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桟橋の二人

     一

 昨夜降り始めた雨が、朝になっても降り続けている。
 千鶴と幸子と花江は朝飯の準備を始めていた。
 千鶴はおくどで飯を炊き、幸子と花江は味噌汁を作っている。
 花江は昨夜のことを聞きたい様子だったが、甚右衛門たちが寝ている間は、大きな声を出すことはできない。
 千鶴たちから楽しかったという言葉を聞いただけで、あとは体を動かすだけだった。
 男衆たちの中では、丁稚の三人が一番早くに起きて来る。三人は雨に濡れながら井戸の水を汲んで来てくれた。
 三人がそれぞれ桶をげて戻った時、閉められていた茶の間の障子がさっと開いた。
「アハヨガザイマズゥ」
 顔を出したのはスタニスラフだ。すぐ後ろにミハイルもいた。
 亀吉たちはミハイルたちを知らないわけではない。だが、ここに寝泊まりしていたとは思っていなかっただろう。三人とも驚いた様子で、桶の水をこぼしそうになった。
 驚いたのは亀吉たちだけではない。花江も何も聞かされていなかったので、うわっと小さく叫んだ。それから慌てたようにスタニスラフたちに挨拶を返すと、どういうことだい?――とそばにいた千鶴と幸子を見た。
 幸子は千鶴と一緒にスタニスラフたちに挨拶をしてから、昨夜は戻りが遅くなったので、ここに泊まってもらったと花江に言った。
「だったら今朝はいつもよりたくさん作んなくっちゃね。千鶴ちゃん、ご飯は大丈夫かい?」
 落ち着きを取り戻した花江は千鶴に訊ねた。大丈夫と千鶴が言うと、黙ってるなんて二人とも人が悪いよ――と花江は笑った。
「だけどさ、二人ともたくさん食べるんだろ? あたしたちが食べるような物で構わないのかい?」
「昨日うた魚の干物があろ? ほれを焼いてやんなさいや」
 いつの間にか起きて来ていたトミが、板の間から声をかけた。千鶴たちが挨拶をすると、大丈夫かとトミは千鶴に訊ねた。
 何のことかわからない花江が、トミと千鶴の顔を見比べた。
 はいと小さく返事をした千鶴は、花江に顔を合わさなかった。すると、ちょうど板の間の階段から降りて来た進之丞と目が合ってしまい、慌てて目をらした。
 トミに挨拶をした進之丞は土間へ降り、おはようござんした――と千鶴たちにも声をかけた。
 幸子や花江はいつもどおりに応じたが、千鶴は背中を向けて小声で挨拶を返した。進之丞の顔を見ると泣き崩れそうだった。
 続いて降りて来た弥七と辰蔵は、ミハイルたちに気がつくと亀吉たち同様に驚いていた。しかし、進之丞はミハイルたちを見ても驚く様子はなく、普通に挨拶をして帳場へ向かった。
 辰蔵と弥七は幸子から説明を聞くと、昨夜はよく眠っていたので全然気がつかなかったと言った。
 すると、花江も自分も同じだと首を傾げながら言った。
「萬翠荘の話を聞かせてもらおうと思ってさ。起きて待ってるつもりだったのに、気がついたら寝床にいたんだよ。自分でもいつ寝ちまったのかわかんないのさ」
 花江がそう言うと、辰蔵と弥七も同じようなことを言った。
 どういうことかはわからないが、恐らく進之丞の仕業だろうと千鶴は思った。
 昨夜、千鶴はほとんど眠れなかった。母もなかなか寝付けそうになかったようだったが、やがて母の寝息が聞こえ始めた頃、しとしとと雨が降り出した。
 しばらくすると、その雨音に混じって奥庭で音が聞こえた。耳を澄ませて聞いていると、勝手口の戸が静かに開く音がし、続けて戸が閉まる音がした。もう間違いないと千鶴は確信した。
 花江や辰蔵たちの話は、その確信をさらに確かなものにした。
 花江が亀吉たちに七輪を用意するよう頼むと、幸子は台所の隅に吊していた干物を持って来た。
 新吉は思わず声を上げたが、お客の分だけだと亀吉に叱られてしゅんとなった。
 亀吉と新吉がそれぞれ七輪に火をおこしている間、豊吉は千鶴の所へ来て、昨日はどうだったのかと訊ねた。
 千鶴は無理に笑顔を作ると、楽しかったと言った。
 どんなことをしたのかと新吉が話に交ざろうとすると、隣の亀吉から早く火を熾せと怒られた。
 その話はあとでねと千鶴が新吉に言うと、スタニスラフが自分も手伝うと言って土間へ降りようとした。
 千鶴は何も手伝ってもらうものはないから、座ってて欲しいと言った。それでもスタニスラフは土間へ降りると、千鶴のすぐ隣に寄り添うように立ち、千鶴の肩に手を回しながら、何をしているのかと訊ねた。
 千鶴はご飯を炊いていると説明しながら、さりげなくスタニスラフの手を肩から外した。
「千鶴、大丈夫ダイジヨブデズゥカ?」
 スタニスラフは心配そうに千鶴の顔をのぞき込んだ。大丈夫――と千鶴は微笑もうとしたが、顔が強張っているのがわかる。
 いきなりスタニスラフは千鶴を抱きしめると、千鶴の頬に自分の頬を合わせた。千鶴は思わずスタニスラフを押し返すと、やめてつかぁさいと言った。
 驚いた様子のスタニスラフは、悲しそうに千鶴を見つめた。
 スタニスラフが慰めようとしてくれているのはわかっている。だが、今の千鶴にスタニスラフを受け入れることはできなかった。
「みんなが見とりますけん、そがぁなことはせんでつかぁさい」
 千鶴が当惑しながら言うと、スタニスラフは周りを見た。亀吉たち丁稚の三人が、口をぽかんと開けたまま見ている。花江はスタニスラフと目が合うと、何も見ていなかったとばかりに前を向いた。
 まだ部屋にいたミハイルがスタニスラフを呼ぶと、ロシア語で何かを言った。邪魔をするなとでも言ったようだ。スタニスラフはすごすごと部屋に戻ると、腰を下ろして千鶴たちを眺めた。
 スタニスラフに恥をかかせたみたいで、千鶴は後ろめたい気はしたが、みんなの前で辱められたような想いもあった。
 特に、すぐそこに進之丞がいるという場所で、こんなことをされるのは絶対に嫌だった。
 七輪の火が熾ると、幸子は亀吉と新吉に干物を渡した。それから茶の間に上がると、ミハイルたちが使った布団を畳んだ。それを押し入れに仕舞うのをスタニスラフが手伝うと言うので、幸子は喜んで運んでもらった。
 そこへ、とても疲れたような顔の甚右衛門が起きて来た。
 トミは豊吉を呼ぶと、店先から新聞を取って来させた。
 ミハイルたちの近くに座った甚右衛門は、二言三言ミハイルたちに声をかけたあと、豊吉が持って来た新聞を畳の上に広げた。
 日本の新聞をミハイルたちは読むことができない。何が書いてあるのかと甚右衛門に訊ねたが、それは昨晩のことを気にしているのだろう。
 甚右衛門は少し待つように二人に言い、記事を順に目で追った。それからある記事を見つけると、それを指差した。
「ここに昨夜ゆんべの萬翠荘のことが書かれとる」
 そこには萬翠荘の記事が、舞踏会の絵付きで掲載されていた。そこに描かれている伯爵夫妻と一緒に踊る二組の男女は、ミハイルと幸子、そしてスタニスラフと千鶴に違いなかった。
 文字は読めなくても絵はわかる。ミハイルとスタニスラフは新聞を食い入るように眺めた。
 何と書かれているのかとスタニスラフが訊ねると、甚右衛門は記事を読み上げた。幸子はそれを簡略化してミハイルたちに伝えた。
 記事には、日露戦争の時に結ばれた者たちと、その子供たちの感動的な再会の場として、久松ひさまつ定謨さだこと伯爵が萬翠荘を提供し、親子のために晩餐会と舞踏会を開催されたとあった。
 中身としては、伯爵を持ち上げる内容が主ではあったが、千鶴たちの名前はちゃんと記載されていた。
 読み上げられた名前を聞いて、ミハイルたちは少し微笑んだ。
「二人の子供たちは血がつながっておらず――」
 そこまで読んで甚右衛門は言葉を切った。新聞に顔を近づけ、続きの文章を黙読したあと、これはどういうことかと幸子に問うた。
 幸子は甚右衛門が示した文に目を向けると、さっと顔を引きつらせた。
 甚右衛門の言葉は千鶴にも聞こえていたし、花江や亀吉たちも聞いている。みんなが甚右衛門たちの方に顔を向けていた。
「これは何かの間違いぞな。こがぁなことはしとらんけん」
 何の話をしているのかと、ミハイルたちが幸子に訊ねた。幸子は困った様子で、新聞記事に間違いがあったとだけ言った。どんな間違いなのかと聞かれても、それについては言葉を濁して答えなかった。
「ほれより、例の記事は載っとらんの?」
 話題を変えるような幸子の言葉に、甚右衛門は再び全部の記事に目を通した。だが、まだ何も載っていないと言った。
 何のことかと、またミハイルたちが目で訴えるので、幸子は小声で昨日の夜の話だと言った。
 それでミハイルたちには通じたようだったが、今度は花江が怪訝けげんそうに、昨日は何かあったのかと千鶴に訊ねた。
「別に何もないよ」
 千鶴は笑顔で言った。鬼の話はもちろんだが、特高警察の話にしても、そんな簡単に話せるようなものではない。話すとすれば、祖父の許可をもらってからのことだろう。
 花江は少し疑わしげにしながら、鍋に味噌を入れると手早くかき混ぜた。

