチ、ツゥイテ来タ」
 スタニスラフが怒った口調で言ったが、その声は震えている。男はスタニスラフの頭をたたき、ご名答!――と言った。
「お前らが松山へ行くんはなんかあると思てな。それであとをつけて来たいうわけや。そしたらあんじょう、お前の父親は昔の女とその娘に連絡取って、お偉方らとばんさんかいや。ただの旅行のはずが、こら、どういうこっちゃ!」
 男の言葉がよくわからなかったのか、声を荒らげる男にスタニスラフは言い返さなかった。男はスタニスラフが罪を認めたと思ったらしく、このクソがと吐き捨てた。
 今の話聞いたやろと奥の男がミハイルに声をかけた。もう観念しろと言いたいらしい。
 煙草を吸った男が、ふうと煙を吐いて言った。
「今日集まったもんの中に、お前らのスパイ仲間がおるはずや。それが誰なんかを教えてもらおか」
ボクゥタチ、ソレェンカラァ、逃ゲタ。ソ連ナ、スパイジャナイ」
 やっとスタニスラフが言い返すと、男たちはふっと笑った。
「みんな、そう言うんじゃ。わしはスパイじゃて、スパイが自分で言うか、ボケ!」
 スタニスラフをののしった煙草の男に、千鶴は言い返した。
「ほんなんちゃちゃぞな。うちらはひさまつはくしゃくさまに招待されて――」
 やかましい!――と煙草の男は千鶴を平手打ちし、千鶴はその場に倒れた。
ヅゥ!」
 叫んだスタニスラフも、また殴られた。
「しばかれとうないなら黙っとれ、この赤が! お前らが赤の鬼山おにやまとつるんどるんも、ちゃんと調べがついとるんじゃ。明日の朝一番の船で神戸へ戻ったら、くわしゅう話を聞かせてもらうで」
 男が喋っている間に月が分厚い雲に隠れ、淡い月明かりも失われた。真っ暗闇の中で男のくわえた煙草の火だけが浮かんでいる。
「くそっ、これじゃあくろうて手錠をかけられん」
 奥にいた男たちがぼやいた。だが、煙草の男はそのわずかな明かりで、千鶴の姿がなんとか見えるのだろう。倒れたままの千鶴の右手を乱暴につかみ上げて言った。
山﨑やまさき千鶴ちづ、お前をソ連のスパイ容疑で逮捕する」
 暗闇でよく見えないが、男はふところから手錠を取り出そうとしたようだ。ところが男は手錠をかける前に、つかんでいた千鶴の右手を離した。
 闇に浮かぶ小さな煙草の火が、うわわという声とともに、どんどん高く浮かんで行く。と思ったたん、その火は叩きつけられるがごとく勢いよく地面に落ちた。鈍い音が聞こえ、辺りは静かになった。落ちた煙草の火も動かない。
 もう一人の男が、暗がりの中に浮かぶ巨大な影に気がついて声を上げた。所々薄明るい空を背景にした、その見上げるような影には二本の角が生えている。

     二

がんごさん?」
 千鶴が思わず声をかけると、影は千鶴に顔を向けた。暗くて顔の形はわからないが、千鶴は影が哀しげな目で自分を見ている気がした。
 影はすぐに動きだすと、スタニスラフのそばにいた男をつかみ上げた。それを見たスタニスラフはロシア語で何かを叫びながらって逃げた。恐怖で千鶴のことなど頭から抜け落ちているようだ。
 影はつかんだ男を口元へ運んだ。よく見えないが、千鶴には影が男を食いちぎろうとしているように思えた。男は気も狂わんばかりの悲鳴を上げている。
「いけんよ!」
 千鶴が叫ぶと、影は動きを止めた。男の頭は大きく開いているであろう影の口のすぐ前だ。あまりの恐怖で失神したのか、男はぐったりして声を出さなくなった。
あやめたらいけん!」
 千鶴がもう一度叫ぶと、影は捕まえた男を口元から離し、千鶴を見下ろしながらぐるるとうなった。
「千鶴! 逃げるんよ!」
 幸子の叫び声が聞こえた。でも、影の唸り声にかくをしている感じはない。影は困惑しているようだ。
「う、撃て! 撃つんじゃ!」
 ミハイルたちの所にいた男の一人が叫んだ。だがなかなか発砲しない。動揺が激しくて拳銃をうまく取り出せないのか、あるいは真っ暗闇なのも影響しているに違いない。
 ところが影の方は夜目よめが利くらしく、つかんでいた男を二人めがけて投げつけた。いや、たたきつけたという方が正しいだろう。
 まさに肉弾となった仲間の直撃を受け、男たちは後ろへ吹っ飛んだようだ。男たちのうめき声がさっきよりも奥の方で聞こえている。
「お母さん! お父さん!」
 千鶴の呼びかけに、さっきと同じ辺りから両親の声が応じた。二人とも伏せたままなのが幸いしたらしい。もし立っていたら、男たちと一緒に吹っ飛ばされていただろう。
 影が男たちに向かって唸った。今度は怒りのもった威嚇の唸りだ。影は男たちを殺すつもりだと千鶴は思った。
 薄くなった雲を通して淡い月明かりが、辺りをほんのりと照らした。
 影は身をかがめて千鶴に手を伸ばした。ミハイルと幸子の悲痛な叫びが聞こえた。スタニスラフは少し離れた所から千鶴を振り返ったが、声も出せずに見るばかりだ。
 千鶴は迫る影を見上げながら動かなかった。胸はどきどきしていたが、影は自分に何もしないとわかっていた。
 思ったとおり、影は千鶴に手を差し伸ばしたまま、千鶴に触れようとしなかった。すぐ目の前にある影の手は、本当は千鶴に触れたいのをためらっているみたいだ。
 影は頭を少しかしげて悲しげな唸り声を出した。千鶴には影が泣いているように思えた。

