落ちていた着物
一
千鶴たちの人力車は県庁の前で引き止められた。周囲には男たちの他に人影はない。
男たちは車夫たちにこのまま真っ直ぐ進み、お堀に突き当たった所を右に入れと指示を出した。そこは昨日千鶴たちが城山へ登ろうとして入った道だ。
南から東堀端を進んで来た電車が、千鶴たちの正面でこちらへ向きを変えた。照明が辺りを照らし、ミハイルと幸子が乗った人力車も、別の男二人に止められているのが見えた。
千鶴は助けを求める気持ちで電車を見た。しかし乗客のいない電車は、無情にも千鶴たちの右脇を通り過ぎて行った。
電車が去って辺りが再び闇に包まれると、父と母を乗せた人力車が再び動き始めた。
男たちが前に続けと言うと、千鶴たちの人力車も動き出した。車夫たちは怯えきっているようで、千鶴たちを気遣うことも忘れて、黙って男たちに従うばかりだ。
道がお堀に突き当たった所には、お堀を渡る橋がある。橋の向こうは松山歩兵第二十二連隊駐屯地の東門だ。門の向こうには夜勤の衛兵がいると思われるが、誰かが門の所まで来ない限り、衛兵も薄暗い堀の外のことなど気にしていないだろう。
千鶴たちを乗せた人力車は、助けを求めることもできないまま、前の人力車に続いて橋の手前を右に曲がった。
この道に街灯はなく、昼間は明るかったが今はほとんど闇だ。月明かりで辛うじて辺りの様子がわかるが、月がなければ真っ暗闇に違いない。
右手に日本赤十字社の建物があるが、明かりは見えないし、ひっそりしていて人の気配もない。
左手にあるお堀の向こうは、土塁が築かれていて中の様子はわからない。逆に言えば、向こうからも千鶴たちのことはわからないということだ。
お堀の突き当たりにある衛戌病院も、消灯時間を過ぎたようで建物はほとんど真っ暗だ。それに直接行き来できる道もないから、そこへ逃げることもできない。
登城道へ向かうためだけのこの道を、こんな夜分に訪れる者はなく、声を出したところで誰にも聞こえないだろう。いわば、千鶴たちは密室へ連れ込まれたのと同じ状況にあった。
道の奥の黒々とした城山が迫った所で、千鶴たちは人力車を降りるように言われた。表の通りを誰かが通っても、恐らく千鶴たちには気がつかないだろう。お堀の横を電車が来ても、電車の光はここまでは届かない。
少し先で母たちを乗せた人力車も止まり、やはりそちらの男たちが怒鳴っている。
だが、こんな所で降りれば何をされるかわからない。スタニスラフは千鶴を抱きしめながら降りようとしなかった。
すると男の一人が声を荒らげ、早よせぇと怒鳴った。
仕方なくスタニスラフは降りようとしたが、足が地面に着く前に男に引っ張られ、落ちるように地面に倒れた。
「スタニスラフ!」
千鶴が叫ぶと、男は千鶴も無理やり引きずり降ろそうとした。スタニスラフがそれをやめさせようとすると、もう一人の男が容赦なくスタニスラフを殴りつけた。
「やめて! 今降りますけん、乱暴はやめてつかぁさい」
千鶴が大声で言うと、男はスタニスラフを殴るのをやめた。
見ると、前でも同じことが起きていた。人力車のすぐ脇で殴り倒されたミハイルを、幸子が身を挺してかばっている。どちらの車夫たちもただ黙って見ているだけで、誰も千鶴たちを助けようとはしてくれない。
千鶴は怖かったが、気丈に男たちに向かって言った。
「あんた方、兵庫のとっこうて言うたけんど、とっこうて何ぞなもし?」
「何ぞなもし?」
男たちは小馬鹿にしたように笑った。
「こっちは、ど田舎やからな」
スタニスラフを殴った男が、突っ立ったままの車夫たちを眺めながら言った。
しゃあないな――ともう一人の男が面倒臭そうに頭を掻いた。
「知らんのなら教えたろ。特高いうんはな、正式には特別高等警察て言うんや。松山にはまだないけどな。その名のとおり、わしらは内務省直属の特別な警察よ。愛媛の県知事とか、警察の本部長なんかにいちいちお伺い立てんでも自由に動けるんや。それに巡査はサーベルしか持たしてもらえんがな、わしらは拳銃を持たしてもろとるんや。わしらが特別いうんがわかったか?」
しょうもないことまで言うなと、ミハイルたちの所にいる男が怒鳴った。怒鳴られた男は、わかったわかった――とうるさそうに返事をすると、車夫たちをドスの利いた声で脅した。
「そういうわけやから、お前らも余計なこと喋ったら、ただじゃ済まんからな。わかったら、さっさと行け!」
千鶴たちを横目で見ながら車夫たちがいなくなると、提灯もなくなったので辺りは暗くなった。明かりと言えるのは月だけだ。
「うちらが何をした言うんですか!」
幸子がミハイルをかばったまま、叫ぶように抗議した。幸子の近くにいた男は、幸子の脇にしゃがんで言った。
「それをお前らに吐かせるんが、わしらの仕事や」
千鶴も近くの男たちに必死に訴えた。
「うちら、何もしとりません。だいたい、なして兵庫の警察が来るんぞな? ここは松山ぞな!」
千鶴の傍にいる男は、千鶴の声など聞こえないかのように煙草に火をつけた。代わりにスタニスラフを殴った男が言った。
「言うたやろ? わしらは特高や。愛媛も兵庫も関係ないんや」
「アナァタタチ、神戸カラァ、僕タチ、ツゥイテ来マァシタネ」
スタニスラフが怒ったように言ったが、その声は怯えているようだ。
男はスタニスラフの頭を叩き、ご名答!――と言った。
「お前らが松山へ行くんは何かあると思てな。それで後をつけて来たいうわけや。そしたら案の定、お前の父親は昔の女とその娘に連絡取って、お偉方らと晩餐会や。ただの旅行のはずが、こら、どういうこっちゃ!」
怒鳴る男に、スタニスラフは言い返さなかった。男の言葉がよくわからなかったのだろうが、男はスタニスラフが罪を認めたと思ったに違いない。
今の話聞いたやろ?――と奥にいる男がミハイルに言った。もう観念しろと言いたいらしい。
煙草を吸った男が、ふうと煙を吐いて言った。
「今日集まった者の中に、お前らのスパイ仲間がおるはずや。それが誰なんかを教えてもらおか」
「僕タチ、ソ連カラァ、逃ゲテ来タ。ソ連ノ、スパイ、違ウ」
やっとスタニスラフが言い返すと、男たちはふっと笑った。
「みんな、そう言うんじゃ。わしはスパイじゃて、スパイが自分で言うか、ボケ!」
スタニスラフを罵った煙草の男に、千鶴は言い返した。
「ほんなん無茶苦茶ぞな。うちらは久松伯爵さまに招待されて――」
やかましい!――と煙草の男は千鶴を平手打ちし、千鶴はその場に倒れた。
「千鶴!」
叫んだスタニスラフも、また殴られた。
「しばかれとうないなら黙っとれ、この赤が! お前らが赤の鬼山とつるんどるんも、ちゃんと調べがついとるんじゃ。明日の朝一番の船で神戸へ戻ったら、詳しく話を聞かせてもらうで」
男が喋っている間に月が雲に隠れ、わずかな淡い光も失われた。辺りは闇に呑み込まれ、男のくわえた煙草の火だけが、闇の中に浮かんでいた。
「くそっ、これじゃあ暗うて手錠をかけられん」