     二

 朝飯の間、千鶴たちは誰も喋らなかった。
 だが板の間は、萬翠荘の話が新聞に載ったことや、新吉たちが千鶴から聞かせてもらったご馳走や踊りの話で盛り上がっている。
 千鶴は母から記事をちらりと見せてもらったが、祖父が口にできなかった文章を見て、血が凍る想いをした。
 そこに書かれてあったのは、血がつながっていない千鶴とスタニスラフが、伯爵夫妻の前で結婚を誓い合ったということだった。
 千鶴はその時のことを何も覚えていない。覚えているのは楽しかったということだけだ。しかし、何か余計なことを言って母に叱られたのは記憶にあるし、水だと思って飲んだのが西洋のお酒だったこともわかっている。
 それに、自分がみんなの前でスタニスラフへの気持ちを告白したようなことを、スタニスラフも言っていた。
 恐らく自分はお酒を飲み過ぎて酔っ払い、わけがわからないままスタニスラフと結婚を誓い合ったのかもしれなかった。
 そんな話を進之丞が知ったらと思うと、千鶴はうろたえた。
「どがぁなったんじゃろね」
 トミが小声でぽそりと言った。
 ミハイルとスタニスラフが顔を上げると、幸子は声を潜めて、四人の男たちのことだと言った。それだけでミハイルたちは、トミが何を心配しているのかを理解したようだった。
 スタニスラフが手刀で自分の喉を切る仕草をすると、甚右衛門は嫌な顔をした。
「いずれ、わかろ」
 甚右衛門は言葉少なに答えると、飯を口に放り込んだ。
 男たちの行方はいずれ知れるはずだ。知れなければ兵庫から新たな者たちが、事情を確かめるために送られて来るだろう。
 そうなると、千鶴たちが再び目を付けられるのは必至である。それは困ったことだが、そこで再び鬼が現れると、さらに問題は大きくなる。千鶴にしても悩むところだが、祖父たちにとっても大変な問題であるのに違いなかった。
 一方で、ミハイルやスタニスラフは千鶴のことを心配していた。
 二人が気にしているのは、特高警察ではなく鬼だった。ただ、すぐ横に使用人たちがいるので、そのことを口にできないことは二人ともわかっていた。
 スタニスラフは松山に教会があるかと幸子に訊ねた。
「あるけんど、教会がどがぁかしたん?」
 幸子がき返すと、スタニスラフは千鶴に洗礼を受けさせたいと言った。
「洗礼受ケルゥ。神サマ、千鶴チヅゥ、護リマズゥ」
 スタニスラフの声が大きいので、千鶴は口の前に指を立て、声を潜めて言った。
「ええんよ、スタニスラフさん。何べんも言うけんど、がんごはうちにも、うちの家族にも悪さはせんのよ。ほれどころか、鬼はうちを護ってくれるんじゃけん、何も心配いらんぞな」
「また、この子はそがぁなこと言うて」
 隣でにらむ幸子に、トミが小声で言った。
「ほやけど、千鶴が言うんも一理あるで。がんごがおらなんだら、昨夜ゆんべはどぁがなっとったことか」
 幸子が口をつぐむと、とにかく大丈夫やけん――と千鶴は笑顔でスタニスラフに言った。
 ミハイルは何かを言いたげだった。だが、ミハイルが口を開こうとした時、板の間から使用人たちの、ごちそうさまと言う声が聞こえた。みんな食べ終わり、仕事に取りかかる時間になったようだ。
 幸子も病院へ行かねばならず、ミハイルたちに神戸へ帰る船の予定を聞いた。
 スタニスラフは帰りたくないと言い続けていたが、ミハイルは夜の八時四十分の船に乗ると言った。
 甚右衛門は、夕方もう一度みんなで食事をしてから帰ればいいと言い、幸子もそれに賛同した。
 また甚右衛門はミハイルたちに、一度道後へ戻って宿を引き払ったあと、ここへ戻って来るようにと言った。
 昨夜二人は宿へ戻らなかったので、荷物は部屋に置いたままとは言え、宿代を踏み倒したと思われる恐れがあった。
 ミハイルはうなずくと、スタニスラフを促して山﨑機織を出ることにした。
 外はまだ雨が降り続けていた。古町停車場まで千鶴がミハイルたちを見送ることになり、千鶴は二人に傘を持たせた。
 誰もえて口にはしない。だが、特高警察は鬼がみんな始末したと、誰もが考えているようだった。

