桟橋の二人
一
朝の支度をするために離れの部屋を出た千鶴は、渡り廊下で立ち止まって奥庭を眺めた。奥庭は昨夜から降り続けている雨に濡れている。
昨夜、雨に紛れて何者かが奥庭に侵入した音を、千鶴は聞いた。それから勝手口の戸が静かに開く音が聞こえ、続けて戸が閉まる音がした。
母は寝息を立てていたので、庭の音はわからない。気がついたのは千鶴だけだ。
音を聞いた時、千鶴は布団をかぶって泣いた。今は涙は止まったが、どうしてこうなってしまったのかと、半分放心状態で雨を眺めている。
「何しよるんね? 早よせんと、みんなが起きて来てしまうで」
後から出て来た母に促されて、千鶴は母屋へ入った。廊下の脇にある茶の間は障子が閉めきられている。中で寝ているのは父とスタニスラフだ。
千鶴がいなくなったあとの昨夜の話し合いは、何の進展もないまま早めに切り上げられたらしい。しかし夜も遅いし、千鶴が心配な父たちは宿へは戻らなかったそうだ。
千鶴たちは物音を立てないようにしながら、茶の間の脇をそっと通り抜けて静かに土間へ降りた。
台所にはすでに花江がいて、竈に火を入れていた。二人に気づいた花江は、おはようございますと小声で言った。
茶の間の様子や、上がり框の下に置かれた靴を見て、花江は茶の間にロシアの客人がいるとわかったようだ。
楽しかったかい?――と花江は目を輝かせて千鶴たちの顔を見比べた。千鶴も幸子も笑顔を繕い、楽しかったと答えた。だが頭のいい花江はすぐに笑みを消し、何かあったのかと言った。やはり千鶴も幸子も未だに残った動揺を隠しきれないようだ。
結局、何かがあったことを千鶴たちは認め、詳しいことはあとで話すと言った。今はとにかく朝飯の用意をしなければならない。
花江が竈に戻ると、幸子は米を研ぎ、千鶴は味噌汁の鍋を掛ける七輪に火を熾した。
少しすると丁稚の三人が、目を擦りながら階段を下りて来た。その後ろには進之丞がいた。千鶴は思わず進之丞から顔を隠して下を向いた。
本当は進之丞に詫びねばならないのに、千鶴は進之丞の顔をまともに見ることができなかった。何かを言おうとすれば、そのまま泣き崩れてしまいそうだった。
亀吉たち三人は千鶴や幸子を見つけるなり、朝の挨拶も忘れて、昨日は楽しかったかと口を揃えて訊ねた。しかし、進之丞は普段と変わらない様子で、おはようござんしたと言っただけだった。
七輪に鍋を載せた千鶴は、そのまま顔を上げずに小声で挨拶を返した。
花江と一緒に進之丞に挨拶をした幸子は、話はあとでするからと亀吉たちに言って、ご飯の釜を竈の火に掛けた。
その時、茶の間の障子がさっと開いた。
「アハヨガザイマズゥ」
顔を出したのはスタニスラフだ。その後ろには、ミハイルの姿もあった。
亀吉たちはとても驚いたが、進之丞は平然としていた。亀吉たちの挨拶はぎこちなかったが、進之丞の挨拶は普通だった。
幸子と花江は二人に顔を向けて挨拶をした。しかし、千鶴はちらりと見ただけで、やはり下を向いたまま小声で挨拶をした。
もうスタニスラフに対して、昨日のような気持ちはなかった。今あるのは萬翠荘で自分が見せたであろう、破廉恥な言動への腹立たしさと情けなさ、そして進之丞に対する申し訳なさだけだった。
行くぞと亀吉たちに声をかけると、進之丞は雨が降る奥庭へ出て行った。
進之丞は手代になってからも、朝の水汲みを手伝っている。進之丞が外へ出たので、亀吉たちも慌ててその後を追いかけた。
「この人たち、たくさん食べるんだろ? 朝はあたしたちが食べるような物でも構わないのかい?」
花江が幸子に訊ねた。ほうじゃねぇと幸子は小首を傾げた。一緒に食べることがわかっていれば、前もって準備ができたのだが、今朝は何も用意していない。
「昨日買うた魚の干物があろ? ほれを焼いてやんなさいや」
いつの間にか板の間の奥の寝間から出て来たトミが、花江たちに声をかけた。
花江と一緒にトミに挨拶をした幸子は、そがぁさせてもらおわい――とほっとした顔で花江に言った。
板の間で味噌汁の具の菜っ葉を刻んでいた千鶴も、祖母に挨拶をした。するとトミは心配そうに、大丈夫かと千鶴に声をかけた。
大丈夫ぞなもしと、千鶴は笑顔を見せた。しかし、包丁がいつものようにはトントンと動かない。
何があったのだろうという顔で花江が千鶴を振り返ると、土間へ降りたスタニスラフが横から千鶴の顔をのぞき込んだ。千鶴が驚いてスタニスラフから顔を離すと、スタニスラフはさらに千鶴に寄り添った。
花江が眉間に皺を寄せたが、スタニスラフの目には入らない。千鶴の肩に手を回したスタニスラフは、これは何をしているのかと訊ねた。千鶴は味噌汁を作っていると説明しながら、さりげなくスタニスラフの手を肩から外した。
スタニスラフは自分も何か手伝うと言った。千鶴は必要以上に笑みは見せずに、何も手伝ってもらうものはないから、そちらで座ってて欲しいと頼んだ。それでもスタニスラフは千鶴の隣から動こうとしなかった。
千鶴がようやく菜っ葉を刻み終えて包丁を置くと、スタニスラフはいきなり千鶴を自分の方へ向けて抱きしめた。千鶴は思わずスタニスラフを押し返すと、やめてつかぁさいと言った。
昨日と違う千鶴の反応に、スタニスラフは当惑している様子だった。昨夜、千鶴には好きな人がいると幸子が話したはずだが、まだ本気にしていないようだ。
スタニスラフの行動にトミは顔をしかめた。幸子と花江も驚いた様子だったが、花江はすぐににらむような目をスタニスラフに向けた。
勝手口には、水桶を抱えた亀吉が目を丸くして立っている。そこへ続けて入って来た新吉が、同じように水桶を抱えたまま、何があったのかという顔をした。
「みんなが見とりますけん、そがぁなことはせんでつかぁさい」
千鶴が困惑しながら言うと、スタニスラフは周りを見た。
スタニスラフと目が合うと、亀吉と新吉はすぐに目を逸(そ)らした。しかし、花江とトミはスタニスラフをにらみ、幸子はスタニスラフに千鶴を抱くなと厳しく注意した。
そこへ進之丞が豊吉と一緒に入って来た。
「どしたん?」
妙な雰囲気を感じたのだろう。豊吉が亀みんなに声をかけた。しかし、亀吉も新吉も千鶴たちを前にして説明はできない。花江は進之丞を気遣うように見るばかりだ。
「スタニスラフ!」
ミハイルが強い口調でスタニスラフを呼ぶと、ロシア語で何やら注意した。スタニスラフはすごすごと茶の間に戻ると、少し奥にしゅんとなって座った。
ミハイルは幸子と千鶴に両手を合わせながら頭を下げた。邪魔をして申し訳ないと言いたいようだ。
幸子も千鶴も笑みを返したが、千鶴は気持ちが落ち着かない。
スタニスラフをその気にさせたのは自分である。そのスタニスラフに人前で恥をかかせてしまったことには罪悪感を感じている。
それでも、もう絶対に進之丞を悲しませるようなことはしたくなかった。自分の本当の想いを進之丞に伝えたかった。
花江が雰囲気を変えるように言った。
「亀ちゃんたち、水を瓶に移したらさ、七輪をもう二つばかり用意しておくれよ。魚の干物を焼くからさ」
「魚の干物?」