奥にいた男たちがぼやいた。だが、煙草の男はそのわずかな明かりで、千鶴の姿が何とか見えるのだろう。倒れたままの千鶴の右手を乱暴につかみ上げて言った。
「山﨑千鶴、お前をソ連のスパイ容疑で逮捕する」
男は懐から手錠を取り出そうとしたように見えた。だが、何故か男はつかんでいた千鶴の右手を離した。
闇に浮かぶ小さな煙草の火が、うわわという声とともに、どんどん高く浮かんで行く。
と思った途端、その火は叩きつけられるように勢いよく地面に落ちた。鈍い音が聞こえ、辺りは静かになった。
もう一人の男が、暗がりの中に浮かぶ巨大な影に気がついて声を上げた。薄明るい空を背景にした、その見上げるような影には二本の角が生えている。
二
「鬼さん?」
千鶴が顔を向けると、その影はちらりと千鶴を見たようだった。
一瞬、千鶴はその影が哀しげな目で、自分を見下ろしているような気がした。だが影はすぐに動き出し、スタニスラフの傍にいた男をつかみ上げた。
男が捕らえられると、スタニスラフはロシア語で何かを叫びながら這って逃げた。千鶴のことなど忘れたようだ。
影はつかんだ男を口元へ運んだ。よく見えないが、千鶴には影が男を食いちぎろうとしているように思えた。男は気も狂わんばかりの悲鳴を上げている。
「いけんよ!」
千鶴が叫ぶと、影は動きを止めた。男の頭は大きく開いているであろう影の口のすぐ前だ。あまりの恐怖で失神したのか、男はぐったりして声を出さなくなった。
「殺めたらいけん!」
千鶴がもう一度叫ぶと、影は捕まえた男を口元から離し、千鶴を見下ろしながら、ぐるると唸り声を出している。
「千鶴! 逃げるんよ!」
幸子の叫び声が聞こえた。
だが、影の唸り声に威嚇をしている様子はない。影は困惑しているようだ。
「う、撃て! 撃つんじゃ!」
ミハイルたちの所にいた男二人が叫んだ。しかし、もたもたしてなかなか発砲しない。動揺が激しくて拳銃をうまく取り出せないようだ。それに真っ暗闇なのも影響しているに違いない。
ところが影の方は夜目が利くようで、つかんでいた男を二人めがけて投げつけた。いや、叩きつけたという方が正しいだろう。
まさに肉弾となった仲間の直撃を受け、男たちは後ろへ吹っ飛んだようだ。暗くてよく見えないが、男たちの呻き声がさっきよりも奥の方で聞こえている。
「お母さん! お父さん!」
千鶴が叫ぶと、千鶴と呼び返す両親の声が聞こえた。二人はさっきと同じ場所にいるようだ。倒れていたのが幸いしたらしい。もし立っていたら、男たちと一緒に吹っ飛ばされていたかもしれなかった。
影が男たちに向かって唸った。今度は怒りの籠もった威嚇の唸りだ。影は男たちを殺すつもりに違いない。
しかし影はすぐには男たちの所へは行かず、身をかがめて千鶴に手を伸ばした。ミハイルと幸子の悲痛な叫びが聞こえた。
スタニスラフは少し離れた所から千鶴を振り返ったが、声も出せずにただ見ているばかりだ。
千鶴は迫る影を見上げながら動かなかった。胸はどきどきしていたが、影は自分に何もしないとわかっていた。
千鶴が思ったとおり、影は千鶴に手を差し伸ばしたまま、千鶴に触れようとしなかった。
影の手は千鶴のすぐ目の前にあった。しかし、その手は千鶴に触れることができず戸惑っているようだった。まるで千鶴を抱きたいのをためらっているみたいだ。
影は千鶴に触れる代わりに、頭を少し傾げながら悲しげな唸り声を出した。千鶴には影が泣いているように思えた。
「その子に手ぇ出すな!」
幸子が闇の中で転びそうになりながら走って来ると、影は立ち上がった。影の前まで来た幸子は、千鶴を護るように抱きながら影に叫んだ。
「この子に手ぇ出したら、うちが許さんよ。この子、連れて行くんじゃったら、先にうちを殺すがええ!」
影はうろたえたように唸った。影には幸子を殺すつもりはなさそうだ。むしろ幸子の剣幕に押されてたじろいでいるように見える。
影はその場を離れると、道の奥へ向かった。スタニスラフは慌てて道の端へ逃げると、頭を抱えて小さくなった。だが影はスタニスラフには見向きもしない。
「ミハイル!」
千鶴を抱きながら幸子が叫んだ。鬼の先にはミハイルが倒れたままだ。しかし影はミハイルを跨いで、その向こうで呻いている男たちの所へ向かった。
「千鶴!」
影が向こうへ行ったからだろう。スタニスラフが思い出したように千鶴の所へ来て、幸子と一緒に千鶴を抱こうとした。
しかし千鶴は母を押しのけ、スタニスラフの腕を振り払うと、影を追いかけた。後ろで母が叫んでいるが、止まるわけにはいかなかった。
この影は鬼だと千鶴は確信していた。鬼に人殺しをさせまいと、ただそれだけを考えていた。
「チヅゥ」
暗い地面の近くで父の声がした。しかし、千鶴はそれに応えることもできないまま影に走り寄った。
影は男二人を両手につかみ上げていた。だが男たちを叩きつけるのでもなく、食いちぎるのでもない。影はそのまま動きを止め、ただ唸るばかりだ。
しかし、二人は断末魔のような叫び声を上げた。影は男たちをじわじわと握り潰すつもりらしい。
「いけん! 鬼さん、やめて!」
千鶴は影を見上げながら叫んだ。
影が千鶴を振り返った時、雲間から月が顔を出した。月明かりに浮かび上がったのは、やはり鬼だった。醜悪な顔が叱られた子供のように困惑のいろを浮かべている。
千鶴は鬼に必死に訴えた。
「鬼さん、お願いやけん、もうやめて。うちのために手ぇ汚すような真似はせんで。そげなことしよったら、また地獄へ戻されてしまうぞな。うちのこと想てくれるんなら、ずっとうちの傍におれるようにして! ほじゃけん、そがぁなことはやめてつかぁさい」
鬼は両手の中でぐったりしている男たちに牙を剥き、それからうろたえたように千鶴に目を向けた。
「な? ほら、うちやったら、このとおり大丈夫じゃけん、もうええんよ。ほじゃけん、その人らを堪忍してやって」
千鶴が両腕を広げて鬼に笑顔を見せると、後ろから走って来た幸子が、再び千鶴を護るように立ちはだかった。すると、鬼は幸子を恐れるかのように後ずさりをした。
その時、もう一人の男が近くで呻き声を出した。先ほど鬼に投げつけられた男だ。まだ生きているらしい。だが、それが鬼の怒りに再び火をつけたようだった。
鬼は牙を剥き出して唸り声を上げると、足を上げてその男を踏み潰そうとした。
「いけん! 殺めたらいけん!」
千鶴は母を押しのけると鬼の前に走り出て、両手を上げながら叫んだ。
「殺めたらいけん!」
千鶴が踏み潰されると思ったのだろう。幸子は両手を口に当てたまま固まった。ミハイルとスタニスラフも声が出ない。
しかし、鬼は踏み下ろそうとしていた足を止め、そのまま静かに下ろした。鬼は千鶴に危害を与えるつもりはないようだ。それどころか、鬼が千鶴の言葉に従っているのは明らかだった。
それでも鬼は男たちの命を奪いたかったのだろう。両手につかんだ二人に向かって憎々しげに牙を剥き、悔しそうに天を仰ぐと凄まじい咆哮を上げた。それは千鶴が見た地獄の鬼の咆哮そのものだった。