     三

 ミハイルたちを見送ったあと、千鶴が家に戻って来ると、店の入り口に人だかりができている。傘を差している者もいれば、雨に濡れっ放しの者もいる。男も女も入り交じっている。
 見ると、店の中にも多くの者が入り込んでいるようだ。
 何事かと思いながら近づいて行くと、一番後ろにいた男が千鶴に気づいて振り返り、んて来たぞな――と言った。
 男は近所の絣問屋の主人で、千鶴の方へ駆け寄って来た。すると他の者たちも先を争うように男に続き、千鶴は雨の路上で人々に取り囲まれた。みんな千鶴を知る近所の者たちだ。
「千鶴ちゃん、結婚するんやて?」
「おめでとさん。ロシアにはいつ行くんや?」
「伯爵さまご夫妻が、お仲人してくんさるん?」
 いきなり質問攻めにされて、千鶴はうろたえた。
「ちぃと待っておくんなもし。みなさん、何の話をしておいでるんぞなもし?」
「何て……、千鶴ちゃん、お父ちゃんと一緒に来た、あの若いロシア人と結婚するんじゃろ? 伯爵ご夫妻の前で誓いうたて、ちゃんと新聞に書いてあったぞな」
 喋ったのは山﨑機織の隣にある紙屋の女房だ。小学校に上がった頃には、冷たい態度を取られていたが、毎日挨拶を続けているうちに、今では向こうから声をかけてくれるようになった。
 それは他の者たちも似たようなものだ。しかし、ここまで自分のことを、みんなが気に掛けてくれていたことに千鶴は戸惑った。
 だが本当の戸惑いはそこではない。みんなが口にしている言葉である。
 これだけの者が集まって、千鶴とスタニスラフの婚約を祝いに来たということは、自分の店の者たちも全員がそれを知ったはずである。店の中には、まだ進之丞もいるはずだ。
 千鶴は血の気が引いた。だが、まずはこの場を収めねばならなかった。千鶴は必死に結婚はしないとみんなに説明し、スタニスラフも今晩の船で神戸に帰ると言った。
 それで紙屋の女房も他の近所の者たちも、ようやく納得してくれたみたいだっだが、がっかりしたようでもあった。
 千鶴はみんなが気にしてくれたことを感謝しながら頭を下げると、何事もなかったかのように店に戻った。だが頭の中は、進之丞のことで一杯だった。
 店に入ると、辰蔵と弥助が驚いた顔をしていた。しかし、進之丞は平然とした様子で、お戻りたか――と笑顔で千鶴に声をかけた。
 千鶴は言い訳をしたかった。お酒を飲み過ぎたための間違いで、スタニスラフと結婚なんかしないと言いたかった。
 だが結局は何も言えず、進之丞には小さく頭を下げただけで家の中へ入って行った。

 ミハイルたちが道後から戻って来たのは、雨がようやく上がった頃だった。
 早速さっそく二人は茶の間へ通されたが、スタニスラフは部屋へ上がる前に、千鶴のそばへ来て千鶴を軽く抱いた。
 千鶴はもうやめて欲しいと思ったが、今日でお別れだし、基本的にスタニスラフはとてもいい人だから、あまり嫌な態度は見せないようにしようと心に決めていた。
 それでも花江はスタニスラフの馴れ馴れしさに、少し眉をひそめていた。
 近所の人々が集まったことで、花江にも新聞記事の中身が知れていた。
 どういうことかと責めるように訊ねた花江に、千鶴は新聞が誤解をしただけだと言い訳をした。
 花江は一応納得してはくれたものの、誤解を招くようなことはしない方がいいと、千鶴に釘を刺した。
 進之丞の真意を知ったことで、千鶴の花江に対するわだかまりは消えていた。それどころか自分の方が花江を傷つけていたのだと、花江に申し訳ない気持ちで一杯になっていた。
 進之丞は花江の相談相手だったに違いない。そうであれば花江が惚れた男は他にいるわけで、その相手は辰蔵に決まっていた。そして、その辰蔵は自分の婿になる予定なのである。つまり、自分こそが花江と辰蔵の仲を引き裂いた張本人だったのだ。
 それでも花江は千鶴に嫌な顔一つ見せず、姉のように千鶴を戒めてくれる。もしかしたら、辰蔵の顔を潰すような真似はして欲しくないと、花江は思っていたのかもしれなかった。
 そんな花江を気にしながらも、千鶴はスタニスラフを傷つけないように気遣っていた。

