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桟橋の二人


     一

 朝のたくをするために離れの部屋を出た千鶴ちづは、渡り廊下で立ち止まって奥庭を眺めた。奥庭は昨夜から降り続く雨にれている。
 昨夜、雨にまぎれて何者かが奥庭に侵入した音を千鶴は聞いた。そのあと勝手口の戸が静かに開く音が聞こえ、続けて戸が閉まる音がした。
 母は寝息を立てていたので、庭の音はわからない。気がついたのは千鶴だけだ。
 音を聞いた時、千鶴は布団をかぶって泣いた。今は涙は止まったが、どうしてこうなってしまったのかと、半分放心状態で雨を眺めている。
「何しよるんね? よせんと、みんなが起きて来てしまうで」
 あとから出て来た母にうながされて、千鶴はおもへ入った。廊下の脇にある茶の間は障子しょうじが閉めきられている。中で寝ているのは父とスタニスラフだ。
 千鶴がいなくなったあとの昨夜の話し合いは、何の進展もないまま早めに切り上げられた。しかし夜も遅いし、千鶴が心配な父たちは宿へは戻らなかったそうだ。
 千鶴たちは物音を立てないようにしながら、茶の間脇の廊下をそっと通り抜けて静かに土間へ降りた。
 台所にはすでにはながいて、おくどに火を入れていた。二人に気づいた花江は、おはようございますと小声で言った。
 茶の間の様子や、上がりかまちの下に置かれた靴を見て、花江は茶の間にロシアの客人がいるとわかったらしい。
 楽しかったかい?――と花江は目を輝かせて千鶴たちの顔を見比べた。千鶴もさちも笑顔を繕い、楽しかったと答えた。だが頭のいい花江はすぐに笑みを消し、何かあったのかと言った。二人に未だに残った動揺が見えたのだろう。
 結局、何かがあったことを千鶴たちは認め、くわしい話はあとですると言った。今はとにかく朝飯の用意をしなければならない。
 花江が竈に戻ると、幸子は米をぎ、千鶴は味噌みそしるの鍋を掛ける七輪しちりんに火をおこした。
 少しするとでっの三人が、目をこすりながら階段を下りて来た。その後ろには進之丞しんのじょうがいた。千鶴は思わず進之丞から顔を隠して下を向いた。
 本当は進之丞にびねばならないのに、千鶴は進之丞の顔をまともに見られなかった。何かを言おうとすれば、そのまま泣き崩れてしまいそうだった。
 亀吉かめきちたち三人は千鶴や幸子を見つけるなり、朝の挨拶も忘れて、昨日は楽しかったかと口をそろえてたずねた。しかし進之丞は普段と変わりなく、おはようござんしたと言っただけで何も訊かなかった。
 七輪に鍋を載せた千鶴は、そのまま顔を上げずに小声で挨拶を返した。
 花江と一緒に進之丞に声をかけた幸子は、話はあとでするからと亀吉たちに言って、ご飯の釜を竈の火に掛けた。

 茶の間の障子がさっと開いた。
「アハヨガザイマズゥ」
 顔を出したのはスタニスラフだ。その後ろには、ミハイルの姿もあった。
 亀吉たちはとても驚いたが、進之丞は平然としていた。亀吉たちの応対はぎこちなかったが、進之丞は普通に挨拶を返した。
 幸子と花江は二人に顔を向けておはようござんしたと言ったが、千鶴はちらりと見ただけで、やはり下を向いたまま小声で挨拶をした。
 もうスタニスラフに対して、昨日みたいな気持ちはなかった。今あるのはばんすいそうで自分が見せたであろうれんな言動への腹立たしさと情けなさ、そして進之丞に対する申し訳なさだけだった。
 行くぞと亀吉たちに声をかけると、進之丞は雨が降る奥庭へ出て行った。
 進之丞はだいになってからも、朝の水みを手伝っている。進之丞が外へ出たので、亀吉たちも慌ててそのあとを追いかけた。
「この人たち、たくさん食べるんだろ? 朝はあたしたちと同じ物でも構わないのかい?」
 花江が訊ねると、ほうじゃねぇと幸子は小首をかしげた。一緒に食べるとわかっていれば、前もって準備ができたが、今朝は何も用意していない。
「昨日うた魚のものがあろ? ほれを焼いてやんなさいや」
 いつの間にか板の間の奥の寝間ねまから出て来たトミが、花江たちに声をかけた。
 花江と一緒にトミに挨拶をした幸子は、そがぁさせてもらおわい――とほっとした顔で花江に言った。
 板の間で味噌汁の具の菜っ葉を刻んでいた千鶴も、顔を上げて祖母に挨拶をした。トミは心配そうに、大丈夫かと千鶴に声をかけた。
 大丈夫ぞなもしと、千鶴は笑顔を見せた。けれど、包丁がいつもみたいにトントンと動かない。
 様子を気にした花江が千鶴を振り返ると、土間へ降りたスタニスラフが千鶴のそばへ来て、横から千鶴の顔をのぞき込んだ。千鶴が驚いてスタニスラフから顔を離すと、スタニスラフはさらに千鶴に体を寄せた。
 花江はけんしわを寄せたが、スタニスラフの目には入らない。千鶴の肩に手を回したスタニスラフは、これは何をしているのかと訊ねた。千鶴は味噌汁を作っていると説明しながら、さりげなくスタニスラフの手を肩からはずした。
 スタニスラフは自分も何か手伝うと言った。千鶴は必要以上に笑みは見せずに、何も手伝ってもらうものはないから、そちらで座っててほしいと頼んだ。にもかかわらず、スタニスラフは千鶴の隣から動こうとしなかった。
 しばらくして菜っ葉を刻み終えた千鶴が包丁を置くと、スタニスラフはいきなり千鶴を自分の方へ向けて抱きしめた。千鶴は思わずスタニスラフを押し返すと、やめてつかぁさいと言った。
 昨日とは異なる千鶴の様子にスタニスラフは当惑した。昨夜、千鶴には好きな人がいると幸子が話したのに、まだ本気にしていないらしい。
 スタニスラフの行動にトミは顔をしかめた。幸子と花江も驚いたあと、すぐに険しい顔になった。
 勝手口には、水桶みずおけを抱えた亀吉が目を丸くして立っている。そこへ続けて入って来た新吉しんきちが、やはり水桶を抱えたまま、何があったのかという顔をした。
「みんなが見とりますけん、そがぁなことはせんでつかぁさい」
 千鶴が困惑しながら言うと、スタニスラフは周りを見た。
 スタニスラフと目が合うと、亀吉と新吉はすぐに目をらした。花江とトミはスタニスラフをにらみ、幸子はスタニスラフに千鶴を抱くなときびしく注意した。
 そこへ進之丞が豊吉とよきちと一緒に入って来た。
「どしたん?」
 妙な雰囲気を感じたのか、豊吉がみんなに声をかけた。しかし、亀吉も新吉も千鶴たちを前にして説明はできない。花江は進之丞をづかうように見るばかりだ。
「スタニスラフ!」
 ミハイルが強い口調でスタニスラフを呼ぶと、ロシア語で何やら注意した。スタニスラフはすごすごと茶の間に戻ると、少し奥にしゅんとなって座った。
 ミハイルは幸子と千鶴に両手を合わせながら頭を下げた。邪魔をして申し訳ないと言いたいようだ。
 幸子も千鶴も笑みを返したが、千鶴は気持ちが落ち着かない。
 スタニスラフをその気にさせたのは自分である。そのスタニスラフに人前で恥をかかせてしまったことには罪悪感を感じている。それでも、もう絶対に進之丞を悲しませる真似はしたくなかった。自分の本当の想いを進之丞に伝えたかった。
 険悪な雰囲気を変えるように、花江が亀吉たちに声をかけた。
かめちゃんたち、水を瓶に移したらさ、七輪をもう二つばかり用意しておくれよ。魚の干物を焼くからさ」
「魚の干物?」
 新吉が目を輝かせた。するとトミが、お客の分だけだと言った。
 がっかりした新吉に、当たり前ぞなと亀吉が冷たく言った。しかし、亀吉も本音では残念だったらしい。ちらりとミハイルたちに向けた目がうらやましげだ。