千鶴の体はびりびりと小さく震えた。幸子は頭をすくめ、両手で体を抱くようにしている。ミハイルとスタニスラフは両耳を手で押さえていた。
鬼はつかんでいた男たちを左手一つで抱えると、身体をかがめて右手を千鶴の方へ伸ばした。
幸子は千鶴に駆け寄り、千鶴を護るように抱いた。だが、鬼がつかみ上げたのは踏み潰そうとした男だった。
そのあと、鬼は初めに地面に叩きつけた男も拾い上げると、そのまま城山を登る道へ姿を消した。
千鶴たちは呆然と鬼を見送るしかできなかった。鬼が去ったあと、辺りは静寂に包まれた。だが、すぐにその静寂は破られた。
三
鬼の咆哮が聞こえたのだろう。お堀の土塁の向こうが騒がしくなった。
兵士たちに見つかると面倒なことになると思った千鶴は、みんなに急いで隠れるように言った。
何故隠れるのかは、ミハイルとスタニスラフにはわからないようだった。しかし、幸子も今の状況を他人に知られるのはまずいと理解したようだ。すぐにミハイルを助け起こすと、千鶴の指示に従って鬼が消えた登城道へ向かった。
千鶴はスタニスラフにも早く隠れるように促すと、その場に落ちていた男たちの帽子を拾って廻った。ここに誰かがいたという証拠を残しておきたくなかった。
初めに男が叩きつけられた辺りに手錠が落ちていたので、それはお堀の中に投げ捨てた。また父の杖があったので、それも拾ってから急いで母たちを追った。
昨日この道を登ろうとした時には、あまりの急斜面のためにミハイルは登るのを断念した。その同じ道をミハイルは幸子とスタニスラフに助けてもらいながら、昨日よりも上に登ることができた。足が痛かっただろうが、そんなことは言ってられなかった。
千鶴は三人に追いつくと、藪近くに身を隠すように言った。
すると、衛戍病院の方から人の声が聞こえた。窓を開けて辺りを確かめているようだ。
千鶴たちがいる所は真っ暗なので病院からは見えないはずだが、声を出せば気づかれてしまう。静かにと言ったわけではないが、ミハイルたちも息を殺して様子を窺っている。
少しすると、今度はお堀の東門から、ランプを掲げた三名の兵士が出て来た。月がまた雲に隠れたので、辺りは再び闇に呑み込まれている。
兵士たちはランプをかざしながら、さっきまで千鶴たちがいた辺りへ近づいて来た。
途中で一人が、道の隅に落ちていたぼろ切れのような物を拾い上げ、ランプの明かりで確かめている。それは千鶴たちがいた所よりも道の入り口に近い場所なので、特高警察の男たちとは関係ない物と思われた。
だが、人力車の車夫たちが落とした物であれば、あとで誰の物なのかを特定されて、ここであったことを喋られるかもしれない。そうなれば、千鶴たちが特高警察の男たちとここにいた事実が知れてしまい、大事になるのは必定だ。
一人の兵士がぼろ切れを調べている間、もう一人の兵士はお堀をのぞき込み、残りの一人が千鶴たちの方へ近づいて来た。
まずいと思ったが、下手に動けば却って気づかれてしまう。
息を殺してじっとしていると、兵士は千鶴たちがいる坂道の入り口までやって来た。そこでランプを掲げて、登城道に何かがいないか確かめているようだ。もし上がって来られればおしまいだ。
「何ぞおるんか?」
衛戍病院の窓から、誰かが兵士に声をかけた。近くまで来ていた兵士はランプを掲げながら、何もおらん――と応じた。
その時、お堀をのぞいていた兵士が、何かが動いたと叫んだ。
ぼろ切れを投げ捨てた兵士がお堀へ向かうと、千鶴たちの近くまで来た兵士も、急いだ様子でそちらへ戻って行った。
三人はランプをかざしてお堀の水面を照らしていたが、ちょっと水音が聞こえただけで大騒ぎをした。どうやら三人とも怯えているらしい。
「どがいぞ? お堀に何ぞおったか?」
また病院の窓から声がした。兵士たちは暗くてよくわからないと言いながら、しばらくお堀を調べていた。
病院の人間は飽きてしまったのか、窓を閉める音がして、そのあとは人の声はしなくなった。それでも兵士たちは調べ続けていた。
「おい、ひょっとしてこれはお袖狸の仕業やないんか?」
兵士の一人が言った。するともう一人が、ほうかもしれまいと言った。
東と南のお堀が合わさる角には、八股榎と呼ばれる大きな榎が生えている。そこにはお袖という名の雌狸を祀った祠がある。
お袖狸は神通力で人々の願いを叶える有り難い狸で、この八股榎を住処にしているらしい。それでここに祠が建てられているのだが、毎日信者が参拝に来るほど人気がある。
ところがお堀に沿った道を広げるために、お堀を埋め立てようという話が持ち上がっており、そうなると邪魔になる八股榎は伐られる運命にあった。
これまでにも八股榎は人間の都合により二度伐られた。その都度お袖狸は住処を失い、別の場所への移動を余儀なくされた過去がある。
今度伐られたら三度目になるわけで、それに対してお袖狸が怒ったに違いないと、兵士たちは三人で言い合った。
三人は八股榎の方に向かって手を合わせると、お気持ちお察ししますと言い、明日はお供えを奮発するので怒りをお鎮め下さいと、お袖狸に声を出して祈った。それから、兵士たちは東門の向こうへ戻って行った。
兵士たちがいなくなったのを確かめると、千鶴は持っていた帽子を近くの藪に捨てた。
この道を登って行った鬼が気になったが、後を追うことはできない。千鶴は真っ暗な坂道を見上げたあと、衛戍病院の様子を確かめながら、道を下りるよう父たちを誘った。
月が隠れたままなので足下が見えず、足が悪いミハイルでなくても転びそうだ。千鶴たちはミハイルを支えながら、ゆっくり慎重に坂道を下りて行った。
戻った元の場所も真っ暗闇で、気をつけねばお堀に落ちてしまいそうだった。
辺りはしんと静まりかえり、先ほどのことが幻だったように思えてしまう。それでも特高警察に捕まったのは事実であり、鬼が現れたのも幻ではない。
鬼は確かにいた。そして進之丞の言葉どおりに千鶴を護ってくれていた。お陰で特高警察に捕まることは避けられたが、代わりにもっと大きな問題が起きてしまった。
鬼に襲われた特高警察の男たちは死んだかもしれない。生きていたとしても、これは前代未聞の大事件だ。さらにはそれを両親たちが目の当たりにしてしまい、千鶴が鬼を従わせるところも見られてしまったのである。
鬼に人殺しをさせまいと必死だったので、後のことなど千鶴は考えていなかった。鬼がいなくなったあとも咄嗟にみんなに指示を出し、何とか兵士たちの目を逃れたが、今は不安と怯えで混乱していた。
あの特高警察の男たちはどうなったのか。このことは今後どのようになるのか。また、母たちが自分をどのように見ているのか。頭の中でいろんなことが思い浮かぶが、どれにも共通して言えるのは、絶望しかないということだ。
ついさっきまで萬翠荘で宴が開かれていたのが嘘のようだ。あの時の千鶴は、まるでお姫さまみたいだった。しかし、今の千鶴はがんごめだ。仲間の鬼を従えた鬼の娘なのである。
四
「アレェヴァ、ナンデズゥカ? アクゥマデズゥカ?」