 スタニスラフが部屋へ上がると、ミハイルは甚右衛門とトミに、宿の者たちが心配していたと報告した。ほうじゃろほうじゃろと甚右衛門はうなずいて言った。
「もうちぃとで宿代を踏み倒されたと思われるとこじゃったろ」
 するとスタニスラフは、そうではないと言った。
 スタニスラフの話によれば、宿の者たちが心配していたのは宿代ではなく、ミハイルたちが警察に捕まったのではないか、ということだったらしい。
 どういうことかと甚右衛門が訊ねると、昨日、特高を名乗る男たちが来て、宿の者たちにミハイルたちのことを訊いた上、二人の荷物を勝手に調べたとスタニスラフは説明した。
 特高という言葉に、みんなにお茶を淹れていた花江が、ぴくりと反応した。
 千鶴は焦ったが、スタニスラフは話を続けた。
 その男たちは威張っていたので、宿の者たちは面白くなく、男たちの質問に答えなかったとスタニスラフは言った。
 それで宿の者たちはミハイルたちのことが心配になり、今朝二人の無事がわかって喜んでくれたそうだ。
 花江がいる所で特高という言葉が出るのは、甚右衛門も避けたいようだった。
 甚右衛門は特高という言葉は使わないまま、自分たちも気をつけねばならないが、ミハイルとスタニスラフは神戸に戻ったあとも、怪しい者に注意した方がいいと忠告をした。
 ヨーロッパへ行くのはいつになるのかとトミが訊ねると、まだ決まっていないが近いうちにとミハイルが答えた。
 できるだけ早く日本を離れた方がいいと、千鶴が二人に言うと、甚右衛門もトミもうなずいた。
 ミハイルは自分たちより千鶴が心配だと繰り返した。それはスタニスラフも同じで、自分は松山に残りたいと訴えた。
 みんなにお茶を配ろうとしていた花江は、何だって?――と言わんばかりの目をスタニスラフに向けた。
 千鶴はちらりと花江を見てから、そんなことはできないし、そんなことをしたらお母さんが悲しむとスタニスラフに言った。
 千鶴の言葉にはミハイルも同意し、とにかく今日は神戸へ戻ろうと、スタニスラフに言い聞かせた。ただやはり千鶴のことは心配らしく、本当は自分も千鶴のそばにいたいとミハイルは言った。
 そのうちミハイルやスタニスラフが鬼の話を始めるのではないかと、千鶴は冷や冷やしながら、大丈夫やけんと微笑んでみせた。
「そがぁなことより、今は今日の予定を立てん? 今日が最後の一日なんじゃけん」
 千鶴の提案に甚右衛門はうなずくと、ミハイルたちに何かやりたいことはあるのかと訊ねた。
 ミハイルは何もないと答え、スタニスラフはずっと千鶴のそばにいたいと言った。
 お茶を配って台所に戻った花江が、何とか言ってやれと、声には出さずに目で千鶴に訴えている。
「お母さんにお土産は? あぁ、ほうじゃほうじゃ。スタニスラフさん、昨日提灯を土産にしたいて言うておいでたでしょ?」
 土産の話にスタニスラフは乗り気ではないようだった。今日はミハイルの方がイィデズゥネとうなずいた。エレーナに土産を買うということは、神戸に戻るということだからだろう。
「提灯の他にもいろいろ見たらええぞな」
 トミも勧めると、甚右衛門が自分がミハイルたちを土産物の店へ連れて行くと言った。
「ほんまは千鶴に行かせたいとこなけんど、今日は千鶴も忙しいけん、わしが案内しよわい」
 特高警察を心配してと言うよりも、さり気なく千鶴とスタニスラフの間に、距離を置かせようとしているように見える。近所の者たちが押しかけて来たことが、甚右衛門をそうさせたのだろう。

 三人が出かけたあと、千鶴はトミがいる前で花江を呼んだ。それから、実は――と花江に昨夜特高警察に捕まったことを話した。
 トミは驚いたように千鶴を見た。花江も当然驚き、それでどうなったのかと目をいた顔で訊ねた。
 特高警察にはどんな言い訳も通用しないことは、花江だって知っているだろう。千鶴は大声を出して人を呼んだと言った。
 いくら特高とは言っても、外から来た人間が正当な理由もなく、こちらの人間を捕まえるということが許されるはずがない。国が認めても、地元の人間は認めないだろう。
 それに特高の者たちは威張ってはいるが、後ろめたさがあるからこそ人目がない所で、自分たちを捕まえようとしたに違いない。
 それで、できるだけみんなで大きな声を出したところ、男たちは驚いて城山へ登る道へ逃げて行ったと千鶴は話した。
 即興の嘘ではあったが、一応筋は通っている。花江は素直に信じてくれて、千鶴ちゃんは頭がいいと感心してくれた。
 この説明にはトミも納得したようだった。
「まっこと特高いう連中は、愚かな者ぎりぞな」
 トミが特高警察の男たちをこき下ろすと、花江も一緒になって特高警察の悪口を言った。
 花江の反応を見た千鶴は、取りえずはこの言い訳で行こうと、少しは安堵することができた。

     四

 甚右衛門と戻って来たミハイルとスタニスラフは、エレーナのために買った土産を千鶴に見せてくれた。
 それは小さな提灯と絵葉書と人形だった。
 トミは甚右衛門に耳打ちをするように話しかけた。千鶴が花江に説明した内容を伝え、それで行こうという話だ。そうすることにしようと千鶴とトミの間で話を決めていた。
 何度もうなずいた甚右衛門は、わかったと大きくうなずいた。 
 千鶴もミハイルとスタニスラフに、昨夜の鬼の話は他の人には内緒にすることと、みんなで大声を出したために、特高警察の男たちが城山へ逃げたことにして欲しいと頼んだ。
 二人はうなずき、鬼のことは誰にも言わないと約束してくれた。