「その子にぇ出すな!」
 幸子が闇の中で転びそうになりながら走って来ると、影は立ち上がった。影の前まで来た幸子は、千鶴を抱きかかえながら影に叫んだ。
「この子にぇ出したら、うちが許さんよ。この子、連れて行くんじゃったら、先にうちを殺すがええ!」
 影はうろたえたように唸った。影に幸子を殺すつもりはなさそうだ。むしろ幸子の剣幕に押されてたじろいでいる。
 影はその場を離れると、道の奥へ向かった。スタニスラフは慌てて道の端へ逃げると、頭を抱えて小さくなった。
「ミハイル!」
 千鶴を抱きながら幸子が叫んだ。鬼の行く手にはミハイルが倒れたままだ。しかし影はミハイルをまたいで、奥で呻いている男たちの所へ向かった。
 するとスタニスラフが思い出したように千鶴に駆け寄り、幸子と一緒に千鶴を抱こうとした。
 千鶴はその腕を払いのけ、母を押しのけると影を追いかけた。後ろで母が叫んでいるが、止まるわけにはいかなかった。
 この影は鬼だと千鶴は確信していた。鬼に人殺しをさせまいと、ただそれだけを考えていた。
「チヅゥ」
 暗い地面の近くで父の声がしたが、千鶴はこたえられないまま影に走り寄った。
 影は男二人を両手につかみ上げていたが、叩きつけもせず食いちぎりもしない。影はそのまま動きを止め、ただ唸るばかりだ。だが男たちの苦しそうな声は、すぐに断末魔のような叫びになった。どうやら影は男たちをじわじわと握り潰すつもりらしい。
「いけん! がんごさん、やめて!」
 千鶴は影を見上げながら叫んだ。
 影が千鶴を振り返った時、雲間から月が顔を出した。月明かりに浮かび上がったのは、やはり鬼だった。醜悪な顔がしかられた子供みたいに困惑のいろを浮かべている。
がんごさん、お願いやけん、もうやめて。うちのためにけがす真似はせんで。そげなことしよったら、また地獄へ戻されてしまうぞな。うちのこと想てくれるんなら、ずっとうちのねきにおれるようにして! ほじゃけん、そがぁなことはやめてつかぁさい」
 千鶴が必死に訴えると、鬼はつかんだ二人に牙をき、うろたえた目を千鶴に向けた。
「な? ほら、うちやったら、このとおり大丈夫じゃけん、もうええんよ。ほじゃけん、その人らを堪忍かんにんしてやって」
 千鶴が両腕を広げて鬼に笑顔を見せると、後ろから走って来た幸子が、再び千鶴を護って立ちはだかった。すると、鬼は幸子を恐れるかのようにあとずさりをした。
 その時、もう一人の男が近くで呻き声を出した。先ほど鬼に投げつけられた男だ。背骨が折れたのか、体が気味悪い形に曲がっている。
 男の苦しげな声は鬼の怒りに再び火をつけたらしい。鬼は牙を剥き出して唸り声を上げると、足を上げてその男を踏み潰そうとした。
「いけん! 殺めたらいけん!」
 千鶴は母を押しのけると鬼の前に走り出て、両手を上げながら叫んだ。
「殺めたらいけん!」
 千鶴が踏み潰されると思ったのか、幸子は両手を口に当てたまま固まった。ミハイルとスタニスラフも声が出ない。
 しかし、鬼は踏み下ろそうとしていた足を止め、そのまま静かに下ろした。鬼は千鶴に危害を与えないどころか、千鶴の言葉に従っているのは明らかだ。
 それでも鬼は男たちの命を奪いたかったのだろう。両手につかんだ二人に向かって憎々しげに牙を剥き、悔しそうに天を仰ぐとすさまじい咆哮ほうこうを上げた。それはまさしく地獄の鬼の咆哮そのものだった。
 千鶴の体はびりびりと小さく震えた。幸子は頭をすくめ、両手で体を抱くようにしている。ミハイルとスタニスラフは両耳を手で押さえた。えいじゅ病院の窓ガラスが一斉いっせいに割れ、病室の中から多くの悲鳴が聞こえた。
 鬼はつかんでいた男たちを左手に抱え直し、身体をかがめて千鶴の方へ右手を伸ばした。
 幸子はとっに千鶴を抱いてかばったが、鬼がつかみ上げたのは踏み潰そうとした男だった。
 そのあと、鬼は初めに地面に叩きつけた男も拾い上げると、そのまま城山を登る道へ姿を消した。あとにはひっそりとした闇だけが残された。

     三

 鬼の咆哮ほうこうが聞こえたのだろう。お堀のるいの向こうが騒然となった。窓が割れた衛戍えいじゅ病院からも人の騒ぐ声がする。誰かに見つかると面倒なことになると思った千鶴は、みんなに急いで登城道とじょうどうに隠れるように言った。
 何故隠れるのかは、ミハイルとスタニスラフにはわからない。しかし、幸子も今の状況を他人に知られるのはまずいと理解したようだ。すぐにミハイルを助け起こすと、千鶴の指示に従って鬼が消えた登城道へ向かった。
 千鶴はおろおろするスタニスラフに早く隠れるよう強くうながすと、その場に落ちていた男たちの帽子を拾ってまわった。ここに誰かがいたという痕跡を残しておきたくなかった。
 初めに煙草の男がたたきつけられた辺りには手錠が落ちていた。それはお堀の中に投げ捨てて、最後に父のつえを拾い上げると、千鶴は急いで母たちを追った。
 昨日この道を登ろうとした時には、あまりの急斜面のためにミハイルは登るのを断念した。その同じ道をミハイルは幸子たちに助けてもらいながら、杖なしで昨日よりも上に登ることができた。足が痛かっただろうが、そんなことは言ってられなかった。
 千鶴は三人に追いつくと、やぶ近くに身を隠すように言った。ほとんど間を空けずに衛戍病院の方から人の声が聞こえた。見ると、誰かが割れた窓から辺りを確かめている。
 千鶴たちがいる所は暗くて病院からは見えないが、声を出せば気づかれてしまう。静かにと言ったわけではないが、ミハイルたちも息を殺して様子をうかがっている。
 少ししたら今度はお堀の東門から、ランプを掲げた三名の兵士が出て来た。月がまた隠れたので辺りは再び真っ暗闇だ。暗くて何も見えないと病院の誰かがぼやいている。
 橋を渡った兵士たちはランプをかざしながら、さっきまで千鶴たちがいた辺りへ近づいて来た。途中で一人が道の隅に落ちていたぼろ切れのような物を拾い上げ、ランプの明かりで確かめている。千鶴たちがいた所よりも道の入り口に近い場所なので、特高とっこう警察の男たちとは関係ない物と思われた。
 しゃたちが落とした物であれば、あとで誰の物なのかを特定されて、ここであったことをしゃべられるかもしれない。そうなれば、千鶴たちが特高警察の男たちとここにいた事実が知れてしまい、大事おおごとになるのはひつじょうだ。
 一人がぼろ切れを調べている間、もう一人はお堀をのぞき込み、残りの一人が千鶴たちの方へやって来た。まずいと思ったが、下手へたに動けばかえって気づかれてしまう。
 息を殺してじっとしていると、兵士は千鶴たちがいる坂道までやって来た。そこでランプを掲げて、登城道に何かがいないか確かめている。もし上がって来られればおしまいだ。

なんぞおるんか?」
 衛戍病院の窓から誰かが兵士に声をかけた。患者だろうか。暗闇の中の声だったので、近くまで来ていた兵士は驚きの声を上げた。
「な、なんぞ。いきなし声かけたら、びっくらこくじゃろが!」
「すまんすまん。ほんでも、さっきのはありゃなんぞ? 窓は全部割れるし、みんなすくんでしもて声も出まい。あしもまだ体の震えが止まらんが」
「あしらにもさっぱりわからん。どこぞの国の秘密兵器かもしれんけん、見てこい言われて来たけんど、なんもなさそうな」
「秘密兵器? ありゃあ化けもんぞ。あしゃあ、もうちぃとで心臓が止まるとこやったかい」
 その時、こら!――と病院の窓辺りから怒鳴り声が聞こえた。
なんしよんぞ! そげなとこにおったら悪霊に取りかれようが! そっから離れぃ!」
 ランプを持ったまわりらしき者が現れると、兵士と喋っていた男を無理やり奥へ引き戻した。そのぴりぴりした雰囲気は、病院中が恐怖におののいている表れだ。