興奮した様子のミハイルが、潜めた声で千鶴を質した。鬼に驚いたのはもちろんだろうが、やはり鬼が千鶴に従っていたことにも驚いているようだ。
千鶴が黙っていると、あれは千鶴に憑いている鬼だと思うと幸子が言った。気丈に振る舞っているようでも、幸子の声は恐怖に震えていた。
少しだけ顔を出した月の明かりが、千鶴たちを仄かに照らした。幸子は体も震えているようだ。寒気がしているみたいに、自身を抱く両手をしきりに上下に動かしている。
千鶴に憑いている鬼だと言われても、ミハイルもスタニスラフもわからない。鬼とは悪魔のことかと訊ねるが、今度は幸子が悪魔のことがわからない。
「あの鬼は、うちを護ろうとしたぎりなんよ」
千鶴が鬼をかばうと、よもだ言いなや!――と幸子は叱った。
「鬼はあんたを狙とるんで! 鬼があの人らを襲たんは、あんたを横取りされるて思たけんよ。助けてくれたんやないで!」
違うと言いたかったが、こんな所で議論をしても無駄なので、千鶴は言い返さなかった。それに母は娘が鬼を従わせた事実を認めたくないようだった。鬼が千鶴を狙っていると言い張るのも、それが理由に違いない。そんな母に何を言っても、聞いてもらえるはずがなかった。
どういうことかと問うミハイルたちに、千鶴と鬼には前世からの因縁があるみたいだと幸子は話した。しかし、二人とも前世や因縁の意味が理解できず、何度も同じような質問を繰り返した。また、幸子も千鶴と鬼の本当の関係を知らずに同じことばかり言った。
千鶴は聞いていられなくなり、もうやめて!――と叫んだ。
「あの人らがあがぁなことせんかったら、鬼かて出て来んかったんよ。悪いんはあの人らじゃけん!」
幸子は興奮する千鶴をなだめながら、ミハイルたちに千鶴から離れるようにと手で伝えた。
ミハイルは心配そうにしていたが、スタニスラフは困惑しているようだった。あれほど千鶴を求めていたはずなのに、今のスタニスラフはあの時とは違う目をしている。千鶴が化け物に魅入られて狂っていると思っているのかもしれない。
みんなの視線が耐えられなくなり、千鶴は三人から離れた。しかし、誰も千鶴を慰めには来ないで、三人で同じ話ばかり繰り返している。それは事実を確かめるというより、事実を受け入れられないということだろう。それほどみんなは動転していた。千鶴と化け物が関係あるのは明らかなのに、それを信じたくないのである。
千鶴自身、自分の目で鬼を見たことで動揺していた。
地獄で出逢った鬼は恐ろしい姿をしていた。それでも進之丞から鬼の話を聞かされたことで、千鶴は自分に憑いている鬼を強いけれど優しい鬼のように勝手に思い描いていた。ところが実際に目にした鬼は、地獄にいた時と同じとんでもない化け物だった。
地獄で鬼を見つけた時には、その恐ろしい姿にもかかわらず、千鶴は鬼を愛しく思っていた。だが今は狼狽するばかりで、鬼を思いやる気持ちすら湧いて来ない。鬼には自分の傍にいられるようにしてと叫んだが、それが正しいことだったのかと疑い始めている。
月が雲間に隠れ、辺りを包んだ闇は千鶴に地獄を思い出させた。あの時の屍たちのように、ここでも鬼は殺戮を繰り返すのだろうかと、千鶴は恐ろしくなった。
――鬼は所詮、鬼ぞな。
進之丞の言葉が蘇る。
そうなのだ。鬼は所詮、鬼なのである。どんなに優しくても鬼は鬼だ。人間とは違う恐ろしい化け物であり、今見たすべてが鬼の本性なのだ。
これから自分はどうなるのかという不安が、千鶴の胸の中に持ち上がって来た。
いずれ男たちの死骸がどこかで発見され、最後に男たちと一緒にいた自分たちが、警察から詰問を受けるのは間違いない。その時に何と言い訳をすればいいのか。もし、父やスタニスラフが鬼の話をしたらどうなるのだろう。
みんなに指差され、鬼だのがんごめだのと恐れられ罵られる自分の姿が頭に浮かぶ。化け物を捕まえて殺せと、街の人々が警察と一緒になって捕まえに来るかもしれない。
千鶴はしゃがんで頭を抱えた。鬼を責めることはできない。鬼は特高警察から護ってくれただけだ。しかし、自分を待ち受けているのは絶望なのだ。
一番町の方から来た電車が、お堀に沿って南へ曲がって行った。
電車の音と明かりが、少し前まで千鶴がいた世界を垣間見せてくれているようだ。その世界はすぐそこにあるのに、もう手が届かない。
こんな時、いつも力になってくれたのは進之丞だ。だが、その進之丞は花江に心を奪われてしまい、千鶴は独りぼっちだった。
「進さん、おらのこと、あがぁに想てくんさったのに、なして心変わりしてしもたん? おら、そがぁに嫌な女子になってしもたんかな……? おら、もう、どがぁしたらええんかわからん……。お願いぞな。進さん、どうか、おらん所へ戻んて来てつかぁさい……。進さん傷つけるようなことは二度とせんけん、お願いやけん、戻んて来て……」
千鶴がすすり泣いていると、薄い雲を通して月明かりが辺りをぼんやりと照らした。
その時、千鶴の目にぼろ切れのような物が見えた。さっき、兵士が見つけた物のようだ。車夫たちが落としたにしては大き過ぎるように思える。
みんな、ぼろ切れでも大切にして何かに使うものである。こんな所にこんなに大きなぼろ切れが落ちているのは、何だか違和感がある。それにぼろ切れというより、破れた着物のようにも見える。そうであるなら尚のことおかしい。
ふわんという音が聞こえ、南のお堀の方から一番町へ向かう電車が来た。電車の明かりに照らされたぼろ切れには、模様らしき物があった。
明かりとは言っても、それほど明るいものではないので、色まではわからない。それでもその模様を眺めていた千鶴は、え?――と思った。
立ち上がり傍へ行って拾い上げてみると、やはりそれは破れた着物だった。しかもその破れ方が尋常ではない。背の部分が二つに裂けた上、両方の袖が肩から袖口にかけて引き裂かれている。
一番町の方へ曲がって行った電車の明かりが、最後に照らしたのは見慣れた継ぎはぎ模様だった。ここまで幾度も継ぎ布を当てた着物は、どこにでもあるものではない。
何故ここにこんな物が落ちているのか、千鶴は理解ができなかった。
辺りを見ると、千切れた着物の帯と一緒に、紐が切れた褌も落ちていた。この着物を着ていた者が、ここで着物と一緒に脱ぎ捨てたのか。しかし、帯も褌の紐も千切れている。脱いだとは思えない。
これらの物がここにある理由がわからないまま、千鶴はこのままではまずいと思った。それで急いで全部を拾い集めると、着物に帯に褌がどうすればこうなるのかと考えた。
そもそも、この着物はここにあるはずがない物だ。誰かが盗んで引き裂いて、ここへ捨てたというのも妙である。そんなことをする理由などどこにもない。
仮に誰かが捨てたのであれば、それは自分たちがこの道へ連れ込まれる前のはずだ。であれば、この着物や褌は何度も人力車や車夫たちに踏まれている。だが、どこにもそんな汚れはついていない。
しかも着物や褌にはわずかながら温もりが残っている。ついさっきまで、これを誰かが着ていたということなのか。そうだとしたら、これを着ていた本人はどこへ行ったと言うのだろう。