新吉が目を輝かせた。するとトミが、お客の分だけだと言った。
新吉ががっかりすると、当たり前ぞなと亀吉が冷たく言った。しかし、亀吉も本音では残念だったらしい。羨ましげな目をちらりとミハイルたちに向けた。
花江が竈の火を見ている間に、幸子は茶の間でミハイルたちが使った布団を畳んだ。
そこへ二階から辰蔵と弥七が降りて来た。二人はミハイルたちに気がつくと、亀吉たち同様に驚いた。
「なして、お二人がここにおいでるんぞなもし?」
遠慮がちに訊ねる辰蔵に、昨夜ここでみんなで喋っていて、宿へ戻るのが遅くなったから泊まってもらったとトミが言った。
ほうですかとうなずいた辰蔵は、千鶴たちが戻った頃合いを教えてもらい、妙なことだと言った。
「昨夜は千鶴さんらがお戻りになるんを、弥七らと一緒に上で待ちよったんです。やのにいつの間にか自分の部屋で寝よったんぞなもし。自分がいつ部屋に戻んたんか、全然覚えとらんので、何や妙な気分です」
弥七も辰蔵がいつ部屋へ戻ったのかがわからなかったと言い、自分もまた知らない間に寝ていたと話した。
すると花江も、自分も同じだと首を傾げながら言った。
「あたしも萬翠荘の話を聞かせてもらおうと思ってさ。起きて待ってたんだよ。だけど気がついたら、もう朝でさ。寝床にいたんだ。いつ寝ちまったのか自分でも覚えてなくてさ。ほんと不思議だよ」
ほうよほうよと七輪に火を熾しながら亀吉が話に加わった。亀吉たちも千鶴たちの戻りを待っていたはずなのに、やはりいつの間にか寝てしまったと言う。
だが進之丞だけは話に加わらず、これから焼く魚の干物を持ったまま、黙って豊吉の火熾し作業を眺めている。
あんたら――トミは使用人たちの顔を見回しながら言った。
「昨夜は妙な声が聞こえんかったか?」
それは鬼の咆哮のことだろう。お母さん――と幸子が戸惑ったようにトミに声をかけた。余計なことは喋るなと言いたいようだ。
「妙な声? 妙な声て、どがぁな声ぞなもし?」
辰蔵が訊き返すと、聞こえとらんなら構んとトミは言った。
「まぁそがぁなことで、この二人は昨夜はここに泊まりんさったというわけなんよ」
トミは怪訝そうな辰蔵を無視して、この話を終わらせた。
昨夜、二階で何があったのかはわからないが、恐らく進之丞の仕業に違いないと千鶴は思った。
千鶴は七輪に載せた鍋を新吉と一緒に眺めながら、ちらりと進之丞を見た。進之丞は敢えて千鶴の方を見ないようにしているのか、豊吉が上手に火を熾したのをしきりに褒めている。
「賑やかじゃの」
とても疲れたような顔の甚右衛門が起きて来た。
トミは豊吉を呼ぶと、店先から新聞を取って来させた。その間に進之丞は干物の魚を焼き始めた。
幸子は茶の間に畳んだ布団を、急いで甚右衛門たちの寝間へ片づけた。入れ替わるように茶の間へ移った甚右衛門は、二言三言ミハイルたちに声をかけ、豊吉が持って来た新聞を畳の上に広げた。
ミハイルたちは日本の新聞を読むことができない。昨晩のことが書いてあるのかと、二人は甚右衛門に訊ねた。
甚右衛門は少し待つように言うと、記事を順に目で追った。それからある記事を見つけると、それを指差した。
「ここに昨夜の萬翠荘のことが書かれとる」
そこには萬翠荘の記事が、舞踏会の絵付きで掲載されていた。そこに描かれている伯爵夫妻と一緒に踊る二組の男女は、ミハイルと幸子、そしてスタニスラフと千鶴に違いなかった。
文字は読めなくても絵はわかる。ミハイルとスタニスラフは新聞を食い入るように眺めた。
何と書かれているのかとスタニスラフが訊ねると、甚右衛門は記事を一文ずつ読み上げた。それを幸子が簡略化して二人に伝えた。
記事には、日露戦争の時に結ばれたロシア兵と日本人看護婦、その子供たちの感動的な再会の場として、久松定謨伯爵が萬翠荘を提供し、親子のために晩餐会および舞踏会を開催されたとあった。
中身としては、伯爵を持ち上げる内容が主ではあったが、千鶴たちの名前はちゃんと記載されていた。読み上げられた名前を聞いたミハイルたちは少し微笑んだ。
「血がつながっていない二人の子供たちは、伯爵夫妻の前で――」
そこまで読んで読んで言葉を切った甚右衛門は、新聞に顔を近づけて続きの文章を黙読したあと、これはどういうことかと幸子に問うた。
幸子は甚右衛門が示した文に目を向けると、顔を引きつらせた。
「これは何かの間違いぞな。こがぁなことはしとらんけん」
何の話をしているのかと、ミハイルたちが幸子に訊ねた。
幸子は困った様子で、記事に間違いがあったとだけ言った。どんな間違いなのかと聞かれても、言葉を濁して答えなかった。
花江たちが幸子を振り返って見ている。進之丞も干物を焼きながら幸子の方に顔を向けていた。
千鶴は不安になった。萬翠荘でのことはよく覚えていない。しかし、スタニスラフは自分たちがみんなの前で、互いの気持ちを伝え合ったようなことを言っていた。そんなことが書かれていたらと思うと、何も考えられなくなった。
千鶴さん――と新吉が声をかけた。気がつくと、七輪の鍋がぼこぼこと沸いていた。
二
朝飯の間、千鶴たちは誰も喋らなかった。
だが板の間は、萬翠荘の話が新聞に載ったことに加え、亀吉たちが千鶴や幸子から聞かせてもらった萬翠荘の中の様子や、ご馳走や踊りの話などで盛り上がっている。
進之丞の気持ちを考えると、そんな話はやめて欲しいと千鶴は思った。しかし話は止まらない。また、いつもなら聞こえるはずの進之丞の声が聞こえない。進之丞は黙って話を聞いているだけなのだろう。千鶴はつらかった。
食事の途中で、千鶴は母から新聞の記事を見せてもらった。そこに祖父が口にできなかった文章を見つけると、千鶴は血が凍った。
そこに書かれてあったのは、血がつながっていない二人の子供たちが、伯爵夫妻の前で結婚を誓い合ったというものだった。
「うち、こがぁなこと言うたん?」
焦った千鶴は小声で幸子に訊ねた。幸子は甚右衛門たちを気にしながら潜めた声で、こがぁには言うとらん――と言った。
「ほんでも、似ぃたようなことは言うたんよ。うちが止めても聞こうとせんでな。まっこと往生したわいね」
声を潜めても、甚右衛門たちには幸子の声が聞こえている。千鶴は祖父母に目を合わせられずに下を向いた。
「あんたは完全に酔っ払っとったけんな。なぁんも覚えとらんのじゃろ?」
千鶴はうなずきながら胸が疼いた。
甚右衛門とトミは、何も千鶴に言わなかったが、ため息をつかんばかりの表情だ。昨夜のスタニスラフの言動はそういうことだったのかと思ったに違いない。
ちらりと千鶴と目が合ったミハイルは、気にするなという感じで微笑みながら小さく首を横に振った。千鶴と幸子が何を喋っていたのかがわかっているらしい。
ミハイルが松山へ来たのは、千鶴とスタニスラフを引き合わせるためではない。それにミハイルは千鶴が酒を飲み過ぎていたことは知っている。スタニスラフとのことが間違いであったと知っても、それを残念がる様子は少しもなかった。
しかし、千鶴と結婚できると信じていたスタニスラフには、間違いでしたでは済まない話である。新聞記事に何と書かれているのかと千鶴に訊ね、千鶴が黙っていると幸子を問い質した。