なんいごいたぞ!」
 お堀をのぞいていた兵士が叫んだ。喋っていた兵士は急いでお堀へ向かい、ぼろ切れを見ていた兵士も、それを投げ捨てて仲間の所へ駆け寄った。
 三人はランプをかざしてお堀の水面を照らしていたが、ちょっと水音が聞こえただけで大騒ぎをした。本音では秘密兵器などではなく化け物だと思っているのか、三人ともかなりおびえているようだ。
 兵士たちはしばらくお堀を調べ続けたが、そのうち一人が言った。
「おい、ひょっとしてこれはおそでだぬきわざやないんか?」
 するともう一人が、ほうかもしれまいと応じた。
 東堀と南堀が合わさる角には、八股やつまたえのきと呼ばれる大きな榎が生えており、そこにはおそでという名のめすだぬきまつったほこらがある。
 お袖狸は神通力で人々の願いをかなえる有り難い狸で、この八股榎をすみにしているといわれている。榎の根元に建てられた祠には、毎日信者が参拝に訪れるほどの人気だ。
 ところがお堀に沿った道を広げるために、お堀を埋め立てるという話が持ち上がっており、そうなると邪魔になる八股榎はられる運命にあった。
 これまでにも八股榎は人間の都合により二度伐られた。その都度お袖狸は住処を失い、別の場所への移動を余儀なくされた過去がある。今度伐られたら三度目になるわけで、さすがにお袖狸が怒ったのだと、兵士たちは三人でうなずき合った。本当はさっさとここから離れたいに違いない。
 三人は八股榎の方に向かって手を合わせると、お気持ちお察ししますと言い、明日はお供えを奮発するのでお怒りをおしずめくださいと、お袖狸に声を出して祈った。
 祈りを終えた兵士たちは、これにてお役御免とばかりに東門の向こうへ戻って行った。

 兵士たちがいなくなると、千鶴は持っていた帽子を近くの藪に捨て、真っ暗な坂道を見上げた。この道を登って行った鬼が気になるが、あとを追うことはできない。あきらめて衛戍病院の様子を確かめた千鶴は、道を下りるよう父たちを誘っ いざな た。
 月が隠れたままなので足下が見えず、足が悪いミハイルでなくても転びかねない。千鶴たちはミハイルを支えながら、ゆっくり慎重に坂道を下りて行った。戻った元の場所も真っ暗闇で、気をつけねばお堀に落ちてしまいそうだ。
 辺りはしんと静まりかえり、先ほどのことはすべて幻だったのかと思えてしまう。だけど特高警察に捕まったのは事実だし、鬼は確かにいた。
 鬼は進之丞しんのじょうの言葉どおりに千鶴を護ってくれていた。お陰で特高警察に捕まることは避けられたが、代わりにもっと大きな問題が起きてしまった。あの男たちは死んだかもしれないし、生きていたとしても前代未聞の大事件だ。さらには、それを両親たちがの当たりにしてしまい、千鶴が鬼を従わせるところも見られたのだ。
 千鶴は鬼に人殺しをさせまいと必死で、あとのことなど考えていなかった。鬼がいなくなったあともとっにみんなに指示を出し、なんとか兵士たちの目を逃れたが、今は不安と怯えで混乱していた。
 あの特高警察の男たちはどうなったのか。今後どうなるのか。母たちは自分をどう見ているのか。頭の中でいろんなことが思い浮かぶが、どれにも共通して言えるのは、絶望しかないということだ。
 ついさっきまで萬翠荘ばんすいそううたげが開かれていたのがうそみたいだ。あの時の千鶴は、まるでお姫さまだった。でも、今の千鶴は鬼娘がんごめだ。仲間の鬼を従えた鬼の娘なのだ。

     四

「アレェヴァ、ナンデズゥカ? アクゥマデズゥカ?」
 興奮した様子のミハイルが、潜めた声で千鶴をただした。鬼に驚いたのはもちろんだろうが、鬼が千鶴に従っていたことにもきょうがくしていた。
「あれは千鶴にいとるがんごぞな」
 千鶴が黙っていたので幸子が言った。気丈に振る舞っていても声は恐怖に震えている。
 少しだけ顔を出した月の明かりが、千鶴たちをほのかに照らした。幸子はしきりに両手で体をこすり、ミハイルは険しい顔をしていた。スタニスラフは一人だけ離れた所にいて、不安げに千鶴を見ている。
 幸子の説明がわからないミハイルは、がんごとは悪魔のことかとたずねた。しかし、今度は幸子が悪魔がわからない。
「あのがんごは、うちを護ろうとしたぎりなんよ」
 千鶴が鬼をかばうと、よもだ言いなや!――と幸子は殺した声でしかった。
がんごはあんたをねろとるんで! 鬼があの人らをおそたんは、あんたを横取りされるて思たけんよ。助けてくれたんやないで!」
 娘が鬼を従わせた事実を、幸子は認めたくないようだ。鬼が千鶴を狙っていると言い張るのも、それが理由だろう。違うと言いたかったが、千鶴は言い返さなかった。
 千鶴と鬼には前世からの因縁があるらしいと幸子が話しても、ミハイルにはわからない。とにかくあれはがんごという化け物で千鶴を狙っていると、幸子は千鶴への言い分を繰り返した。だが鬼は千鶴だけでなく、幸子たちのことも護ってくれたのだ。
 千鶴は聞いていられなくなり、もうやめてと潜めた声で叫んだ。
「あの人らがあげなことせんかったら、がんごかて出て来んかったんよ。悪いんはあの人らじゃけん!」
 幸子は興奮する千鶴をなだめながら、何かを言おうとしたミハイルにも黙っているようにと手で伝えた。
 ミハイルは心配そうにしていたが、スタニスラフは明らかに困惑していた。あれほど千鶴を求めていたはずなのに、今のスタニスラフの目は恐れと狼狽ろうばいに満ちている。スタニスラフは千鶴と鬼が深い関係にあると見たようだ。

 みんなの視線が耐えられず、千鶴は母たちから離れた。すると、スタニスラフがミハイルと幸子の所へ来た。事情を知りたくても、千鶴が怖くて近づけなかったようだ。
 スタニスラフはミハイル以上に鬼を恐れ、あれは悪魔だと決めつけた。幸子の説明はスタニスラフも理解ができず、互いに自分の言い分ばかりを繰り返した。
 それほどまでにみんなが動転していた。それはそうだろう。三人とも、自分の目で鬼を目撃したのである。また千鶴自身がじかに鬼を見たことで動揺していた。
 進之丞から鬼の話を聞かされて、千鶴は強くて優しい鬼を勝手に思い描いていた。ところが実際に目にした鬼は、地獄にいたのと同じとんでもない化け物だった。
 今まで忘れていたが、あの鬼が進之丞の父親を八つ裂きにしたのである。それを思うと、いまさらながら恐ろしさに身がすくんでしまう。
 そんなことは何も知らなかったから、地獄で鬼を見つけた時に愛しく想ったのだろうが、今は狼狽ろうばいするばかりで、鬼を思いやる気持ちすら湧いて来ない。自分のそばにいられるようにしてと鬼に叫びはしたが、果たしてそれでよかったのかと疑っている。