     二

 花江が竈の火を見ている間に、幸子は茶の間でミハイルたちが使った布団を畳んだ。
 そこへ二階から辰蔵たつぞうしちが降りて来た。二人はミハイルたちに気がつくと、亀吉たち同様に驚いた。
「なして、お二人がここにおいでるんぞなもし?」
 遠慮がちに訊ねる辰蔵に、昨夜ここでみんなでしゃべっていて、宿へ戻るのが遅くなったから泊まってもらったとトミが言った。
 ほうですかとうなずいた辰蔵は、千鶴たちが戻った頃合いを教えてもらい、妙なことだと言った。
昨夜ゆんべは千鶴さんらがお戻りになるんを、上で弥七らと一緒に待ちよったんです。ほやのに、ぃついたら自分の部屋で寝よったんです。自分がいつ部屋にんたんか全然覚えとらんので、何や妙な気分ぞなもし」
 弥七も辰蔵がいつ部屋へ戻ったのかがわからなかったと言い、自分も知らない間に寝ていたと話した。
 すると花江も、自分も同じだと首をかしげながら言った。
「あたしも萬翠荘の話を聞かせてもらおうと思ってさ。起きて待ってたんだよ。だけど気がついたら、もう朝でさ。寝床にいたんだ。いつ寝ちまったのか自分でも覚えてなくてさ。ほんと不思議だよ」
 ほうよほうよと七輪に火を熾しながら亀吉が話に加わった。亀吉たちも千鶴たちの戻りを待っていたはずなのに、やはりいつの間にか寝てしまったそうだ。
 みんなは不思議だとうなずき合っているのに、進之丞は話に加わらず、これから焼く魚の干物を持ったまま、黙って豊吉の火熾し作業を眺めている。
 あんたら――トミは使用人たちの顔を見まわしながら言った。
昨夜ゆんべは妙な声が聞こえんかったか?」
 鬼の咆哮ほうこうのことだろう。お母さん――と幸子がまどいながらトミに声をかけた。余計なことは喋るなと言いたげな顔だ。
「妙な声? 妙な声て、どがぁな声ぞなもし?」
 辰蔵がき返すと、聞こえとらんならかまんとトミは言った。
「まぁそがぁなことで、この二人は昨夜ゆんべはここに泊まりんさったんよ」
 トミはげんそうな辰蔵を無視して、この話を終わらせた。
 昨夜、二階で何があったのかはわからないが、みんなが知らない間に眠ってしまったのは、恐らく進之丞のわざだと千鶴は思った。
 千鶴は七輪に載せた鍋を新吉と一緒に眺めながら、ちらりと進之丞を見た。進之丞はえて千鶴の方を見ないのか、豊吉が上手じょうずに火を熾したのをしきりに褒めている。

にぎやかじゃの」
 とても疲れた顔の甚右衛門じんえもんが起きて来た。
 トミは豊吉を呼ぶと、店先から新聞を取って来させた。その間に進之丞は干物の魚を焼き始めた。
 幸子は茶の間に畳んだ布団を、急いで甚右衛門たちの寝間へ片づけた。入れ替わって茶の間へ移った甚右衛門は、二言三言ミハイルたちに声をかけ、豊吉が持って来た新聞を畳の上に広げた。
 ミハイルたちは日本の新聞は読めない。簡単な言葉なら読めるが、新聞の文章はむずかしいようだ。二人は新聞をのぞき込みながら、昨晩のことが書いてあるのかと甚右衛門に訊ねた。
 甚右衛門は二人に待つように言うと、しばらく記事を順に目で追い、ある記事を見つけて指差した。
「ここに昨夜ゆんべの萬翠荘のことが書かれとる」
 そこには萬翠荘の記事が、踏会とうかいの絵付きで掲載されていた。絵に描かれているはくしゃく夫妻と一緒に踊る二組の男女は、ミハイルと幸子、スタニスラフと千鶴に違いなかった。
 文章は読めなくても絵はわかる。ミハイルはスタニスラフと新聞を食い入るように眺め、戻って来た幸子にも見せた。絵を見た幸子は恥ずかしそうに微笑んだが、笑顔には少し困惑が混ざっている。
 何と書かれているのかとスタニスラフが訊ねると、甚右衛門は記事を一文ずつ読み上げた。幸子はそれを簡略化して二人に伝えた。
 記事には、にち戦争の時に結ばれたロシア兵と日本人看護婦、その子供たちの感動的な再会の場として、ひさまつさだこと伯爵が萬翠荘を提供し、親子のためにばんさんかいおよび舞踏会を開催されたとあった。
 中身としては、伯爵を持ち上げる内容が主ではあったが、千鶴たちの名前はちゃんと記載されていた。読み上げられた名前を聞いたミハイルたちは少し微笑んだ。
「血がつながっていない二人の子供たちは、伯爵夫妻の前で――」
 そこまで読んで読んで言葉を切った甚右衛門は、新聞に顔を近づけて続きの文章を黙読し、これはどういうことかと幸子に問うた。
 幸子は甚右衛門が示した文に目を向けると、顔を引きつらせた。
「これは何かの間違いぞな。こがぁなことはしとらんけん」
 何の話をしているのかと、ミハイルたちが幸子に訊ねた。
 幸子は困惑顔で、記事に間違いがあったとだけ言った。何がと聞かれても、言葉を濁して答えなかった。
 花江たちが幸子を振り返って見ている。進之丞も干物を焼きながら幸子の方に顔を向けていた。
 千鶴は不安になった。萬翠荘でのことはよく覚えていない。だけど、スタニスラフは自分たちがみんなの前で、互いの気持ちを伝え合ったみたいに言っていた。そんなことが書かれていたらと思うと、何も考えられなくなった。
 千鶴さん――と新吉が声をかけた。気がつくと、七輪の鍋がぼこぼこと沸いていた。

     三

 朝飯の間、千鶴たちは誰もしゃべらなかった。
 一方、板の間は萬翠荘ばんすいそうの話が新聞に載ったことに加え、亀吉たちが千鶴や幸子から聞かせてもらった萬翠荘の中の様子や、ごそうや踊りの話などで盛り上がっている。
 進之丞の気持ちを考えると、そんな話はやめてほしいと千鶴は思った。そんな千鶴の苦悩に構わず話は続いたが、いつもなら聞こえるはずの進之丞の声が聞こえない。進之丞は黙って話を聞いているのだろう。千鶴はつらかった。
 食事の途中で、千鶴は母から新聞の記事を見せてもらった。不安な気持ちで記事を読むと、祖父が口にできなかった文章があった。それを見た千鶴は血が凍った。
 そこに書かれてあったのは、血がつながっていない二人の子供たちが、伯爵夫妻の前で結婚を誓い合ったというものだった。
「うち、こがぁなこと言うたん?」
 あせった千鶴は小声で幸子にたずねた。幸子は甚右衛門たちを気にしながら潜めた声で、こがぁには言うとらん――と言った。
「ほんでも、ぃたことは言うたんよ。うちが止めても聞こうとせんでな。まっことおうじょうしたわいね」
 声を潜めても、甚右衛門たちには幸子の声が聞こえている。千鶴は祖父母に目を合わせられずに下を向いた。
「あんたは完全に酔っ払っとったけんな。なぁんも覚えとらんのじゃろ?」
 千鶴はうなずきながら胸がうずいた。
 甚右衛門とトミは何も千鶴に言わなかったが、ため息をつかんばかりの表情だ。昨夜のスタニスラフの言動はそういうことかと思っているのだろう。
 ちらりと千鶴と目が合ったミハイルは、気にするなという感じで微笑みながら小さく首を横に振った。千鶴と幸子が何を喋っていたのかがわかっているらしい。
 ミハイルは千鶴とスタニスラフを引き合わせるために、松山まつやまを訪れたのではない。千鶴が萬翠荘で酒を飲み過ぎていたのも知っている。だから、スタニスラフとのことが間違いであったとわかっても、少しも残念がる様子はなかった。
 しかし千鶴との結婚を信じていたスタニスラフには、間違いでしたでは済まない話だ。
 スタニスラフは新聞記事に何と書かれているのかと千鶴に訊ね、千鶴が黙っていると幸子を問いただした。記事を確かめて、自分たちが互いを求め合ったという事実を、今一度甚右衛門たちの前で訴えるつもりなのだ。
 幸子は同じ説明を繰り返し、それ以上のことをスタニスラフに言わせなかった。ミハイルもこの話はおしまいと言い、味方のいないスタニスラフは口を閉じざるを得なかった。
 これで取りえずはこの話は終わったが、新聞記事が消えるわけではない。いずれ記事が進之丞の目に留まるのは時間の問題だ。そのことを考えると、千鶴は食事が喉を通らなくなった。