記事を確かめることで、自分たちが互いを求め合ったという事実を、今一度甚右衛門たちの前で訴えるつもりなのだろう。
だが、幸子は記事は間違いだとだけ答え、それ以上のことをスタニスラフに言わせなかった。ミハイルもこの話はおしまいと言い、味方のいないスタニスラフは口を閉じざるを得なかった。
それで、この場は収まったかに見えた。しかし、新聞記事が消えるわけではない。スタニスラフは記事を読めなくても、日本人なら読める。記事が進之丞の目に留まるのは時間の問題だ。そのことを考えると、千鶴は食事が喉を通らなくなった。
「どがぁなったんじゃろね」
トミが小声でぽそりと言った。
ミハイルとスタニスラフが顔を上げると、幸子は声を潜めて、四人の男たちのことだと言った。
ミハイルはむずかしい顔を見せたが、スタニスラフが手刀で自分の喉を切る仕草をした。それを見て甚右衛門は嫌な顔をした。
「いずれ、わかろ」
甚右衛門は言葉少なに答えると、飯を口に放り込んだ。甚右衛門の表情は、そんなことなど知りたくもないと言っているようだ。
ミハイルは特高警察が今後どう動くのかを心配していた。それは自分たちではなく、千鶴や幸子のことを考えてのことだった。鬼については昨夜の千鶴の話を受け入れたのか、ここでは触れようとしなかった。
それに対してスタニスラフは、特高警察よりも鬼のことが頭から離れないようだった。またもや千鶴を教会へ連れて行き、洗礼を受けさせるべきだと訴えた。
甚右衛門たちはうんざりした顔をし、ミハイルでさえもが好い加減にしろと言いたげにスタニスラフを見た。
スタニスラフが口を噤むと、ほれにしてもや――と甚右衛門が話を戻した。
「このままじゃ済むまい。あの連中があとで見つかろうが見つかるまいが、また誰ぞが神戸から調べに来う」
トミは不安げに言った。
「そがぁなったら、またこの子らを捕まえよとするんじゃろか」
「恐らく、何があったんかを知る意味でも、千鶴らから話を聞き出そとすらい」
「ほれは、ミハイルとスタニスラフにも言えることやわいね」
幸子が心配そうにミハイルたちを見ながら言った。
ほうよな――とうなずいた甚右衛門は、特高警察の本拠地は二人が戻る神戸であることを指摘した。
「神戸に戻んても、特高警察には気ぃつけんといかんぞな」
甚右衛門がミハイルたちに忠告すると、トミも続けて言った。
「あんたらは早よ日本を立ち去った方がええ。一日でも早よにな」
二人の言葉を幸子がわかりやすく説明すると、ミハイルは戸惑った様子でうなずいた。しかし、スタニスラフは千鶴を放っておけないと言った。
「千鶴をどがぁするか考えるんはわしらの仕事で、お前さんの仕事やない」
昨夜の幸子と同じことを、甚右衛門はきっぱりと言った。スタニスラフはミハイルを見たが、ミハイルは何も言わなかった。
賑やかだった板の間が、いつの間にか静かになっていた。みんな茶の間の話に耳を傾けているらしい。
甚右衛門が大きく咳払いをすると、ごちそうさまと言う声が板の間から聞こえた。みんなが仕事を始める時間であり、幸子も病院の仕事へ向かわねばならなかった。
幸子は箱膳に残っているものを急いで口に運びながら、ミハイルたちに神戸へ帰る船の予定を聞いた。スタニスラフは帰りたくないと言い続けていたが、ミハイルは夜の八時四十分の船に乗ると言った。
甚右衛門は、夕方もう一度みんなで食事をしてから去ぬればいいと言い、幸子もそれに賛同した。
また甚右衛門はミハイルたちに、一度道後へ戻って宿を引き払ったあと、ここへ戻って来るようにと言った。
昨夜ミハイルたちは宿へ戻らなかった。荷物が部屋に置いたままだとは言え、宿代を踏み倒したと思われる恐れがあった。それで千鶴が二人を古町停車場まで見送ることになった。
外はまだ雨が降り続けている。幸子はミハイルと軽く抱き合ったあと、ミハイルに傘を持たせた。
二人を見ていたスタニスラフは期待の目を千鶴に向けたが、千鶴は黙ってスタニスラフに傘を手渡した。
昨日、特高警察に捕まりそうになったのだから、千鶴にせよミハイルたちにせよ、油断はできないはずである。ところが、甚右衛門たちは特高警察を心配する素振りがない。
敢えて口にはしないが、特高警察は鬼がみんな始末したと誰もが考えているようだ。
三
ミハイルたちを見送ったあと、千鶴が家に戻って来ると、店の入り口に人だかりができていた。傘を差している者もいれば、雨に濡れっ放しの者もいる。男も女も入り交じっての人垣だ。見ると、店の中にも多くの者が入り込んでいるようだ。
何事かと思いながら近づいて行くと、一番後ろにいた男が千鶴に気づいて振り返り、戻んて来たぞな――と叫んだ。
男は近所の絣問屋の主人で、千鶴の方へ駆け寄って来た。すると他の者たちも先を争うように続き、千鶴は雨の路上で人々に取り囲まれた。みんな千鶴を知る近所の者たちだ。
「千鶴ちゃん、結婚するんやて?」
「おめでとさん。ロシアにはいつ行くんや?」
「伯爵さまご夫妻が、お仲人してくんさるん?」
いきなり質問攻めにされて、千鶴はうろたえた。
「ちぃと待っておくんなもし。みなさん、何の話をしておいでるんぞなもし?」
「何て……、千鶴ちゃん、おとっつぁんと一緒に来た、あの若いロシア人と結婚するんじゃろ? 伯爵ご夫妻の前で誓い合うたて、ちゃんと新聞に書いてあったぞな」
喋ったのは山﨑機織の隣にある紙屋の女房だ。小学校に上がった頃まで冷たい態度を見せていたが、毎日挨拶を続けているうちに、今では向こうから声をかけてくれるようになった。
それは他の者たちも似たようなものだ。しかし、近所の人たちがここまで気にかけてくれていたことに千鶴は当惑した。
だが本当の当惑はそこではない。みんなが口にしている言葉である。
これだけの者が集まって、千鶴とスタニスラフの婚約を祝いに来たということは、自分の店の者たちも全員がそれを知ったに違いない。店の中には、まだ進之丞もいるはずだ。
千鶴は血の気が引いた。だが、まずはこの場を収めねばならなかった。
結婚なんかしないと千鶴は必死にみんなに説明し、自分は松山に残るし、スタニスラフは今晩の船で神戸に戻り、そのあとはアメリカへ行くと言った。
それで紙屋の女房も他の近所の者たちも、ようやく納得してくれたみたいだっだが、がっかりしたようでもあった。
千鶴はみんなが気にしてくれたことを感謝しながら頭を下げると、何事もなかったかのように店に戻った。しかし頭の中では、進之丞が事実を知ったのではないかということばかり考えていた。
店に入ると、辰蔵と弥七が驚いた顔をしていた。やはり記事のことが知れたようだ。しかし進之丞は平然とした様子で、お戻りたか――と笑顔で千鶴に声をかけた。それは千鶴とスタニスラフとの仲を認めたということだろう。
千鶴は言い訳をしたかった。お酒を飲み過ぎたための間違いで、スタニスラフと結婚なんかしないと言いたかった。