 みんなで昼飯を食べる前、甚右衛門は使用人全員を集めて、昨夜千鶴たちが特高警察にソ連のスパイ容疑で捕まりそうになった事実を話した。
 そのあとのことは、千鶴が花江に喋ったとおりの説明だった。
 話を聞かされていた花江は驚かなかったが、他の者たちは一人を除いて動揺を隠さなかった。その一人というのは進之丞である。
 執拗な特高警察がいつまた接近して来るかはわからないので、怪しい者には気をつけるようにと、甚右衛門は厳しい口調でみんなを戒めた。使用人たちは声を揃えて返事をした。
 捕まったらどうなるのかと、新吉が心配そうに訊ねた。
 甚右衛門は新吉を見つめると、捕まったら拷問にかけられ、無理やりスパイだと言わされるか、さもなくば殺されると言った。
 新吉だけでなく、他の者も顔から血の気が失せた。
 わかったなと言う甚右衛門に、全員がもう一度声を揃えて返事をした。みんな緊張が走った顔をしていたが、特に進之丞の顔は険しかった。
 花江は小さく手を挙げ、幸子が一人で病院へ向かったことを心配した。甚右衛門はうなずき、ほれはほうじゃと言った。
 今日のところは大丈夫なはずだが、鬼の話はできないからか、甚右衛門は進之丞に幸子の迎えを頼んだ。
 わかりましたと答えた進之丞は、やはり険しい顔のままだった。

 昼食後、幸子が戻るまでの間、ミハイルたちをどうするかということで、甚右衛門たちは話し合った。
 その結果、二人はもう外には用事はないし、不用意に外へ出ることは危ないので、夕方まで家の中にいてもらうことになった。それでも、家には二人にしてもらうことがない。
 それで習字でもしてもらおうかということになり、トミと千鶴が二人に習字を教えることになった。
 トミと千鶴は墨を擦るところから教え、代わる代わるお手本に簡単な字を書いてみせた。それを見て、二人はやってみる気になったようだった。
 正座はできないものの、二人は懸命に練習した。何枚も失敗しながら、お手本に近い字を書けるようになると、満足げに互いの字を見せ合った。習字をする間は、少しでも嫌なことや不安なことを忘れてもらえたように見えたが、本当のところはわからなかった。
 そんなことを何度か繰り返したあと、疲れたのか、あるいはいろいろ考えて気が滅入ったのか、習字はもういいとスタニスラフが言った。それで習字が中止になると、ミハイルは千鶴と自分たちだけで話がしたいと言った。

 千鶴がミハイルたちを離れの部屋へ連れて行くと、二人は興味深げに部屋の中を見回した。
 すると、部屋の隅に置かれた大きな風呂敷包みに、スタニスラフの目が留まった。あれは何かとスタニスラフは訊ねたが、昨夜拾った着物だとは言えるはずがない。そこで、知人に頼まれていた修繕の着物だと説明した。
 着物の修繕ができるのかとミハイルが感心すると、日本では娘はみんな自分で着物を作ると千鶴は説明した。
 また店で働く者たちの着物も、全部自分たちで作ると言うと、二人はとても驚き、自分たちのも作って欲しいと言った。
 今すぐはできないので、あとで母と二人で作り、それを近いうちに送ると言って、千鶴は二人の体の採寸をした。
 二人はとても喜び、ミハイルは神戸の住所を書いた紙を千鶴に渡した。千鶴も自分の家の住所を紙に書いてミハイルに渡した。
 スタニスラフは自分の分も欲しいと言うので、千鶴はもう一枚住所を書いて、その紙をスタニスラフに渡した。
 スタニスラフはふと思い出したように、着物が届くと母が怒るかもしれないと言った。エレーナは夫が自分に隠れて、松山で自分の娘やその母親に会っているとは知らないのである。
 スタニスラフが同じことをロシア語でミハイルに伝えると、ミハイルは困った顔でどうしようと言った。
 千鶴は山﨑機織という店の名前で送るから、ここで着物を注文したと説明すればいいと言った。
 ミハイルは明るい顔に戻ると、それがいいと言った。スタニスラフも安心したような顔になり、明るい雰囲気が広がった。
 しかしミハイルは笑みを消すと、千鶴に話しておきたいことがあると言った。何か特別な話のようで、千鶴は少し緊張した。