もしやと思って、千鶴は着物の匂いを嗅いだ。そこには覚えのある匂いがあった。だが血の匂いはしない。着物を着ていた人物を、鬼が襲ったわけではなさそうだ。それに鬼と想いが通じている者を、鬼が襲うわけがない。
ほっとはしたものの、着物の主がいないことを千鶴は心配した。尋常ではない着物の破れ方を見れば、着物の主が無事だったとは思えない。いったい何があったのか。
千鶴は着物を眺めながら、どうすればこんな破れ方になるのかと改めて考えた。背の部分はともかく、両方の袖の破れ方があまりにも不自然である。誰かの着物を引き裂くにしても、こんな風にはしないだろう。
帯や褌の紐だって、そう簡単に千切れたりはしない。それが千切れたというのは、余程の強い力が加えられたことになる。やはり鬼の仕業だろうかと思ったが、鬼がこんなことをする理由がわからない。
何より妙なのは、着物の主がいないことだ。鬼と一緒にここへ来て、どこかに裸で隠れているのだろうか。
――あん時、おら、ほとんど素っ裸やったんよ。
ふと思い出した言葉に、千鶴ははっとなった。それは千鶴が化け物イノシシに襲われ、鬼に助けてもらった時のことだ。
――一応、腰には破れた着物巻きよったけん。
あの時も着物は破れていた。そして今も……。
千鶴は破れた着物の袖を見た。あの時も、着物はこれと同じような破れ方をしていたのだろうか。そうであるなら、それはどういうことなのか。誰かが引き破いたのではないならば、どうやってこんな裂け方をするのだろう。
まさかと千鶴は思った。
引っ張られて裂けたのでなければ、内側から押し破るしかない。それは両腕が途方もなく大きく膨らんだということになる。だけど、それは……。
千鶴は動揺した。そんなことがあるわけないと思った。しかしそう考えれば、帯や褌の紐が千切れていたことも説明がつく。
千鶴は顔が強張った。だがすぐに頭を振って、浮かんだ考えを消そうとした。しかし、他にどう説明ができるのか。
着物を持つ手が震えている。着物は真実を知っているはずだが、懸命に惚けて白を切っているようだ。それはこの着物の主の姿とそっくりだ。
「いや、そげなことあるはずない。絶対違う。ほんなんあるわけないけん。ほんなんあるわけ……、ほやけど……、ほんな、まさか……」
そんなのは有り得ない。あるはずがないし、あって欲しくない。絶対にそんなことは有り得ないことだし、あってはならないのだ。
しかし、不自然に裂かれた着物がここに落ちている理由が、他には思い当たらない。
哀しげだった鬼の目が、すべてを語っているようだ。
鬼は千鶴たちには傷一つつけなかったし、千鶴の言うことを聞いてくれた。また、千鶴を護ろうとした幸子には気後れしたようにも見えた。あの姿はまるで――。
「ほんなことない。絶対違う。ほんなわけない」
千鶴は自分の考えを頭から追い出そうとした。
――あしはな、鬼の心がわかるんよ。
進之丞の言葉が聞こえて来る。
――鬼は千鶴さんの幸せ願とるぎりぞな。
考えたくないのに頭が勝手に考えてしまう。そしてその考えに従えば、これまでのこと全部が絡まった糸が解れるように理解できる。だが、それは理解したくないことだった。
――お前が幸せなんがわかったら、鬼はおらんなるんよ。
千鶴の目から涙があふれた。信じたくないが、きっとそれが真実なのだろう。もう千鶴は否定ができなかった。地獄の鬼に惹かれたのも、今なら理解ができる。
千鶴に触れたくて触れられなかった鬼の姿が、悲しく思い起こされる。あの時の鬼はどんな気持ちだったのか。
きっと鬼は己の醜い姿を、千鶴には見られたくなかっただろう。己の恐ろしい本性を、千鶴にだけは知られたくなかったはずだ。
それでも鬼は現れた。千鶴を護るために。鬼は他のことなど考えず、ただ千鶴のことだけを考えていたのに違いない。
本当であれば、千鶴の幸せを見定めたあと、姿を見せずにそっといなくなるつもりだったのだろう。それが鬼の定めなのだ。
「やけん? やけん、おらから離れよとしんさったん?」
悲しげな目が黙ったまま千鶴を見つめている。千鶴は着物を抱きしめながら泣いた。
「嘘や、嘘や! ほんなん嘘や! おら、そげなこと信じんけん。絶対信じんけんね。なして鬼なんよ。なして鬼なん? なぁ、なしてなん? お願いやけん、嘘やて言うてや。お願いやけん……」
「どがぁしたんや? そこで何をしとるん?」
ミハイルたちと喋っていた幸子が、千鶴の傍へ近づいて来た。
千鶴は母に背を向けたが、着物を抱いているのはすぐに見つかってしまった。
「何なん、ほれは? 泣きながら何をしよん?」
千鶴は言い訳に、落ちていたぼろ布があとで何かに使えそうだからと説明した。
母の顔は見えないが、困惑にゆがんでいるのが雰囲気でわかる。娘の頭がおかしくなったのではないかと、不安になったのに違いない。
幸子は無理に着物を取り上げようとせず、千鶴に優しい声で話しかけた。
「とにかく家に戻ろ。おじいちゃんらが心配しよるけんな」
ミハイルとスタニスラフもやって来て千鶴を慰めようとした。二人は千鶴が抱えている物を見ると、それは何かと訊ねた。千鶴が返事をしないでいると、幸子が何も訊くなと二人に言った。
父たちにも頭がおかしくなったと思われたかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。きっと、自分のことばかり考えていたので、罰が当たったのだと千鶴は自分を責めていた。
お堀の東門のすぐ向こうには電車の停車場がある。幸子はミハイルたちに、そこから電車に乗れば道後へ行けると教えた。しかし、二人とも一緒に紙屋町へ行くと言った。
四人が電車の道に出る所を誰かに見られては、あとで困ったことになる。お堀の東門から兵士が見ているかもしれないし、表の通りを誰かが歩いているかもしれなかった。
その時、また月が雲に隠れて辺りは闇に包まれた。千鶴たちは互いの体に触れて確かめ合いながら、音を立てないように闇の中を急いで移動した。
幸い誰にも出くわすことなく、千鶴たちは東門の前を通り抜けることができた。月が顔を出した時には八股榎の傍まで来ていた。
途中、千鶴は何度も後ろを振り返った。そのたびに城山で大きな影が動いていないか目を凝らして確かめたが、どこにもそれらしきものは見えなかった。
――あしはな、もう、昔のあしやないんよ。
耳の中で進之丞の言葉が哀しく響く。千鶴はこらえきれずに泣き出した。
スタニスラフは迷いながらも見かねたのだろう。千鶴の肩を抱くと、僕ガイルゥ――と慰めた。自分は千鶴を見捨てないと言いたいようだ。しかし、その言葉は千鶴を空しくさせるだけだった。
五
家に戻ると、甚右衛門とトミが寝ずに待っていた。
「ずいぶん遅い戻りじゃの。こげな時分まで宴会しよったんか?」
煙管を吹かしていた甚右衛門は、千鶴と幸子を見るなり文句を言った。だが、後に続くミハイルたちの姿を認めると、何かがあったと悟ったようだ。急いで煙管の火を消し、みんなを部屋へ迎え入れた。