だが辰蔵たちの前で、自分は気にしていないなどと言われたらと思うと、千鶴は何も言えなかった。それで進之丞にだけ小さく頭を下げて家の中に入ったが、それはスタニスラフに心移りしたことの後ろめたさだと思われたかもしれなかった。
とにかくできるだけ早いうちに進之丞に本当の気持ちを伝えねばと焦ったが、そのための機会はなかなか訪れてくれそうにない。
ミハイルたちが道後から戻って来たのは、雨がようやく上がった頃だった。
早速二人は茶の間へ通されたが、スタニスラフは部屋へ上がる前に、千鶴の傍へ来て千鶴を軽く抱いた。まだ千鶴をあきらめられないようだ。
千鶴はもうやめて欲しいと思った。しかし今日でお別れなので、あまり嫌な態度は見せないようにしようと心に決めていた。
それでも花江はスタニスラフの馴れ馴れしさに眉をひそめていた。
近所の人々が集まったことで、花江にも新聞記事の中身が知れていた。どういうことかと責めるように質した花江に、千鶴は昨夜は酔っ払ってしまって口が軽くなったと言い、それを新聞が誤解しただけだと言い訳をした。
花江は一応納得してはくれたものの、誤解を招くようなことはしない方がいいと、少し強い口調で千鶴に釘を刺した。
進之丞の真意を知ったことで、千鶴の花江に対するわだかまりは消えていた。それどころか自分の方が花江を傷つけていたのだと、千鶴は花江に申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。
進之丞は花江の相談相手だったに違いない。そうであれば花江が惚れた男は他にいるわけで、その相手は辰蔵に決まっていた。そして、その辰蔵は自分の婿になる予定なのである。つまり、自分こそが花江と辰蔵の仲を引き裂いた張本人だったのだ。
それでも花江は嫌な顔一つ見せず、姉のように戒めてくれる。もしかしたら、辰蔵の顔を潰すような真似はして欲しくないと、花江は思っていたのかもしれなかった。
スタニスラフが部屋へ上がると、ミハイルは甚右衛門とトミに宿の者たちが心配していたと報告した。ほうじゃろほうじゃろと甚右衛門はうなずいて言った。
「もうちぃとで宿代を踏み倒されたと思われるとこじゃったかい」
踏み倒すの意味をトミに教えてもらったミハイルは、そうではないと言った。では何を心配していたのかということについては、スタニスラフが説明した。
スタニスラフの話によれば、宿の者たちが心配していたのは宿代ではなく、ミハイルたちが警察に捕まったのではないか、ということだったらしい。
どういうことかと甚右衛門が訊ねると、昨日、特高を名乗る男たちが来て、宿の者たちにミハイルたちのことを訊いた上、二人の荷物を勝手に調べたと言う。
特高という言葉に、みんなにお茶を淹れていた花江がぴくりと反応した。千鶴は焦ったが、スタニスラフは話を続けた。
宿の者たちは威張ったその男たちを嫌い、男たちの質問には答えなかったそうだ。それでも昨夜は二人が戻らなかったので、男たちに捕まったのではないかと心配していたらしい。それで今朝二人の元気な顔を見ると、みんな大喜びをしてくれたということだった。
「ヤパリ、マツヤマナ、ヒタ、ミンナ、シンセツゥネ」
ミハイルは嬉しそうに言ったが、甚右衛門は険しい顔になった。
「宿のことはよかったが、連中のやり口がどがぁなもんかは、今の話でようわかった。わしらもやが、二人ともように気ぃつけんといけんぞな」
花江がいるからだろう。甚右衛門は特高という言葉は使わずに喋った。
アメリカへ行くのはいつになるのかとトミが訊ねると、まだ決まっていないが近いうちにとミハイルが答えた。
できるだけ早く日本を離れた方がいいと千鶴が言うと、甚右衛門もトミもうなずいた。ミハイルはそれに同意したが、スタニスラフは松山に残りたいと訴えた。
みんなにお茶を配ろうとしていた花江は、何だって?――と言わんばかりの目をスタニスラフに向けた。
千鶴はちらりと花江を見てから、そんなことはできないし、そんなことをしたらお母さんが悲しむとスタニスラフに言った。
とにかく今日は神戸へ戻ろうと、ミハイルもスタニスラフに言い聞かせた。そう言いながら、本当は自分も千鶴の傍にいたいとミハイルは言った。
そのうち二人が鬼の話を始めるのではないかと、千鶴は冷や冷やしていた。それで、今日が最後だからこのあとの予定を立てたらどうかと話を変えた。
甚右衛門はうなずくと、何かやりたいことはあるのかとミハイルたちに訊ねた。
ミハイルは何もないと答え、スタニスラフは千鶴と一緒にいたいと言った。
お茶を配って台所に戻った花江が、何とか言ってやれと、目で千鶴に訴えている。
ちらりと花江を見た千鶴は、お母さんへのお土産を買ったらどうかとスタニスラフに提案した。ミハイルはそれがいいとうなずいたが、スタニスラフは千鶴が一緒ならと言った。
そこへ甚右衛門が口を挟み、今日は千鶴は留守番だと言った。
「ほんまは千鶴に行かせたいとこなけんど、今日は千鶴も忙しいけん、わしが案内しよわい」
甚右衛門の言葉にスタニスラフは不満を示した。しかしミハイルは甚右衛門に感謝して、甚右衛門の申し出を受け入れた。
「また妙な奴らが来よっても困るけんな」
納得しない様子のスタニスラフに、甚右衛門は弁解のように付け足した。だが、朝は千鶴に二人を古町停車場まで送らせたのである。甚右衛門の言葉に説得力はなかった。
本当はさり気なく千鶴とスタニスラフの間に、距離を置かせようとしているのだろう。近所の者たちが押しかけて来たことが、甚右衛門にそうさせたのに違いない。
三人が出かけたあと、千鶴はトミがいる前で花江を呼んだ。それから、実は――と昨夜特高警察に捕まったことを話した。
トミは驚いたように千鶴を見た。花江も当然驚き、それでどうなったのかと目を剥いた顔で訊ねた。
特高警察にはどんな言い訳も通用しないことは、花江だって知っているだろう。それで千鶴が考えたのは、県庁裏の登城道の方へ連れ込まれたあと、みんなで大声を出して人を呼んだというものだ。
いくら特高とは言っても、外から来た人間が正当な理由もなく、こちらの人間を捕まえるということが許されるはずがない。国が認めても、地元の人間は認めないだろう。
それに特高の者たちは威張ってはいるが、後ろめたさがあるからこそ人目がない所で、自分たちを捕まえようとしたに違いない。
それで、できるだけみんなで大きな声を出して騒いだところ、男たちは驚いて城山へ登る道へ逃げて行ったと千鶴は話した。
即興の嘘ではあったが、一応筋は通っている。花江は素直に信じてくれて、千鶴ちゃんは頭がいいと感心してくれた。
この説明にはトミも納得したようだった。
「まっこと特高いう連中は、愚かな屑ぎりぞな」
トミが特高警察の男たちをこき下ろすと、花江も一緒になって特高警察の悪口を言った。
花江の反応を見た千鶴は、取り敢えずはこの言い訳で行こうと少し安堵した。だが、まだ悩みはたくさん残っている。
四
甚右衛門と戻って来たミハイルとスタニスラフは、エレーナのために買った絵葉書と人形を千鶴に見せてくれた。