「ヴァタァシ、イィマァシタ。オトォサンナ、オジサン、ニホン、アイデマァシタ。オジサン、タズゥケタ、トォサナ、ヒトネ。トォサ、ヴァカァリィマズゥカ」
「とさ? 高知の土佐のこと?」
「コチ? ソレ、ドコデズゥカ?」
「愛媛とおんなし四国にあるんよ」
 千鶴は紙に四国の図を描き、愛媛の場所と高知の場所を教えた。
「ココ、トォサ?」
 高知を指差し訊ねるミハイルに、千鶴はうなずいた。
 ミハイルは高祖父の船が沈み、ここで助けてもらったと言った。他の乗組員はみんな死んだらしい。助かったのは高祖父だけだったようだ。
 だが高祖父はそこの土地の娘と親しくなり、その娘をはらませてしまったと言う。
「オジサン、ヴァタァシ、イシヨー。オジサン、ムズゥメ、ズキ」
 ミハイルは少し照れたように言ったが、そのことが原因で、高祖父はそこを追い出されてしまったらしい。
「オジサン、チィサァナ、フゥネ、マライマァシタ。サレェデ、ウミ、イキマァシタ」
 どうやら高祖父は小舟に乗せられて、海へ放り出されたらしい。
 詳しい話は、所々でスタニスラフがロシア語で聞き取り、千鶴に説明してくれた。
 それによると、小舟で海に出た高祖父は、他の国の船に助けられたあと、無事にロシアへ戻ったと言う。
 その後、高祖父はロシアで商売に励み、結婚もした。そして日本が鎖国を解いて諸外国を受け入れた時に、黒船に乗って再び日本を訪れたそうだ。一番の目的は商売だったが、土佐で自分の子供を身籠もった娘が、どうなったのかが気になっていたらしい。
 ロシアの黒船と聞いて、千鶴は動揺した。前世の自分を迎えに来たのもロシアの黒船だった。
 高祖父を乗せた黒船は、神戸へ向かっていた。それで瀬戸内海を通過する時、潮の流れが悪くて伊予の港へ立ち寄ったそうだ。
「港の名前、わかる?」
 千鶴が訊ねると、ミハイルは顎に手を当てながら言った。
「ミヅゥマ? ミヅゥーマ?」
「ひょっとして三津浜?」
 そうかもしれないとミハイルは言った。
 それは進之丞が言っていた話と同じだ。千鶴の胸はさらに高鳴った。
 高祖父が本当に行きたかったのは土佐だったと思うと、ミハイルは言った。それでも高祖父は伊予が土佐と同じ四国であることが、わかっていたのだろう。ロシアと比べれば、四国なんてちっぽけな島である。伊予も土佐も同じに思えたのかもしれない。
 三津浜で黒船に近づいて来た小舟の男に、高祖父は自分に似た者がいないか、通訳を介して訊ねたのだと言う。
 話を聞く千鶴は、全身の毛が逆立つようだった。
 あきらめ半分で訊ねた問いに、知っているという答が戻って来た時には、高祖父は信じられない想いだったそうだ。 
 それはそうだろう。自分が遭難した所とは別の場所での話だし、娘やその子供に何があったとしても不思議ではないのだ。
 高祖父が教えてもらったのは、風寄に暮らす異国人の娘が、そこの侍の息子と結婚するという話だった。また、その娘の母は死んだが、二人は元は土佐の者だったらしいという話もあったと言う。
 前世の自分の生い立ちについては、千鶴は思い出せていない。しかし、慈命和尚が知っていた可能性はある。
 高祖父が風寄の娘の年齢を訊ねると、自分の子供と同じぐらいであり、これは間違いないと思ったそうだ。
 高祖父は小舟の男を待たせて、同乗していた日本人の船頭に娘に宛てた手紙を書いてもらった。そして金貨と一緒にその手紙を小舟の男に渡し、その娘に届けて欲しいと頼んだと言う。
 手紙の中身は、二日後の夕刻に風寄の海岸へ迎えに行くと言うものだった。連れ去るつもりだったのではなく、ただ娘に会いたかったのだそうだ。
 黒船が三津浜を出航して風寄へ向かうと、娘が浜辺にいた。顔を見て間違いなく自分の娘だと、高祖父は思ったそうだ。
 娘には若い侍が一緒だった。その侍は嫌がる娘を高祖父に委ねると、現れた他の侍たちと戦い始めた。それは娘を連れて行って欲しいという意味なのだと、高祖父は受け止めた。
 高祖父は娘を乗せた小舟で本船へ戻ろうとした。だが、侍たちが追いかけて来た。娘と一緒にいた若い侍は死んだようだった。
 侍たちが近づいて来るので、高祖父は死を覚悟したと言う。
 その時、どこから来たのか、浜辺に巨大な悪魔が現れて、海の中に入って来た。
 悪魔は次々に侍たちを殺し、小舟の近くまで来た。だが悪魔はそこで動かなくなり、じっと小舟の方を見つめていた。
 何故か娘がその悪魔に声をかけると、悪魔も悲しげな声を出し、すぐに海に沈んで行った。
 すると娘も海に飛び込んだ。あっという間のことだった。そして娘がそのまま上がって来ることはなかったと言う。
 千鶴はこの話を聞きながら泣いた。そして、父と自分が不思議な縁でつながれていたのだと知った。
「アクゥマ、ムズゥメ、タズゥケタ。ガンゴ、チヅゥ、タズゥケタ。ダカァラ、ヴァタァシ、シンジルゥネ。ヴァタァシ、チヅゥ、シンジマズゥ」
 千鶴は嬉しかった。また、涙が止まらなかった。
 千鶴は泣きながらミハイルに抱きつくと、ありがとうと言い、そして、ごめんなさいと詫びた。
 ミハイルは何故千鶴が泣いているのか、何を謝っているのか、わからずに当惑しているようだった。
「あのな、お父さんは、お父さんなんよ。お母さんも、お母さん。ほれで、うちは、うちなんよ」
 生まれ変わりが理解できないミハイルに、千鶴が言えるのはそれだけだった。
 父も母も自分も前の世で離ればなれになってしまった。それが今世でやり直しをさせてもらっているのだと、千鶴には思えてならなかった。
 だが、流れる涙には悲しみも混ざっていた。
 自分を助けるために鬼は現れ、そして死んだ。それと同じことが繰り返されているようで、悲しみには大きな不安が絡んでいた。
 一方で、スタニスラフはミハイルの話に懐疑的だった。悪魔が娘を助けたのは、娘が悪魔に魅入られていたからと解釈したようだ。
 表現は違うが、スタニスラフの見方は幸子と似ているようだ。千鶴は鬼に魅入られているのであって、鬼から千鶴を救う必要があるというものだ。そして、そのためにもスタニスラフは千鶴に洗礼を受けさせたいようだった。
 何を言ってもわかってもらえそうにないので、千鶴はスタニスラフが言いたいように言わせておいた。
 昨日、あれほど心を惹かれたはずなのに、今ではスタニスラフは別人のように見えていた。