「どがぁなったんじゃろね」
 トミが小声でぽそりと言った。
 ミハイルとスタニスラフが顔を上げると、幸子は声を潜めて、四人の男たちのことだと言った。
 ミハイルはむずかしい顔を見せたが、スタニスラフは手刀で自分の喉を切る仕草をした。
「いずれ、わかろ」
 甚右衛門は言葉少なに答えると、飯を口に放り込んだ。甚右衛門の表情は、そんなことなど知りたくもないと言っている。
 ミハイルは特高とっこう警察が今後どう動くのかを気にしていた。心配しているのは自分たちではなく、千鶴や幸子のことだ。鬼については昨夜の千鶴の話を受け入れたのか、ここでは触れようとしなかった。
 一方のスタニスラフは、特高警察よりも鬼のことが頭から離れないみたいだ。千鶴を教会へ連れて行き、洗礼を受けさせるべきだと繰り返した。
 甚右衛門たちはうんざりした顔をし、ミハイルでさえもがい加減にしろと言いたげにスタニスラフを見た。
 スタニスラフが口をつぐむと、ほれにしてもや――と甚右衛門が話を戻した。
「このままじゃ済むまい。あの連中があとで見つかろうが見つかるまいが、また誰ぞがこうから調べにう」
 トミは不安げに言った。
「そがぁなったら、またこの子らをつらまえよとするんじゃろか」
「恐らく、何があったんかを知る意味でも、千鶴らから話を聞き出そとすらい」
「ほれは、ミハイルとスタニスラフにも言えることやわいね」
 幸子が心配そうにミハイルたちを見ながら言った。
 ほうよな――とうなずいた甚右衛門は、特高警察の本拠地は二人が戻る神戸であることを指摘した。
「わざにつらまりに行くようなもんやけんな。神戸にんても、特高警察にはぃつけんといかんぞな」
 甚右衛門がミハイルたちに忠告すると、トミも続けて言った。
「あんたらはよ日本を立ち去った方がええ。一日でもよにな」
 幸子が二人の言葉をわかりやすく言い換えると、ミハイルはまどいながらうなずいた。しかし、スタニスラフは千鶴を放っておけないと言った。
「千鶴をどがぁするか考えるんはわしらの仕事で、おまいさんの仕事やない」
 昨夜の幸子と同じことを、甚右衛門はきっぱりと言った。スタニスラフはミハイルを見たが、ミハイルは何も言わなかった。

 にぎやかだった板の間が、いつの間にか静かになっていた。みんな茶の間の話に耳を傾けているのだろう。
 甚右衛門が大きくせき払いをすると、ごちそうさまと言う声が板の間から聞こえた。みんなが仕事を始める時間であり、幸子も病院の仕事へ向かわねばならなかった。
 幸子は箱膳はこぜんに残っているものを急いで口に運びながら、ミハイルたちに神戸へ帰る船の予定を聞いた。スタニスラフは帰りたくないと言い続けていたが、ミハイルは夜の八時四十分の船に乗ると言った。
 甚右衛門は、夕方もう一度みんなで食事をしてからぬればいいと言った。それには幸子も賛同した。また甚右衛門はミハイルたちに、一度どうへ戻って宿を引き払ったあと、ここへ戻って来るようにうながした。
 昨夜ミハイルたちは宿へ戻らなかった。荷物を部屋に置いたままとはいえ、宿代を踏み倒したと思われる恐れがあった。

 外はまだ雨が降り続いている。幸子はミハイルと軽く抱き合ったあと、ミハイルに傘を持たせた。
 二人を見ていたスタニスラフは期待の目を千鶴に向けたが、千鶴は黙ってスタニスラフに傘を手渡し、自分の傘を持って表に出た。二人をまち停車場まで案内するのだ。
 昨日、特高警察に捕まりそうになったのだから、千鶴にせよミハイルたちにせよ、油断はできないはずだ。ところが、甚右衛門たちは特高警察を心配する素振りがない。
 えて口にはしないが、特高警察は鬼がみんな始末したと誰もが考えているようだ。

     四

 ミハイルたちを見送ったあと、千鶴が家に戻って来ると、店の入り口に人だかりができていた。傘を差している者もいれば、雨にれっ放しの者もいる。男も女も入り交じっての人垣だ。見ると、店の中にも多くの者が入り込んでいる。
 何事かと思いながら近づいて行くと、一番後ろにいた男が千鶴に気づいて振り返り、んて来たぞな――と叫んだ。
 男は近所のかすり問屋の主人で、千鶴の方へ駆け寄って来た。他の者たちも先を争ってあとに続き、千鶴は雨の路上で人々に取り囲まれた。みんな千鶴を知る近所の者たちだ。
「千鶴ちゃん、結婚するんやて?」
「おめでとさん。ロシアにはいつ行くんや?」
はくしゃくさまご夫妻が、お仲人なこうどしてくんさるん?」
 いきなり質問攻めにされて、千鶴はうろたえた。
「ちぃと待っておくんなもし。みなさん、何の話をしておいでるんぞなもし?」
「何て……、千鶴ちゃん、おとっつぁんと一緒に来た、あの若いロシア人と結婚するんじゃろ? 伯爵ご夫妻の前で誓いうたて、ちゃんと新聞に書いてあったぞな」
 しゃべったのは山﨑機織やまさききしょくの隣にある紙屋の女房だ。小学校に上がった頃まで冷たい態度を見せていたが、毎日挨拶を続けているうちに、今では向こうから声をかけてくれるようになった。他の者たちも似たようなものだ。
 近所の人たちがここまで気にかけてくれていたことに千鶴は当惑した。だが本当の当惑はそこではない。みんなが口にしている言葉だ。
 これだけの者が集まって、千鶴とスタニスラフの婚約を祝いに来たのだ。記事の話は店の者全員が知っただろう。店の中には、まだ進之丞もいるはずだ。
 千鶴は血の気が引いたが、まずはこの場を収めねばならなかった。
 結婚なんかしないと千鶴は必死にみんなに説明し、自分はまつやまに残るし、スタニスラフは今晩の船でこうに戻り、そのあとはアメリカへ行くと言った。
 紙屋の女房も他の近所の者たちも、やっと納得してくれたが、がっかりしたようでもあった。
 千鶴はみんなが気にしてくれたことを感謝しながら頭を下げると、何事もなかった顔で店に戻った。頭の中は動揺でぐちゃぐちゃだ。

 店に入ると、辰蔵と弥七が驚いた顔をしていた。やはり記事のことが知れたようだ。
 辰蔵は千鶴の婿になるものと心を決めているはずで、千鶴がスタニスラフと結婚するという話は寝耳に水だ。弥七にしても、何が起こったのかがわからず混乱している。
 辰蔵は千鶴に真偽を確かめようと思ったみたいだが、あまりのことに口を開けたまま声が出ない。弥七はただぼうぜんと千鶴を見るばかりだ。
 しかし進之丞は笑顔で、お戻りたか――と千鶴に声をかけた。千鶴とスタニスラフとの仲を認めたということだろう。そして、黙って消え去るつもりなのだ。
 千鶴は言い訳をしたかった。お酒を飲み過ぎたための間違いで、スタニスラフと結婚なんかしないと言いたかった。だけど、それは辰蔵に対する言い訳になってしまう。
 結局は何も言えないまま、千鶴は進之丞にだけ小さく頭を下げて家の中に入った。だが、それもスタニスラフに心移りしたことの後ろめたさだと思われたかもしれなかった。