その間に、トミは甚右衛門に耳打ちをするように話しかけた。千鶴が花江に説明した内容を伝え、それで行こうという話だ。そうすることにしようと千鶴とトミの間で話を決めていた。
何度もうなずいた甚右衛門は、わかったと言った。
千鶴もミハイルたちに、昨夜の鬼の話は他の人には内緒にすることと、みんなで大声を出したために、特高警察の男たちが城山へ逃げたことにして欲しいと頼んだ。
二人はうなずき、鬼のことは誰にも言わないと約束してくれた。
みんなで昼飯を食べる前、甚右衛門は使用人全員を集めて、昨夜千鶴たちが特高警察にソ連のスパイ容疑で捕まりそうになったという事実を伝えた。
そのあとのことは、千鶴が花江に喋ったとおりの説明だった。
話を聞かされていた花江は驚かなかったが、他の者たちは一人を除いて動揺を隠さなかった。その一人というのは進之丞である。
執拗な特高警察がいつまた接近して来るかはわからないので、怪しい者には気をつけるようにと、甚右衛門は厳しい口調で戒めた。使用人たちは声を揃えて返事をした。
捕まったらどうなるのかと、新吉が心配そうに訊ねた。
甚右衛門は新吉を見据えると、捕まったら拷問にかけられ、無理やりスパイだと言わされるか、さもなくば殺されると言った。
新吉だけでなく、他の者も蒼くなった。
わかったなと言う甚右衛門に、全員がもう一度声を揃えて返事をした。みんな緊張が走った顔をしていたが、特に進之丞の顔は険しかった。
花江は小さく手を挙げ、幸子が一人で病院へ向かったことが心配だと言った。甚右衛門は、ほれはほうじゃとうなずいた。
今日のところは大丈夫なはずだが、鬼の話はできないのでそうは言えない。甚右衛門は進之丞に幸子の迎えを頼んだ。
わかりましたと答えた進之丞は、やはり険しい顔のままだった。
昼食後、幸子が戻るまでの間、ミハイルたちをどうするかということで、甚右衛門たちは話し合った。
その結果、二人はもう外には用事はないし、不用意に外へ出ることは危ないので、夕方まで家の中にいてもらうことになった。それでも、家には二人にしてもらうことがない。それで習字でもしてもらおうかということになった。教えるのはトミと千鶴だ。
千鶴たちは墨をするところから教え、代わる代わるお手本に簡単な字を書いてみせた。
ミハイルは習字に興味を覚えたようで、正座はできないものの、すぐに筆を取って書き始めた。
一方、スタニスラフはあまり面白味を感じなかったみたいで、筆を手にはしたものの、真剣にはやろうとしなかった。
懸命に字を書く父を眺めながら、千鶴は昨夜見た夢を思い出していた。
昨夜は進之丞のことで頭がいっぱいで、他のことを考える余裕がなかった。しかし今思うと、前世で自分を迎えに来た異国の男は、父ミハイルだったのではないかと考えている。
顔をまともに見たわけではない。それでも、夢で見た男の顔は父に似ていたような気がした。それに感じるのだ。
目の前で筆を動かしているのは、父ミハイルだ。しかしその父の姿に重なって、前世の父がここにいるように感じるのである。
今の母は前世の母の生まれ変わりだ。恐らく父も同じように生まれ変わって、自分の父親になってくれたのに違いない。
どうだとばかりに、ミハイルが得意げな顔で字を書いた半紙を掲げた。
トミがべた褒めをし、千鶴も手を打って褒めちぎった。頭の中では前世と今世のつながりに不思議を感じ、前世でばらばらになった家族が、こうして再会できていることに感激していた。鬼を想うと悲しみが募るが、両親の存在が自分を支えてくれているようだ。
ミハイルがトミや千鶴に褒めてもらったのを見ると、スタニスラフも少しやる気を出したらしい。しばらく真面目に紙に向かっていたが、ミハイルほどにはうまく書けなかった。
もういいと言って、スタニスラフは筆を投げ出すと、今はこんなことをやっている時ではないと千鶴たちに言った。
「千鶴、悪魔、憑イテマズゥ。早クゥ、千鶴、悪魔カラァ、離サナイト、ダメデズゥ」
同じ言葉を繰り返すスタニスラフに千鶴は辟易した。父と親子の心を通わす一時が台無しである。トミもちらりとスタニスラフを見ると、疲れたような顔でため息をついた。
トミは実際に鬼が現れたことに驚愕はしたが、冷静さを取り戻した今は、鬼をそれほど恐れてはいないようだ。
それは、これまで鬼が自分たちに何かをしたわけではないということと、鬼が風寄でイノシシから千鶴を護り、今回も千鶴たちを特高警察から護ってくれたという事実があるからだろう。何より鬼が千鶴の言うことに従ったのは、一番の安心材料に違いない。
千鶴たちの表情を見たミハイルは、ロシア語でスタニスラフに何かを言った。スタニスラフの態度を注意したに違いない。それでもスタニスラフは千鶴を助けると言って聞かなかった。
千鶴は少し厳しい声で、スタニスラフさん――と言った。
「うちも同しことを何べんも言うんは嫌なんよ。あの鬼は悪魔やないし、うちらに悪さはせんの。ほんでもスタニスラフさんが、うちを魔女じゃと思いんさるなら、どうぞご自由に。うちは魔女で結構ですけん。スタニスラフさんは何も心配することないぞなもし」
スタニスラフは助けを求めるような目をミハイルに向けた。しかし、ミハイルはスタニスラフを擁護せず、もうあきらめろとばかりに、黙って首を小さく横に振った。それから千鶴に顔を向けると、アシエテクゥダサァイ――と言った。
「ガンゴ、チヅゥ、タズゥケタ。ガンゴ、チヅゥナ、ハナァシ、キイタ。ナシテデズゥカ?」
ミハイルは鬼が千鶴に従った理由を知りたいようだ。昨夜はそれについて千鶴が喋らなかったので、改めて訊ねている。
トミも千鶴の顔を見ている。ミハイルが聞いていることは、トミにしても知りたいはずだ。だが、その理由を説明するわけにはいかない。
千鶴は少し考えて、それから口を開いた。
「鬼言うてもいろいろやけん、全部の鬼が怖いわけやないんよ。姿は恐ろしいても、心は優しい鬼もおるんよ。ほじゃけん、鬼はスタニスラフさんが言うておいでる、悪魔いうんとは違うんよ」
千鶴は父が理解できるようにゆっくりと喋り、スタニスラフの方もちらりと見た。鬼と悪魔の違いをわかってもらえたらという気持ちだった。
スタニスラフは黙ったままだったが、ミハイルはわかったと言うようにうなずいた。それで千鶴は話を続けた。
「いくら心が優しいてもな、姿が怖かったら、みんな鬼を怖がるんよ。ほしたら、鬼かて嫌な気持ちにならいね。ほんでも、うちは鬼を信じとるけん、鬼を怖いとは思わんの。ほじゃけん、鬼に話しかけたし、鬼も嬉しいけん、うちの言うこと聞いてくれたんよ」
ミハイルは大きくうなずいた。トミも納得したようにうなずいている。父や祖母がわかってくれたことが、千鶴は嬉しかった。
しかし、スタニスラフは面白くなさそうだった。それで千鶴の話に口を挟もうとしたが、ミハイルはそれを遮って、千鶴と親子の話がしたいと言った。
五
離れの部屋にはスタニスラフもついて来た。それでは親子二人だけの話にならないが、スタニスラフだけを祖母の所に残すわけにはいかないし、父も何も言わないので千鶴も黙っていた。