甚右衛門がミハイルたちを招き入れている隙に、千鶴は離れの部屋へ行き、抱えていた物を暗がりの中で急いで風呂敷に包んで隠した。それから茶の間へ行くと、みんながすでに座っていた。
何をしていたのかと幸子に叱られたが、千鶴はそれには構わず、忠さんは?――と甚右衛門に訊ねた。甚右衛門は緊張した様子で言った。
「疾うに寝とらい。お前らが戻んて来るんがもうちぃと遅かったら、忠七と弥七を起こして迎えに行かせるとこやったが」
そんなはずはないと千鶴は思った。進之丞は祖父たちに気づかれないよう、この家を出たはずだ。今二階へ上がったなら、そこに進之丞の姿はないだろう。
しかし、それを確かめることはできないし、できたとしても確かめるのは怖かった。また、いずれは戻って来るであろう進之丞を見つけるのも、怖くて悲しいことだった。
千鶴が座るのを待ち、甚右衛門は何があったのか説明を求めた。だが、千鶴が何も言わないので幸子が口を開いた。
「実はな、萬翠荘を出たあと、県庁の前辺りで特高に捕まったんよ」
「何やと? 特高に捕まった?」
甚右衛門が大きな声を出すと、トミも顔を強張らせて、ほんまにか?――と言った。
うんと幸子はうなずいたが、千鶴は下を向いたまま黙っていた。しかし、それは酷い目に遭わされたと言っているみたいに見えたのだろう。甚右衛門たちは驚き動揺した。
一度捕まったら拷問にかけられ、白でも黒にしてしまう。そんな特高の話を二人は風の噂で知っていた。だが、まさか千鶴たちが特高に捕まるとは思いもしなかったようだ。
「なして、特高があんたらを捕まえるんや?」
トミが興奮したように訊ねると、ソ連のスパイと疑われたと幸子は話した。
「ミハイルらはソ連から逃げておいでたのに、こっちの話は全然聞いてくれんで、いきなし逮捕する言われたんよ」
幸子は人力車で戻る途中で、待ち伏せしていた特高警察に、県庁裏の登城道の近くへ連れ込まれたことを説明した。
そこで特高警察の男たちが幸子たちの話を聞かずに、無理やり逮捕しようとして暴力を振るったと聞くと、甚右衛門は怒り狂った。
トミは急いで千鶴たちの傷を確かめ、軽傷である事に安堵した。それから傷に塗る膏薬を出して来ると、それぞれの傷に塗りながら言った。
「ほんでも、こがぁして戻んて来られたいうことは、結局はスパイやないてわかってもらえたんじゃろ?」
「わかってなんかくれんよ」
幸子がきっぱり否定すると、甚右衛門は眉をひそめた。
「ほれは、どがぁなことぞ? わかってもらえんのに、なして逃げて来られたんぞ?」
幸子は喋ろうとしたが、再び恐怖が込み上げたのかいったん口籠もり、それから声を震わせて言った。
「出たんよ。鬼が」
何ぃ?――と甚右衛門はさっきよりも大きな声を出した。トミは叫ばなかったが、目を大きく見開いた顔が固まっている。
「鬼がな、その人らを捕まえてお城山へ消えたんよ」
甚右衛門とトミは驚愕したまま、本当に鬼が出たのかと、千鶴たちを見回した。
千鶴は下を向いて黙っていた。だがミハイルとスタニスラフは、大きな悪魔を目撃したと証言した。ミハイルは両手を使って鬼の大きさや、鬼の角を説明した。スタニスラフは鬼が特高の男たちを襲った時の様子を語った。
二人が鬼の凄まじい咆哮の話をすると、甚右衛門は腰が抜けたようにうろたえ、トミは甚右衛門にしがみついて震えた。どうやら鬼の咆哮はここまで届いていたようだ。
「ほ、ほれで、鬼はお前らには手ぇ出さなんだんか?」
動揺を隠せない甚右衛門の問いに、幸子はうなずいた。するとトミが震えながらも意外そうに言った。
「手ぇ出さんかったけん、こがぁして無事に戻んて来れたんじゃろけんど……、何か今の話聞きよったら、鬼があんたらを特高から助けてくれたみたいやな」
それに対して、幸子が千鶴に言ったのと同じ主張を繰り返すと、甚右衛門はうなずいた。
「確かに幸子の言うとおり、安易に鬼を信用せん方がええ。所詮、鬼は鬼やけんな」
祖父の言葉は千鶴を悲しくさせた。結局、これが普通の考え方であり、自分だって鬼を同じように捉えていたのである。
するとスタニスラフが、鬼が千鶴の言うことを聞いたように見えたと話した。
驚いた様子の甚右衛門は、そうなのかと幸子に確かめた。幸子は返事に躊躇したが、結局はうなずいた。
次に目を向けられたのは千鶴である。祖父母だけでなく、他の者たちの視線も千鶴に集まっている。
甚右衛門は静かに千鶴に訊ねた。
「千鶴、お前は鬼に何ぞ言うたんか?」
「……人を殺めたらいけんて言いました」
千鶴は目を伏せながら答えた。
「お前がそがぁ言うたら、鬼は言うこと聞いたんか?」
千鶴は小さくうなずいた。
甚右衛門は当惑した様子だった。今度はトミが訊ねた。
「鬼は、なしてあんたの言うことを聞いたんね?」
千鶴は答えられなかった。千鶴が黙っていると、トミは別の質問をした。
「あんた、鬼が恐ろしなかったんか?」
千鶴は何も言わずに、また小さくうなずいた。
「なして怖ないんね? 相手は鬼やで?」
「前には言わなんだけんど、うちは風寄であのイノシシに襲われました。ほん時に、うちを護ってくれたんが、あの鬼ぞなもし。そのあと鬼はうちを法正寺へ運んでくれたんぞな」
見たわけではない。だが、それは事実である。甚右衛門たちは口を開けたまま言葉が出ない。
「あんた、気ぃ失うて何も覚えとらんかったんやないんか?」
母に問われると、ほうなんやけんど――と千鶴は言った。
「あとで思い出したんよ。イノシシに襲われて気ぃ失う間際に、うちは鬼の手に抱かれよったんよ。ほじゃけん、そのあとのことはわからんけんど、確かに鬼はうちを助けてくれたんよ」
思い出したのは今である。あの時、死を覚悟した自分を包んでくれたのは、あの懐かしい温もりだった。それを思い出し、千鶴は泣きそうになっていた。
幸子は驚いた顔で甚右衛門たちを見た。甚右衛門もトミも当惑した様子だ。千鶴と鬼の関係を測りかねているのだろう。
事情を知らないミハイルたちは、何のことかと幸子に訊ねた。
幸子が困惑気味に今の話を説明すると、二人は驚いた顔を千鶴に向けた。しかし何も話したくない千鶴は、顔を合わせないよう下を向いていた。
ミハイルは幸子に、何故鬼が千鶴を助けたのかと訊ねた。だが、それには幸子は答えられなかった。
甚右衛門が前世で鬼が千鶴を狙っていたと話したが、ミハイルたちには前世が理解できない。
その話はしたけど二人にはわからないと幸子が言うと、甚右衛門は説明をあきらめた。代わりに、風寄にある鬼よけの祠が台風で壊れたために、鬼が現れるようになったと言った。しかし、これもミハイルたちにはよくわからないし、鬼が千鶴を助けた説明にはなっていない。
幸子はずっと昔の風寄に、千鶴によく似た娘が暮らしていたが、その娘は鬼に狙われていたと話した。それから、村の人たちが鬼よけの祠を作って鬼の力を奪ったので、鬼はずっと動けなくされていたけれど、その祠が台風で壊れてしまったと説明した。