 雨がようやく上がった頃、ミハイルたちはどうから戻って来た。
 早速さっそく二人は茶の間へ通されたが、スタニスラフは部屋へ上がる前に、千鶴のそばへ来て千鶴を軽く抱いた。まだ千鶴をあきらめきれないらしい。
 千鶴はもうやめてほしいと思った。でも今日でお別れなので、あまり嫌な態度は見せないようにしていた。
 けれど、花江はスタニスラフのれ馴れしさに眉をひそめていた。
 近所の人々が集まったことで、花江にも新聞記事の中身が知れた。どういうことかと責めるようにただされて、千鶴は昨夜は酔っ払ってしまって口が軽くなったと弁解した。
 だけど新聞に書かれているようなことは言ってないという言い訳を、花江は一応納得してはくれた。それでも誤解を招くようなことはしない方がいいと、少し強い口調で千鶴にくぎを刺した。
 進之丞の真意を知ったことで、千鶴の花江に対するわだかまりは消えた。それどころか自分の方が花江を傷つけていたのだと、花江に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 恐らく、進之丞は花江に相談されていただけだ。であれば、花江がれた男は他にいるわけで、その相手は辰蔵しかいない。そして、その辰蔵は千鶴の婿むこになる予定なのだ。つまり、千鶴こそが花江と辰蔵の仲を引き裂いた張本人だったのだ。
 なのに花江は嫌な顔一つ見せず、姉のように戒めてくれる。もしかしたら、辰蔵の顔を潰すような真似はしてほしくないと思っていたのだろう。

 スタニスラフが部屋へ上がると、ミハイルは甚右衛門とトミに宿の者たちが心配していたと報告した。ほうじゃろほうじゃろと甚右衛門はうなずいた。
「もうちぃとで宿代を踏み倒されたと思われるとこじゃったかい」
 踏み倒すの意味をトミに教えてもらったミハイルは、そうじゃないと言った。宿の者たちが心配していたのは、宿代ではなくミハイルたちのことだった。
 どういうことかと甚右衛門がたずねると、昨日、特高とっこうを名乗る男たちが来て、宿の者たちにミハイルたちのことをいた上、二人の荷物を勝手に調べたとスタニスラフが言った。
 特高という言葉に、みんなにお茶をれていた花江がぴくりと動いた。千鶴はあせったが、スタニスラフは話を続けた。
 宿の者たちは威張いばったその男たちを嫌い、男たちの質問には答えなかったそうだ。しかし昨夜は二人が戻らなかったので、男たちに捕まったのではないかと心配していたらしい。それで今朝二人の元気な顔を見ると、大喜びをしてくれたようだ。
「ヤパリィ、マツゥヤマナ、ヒタ、ミンナ、シンセツゥネ」
 ミハイルはにこやかに言ったが、甚右衛門の顔は険しかった。
「宿のことはよかったが、連中のやり口がどがぁなもんかは、今の話でようわかった。わしらもやが、二人ともようにぃつけにゃいくまい」
 花江がいるからか、甚右衛門は特高という言葉は使わずに喋った。
 アメリカへ行くのはいつになるのかとトミが訊ねると、まだ決まっていないが近いうちにとミハイルが答えた。
 できるだけ早く日本を離れた方がいいと千鶴が言うと、甚右衛門もトミもうなずいた。ミハイルは同意したが、スタニスラフは松山まつやまに残りたいと訴えた。
 みんなにお茶を配ろうとしていた花江は、何だって?――と言わんばかりの目をスタニスラフに向けた。
 千鶴はちらりと花江を見てから、それは無理だし、そんなことをすればお母さんが悲しむとスタニスラフを諭した。
 とにかく今日は神戸へ戻ろうと、ミハイルもスタニスラフに言い聞かせた。だけど、本当は自分も千鶴のそばにいたいとミハイルは言った。
 そのうち二人が鬼の話を始めるのではないかと、千鶴は冷や冷やしていた。それで今日が最後だから、このあとの予定を立てたらどうかと話を変えた。
 甚右衛門はうなずくと、何かやりたいことはあるのかとミハイルたちに訊ねた。
 ミハイルは何もないと答え、スタニスラフは千鶴と一緒にいたいと言った。
 お茶を配って台所に戻った花江が、何とか言ってやれと、目で千鶴に訴えている。
 千鶴は花江を気にしながら、お母さんへのお土産みやげを買ったらどうかとスタニスラフに提案した。ミハイルはそれがいいとうなずいたが、スタニスラフは千鶴が一緒ならと言った。
 すかさず甚右衛門が口を挟み、今日は千鶴は留守番だと言った。
「ほんまは千鶴に行かせたいとこなけんど、今日は千鶴も忙しいけん、わしが案内しよわい」
 甚右衛門の言葉にスタニスラフは不満を示した。けれど、ミハイルは感謝して甚右衛門の申し出を受け入れた。
「また妙なやとらが来よっても困るけんな」
 納得しないスタニスラフに、甚右衛門は弁解のごとく付け足した。だが、朝は千鶴に二人をまち停車場まで送らせたのである。甚右衛門の言葉に説得力はなかった。

 三人が出かけたあと、千鶴はトミがいる前で花江を呼ぶと、実は――と昨夜特高警察に捕まった話をした。
 花江は驚いた。トミもその話をするのかという顔で千鶴を見た。
 特高警察にはどんな言い訳も通用しないことは、花江だって知っている。それでどうなったのかと花江は目をいて訊ねた。
 千鶴が考えたのは、県庁裏の登城道とじょうどうの方へ連れ込まれたあと、みんなで大声を出して人を呼んだというものだ。
 いくら特高とはいっても、外から来た人間が正当な理由もなく、こちらの人間を捕まえるなんて許されるはずがない。国が認めても、地元の人間は認めないだろう。それに特高の者たちはってはいるが、人目がない所で千鶴たちを捕まえようとしたのは、後ろめたさがあるからこそだ。
 それで千鶴は花江に、できるだけみんなで大きな声を出して騒いだところ、男たちは驚いて城山へ登る道へ逃げて行ったと話した。
 即興のうそではあったが、一応筋は通っている。花江は素直に信じてくれて、千鶴ちゃんは頭がいいと感心してくれた。また、トミもこの説明に納得してくれた。
「まっこと特高いう連中は、愚かなくずの集まりぞな」
 トミが特高警察の男たちをこき下ろすと、花江も一緒になって特高警察の悪口を言った。
 花江の様子を見た千鶴は、取りえずはこの言い訳でいこうと少しあんした。けれど、まだ悩みはたくさん残っている。

     五

 甚右衛門と戻って来たミハイルたちは、エレーナのために買った絵葉書と人形を千鶴に見せてくれた。行く時と違ってスタニスラフはご機嫌で、みんなはわかっていると千鶴に得意げに言った。
 何の話かと思っていると、勧商場かんしょうばにいた者たちから祝福されたと、甚右衛門が仏頂面ぶっちょうづらで説明した。ばんすいそうの話は確実に街に広まっているようだ。
 甚右衛門は人々に新聞記事は間違いだと説明をしたが、横にいるスタニスラフは千鶴との結婚は本当だと言って甚右衛門を困らせたらしい。しかしミハイルがスタニスラフを黙らせて、二人は結婚しないと断言してくれたという。
 千鶴を行かせなくてよかったと言いながら、甚右衛門は勧商場のあちこちで、昨夜の鬼のほうこうについてもささやかれていたと話した。
 あれは松山まつやまへい第二十二連隊が夜の軍事演習をした音だという者もいたが、化け物の声ぞとか、いやいやおそでだぬきが怒っとるんぞななど、いろんな憶測が飛び交っていたそうだ。共通していたのは、みんな恐怖を感じ、その正体を知りたがっているということだった。
 甚右衛門の話が終わると、トミは甚右衛門に耳打ちをするように話しかけた。千鶴が花江に説明した内容を伝え、それでいこうという話だ。そうすることは千鶴とトミの間で話を決めていた。甚右衛門はうなずくと、わかったと言った。 
 千鶴もミハイルたちに、昨夜の鬼の話は他の人には内緒にすることと、みんなで大声を出したために、特高とっこう警察の男たちが城山へ逃げたことにしてほしいと頼んだ。
 スタニスラフは千鶴が鬼をかばっているように見えたのか、少し嫌な顔をした。けれどミハイルは娘の気持ちがわかっているらしく、誰にも言わないと約束してくれた。それでスタニスラフも誰にも喋らないと言った。スタニスラフは少し心配だが、まずは一安心だ。だけど、本当にこれでうまくいくかはわからない。