 空を埋め尽くそうとするかのごとく、大きな雲の塊が次々に流れて来て月を隠した。辺りは闇に包み込まれたが、その闇は千鶴に地獄を思い出させた。地獄にいたあの鬼は、千鶴を助けるためなら相手を殺すことをいとわない。だけど、それは恐ろしいことだ。
 ――がんご所詮しょせん、鬼ぞな。
 進之丞の言葉がよみがえる。そう。鬼は所詮、鬼なのである。どんなに優しくても鬼は鬼だ。恐ろしい化け物であり、今見たすべてが鬼の本性なのだ。
 これから自分はどうなるのかという不安が、千鶴の胸の中に持ち上がってきた。
 いずれ男たちの死骸がどこかで発見される。そうなると最後に男たちと一緒にいた自分たちが、警察から詰問きつもんを受けることになる。その時になんと言い訳をすればいいのか。もし、父やスタニスラフが鬼の話をしたらどうなるのだろう。
 みんなに指差され、鬼だの鬼娘がんごめだのと恐れられののしられる自分の姿が頭に浮かぶ。化け物を捕まえて殺せと、街の人々が警察と一緒になって捕まえに来るのだ。
 千鶴はしゃがんで頭を抱えた。鬼を責めるわけにはいかない。鬼は特高とっこう警察から護ってくれただけだ。けれども、自分を待ち受けているのは絶望だけだ。

 一番町いちばんちょうの方から来た電車が、お堀に沿って南へ曲がって行った。
 電車の音と明かりが、少し前まで千鶴がいた世界をかい見せてくれている。その世界はすぐそこにあるのに、もう手が届かない。
 こんな時、いつも力になってくれたのは進之丞だ。なのに、その進之丞は花江に心を奪われてしまい、千鶴は独りぼっちだ。
しんさん、おらのこと、あがぁに想てくんさったのに、なして……なして心変わりしてしもたん? おら、そがぁに嫌なおなになってしもたんかな……? おら、もう、どがぁしたらええんかわからん……。お願いぞな。進さん、どうか、おらんとこんて来てつかぁさい……。二度と進さん傷つけたりせんけん。お願いやけん、んて来て……」
 千鶴がすすり泣いていると、辺りがぼんやり明るくなった。薄い雲から月明かりが届いたようだ。千鶴が顔を上げると、ぼろ切れみたいな物が見えた。さっき兵士が見つけた物だ。しゃたちが落としたにしては大き過ぎる。
 みんな、ぼろ切れでも大切にして何かに使うものだ。こんな所にこんなに大きなぼろ切れが落ちているのは、なんだか違和感がある。それにぼろ切れというより、破れた着物のようにも見える。そうであるならなおのことおかしい。
 ふわんという音が聞こえ、南堀の方から一番町へ向かう電車が来た。電車の明かりに照らされたぼろ切れには、模様らしき物があった。
 明かりとはいっても、それほど明るいものではないので色まではわからない。千鶴はぼんやりとその模様を眺めていたが、え?――と思った。
 動きだした電車が一番町の方へ曲がり始めると、千鶴はぼろ切れのそばへ行って拾い上げた。それはやはり破れた着物でだったがその破れ方はじんじょうではなく、背の部分が真っ二つに裂けた上に、両方のそでが肩から袖口にかけて引き裂かれていた。
 また着物にはたくさんの継ぎ当てがされていたが、ここまで幾度も継ぎ布を当てた着物は、どこにでもあるものではない。その継ぎはぎ模様に千鶴は見覚えがあった。
 何故ここにこんな物が落ちているのか、千鶴は理解ができなかった。
 辺りを見ると、千切ちぎれた着物の帯と一緒に、ひもが切れたふんどしも落ちていた。この着物を着ていた者が、ここで着物と一緒に脱ぎ捨てたのか。けれど、帯も褌の紐も千切れている。脱いだとは思えない。
 これらの物がここにある理由がわからないまま、千鶴はこのままではまずいと思った。急いで全部を拾い集めると、着物に帯に褌がどうすればこうなるのかと考えた。
 そもそもこの着物はここにあるはずがない物だ。誰かが盗んで引き裂いて、ここへ捨てたというのも妙である。
 仮に誰かが捨てたのであれば、自分たちがこの道へ連れ込まれる前だ。であれば、この着物や褌は何度も人力車や車夫たちに踏まれている。だけど、どこにもそんな汚れはついていない。
 着物や褌にはわずかながらぬくもりが残っている。ついさっきまで、これを誰かが着ていたのだ。ならば、その人物はどこへ行ったのか。
 もしやと思って、千鶴は着物の匂いをいだ。そこには覚えのある匂いがあったが、血の匂いはしない。着物を着ていた人物を、鬼が襲ったのではなさそうだ。それに鬼と想いが通じている者を、鬼が襲うわけがない。
 ほっとはしたものの、着物のぬしがいないことを千鶴は心配した。尋常ではない着物の破れ方を見れば、着物の主が無事だったとは思えない。いったい何があったのか。
 改めて着物を眺めたが、背の部分はともかく、両方のそでの破れ方があまりにも不自然だ。誰かの着物を引き裂くにしても、こんな風にはしない。
 帯や褌の紐だって、そう簡単に千切れたりはしないはずだ。それが千切れたのだから、ほどの強い力が加えられたのだ。やはり鬼のわざかと思ったが、鬼がこんなことをする理由がわからない。
 よく見ると、継ぎ当ては両腕や背中に集中していた。着物の裂け目はその継ぎ当てを避けるように走っているが、この着物はこれまでにも何度か同じように破れたようだ。

 ――あん時、おら、ほとんど素っ裸やったんよ。
 ふと思い出した言葉に、千鶴ははっとなった。確かに、この着物はひどく破られたことがあった。その時には村の者とけんをして破かれたと聞かされていたが、実際はそうではなかった。着物の主は、村の者ではなく鬼と一緒にいたのだ。そして本当の理由はわからないが、その時に着物は破れたのである。
 鬼が千鶴を救う状況で着物が破れたのは、イノシシの時と同じだ。違うのは、ここには着物の主がいないことだ。いたのは鬼だけであり、着物の主を知らない者がこの状況を見たなら、鬼が着物を着ていたと勘違いをするだろう。そうであるなら袖の破れ具合や、帯や褌の紐が千切れたことにもてんがいく。
 そこまで考えて、千鶴はまさかと思った。確かにそう考えれば全部が説明できる。だが、それは有り得ないことだし馬鹿げている。それでも一度浮かんだ考えは消えてくれない。それどころか、ますます大きく膨らんでくる。
「そげなことあるはずない。絶対違うけん。ほんなんあるわけないやんか」
 愚かな考えを切り捨てながらも、着物を持つ手が震えている。千鶴は祈る気持ちで辺りを見まわしたが、どこにも着物の主はいない。隠れる所などないし隠れる必要もない。わざわざ着物を破いて脱ぎ捨てる理由もないのだ。
 着物は真実を知っているだろうに、何も語ってくれない。あるじのために懸命にとぼけてしらを切っている。けれど、この着物がここにあること自体が真実を告げている。
 千鶴は必死になって辺りに着物の主を探した。そんなのはあるはずがないし、あってほしくない。絶対にあるわけがないし、あってはならないのだ。
 しかし、いくら探しても自分たち以外には誰もいない。それに、どんなに否定をしても、不自然に裂かれた着物がここに落ちている事情が思い当たらない。
 哀しげな鬼の目を思い出した千鶴はあらがえなくなった。あの目は、悲しみをたたえたあの目は……。千鶴はあの哀しげな目に覚えがあった。
 鬼は千鶴たちには傷一つつけなかった。千鶴の言うことも聞いてくれた。千鶴を護ろうとした母にはおくれしたみたいに見えた。それに、月明かりで色まではわからなかったが、背を向けた鬼の右の腰には大きな黒いあざのようなものがあった。
 頭の中で、愛しい人が話しかける。
 ――あしはな、がんごの心がわかるんよ。
 千鶴は耳をふさいだ。そんな言葉なんか聞きたくない。だけど愛しい声は続いた。
 ――がんごは千鶴さんの幸せねごとるぎりぞな。
 やめてやめてと千鶴は叫んだが、声はなおも喋った。
 ――おまいが幸せなんがわかったら、がんごはおらんなるんよ。
 着物を見つめる千鶴の目から涙があふれた。信じたくないが、きっとそれが真実なのだ。地獄の鬼にかれたのも、今なら理解ができる。
 千鶴に触れたくて触れられなかった鬼の姿が、悲しく思い起こされる。あの時の鬼はどんな気持ちだったのか。
 鬼は己の醜い姿を千鶴には見られたくなかったに違いない。己の恐ろしい本性を、千鶴にだけは知られたくなかったはずだ。
 けれども鬼は現れた。千鶴を護るために。鬼は他のことなど考えず、ただ千鶴のことだけを考えていたのだ。本当であれば千鶴の幸せを見定めたあと、姿を見せずにそっといなくなるつもりだったのだろう。それが鬼に定められたことなのだ。
「やけん? やけん、おらから離れよとしんさったん?」
 哀しげな目が黙ったまま千鶴を見つめている。千鶴は着物を抱きしめながら泣いた。
うそや、嘘や! ほんなん嘘や! おら、そげなこと信じんけん。絶対信じんけんね。なしてがんごなんよ。なして鬼なん? なぁ、なしてなん? お願いやけん、嘘やて言うてや。お願いやけん……」