それでミハイルは何が起こっているのかは理解したようだ。それでも、やはり鬼が千鶴を助けた理由がわからない。だが、甚右衛門たちにもわからないので、誰もそれを説明ができなかった。
一方、スタニスラフはその祠はどうなったのかと訊ね、壊れたままだと甚右衛門が答えると、どうして新しい物を造らないのかと、怒ったように言った。
それは風寄の村の人たちがすることだから、自分たちにはどうすることもできないと幸子が話すと、ではどうするのかとスタニスラフは興奮気味に言った。
「アレェヴァ、悪魔デズゥ。千鶴ヴァ、悪魔、心、奪ヴァレェテマズゥ。悪魔、千鶴、魔女ニシマズゥ」
「まじよ? まじよて何ぞな?」
幸子が訊ねると、魔女は悪魔の僕であり、悪魔を慕う女だとスタニスラフは言った。悪魔の指示に従って、人間に不幸や災いをもたらすらしい。
スタニスラフがそう言うのは、鬼が千鶴の指示に従ったことや、千鶴が鬼をかばおうとすることが理由のようだ。
突飛なことを言うスタニスラフに、甚右衛門もトミも黙っていたが、面白くないのは顔に出ている。
二人にとって鬼は恐ろしい化け物でも、千鶴は可愛い孫娘だ。本人が鬼に助けてもらったと説明しているのに、それを無視するかのようなスタニスラフの言葉が、二人には不快なようだ。
幸子も千鶴の話を聞いて、千鶴が鬼を恐れなかったことには納得したようで、スタニスラフの考えには同意しなかった。
それでもスタニスラフは譲らず、千鶴を教会へ連れて行くべきだと主張した。
「千鶴、教会デ、洗礼、受ケルゥ。洗礼、受ケレェバ、悪魔、千鶴カラァ、離レェマズゥ」
「教会でせんれい? 何ぞ、ほれは?」
甚右衛門が不審げに言うと、スタニスラフは神の話をし、洗礼を受ければ神に護られるので、悪魔は千鶴から離れると説明した。
甚右衛門は鼻から大きく息を吐き、そんな必要はないと言った。
「日本には日本の神仏があらい。そがぁな西洋の神なんぞ、わしらにはいらん」
幸子も千鶴は魔女じゃないから、教会はいらないと言った。
しかし、スタニスラフは食い下がった。ミハイルに止められても訴えをやめなかった。
ずっと下を向いている千鶴を見て、幸子はスタニスラフにきっぱりと言った。
「千鶴のことは、うちらで考えるけん。あんたは黙っとりんさい。これはうちらの問題やけんね」
つまり、あなたには関係のないことだという意味だが、これはスタニスラフには受け入れられない話である。鬼と千鶴との関係を恐れながらも、スタニスラフがここまで言うのは、千鶴をあきらめきれないからに違いない。スタニスラフはすぐに反論しようとした。
「デモ、僕ト、千鶴ヴァ――」
幸子は手を上げて、スタニスラフを黙らせた。
「あなたには言うとかんといけんことがあるんよ。あのな、千鶴には好いた人がおるんよ。ほれは、あなたやないの」
スタニスラフは驚いた顔で千鶴を見た。しかし、千鶴は黙っていた。何も言いたくなかった。
代わりに幸子が、萬翠荘では千鶴は酔っ払っていたから、スタニスラフに誤解をさせてしまったと、お詫びを兼ねて説明した。
甚右衛門とトミはスタニスラフと千鶴の間に何があったのかを理解したらしい。幸子の言うとおり、千鶴には決まった相手がいるということを口々に言った。
うろたえたスタニスラフは、そうなのかと千鶴を質した。千鶴は下を向いたまま、小声でごめんなさいと言った。
納得できない様子のスタニスラフは、その男は悪魔のことを知っているのかと訊ねた。黙ったままの千鶴の目から涙がこぼれると、知ラァナァイデズゥネ――とスタニスラフは言った。
「ソノ人、千鶴、護リィマズゥカ? 僕ヴァ、護リィマズゥ」
鬼の前で自分がどうしていたのかを忘れたかのように、スタニスラフは興奮して喋った。
ミハイルがスタニスラフの肩を押さえ、もうやめろと言うようなことをロシア語で言った。だが、スタニスラフは聞かなかった。
「僕ヴァ、千鶴、護リィタァイ! 僕ヴァ、千鶴、助ケタァイ!」
千鶴は涙を拭くと、スタニスラフに微笑んだ。
「スタニスラフさんは、まことええお人じゃね。うち、絶対嫌われるて思いよった。ほれやのにそがぁに言うてもらえるやなんて、ほんまに有り難いことやと思とります。ほんでも、うちはあなたと一緒に行くことはでけんのよ。あなたじゃったら、うちやのうても、なんぼでもええ女が見つかるけん、もう、うちのことは忘れておくんなもし」
幸子の方を見たスタニスラフに、幸子は千鶴の言葉をわかりやすく説明してやった。しかし、スタニスラフは承服しなかった。千鶴が本当に想っているのは、自分だと信じているようだ。
ミハイルはまだ喋ろうとするスタニスラフを黙らせると、みんなを見ながら心配そうに言った。
「アノ、アクゥマ、チヅゥ、ドウシマズゥカ? チヅゥ、ダイジヨブデズゥカ?」
ミハイルは自分たちがいなくなったあと、あの鬼が千鶴に何もしないのかと訊きたいようだ。それは親として当たり前の心配である。
これまで鬼が千鶴を襲ったことはないとトミが話した。しかし甚右衛門は、鬼は信用できないと言った。たとえ千鶴を助けてくれたとしても、鬼は鬼だというわけだ。幸子は迷いながらも、やはり鬼だから心配はしていると言った。
そこへスタニスラフが隙を突いたように、千鶴はきっと魔女にされると言った。
ミハイルはスタニスラフをにらむと、千鶴に顔を向けた。千鶴の答えを聞きたいようだ。
千鶴は明るい笑顔を繕うと、平気な様子を装って喋った。
「みんな誤解しよるぞな。鬼はな、絶対にうちや家族に手ぇ出したりせんけん。さっきかてほうやったじゃろ?」
千鶴は父と母を見た。二人とも千鶴の言葉を否定せず、黙って千鶴の話を聞いている。
千鶴は祖父たちの方も見ながら話を続けた。
「鬼は普段は姿隠しとるけんど、うちらを見守ってくれとるぎりでな、何ちゃ悪いことは考えよらん。鬼が考えよるんは、うちの幸せぎりなんよ。ほんまぞな。嘘やないんよ。他にはなぁんも望んどらんのじゃけん。自分がどんだけつろうてもな、いっつもかっつも、うちのことぎり考えてくれよるんよ。うちがひどいこと言うても、うちが疑うたりしても、いっつもかっつも、うちのことぎり……」
喋りながら千鶴は涙をこぼした。だが、その涙の意味を知る者は一人もいなかった。
ごめんなさい――千鶴は立ち上がると、離れへ走った。
六
暗闇の中に座った千鶴は、拾った着物を包んだ風呂敷を抱きながら泣いていた。泣きながら、ぼんやりと前世での進之丞との別れを思い出していた。
これまではっきり思い出せていなかったことが、何も考えずにぼーっとしていると、活動写真のように動き出す。
初めに目に浮かんだのは、進之丞と二人で風寄の浜辺を歩いていた時のことだ。
きれいな茜色の夕焼けが、とても素敵に見見える。
その時、左手に見える鹿島の陰から、見たこともない黒く大きな船が突然現れた。
「進さん、あの船! おら、あげな大けな船、見たことない」
千鶴ははしゃいでいたが、進之丞は哀しげだった。
見ていると、黒い船は動きを止めて、男二人を乗せた小舟が降ろされた。