部屋に入ると、ミハイルたちは興味深げに中を見回した。
部屋の隅には大きな風呂敷包みがあった。昨日千鶴が拾い集めた着物などだ。その風呂敷包みに目を留めたスタニスラフが、これは何かと訊ねた。
本当のことは言えないので、知人に頼まれていた修繕の着物ということにした。すると、破れた着物を直せるのかとミハイルが感心した。それで、日本では娘はみんな自分で着物を作るし、破れたりした所も自分で直すと千鶴は説明した。
また店で働く者たちの着物も、全部自分たちで作ると言うと、二人はとても驚き、自分たちのも作って欲しいと言った。
今すぐはできないので、あとで母と二人で作り、それを近いうちに送ると言って、千鶴は父とスタニスラフの体の採寸をした。
ミハイルはスタニスラフと喜び合うと、神戸の住所を書いた紙を千鶴に渡した。またこの家の住所を訊かれたので、千鶴も住所を紙に書いた。
スタニスラフはふと思い出したように、着物が届くと母が怒るかもしれないと言った。エレーナは夫が松山で自分の娘やその母親に隠れて会っているとは知らないのである。
ミハイルは困った顔でどうしようと言った。
千鶴は山﨑機織という店の名前で送るから、ここで着物を注文したと説明すればいいと言った。
ミハイルは明るい顔に戻ると、それがいいと言った。スタニスラフも安心したようだ。
そのあとミハイルは笑みを消すと、千鶴に話があると言った。いよいよ本題のようだ。父の表情を見て、千鶴は少し緊張した。
「ヴァタァシ、イィマァシタ。オトォサンナ、オジサン、ニホン、アイデマァシタ。オジサン、タズゥケタ、トォサナ、ヒタネ。トォサ、ヴァカァリィマズゥカ」
「とさ? 高知の土佐のこと?」
「コチ? サレェヴァ、ドカデズゥカ?」
「愛媛と同し四国にあるんよ」
千鶴は紙に四国の図を描き、愛媛の場所と高知の場所を教えた。
「ココ、トォサ?」
高知を指差し訊ねるミハイルに、千鶴はうなずいた。
ミハイルは高祖父の船が沈み、ここで助けてもらったと言った。他の乗組員はみんな死んだらしい。助かったのは高祖父だけだったようだ。
だが高祖父はそこの土地の娘と親しくなり、その娘を孕ませてしまったと言う。
「オジサン、ヴァタァシ、イシヨー。オジサン、ムズゥメ、ズゥキネ」
自分も同じことをしたと言いたいのだろう。ミハイルは少し照れていたが、そのことが原因で高祖父はそこを追い出されたようだ。
「オジサン、チィサァナ、フゥネ、マライマァシタ。サレェデ、ウミ、イキマァシタ」
どうやら高祖父は小舟に乗せられて、そのまま海へ放り出されたらしい。詳しい話は、所々でスタニスラフがロシア語で聞き取り、千鶴に説明してくれた。
それによると、小舟で海に流された高祖父は、他の国の船に助けられたあと、無事にロシアへ戻ったと言う。
その後、高祖父はロシアで商売に励み、結婚もした。そして日本が諸外国を受け入れるようになると、船に乗って再び日本を訪れたそうだ。一番の目的は商売だったが、土佐で自分の子供を身籠もった娘が、どうなったのかが気になっていたらしい。
当時、日本へ来た船と言えば黒船だ。千鶴は動揺した。前世の自分を迎えに来たのもロシアの黒船だった。
高祖父を乗せた黒船は、神戸へ向かっていた。それで瀬戸内海を通過する時、潮の流れが悪くて途中の港へ立ち寄ったと言う。その港があるのは、土佐と同じ島だそうだ。つまり、四国である。
「港の名前、わかる?」
どきどきしながら千鶴が訊ねると、ミハイルは顎に手を当てながら言った。
「ミヅゥガマ? ミヅゥーマ?」
「ひょっとして三津ヶ浜?」
そうかもしれないとミハイルは言った。そうだとすれば、それは進之丞が言っていた話と符号する。千鶴の胸は高鳴った。
高祖父の船が三津ヶ浜の港に停まると、港の町では大騒ぎになったそうだ。そんな中、一艘の小舟が船に近づいて来たと言う。それはロシア人と商売をしようと考えた男で、男は小舟から高祖父たちに声をかけたらしい。
船には通訳が乗っており、自分に似た者を知らないかと、高祖父はその男に通訳を介して訊ねたそうだ。
話を聞く千鶴は、全身の毛が逆立つようだった。こんな話を父から聞かされるとは思いもしなかった。
ロシアと比べれば、四国なんてちっぽけな島だ。高祖父には三津ヶ浜も土佐も同じに思えたのだろう。それでも小舟の男に訊ねた時、高祖父はあきらめ半分だったらしい。ところが知っているという答が戻って来たので、信じられなかったと言う。
高祖父が教えてもらったのは、近くの浜辺の寺に暮らす異国人の娘が、その土地の侍の息子と結婚するという話だった。
また、その娘の母はずっと昔に死んだそうだが、二人は元は土佐の者だったらしいという話もあったと言う。
前世の自分の生い立ちについては、千鶴は思い出せていない。しかし、慈命和尚が知っていた可能性はある。
高祖父がその娘の年齢を訊ねると、自分の子供と同じぐらいであり、これは間違いないと思ったそうだ。
高祖父は小舟の男を待たせ、案内役として同乗していた日本人の船頭に、娘に宛てた手紙を書いてもらった。そして金貨と一緒にその手紙を小舟の男に渡し、その娘に届けて欲しいと頼んだと言う。
手紙の中身は、自分は父親で二日後の夕刻にそこの浜辺へ行くと言うものだった。連れ去るつもりだったのではなく、ただ娘に会いたかったのだそうだ。
千鶴は泣きそうになっていた。父は自分の前世を覚えていない。それなのに前世の自分の話を高祖父の話として喋ってくれている。やはり父は前世と同じ父なのだと、千鶴の胸は感激でいっぱいだった。
船が三津ヶ浜を出航して教えられた浜辺へ向かうと、そこに娘がいた。顔を見て間違いなく自分の娘だと、高祖父は思ったそうだ。
娘には若い侍が一緒だった。その侍は嫌がる娘を高祖父に委ねると、現れた他の侍たちと戦い始めた。それは娘を連れて行って欲しいという意味なのだと、高祖父は受け止めた。
高祖父は娘を乗せた小舟で船へ戻ろうとした。だが、侍たちが追いかけて来た。娘と一緒にいた若い侍は死んだようだった。
娘が暴れるので船が揺れてなかなか前に進まず、侍たちが近づいて来ると、高祖父は死を覚悟したと言う。
その時、どこから来たのか、浜辺に巨大な悪魔が現れて海の中に入って来た。
悪魔は次々に侍たちを殺し、小舟のすぐ近くまで来た。だが悪魔はそこで動かなくなり、じっと娘を見つめていたそうだ。
娘がその悪魔に声をかけると、悪魔も悲しげな声を出した。そのあと、悪魔は海に沈んで行った。
すると娘も海に飛び込んだ。あっという間のことだった。そして娘が再び上がって来ることはなかったと言う。
「アクゥマ、オジサンナ、ムズゥメ、タズゥケタ。ムズゥメ、アクゥマ、シンジテタ」
そう言って、ミハイルは千鶴の両方の手を取った。
「ガンゴ、チヅゥ、タズゥケタ。チヅゥ、ガンゴ、シンジテルゥ。ダカァラァ、ヴァタァシモ、シンジルゥネ。ヴァタァシ、チヅゥ、シンジマズゥ。チヅゥナ、ガンゴ、シンジマズゥ」
千鶴は嬉しかった。また、涙が止まらなかった。
千鶴は泣きながら父に抱きつくと、ありがとうと言い、そして、ごめんなさいと詫びた。ミハイルは何を謝られているのかわからずに当惑していたが、千鶴は構わず言った。