     五

 幸子が仕事から戻って来ると、みんな一緒に夕飯を済ませた。
 それから陸蒸気で高浜港へ向かったが、見送りに千鶴と幸子の二人が同行することになった。
 甚右衛門は古町停車場までは一緒に来た。陸蒸気が来た時には、じろじろと客車の中をのぞいて、怪しい者がいないかを確かめた。
 特高警察はいないはずだが、念のためにという感じだった。
 千鶴たちが乗り込んだあと、陸蒸気が出発の汽笛を鳴らすと、駆け込みで一人の男が乗って来た。
 男が乗ったのは千鶴たちとは別の車両で、幸子もミハイルたちも気づいていない。しかし、千鶴だけはその男が乗り込んで来ることがわかっていた。
 男は千鶴たちが家を出た時から、かなり間を取って付いて来ていた。顔を隠すために深くかぶった鳥打ち帽は、祖父の物に違いない。着物も山﨑機織のものだ。
 怪しい男であれば、祖父が気づくはずである。歩く姿や背格好から、男は進之丞だと千鶴は見抜いていた。
 気づかれているのも知らずに、こそこそしている進之丞は全くもって滑稽であり、ずっと悲しんでいた千鶴を微笑ませてくれた。
 恐らく祖父に頼まれたのであろうが、昨夜もあんな感じで、ずっと自分を見守ってくれていたのかと思うと、千鶴はまた涙が出そうになった。
 陸蒸気の客車に乗っている時も、港に着いてからも、進之丞は四人に近づくことなく、ずっと離れた所にいた。それでミハイルもスタニスラフも、山﨑機織にいた男が一緒にいるとは気づかないままのようだった。
 船を待つ間、四人は何も喋らず、黙って海を眺めていた。
 ミハイルは幸子の肩を抱き、スタニスラフは遠慮がちに千鶴のすぐかたわらに立っていた。
「サチカサン、チヅゥ、アエマァシタ。タテモ、ヨカタデズゥ」
 そう言ったものの、ミハイルは松山を去りたくない様子だった。
 幸子はミハイルに身を委ねながら言った。
「千鶴から聞いたけんど、着物すぐにこさえて送るけんね」
「オミセナ、ナマエデ、アネガイシマズゥ」
 幸子はミハイルの顔を見ると、噴き出した。
「ほうじゃね。ほうじゃったほうじゃった。うっかり自分の名前で送るとこじゃった」
「エレーナ、タテモ、キビシィネ。サチカサン、ナマエ、ミルゥ。エレーナ、ツゥノォ、ダシマズゥ」
 ミハイルは両手の人差し指を頭に立てて、鬼の真似をした。
 それを見て幸子は笑ったが、その笑いは短かった。ミハイルは当惑した様子で、ゴメナサイと言った。
 スタニスラフはようやく千鶴の肩を抱き、ミハイルたちとは少し離れた所へいざなった。
 他の男に肩に抱かれる姿を、進之丞に見られていると思うと、千鶴はつらかった。それでも最後の別れの挨拶なので、スタニスラフに素直に従うしかなかった。
千鶴チヅゥナ、ズゥキナ人、誰デズゥカ?」
 スタニスラフは率直に訊ねた。
 千鶴は後ろを振り返ると、離れた所でそっぽを向いている進之丞を指差した。
「あのお人ぞな。帽子を被りよるあのお人が、うちが好いとるお人ぞな」
 自分を指差されていることに気づいた進之丞は、慌てた様子で姿を消した。
 それを見て千鶴がくすくす笑うと、スタニスラフは千鶴が適当な人物を指差したと思ったらしい。
 ふっと笑うと、千鶴チヅゥヴァ、優シィ人デズゥネ――と言った。
千鶴チヅゥヴァ、ボクゥニ、心配サセナァイ、思テマズゥ。ダカァラ、嘘ツゥイテマズゥ」
「嘘? うちは嘘なんぞついとらんぞなもし」
千鶴チヅゥヴァ、ボクゥガ、アキラメルゥ思テ、嘘ツゥイテマズゥ。デモ、モウ、嘘ツゥカナァイデ、イィデズゥ。僕ヴァ、千鶴ガ、大ズゥキ。コノ気持チ、変ヴァラナァイ。僕ヴァ、必ズゥ、千鶴、ムゥカエニ、来マズゥ」
 どう言えばわかってもらえるのかと、千鶴は頭を悩ませた。
 それでも、もうすぐお別れだ。まぁいいかと思い直すと、千鶴はスタニスラフに微笑んだ。最後は気持ちよく送り出してやりたかった。
 千鶴の微笑みに気をよくしたのか、スタニスラフは千鶴の顔に、自分の顔を近づけて来た。
 千鶴は慌てて横を向き、ミハイルと幸子に声をかけた。
「お父さん、お母さん、そろそろ出発やないん?」
 もう船は桟橋に着いており、千鶴たちの背後で静かに出港を待っている。すでに船に乗り込んだ乗客もいるが、千鶴たちのように桟橋の上で、知人や家族と別れを惜しむ者もいた。
「大丈夫。船が出る時には銅鑼どらが鳴るけん」
 幸子が大きな声で言った。
 千鶴は途方に暮れたような顔のスタニスラフを振り返ると、ほうなんやて――と言って笑った。