 昼飯の前に使用人全員を集めた甚右衛門は、昨夜千鶴たちが特高警察にソ連のスパイ容疑で捕まりそうになったという話をした。そのあとは千鶴が花江にしゃべったとおりの説明だ。
 話を聞かされていた花江は驚かなかったが、他の者たちは一人を除いて動揺を隠さなかった。その一人というのは進之丞である。
 執拗しつような特高警察がいつまた接近して来るかはわからないので、怪しい者には気をつけよと、甚右衛門はきびしい口調で戒めた。使用人たちは声をそろえて返事をした。
 捕まったらどうなるのかと、新吉が不安な顔でたずねた。
 甚右衛門は新吉を見えると、捕まったら拷問にかけられ、無理やりスパイだと言わされるか、さもなくば殺されると言った。
 新吉だけでなく、他の者もあおくなった。
 わかったなと言う甚右衛門に、全員がもう一度声を揃えて返事をした。みんな緊張が走った顔をしていたが、特に進之丞の顔は険しかった。
 花江は小さく手を挙げ、幸子が一人で病院へ向かったのが心配だと言った。甚右衛門は、ほれはほうじゃとうなずいた。
 今日のところは大丈夫だろうが、鬼の話はできないのでそうは言えない。甚右衛門は進之丞に幸子の迎えを頼んだ。わかりましたと答えた進之丞の顔はやはり険しかった。

 昼食後、甚右衛門たちは幸子が戻るまでの間、ミハイルたちをどうするかと話し合った。
 その結果、二人はもう外には用事はないし、不用意に外へ出るのは危ないので、夕方まで家の中にいてもらうことになった。といっても、家には二人がすることがない。それでトミと千鶴が習字を教えることにした。
 千鶴たちは墨をするところから始め、代わる代わるお手本に簡単な字を書いてみせた。
 ミハイルは習字に興味を覚えたようで、正座はできないものの、すぐに筆を取って書き始めた。
 一方、スタニスラフはあまり面白味を感じなかったみたいで、筆を手にはしたものの、真剣にはやろうとしなかった。
 懸命に字を書く父を眺めながら、千鶴は昨夜見た夢を思い出していた。
 昨夜は進之丞のことで頭がいっぱいで、他のことを考える余裕がなかった。でも今は、前世で自分を迎えに来た異国の男は、父ミハイルだったのではないかと考えている。
 顔をまともに見たわけではないが、夢で見た男の顔は父に似ていた気がする。それに感じるのだ。目の前で筆を動かしているのは、父ミハイルだ。その父の姿に重なって、前世の父を感じるのである。
 今の母は前世の母の生まれ変わりだ。恐らく父も生まれ変わって、再び父親になってくれたのだ。

 どうだとばかりに、ミハイルが得意げな顔で字を書いた半紙を掲げた。
 トミがべた褒めをし、千鶴も手を打って褒めちぎった。頭の中では前世と今世のつながりに不思議を感じ、前世でばらばらになった家族が、こうして再会できたことに感激していた。鬼を想うと悲しみがつのるが、両親の存在が自分を支えてくれている。
 ミハイルがトミや千鶴に褒めてもらったのを見ると、スタニスラフも少しやる気を出したのか、しばらく真面目に紙に向かっていた。だけど、ミハイルほどにはうまく書けなかった。
 もういいと言って、スタニスラフは筆を投げ出すと、今はこんなことをやっている時ではないと千鶴たちに言った。
ヅゥ悪魔アクゥマツゥイテマズゥ。早クゥ、千鶴、悪魔カラァ、離サナイト、ダメデズゥ」
 同じ言葉を繰り返すスタニスラフに千鶴は辟易へきえきした。父と親子の心を通わす一時ひとときが台無しだ。トミもちらりとスタニスラフを見ると、疲れた顔でため息をついた。
 トミは実際に鬼が現れたことにきょうがくはした。でも冷静さを取り戻した今は、鬼をさほど恐れていない。これまで鬼は自分たちに何もしていないし、千鶴をイノシシや特高警察から護ってくれたからだろう。何より鬼が千鶴に従ったのは、一番の安心材料に違いない。
 ミハイルはロシア語でスタニスラフに何かを言った。スタニスラフの態度を注意したようだ。それでもスタニスラフは千鶴を助けると言って聞かなかった。
 千鶴は少し厳しい声で、スタニスラフさん――と言った。
「うちもおんなしことを何べんも言うんは嫌なんよ。あのがんごは悪魔やないし、うちらに悪さはせんの。ほんでもスタニスラフさんが、うちをじよじゃと思いんさるなら、どうぞご自由に。うちは魔女で結構ですけん。スタニスラフさんは何も心配することないぞなもし」
 スタニスラフは助けを求める目をミハイルに向けた。けれどミハイルはスタニスラフを擁護せず、もうあきらめろとばかりに、黙って首を小さく横に振った。それから千鶴に、アシエテクゥダサイ――と言った。
「ガンゴ、チヅゥ、タズゥケタ。ガンゴ、チヅゥナ、ハナシ、キイタ。ナシテデズゥカ?」
 ミハイルは鬼が千鶴に従った理由を知りたいらしい。昨夜は千鶴が話さなかったので、改めて訊ねている。
 トミも千鶴を見ている。父が訊ねていることは、祖母にしても知りたいはずだ。だが、その理由を説明するわけにはいかない。
 千鶴は少し考えてから、口を開いた。
がんごいうてもいろいろで、全部の鬼が怖いんやないんよ。姿はおとろしいても、心は優しい鬼もおるんよ。ほじゃけん、鬼はスタニスラフさんが言うておいでる悪魔やないんよ」
 千鶴は父が理解できるようにゆっくりと喋り、スタニスラフにも顔を向けた。鬼と悪魔の違いをわかってもらえたらという気持ちだった。
 スタニスラフは黙っていたが、ミハイルはわかったという顔でうなずいた。千鶴は話を続けた。
「いくら心が優しいてもな、姿が怖かったら、みんながんごを怖がるんよ。ほしたら、鬼かて嫌な気持ちにならいね。ほんでも、うちは鬼を信じとるけん、鬼を怖いとは思わんの。ほじゃけん、鬼に話しかけたし、鬼もうれしいけん、うちの言うこと聞いてくれたんよ」
 ミハイルは大きくうなずいた。トミも納得顔でうなずいている。父や祖母がわかってくれたことが、千鶴は嬉しかった。
 面白くなさそうなスタニスラフが、千鶴の話に口を挟もうとした。ミハイルはそれをさえぎって、千鶴と親子の話がしたいと言った。