「あのな、お父さんは、お父さんなんよ。お母さんも、お母さん。ほれで、うちは、うちなんよ。昔も今も、ほれは同しなんよ」
生まれ変わりが理解できない父に、千鶴が言えるのはそれだけだった。それでも前世で離ればなれになった家族が、今世でやり直しをさせてもらったという感激は、涙となってあふれ出る。
だが、流れる涙には悲しみも混ざっていた。
自分を助けるために鬼は現れ、そして死んだ。それと同じことが繰り返されているようで、悲しみには大きな不安が絡んでいた。
一方で、スタニスラフはミハイルの話に懐疑的だった。悪魔が娘を助けたのは、娘が悪魔に魅入られていたからと解釈したようだ。そして、今の千鶴もそれと同じだと言うのである。
何を言ってもわかってもらえそうにないので、千鶴はスタニスラフが言いたいように言わせておいた。
昨日、あれほど心が惹かれたはずなのに、今ではスタニスラフは別人のように見えた。
六
最後の夕食を終えたあと、千鶴は母と一緒に父とスタニスラフを高浜港まで見送ることになった。
甚右衛門は古町停車場までは一緒に来た。陸蒸気が来た時には、じろじろと客車の中をのぞいて、怪しい者がいないかを確かめた。もう特高警察はいないはずだが、念のためにという感じだった。
鬼に油断をするなと言いながらも、千鶴たちだけを見送りに行かせるのは、祖父は千鶴の言い分を聞いてくれたのだろう。そのことが千鶴には嬉しかった。
千鶴たちが客車に乗り込んだあと、陸蒸気が出発の汽笛を鳴らすと、駆け込みで一人の男が乗って来た。
男が乗ったのは千鶴たちとは別の車両で、幸子もミハイルたちも気づいていない。しかし、千鶴だけはその男が乗り込んで来ることがわかっていた。
男は千鶴たちが家を出た時から、かなり間を取って後をついて来ていた。顔を隠すために深くかぶった鳥打帽は、祖父の物に違いない。着物も山﨑機織のものだ。
歩く姿や背格好から、男は進之丞だと千鶴は見抜いていた。恐らく祖父に頼まれたのだろうが、気づかれているのも知らずにこそこそする様子は、ずっと悲しんでいた千鶴を微笑ませてくれた。
陸蒸気の客車に乗っている時も、港に着いてからも、進之丞は四人に近づくことなく、ずっと離れた所にいた。
桟橋で船の出航を待つ間、千鶴たちは黙って海を眺めていた。
ミハイルは幸子の肩を抱き、スタニスラフは遠慮がちに千鶴のすぐ傍らに立っていた。
「サチカサン、チヅゥ、アエマァシタ。タテモ、ヨカタデズゥ」
そう言ったものの、ミハイルは松山を去りたくない様子だった。
幸子はミハイルに身を委ねながら言った。
「千鶴から聞いたけんど、着物すぐにこさえて送るけんね」
「オミセナ、ナマエデ、アネガイシマズゥ」
幸子はミハイルの顔を見ると噴き出した。
「ほうじゃね。ほうじゃったほうじゃった。うっかり自分の名前で送るとこじゃった」
「エレーナ、タテモ、キビシィネ。サチカサン、ナマエ、ミルゥ。エレーナ、ツゥノォ、ダシマズゥ」
ミハイルは両手の人差し指を頭に立てて鬼の真似をした。それを見て幸子は笑ったが、その笑いは短かった。ミハイルは当惑した様子で、ゴメナサイと言った。
スタニスラフはようやく千鶴の肩を抱き、ミハイルたちとは離れて桟橋の先へ誘った。
今の姿を進之丞に見られていると思うと、千鶴はつらかった。それでも最後の別れなので、素直にスタニスラフに従っていた。
「千鶴ナ、好キナ人、誰デズゥカ?」
スタニスラフは率直に訊ねた。
千鶴は後ろを振り返ると、離れた所でそっぽを向いている進之丞を指差した。
「あのお人ぞな。帽子をかぶりよる、あのお人ぞなもし」
自分を指差されていることに気づいた進之丞は、慌てた様子で姿を消した。それを見て千鶴がくすくす笑うと、スタニスラフは千鶴が適当な人物を指差したと思ったらしい。ふっと笑って言った。
「千鶴ヴァ、僕ニ、心配サセナァイ、思テマズゥ。ダカァラァ、嘘ツゥイテマズゥ」
「嘘? うちは嘘なんぞついとらんぞなもし」
「千鶴ヴァ、僕ガ、アキラメルゥ思テ、嘘ツゥキマァシタ。ダケド、モウ、嘘、イラナァイ。僕ヴァ、千鶴、アキラァメナァイ。必ズゥ、千鶴、助ケマズゥ。必ズゥ、千鶴、迎エニ、来マズゥ。ダカァラァ、待テテクゥダサァイ」
どう言えばわかってもらえるのかと、千鶴は頭を悩ませた。
「スタニスラフさんは、うちが魔女になっても、同しこと言うてくんさるん?」
エ?――とスタニスラフは言葉に詰まった。それが答えなのだろう。やはり進之丞とは違う。しかし、これが普通なのだ。今ここに鬼が現れたらどうするのかと訊いてみたい気持ちがあったが、スタニスラフが困るのはわかっている。
とにかくもうすぐお別れだ。まぁいいかと思い直して、千鶴は微笑んだ。最後は気持ちよく送り出してやりたかった。
千鶴の微笑みに気をよくしたのか、スタニスラフは千鶴に顔を近づけて来た。千鶴は慌てて横を向くと、父と母に声をかけた。
「お父さん、お母さん、そろそろ船が出るんやないん?」
千鶴たちの背後で出港を待つ船は、もう乗船が始まっている。
「大丈夫。船が出る時には銅鑼が鳴るけん」
幸子が大きな声で言った。
千鶴は途方に暮れたような顔のスタニスラフを振り返ると、ほうなんやて――と言って笑った。
いよいよ銅鑼が鳴った。両親は抱き合い最後の別れをしている。
スタニスラフも千鶴を抱きしめると、絶対に迎えに来ると言い、軽く千鶴の額に口づけをした。
千鶴は顔が熱くなるのを感じながら笑顔で応じた。心の中では、進之丞に見られていないことを祈っていた。
続いてミハイルに抱かれた千鶴は、お父さんと言った。
「お父さんはな、うちが産まれる前からお父さんやったんよ」
ミハイルが当惑気味に笑みを浮かべると、何を言うとるんねと幸子が言った。
「お母さんも対ぞな」
「対て?」
「お母さんも、うちが産まれる前からお母さんやったんよ」
「まったく妙なことぎり言う子じゃねぇ」
幸子は呆れた顔で笑ったが、何だか嬉しそうにも見えた。
早く乗船するよう船員に促され、ミハイルたちは名残惜しそうに船に乗り込んだ。
二人はすぐに甲板へ移動し、他の乗客たちと一緒に手を振った。
母とともに手を振り返しながら、千鶴は父に会えたことを心から嬉しく思った。また、自分なんかを想ってくれるスタニスラフにも、感謝の気持ちを抱いていた。
父たちと過ごした中で一番印象に残ったのは、やはり萬翠荘での晩餐会と舞踏会だ。あの時の高揚した気分は今でも覚えている。だが、それはスタニスラフへ心が動いたことも千鶴に思い出させてしまう。
進之丞のことを考えると、あれは恥ずべきことだったし、許されることではない。しかし、あんな気持ちになったのは事実であり、悔やみはしても否定することはできなかった。
鬼が現れた時、千鶴はスタニスラフに怖がられると思っていた。実際、スタニスラフは恐怖を感じたようだが、それでもスタニスラフなりに力になろうとしてくれた。さっさと見放せばいいのに、懸命に自分の気持ちを示してくれていた。