 いよいよ銅鑼が鳴ると、ミハイルとスタニスラフは順番に、幸子と千鶴を交互に抱きしめた。
 スタニスラフは千鶴を抱きしめると、絶対に迎えに来ると言い、軽く千鶴の額に口づけをした。
 千鶴は顔が熱くなるのを感じながら笑顔で応じた。心の中では、進之丞に見られていないことを祈っていた。
 続いてミハイルに抱かれた千鶴は、お父さんと言った。
「お父さんはな、うちが産まれる前から、うちのお父さんやったんよ」
 ミハイルが当惑気味に笑みを浮かべると、何を言うとるんねと幸子が言った。
「お母さんもついぞな」
ついて?」
「お母さんも、うちが産まれる前から、うちのお母さんじゃったいうことぞな」
「全く妙なことぎり言う子じゃねぇ」
 幸子は呆れた顔で笑ったが、何だか嬉しそうにも見えた。
 早く乗船するよう船員に促され、ミハイルたちは名残なごり惜しそうにしながら船に乗り込んだ。
 二人はすぐに甲板へ移動し、他の乗客たちと一緒に手を振った。
 母と共に手を振り返しながら、千鶴は父に会えたことや、スタニスラフの気持ちを有り難く思った。スタニスラフが自分をあんなに求めてくれたことが、千鶴には信じられなかった。
 また、晩餐会や舞踏会の記憶が頭に浮かぶと、あの時の高揚した気分や、スタニスラフへ心が動いたことが思い返された。
 進之丞のことを考えると、あれは恥ずべきことだったし、許されることではなかった。
 だが、あのような気持ちになったのは事実であり、悔やみはしても否定することはできなかった。
 もし風寄で進之丞に出会うことがなければ、あるいは、そもそも風寄の祭りへ行くことがなかったならば、本当はスタニスラフと一緒になることが自分の定めだったのだろうかと、そんな考えがふと千鶴の頭をぎった。
 しかし、すぐに後ろめたくなった千鶴は、見送り客の中に進之丞の姿を探した。だが、どこにも進之丞はいなかった。
 ――お前がまことの幸せになったなら、がんごはお前から離れるんが定めぞな。
 頭の中で進之丞の言葉が聞こえた。
 新聞記事のことを進之丞は知っている。それについて千鶴が何も言い訳をしていないから、千鶴とスタニスラフが久松伯爵夫妻の前で結婚を誓い合ったと信じているに違いない。
 千鶴は焦った。
 進之丞は千鶴が幸せをつかんだと見て、これで安心だと思ったはずだ。もう自分の役目は終わったのだと、このまま姿を消すつもりだろう。いや、もうすでにいなくなったのかもしれない。
 千鶴は船の二人に手を振りながら、何度も進之丞を探した。心は進之丞を探して辺りを走り回っていた。
 船が徐々に離れて行き、桟橋で手を振る人たちの数が減って来ると、千鶴は急いで高浜停車場へ向かった。
 まだミハイルたちに手を振っていた幸子は、怪訝けげんそうに千鶴を見た。だが千鶴は振り向かなかった。
「進さん!」
 千鶴は人混みをかき分けながら叫んだ。しかし、進之丞は見つからない。
「進さん!」
 周りの者たちが妙な顔で振り返ったが、千鶴は叫ぶのをやめなかった。だが、どこにも進之丞はいない。
 千鶴は立ったまま泣き出した。近くの人がどうしたのかと訊ねても、千鶴は泣くしかできなかった。
「進さん、何でおらんなったんよ……。おら、まだ幸せになっとらんのに、なしておらんなったんよ……」
 子供のように泣く千鶴から、人々は距離を置くように離れて行った。千鶴が独りぼっちで泣き続けていると、後ろから懐かしい声が聞こえた。
「千鶴」
 振り返ると、帽子を脱いだ進之丞がそこに立っていた。
「千鶴、どがぁした? 大丈夫か?」
「進さん!」
 千鶴は飛びつくように進之丞に抱きつくと、わぁわぁ泣いた。
「ごめんな……、ごめんな……」
「何を謝るんぞ?」
「ほやかて、おら、おら……」
「お前は何も悪いことなんぞ、しとらんやないか」
「おら、抜けさくじゃった。進さんのこと、何もわかろうとしとらんかった」
「千鶴……」
「お願いやけん、ずっとおらのねきにおって。おらから離れたら嫌じゃ。お願いやけん、約束してつかぁさい。絶対あげなとこへは戻らんて、約束してつかぁさい」
「千鶴、お前……」
 進之丞の顔が強張った。千鶴は続けて言った。
「おら、進さんががんごでもかまんけん、ずっとねきにおって欲しいんよ。他は何もいらんけん、進さんにずっと傍におって欲しいんよ」
「……気づいてしもたんか」
 千鶴が黙ったまま泣いていると、進之丞は天を仰いで、抜かったわ――とつぶやくように言った。
「お不動さま、あしはしくじりました。せっかく千鶴の姿を見せていただいたのに、あしは全てを台無しにしてしまいました」
 進之丞は目を閉じたまま涙を流し、不動明王に詫びた。
 千鶴は濡れた顔を上げると、何を言っているのかと訊ねた。
 進之丞は涙を拭くと、全てはお不動さまのご慈悲によるものだと言い、それを自分は台無しにしてしまったと唇を噛んだ。
「千鶴」
 母の声が聞こえ、千鶴は進之丞から離れて涙を拭いた。
 振り返ると、桟橋から戻って来た幸子が心配そうにしている。
「あら、忠さんやないの。どがぁしたん?」
「いや、その……」
 進之丞が口籠もると、幸子は進之丞が持つ帽子を見て笑った。
「おじいちゃんに頼まれたんじゃね。うちらを特高から護るよう言われたんじゃろ?」
 うなずく進之丞に、忠さんがいれば安心だと幸子は言った。
「特高がおったら、どがぁしろて言われとるん?」
「はぁ、海に投げ込め言われとります」
 あははと笑った幸子は、ほんまは違うんよ――と言った。
「特高が心配じゃったら、おじいちゃんは自分でここへおいでとるわね」
 母の明るさは父と再会できたからだろうか。いや、そうではないと、千鶴はすぐに思い直した。
 今は特高警察はいないし、鬼のことも母は本当は心配していないのだろうと千鶴は考えた。そうでなければ、こんな笑顔を見せるはずがない。
「ほれじゃあ、なして……」
 当惑する進之丞に幸子は言った。
「あんたらが一緒におれるようにしてくれたんよ。ほれに、万が一のことがあったとしても、忠さんが一緒じゃったら安心じゃて思いんさったんじゃろねぇ。直接そがぁ言うたらええのに、おじいちゃんは素直やないけん」
 当惑する進之丞に、ほらな――と千鶴は言った。
「これが、お不動さまが決められた定めぞな」
「何やのん、お不動さまて?」
 幸子が眉根まゆねを寄せた。千鶴は何でもないと言い、戸惑う進之丞に身を寄せた。
 ――進さんががんごであろがなかろが関係ない。二人が一緒になることこそが、お不動さまが決めんさった定めなんよ。
 千鶴は何度も心の中で、そうつぶやきながらうなずいた。