     六

 離れの部屋にはスタニスラフもついて来た。これでは親子二人だけの話にならないが、スタニスラフだけを祖母の所に残すことはできないし、父も何も言わないので千鶴も黙っていた。
 部屋に入ると、ミハイルたちは興味深げに中を見まわした。
 部屋の隅には大きな風呂敷包みがあった。昨日千鶴が拾い集めた着物などだ。その風呂敷包みに目を留めたスタニスラフが、これは何かとたずねた。
 本当の話はできないので、知人に頼まれていた修繕の着物ということにした。すると、破れた着物を直せるのかとミハイルが感心した。
 千鶴は、日本では娘はみんな自分で着物を作るし、破れたりした所も自分で直すと説明した。また店で働く者たちの着物も、全部自分たちで作ると話すと、二人はとても驚き、自分たちのも作ってほしいと言った。
 今すぐはできないので、あとで母と二人で作って近いうちに送ると、千鶴は約束した。
 体の採寸をしてもらったミハイルたちは喜び合い、こうの住所を書いた紙を千鶴に渡した。千鶴もこの家の住所をかれたので紙に書いた。
 スタニスラフはふと思い出したように、着物が届くと母が怒るかもしれないと言った。エレーナは夫が松山まつやまで自分の娘やその母親に隠れて会っているとは知らないのだ。
 困惑したミハイルは千鶴を見た。千鶴は山﨑機織やまさききしょくという店の名前で送るから、ここで着物を注文したと説明すればいいと提案した。
 ミハイルは明るい顔に戻ると、それがいいと言った。スタニスラフも安心したようだ。
 そのあとミハイルは笑みを消すと、千鶴に話があると言った。いよいよ本題だ。父の表情を見て、千鶴は少し緊張した。

「ヴァタァシ、イィマシタ。アトォサンナ、アジサン、ニホォン、アイデマシタ。アジサン、タズゥケタ、トォサナ、ヒタネ。トォサ、ヴァカリィマズゥカ」
「とさ? こう土佐とさのこと?」
「コォチ? サレェヴァ、ドカデズゥカ?」
ひめおんなこくにあるんよ」
 千鶴は紙に四国の図を描き、愛媛の場所と高知の場所を教えた。
「ココ、トォサ?」
 高知を指差し訊ねるミハイルに、千鶴はうなずいた。
 ミハイルはこう祖父の船が沈み、ここで助けてもらったと言った。他の乗組員はみんな死に、高祖父だけが助かったそうだ。
 その後、高祖父はそこの土地の娘と親しくなり、その娘をはらませてしまったという。
「アジサン、ヴァタァシ、イシヨ。アジサン、ムズゥメ、ズゥキネ」
 自分も同じことをしたと言いたいのだろう。ミハイルは少し照れていたが、それが原因で高祖父はそこを追い出されたと言った。
「アジサン、チィサナ、フゥネ、マライマシタ。サレェデ、ウミ、イキマシタ」
 どうやら高祖父は小舟に乗せられて、そのまま海へ放り出されたらしい。くわしい話は、所々でスタニスラフがロシア語で聞き取り、千鶴に説明してくれた。
 小舟で海に流された高祖父は、他の国の船に助けられたあと、無事にロシアへ戻ることができた。その後、ロシアで商売に励んで結婚もした。そして日本が諸外国を受け入れ始めると、船に乗って再び日本を訪れたという。一番の目的は商売だが、土佐で自分の子供を身籠もった娘がどうなったのかが気になっていたようだ。
 当時、日本へ来た船といえば黒船だ。千鶴は動揺した。前世の千鶴を迎えに来たのもロシアの黒船なのだ。
 高祖父を乗せた黒船は、神戸へ向かっていた。しかしないかいを通過する時、潮の流れが悪くて途中の港へ立ち寄った。その港があるのは、土佐と同じ島だ。つまり、四国である。
「港の名前、わかる?」
 どきどきしながら千鶴が訊ねると、ミハイルはあごに手を当てながら言った。
「ミヅゥガマ? ミヅゥーマ?」
「ひょっとして三津ヶみつがはま?」
 そうかもしれないとミハイルは言った。だとすれば、進之丞が言っていた話と符号する。千鶴の胸は高鳴った。
 高祖父の船が三津ヶ浜の港に停まると、港の町では大騒ぎになった。そんな中、ロシア人との商売を考えた男が小舟で近づいて来たという。
 黒船には通訳が乗っており、自分に似た者を知らないかと、高祖父はその男に通訳を介して訊ねたそうだ。
 千鶴は全身の毛が逆立つ思いだった。こんな話を父から聞かされるとは思いもしなかった。
 ロシアと比べれば、四国なんてちっぽけな島だ。高祖父には三津ヶ浜も土佐も同じに思えただろう。とはいえ、小舟の男に訊ねた時、高祖父は半分あきらめていたらしい。ところが驚いたことに、知っているという返事が戻って来たのである。
 高祖父が教えてもらったのは、近くの浜辺の寺に暮らす異国人の娘が、その土地の侍の息子と結婚するという話だ。娘は幼い頃に旅の途中で母が亡くなったため、そこの寺の住職に拾われたらしい。母親の生まれはわからないが、その娘の歳が自分の子供と同じぐらいなので、高祖父は娘を我が子と思ったそうだ。
 高祖父は案内役として同乗していた日本人の船頭に、娘に宛てた手紙を書いてもらった。そして金貨と一緒にその手紙を小舟の男に渡し、その娘に届けてほしいと頼んだという。
 手紙の中身は、自分は父親で二日後の夕刻にそこの浜辺へ行くというものだ。連れ去るつもりではなく、ただ会いたかっただけらしい。
 千鶴は泣きそうになっていた。父は自分の前世を覚えていない。なのに前世の自分の話を高祖父の話として語ってくれている。やはり父は前世と同じ父なのだと、千鶴の胸は感激でいっぱいだった。
 船が三津ヶ浜を出航して教えられた浜辺へ向かうと、そこに娘がいた。娘の顔を見た高祖父は、間違いなく自分の娘だと思ったそうだ。
 娘には若い侍が一緒にいたという。恐らく娘の夫になる男と思われた。その侍は嫌がる娘を高祖父にゆだねると、現れた他の侍たちと戦い始めた。
 若い侍が死を覚悟していると悟った高祖父は、娘を小舟に乗せて船へ戻ろうとした。そこへ侍たちが追いかけて来た。浜辺に若い侍の姿はなく、戦いに敗れて死んだと思われた。
 高祖父たちは船へ急ごうとしたが、娘が暴れるので小舟が揺れてなかなか前に進まない。侍たちが迫って来ると、高祖父の仲間はかいはずして身構えた。
 その時、浜辺にとつじょとして巨大な悪魔が現れ、海の中に入って来た。悪魔は次々に侍たちを殺し、小舟のすぐ近くまで来た。しかし、最後の侍を引きちぎって握り潰した悪魔はそこで動かなくなり、じっと娘を見つめていたそうだ。
 娘がその悪魔に声をかけると、悪魔も悲しげな声を出した。そのあと、悪魔は海に沈んで行った。すると娘も海に飛び込んだ。あっという間のことだった。そして娘が再び上がって来ることはなかったという。
 やっと会えたと思ったはずの我が娘が、目の前で海に飛び込み死んだのだ。高祖父はどれほど悲しみ、この出来事をどれほど怖いと思っただろう。それを思うと、千鶴は胸が痛かった。
 それでも高祖父は娘を護ろうとした若い侍の気持ちはうれしかったようで、二人の魂が一緒になれることを祈ったそうだ。

 千鶴は泣いた。涙が勝手に流れていた。感動と当時の感情が入り交じった涙だった。
 高祖父は悪魔を恐れはしたが、何か温かいものを感じたそうだとミハイルは言った。
「アクゥマ、アジサンナ、ムズゥメ、タズゥケタ。ムズゥメ、アクゥマ、シンジテタ」
 そう言って、ミハイルは千鶴の両方の手を取った。
「ガンゴ、チヅゥ、タズゥケタ。チヅゥ、ガンゴ、シンジルゥ。ダカラァ、ヴァタァシ、シンジルゥネ。ヴァタァシ、チヅゥ、シンジマズゥ。チヅゥナ、ガンゴ、シンジマズゥ」
 千鶴は嬉しかった。泣きながら父に抱きつくと、ありがとうと言い、そして、ごめんなさいとびた。ミハイルは何を謝られているのかわからずに当惑していたが、千鶴は構わず言った。
「あのな、お父さんは、お父さんなんよ。お母さんも、お母さん。ほれで、うちは、うちなんよ。昔も今も、ほれはおんなしなんよ」
 生まれ変わりが理解できない父に、千鶴が言えるのはそれだけだった。けれども、前世で離ればなれになった家族が、今世でやり直しをさせてもらったという感激は、涙となってあふれ出る。
 だが、流れる涙には悲しみも混ざっていた。
 自分を助けるために鬼は現れ、そして死んだ。それと同じことが繰り返されているみたいで、悲しみには大きな不安が絡んでいた。
 一方でスタニスラフは、悪魔が娘を助けたのは娘が悪魔に魅入られていたからと解釈した。そして、今の千鶴も同じだと言うのだ。
 何を言ってもわかってもらえそうにないので、千鶴はスタニスラフが言いたいように言わせておいた。
 昨日、あれほど心がかれたはずなのに、今のスタニスラフは別人に見えた。