「どがぁしたんや? そこで何をしとるん?」
 ミハイルたちとしゃべっていた幸子が、千鶴のそばへ近づいて来た。
 千鶴は母に背を向けたが、着物を抱いているのはすぐに見つかってしまった。
なんなん、ほれは? 泣きながら何をしよん?」
 千鶴は言い訳に、落ちていたぼろ布があとで何かに使えそうだからと説明した。
 母の顔は見えないが、困惑にゆがんでいるのが雰囲気でわかる。娘の頭がおかしくなったのではないかと、不安になっているのだ。
 幸子は無理に着物を取り上げたりせず、千鶴に優しい声で話しかけた。
「とにかく家に戻ろ。おじいちゃんらが心配しよるけんな」
 ミハイルが千鶴を慰めに来た。スタニスラフは離れた所から千鶴を見ている。千鶴が抱えている物を見たミハイルは、それは何かと訊ねた。千鶴が返事をしないでいると、今はなんかんでと、幸子はミハイルに言った。
 父にも頭がおかしくなったと思われたかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。きっと自分のことばかり考えていたので、ばちが当たったのだと千鶴は自分を責めた。
 お堀の東門のすぐ向こうには電車の停車場がある。幸子はミハイルたちに、そこから電車に乗ればどうへ行けると教えた。しかし、二人とも一緒に紙屋町かみやちょうへ行くと言った。
 四人が電車の道に出る所を誰かに見られては、あとで困ったことになる。お堀の東門には兵士がいるし、表の通りを誰かが歩いているかもしれなかった。
 その時、また月が分厚い雲に隠れて辺りは闇に包まれた。千鶴たちは互いの体に触れて確かめ合いながら、音を立てずに闇の中を急いで移動した。といっても、すぐ先にある電車の停車場には街灯がある。表に出ると明かりに照らされるので注意が必要だった。
 幸い誰にも出くわさずに、千鶴たちは東門の前を通り抜けることができた。月が狭い雲の隙間からちらりと顔を出した時には八股やつまたえのきそばまで来ていた。
 途中、千鶴は何度も後ろを振り返った。その、城山で大きな影が動いていないか目を凝らして確かめたが、どこにもそれらしきものは見えなかった。
 ――あしはな、もう、昔のあしやないんよ。
 耳の中で愛しい声が哀しく響く。千鶴はこらえきれずに泣きだした。
 スタニスラフは迷いながらも見かねたのだろう。恐る恐る千鶴の肩を抱くと、ボクゥガイルゥと慰めた。自分は千鶴を見捨てないと言いたいらしいが、少しも言葉に気持ちがもっていない。それに、鬼の前でさらした醜態のことも忘れているようだ。
 仮にスタニスラフが勇敢だったとしても、今の千鶴の心にはスタニスラフの言葉は響かない。誰がどんなに慰めても、千鶴の涙を止めることはできなかった。

     五

 家に戻ると、甚右衛門とトミが寝ずに待っていた。
「ずいぶん遅い戻りじゃの。こげな時分まで宴会しよったんか?」
 煙管きせるを吹かしていた甚右衛門は、千鶴と幸子を見るなり文句を言った。だが、あとに続くミハイルたちの姿を認めると、何かがあったと悟ったようだ。急いで煙管の火を消し、みんなを部屋へ迎え入れた。
 外は雨が降りだしていて、千鶴たちも少しれた。それに気づいた甚右衛門とトミはすぐに手拭いを用意したが、その隙に千鶴は離れの部屋へ行った。
 真っ暗な離れに入ると、千鶴は抱えていた物を手探りで風呂敷に包んだ。それを布団の陰に隠して茶の間へ戻ると、部屋にはミハイルとスタニスラフが腰を下ろしていた。幸子は土間でトミに手拭いで体を拭いてもらっている。
「何をしよったんぞ? よ体を拭かんかな」
 甚右衛門は千鶴をしかると、千鶴の頭や肩を手拭いで拭いた。すんませんと頭を下げた千鶴は、たださんは?――と小さな声で甚右衛門にたずねた。
うに寝とらい。おまいらがんて来るんがもうちぃと遅かったら、忠七ただしち弥七やしちを起こして迎えに行かせるとこやったが」
 不安が隠れた険しい顔で甚右衛門は言った。だけど、そんなはずはない。二階へ上がっても、そこに進之丞の姿はないだろう。ただ、それを確かめるのは怖かった。また、いずれは戻って来るであろう進之丞を見つけるのも、怖くて悲しいことだった。

 千鶴が座るのを待ち、甚右衛門は何があったのか説明を求めた。千鶴が何も言えずに黙っていると、幸子が口を開いた。
「実はな、萬翠荘ばんすいそうを出たあと、県庁の前辺りで特高とっこうつらまったんよ」
なんやと? 特高につらまった?」
 甚右衛門が大きな声を出した。
 一度捕まったら拷問にかけられ、白でも黒にしてしまう。そんな特高のうわさを耳にすることがあっても、まさか千鶴たちが特高に捕まるとは思いもしなかったのだろう。
「とっこうて、特高警察のことか?」
 トミが顔をこわらせて訊ねると、幸子はうなずいた。
 下を向いたままの千鶴を見た甚右衛門たちは、千鶴もひどい目にわされたとみたようだ。動揺しながらも二人は大いにいきどおり、特高警察に悪態をついた。 
「ほれにしても、なして特高があんたらをつらまえるんや?」
 トミが興奮しながら訊ねると、ソ連のスパイと疑われたと幸子は話した。
「ミハイルらはソ連から逃げておいでたのに、こっちの話は全然聞いてくれんで、いきなし逮捕する言われたんよ」
 幸子は人力車で戻る途中で、待ち伏せしていた特高警察に県庁裏の登城道とじょうどうの近くへ連れ込まれた話をした。そこで特高警察の男たちが、幸子たちを無理やり逮捕しようとして暴力を振るったと聞くと、甚右衛門は怒り狂った。
 トミは急いで千鶴たちの傷を確かめ、軽傷であることにあんした。甚右衛門が膏薬こうやくを出して来ると、トミは傷にその膏薬を塗りながら言った。
「ほんでも、こがぁしてんて来られたいうことは、結局はスパイやないてわかってもらえたんじゃろ?」
「あの人らがわかってくれたりするかいな」
 幸子が腹立たしげ否定すると、甚右衛門は眉をひそめた。
「ほれは、どがぁなことぞ? わかってもらえんのに、なして逃げて来られたんぞ?」
 再び恐怖が込み上げたのか、幸子はいったん口もってからぽつりと言った。
「出たんよ。がんごが」