千鶴、お別れぞな――近づいて来る小舟を見ながら、進之丞は言った。
「あれはお前を迎えに来た船ぞな。あの船には、お前が会いたがっとった、お前の父が乗っとる」
「進さん、何言いよん? おら、どこにも行かんよ」
うろたえた千鶴は、右腕を進之丞の腰へ回し、進之丞に体を押しつけた。すると、右手に何かべっとりした物がついた。
驚いて手を見ると、真っ赤な血がついている。慌てて進之丞の腰を見ると、進之丞の着物は右の腰から足下まで、血で真っ赤に染まっていた。
「何これ? 進さん、これ、どがぁしたん? なして、こがぁな怪我しよるん?」
「無頼者と斬り合うたんよ。勝ちはしたが、不覚を取ってしもた」
進之丞の顔の半分は、夕日が当たって赤く見える。だが、反対側は血の気がないようだ。進之丞は立っているのもつらそうだった。
よろめく進之丞を千鶴が抱き支えると、進之丞は改めて、迎えに来た父親と一緒に生きて欲しいと言った。
「あしはもう生きられん。ほじゃけん、頼む」
「嫌じゃ! 嫌じゃ嫌じゃ! おら、絶対行かんけんね!」
「そげなことを申さんでくれ。お前一人残して死ぬるわけにはいかんけん」
「じゃったら、おらも死ぬるけん。進さんと一緒に死ぬるけん!」
千鶴は進之丞に抱きついて泣いた。進之丞も千鶴を抱き返しながらすすり泣き、すまぬ――と言った。
やがて進之丞が千鶴を体から離すと、誰かが後ろから千鶴の肩に手を乗せた。驚いて振り向くと、そこには千鶴と同じような顔つきの男が立っていた。
男は感激した様子で千鶴を抱きしめた。千鶴は藻掻いて男を叩いた。
その時、松原の中から何人もの侍が刀を抜いて走って来た。
「異人を逃がすな! 殺せ!」
侍たちの狙いは、千鶴や船の男たちだった。
進之丞は千鶴を抱いた男に、手振りで千鶴を連れて行くように伝えた。事情を察した男は暴れる千鶴を抱きかかえ、もう一人の男が待つ小舟に乗せた。
小舟が動き出すと、進之丞は刀を抜いて侍たちの前に仁王立ちになった。その腰から下は真っ赤な血に染まっている。
千鶴は自分を抱きかかえる男から逃れようと暴れた。小舟が揺れて男の手が離れると、千鶴は海へ飛び込もうとした。進之丞の傍にいたかった。
しかし千鶴は再び押さえられ、浜辺の戦いが始まった。
侍たちは次々に進之丞に斬りかかった。だが進之丞はわずかな動きで相手の刃をかいくぐり、すれ違いざまに斬り伏せた。それでも四、五人を斬ったあと、進之丞はそのまま倒れて動かなくなった。
「進さん!」
千鶴が暴れるので小舟は揺れ動き、漕ぎ手の男は小舟をうまく進められない。そこへ残った侍たちが海へ入って来た。水が深くなると、侍たちは刀を口にくわえて泳ぎ始めた。
千鶴を抱いた男が何かを叫び、漕ぎ手は必死に小舟を漕いだ。しかし侍たちは泳ぎが達者のようで、次第に距離が縮まって来る。
後ろの船では甲板に並んだ異国人たちが、口々に何かを叫んでいる。
誰かが銃を構えたが、別の者に止められた。千鶴たちに弾が当たることを恐れたのだろう。しかし、侍たちはすぐそこまで迫っていた。
その時、それまで耳にしたことがない恐ろしげな咆哮が聞こえ、突如、浜辺に巨大な鬼が現れた。
鬼は傷を負っているのか、よろけながら海に入って来た。千鶴を乗せた小舟の男たちも、後ろの船の者たちも、みんな驚き叫んでいる。
鬼は次々に侍たちを捕まえては引き裂き、ある者は握り潰した。小舟のすぐ近くまで来ていた侍も、千鶴たちの目の前で鬼に捕まり、あっと言う間に肉塊にされた。
小舟の男たちは恐怖に固まった様子だったが、鬼は千鶴たちを襲おうとはしなかった。
胸から上だけ水面に出した鬼は、その場に留まったまま哀しげに千鶴を見つめている。千鶴は直感で、この鬼は進之丞だと悟った。
これまで進之丞が鬼であった事実はない。進之丞が鬼になる理由もなければ、どうして鬼になるのかもわからない。進之丞がこんな恐ろしい姿になるわけがないのである。
それでも千鶴は目の前にいる鬼が進之丞だと思った。心と体のすべてで、そう感じていた。どうしてと考える余裕などない。どんな姿をしていても、進之丞は進之丞なのだ。
恐怖に固まっていた小舟の漕ぎ手が、我に返って必死に漕ぎ始めた。千鶴を見つめる鬼が、どんどん離れて行く。
千鶴は鬼の所へ行こうとしたが、後ろから押さえられているので動けない。
進さん!――次第に小さくなって行く鬼に千鶴は叫んだ。それに応えるかのように、鬼は哀しげに吠えた。鬼は間違いなく進之丞だった。
やがて鬼は倒れるように海に沈んだ。千鶴は必死に進之丞の名を叫び続けたが、鬼は二度と姿を見せなかった。
小舟が待機していた船に着き、異国人たちが乗船に気を取られている隙に、千鶴は海へ飛び込んだ。
千鶴は沈んだ鬼を探そうと、深く潜って行った。息が苦しくなるのも構わず、どんどん潜って行くと、やがて目の前は真っ暗になった。気がつけば、千鶴は地獄に立っていた。
がんごめを殺せと叫ぶ亡者たちが、千鶴に襲いかかって来た。だが、鬼が現れて千鶴を助けてくれた。
鬼の足にしがみついて泣く千鶴を、鬼はそっと抱き上げた。あの優しい温もりが千鶴を包み込む。
鬼は千鶴に顔を近づけ、甘い唸り声を出した。鬼は言葉は話さないが、何が言いたいのかは心に伝わって来る。
鬼は千鶴を見ながらぼろぼろ涙をこぼした。何故ここまで追いかけて来たのかと泣いていた。千鶴は鬼の指を抱いて言った。
「おら、進さんと一緒におりたいんよ。ほじゃけん、おら、これからずっとここで暮らすけんね」
鬼は唸った。だめだと言っているらしかった。しかし、千鶴はどうやったらここを出られるか知らないからと、相手にしなかった。
すると鬼は千鶴を指差し、次に真っ暗な天を、そして最後に自分の胸を指差した。鬼は千鶴を地獄の外へ出すつもりのようだ。
鬼は左手で千鶴を抱くと、いきなり右手の爪を己の胸に突き立てた。驚く千鶴に構わず、鬼は右手を胸の奥深くへと突っ込んだ。
鬼は自分の胸にある千鶴への想いが、千鶴を地獄へ引き寄せたと思ったらしい。千鶴を地獄の外へ戻すため、その想いを断ち切るつもりのようだ。
苦痛に顔をゆがめた鬼に、やめて!――と千鶴は必死に叫んだ。
鬼は千鶴を見て微笑むと、咆哮と共に胸から右手を引き抜いた。血しぶきと共に現れたのは、右手につかまれた蠢く心臓だった。
その刹那、千鶴は目も眩むような光に包まれた。
渦巻く光は、千鶴をどこかへ連れ去ろうとしていた。
千鶴は必死に鬼の手にしがみつき、何があっても離すまいと思った。光はまるで暴風のようで、目を閉じた千鶴の耳には、鬼の叫びが余韻となって残っていた。
やがて光の嵐が静まった時、鬼の声は聞こえなくなっていた。
光は目映さを失い、千鶴は目を開けた。
いつの間にか部屋に戻っていた母が、行灯に火を入れていた。部屋の中は薄明るく、千鶴は急いで自分の手を見た。
鬼の手にしがみついていたはずの両手は、痛くなるほど胸の風呂敷包みをつかんでいた。
千鶴は風呂敷を胸に抱きしめたまま静かに泣いた。