     七

 最後の夕食を終えたあと、千鶴は母と一緒に父とスタニスラフをたかはまこうまで見送ることになった。
 もう日は沈んで、西の空はあかね色に染まっている。辺りは夕闇に包まれ、南の空に月が浮かんでいる。
 昨日の今頃はばんすいそうばんさんかいを開いてもらっていた。そのあととっこう警察に捕まり鬼が現れた。それらのことが思い出されて、千鶴は気持ちが落ち込んだ。
 甚右衛門はまち停車場までは見送りに来た。陸蒸気おかじょうきが来た時には、じろじろと客車の中をのぞいて、怪しい者がいないかを確かめた。もう特高警察はいないが、念のためにという感じだ。
 鬼に油断をするなと言いながらも、祖父が千鶴たちだけを港まで見送りに行かせるのは、きっと千鶴の言い分を聞いてくれたのだ。千鶴はうれしかった。
 千鶴たちが客車に乗り込んだあと、陸蒸気が出発の汽笛を鳴らすと、駆け込みで一人の男が乗って来た。
 男が乗ったのは千鶴たちとは別の車両で、幸子もミハイルたちも気づいていない。だけど、千鶴だけはその男が乗り込んで来るとわかっていた。
 男は千鶴たちが家を出た時から、かなり間を取ってあとをついて来ていた。顔を隠すために深くかぶったとりうちぼうは祖父のものだし、着物もやまさき機織きしょくのものだ。
 歩く姿や背格好から、男は進之丞だと千鶴は見抜いていた。恐らく祖父に頼まれたのだろうが、気づかれているのも知らずにこそこそする様子は、ずっと悲しんでいた千鶴を微笑ませてくれた。

 高浜港に着くと、乗客たちはみんな桟橋さんばしへ向かった。千鶴たちも人々に交ざって移動したが、千鶴たちから離れた後ろの方を進之丞もついて来る。
 西に延びた桟橋の先には、夕日の余韻もほとんどなくなった空が広がり、手前の海も黒々としている。見上げると頭上は夜空で、南の月が街灯と一緒に足下を照らしている。
 千鶴たちは月明かりを背に受けながら、こうこうとした明かりで闇に浮かぶ船を眺めた。出航時間まではまだ時間があり、桟橋の上は多くの人でごった返している。
 ミハイルは最後の時をごり惜しみながら幸子の肩を抱き、スタニスラフは遠慮がちに千鶴のすぐかたわらに立っていた。
「サチカサン、チヅゥ、アエマシタ。タテモォ、ヨカタデズゥ」
 ミハイルは笑顔を見せたが、本音は松山まつやまを去りたくないようだ。
 幸子はミハイルに身をゆだねながら言った。
「千鶴から聞いたけんど、着物すぐにこさえて送るけんね」
「アミセナ、ナマエデ、アネガイシマズゥ」
 幸子はミハイルの顔を見ると噴き出した。
「ほうじゃね。ほうじゃったほうじゃった。うっかり自分の名前で送るとこじゃった。ちゃんとお店の名前で送るけん」
「エレーナ、タテモォ、キビシィネ。サチカサン、ナマエ、ミルゥ。エレーナ、ツゥノォ、ダズゥネ」
 ミハイルは両手の人差し指を頭に立てて鬼の真似をした。幸子は笑ったが、その笑いは短かった。ミハイルは当惑しながら、ゴメナサイと言った。
 スタニスラフは遠慮がちに千鶴の肩を抱き、ミハイルたちとは離れて桟橋の先へいざなった。
 今の姿を進之丞に見られていると思うと、千鶴はつらかった。でも最後の別れなので、素直にスタニスラフに従っていた。
ヅゥナ、ズゥキナヒタダレェデズゥカ?」
 スタニスラフは単刀直入にたずねた。
 千鶴は後ろを振り返ると、離れた所で月を眺めている進之丞を指差した。
「あのお人ぞな。月を見よる、あのお人ぞなもし」
 千鶴に指差されていると気づいた進之丞は、慌てて姿を消した。その様子に千鶴がくすくす笑うと、スタニスラフは千鶴が適当な人物を指差したと思ったらしい。ふっと笑って言った。
ヅゥヴァ、ボクゥニ、心配サセナイ、思テマズゥ。ダカラァ、ウソツゥイテマズゥ」
「嘘? うちは嘘なんぞついとらんぞなもし」
ヅゥヴァ、ボクゥガ、アキラァメルゥ思テ、嘘ツゥキマシタ。デモォ、モウ、嘘、イラァナイ。僕ヴァ、千鶴、アキラァメナイ。必ズゥ、千鶴、タズゥケマズゥ。必ズゥ、コォコォニ、マドリマズゥ。ダカァラァ、待テテクゥダサイ」
 どう言えばわかってもらえるのかと、千鶴は頭を悩ませた。
「スタニスラフさんは、うちがじよになっても、おんなしこと言うてくんさるん?」
 エ?――とスタニスラフは言葉に詰まった。やはり進之丞とは違う。だけど、これが普通なのだ。今ここに鬼が現れたらどうするのかといてみたい気持ちがあったが、スタニスラフが困るのはわかっている。
 とにかくもうすぐお別れだ。まぁいいかと思い直して、千鶴は微笑んだ。最後は気持ちよく送り出してやりたかった。
 千鶴の微笑みに気をよくしたのか、スタニスラフは千鶴に顔を近づけて来た。千鶴は慌てて横を向くと、父と母に声をかけた。
「お父さん、お母さん、そろそろ船が出るんやないん?」
 出港を待つ船はもう乗船が始まっており、他の乗客たちが次々に乗り込んでいる。
「大丈夫。船が出る時には銅鑼どらが鳴るけん」
 幸子が大きな声で言った。
 千鶴は途方に暮れた顔のスタニスラフを振り返ると、ほうなんやて――と笑った。