 がんごじゃと?――と甚右衛門はさっきよりも大きな声を出した。トミは叫ばなかったが、目を大きく見開いた顔が固まっている。
がんごがな、その人らをつらまえてお城山へ消えたんよ」
 幸子の顔は強張り声は震えていた。甚右衛門とトミはきょうがくしたまま、本当に鬼が出たのかと、千鶴たちを見まわした。
 千鶴は黙っていたが、ミハイルとスタニスラフは大きな悪魔を目撃したと証言した。ミハイルは両手を使って鬼の大きさや、鬼の角を説明した。スタニスラフは鬼が特高の男たちを襲った時の様子を語った。
 二人が鬼のすさまじい咆哮ほうこうの話をすると、甚右衛門は腰が抜けたようにうろたえた。トミは甚右衛門にしがみつきながら、それはここにも聞こえたと言った。実はそれもあって、甚右衛門たちは戻りが遅い千鶴たちのことを心配していたようだ。
「あんましおとろしい声やったけん、ただ事やないとは思たけんど、あれががんごやったんか」
 トミが震えながら言った。甚右衛門も動揺を隠せないまま幸子に訊ねた。
「ほ、ほれで、がんごはおまいらにはぇ出さなんだんか?」
 幸子がうなずくと、トミはおびえながらも意外そうに言った。
ぇ出さんかったけん、こがぁして無事にんて来れたんじゃろが……、なんか今の話聞きよったら、がんごがあんたらを特高から助けてくれたみたいやな」
 幸子はトミの言葉を打ち消すように、千鶴に言ったことを主張した。トミは黙って聞いているだけだったが、甚右衛門はうなずいた。
「確かに幸子の言うとおり、安易にがんごを信用せん方がええ。所詮しょせん、鬼は鬼やけんな」
 祖父の言葉は千鶴を悲しくさせた。結局、これが普通の考え方であり、自分だって鬼を同じように見ていたのだ。

 スタニスラフは千鶴をちらりと見たあと、鬼が千鶴の言うとおりになったと話した。ミハイルがスタニスラフを注意したが、スタニスラフはやめなかった。千鶴が危険な状態にあると伝えたいのだろうが、千鶴にすれば余計なお世話だった。
 驚いた甚右衛門は、そうなのかと幸子に確かめた。幸子は返事にちゅうちょしたが、結局はうなずいた。次に目を向けられたのは千鶴である。祖父母だけでなく、他の者たちの視線も千鶴に集まっている。
 甚右衛門は静かに千鶴に訊ねた。
「千鶴、おまいがんごなんぞ言うたんか?」
「……人をあやめたらいけんて言いました」
 千鶴は目を伏せながら答えた。
「おまいがそがぁ言うたら、がんごは言うこと聞いたんか?」
 千鶴は小さくうなずいた。
 甚右衛門が当惑すると、今度はトミが訊ねた。
がんごは、なしてあんたの言うことを聞いたんね?」
 千鶴は答えられなかった。千鶴が黙っていると、トミは別の質問をした。
「あんた、がんごおとろしなかったんか?」
 千鶴は何も言わずに、また小さくうなずいた。
「なして怖ないんね? 相手はがんごやで?」
「前は言わなんだけんど、うちは風寄かぜよせであのイノシシに襲われました。ほん時に、うちを護ってくれたんが、あのがんごぞなもし。ほのあと鬼はうちを法生寺ほうしょうじへ運んでくれました」
 見たわけではない。だが、事実だ。あの時、死を覚悟した自分は何故か安らぎの中にいた。あれは鬼が抱いてくれていたのだろう。あの安らぎは……そう、思い出した。あの安らぎは、いつも自分のそばにあったあの温もりだった。
 千鶴の目から涙がぽろぽろこぼれ落ちた。一方、甚右衛門たちは口を開けたまま言葉が出ない。
「あんた、ほん時はうしのうてなんも覚えとらんかったんやないんか?」
 母に問われると千鶴は涙を拭いて、思い出したんよとつぶやく声で言った。
「イノシシに襲われてぃ失うぎわに、うちはがんごの手に抱かれよったんよ。ほじゃけん、ほのあとのことはわからんけんど、確かに鬼はうちを助けてくれたんよ」
 幸子は驚いた顔で甚右衛門たちを見た。甚右衛門もトミも当惑している。千鶴と鬼の関係を測りかねているようだ。

 事情を知らないミハイルたちは、なんの話かと幸子に訊ねた。
 幸子が困惑気味に今の話を説明すると、二人は驚いた顔を千鶴に向けた。何も話したくない千鶴は、ずっと下を向いていた。
 ミハイルは幸子に、何故鬼が千鶴を助けたのかと訊ねた。幸子は答えられなかった。
 甚右衛門は前世で鬼が千鶴を狙っていたと話したが、ミハイルたちには前世が理解できない。その話は二人にはわからないと幸子に言われた甚右衛門は、鬼よけのほこらが台風で壊れたので鬼が現れたと言った。しかし、これもミハイルたちにはわからないし、鬼が千鶴を助けた説明になっていない。
 幸子は甚右衛門に代わり、ずっと昔の風寄に千鶴によく似た娘が暮らしていたが、その娘は鬼に狙われていたと話した。それから、村の人たちが鬼よけの祠を作って鬼の力を奪ったけれど、その祠が台風で壊れてしまったと言った。
 ミハイルは何が起こっているのかは理解できたようだが、鬼が千鶴を助けた理由はわからない。でも甚右衛門たちにもわからないので、誰も説明ができなかった。
 一方、スタニスラフはその祠はどうなったのかと訊ね、壊れたままだと甚右衛門が答えると、どうして新しい物を造らないのかと怒りを見せた。
 それは風寄の村の人たちがすることだから、自分たちにはどうにもできないと幸子が話すと、ではどうするのかとスタニスラフは興奮気味に喋った。
「アレェヴァ、悪魔アクゥマデズゥ。ヅゥヴァ、悪魔、心、奪ヴァレェマシタ。悪魔、千鶴、ジヨニシマズゥ」
「まじよ? まじよてなんぞな?」
 幸子が訊ねると、魔女は悪魔のしもべであり、悪魔を慕う女だとスタニスラフは言った。
 魔女は悪魔の指示に従って、人間に不幸や災いをもたらすというのだが、ヨネが考えていた鬼娘がんごめに似ている。結局ヨネは真実を知らぬまま、千鶴を鬼娘だと思い込んでいた。千鶴が魔女になるというスタニスラフはヨネにそっくりだ。
 鬼を従えた千鶴を見た時、スタニスラフは千鶴を魔女だと思ったに違いない。だから千鶴を恐れて近づこうとしなかったのだ。しかし泣きじゃくる千鶴を見て、まだ魔女にはなりきっていないと判断し、自分は頼れる男だと示すことにしたのだろう。

