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萬翠荘

松山城がそびえる勝山の南側に、大正時代に建築された洋館があります。
それが萬翠荘ばんすいそうです。

萬翠荘は、旧松山藩主の跡を継いだ久松家当主の久松 定謨ひさまつさだこと伯爵が、大正11年(1922年)に別邸として建てたものです。

※大正11年の萬翠荘

フランス生活が長かった伯爵の好みで、萬翠荘はフランス風に造られています。

しかし、西洋建築は左右対称が多いのに対し、萬翠荘は左右非対称です。
右側には尖塔の屋根がありますが、左側にはありません。

これは左右非対称が多い日本建築の要素を、フランス建築と融合させたものと言われています。

※坂道から見た萬翠荘

萬翠荘の建築の話が進められていた頃、大正11年11月に四国で陸軍の特別大演習が行われる予定となり、天皇陛下が来られるという話になりました。

当時、大正天皇はご病気ということで、皇太子の裕仁親王ひろひとしんのうが、天皇代理の摂政宮せっしょうのみやとして四国を訪れ、大演習のあとに各地を視察することとなりました。

しかし、松山には摂政宮の宿泊所がなく、萬翠荘をその宿泊所にふさわしいものとして、建てるということになったそうです。

※大きく写っているのは裁判所。萬翠荘はその後ろにひっそりとたたずんでいます。
※町からは萬翠荘は裁判所の屋根の上に、少しだけ顔を出しているように見えました。

萬翠荘は、愛媛県で初めての鉄筋コンクリートで造られた建物です。
当時は全国的にも鉄筋コンクリート製法が、まだ普及していませんでした。

また、トイレも西洋式便器を用いた水洗トイレです。
大正時代に水洗トイレがあったなんて、驚きですね。

各部屋には、やはり当時珍しい、電気による連絡ボタンが付いています。
用事がある相手によって押すボタンを分けていて、ボタンを押すと相手の部屋のベルが鳴るという仕組みです。

暖炉も各部屋に備え付けですが、薪を燃やすのではなく、当時の最新式であるガス式の暖炉です。

部屋や廊下、階段には絨毯が敷き詰められ、階段の踊り場には、大きなステンドグラスが飾られています。

※階段踊り場から見下ろした玄関の広間
※階段踊り場のステンドグラス

二階には、伯爵と伯爵夫人の部屋の他、来賓の部屋などもあります。

摂政宮(のちの昭和天皇)が泊まられた部屋や、食事をされた部屋も見学できます。

※摂政宮が朝食を摂られた部屋

萬翠荘も戦災を免れて、当時のまま残っているのですが、これだけ立派で大きな建物が無事だったことは、まさに奇跡と言えるでしょう。

当時、萬翠荘は最高の社交の場として、各界名士が集まったと言います。
また、皇族方がご来県の際は、必ず立ち寄られたそうです。

※晩餐の間
※謁見の間

千鶴たちが晩餐会を開いてもらったのは「晩餐の間」で、舞踏会が行われたのは「謁見の間」です。

二つの部屋は奥の扉でつながっており、それぞれを隔てる壁には、どちらもガスの暖炉が備え付けられています。

※二階のバルコニー

大正時代を感じてみたい方は、ぜひご来館下さい。