松山の港に定期船が寄港するようになったのは、明治4年(1871年)に熊本の汽船「舞鶴丸」が、三津浜港に月3回寄港したのが始まりです。
その後、明治17年(1884年)に大阪から下関や九州に向かう大阪商船の船が、今治や三津浜に寄港するようになりました。
中でも人気は阪神と別府を結ぶ航路で、豪華な設備を備えて「瀬戸内海の女王」と呼ばれた、くれない丸が使用されました。
当初月6回の就航で始まったこの航路は、大正11年(1922年)9月から週3回の就航となり、大正12年(1923年)12月からは、姉妹船むらさき丸も使って、毎日の出航となりました。
明治39年に高浜港完成すると、大阪商船は寄港地を三津浜から高浜に変更しました。
むらさき丸発着時刻
大阪天保山 15:00出港 神戸 17:00出港 高松 22:00出港 高浜 5:00出港 別府 11:00到着
別府 14:00出港 大分 15:00出港 高浜 20:40出港 高松3:40出港 神戸 8:30到着 大阪天保山 10:30到着
イワノフとスタニスラフが乗ったのは、このどちらかの船ですね。
主要な港としての役割が、三津浜港から高浜港へ移ったのは、三津浜港が浅かったというのが、大きな理由の一つです。
そのため大型の船舶は接岸できず、乗客や積み荷は小型の船に引かせた、艀に移し替えて運んでいました。
それでも、全ての船が三津浜港から高浜港へ移ったわけではありません。
明治23年に三津浜-宇品航路を開いた、石崎汽船は三津浜の会社です(第一相生丸45トン)。
明治36年には、石崎汽船は三津浜-尾道航路を開設しました(第三相生丸96トン)。
石崎汽船は高浜港が完成したあとも、三津浜港を利用し続けました。
地元ですから、当然と言えば当然ですよね。
ちなみに、石崎汽船の第三相生丸は、毎日2回北条港に寄港していました。
港が浅いので、第三相生丸は港の中には入らずに、鹿島沖に停泊して、通い船と呼ばれる小舟で乗り降りをしていたそうです。
明治末までには、松山-大阪間は海路で24時間掛かっていました。
しかし、大正元年には船と鉄道が連絡することで、13時間に短縮されました。
また、これによって松山-東京間は、28時間で行けるようになりました。
逆算すると、それ以前の松山-東京間は39時間掛かっていたということですね。
四国と本州を結ぶ瀬戸内海航路は、多くの船舶会社による激しい競争が起こりました。
石崎汽船が始めた三津浜-宇品航路には、明治30年に大阪商船が参入し、三津浜-尾道航路にも大阪商船が、明治38年に参入しました。
伊予鉄道が高浜まで線路を延長した際には、大阪商船と本州の山陽鉄道との間で、取り決めが行われていたようです。
ですから、高浜港完成後に大阪商船が、寄港地を高浜港に移したのは、初めから決まっていたことだったのでしょう。
ちなみに、石崎汽船が使用する船は相生丸と呼ばれています。
当初は全て小型の木造船でしたが、大正10年には同社初の鋼製汽船二隻が登場します。
これが第十相生丸と第十一相生丸で、それぞれ207トンの大型船です。
その後、大正15年には304トンの第十二相生丸が建造されます。
昭和になると三津浜港も改修工事が為され、このような大型船舶も接岸できるようになりました。
ところで、辰蔵や茂七が松山-東京間を移動する時、石崎汽船と大阪商船のどちらを利用したのでしょうか。
義理堅い辰蔵は、石崎汽船を使い続けたかもしれません。
でも若い茂七は、どちらでも時間が合う方を使ったのかもしれませんね。