 とっなことを言うスタニスラフに甚右衛門もトミも黙っていたが、面白くないのは顔に出ている。鬼は恐ろしい化け物でも、千鶴は二人には可愛い孫娘だ。本人が鬼に助けてもらったと話しているのに、それを無視するスタニスラフに不快を隠せないようだ。
 幸子も千鶴の話を聞いて、千鶴が鬼を恐れなかったことには納得したらしく、スタニスラフの考えには同意しなかった。だがスタニスラフは譲らず、千鶴を教会へ連れて行くべきだと主張した。
ヅゥキヨカイデ、センレェイ、受ケルゥ。ソシタラァ、悪魔アクゥマ、千鶴カラァ、離レェマズゥ」
「教会でせんれい? なんぞ、ほれは?」
 甚右衛門が不審げに言うと、スタニスラフは神の話をし、洗礼を受ければ神に護られるので、悪魔は千鶴から離れると説明した。
 甚右衛門は鼻から大きく息を吐き、そんな必要はないと言った。
「日本には日本の神仏があらい。そがぁな西洋の神なんぞ、わしらにはいらん」
 幸子も、千鶴は魔女じゃないから教会はいらないと言ったが、スタニスラフは食い下がった。ミハイルに止められても訴えをやめなかった。
 ずっと目を伏せている千鶴を見て、幸子はスタニスラフにきっぱりと言った。
「千鶴のことは、うちらで考えるけん。あんたは黙っとりんさい。これはうちらの問題やけんね」
「デモ、僕ト ボクゥ ヅゥヴァ――」
 反論しようとしたスタニスラフを、幸子は手を上げて黙らせた。
「あなたには言うとかんといけんことがあるんよ。あのな、千鶴にはいた人がおるんよ。でも、ほれはあなたやないの」
 スタニスラフは驚いた顔で千鶴を見たが、千鶴は黙っていた。何も言いたくなかった。
 代わりに幸子が、萬翠荘では千鶴は酔っ払っていたから、スタニスラフに誤解をさせてしまったと、おびを兼ねて釈明した。
 甚右衛門とトミはスタニスラフと千鶴の間に何があったのかを理解したようで、千鶴には決まった相手がいると口々に言った。たつぞうのことだと千鶴は受け止めたが、もはや辰蔵を拒める状況ではなくうなれるしかない。
 うろたえたスタニスラフは、そうなのかと千鶴をただした。千鶴は下を向いたまま小声で、ごめんなさいと言った。
 納得できないスタニスラフは、そのひとは悪魔のことを知っているのかと訊ねた。千鶴が答えないでいると、知ラァナイデズゥネと少しって言った。
「サノォヒタヅゥ、護リィマズゥカ? ボクゥヴァ、護リィマズゥ」
 スタニスラフは興奮して喋ったが、鬼の前でスタニスラフがどうしていたかを知っている幸子は、白けた顔で聞いている。
 ミハイルがスタニスラフの肩を押さえ、もうやめろ、みたいなことをロシア語で言った。だが、スタニスラフは聞かなかった。
ボクゥヴァ、ヅゥ、護リィタイ! 僕ヴァ、千鶴、タズゥケタイ!」
 千鶴は顔を上げると、スタニスラフに微笑んで言った。
「スタニスラフさんは、まことええお人じゃね。うち、絶対嫌われるて思いよった。ほれやのにそがぁに言うてもらえるやなんて、ほんまに有り難いことやと思とります。ほんでも、うちはあなたと一緒に行くことはでけんのよ。あなたじゃったら、うちやのうても、なんぼでもええひとが見つかるけん、もう、うちのことは忘れておくんなもし」
 幸子は千鶴の言葉をわかりやすくスタニスラフに説明してやった。しかし、スタニスラフは千鶴が本当に想っているのは自分だと信じており、がんとして承服しなかった。

 ミハイルはまだ喋ろうとするスタニスラフを黙らせると、みんなを見ながら心配そうに言った。
「アノ、アクゥマ、チヅゥ、ドゥシマズゥカ? チヅゥ、ダイジヨブデズゥカ?」
 ミハイルは自分たちがいなくなったあと、あの鬼が千鶴に何もしないのかときたいようだ。親として当たり前の心配である。
 トミは、これまで鬼が千鶴を襲ったことはないと話した。甚右衛門は、鬼は信用できないと言った。たとえ千鶴を助けてくれたとしても、鬼は鬼だというわけだ。幸子は迷いながらも、やっぱり鬼だから心配はしていると言った。そこへスタニスラフが割り込んで、千鶴はきっと魔女にされると声を上げた。
 ミハイルはスタニスラフをにらむと、千鶴に顔を向けた。千鶴の答えを聞きたいのだ。
 千鶴はゆがんでしまいそうな顔を明るく繕って言った。
「みんな誤解しよらい。がんごはな、絶対にうちや家族にぇ出したりせんけん。さっきかてほうやったじゃろ?」
 千鶴は父と母を見た。二人とも千鶴の言葉を否定せず、黙って千鶴の話を聞いている。
 千鶴は祖父たちの方も見ながら話を続けた。
「あのがんごは普段は姿隠しとるけんど、うちらを見守ってくれとるぎりでな、なんちゃ悪いことは考えよらん。鬼が考えよるんは、うちの幸せぎりなんよ。ほんまぞな。うそやないんよ。他にはなぁんも望んどらんのじゃけん。自分がどんだけつろうてもな、いっつもかっつも、うちのことぎり考えてくれよるんよ。うちがひどいこと言うても、うちがうたごうたりしても、いっつもかっつも、うちのことぎり……」
 喋りながら千鶴は涙をこぼした。だが、その涙の意味を知る者は一人もいなかった。
 千鶴は立ち上がると、離れへ走った。

     六

 暗闇の中に座った千鶴は、拾った着物を包んだ風呂敷を抱きながら泣いていた。泣きながら、ぼんやりと前世での進之丞との別れを思い出していた。
 これまではっきり思い出せていなかったことが、何も考えずにぼーっとしていると、活動写真のように動きだす。
 目に浮かぶのは、進之丞と二人で風寄かぜよせの浜辺を歩いた時のことだ。きれいなあかねいろの夕焼けを背景に、鹿しまの陰から見たこともない黒く大きな船が突然現れた。
しんさん、あの船! おら、あげなおおけな船、見たことない」
 初めて見る巨船に千鶴ははしゃいだが、進之丞は哀しげだった。
 見ていると黒い船は動きを止め、男二人を乗せた小舟が降ろされた。
 千鶴、お別れぞな――近づいて来る小舟を見ながら、進之丞は言った。
「あれはおまいを迎えに来た船ぞな。あの船にはお前が会いたがっとった、お前の父が乗っておいでる」
「進さん、何言いよん? おら、どこにも行かんよ」
 うろたえた千鶴は、右腕を進之丞の腰へ回して体を寄せた。すると、右手に何かべっとりした物がついた。
 驚いて手を見ると、真っ赤な血がついている。慌てて進之丞の腰を見ると、進之丞の着物は右の腰から足下まで、血で真っ赤に染まっていた。
「何これ? 進さん、これ、どがぁしたん? なして、こがぁなしよるん?」
頼者らいもんと斬りうたんよ。勝ちはしたが、不覚を取ってしもた」
 進之丞の顔の半分は、夕日が当たって赤く見える。けれど、反対側は血の気がないみたいだ。進之丞は立っているのもつらそうだった。
 よろめく進之丞を千鶴が抱き支えると、進之丞は改めて、迎えに来た父親と一緒に生きてほしいと言った。
「あしはもう生きられん。ほじゃけん、頼む」
「嫌じゃ! 嫌じゃ嫌じゃ! おら、絶対行かんけんね!」
「そげなことを申さんでくれ。おまい一人残して死ぬるわけにはいかんけん」
「じゃったら、おらも死ぬるけん。進さんと一緒に死ぬるけん!」
 千鶴は進之丞に抱きついて泣いた。進之丞も千鶴を抱き返しながらすすり泣き、すまぬと言った。
 やがて進之丞が千鶴を体から離すと、誰かが後ろから千鶴の肩に手を乗せた。驚いて振り向くと、そこには千鶴と顔つきが似ている男が立っていた。
 男は感激した様子で千鶴を抱きしめた。千鶴は藻掻もがいて男をたたいた。