     八

 いよいよ銅鑼が鳴った。両親は抱き合い最後の別れをしている。
 スタニスラフも千鶴を抱きしめると、絶対に迎えに来ると言い、軽く千鶴のひたいに口づけをした。
 千鶴は顔が熱くなるのを感じながら笑顔で応じた。心の中では、進之丞に見られていないことを祈っていた。
 続いてミハイルに抱かれた千鶴は、お父さんと言った。
「お父さんはな、うちが産まれる前からお父さんやったんよ」
 ミハイルが当惑気味に笑みを浮かべると、何を言うとるんねと幸子が言った。
「お母さんもついぞな」
ついて?」
「お母さんも、うちが産まれる前からお母さんやったんよ」
「まったく妙なことぎり言う子じゃねぇ」
 幸子はあきれた顔で笑ったが、何だか嬉しそうにも見えた。
 早く乗船するよう船員がうながした。ミハイルたちは残念そうに船に乗り込むと、すぐに甲板へ移動して他の乗客たちと一緒に手を振った。
 母とともに手を振り返しながら、千鶴は父に会えたことを心から感謝した。また、これでお別れだという安心感があったからか、自分なんかを想ってくれるスタニスラフのことも有難く受け止めた。
 手を振りながら思い起こされるのは、やはりばんすいそうでのばんさんかい踏会とうかいだ。あの時の高揚こうようした気分は今でも覚えている。落ち込んでいたからとはいえ、確かに自分はスタニスラフに心を動かされたのだ。
 進之丞のことを考えると、あれは恥ずべき行為だし、許されるものではない。とはいえ、あんな気持ちになったのは事実であり、悔やみはしても否定はできなかった。
 鬼が現れた時、千鶴はスタニスラフに怖がられると思っていた。実際、スタニスラフは恐怖を感じていたが、スタニスラフなりに力になろうとしてくれた。
 進之丞と比べると頼りないし、空気を読めない自分勝手な所はある。けれど進之丞以外に、ここまで自分を想ってくれる人はいない。これが千鶴の率直な感想だ。
 もし風寄かぜよせで進之丞に出っていなければ、あるいは、そもそも風寄の祭りへ行かなかったなら、本当はスタニスラフと一緒になるのが自分の定めだったのか。
 そんな考えがふと頭をぎり、千鶴は後ろめたくなった。すぐに頭の中から余計な考えを振り払うと、自分が慕っているのは進さんだけだと、千鶴は自身の気持ちを確かめた。それから見送り客の中に進之丞の姿を探したが、進之丞はどこにもいなかった。
 ――おまいがまことの幸せになったなら、がんごはお前から離れるんが定めぞな。
 頭の中で進之丞の声が聞こえた。
 千鶴とスタニスラフが結婚を誓い合ったという話を、進之丞は笑顔で受け入れた。千鶴が何も言い訳をしないから、事実だと信じているはずだ。進之丞には今の千鶴の姿も、スタニスラフとの別れを心から惜しんでいるように見えているだろう。
 千鶴はあせった。
 父たちを見送ったあと、進之丞に本当の気持ちを伝えるつもりでいた。だけど、千鶴の幸せを見届けたと思った進之丞は、もう自分の役目は終わったと考えたかもしれない。
 こうして見送りをしている間に、進之丞が姿を消したのではないかと思った千鶴は、船の二人に手を振りながら、何度も目で進之丞を探した。心は進之丞を探して辺りを走りまわっていた。
 船が徐々に離れて行き、桟橋で手を振る人たちの数が減って来ると、千鶴は急いで高浜たかはま停車場へ向かった。
 まだミハイルたちに手を振っていた幸子は、げんそうに千鶴を見た。だが千鶴は振り向かなかった。
しんさん!」
 千鶴は人混みをかき分けながら叫んだ。けれど、進之丞は見つからない。停車場にも客車の中にも進之丞の姿はなかった。
「進さん!」
 周りの者たちが妙な顔で振り返ったが、千鶴は叫ぶのをやめなかった。しかし、どこにも進之丞はいない。進之丞は――鬼は去ってしまったのだ。
 千鶴は立ったまま泣きだした。近くの人がどうしたのかと訊ねても、千鶴は泣くしかできなかった。
「進さん、何でおらんなったんよ……。おら、まだ幸せになっとらんのに、なしておらんなったんよ……」
 子供みたいに泣きじゃくる千鶴から、人々は距離を置くように離れて行った。千鶴が独りぼっちで泣き続けていると、後ろから懐かしい声が聞こえた。
「千鶴」
 振り返ると、帽子を脱いだ進之丞がそこに立っていた。
「千鶴、どがぁした? 大丈夫か?」
「進さん!」
 千鶴は飛びつくように進之丞に抱きつくと、わぁわぁ泣いた。
「ごめんな……、ごめんな……」
「何を謝るんぞ?」
「ほやかて、おら、おら……」
「おまいは何も悪いことなんぞ、しとらんやないか」
「おら、さくじゃった。自分のことぎり言うて、進さんのこと、何もわかろうとしとらんかった」
 まどう進之丞に、千鶴は泣きながら訴えた。
「お願いやけん、どこにも行かんで。ずっとおらのねきにおって。おらから離れたら嫌じゃ。お願いやけん、約束してつかぁさい。絶対あげなとこへは戻らんて、約束してつかぁさい」
「千鶴、おまい……」
 進之丞の顔がこわった。千鶴は続けて言った。
「おら、進さんががんごでもかまんけん、ずっとねきにおってほしいんよ。他は何もいらんけん、進さんにずっと傍におってほしいんよ」
「……ぃついてしもたんか」
 千鶴は黙ったまま泣いていた。進之丞はうろたえた顔で天を仰ぐと目を閉じて、抜かったわ――とつぶやいた。
「お不動さま……、あしはしくじってしまいました……。せっかく……、せっかく千鶴の姿を見せていただいたのに……、あしは何もかも……、何もかも台無しにしてしまいました……。申し訳ありませぬ……。申し訳……ありませぬ……」
 進之丞は目を閉じたまま涙を流して不動明王にびた。
 千鶴は涙にれた顔を上げると、鼻をすすり上げながら、何を言っているのかと進之丞に訊ねた。
 進之丞はすべてはお不動さまのご慈悲によるものだと言い、それを自分は台無しにしてしまったと唇をんだ。
「千鶴」
 母の声が聞こえ、千鶴は進之丞から離れて涙を拭いた。進之丞も慌てて後ろを向いた。
 千鶴が振り返ると、桟橋から戻って来た幸子が心配そうに立っていた。幸子は背を向けていた男を見たが、すぐにあんした笑顔になった。
「誰か思たら、たださんやないの。ひょっとして忠さんもうちらとついの陸蒸気に乗っておいでたん?」
 進之丞がうろたえ気味に振り返ると幸子は笑ったが、すぐにいぶかしげな顔になった。
「忠さんは、どがぁな用でここへおいでたん?」
「いや、その……」
 進之丞が口籠もると、幸子は進之丞が持つ帽子を見てにっこりした。
「おじいちゃんに頼まれたんじゃね。うちらを特高から護るよう言われたんじゃろ?」
 進之丞は目を伏せがちに、はぁ――とうなずいた。
「特高がおったら、どがぁしろて言われとるん?」
「海に投げ込め言われとります」
 あははと笑った幸子は、ほんまはほうやないんよ――と言った。
 母の明るさは父と再会できたからなのか。そうかもしれないと千鶴は思ったが、それだけではないなとすぐに思い直した。
「おじいちゃんは、特高気にして忠さんを来させたんやないんよ。特高が心配じゃったら、自分でここへおいでとらいね」
 そう、今は特高警察はいない。だから母は安心しているのだろうし、鬼のことも祖父みたいに考え直してくれたようだ。だけど、そのどちらも笑う理由にはならない。
「じゃったら、なして……」
 当惑する進之丞に、幸子は楽しげに言った。
「あんたらが一緒におれるようにしてくんさったんよ。ほれに、万が一のことがあったとしても、忠さんが一緒じゃったら安心じゃて思いんさったんじゃろねぇ。直接そがぁ言うたらええのに、おじいちゃんは素直やないけん」
 幸子は千鶴と進之丞の関係を心配していた。母が笑うのは、二人の仲が戻ったことが嬉しかったからだと千鶴は思った。
 祖父母にも心配をかけた。特にスタニスラフが来てからは、二人で気をんでいたに違いない。だがそれは、辰蔵を婿にするわけではないということか。
 進之丞を失わずに済んだ千鶴は、母や祖父母の気持ちが有り難かった。また、進之丞が鬼でもすべてはうまくいく気がしていた。
 幸子へ返す言葉が見つからない進之丞に、ほらな――と千鶴は笑顔で言った。
「これが、お不動さまが決めんさった定めぞな」
「何やのん、お不動さまて?」
 幸子が眉根を寄せた。何でもないと言うと、千鶴は困惑顔の進之丞に身を寄せた。
 どうして進之丞が鬼になったのかは謎だ。けれど、進之丞が進之丞であることには変わりがない。
 かつて自分はがんごめだと信じていた千鶴は、鬼になった進之丞の苦悩や悲しみがわかる。そんな進之丞を二度と悲しませたりはしないと、千鶴は心に誓った。
 これからどんな道を歩むことになったとしても、その道を二人で歩むのが自分たちの定めである。覚悟はいるだろうが、心は決まっている。何があっても進之丞から離れない。ずっと進之丞のそばにいるのだ。それが何より大切であり、それこそが千鶴の望みだった。