進之丞と比べると頼りないし、空気を読めない自分勝手な所はある。それでも進之丞以外に、ここまで自分を想ってくれる人はいないだろう、というのが千鶴の率直な感想だ。
もし風寄で進之丞に出逢うことがなければ、あるいは、そもそも風寄の祭りへ行くことがなかったならば、本当はスタニスラフと一緒になることが自分の定めだったのだろうか。
そんな考えが、ふと千鶴の頭を過ぎった。だが、すぐに後ろめたくなった千鶴は、頭の中から余計な考えを振り払い、見送り客の中に進之丞の姿を探した。しかし、どこにも進之丞はいなかった。
――お前がまことの幸せになったなら、鬼はお前から離れるんが定めぞな。
頭の中で進之丞の言葉が聞こえた。
千鶴とスタニスラフが結婚を誓い合ったという話を、進之丞は笑顔で受け入れた。千鶴が何も言い訳をしていないから、それは事実なのだと信じているに違いない。進之丞には今の千鶴の姿も、スタニスラフとの別れを心から惜しんでいるように見えているだろう。
千鶴は焦った。
スタニスラフを見送ったあと、進之丞に本当の気持ちを伝えるつもりだった。しかし、千鶴の幸せを見届けたと思った進之丞は、もう自分の役目は終わったと考えたかもしれない。
こうして見送りをしている間に、進之丞が姿を消したのではないかと思った千鶴は、船の二人に手を振りながら、何度も目で進之丞を探した。心は進之丞を探して辺りを走り回っていた。
船が徐々に離れて行き、桟橋で手を振る人たちの数が減って来ると、千鶴は急いで高浜停車場へ向かった。
まだミハイルたちに手を振っていた幸子は、怪訝そうに千鶴を見た。だが千鶴は振り向かなかった。
「進さん!」
千鶴は人混みをかき分けながら叫んだ。しかし、進之丞は見つからない。停車場にも客車の中にも進之丞の姿はなかった。
「進さん!」
周りの者たちが妙な顔で振り返ったが、千鶴は叫ぶのをやめなかった。だが、どこにも進之丞はいない。進之丞は――鬼は去ってしまったのだ。
千鶴は立ったまま泣き出した。近くの人がどうしたのかと訊ねても、千鶴は泣くしかできなかった。
「進さん、何でおらんなったんよ……。おら、まだ幸せになっとらんのに、なしておらんなったんよ……」
子供のように泣く千鶴から、人々は距離を置くように離れて行った。千鶴が独りぼっちで泣き続けていると、後ろから懐かしい声が聞こえた。
「千鶴」
振り返ると、帽子を脱いだ進之丞がそこに立っていた。
「千鶴、どがぁした? 大丈夫か?」
「進さん!」
千鶴は飛びつくように進之丞に抱きつくと、わぁわぁ泣いた。
「ごめんな……、ごめんな……」
「何を謝るんぞ?」
「ほやかて、おら、おら……」
「お前は何も悪いことなんぞ、しとらんやないか」
「おら、抜け作じゃった。自分のことぎり言うて、進さんのこと、何もわかろうとしとらんかった」
戸惑う様子の進之丞に、千鶴は泣きながら訴えた。
「お願いやけん、どこにも行かんで。ずっとおらの傍におって。おらから離れたら嫌じゃ。お願いやけん、約束してつかぁさい。絶対あげな所へは戻らんて、約束してつかぁさい」
「千鶴、お前……」
進之丞の顔が強張った。千鶴は続けて言った。
「おら、進さんが鬼でも構んけん、ずっと傍におって欲しいんよ。他は何もいらんけん、進さんにずっと傍におって欲しいんよ」
「……気ぃついてしもたんか」
千鶴は黙ったまま泣いていた。進之丞はうろたえた顔で天を仰ぐと目を閉じて、抜かったわ――とつぶやくように言った。
「お不動さま……、あしはしくじってしまいました……。せっかく……、せっかく千鶴の姿を見せていただいたのに……、あしは何もかも……、何もかも台無しにしてしまいました……。申し訳ありませぬ……。申し訳……ありませぬ……」
進之丞は目を閉じたまま涙を流して不動明王に詫びた。
千鶴は涙に濡れた顔を上げると、鼻をすすり上げながら、何を言っているのかと進之丞に訊ねた。
進之丞はすべてはお不動さまのご慈悲によるものだと言い、それを自分は台無しにしてしまったと唇を噛んだ。
「千鶴」
母の声が聞こえ、千鶴は進之丞から離れて涙を拭いた。進之丞も慌てたように後ろを向いた。
千鶴が振り返ると、桟橋から戻って来た幸子が心配そうにしていた。だが背を向けていた男を見て、幸子は安堵したような笑顔になった。
「誰か思たら、忠さんやないの。ひょっとして忠さんもうちらと対の陸蒸気に乗っておいでたん?」
進之丞がうろたえ気味に振り返ると、幸子は訝しげに言った。
「どがぁな用でおいでたん?」
「いや、その……」
進之丞が口籠もると、幸子は進之丞が持つ帽子を見て笑った。
「おじいちゃんに頼まれたんじゃね。うちらを特高から護るよう言われたんじゃろ?」
進之丞は目を伏せがちに、はぁ――とうなずいた。
「特高がおったら、どがぁしろて言われとるん?」
「海に投げ込め言われとります」
あははと笑った幸子は、ほんまはほうやないんよ――と言った。
母の明るさは父と再会できたからだろうか。そうかもしれないと千鶴は思ったが、それだけではないなとすぐに思い直した。
「おじいちゃんは、特高気にして忠さんを来させたんやないんよ。特高が心配じゃったら、自分でここへおいでとらいね」
そう、今は特高警察はいない。また鬼のことも、母は祖父と同じように考え直したのかもしれない。そのことは母を安心させたと思われるが、母が笑う理由にはならない。
「じゃったら、なして……」
当惑する進之丞に、幸子は楽しげに言った。
「あんたらが一緒におれるようにしてくんさったんよ。ほれに、万が一のことがあったとしても、忠さんが一緒じゃったら安心じゃて思いんさったんじゃろねぇ。直接そがぁ言うたらええのに、おじいちゃんは素直やないけん」
幸子は千鶴と進之丞の関係を心配していた。母が笑うのは、二人の仲が戻ったことが嬉しかったからに違いないと千鶴は思った。
また祖父も自分たちのことを心配してくれていたようだ。特にスタニスラフが来てからの自分の様子には、祖母と一緒に気を揉んでいたに違いない。だがそれは、辰蔵を婿にするわけではないということか。
進之丞を失わずに済んだ千鶴は、母や祖父母の気持ちが有り難かった。また、進之丞が鬼でもすべてはうまく行く気がしていた。
幸子へ返す言葉が見つからない進之丞に、ほらな――と千鶴は笑顔で言った。
「これが、お不動さまが決めんさった定めぞな」
「何やのん、お不動さまて?」
幸子が眉根を寄せた。何でもないと言うと、千鶴は困惑顔の進之丞に身を寄せた。
どうして進之丞が鬼になったのかは謎である。しかし、進之丞が進之丞であることには変わりがない。
かつて自分はがんごめだと信じていた千鶴は、鬼になった進之丞の苦悩や悲しみがわかる。そんな進之丞を二度と悲しませたりはしないと、千鶴は心に誓った。
これからどんな道を歩むことになったとしても、その道を二人で歩むことが自分たちの定めに違いない。それには覚悟がいるだろうが、千鶴の心は決まっている。何があっても進之丞と一緒にいるのだ。それが何より大切であり、それこそが千鶴の望みだった。