 その時、松原の中から何人もの侍が刀を抜いて走って来た。
「異人を逃がすな! 殺せ!」
 侍たちの狙いは、千鶴や船の男たちだ。
 進之丞は千鶴を抱いた男に、手振りで千鶴を連れて行くように伝えた。事情を察した男は暴れる千鶴を抱きかかえ、もう一人の男が待つ小舟に乗せた。
 小舟が動きだすと、進之丞は刀を抜いて侍たちの前に仁王立ちになった。その腰から下は真っ赤な血に染まっている。
 千鶴は自分を抱きかかえる男から逃れようと暴れた。小舟が揺れて男の手が離れると、千鶴は海へ飛び込もうとした。進之丞のそばにいたかった。けれど千鶴は再び押さえられ、浜辺の戦いが始まった。
 侍たちは次々に進之丞に斬りかかった。進之丞はわずかな動きで相手のやいばをかいくぐり、すれ違いざまに斬り伏せた。それでも四、五人を斬ったあと、進之丞はそのまま倒れて動かなくなった。
「進さん!」
 千鶴が暴れるので小舟は揺れ動き、ぎ手の男は小舟をうまく進められない。そこへ残った侍たちが海へ入って来た。水が深くなると、侍たちは刀を口にくわえて泳いだ。
 千鶴を抱いた男が何かを叫び、漕ぎ手は必死に小舟を漕いだ。しかし侍たちは泳ぎが達者で、次第に距離が縮まって来る。
 後ろの船では甲板に並んだ異国人たちが、口々に何かを叫んでいる。誰かが銃を構えたが、別の者に止められた。千鶴たちに弾が当たることを恐れたようだ。侍たちはすぐそこまで迫っている。

 それまで耳にしたことがない恐ろしげな咆哮ほうこうが聞こえ、突如とつじょ、浜辺に巨大な鬼が現れた。鬼は傷を負っているのか、よろけながら海に入って来た。千鶴を乗せた小舟の男たちも、後ろの船の者たちもみんな驚き叫んでいる。
 鬼は次々に侍たちを捕まえては引き裂き、ある者は握り潰した。小舟のすぐ近くまで来ていた侍も、千鶴たちの目の前で鬼に捕まり、あっという間に肉塊にされた。
 小舟の男たちは恐怖に固まっていたが、鬼は千鶴たちを襲おうとはしなかった。
 胸から上だけ水面に出した鬼は、その場にとどまったまま哀しげに千鶴を見つめている。千鶴は直感で、この鬼は進之丞だと悟った。
 これまで進之丞が鬼であった事実はない。進之丞が鬼になる理由もなければ、どうして鬼になるのかもわからない。進之丞がこんな恐ろしい姿になるわけがないのだ。
 だけど、千鶴は目の前にいる鬼が進之丞だと思った。心と体のすべてで、そう感じていた。どうしてと考える余裕などない。どんな姿をしていても、進之丞は進之丞なのだ。
 我に返った漕ぎ手が我に返って必死に漕ぎ始めた。千鶴を見つめる鬼がどんどん離れて行く。
 千鶴は鬼の所へ行こうとしたが、後ろから押さえられているので動けない。
 進さん!――次第に小さくなって行く鬼に千鶴は叫んだ。それに応えて鬼は哀しげに吠えた。鬼は間違いなく進之丞だった。
 やがて鬼は倒れるように海に沈んだ。千鶴は必死に進之丞の名を叫び続けたが、鬼は二度と姿を見せなかった。
 小舟が待機していた船に着くと、異国人たちが乗船に気を取られている隙に、千鶴は海へ飛び込んだ。沈んだ鬼を探そうと、千鶴は深く潜って行った。息が苦しくなるのも構わず、どんどん潜って行くと、やがて目の前は真っ暗になった。気がつけば、千鶴は地獄に立っていた。

 鬼娘がんごめを殺せと叫ぶ亡者たちが、千鶴に襲いかかって来た。だが、鬼が現れて千鶴を助けてくれた。鬼の足にしがみついて泣く千鶴を、鬼はそっと抱き上げた。あの優しいぬくもりが千鶴を包み込む。
 千鶴に顔を近づけた鬼は、甘いうなり声を出した。鬼は言葉は話さないが、何が言いたいのかは心に伝わって来る。
 鬼は千鶴を見ながらぼろぼろ涙をこぼした。何故ここまで追いかけて来たのかと泣いていた。千鶴は鬼の指を抱いて言った。
「おら、進さんと一緒におりたいんよ。ほじゃけん、おら、これからずっとここで暮らすけんね」
 鬼は唸った。だめだと言っているらしかった。千鶴はどうやったらここを出られるか知らないからと、相手にしなかった。
 すると鬼は千鶴を指差し、次に真っ暗な天を、そして最後に自分の胸を指差した。鬼は千鶴を地獄の外へ出すつもりのようだ。
 鬼は左手で千鶴を抱くと、いきなり右手の爪を己の胸に突き立てた。驚く千鶴に構わず、鬼は右手を胸の奥深くへと突っ込んだ。
 鬼は己の胸にある千鶴への想いが、千鶴を地獄へ引き寄せたと思ったのだろう。千鶴を地獄の外へ戻すため、その想いを断ち切ろうとしていた。
 苦痛に顔をゆがめた鬼に、やめて!――と千鶴は必死に叫んだ。
 鬼は千鶴を見て微笑むと、咆哮と共に胸から右手を引き抜いた。血しぶきと共に現れたのは、右手につかまれたうごめく心臓だった。
 せつ、千鶴は目もくらむような光に包まれた。
 渦巻く光はまるで暴風のようで、千鶴をどこかへ連れ去ろうとしていた。千鶴は必死に鬼の手にしがみつき、何があっても離すまいと思った。目を閉じた千鶴の耳には、鬼の叫びが余韻となって残っている。
 やがて光の嵐が静まった時、鬼の声は聞こえなくなっていた。
 光はばゆさを失い、千鶴は目を開けた。
 いつの間にか部屋に戻っていた母が、行灯あんどんに火を入れていた。その薄明るさの中で、千鶴は急いで自分の手を見た。
 鬼の手にしがみついていたはずだった。その両手は痛くなるほど胸の風呂敷包みをつかんでいた。千鶴は風呂敷を胸に抱きしめたまま静かに泣いた。